風に舞う女王様
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 うちの姉貴はどケチだ。

 払わなくていい金は絶対払わない。払うべき金は、なんだかんだ理由をつけて支払いを避けまくる。近くにカモ――つまり俺――がいれば、そいつに支払いを押しつける。

 社会人のくせに。教師のくせに。姉貴のくせに。

 何かというと、姉貴は俺にたかってくる。高校生の俺に、だ。

 

「――風が荒ぶっている」

 うつろな目をした夏夜乃(かやの)先輩が、窓際でそうつぶやくのが聞こえた。

 部室は旧校舎の四階で、窓のすぐ外に銀杏の木の先端が見える。銀杏は強風にあおられて、激しくヘッドバンキングしていた。ごーごーとわめく風の音に加えて、さっきから窓ガラスがガタガタとうるさい。旧校舎は立てつけが悪いんだ。

「荒れ狂う風の精霊たち。胸をかき乱す天空の咆哮。これはもはや風というより、嵐」

 熱にうかされた夢遊病患者みたいな口調で、夏夜乃先輩が芝居がかった台詞を吐く。

「始業式、新入部員、そして嵐。偶然にしては出来すぎている。――これは恐らく、暗示。不吉の前兆。何かが始まろうとしている。今、この瞬間に」

「まーた始まったよ。電波女の妄言が」

 夏夜乃先輩のオカルトめいた発言に、我らがオカ研会長殿が噛みついた。

「今日が始業式なのは、今日が九月の頭だからだろ。でもって新しい部員が入ったのは、今日が始業式で区切りがいいから。それと、あいつは一学期ずっと病欠してて、今日復帰するから。偶然もクソもないじゃん。何が不吉の前兆だよ。アホくさ」

 二人の論争に巻きこまれないよう、俺はさりげなく距離を置くことにした。意味もなく携帯をいじくり、電波が悪いふりを装って、椅子ごと部室の隅に移動。

「だがしかし、この嵐が異常なのは確か。台風でもなく、こんなにも空は澄み渡っているというのに。ただ風が、風だけが猛り、吠えている。そう、これはまさに天変地異」

「そりゃそーだけど、でもそういう日だってあるだろ。ただの気象現象じゃん。精霊とか暗示とか、頭おかしーだろ」

 ――外の異常気象とは無関係に、室内では見慣れた日常が繰り広げられていた。

 二年生のオカ研副会長・夏夜乃 未亜(みあ)先輩が、何やらオカルトっぽいことを口にする。現実主義者の一年生、オカ研会長・柄沢 緋色(からさわ ひろ)が、それに真っ向から反論する。

 よく考えるとおかしな構図だ。けど、一学期にオカ研が発足してからというもの、俺にとってはすっかりおなじみの光景になっていた。

「みゃーだって、新人入って喜んでたじゃん。『いざ歓迎の宴を』とかって浮かれてさー。今さら反対すんなら、あたしが書類書いてる間に止めりゃいいじゃん」

「反対はしていない。新入部員は歓迎すべき。彼女のおかげで、我らオカ研は五名となり、晴れて同好会から部に昇格できる」

「“オカ研”じゃねーって。“超常現象研究会”。あ、違う。“超常現象研究部”だ」

(ああ、そっか。今日からこの二人、部長と副部長になるのか)

 携帯をもてあそびながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 二学期の初日、始業式。この日は朝からとんでもない強風だった。

 どのくらいの風かというと、バスが徐行運転を強いられるほど。乗ってる間ずっと、俺はバスの横転に備えて、脳内でシミュレーションを繰り返していた。

 うちの学校はバス通学がほとんどだから、徐行運転の影響は大きかった。始業時間には、クラスの半分も集まっていなかったらしい。らしい、というのは、俺も遅刻組で直接見たわけじゃないから。

 結局、始業式の開始は一時間ほど遅れた。昼前には帰れる予定だったのが、ホームルームが終わった時には十二時をすこし過ぎていた。

 やっと帰れる、と思ったのもつかの間。

 会長、じゃない、部長にメールで呼び出された。“重大発表がある”とかいう内容で。初日から部活とかめんどくせー、と思いながら、俺は重い足取りで部室へ向かった。

 そこで、新入部員を紹介された。

 

「たっだいまぁ〜っ」

 扉が開いて、無邪気な声が響き渡った。

 それまで部室に漂っていた険悪な空気は、その瞬間に消え去って、代わりにピンク色の能天気オーラがこの場を支配した。

 噂の新入部員は、居心地の悪そうな顔をして、扉の前で立ち止まったまま動こうとしない。一方、ピンク色のオーラの発生源は、遠慮なしにのこのこと俺のところにやってきて、ぐいっと顔を近づけた。

「な、なんすか?」

「ねえねえねえねえ八雲(やくも)くん」

 暮士田(くれしだ)先輩が前屈みになると、ただでさえ巨大な胸がことさら強調される。それがブラウスごしとはいえ、至近距離でゆらゆら揺れているのだ。

 健全な青少年にはたまったもんじゃない。俺は目のやり場に困った。

 暮士田あきり先輩は二年生。オカ研のマスコットというか、ペットというか、そんな感じの人だ。この人の放つピンク色の幸せオーラは、色気よりもかわいらしさを増長させ、浴びた者は例外なく癒される。

(けどあんまり近づかれると、やっぱエロさが際だつよな。なんつーか、ブラウスがはち切れそうになってるし、甘ったるい匂いも――)

「マキちゃん先生、いなかったよ?」

「ひゃい? ……ん、こほんこほん」

 声が裏返りそうになるのを、咳払いしてごまかした。

「職員室行ったんだけど、マキちゃん席にいなかったんだよ。ねえ八雲くん、マキちゃんから何か聞いてない?」

「いえ、別になんも」

「もう帰ったんじゃねーの? ほら、今日って始業式だけだろ」

「教師はすぐには帰らない。生徒が考えているよりもずっと、教師はすることが多い」

 窓際にいた部長と副部長が、口論をやめてこっちにやってきた。

「昼飯に出たんじゃないすか。今ちょうど昼だし、今日購買やってないですよね」

「マキちゃん先生、お弁当じゃなかったっけ?」

 暮士田先輩が首をかしげる。たったそれだけの動作で、ブラウスの胸がぷるんと揺れた。俺は視線をそらすのに必死だった。

「あいつ、早起きできた時しか弁当作らないんですよ。今朝はどうだったかな」

 そういや、今朝は姉貴の顔を見てなかった気がする。

「始業式の会場でも、神縁(しんべり)先生の姿は見られなかった」

「マジで? マキ先生、今日休み?」

 部長と副部長が、尋ねるように俺を見る。

「いや、だからなんも知らねーって」

「使えない弟だなー。顧問の動向くらい調べとけよ」

 部長が俺を睨みつける。ひでー言いがかりだ。

「姉貴がいつ、どこで、何してるかなんて、いちいち知らねーよ」

「キミは朝、姉上と共に登校するのではないのか?」

「あいつ、通勤は車ですから」

 夏夜乃先輩の問いに、俺は首を横に振る。姉弟でそろって登校とか、冗談じゃない。

「んー、まあいいや。んじゃ神縁、これ」

 部長はとまどい顔の新入部員から紙切れを奪い取って、俺に差し出した。

「帰ったら、マキ先生に渡しといて。入部届と、部活動の申請用紙」

「いいけど、あいつ受け取んねーぞ。『仕事を家庭に持ちこむな』とか言って」

「あの、私、明日でもかまいません」

 それまで黙っていた新入部員が、遠慮がちに口を開いた。

「私そんなに急いでいないですし、私のことで八雲くんにお願いするのも申し訳ないです。明日、私から先生に提出しておきます。正式な入部は、明日からにしましょう」

 新入部員こと吾領 玲奈(ごりょう れいな)は、部室を一歩入ったところに留まって、そこから奥へは入ってこようとしなかった。自分はまだ部外者で、正式な部員ではない――と、そう態度で主張してるみたいだ。

「ん……まあ、あんたがそう言うなら、それでもいいけど」

 部長は渋々ながら、紙切れを吾領に返した。

「けど、どーせなら二学期初日から昇格したかったなー。キリいいじゃん」

 どうやら、部長――じゃない、まだ会長――は、一刻も早く部長になりたかったらしい。

「部の承認を受けると、生徒会から部費が支給される。部員一人につき四千円」

 と、副会長が口を挟む。

「年度の途中で承認を受けても、差額を日割りで計算されるようなことはない。一人四千円、五人で二万円、正確に支給される。申請が一日遅れたからといって、嘆く必要はない」

「んなケチくさいこと言ってんじゃ……はぁ、もーいいや。今日はもう解散」

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 俺は教室にカバンを置きっぱなしだった。皆とは部室の前で別れた。

 カバンを回収して昇降口を出ると、いきなり吹っ飛ばされそうになった。

「うおっ?」

 砂埃が目に入りかけ、慌てて腕でカバーする。

 精霊がどうのって言う気はないけど、夏夜乃先輩の言うとおり、こいつは確かに嵐だ。風の圧力を全身に感じる。

 流れるプールの中に、頭までつかった感覚。空は晴れてて雲ひとつないってのが、逆に不気味だった。

 夏の日差しが脳天を焼く。風のおかげで暑さが和らぐ、ということもなく、熱風にあおられて不快さが増すだけだ。まったく、勘弁してもらいたい。

 斜めに傾きながら校門に向かった。と、胸ポケットの携帯がバイブした。

「もしもし」

『弟よ。始業式はもう終わったかね?』

「もうホームルームも終わってるよ。そんなん俺に聞くまでも……」

 そこで思い出した。この通話、発信元は姉貴の携帯じゃない。家だ。

「……お前、家で何やってんだよ」

『ワイドショー見てる。すごいねー風。徳島で樹齢なん百年だかの木が倒れたって』

「んなこと聞いてんじゃねえ」

 夏夜乃先輩が言ってたように、教師は案外やることが多い。始業式が終わったからって、とっとと帰れるわけじゃない。まともな教師なら、午後も仕事があるはずだ。

 まともな教師なら。

「お前、またサボったのかよ。いくら担任持ってないからって、始業式には出とかないとまずいんじゃねーのか?」

『なーに言ってんの。こんな嵐の日に仕事行くとか、常識で考えてありえないでしょ』

 俺の知らない間に“常識”の定義が変わったらしい。――ちなみにどうでもいいことだが、姉貴の担当は現代国語だ。

「強風くらいで休むとか、何考えてんだよ。お前はカメハメハの女王様か」

『ぶっぶー。それトリプルで間違ってる』

 ふふん、と姉貴は鼻で笑った。電話の向こうのドヤ顔が、目に浮かぶようだった。

『ひとつめ、天気によって休むのは女王じゃなくて子供たち。ふたつめ、子供が休むのは雨が降った時で、風の日には遅刻するだけ。みっつめ、そもそもあの歌の王様はカメハメハじゃなくって――』

「だったらお前は子供以下じゃねーか」

 こんな奴、南の島まで吹き飛ばされちまえばいいんだ。

「んで、何なんだよ。用がねーなら切るぞ」

『あー待ちたまえ弟よ。切らないで。用はあるんだ』

 そう姉貴が言ってから、すこし間があった。

『職員室にね、プリント置いてきたの。私の机の上、ファイルにはさんで』

「で?」

『明日の午前の授業で使うから、コピーしといて。四十かける三クラス分で――』

「朝イチでやれ」切った。

 ったく、あいつ何様だ。弟に仕事やらせといて、自分は家でテレビ見てるとか、正気とは思えない。それが社会人のやることか。ふざけやがって。

 俺は怒りにまかせて、足早にバス停まで歩いた。頭に血が上っていた俺は、周りがよく見えていなかった。

 バス停の近くまで来て、ようやくその姿に気づいた。

「あ、八雲くん」

 吾領玲奈は、風でばたつく髪とスカートを、手で必死に押さえていた。

「風、強いね」

 少し照れたような笑み。

「……おう」

 バス停には、他に誰もいなかった。俺と吾領だけ。

 ――そうか。この事態は予想しておくべきだった。

 この時間、バスは一時間に二本だけ。学校を出るタイミングは大差ないんだから、同じバスに乗るのは必然と言える。こんな中途半端な時間に帰宅する生徒も、そう多くはない。

 そして、吾領の家は俺の家の近所だ。バスの路線も方角も、降りるバス停も一緒。

(だからって、吾領と二人きりってのは、ちょっとな……)

 決して嫌なわけじゃない。嫌なわけがない。

 嫌ではないんだが、けど心の準備はしておきたかった。

「八雲くん、朝は何時のバスに乗ってるの?」

 顔にかかる髪を指で押さえながら、吾領が聞いてくる。

 笑顔が眩しくて直視できない。俺は視線をそらした。

「私、普通に登校するのは今朝が初めてで、早く着きすぎちゃったの。学校までどのくらいかかるか、わからなくって。ほら、バス通りって朝は混雑するでしょう?」

「あーっと、朝は八時五分のバス乗ってる。少し早いけど、そのバスなら座れるから」

「そうなんだ。じゃあ、私もそうしようかな」

 そうなると、俺は毎朝、吾領と一緒に登校するわけだ。

「……」

 うれしくないわけじゃない。うれしくないわけがない。

 わけがないん、だが。

「? どうかした、八雲くん?」

「あ、いや」

 答えにつまっていると、携帯が振動した。

 これでこの場をごまかせる、ありがたい、と思った。姉貴の声を聞くまでは。

「もしもし」

『弟よ。もうバス乗っちゃった?』

「まだだ。今バス停」

『よしっ、ラッキー♪』

 ――嫌な予感がした。

「何がラッキーだよ。何の用だ。コピーは断るぞ」

『今度は違うわよ。ねえ、駅前に行ってビデオ借りてきて』

「あぁ?」

『お姉ちゃん暇でさー。テレビも面白いのやってなくてさー。なんか適当に、面白そうな映画借りてきてよ。趣味が悪くてもバカにしないから』

「嫌だ。こんな嵐の日にわざわざ駅前寄りたくない」

 駅に寄れ、ということは、つまり逆方向のバスに乗れ、という意味だ。冗談じゃない。

『んなこと言わないでさー。ワガママだなぁ、もう』

「ワガママ言ってんのはどっちだよ。断る。金輪際断る」

 通りの向こうを見ると、ちょうど駅前行きのバスがやってくるところだった。

「手遅れだったな。堀尾駅行きはもう行っちまったよ」

『急げばまだ間に合うって。さあ弟よ走れ! レッツゴーっ!』

「俺は犬か。暇ならゴンと遊んでろよ」

『あ、ひょっとしてバス代が心配? だいじょーぶ、ちゃんとお姉ちゃんが払ってあげるから。もちろんレンタル代もね♪』

 何あたりまえのことを偉そうに言ってんだ、この女は。

「それで思い出した。お前、この間俺が立て替えたピザの金、まだ払ってないよな?」

 ぷつん。通話は切れた。

「……くそ女」

「今の電話、お姉さん?」

 思わず漏らした悪態は、吾領には聞こえなかったらしい。強風が幸いだった。

「ああ。駅前に寄れとか言ってきた。冗談じゃねーっつの」

「お家から? お姉さん、今日はお休み? 病気なの?」

「いや……」

 ある意味、病気と言えるかもしれない。けど身内の恥をさらすようで、「サボりだよ」とは言いづらかった。

「あっ」

 吾領が顔を上げて、小さく叫んだ。

 視線を追って振り返ると、駅前行きのバスが通り過ぎるところだった。最後尾のガラス越しに、暮士田先輩が満面の笑みで手を振ってる。そんな暮士田先輩を、会長と副会長が引き気味の苦笑いで眺めていた。

「うふふっ」

 吾領が笑って手を振り返す。反射的に、俺も同じことをしていた。

「暮士田先輩、素敵な人だよね。優しいし面白いし、話してると気持ちが明るくなる」

「まあ、そうかな」

 その見識に異論はないが……少しばかり、常軌を逸している気がしなくもない。

(いま暮士田先輩、膝で座席に乗ってたよな。後ろ向きになって)

 今どき小学生でもやらんだろう。会長たちの引きつり笑いも納得だ。

 遠ざかるバスの後ろ姿を見送っていると、入れ違いに逆方向、つまり俺たちが乗るべきバスがやってきた。

「あー、やっぱバス遅れてんな」

 吾領と話してて気づかなかったが、バスは十分ほど遅れていた。まあ十分の遅れなら、今朝よりはだいぶマシだ。

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『黒斗センター行き、ただいま悪天候のためにダイヤが乱れております。強風の際には安全のため徐行運転を行いますので、ご了承ください』

 俺たちが乗ったとたん、バスの運転手がそうアナウンスした。

 車内はがら空きで、座席が二つ三つ埋まっているだけだった。このバス停で乗ったのも俺と吾領だけだから、俺たちのためにわざわざ説明してくれたらしい。

「ふぅ」

 吾領が小さくため息をついて、髪を整えた。風のない場所に入って落ち着いたんだろう。

 ――さて。ここで大きな問題がある。

 バスの座席は右側が一人がけ、左側が二人がけになっている。全部が正面向きで、横向きの席はない。最後尾は横一列の五人がけ。乗客は少ないから、席は選び放題。

 俺は吾領と二人。さて、どの席に座るべきか。

 普通に考えれば二人がけだ。が、吾領は俺と密着して座るのを嫌がるんじゃないだろうか。寄り添うとはいかないまでも、肘と肘とがぶつかる距離で並んで座る。彼氏彼女でもあるまいし、その距離感はどうかと思う。ましてや、相手は吾領家のお嬢様だ。

 最後尾の五人がけなら、余裕をもって並んで座れるだろう。が、今は右端でおばちゃんが居眠りしてる。俺たちが横に座ったら、多少の距離はあっても、おばちゃんは気配で目を覚ますかもしれない。

 そうなったら、俺と吾領の話を聞かれる可能性がある。いや、べつに聞かれて困るようなことを話す予定はないんだが、なんとなくそれは避けたい。

 いっそ一人がけの席で前後に座るほうが無難か。その場合、おそらく俺と吾領との間に会話は成立しないだろう。

 それはそれでかまわない。俺は世間話ってものが苦手だ。気まずい会話に耐えるのも、気まずい沈黙に耐えるのも、似たようなもんだろう。

 だがこのケースでは、また別の問題が発生する。吾領の前に座るか、後ろに座るか、という問題が。

 吾領が前に座った場合、俺は吾領の後ろ姿を間近で眺めることになる。吾領の長い黒髪、いくら見たって見飽きることはないだろうが……そんなストーカーみたいな真似はしたくない。吾領だって、俺に後頭部をじーっと見つめられるのはいい気分じゃないだろう。

 俺が前に座った場合は、立場がまったく逆になる。今度は俺が、後頭部に吾領の視線を受け、いつ話しかけられるかという緊張に耐えながら、バスを降りるまでの数十分を過ごさなければならない。

 ――俺はバスに乗った最初の0.2秒で、ざっと以上のことを計算した。

 どの選択肢を採用しても一長一短。メリットとデメリットを慎重に計り、いざ決断を下そうとした、その時。

 吾領がとことこ歩いて、ためらうことなく二人がけの席に座った。呆然としている俺を振り向くと、

「八雲くん、座らないの?」

 と、真顔で尋ねる。

「…………………………おう」

 俺はあいまいにうなずいて、吾領の隣に座った。

 吾領は細身だから、俺が想定したほどには体が密着しなかった。俺と吾領の肘の間に、指三本くらいの隙間がある。

 俺はこの隙間に感謝すると同時に、ありったけの念をこめて呪った。

 バスはのろのろ走り出した。エアコンが効いてて車内は快適だが、さっきまで熱風にさらされていたせいで、シャツがべとついて気持ち悪い。

「ねえ、八雲くん」

「ん?」

「八雲くんって、優しいよね」

「わどおっ」

 動揺のあまり、意味不明の言語を口走ってしまった。

 吾領はおだやかな微笑を浮かべて、じっと俺を見てる。冗談を言っているようには見えない。

「……何だよいきなり。なんでだよ。なんでそうなる」

「八雲くん、さっき私をかばってくれたでしょ?」

「いつ。どこで。どうやって」

「さっきバス停で。八雲くん、私に風が当たらないように、風上に立ってくれたじゃない」

 まったく身に覚えがなかった。

「そんなん偶然だろ」

「ううん」吾領は首を横に振る。

「わざわざぐるっと回りこんで、私の斜め横に移動したでしょう。あれが偶然だったら、八雲くん、すごい変な人だよ」

「……」

 そう言われても、まるっきり記憶にない。たぶん姉貴と携帯で話してる時のことなんだろうけど――脳内で記憶をプレイバックしてみても、そんな光景は見あたらなかった。

「だとしても、やっぱ偶然だろ。俺はそんなこと覚えてない」

「無意識だったの?」

「まあ、そうだな」

「それじゃあ」と、吾領はふわっと笑みを大きくした。

「八雲くんは、無意識のうちに、誰かに優しくできる人なんだね」

「……」

 こういう恥ずかしいことを本気で言える神経がよくわからん。

 必死に言葉を探していると、携帯が振動した。今度は通話じゃない、メールの着信だ。俺はすかさず携帯を開いた。

 

   件名: お姉ちゃんから重大なお知らせがあります

 

   本文: 弟よ。お昼ご飯が何もありません。

       帰りにヨツワに寄って、何か買ってきなさい。

       お姉ちゃんはパスタが食べたいです。あとサラダ。

 

       P.S.玲奈ちゃんが一緒なら、あの子の分も一緒にね。

           八雲がおごりなさいよ。男ならそれが当然♪

 

「お姉さん、なんて?」

 説明するのは面倒だ。俺は黙って携帯を見せてやった。

「ヨツワ寄っていくの? 私はそれでもいいよ。お金は出すから」

「寄らねーよ」

 ヨツワってのはスーパーの名前だ。俺たちが降りる、ひとつ手前のバス停にある。

 時間的に腹が減ってるのは確かだ。普段なら、何か買って帰るのも悪くないんだが――この強風の中、途中下車して歩けって? 冗談ぬかせ。

 

   件名: やなこった

 

   本文: カップ麺か何かあるだろ。

       何もないなら米炊いとけ。醤油かけて食う。

 

 俺がそう返信するのを、吾領は不思議そうに見守っていた。

「八雲くん優しいのに、お姉さんにはきついよね」

「いや優しくねーし。あいつはダメ人間だから、少しきびしいくらいがちょうどいいんだ」

「ダメ人間? どうして? 優しくていいお姉さんだと思うけどな」

「こんな天気の日に、病み上がりの吾領をつきあわせて、バス停一個ぶん歩けっつってんだぞ。ろくでもねーよ、あいつは」

「ううーん、そうかなぁ」

 納得がいかないらしく、吾領は首をかしげる。

 姉貴の話は苦手だ。俺は強引に話題を変えた。

「そういや聞くの忘れてたけど、今日から復学だよな。病気はもういいのか?」

「あ、うん。もうぜんぜん平気」

 吾領の顔がぱっと明るくなった。

「お医者様も、もう大丈夫って言ってくれたの。体育はまだ無理だけど、普通の授業には出ていいって。あとは月に二回、検診を受けに来なさいって」

 体育は見学、月に二度の検診、か。完全復帰ってわけじゃなさそうだ。

「なら部活なんてやらないで、早く帰った方がいいんじゃないか? うちのオカ研、何もしない日でも、帰り結構遅いぞ。みんな部室でダラダラしてるから」

「ううん。少しくらい遅くなっても平気」

 首を横に振ると、長い黒髪がふわっと揺れる。

「それに、ずっと前からやってみたかったの。部活動」

「……そうか」

 吾領は小さい頃から体が弱く、病気のせいで休学しまくりだった。俺は小・中と同じ学校で、何度かクラスも一緒になったはずだが、教室で吾領と顔を合わせた記憶はほとんどない。

 そもそも学校に来られないんだから、部活なんて無理に決まってる。俺たちにとっては普通の日常でも、吾領には憧れだったんだろう。

 ごおおおおっ。バスの外で轟音が響いた。

 車体が大きく揺れて、運転手はスピードを落とした。まさか横転はしないと思うが、心の準備くらいはしといた方がいいかもしれない。

「? 八雲くん、どうかした?」

「いや、べつに」

 シートと手すりの強度を確かめたのが、吾領には挙動不審に見えたらしい。

 風はバスの右から吹いている。風で横転でもすれば、吾領のいる左側が下になる。俺が吾領の上になるわけだ。

 華奢な吾領を、俺の体重で押しつぶすことになる。そいつを避けるためにも、手すりの強度は重要だった。いざって時には手すりにしがみついて、俺の全体重を支える覚悟だ。

「にしても、なんでオカ研だよ。他にも部活あるだろ」

 これ以上怪しまれないよう、俺はさっきの会話を続けた。

「だって、オカ研には八雲くんがいるから」

「……え」思わず凍りつく。

「知ってる人がいた方が、心強いでしょ。この間のお誕生会で、他のみんなとも知り合いになれたし。それに、みんなすごくいい人だし」

 吾領の笑顔には屈託がない。自分がどんな際どい発言をしているか、まったく自覚していないらしい。

「……」

 こいつとの会話は心臓に悪い。部活と通学バスで毎日顔を合わせるとか、俺に耐えられるんだろうか。

「オカルトは平気なのか? 暮士田先輩みたいに、オカルトは興味あるけど実際に体験するのは怖いって人もいるぞ」

「うーん……」

 俺が尋ねると、吾領はかすかに眉をしかめて考えこんだ。

「私、オカルトとか超常現象って、よくわからないの」

「……それでよくオカ研に入る気になったな」

「正確に言うとね。何が普通で、何が不思議なことなのか。私、その違いがよくわからないんだ」

「ん? なんだそりゃ。意味わからんぞ」

「えーっとね、例えば――」

 首をかしげて、人差し指の先で顎を支える。

「例えばね。うちの倉で怪獣が工事してたんだけど、それって不思議なこと?」

「……何だって?」

「子供の頃、六歳か七歳だったかな。その日は気分がよくって、庭でなら遊んでもいいってお医者様に言われたの。倉の扉が開いてたから、中に入ってみたら、いつの間にか閉じこめられちゃって」

 あの家、倉なんてあるのか。外からじゃ塀で見えないもんな。「で?」

「怖くなって泣いてたら、奥の暗がりから大きな物音がしたの。がががーって、雷の音みたいな。行ってみたら、そこに怪獣の人形があって。プラスチックか何かでできた、三十センチくらいの、四本足の怪獣。頭にドリルがついてた」

 吾領は両手で間隔を作って、人形の大きさを示した。その大きさだと四,五十センチはありそうだが。

「怪獣は頭のドリルを器用に使って、床に穴を掘ってたの。首をぐーっと曲げて、すごく苦しそうな体勢だったけど、がんばって掘ってた」

「ああ、確かに地面掘るのは大変そうだな。んで?」

「私が泣きながら怪獣に事情を話したら、怪獣は倉の壁にドリルで穴をあけてくれたの。それで私、外に出られたんだ」

「……へえ」

「次の日に行ってみたら、壁の穴はふさがってて。だから私、きっとドリルの怪獣だけじゃなくって、他にもセメントを練る怪獣とか、壁にペンキを塗る怪獣とかがたくさんいて、倉の中で工事してたんだな――って、そう思ったの」

 夏夜乃先輩が喜びそうな話だ。

「その後は倉に入る機会もなくって、その怪獣ともそれきりなんだけど……。ね、これって不思議なこと? 人形に魂が宿るって、よく本に出てくるよね。人間の形してなくても、そういうことってあるのかな?」

「どうだろうな。今の話だけじゃよくわからん」

 子供の想像力、夢と現実の混同、記憶の美化。それで説明がつきそうだ。たぶん、幼い吾領が心細さのあまりに作った、友人兼救世主の幻なんだろう。

 が――そう簡単に結論づけることはできない。俺はそのことをよく知ってる。

(けど、倉の怪獣が動いて『不思議じゃない』って考えるのは、どうなんだ?)

 吾領は入院生活が長くて、まともに学校に通っていない。

 一般常識というものに、すこし欠けているのかも知れない。

「ん」また携帯が振動をはじめた。

 

   件名: お姉様より緊急指令

 

   本文: お姉様はヴェローナのモンブランをご所望である。

       これは命令である。弟に拒否権はない。

       くりかえす。これは命令である。拒否権はない。

 

「……あのやろー」

 

   件名: 猫のカリカリでも食ってろ

 

   本文: 貴様にはそれがお似合いだ。

 

「今日はやけにからんでくるな。何なんだ、あいつ」

「お姉さん、寂しいんじゃない?」

「はあ?」

「具合が悪くて休んでるなら、きっと寂しいんじゃないかな。誰かとつながっていたいんだよ、きっと」

「……」

 病気がちの吾領の言うことだ。その言葉には重みがあったし、信憑性は抜群だった。

 が――いかんせん、あいつは病気ではない。

 いや、まあ、ある意味病気かもしれないけど。

『次は黒斗郵便局、黒斗郵便局。お降りの方はブザーでお知らせください』

 録音された車内アナウンスが、俺たちの降りるバス停の名を告げた。

 ヴェローナってケーキ屋があるのは、そのひとつ先のバス停。

「モンブラン、買いに行くの?」

「行くわけねーだろ」

 俺はためらわずに降車ボタンを押した。

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「きゃっ」

 バスを降りると、いきなり突風に襲われた。

 地元の人間が“旧道”と呼んでいるバス通りには、それなりに建物が並んで建っていて、それなりに風を遮ってくれる。

 旧道を一歩外れると、そこは延々と田んぼが広がる田舎の風景。風を防いでくれるような建物は、さほど大きくもない民家がぽつんぽつんと点在するだけ。

「風、強いね……」

 吾領が困った顔で、髪とスカートを押さえている。

 スカートが体にぴったりとくっついて、脚の形がくっきり見えた。あまりじろじろ見るのはまずいだろう。

「だな。とっとと帰ろうぜ」

 俺はそう答えて、足を速めようとした。と、また携帯が振動を始めた。今度は通話だ。

「またかよ。しつっけーな」

 吾領の前で悪態をついてしまった。力任せに携帯を開いて、思いっきり叫んだ。

「いーかげんにしろクソ女。ケツに蹴り入れるぞ」

「……」

 視界の隅で、吾領が表情を歪めたのがちらっと見えた。俺は吾領に背中を向けて、怒りの形相を見られないようにした。

『あ、ひょっとして怒ってる?』

「あたりめーだろ。何なんだよ、さっきからしつけーぞ。嫌がらせかよ」

『ん〜……そっか。そうだね。お姉ちゃん、今日はちょっとからみ過ぎだね』

「……は?」

 思わず耳を疑った。姉貴がこんなに素直に、反省を口にするなんて。少なくとも、ここ二,三年はこんなことなかった。

『ごめんね八雲。怒んないで』

「……本気で反省してんのか? マジか?」

『マジマジ。お姉ちゃんマジで反省してます』

「嘘くせーな」

『本当だって。お姉ちゃん、今年度最も反省しました。そりゃもう海よりも深く、山よりも高く』

「やっぱ反省してねーだろ」

 高く反省してどーすんだ。この女、やっぱり信用できない。

『でね。この私の深くて広い反省を示すためにも』

「あ?」

『そこに自販機あるでしょ?』

 見ると、ちょうど自販機の横を通り過ぎるところだった。

 田んぼに挟まれた道の途中、いきなりぽつんと立っている自販機。――改めて見ると、この自販機の存在もオカルトっぽいよな。

『コーラ買ってきて。おごってあげる』

「いらねーよ。どうせ俺が金立て替えるんだろ」

『ちゃんと払うから。お姉ちゃんもコーラ飲みたいし。ね、ついでに買ってきてよ』

「……しょーがねえな。わかったよ」

 自販機の前まで少し戻る。吾領が首をかしげて、何か聞きたそうな顔で俺を見る。

『ありがと〜! お姉ちゃん嬉しい♪』

「気色悪い猫なで声を出すな。コーラでいいんだな?」

『うん。普通のコーラね、白いのとか軽いのとかじゃなく』

「ああ、わかった」

『十本』

「はぁ!?」

『500ミリのを、十本。ちょっと重いだろうけど、頑張ってね♪ じゃ』

 ぷつん。通話が切れた。

「……」

 毎度のことだが、姉貴が何を考えてるか、俺にはさっぱりわからん。

「コーラ買うの?」

 吾領が尋ねた。会話が断片的に聞こえてたんだろう。

「ああ。買ってこいってさ。十本」

「そんなに? お姉さん、コーラ好きなんだね」

「……ん?」

 よく考えると、姉貴がコーラ飲んでるとこなんて見たことがない。家ではいつも、麦茶か烏龍茶だ。

「あいつは前から変だったけど、今日は特別に変だな。まあいい、買ってってやるか」

 自販機に金を注ぎこんだ。

 500ミリのコーラ十本。ほとんど空だったカバンが、ずっしり重くなった。

「うふふっ」

 いきなり吾領が笑い出した。

「? 何だよ」

「ううん、ちょっと」

 風で暴れる髪とスカートを、懸命に手で押さえつけながら、吾領が言った。

「八雲くん、お姉さんと仲いいよね」

「……」

 俺はどう答えていいかわからなかった。

 

「ねえ、八雲くん」

 自販機を離れて小径を曲がったところで、吾領が言った。

「ん?」

 小径は百メートルほど続いて、突き当たりがT字路になっている。そのT字路の向こうに見える、高い塀に囲まれた広大な敷地が、吾領の屋敷。

 で、小径の右側に並ぶちっぽけな建て売り住宅の奥から二軒目が、俺の家だ。

 改めて考えると、ギャップの激しさにめまいがしてくる。吾領家の一人娘と俺が並んで歩いてるなんて、現実とは思えない。

「私、八雲くんにお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

「聞いてくれる、って聞かれても、聞いてみるまでわからん。何だよ?」

「“玲奈”って呼んでほしいの」

「そでぁ」また意味不明な音声を発してしまった。

「私は八雲くんのこと“八雲くん”って呼ぶでしょ。私だけ名字で呼ばれるの、バランスが悪いと思うんだ」

「いや、それは……。って言うか、お前が俺のこと“神縁”って呼べばいいだろ」

「でも、それだとお姉さんとかぶっちゃう」

「う……」

 普通に“神縁くん”と“神縁先生”で使い分ければいいと思うんだが。いや、むしろ、あいつのことは“バカ”とか“ダメ人間”とか呼んでやればいい。

「ねえ八雲くん。お願い」

 まったく、吾領との会話は本当に疲れる。

 どう答えたもんか、俺が迷っていると――。

 

 ごううううっ。

 

 今日一番すさまじい風が、横殴りに吹いた。

「きゃっ!」「うおっ!?」

 吾領が悲鳴をあげる。俺はその吾領に倒れかかりそうになるのを、どうにかバランスをとって避けた。

 そして、その瞬間。俺の目がヤバいものを捉えていた。

 小径の先、横並びの建て売り住宅。

 そのうちの一軒の屋根から、瓦が五,六枚、ふわっと浮き上がって、斜め下の地面に落下した。

 ごすごすごすっ。あまり聞き慣れない衝撃音が、アスファルトを通して足元から響いた。

「……」

「……」

 言葉もなく顔を見合わせる、俺と吾領。

「……見た?」

 表情を凍りつかせた吾領が、震え声で尋ねる。

「……ああ、見た。ヤバかった」

 答える俺の声も、たぶん震えていたと思う。

「瓦って、風で飛ぶんだな。知らなかった」

「ねえ、あれって八雲くんのお家?」

「いや、その手前。間久部さんの家だ」

 あたりを見回す。瓦が飛んだのは間久部さんの家だけらしく、周囲に瓦が散乱した様子はない。が。

「ヤバいな。気をつけよう。って言うか、早く帰ろう」

「うん。私もそれがいいと思う」

 俺たちは、できるだけ建物から離れて、道の左側を通って歩くことにした。

 風がピークに達するたびに、俺と吾領はビクつき、身構えてしまった。どれだけ警戒したところで、いきなり瓦が飛んできたら、たぶん反応できないだろう。けど、何もしないよりはマシだ。

「……すごいね。こんなのが飛ばされちゃうなんて」

 砕けた瓦のところまで来ると、吾領が感心と恐怖の入り交じった声でつぶやいた。

 間久部さん夫婦は共働きで、この時間は誰もいないはずだ。帰ったら驚くだろうな。

「すこしタイミングがずれてたら、私たち、瓦に襲われてたかもしれないね」

「だな。……なあ、俺、家の前まで送ってってやるよ」

「うん。ありがとう」

 送るといっても、ほんの数十メートル。そのわずかな距離が、俺にはとんでもないサバイバルに感じられた。いろんな意味で。

「やっぱり優しいね、八雲くん」

「うるせー」

 今度はさすがに意識して、吾領の風よけになるよう、風上の位置をキープして歩いた。

 ――いや、だって、あんなこと言われたら、そうしなきゃいけない気分になるだろ。

-5ページ-

「ただい」

「きゅぅ〜〜〜ん」

 玄関を開けると、犬の情けない声に迎えられた。

「あ、おかえり〜」

「……何やってんだよ、姉貴」

 いつもは庭の犬小屋にいるはずの犬が、土間で丸くなっていた。そして、玄関には姉貴がいた。座りこんで犬をモフってる。

「ゴン、風で怯えちゃってさー。庭できゅんきゅん鳴いてたから、こっちに連れてきたの。庭に一人でいるより、誰か一緒にいてあげた方がいいでしょ?」

「……へえ」

 姉貴は上がTシャツ、下はジャージという格好。髪はぼさぼさで化粧もしてない。外出する気ゼロだ。

「靴は下駄箱に入れといて。ゴンに囓られたくなかったら」

「おう」

 シベリアンハスキーもどきのバカ犬は、俺のために場所を空けてくれたりなんかはしなかった。俺は犬の尻尾を踏まないよう、細心の注意を払いながら、姉貴の横を通って玄関に上がった。

「確かに、風すげーもんな」

 風のごおおっという音に混じって、ミシミシと軋む音がする。家のどこかが歪んでるんだろう。恐るべき安普請だ。

「間久部さんの家、瓦が飛んでた」

「へぇー、そうなんだ。そりゃすごいねぇ」

 棒読みの返事が返ってきた。どうやら、素直に白状する気はないらしい。

「コーラ買ってきたぞ」

「ん、ありがと。冷蔵庫入れといて」

「飲まないのかよ」

「今はいらない。八雲は飲んでいいよ。グラス出してあるから」

 キッチンに行くと、確かにグラスが用意されていた。ご丁寧に氷まで入ってる。

 熱風にあおられっぱなしで、喉がからからだ。さっそくコーラを一本開けて、グラスに注いで流しこむ。生き返った気分になった。

 冷蔵庫を開けて、残りの九本をしまおうとした。

「おい、冷蔵庫入りきらねーぞ」

「そう? じゃ、はみ出した分はそこらに置いといていいんじゃない。飲む時にまた冷やせばいいでしょ」

「ん」

 キッチンに座って、携帯を開いた。まず着信記録を見て、それから写メに撮っておいた時刻表を見る。予想した通りだった。

 コーラを注ぎ足してから、グラスを持ったまま玄関に戻った。姉貴はまだそこにいた。

「くぅんくぅ〜ん」

「ほれほれ、ゴン変な顔ザブロー様の登場だ〜」

 姉貴は犬に変顔をさせている。哀れなバカ犬は、姉貴にオモチャにされながら、甘え声で尻尾を振っていた。

「なあ。冷蔵庫一杯だったぞ」

 俺が声をかけても、姉貴はこっちを振り向きもしない。

「うん、だから入りきらない分はそこ置いといていいってば」

「その話じゃねえよ」

「へ?」

「食いもん、何もないんじゃなかったのか?」

「お姉ちゃん、そんな話したっけかな?」

「したよ。なんか食うもん買ってこいって、そうメールしたろ」

「ん〜、そう言われるとそんな気もするわね。ごめんごめん、私の勘違いだったわ」

 飽くまでとぼけるつもりらしい。

「なら、吾領の話も勘違いか?」

「玲奈ちゃんがどうしたの?」

「同じメールで、吾領の話もしてただろ。吾領の分も買ってこい、とか」

「ああ、そうだっけか」

「俺が吾領と一緒にいること、なんでわかった」

「……えーっと」

 姉貴は嘘が下手だ。そのくせ、最後まで誤魔化そうと悪あがきをする。

「だってほら、アレよ。同じ部活なんだから、帰るタイミングが一緒なのは当たり前じゃない。バカねー八雲、そんなこともわかんないなんて。修行が足りないぞ♪」

「バカはお前だ、クソ姉貴」

「ほえ?」

「お前、今日学校来てねーだろ。そのお前が、なんで吾領がオカ研に入ることを知ってんだよ。そもそも、吾領が復学したことだって知らねーはずだぞ」

「それはその……そーそー、昨日ゴンの散歩に行った時、家の前で偶然玲奈ちゃんに会ってね」

“散歩”というキーワードに反応して、犬が首を持ち上げかけた。が――すぐ残念そうな顔で耳を伏せてしまった。外の惨状を思い出したんだろう。

「ちょっと立ち話したついでに、いろいろ聞いたのよ。ほら、女の子同士って、たくさん話すことがあるんだって」

「女の子って歳じゃねーだろ、お前は」

「あーこらこら。お姉様に向かってなんたる無礼な」

「だいたい、昨日ゴンを散歩に連れてったのはお前じゃない。俺だ」

 ぺしっ。姉貴が平手で額を叩く。

「あちゃーっ。こりゃお姉ちゃん一本取られちゃったね」

「何本でも取ってやる。むしり取ってやる」

 ごううっ。風が吠えて、犬が不安そうに身じろぎした。

「えー……まだ何かある?」

「俺がバス待ってた時、携帯に電話してきたろ。駅前でビデオ借りてこいって」

「あーうん、お姉ちゃんデブリーの新しいの見たかったな。何だっけ、今CMでやってるじゃない。あれもうレンタル始まってるよねえ?」

 姉貴の戯言には耳を貸さず、俺は追求を続けた。

「バス、遅れてたんだ。風のせいで。センター行きも駅前行きも、両方遅れてた」

「そりゃ、この風だもんね。で、デブリーのタイトル何てったっけ?」

「バス遅れてたんだよ。だから、姉貴にわかるはずがないんだ。『急げばまだ間に合う』とか」

 さっきキッチンで、通話記録と時刻表を比較してみた。姉貴から二度目の通話を受けた時間、駅前行きのバスはとっくに走り去っているはずだった。次のバスが来るのは三十分後。こっちは走らなくても充分間に合う。

 俺は姉貴の要請を断るために、『もうバスは行っちまった』と嘘をついた。けど姉貴はあっさり『急げば間に合う』と言った。あの時に気づくべきだった、何かおかしい、って。

「むに〜ん」

 姉貴は犬の頬をつまんで、ハスキーもどきにマヌケな笑い顔をさせてる。

「俺がバス乗ってる間、通話じゃなくメールに切り替えたろ。そのタイミングもおかしい。通話だと俺が出ないと思ったんだろうけど、俺がいつバスに乗って、いつ降りたか、姉貴にはわかんねーはずなんだ。バスは遅れてたんだから」

「……ぐう」

「寝たふりすんな」

 背中に蹴りを入れた。といっても、爪先でちょんと突いたくらいのもんだが、姉貴は「痛っ」と悲鳴をあげて、涙目でこっちを振り返った。

「いったいなぁ〜。やっくん、お姉ちゃんを乱暴に扱わないでよー」

「その呼び方やめろ。そんなに強く蹴ってない。あと、話をごまかすな」

「ぶーぶー」

 ぶーたれて犬に向き直る。俺は姉貴の後頭部に向かって話を続けた。

「朝から風、強いよな」

「知ってるよぉ。そのくらい、家にいてもわかるもん」

「すげー風だ。瓦が飛ぶくらいの」

「間久部さんちの瓦でしょ。それさっき聞いた」

「風で飛ばされるとこ、この目で見た」

「へー。そりゃ貴重な瞬間を目撃したねえ」

「俺と吾領の目の前。三十メートルくらい離れてた」

「ふーん。けっこう際どいタイミングだったね」

「ああ、危ないとこだった。際どいタイミングだったよ」

 一旦言葉を切ってから、俺は核心を突いてやった。

「自販機でコーラ買わなかったら、ちょうど瓦にぶち当たるくらいのタイミングだった」

 

「……」

 自分の立場が悪くなると、姉貴は黙りこむ。この時もそうだった。

「おい。何とか言え」

「……はぁ〜っ」

 俺がせっついたら、姉貴は深いため息をついた。

「夢、見たんだよね」

「夢?」

「うん。瓦が八雲に当たって、脳みそがそこらに散らばってるとこ」

 ――そこまで詳しく説明せんでいい。

「だったら、朝にでも俺にそう言えばいいだろ」

「だって、起きたら八雲いなかったじゃない」

「お前、結局寝坊かよ。今日サボったのは天気と関係ねーんだな?」

「えー。お姉ちゃん難しいことわかんなーい♪」

「それでよく教師が務まるな、ダメ人間」

 今はこいつのダメっぷりを追求してる場合じゃなかった。話を戻そう。

「携帯で話した時にでも、警告すりゃいいだろ。下手に理由こじつけて寄り道させるより、その方が手っ取り早くて確実じゃねーか」

「だって……だってさあー」

「だって何だよ」

「だって、私がこーいうことするの、やっくん嫌がるじゃない」

「…………………………おう」

 確かに。姉貴がこうして霊能力だか超能力だかを使うの、俺は好きじゃない。

「私が普通に忠告しても、やっくん素直に聞いてくれないでしょ。だから、やっくんに適当なお願いして、タイミングずらそうと思ったわけ」

「いや……いくら俺でも、命にかかわる忠告くらいは聞くぞ」

「本当に?」

「ん……」

 改めてそう聞かれると、自信がなかった。

「……礼は言わねーからな」

「うん。いいよ」

「あと、コーラの金払え」

「あ、お姉ちゃんコーラ好きじゃないから。全部飲んじゃっていいよ」

「それとこれとは話が別だ。お前がおごるって言ったんだろ」

「はぁーっ。しょーがないなぁ」

 犬の頭をわしわしと撫でながら、姉貴はこっちを振り向いた。

「お財布、二階だから。後で払うね」

「おい、またそーやってごまかす気だろ。そうはさせねーぞ」

「私を信用しなさい。約束は守ります」

 姉貴は得意げに胸を張って、一点の曇りもない笑顔で断言した。

「お姉ちゃん、これでも教師なんだからね♪」

「言ってろ」

 俺はキッチンに戻りかけ、思い出して振り向いた。

「そういや、吾領はどうするつもりだったんだよ」

「んー?」

「最初の電話の時、俺が素直にコピーとりに行ってたら、吾領が一人でバス乗ってたんだ。ちょうど瓦のタイミングで、吾領がそこの道通ってたんだぞ」

「ああ、それ問題なし。玲奈ちゃん、あんたのこと待ってたはずだから」

「……」

 思わず絶句して、キッチンに戻った。

 あいつの言うことは信用できない。絶対信じねーぞ、俺は。

 そんな都合のいい話、あってたまるか。

 

 ――で、それから一週間近く過ぎてるんだが。

 姉貴は一向にコーラ代を払おうとしない。前に立て替えたピザの代金さえ、払おうって気配も見せない。

 なんであんなのが教師やってんだ。おかしいだろ。嘘つきが。

 ふざけんな。

 

説明
二学期の初日は風が強かった。俺はオカ研の新入部員・吾領玲奈と一緒に帰ることになったのだが、姉貴からの電話やメールに邪魔されまくって……。
全然怖くないオカルトもの。ブログで絵師さん募集してます。http://songbird-x.blog.so-net.ne.jp/2013-05-30-4
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