雪 |
午を過ぎて、雲間から洩れる陽射しが傾きはじめた頃に、湖上を訪れるのがその冬の日課だった。
木枯らしに踊らされた雪が、波打つ水面に落ちる様を見ると胸が高鳴ったし、湖面から霧のように細かな湯気のわき立つ光景はいつまでだって眺めていられた。
しかし、その日は眼球を左右から薄い板ではさまれてでもいるかのように視界が広がらず圧され、胸の奥では呼気がぐるぐると滞留しているような感覚に捕らわれていた。
「どうしたの、レティ。なんだか今日は変だよ」
普段は人の都合もかまわずに、弾幕ごっこを挑んでくる氷の妖精も、その日に限ってはいつもの猪突猛進さを忘れて私の心配をしてくる始末だった。
「大丈夫よ。ちょっと頭が重いだけ」
青い髪をくしゃくしゃと撫でまわしてあげると、くすぐったそうに顔をほころばせるが、上目遣いの眼差しには不安が残っていた。
いつまでも無邪気な妖精に心配をかけさせているのも気がひけ、私は早々に日課へと逃げた。
けれども、その日ばかりは、肝心の湖の場景が、一向に私の心を慰めてはくれなかった。
上空を飛びまわり、しばらく姿を見せなかった雪とひさしぶりにたわむれてみても、心の鬱屈はおさまらなかった。しまいには、両手両足を投げ出して、波のすぐ上をただよっているばかりになった。
波間から湖底をうかがうと、多くの魚や蟹の一種らしい甲殻類の姿が見えるともなく目に入ってきた。
そうしてぼんやりと視線を泳がせていると、ふとなにか私の背後でうごめくものが、湖水に映った。
よくそれを確認しようと目を近づけた途端、水面が山なりの弧を描いたかと思うと、たちまち水柱となって宙に吹き上げた。
かろうじて身を逸らせて直撃は避けたものの、水柱は巨大などという形容ではなまやさしい代物だった。山の彼方の空遠く、人跡どころか妖跡さえ絶えた山奥に生える、どんな妖怪よりも年経た杉の木の直径よりもまだ太かった。
水柱は季節はずれの通り雨を生み、人の丈ほどもありそうな魚が時折私の側を落下していった。
しかし、それに目をやっている暇はなかった。
柱の向こうから私をうかがう気配が、身を切るようにひしひしと伝わってきたからだった。
加速度的にやせ細りつつある水柱を間にはさんで、私達は対峙していた。相手の真意は不明ではあったが、害意だけは疑いようがなかった。
もう少しで水が途切れ、見張らせるようになるかと思った矢先、水柱の腹にぽっかりと穴が開いた。
頬をかすめてなにかが通り過ぎていった。氷などの物理的な物体でもなく、炎などの自然現象でもない、純粋な妖力が凝縮されて可視化すらしたものだった。こんなものが命中すればちょっと痛いというだけでは済まない。
そして、それが事実上の開戦の報せとなった。
気ぶっせいななかでもあったし、攻撃を受ける理由は釈然としないまでも、なかば気晴らしのつもりもこめて挑発に応えることにした。
けれども、その思惑は見事に外れてしまった。
爽快さからはおよそかけ離れた状況が長く続いた。
相手は常に一定の距離をとっており、こちらが追えば一目散に後退し、かといって引き下がればここぞとばかりに接近を試みてくる。おかげで、私からは依然相手の姿はぼんやりとしたシルエットでしかとらえられなかった。
霧の湖と呼ばれ、日中の大半を白いヴェールで覆われている近辺一帯の土地柄を、この時ばかりは恨めしく思った。おまけに次第に強くなりつつある降雪も、視界を妨げてきた。
唯一シルエットの頭に飾られた大きなリボンが、鮮やかな朱色に染まっているだけに、距離や雪もものともせず自己主張を行い、私はほとんどそれに向けて弾幕を展開していた。
とにかく手ごたえがない。相手はのらりくらりと逃げて、たまに攻撃をしかけてきても長続きしない。最初のように不意を突かれなければ、特に脅威となることもなかった。ただ、とにかく執拗だった。
傍目で見ればずいぶんとのんびりしためりはりのない弾幕ごっこに思えたことだろうし、当事者の実感もさして変わらなかった。
ますます頭は重く、目の前が暗くなりそうだった。
自らの精神衛生のためにも、手っ取り早くけりをつけるにしくはなく、私は一つ策を弄してみた。
まずは左右に弾幕を展開して相手の行動を抑制する。その直後、私はおもむろに背中さえ見せて、引き下がって見せた。思った通り、あわててシルエットは追いすがってこようとする。これが全てだった。
策というほど練ったものでもないが、一律的な動きに対してなら効果が期待できた。
案の定、勢い込んで私に近づいてきたところで、霧と雪に紛れ込ませていた冷気がシルエットを取り巻いた。
「やった!」
妖力を物質化した弾ではない。冷気は体にいったんまといつけば、上下左右どのように動こうともふりはらうことはできず、徐々に体温を奪い、最終的には体の自由を全く失わせてしまう。逃れることのできない檻となるのだった。
ところが、周囲の空気に含まれるわずかの水蒸気を白く凍らせながら、冷気が体をあますところなく包もうとする間際、やにわに頭のリボンが前後に、まるで羽ばたきのような仕種をはじめた。
予想外の出来事に唖然としている私をしり目に、リボンの動作は激しくなり、やがて頭からふわりと浮き上がった。
そのまま、小さな体を器用にくねらせ、冷気の層をあっさりと抜け出すと、あろうことか私に向かって迫ってくる。
はからずも正面から向かい合う形になると、それがリボンでないことは、すぐに見てとれた。それは一頭の蝶だった。
朱の羽に降る雪を散らして白い紋をあしらった蝶が、ゆっくりと私に向かってきているのだ。
私はあわてて視線を蝶からその後ろへ移し、いまだ冷気のなかにいる相手を見極めようと目を凝らした。けれども、舞い散る雪の中を、苦労して焦点を合わせてみても、相手の姿形は真っ黒なまま一向に明瞭にはならなかった。
それもそのはずだった。それまで対峙してきたのは、湖面に映った私の影にちがいなかった。
説明 | ||
3年ほど前の東方紅桜夢で発行した『大宴会 戯作東方妖々夢』の冒頭の1編です。昭和の作家内田百間風に「東方妖々夢」を読み直したらどうなるか、というコンセプトで書いた連作短編です。が、作品間の関連は濃くありませんので、気になるものがございましたらお読みいただけますと幸いです。 | ||
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