神に祈らぬ手のない娘の話 |
流れる雲は泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように留まることなく空を駆けていく。柔らかな陽光が人々をやさしく照らし、今日も一日が穏やかであると、誰もが笑顔になる。
とある領主の小さな城の、瑞々しい果実がついた洋ナシの木の生えた庭。身なりのよい少年少女たちが輪になって楽しそうに声を上げている。
「おら、お前は豚だろ、だったらそれらしく鳴いて見せろよ」
「ちょっと、何をそんなボーっとしてるの。芸の一つでもして見せなさいよ」
「そうそう、そうしたなら餌の一つや二つ恵んであげてもよくってよ」
口々にはやし立てる彼らの声には、ただただ無邪気な陽気を乗せている。洋ナシの木下、輪になって笑い声を上げる彼らは、それだけなら暖色をふんだんに用いた油絵のような、柔らかで暖かな微笑ましいものに見えた。
その中心にいる、這いつくばった少女さえ描かなければ。
「……」
少年少女たちに囲まれているのは、彼らと比べて明らかにみすぼらしい格好をした肩越しまでの黒い髪の少女だった。顔立ちは整っており、その美醜で評価をするならば、彼女は周りの少年少女誰と比べても間違いなく美しい顔立ちをしていた。
しかし、少女にはそれらの要因より何より、真っ先に目を引くものが一つあった。それは彼女の二の腕の中ほどから切断された両腕であった。彼女には手がなかったのだ。すでに出血は止まっているようであったが、 切り口には乱雑に包帯が巻いており、彼女の腕が生まれつきではなく後から誰かによって切り取られたものであるということをありありと示していた。
「ほら、鳴けよ」
「そうだ、それくらいできるだろ。とっとと鳴けよ」
「ほら、ちゃんと鳴けたらこの鳥が食べ残した洋ナシの残りくらいはあげるわよ」
手のない少女を囲む少年たちは、はやし立てることから次第に次の遊びえと移っていった。
「鳴かないなら、こうだ」
最初に、巻き毛の少年が彼女の鳩尾につま先を突っ込んだ。
「ぐぅっ」
「ほらほら、言うこと聞かない家畜はお仕置きしなきゃいけないわよね」
金髪を三つ編みにした少女が手のない少女の顔面を靴底で、ひねるように踏みつけた。眼球がギュイっとなる音を頭の内側で聞いた。
「次、次オレな」
太った少年が今度は背中を蹴飛ばす。
「鳴きなさいよ」
「まだまだ、これからだぞ」
「ふみ心地悪いわねぇ、本当どうしようもない豚」
「ほら、ほら、もっと転がれよ」
無数の靴の雨が少女を襲う。鈍い痛みが全身を襲い、転がるたびに全身土まみれになる。呼吸が上手くできずに、ゴホゴホと咳き込むと少年たちはそれに喜んだように更に足に込める力を強くする。
視界は地面と空を行き来して、次第に当たり所が悪かったのか、グニャリグニャリとパン生地のように映る景色が歪みはじめた。壊れたように目や鼻からよくわからない体液が漏れて、それを見た少年少女は笑い声のボリュームを更に上げて足を叩きつける。
どれだけ時間がたったのか判断もできなくなった頃、ようやく靴底の雨は止んだ。
「はぁーあ、面白かった」
「ひさびさに盛り上がったね」
「いや、最高だった」
「豚さんも満足してるみたいよ」
「最後の方は、ひぃひぃって、本当豚みたいな鳴き声出してたよな」
「笑ったよ、すっごい笑った」
少年少女たちは皆それぞれに満足そうな声を上げながらその場を離れていった。
「ほら、少しは楽しませたからこれあげるわ」
「明日も餌やるからちゃんとそこにいろよ」
手のない少女に果肉なんて残っていないような洋ナシの残骸をぶつけて最後の少年と少女がその場を離れていった.
「あはははははは」
「はははははははははははは」
彼らの笑い声に悪意など微塵もなく、彼らの笑顔は彼女がこれまで見てきたボールやままごとで遊ぶ子供たちの笑顔となんら変わることのないものであった。それはまるで、どんなに悲しくつらいときでも、澄んだ色の変わらない青空のようで、少女はどうしようもなく虚しい気持ちが心のそこに積もっていくのを感じた。
投げつけられた生ゴミのような洋ナシを、それでも口の中で必死に咀嚼する。そうしなければ彼女は生きていけない。木から果実をとることさえ儘ならないこの体では、自分はたとえどれだけみじめな目にあったとしても耐えることしかできない。耐えなければ。口の中に入った土の味に泣きそうになりながら、少女は自分がここに来てこんな目にあうことになった、自分が両手を失うこととなった経緯を思い出していた。
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「お前は、なんて事をしたんだ」
突然に父親にそう言われたとき、少女はまず、自分が洗濯していた服に何か問題があるのかと思った。次に、そうでないなら自分が何か父親をこれほどに怒らせるようなことしてしまったのかと自分の記憶を探った。
「弟を、お前が殺しただなんて」
しかし、父親の言葉は彼女にとってまったく身に覚えのない、信じられないようなものだった。
「お前の母親が見たといっていたぞ。お前が弟を煮えたぎった釜の中に放り込んだのを」
わけがわからなかった。何より弟が死んだという事が信じられなかった。それなのに弟を自分が殺したことになっているなど、本当にどう思えばいいのかすらわからなかった。
「たった一人の私の跡取りを、それもあんなに幼い子を殺すだなんて、決して許すことは出来ない。そんな奴は私自らの手でくびり殺してやりたいとすら思う。だが、お前も私のかわいい娘だ。殺すようなことはしたくない。けれど、許すことも出来ない。だから、罰を受けてもらおう」
そう口にしたときの父親の目に何か狂気の片鱗のようなものを垣間見た。しかし、そのときの少女はそのことに考えをまわすような余裕もなかった。ただ、弟が死んだという父親の言葉に呆然となっていた。嘘だ、と数秒してようやく思考が動き出した。弟はまだ本当に幼いのだ。殺されるような、そんな理由なんて少しもないはずなのだ。
けれど父親は少女の反論などには、欠片も耳を貸さず、ただ彼女の腕をつかんで有無を言わせぬ口調で繰り返すばかりだった。
「こっちへ来るんだ」
強い力で腕を引き、入りすぎた力で硬直しているように震える声音を、引きつった表情から発する父親が恐ろしくて、びくびくしながらも彼に従った。
父親に森の中へ連れ込まれ、木を切るための斧が置かれているところまで連れて行かれて、ようやく父親が意思相通など出来ないほどにずれてしまっていることを感じ取った。自分を押さえつけ、縛りつけようとする父親が何をしようとしているのかうっすらと察した。背筋に包丁の切っ先を突っ込まれたかのような恐怖を感じて、必死で抵抗をした。腕に噛み付き、手足を振り回した。恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだった。
つい先ほどまで少女は、いつもと変わらない平凡な、けれど穏やかな日常を過ごしていた。父親と弟と、継母の四人家族。継母とはまだまだ打ち解けられてはいなかったけれど、特に大きな問題を抱えることなく日々を平和に過ごしていたはずだった。それとも、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。
少女は自分が信じていたものが何もかも嘘の絵の具で書かれたもののように感じた。目の前の父親の血走った瞳を見るたび、その絵の具がガリガリとはがされていくかのようだった。
叫び声をあげた。
父親は獣のようにわめいた。
互いに押し合いへし合い、地面を転がった。
そして、ついに少女は父親をなんとか押しやった。思い切り押し出した両腕で父親を突き飛ばし、父親は大きな木に後頭部をぶつけて、頭から血を流してぐったりと動かなくなった。
なんとか助かったのだとホッとした。同時に父親を殺してしまったのではないかと怯えた。
そして、ようやく何故自分が弟を殺したなどということになっているのか、そのことを考えられる程度に余裕ができた。 そう思った。
その瞬間、ものすごい力で顔を殴られるのを感じた。
父親の意識はすぐに戻っていた。
「なんて娘だ。お前がこんなにも悪い娘だったなんて。早く、二度とこんな風に私に歯向かう事がないようにしなければ」
地獄の門番のような恐ろしい形相の父親はぶつぶつと言いながら、片手に握っていたロープで彼女の体を近くの太い木へと縛りつけていく。
どうにかして逃げなくては。そう感じて必死に手足を動かそうとしたが四肢は期待通りの反応をしてはくれなかった。手足を動かす感覚が、混線してしまったかのようだった。そんな風に体をもぞもぞと動かしているうちに、彼女の体は柱のようながっしりとした木に固定されてしまっていた。胴体と両足をロープで固定され、腕はそれぞれ地面と水平に伸ばされ、隣の木に結んだロープで動かないように引っ張られていた。
父親が彼女に背を向けてそして数十秒後に振り返る。その手には木を切り倒すときに使う大振りの斧が握られていた。
「そうだ、お前にはそんなものは必要ないんだ。だったらとってしまえばいい。最初からそうすべきだったんだ。あいつだってそうしておけば死ぬこともなかった。そうだ。そうに決まっている」
血走った目で少女を見下ろして、父親は厳かに宣言した。
「お前には、腕も足も、必要ない」
握られた斧が呪われた悪魔の牙に見えた。
「まずは腕を切り落とそう」
父親が、一歩足を踏み出すたびに黒ずんだ斧が迫ってくる。一歩、一歩。何もかもグチャグチャにかきまぜられた頭で、何もかも滅茶苦茶に飛び交う思考が動かない手足に力を入れて、動く喉で声を押し出し、意味のない言葉で喚いた。
目の前に血走った目がやってきた。
「安心しろ。きちんと血止めはしてやる。殺しはしない」
斧が、振りあがる。引き伸ばされた時間が、その動きを、ゆっくりとゆっくりと、斧の細かかい傷から握り手についた土汚れ、握った手の割れ、剥がれ、いまだ血が浮かんでいる爪の跡を見せてくる。
そんなものに何の意味があるのか。こんなものを見ることで自分は何ができるというのか。
斧が、高く、高く、最も高い位置に到達する。わかりきった結果が、それでもゆっくりと、迫る。きれいな弧を描くように、鉄の刃が、自分の腕に吸い込まれていく。すべての感覚が引き伸ばされる中、ただ彼女は自身の腕へと斧が埋まっていくのを鑑賞させられる。何の抵抗もなく、まずは表面の皮がプツリと異物の侵入を許した。冷たい刃はきっとひんやりとして、火照った体に気持ちがいいだろうと思った。すぐに何本もの細い血管が圧力に耐えられなくなって血を吹き出し始める。しかしその前に、斧はすでに体の深いところにある致命的な血管をすでに両断していた。血が、先ほどよりもはるかに赤い血が、噴水のように吹き出す。同時に斧は骨に到達し、そこで止まることなど一切なく、そのまま腕の中心を通過する。
どさり、と重いものが落ちたような音が鳴って、自分の右側に急に空白ができたように感じる。何が変わったという感覚がはっきりとあるわけではなく、けれど漠然とした喪失感が全身を襲う。脳が、普段よりはるかに回転を速くしているのに何も考えられない。
地面に見慣れないものが落ちている。気持ち悪いほどに肌色で、棒状になっているその先が五つに分かれて、モミジの葉のような形になっている。逆の端からは今も地面へと向けて真っ赤な液体がこぼれている。変な形をした袋、っといった風だった。
「あがぁあぁぁ」
意味のない声で、ようやく腕が切り落とされたことを脳が認証する。
「ぎ、あゃ、ゃゃあああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあああぁあぁあああぁぁあ」
痛みより、もっと致命的なもので悲鳴が止まらなくなる。
「あああぁあぁぁぁあぁぁぁぁああああぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああぁぁああああああ」
父親が何も言わずに、その斧を再び持ち上げる。
まだ一本、残っている。
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両腕を切り落とされた後、父親は、明日は足を切ろうと妙にやさしい声で少女を家へ連れて帰った。おそらく、両腕を失って、もう逃げることはできないだろうと考えたのだろう。家には水膨れしたような奇妙な色の、弟のような何かと、脳天に鉈のようなものが突き立てられて、赤やら黄色やらの液をこぼす継母だったものがあった。世界はとっくのとうにおかしくなっていた。空気がまずくて仕方なかった。そのせいで何度か吐いたが、父親は気にする様子はなかった。
少女は未だ刺すような熱を感じる二つの断面に呻きながら、這いずるようにして、夜中に家を抜け出した。父親は壁に向かって何かを楽しそうに報告していた。時折、実の母の名前や祖父母の名を口にしていた。笑顔だった。
声を殺して、空いた窓から抜け出し、方向もわからぬままに闇に沈んだ真夜中の地面を這った。どうにか立ち上がってみて、バランスがうまく取れず転んで、また這った。ただただ這った。途中から泣きながら這った。土で全身が汚れて、こぼしたよだれや涙が、地面を点々と濡らしていた。
そうして明るくなったころに辿り着いたのが、城の中に生えた洋ナシのなる木の下だった。どうやって城の中へと入ったのかもわからないままに、飢えた体で洋ナシをもごうとして。それが不可能だと気付いた。代わりに口を使おうとして、届かない。必死に跳ねている彼女を見つけのは貴族の子供たちだった。
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底まで見通せそうな澄んだ青空は、気づけば日の光の届かない、仄暗い闇夜へと変わっていた。肌をなぞるように流れる風は海の底の海流のようで、その冷たいとも温かいとも感じられない感触が、喉の奥の言葉にしえない何かを震わせた。
月のない夜空を瞳に映す。星の光すら空を埋める黒々とした何かに飲み込まれそうで、息が苦しくなった。
記憶が、映像が、まるで転がる円盤のように頭の表層に浮かび上がる。風、空、木々。腕、肌、目。声、血、靴。
そして無数の笑顔。
笑顔、笑顔、笑顔。
何も変わらない。それがどれだけの暴力や苦痛の上に成り立っていたとして、人の浮かべる笑みは、楽しいという感情は、愉快という情動は何一つ変わりない。
家族の団欒の中の笑顔も、弱者を踏みつける笑顔も、変わらないというのなら、人は、人という生き物は、あまりにも醜い。
呼吸がうまくいかない。肺か、心臓か、それとも別の臓器なのか、わからないけれどとても痛い。苦しい。今更になって切られた腕の先が熱を持つ。痛い、痛い、脳が裏返りそうだ。 繰り返す声が、笑い声が体の感覚すら押しつぶす。自分という存在が、靴底で踏みつけられるように潰れて、汚れて、鬱血する。痣が、大きな痣が浮かび上がる。眼球が裏から物凄い力で押し出されそうだ。さっきから何かが体の表面を蠢いている。
浸食陵辱改変
変形分断縫合
自分というパズルが勢いよく引っくり返されて、ピースのデコボコなんか無視して枠の中へ強引に敷き詰めて行く。
人間が苦しいなら、人間が厳しいなら、人間が呪わしいなら。
やめよう。やめてしまおう。そんなもの、人間なんてもの、やめてしまおう。
喜ばしいことに、微笑ましいことに、今の自分は明らかな異形。腕のない頭と二本の足の何か。人ではない。獣でも鳥でも魚でもない。存在しない何か。逸脱した何か。
自分の這いつくばっている地面が粘性の蟻地獄のように、ありもしない底へと沈んでいく。肺に吸い込んだのは、温度のないグニャリとした黒。
幾度となく感じた腕が無いという喪失感がピタリと止んだ。そんなものは最初から必要なかったのだと悟り、それに気づけた自分を褒め称えた。声を上げる度にひっかくような痛みの走る喉でケタケタと大笑いした。
爽快で、痛快で、鈍痛で、激痛だった。
その全てを優しく抱いて、乱雑に引き潰した。
そこへ至ったことを悟り、幸福感が全身に満ちていった。何でもできると確信した。昼間の貴族の子供たちを皆殺しにすることも考えた。父親に今から会いに行くことも考えた。人間は今やただの食糧で、自分はそれを食らう捕食者だと。
何からしようと思案した。何でもできるのだ。まず何から始めよう。
いくつも案を浮かべて、何度も思案を繰り返した。何度も何度も何度も、いくつもいくつもいくつも考えて、そうして、まず真っ先にしなければいけないことを思いついた。
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翌朝、息子から両腕を切られた少女が庭にいたということを息子から聞いた貴族が、その場所へと訪れた。数人で蹴飛ばして遊んだと、自慢げに話す息子に拳骨と罰を与え、すぐにその場所までやってきた。
そこにいたのは、息子の言った通りの両腕のない美しい顔立ちをした娘だった。その喉にはまるで何かで噛み千切られたような傷口が大きく開いており、少女の全身を赤く染めていた。
そこにあったのは、ただの死体だった。
説明 | ||
サークル関連で書いたもの。当時のテーマは【童話】、ということでモチーフは手無し娘。 色々あれな描写あり。引っかかる……か……。 |
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