哀れみに泣き暮れた夜の終わりに
[全1ページ]

とある王国の地図を広げて、視線を下へと向けると目に入るこの国の端の端。深く、暗い、黒き森と白い頂を掲げる山脈ばかりが目に付く辺境。そこに小さな泉とそれに寄り添うようにして建つ小さな古城が一つあった。それは見るからに古い造りの寂れたものであったが、門の周辺が丁寧に手入れされており、そこに誰かが住んでいる事は外から見ても明らかだった。

 

 城の階段を三百段ほど登った所にある部屋には窓の外を眺める老人が一人、ベッドに横たわっていた。手足は枯れ枝の様に細く、皺が這っており、しかし折れそうかというとむしろどれだけ力を加えてもびくともしない様な印象を受ける。白い髪は短く切りそろえられており、老人を年齢よりも若々しく見せている。老人の鋭い目つきと頬に深く刻まれた直線的な皺がその老人の自他を強く律する巌然とした気性をうかがわせる。だが、老人には覇気というものがなかった。その微細な動きからもかつてそれを当然の様に身に纏っていたであろうことが容易に読み取れる。しかしながら今そこに感じられるのはその残り香だけであった。まるで本当に朽ち果てた木のようであった。だがその枝は固まり、捻じれ、醜い棘と化していた。

 

 かつてこの古城には五十人を超える使用人がいた。今は五人である。老人に直接に接する世話係のメイドは一人だけである。

 怒鳴られ、罵られ、打たれ、怪我の耐えないこの城で、それでも彼女だけが残った。部屋には老人とそのメイドしかいなかった。庭で、植物を手入れしている少年を眺めながら老人は静かに語りだした。

 

 私の人生は何よりも最初に哀れみとの戦いから始まった。

 王の子どもとしてこの世に生を受けた私には足が一本足りなかった。たった一本だ。義足さえあれば歩くことにすら大した支障をもたらさない。ただそれだけの欠落に、しかし周囲の人間は私を哀れだと言った。それは母親ですら例外ではなかった。

 私はそれに抗う事に幼いころより必死であった。周囲にそびえ、私を見下ろそうとするありとあらゆる目に、私は怒りを内に牙をむいていた。

 あらゆる勉学において私は優秀で在らねばならなかった。それは武芸全般も同様にであった。

 そうでなければあの憎い色の瞳たちが私に群がり、取り囲み、ひそひそと不愉快な言葉を囁くのである。そこには母の姿もあるのだろう。私はそれを想像する事すら耐えられなかった。

 だから私は『優秀』であり続けた。

 私が十を越えて星が一巡りした頃、私の敵の象徴ですらあった母が死んだ。病だった。正直、これでもう鉛のようなあの視線を浴びずに住むのかと思うと気が楽だった。

 けれど周囲は私のそんな安息さえ許さなかった。私の周囲に群れる視線に『足が一本足りない哀れな子』に加えて『母を早くに失った可哀想な子』という意味合いが加わった。

 私には戦うべき敵が増えたのである。

 私にはそれまで以上の結果を残す事しか道は無かった。蛇よりも狡猾に私を打ち据える視線に屈する選択肢はありえないものでしかなかった。私は私に向けられるあらゆる人間の同じような視線とひたすらに切り結んだ。そうして行き着いた先には次期国王という椅子が置かれていた。私は迷わずにそこに座った。なぜならそこはこの国で最も高い場所にあったからである。少なくとも当時の私にはそう思えた。そこに座れば見下ろされることはないのではないかと思った。

 私はついに私を気まぐれに痛めつけるあれらの視線に打ち勝ったと、そう思った。努力が、苦悩が、報われたのだとそう信じた。

 奴らはその程度で屈するほど甘くはなかった。

 奴らは確かに私を見下ろす事はなくなった。だが、ことあるごとに同じ視線で私を見上げてきたのだ。それは、とても、とても、不快だった。私はそれも自らの能力を示す事で打ち払おうと思った。

 だが、どれだけ国を興しても視線は消えなかった。私は耐えられなかった。私には力があった。私にその視線を向ける全てのものを打ち払ってしまえるだけの力が。私は暴君と呼ばれるようになった。私への評価がまるで鏡に映すように反転し、私への眼差しは恐怖と憎しみに変わった。それでも今までよりはましだと、そう思えた。

 私は己の選んだ道をただ進んでいった。その先に待っていたのがこれだった。王という役割の為に娶った女との対して言葉も交わしたことのない息子に王座を奪われ狂王としてこんな辺境に閉じ込められた。そして気づけば病に伏せこのベッドの上から立ち上がることすらままならなくなっていた。

 それでも、私は自分が満足していると、そう思っていた。私は満足せねばならない程のことをした。その程度には我を通した。だと言うのに見苦しくも寂しいと、そう感じた。それが許せなかった。だから私に話しかけるものを片端から罵倒して、片端から殴りつけた。私は一人にならねばならなかった。私は一人であるはずだったのだ。なのに……。

 

 

 そこで、老人は一旦言葉を切った。窓に向けていた視線を部屋の中に戻した。そして、そこに立つメイドにその枯れてなお、王座を終われてなお、衰える事のない眼光を向けた。

「何故、貴様は此処に居る?」

 誰もが膝を突くような厳かな響きを口から吐いた。

 メイドはその問いに姿勢を改めて正し、それから答えた。

「きっと覚えてはいらっしゃらないのでしょうが、ご主人様は、かつて路上で飢えていた私たちにパンを恵んでくださったのです」

 老人は目を細め、そのせいで顔の皺がより深くなった。

「……貴様はあの時の……。覚えている。あれは、私の人生で最悪の失敗だ。私が嫌悪する行為に自ら手を染めた一度きりの恥ずべき行為だ」

「けれど私たちはあなたの言う、その恥ずべき行為に救われたのです」

 老人はしばらく黙り込み、それから再び問うた。

「それが、お前が何をされてもここに居る理由か?」

「……もう一つあります」

 メイドは、今度は言いにくそうにそう答えた。

「其は何だ?」

「……私がこの城でご主人様を始めて見たとき、ご主人様は今日の様に寂しそうに窓を眺めていらっしゃったんです。そのお姿を見て……、かわいそう……と」

「……哀れんだか?」

 老人の言葉にメイドは慌てふためいて首を振った。

「い、いえ、そんな」

「よい、かまわぬ」

 老人は、今度は天井を見上げてぼそぼそと呟いた。

「私がかけた哀れみが、お前を此処に連れてきて、お前が私を哀れんだから私は今一人でない。私は一人で死ぬのだと思っていた。私は最後まで一人なのだと思っていた。なのに私の嫌う哀れみのおかげで私は今一人出ない。一人きりではない。それが……、幸せだ……」

 そうして老人は動かなくなった。

 その瞳はもはや何も映してはなかった。

 ただその口元に僅かに満足そうな笑みを浮かべていただけだった。

 

「ごめんなさい」

 メイドはそう言って涙を一滴落とした。

「私が……私たちがここに居た本当の理由は……お金が必要だったから……。私たちみたいなものでもなんとかお金を得られるのがここしかなかったから。生きるためにはお金が必要だから。でも……それも、今日で終わりですね……」

 涙を幾度もこぼしながら、動かなくなった老人に彼女は語り続ける。

「私は……、私は結局、ただの薄汚い……、ドブネズミで……だから、あの日、あなたが馬車から降りてきて……、おもむろに私たちに毛布をかけて……、パンを置いていった時……、私たちには本当に神様に見えたんです。あなたはそれをけなすけれど……、あなた以外に私たちに何かをしてくれた人は……、今までいなかったんです。毛布が……とても温かかったんです。パンが……、とても……、おいしかったんです。なのに私は……結局……、お金の為に……」

 メイドの手の平から小さな小瓶が落ちて音を立てた。彼女はこの後、城を管理する男から王を毒殺した報酬を貰う。

 老人はもはや動かず、メイドの嗚咽がただ無意味に部屋を反響するだけであった。

 

                           

説明
サークル関係で書いたもの。
許可が下りたので投稿。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
328 328 0
タグ
老人 メイド 

赤司さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com