Revolter's Blood Vol'03 第一章 〜脆弱な背中と炭鉱の小鳥〜 |
<1>
グリフォン・ハートという名の都がある。
大陸東部最大にして、絢爛な王城が見守る城下町。古代より執政の中心として、この国の発展と衰退、戦乱と平和の日々を演出してきた場所。
朝、そんな王都の片隅にある、王城より最も離れた一角。
──貧民街。
その静かなる空間に、通りを駆け抜ける一団の足音が木霊する。
足音の主とは、数名からなる一団。
七名で編成された彼らは皆、長剣や短剣といった護身用の武器を腰に佩き、纏う衣類もまた上質な代物。その貧民街の背景に不釣り合いなほどに小奇麗な身形をした者達。
この王都を守衛する騎士団に属する武人達の姿であった。
道を行き交う人々は老若男女問わず、この武人らに道を開けた。肩で風切る荒くれ者ですら、この集団の行く手を塞ぐような真似はせぬ。彼らの実力は誰もが耳にするほどであり、更に、その刃は一般の者らに決して向けられぬものと知っているがためである。暴漢の類に襲われたところを通りがかった彼らに助けられた者も多く、このような特権階級の存在であるにも関わらず、下層の人々からも比較的好ましい目で見られていた。
だが今、街の英雄たる武人らの表情は極めて険しく、まさに宿命の闘いに赴かんとしているかのよう。
集団は道を折れて脇道に入り、程なく目的地に至った。
貧民街の最奥、その袋小路にある小さな民家の前であった。その前には、来訪者たる一団と同じ身形をした二人の若き騎士の姿があり、訪れた集団を略式の礼をもって出迎える。
彼は姿勢と表情こそは毅然を装っていた。しかし、その顔色は蒼白、掌からは汗が滴っており、明かなる動揺の色が窺えた。
一団の長は、そんな若者達の心情に配慮し、声を発した。
「──この中で、か?」
そう尋ねるや、若武者の片方は固く結んだ口を開く。
そして、言った。
「はい。先刻、御仁の様子を窺いに参じたところ……」
言葉はそこで詰まった。今の彼にとって、ここが限界なのだろう。しかし、聴衆たる一団にとって十分な情報。長は民家の開け放たれた扉より、室内へと歩み入る。
「……」
そして、言葉を失った。
長たる中年の男が目にしたのは──屋根の梁に結ばれ、半ばより千切れた一本の縄。そして、直下の床に横たわる椅子と人。
灰がかった黒髪の女であった。その首には輪縄が掛けられ、それによって刻まれたと思しき頸部の索状痕が認められた。
「自ら命を絶ったか……」
長は唸る。その口調は口惜しげにも、そして同時に淡々としているようにも聞こえた。
まるで、この日が訪れる事を事前に察知していたかのように。
騎士の一団は、床に横たわる遺体の顔を見遣った。ある者は長と同様に家屋の中へと立ち入って、またある者は外から眺める形で。
深い皺が刻まれ、頬が痩けた顔は、まるで歳を重ねた老婆の如し。目の下に深き隈の出来た、憔悴の果てと称すべき死に顔であった。
だが、躯の女は、顔の印象ほど歳を重ねてはおらぬ。
髪の色は若年期の黒から老年期の白への移行の途にあり、それより察するに、この女の実際の年齢は五十余。
髪と顔に刻まれた年輪の差異が不気味なほどに不釣り合いであり、同時にこの女が人生において相当な苦悩を強いられ、心身を参らせていったのだろうと、誰もが想像する。
「彼女に、不審な人物による接触はなかったか?」
長は再び問いを発した。若き二人の騎士の、もう片方に対して。
答えは即座にもたらされた。歯切れの悪い──回答者にとっても釈然としないといった様子を伴って。
「近隣の住民によると、一昨日、僧らしき人物がこの家を訪れていたところを目撃していたそうでして……」
「清貧を重んずる僧にとって、貧民街の住民と接触を図る事は何も不自然な事はあるまい?」
「確かにそうですが……」
若者より発せられる言葉、その歯切れの悪さは変わらぬ。
「話せ」
長は怪訝に思い、改めて彼を促した。
「……その僧の装いは、東方地域で見られる僧衣とは異なるものであったと聞きました」
「……具体的には?」
更に促すと、その若武者はその衣装についての詳細を話し始めた。
この男なりに、その奇妙な僧衣の人物が関連していると踏んでいたのだろう。その内容は、色、形状、そして意匠などの細部至るまで綿密に調査が行われたとわかるほどに調べ上げられていた。
そして彼は報告の最後に、自分の考えを付け加えた。
「これより察するに、あの僧衣は西の最果てにある聖地──聖都グリフォン・テイル大聖堂のものであると思われます」──と。
ここまで言い終えるや、彼は回答者から質問者へと変貌を遂げた。
長たる男に向かい、矢継ぎ早に質問を叩きつける。
その内容とは、眼前の──既に物言わぬ躯と化した女の素性についてであった。
「この街の騎士隊に配属された日より、私は上官よりこの女性の監視を怠らぬよう命じられておりました。理由を尋ねても、その上官は逡巡するのみで一切明かしては頂けぬ。何故、貧民街の片隅に静かに暮らす彼女を監視せねばならなかったのか? そして、そんな女性にどうして遥々聖都より僧が馳せ参じたのか──考えれば考えるほどに奇妙」
長の男は静かに目を伏せた。そして、躯の傍に跪くと、その虚空を眺める目をそっと閉じさせ、胸の前で手を組ませると、命なきその身体を静かに抱え上げる。
「最早、このような事態となってしまった以上、隠匿する理由はなかろう」
そして、語った。騎士団の上層部しか知り得ぬ、女の素性を。
この女の名はアイナ。五十年前の内戦の折、聖都グリフォン・テイルにおける戦において討たれた逆賊ソレイアの二人娘、その次女にあたる人物である──と。
「──!」
不意に発せられたその言葉に、その場に居合わせた誰もが驚きもあまり目を見開き、そして、同時に息をのんだ。
「まさか、ずっと王都の片隅で静かに暮らしていただなんて……」
信じられぬとばかりに誰かが言葉を発する。
公には、ソレイアの血族について一切の情報が不明とされていた。
だが生前、淫蕩として名高かったと伝えられている彼女には隠し子の存在が常々噂されており、一説には何処かの片田舎の有力貴族のもとへ預けられたとも、何かの弾みで素性がばれ、怒れる市民による私刑の末に命を落としたとも言われていた。
そして今日、その噂の真相が明かされたのである。当の本人の死をもってして。
長の告白は続いた。「先代の騎士団長よりの伝聞である」と前置きをして──
「かつての戦の折、聖都王城にて置き去りとされた彼女らは、当時の騎士団の手によって保護されたのだ。だが、戦によって疲弊した国民の感情、そして新たな戦の火種を残さぬ為にも、この場で処するべきとの声もあったのだが、騎士団は『子供達に罪はない』と反発し、ソレイアの血族に関する答えは後世に委ねるとして、保護と監視を継続する事となったのだ。だが、その結果、自らの血筋に負い目を感じていたアイナは一般居住区で暮らすようにという騎士団の申し出を断り、自らこの貧民街での生活を選び、孤独なまま死んでいったとは──何とも皮肉な話よ」
その時、別の騎士が問いかけた。
「彼女に、身寄りはいなかったのですか? 確か、姉がいるのではありませんか?」
「長女は保護されて間もなく、騎士団筋の有力貴族の元へと養子に出されたのだ。だが、その事実を察した政敵が、それを醜聞として追及したがゆえにその貴族は没落してしまったそうだ。以降、その長女の行方は杳として知れぬ」
「夫や、子供は?」
この問いが発せられた刹那、長の男は逡巡したかのように口を噤む。
しかし、それは一瞬のこと。彼は意を決し、再び声を発した。
「存在していた。かつては──だが」
「かつて?」
「──十六年前の話だ。当時のアイナは齢三十を超えてもいまだ美しく、その呪われた血統ゆえに壮絶な運命を抱えながらも生きる姿は儚げでもあり、同情心より彼女に思いを寄せる騎士がいたのだ」
言葉少なに返答し、長たる男の顔に一瞬だけ、苦悩の色が浮かぶ。
「私の親友だ──」
悲しみが内包する声が室内に木霊する。
「無論、私のみならず騎士団全員がこの縁組を祝福した。戦の終結より既に三十年余。既にかつての戦は総括されており、この国がかつて直面した悲劇を忘れぬ為にも、彼女の血を残す事は極めて有意義であると考えたが故に」
だが、と長は続けた。
「騎士とは弱者たる民衆を魔物の脅威より守る役割を担うが故に、彼らは我々を英雄視する者も多い。そんな騎士が国賊の血族にあたる娘を娶ったとなれば、失望を買うのは必至。民衆の反応は極めて冷やかだったのだ。そればかりか、明らかに反発の意思を見せる者まで現れた。即ち、三十年経っても尚、かの戦によって民衆の心に受けた傷は深く、その産物であるとも言えるアイナの存在を誰も許してはいなかったのだ」
「では、その騎士は……」
「婚姻の数日後に殺された──怒り狂う民衆の襲撃を受けて」
「──!」
昔語りの聴衆と化した配下達は、この呆気なくも悲しき恋物語の結末に言葉を失っていた。
この悲恋を演出したのは、先の戦に対する騎士団と民衆との間にある意識の格差と、総括の無き民衆の心の中に生まれた差別の意識であるに他ならぬ。無論、それを察する事の出来ぬ愚か者は、この隊には誰一人として存在せぬ。
故に、この悲劇に誰もが黙し、憐れんだ。
「騎士の死によって、浮かれていた我々の目も醒め、知った──いまだに世は、あの血族の存在を拒絶しているという現実を。その現実はたった一人の騎士の婚姻如きで拭い去る事が出来るほど生易しいものではなく、解決には我々の想像以上に時間が必要なのだと」
「時間と言っても」長の隣に立つ、若き騎士が涙ながらに言った。「唯一愛した夫たる人物が死んでしまった以上、アイナ殿の血は途絶えたも同然ではありませんか!」
「途絶えてはおらぬ」
「──え?」
「既にアイナの胎内には、夫たる騎士の忘れ形見がしかと宿っていたのだ。高齢ゆえの難産であったが、人知れず無事にその子は世に生を受ける事が出来たのだ」
しかし、その祝福すべき結末は、再び母たるアイナに悲劇をもたらす事となった。
かつての国賊ソレイアの血を継ぐ人間が新たにこの世に生を受けた事。それを民衆が歓迎するはずもなく、その赤子に危険が及ぶ可能性は極めて高いと思われたのだ。
アイナを保護する騎士団は、あまりにも非道な提案を突きつける他なかったのだ。
その赤子を、西の大聖堂へと預けよ──と。
「アイナは苦悩の末に、その提案を受け入れた。そして少数の護衛と共に聖都へと赴き、自らの手で聖都大聖堂の長にして司教セティのもとへと預けたのだ。しかし、その代償は大きかった。愛する子を手放した事による母としての苦悩はなんと重き事か。あの日を境に彼女は日に日に憔悴していき、その顔から笑顔や生気は失われていったのだ。そんな彼女が今日、自ら命を絶ったのは、恐らく、その聖都大聖堂の使いと思しき僧が、預けた子に関する何らかの情報をもたらしたが為に、蓄積した心労が限界に達したのだろう」
告白は終わった。
「我々は、間違っていたのだろうか──」
長たる武人は天を仰ぎ、問いかける。
無論、それに答えを与える者は皆無。誰もが、この悲しき死に対する答えを導き出せぬ──そんな自分の愚かさを恥じた。
ただ、武人の腕の中で眠る女に向かい、心の中で謝罪の言葉を述べるのみ。
そんな中、誰かがふと尋ねた。
「今、その預けられた子はどうされているのでしょう?」
程なくして、長は答えた。
「司教の養子として迎えられたと聞く。そして十四の頃に洗礼を受け、聖職者となったとも」
「名は?」
「そう、確か──『セリア』と言ったか……」
<2>
赤き絨毯の敷き詰められた遥か長き廊下。そこを歩く一人の若い女がいた。
身に纏うは濃紺を基調とした長衣。言わば、下女の仕事着である。
主に命じられたのだろうか、その下女は両の手に茶器の乗せられた盆を持ち、慎重な所作で歩を進めていた。
ふと、廊下の窓から外を見遣ると、そこには眼下に広がる街の夜景が広がっていた。
燃え上がる城下の街。家々より時折炎が舞い上がると、彼女の衣装と同じ濃紺の夜空が一瞬だけ朱に染まり、やがて元の色へと戻っていった。
遥か遠くから剣戟の音と叫声が、女の耳に流れ込む。
「……」
女は窓より視線を外した。
窓の外の光景に一切の興味すら示さず、再び命じられた通りに茶を運ぶ。
まるで、あの城下の街より発せられた光景と音、そして叫声──それらが一体何を示しているのか、全くの理解をしていないかのように。
下女──王族や豪族、富豪らの身の回りの世話をする下働き。華やかな表舞台に立つ主を献身的に支える女。そう称すれば聞こえは良いのかも知れぬ。しかし、この国におけるこれらの女の大半は元々奴隷階級の人間。
即ち、金で買われて来た女である。
下女として、これらの貴族家に招かれた女は、主が大金を費やして美しく飾られ、そして教育を施しては様々な作法を徹底的に叩きこむ。
これらによって完成させられた教養のある美女を多数配下に従える事。それは即ち、奴隷階級の人間に対する救済──貴人として重視される社会貢献の度合いを示すに、最も適した『装飾物』であると言えよう。
そんな下女に叩きこまれる教育とは、貴族家に仕えるに必要な知識や教養に限定されたもの。そんな偏った教育のみを受けて来た彼女に、一般的な常識や感性など養われるはずもなかった。
そういった事情故、主の下女に対する情は少し歪であり、彼らにとってその行為とは、まるで飼い犬や飼い猫に対し、過剰に贅沢な餌を与えるといった感情に近しく、また下女本人も、そんな自分の境遇に一切の疑問を持たぬ。
惨めな奴隷生活と比べ、衣、食、住に困らぬ今の暮らしのなんたる豊かな事か。そればかりか、読み書きや計算、様々な礼儀作法などの教養を無償で享受してくれるとなれば、主に絶対の忠誠を抱くに至るのは道理である。
そんな、歪んだ利害関係によって成立していた関係であった。
「早く、陛下に茶をお届けせねば──」
故に、下女は歩く。
眼下に広がる王都グリフォン・ハートにて繰り広げられている阿鼻叫喚の光景に、一切の視線も興味も向けぬまま。
眼前が騒がしい。
王城の最奥、王の私室のある区画に差しかかるや否や、普段、静かな夜の城内は急に騒々しい光景へと変貌を遂げていた。
「王都議会の反王家派の者達が支持者を率いて暴動を──」
「奴ら、王妃に取り入って、二人の幼き王子を担ぎあげたとか……」
「一直線にこの王城を目掛けて──」
「王家派の議員は、この王城内に避難させておりますが人手が足りません! どうか応援の要請を──」
傷を負った騎士達がひっきりなしに右往左往し、傷の痛みに堪えながらも、次々と声の限りに叫び、外で起こった事の次第を報告していた。
城内で報を聞く統率者らしき武人は相当に切羽詰まった状況なのか、或いは別の事情があるのか、配下の言葉を聞き入っては押し黙るばかり。非常事態と思しき現状を打破する案も出せぬと言った有様。
世の常識に疎い下女の目にも、この城の防衛は望めぬように見えた。
だが、彼女にとっては、王の言葉は何よりも優先。眼前の騒動に意にも介さず歩きを続ける。
そんな下女の存在に気付いた騎士が制止の声を上げた。
「女──こんなところで何をしている!」
「今は反王家派の貴族どもが、配下の私兵団を率いてこの城に向かってきている。このままでは、ここも戦場となりうる。早々に安全なところへ避難されよ」
そう言い、行く手を塞いだのはこの二人のみ。言葉こそ、やや居丈高であったが、兜の奥に潜む顔は青年のそれ。他者に命令をするといった行為に、不慣れな様であった。
故に、下女は臆さぬ。
「陛下に、茶をお運びしております」
「茶だと?」
立ちはだかる騎士の顔が怪訝めいた表情に彩られた。しかし、それは一瞬の事。次第に怒りにも嘆きにもつかぬものへと変じていく。
そして、天を仰いだ。
「陛下は何を考えておられる! いくら反体制派との融和のためとはいえ、あのような暴動めいた行動を起こした連中に、一切手を出すなといった挙句、こんな時に茶など……」
その時だった。奥の廊下より一人の兵士が現れた。
兵士は一度首を左右に巡らせ──そして、不意にその動きを止める。
下女に、視線を向けた姿勢のまま。
すると、その兵士は下女と問答を続けている騎士の元へと駆け寄り、そして、耳打ちをする。
騎士の両目が驚きによって見開かれた。
「──その下女を通せ、だと?」
兵士が頷く。「あと、もう一つ──」と、更に耳打ちをする。
「なんだと?」
刹那、騎士の両目が驚きによって更に見開かれた。
「城を捨て、我々騎士団も避難せよ──だと?」
「『融和の一環として、反王家派の議員の女を王妃に迎えても尚、悲願は成就せぬならば、責は全て王である余にあり、騎士団の者達にこれ以上の迷惑をかける訳にはいかぬ』──そう、陛下は仰せです」
「陛下は自ら反王家派の刃にかかるおつもりなのか? ならば、この下女は──」
これ以上、騎士も兵士も何も言わなかった。彼らのみならず、知らせを受けた城内の騎士達は、この敗北宣言とも言うべき元首の発言に誰もが落胆していた。
「──もう、宜しいですね?」
下女は、そんな彼らの間を抜け、再び進み出した。
歩き慣れた王城の廊下を、静かな足取りで。
再び城内に静寂が訪れる。
先刻まで背中に聞こえていた男達の喧騒も止んでいた。恐らく騎士達が王の命に従い。撤退を始めたのだろう。
だが、あと数刻もすれば、ここはまた別の勢力による喧騒に包まれる事だろう。
この城は間もなく制圧される。襲撃者──反王家派の貴族達によって。
その時、自分もまた殺されるのだろうか?
一瞬、そんな考えが下女の脳裏をよぎる。
「──だが、それもまた一興。生涯の忠誠を誓った御方の傍で命尽きるのならば、下女として冥利に尽きるというもの」
そう呟き、立ち止まった。
王の私室、その手前。廊下の左側の壁に備えられた姿見の前で。
陛下の御前で失礼がないようにと、いつの間にかそこに備えつけられるようになった大鏡。彼女もまた王の部屋を訪れる前に、自然とそこへ立ち、身嗜みを整える癖が身についてしまっていた。
下女の顔が、輝かしい銀色の髪に彩られた美しく整った顔立ちが、目の前に露わとなる。
アリシア──いや、正確にはアリシアと瓜二つの女の顔であった。
<3>
何かが弾けるような感覚とともに、アリシアは覚醒した。
青々と茂る芝生の上に仰向けとなり、彼女は眠っていた。
朝の冷たい風が彼女の頬を撫で、寝汗によって僅かに湿った肌を乾かしていく。
「夢──か」
ここにきて、ようやく聖騎士は先刻まで見続けていたものの正体を悟るに至った。
「しかし、なんとも現実味に満ちた夢だったのだろうか……」
呟き、小さく溜息を吐く。
「二十四年前、反体制派貴族が政権交代の為、起こした反乱──もしかしたら、あのような状況だったのかも知れないな」
そう呟くと、彼女の表情が苦々しい色を帯びる。
先刻までの歴史の追体験とも言うべき夢見。アリシアはそれを素直に関心出来ずにいた。
かつて、この国を震撼させた王都での反乱劇。これこそが、悲劇の始まりだったからである。
停滞の一年──
反乱の末、殺害された王の後継者を巡り、反体制派貴族が第一王子派と第二王子派に分裂。更に血で血を洗う抗争を繰り広げるようになってしまったのである。
同年に発生した疫病の流行や、冷害による食料の不足により民衆の中で死者が続出しても尚、それは続いたと言われており、その国民無視の政治の停滞は、まさにそれは暗黒の時代と称すべき有様であったと言えよう。
以後、騎士団の武力介入などによって現在は平和な時代が築かれているが、現在の王はかつての第二王子であり、そして、その側近らの大多数はかつて第二王子派に属し、かの愚かな戦いに身を投じた者達によって占められているのである。
そう、暗黒は今も尚、この平和な世の中でも、力強く蠢き続けているのである。
アリシアは身を起こし、遠くの風景を眺め見る。
王都グリフォン・ハートの遠景が、視界へと飛び込んで来る。
王城をはじめとした歴史的な建造物が多く存在する、千年以上の歴史を持つ大陸の中枢。
美しくも情緒が豊かな街並みは、聖騎士のいる小高き丘の上からも一望でき、その景色はまるで一枚の絵画。人の歴史が創り上げた芸術品であった。
「……もう少しだ」
そして、そこは旅の途にある彼女にとっての最終地でもある。
目的は二つ。
数日前、立ち寄った田舎町を襲った悲惨な事件の顛末を報告する為。そして、故郷である西の最果ての宗教都市を追われた親友を、安全な地へと送り届ける為に。
立ち上がるアリシアの身体を、一陣の風が優しく包んだ。
その風に乗って、聖騎士の耳に気合いの声と剣戟の音が流れ込んで来る。
声の殆どは女の声であった。実践の際に、思わず口から洩れる特有の声。戦闘が繰り広げられているのだろうか──そう、思わずにはいられぬ鬼気迫る声である。
本来、騎士として助太刀せねばならぬだろう。だが、アリシアは動かなかった。
彼女はその声の主と、剣戟の事情を知っていたからである。
声のした方に視線を向けると、そこには見知った二人の若者の姿が合った。
片方は、騎士の甲冑に身を包んだ黒髪の少年。重厚な両手持ちの大剣を縦横に、かつ器用に操っては相手より繰り出される戦槌による攻撃を弾き、受け流し、時には体術をもって回避する。
本来、大剣とはその重量と大きさのため、防御には一切適さぬばかりか、それをもって受け流しきれぬ攻撃に対する回避行動の枷ともなる。
だが、少年は防御を続けていた。苦心の跡を見せながら。
熟練の戦士たるアリシアの目には、その防御術はあまりにも未熟。もし、対峙するのが自分であるのならば、わずか数十秒で、おのが得物を命中させる自信がある。
「だが──悪くない」
しかし、聖騎士は思わず呟いていた。
確かに眼前で繰り広げられている防御術は未熟であるように見える。しかし、その所作の数々に言い知れぬ可能性──伸び代の大きさを感じていた。
その根拠は──目の動き。少年は自らに向けて次々と繰り出される攻撃全てをその視線の先にしかと捕らえていたのである。
即ち、彼に不足しているのは繰り出された攻撃に対して、剣で受け流すか、体術による回避かを選択する判断力、そして、その判断に身を委ねる事のできる度胸。
克服できれば、誰にもその身体を捕らえる事の出来ぬ比類なき防御術へと変貌するはずである。
その時だった、辺りに金属音が木霊した。
繰り出された戦槌が、少年の胸当てを捕らえた。激しく火花が散る。
だが、それは少年が身を翻して鎧の表面を滑らせていただけに過ぎず、決定打とはならなかった。
そんな少年騎士に一撃を加えたのは、右手に戦槌、左手に小盾。そしてその体に纏うは聖職者の証たる神官衣。
艶のある長き黒髪の少女であった。
一見すると清楚な印象を与える彼女の戦闘技術は、既に基礎が完成しており、なかなか堂に入ったもの。
だが、獲物の重量に振り回されている感があり、攻撃のたびに体の軸が揺らぎ、据えた腰が浮き始める。
熟練の騎士を相手にするには厳しいであろうが、下級魔物の二、三体を同時に相手にするには十分と評価できた。
この将来性の高い若者こそ、アリシアの頼もしき仲間──ウェルトとセリアであった。
ウェルトは騎士となって二年余りの若輩者。セリアは養母より基礎の手ほどきを受けたのみで実践の経験は殆どない。
戦力の向上は目下の目標であった。
騎士隊や聖堂という組織に中に在籍したままならば、これら未熟者に対する育成も可能であろう。だが今の三人は正式な所属を持たぬ在野の人間。訓練も自らの主導にて行わねばならぬ。
故に、アリシアがこの旅の間、二人に朝の訓練を日課とするよう命じたのである。
当の二人も、聖都やグリフォン・アイにおける戦いの中で自らの未熟を自覚しているのだろう。軽口の多いウェルトでさえ、この決定に一切の不満を持たず、黙々とその命に従い、セリアもまた、グリフォン・アイにおける戦いの中における弱点──自分の感情を制御ができないという点を知り、それを克服する為、喜んで、この指示を受け入れた。
「そこまでだ。ウェルト、セリア!」
アリシアは二人の名を呼び、眼前で繰り広げられている訓練の手を止めさせる。
その声が響いた途端、ウェルトと呼ばれた少年、セリアと呼ばれた少女は即座に構えを解き、地面に座り込み、荒く息を吐く。
戦闘とは、それがたとえ訓練であろうと神経をすり減らす作業の連続である。彼らの疲弊は、先程までの訓練が真剣なものであるという証左。
「セリア、また上達したな」
アリシアは静かに頷くと、腰を落ち着ける二人のもとへ、ゆっくりとした足取りで歩みよっていった。
「鎧の厚い箇所とはいえ、騎士の胸部を捕らえる事が出来たとは、たいしたものだ」
「おはようございます。アリシア様」
「──今、起きたのかい?」
「ああ」アリシアは笑みを浮かべ、挨拶を返す。
「少し寝坊してしまったが」
「この丘に吹く風は心地よいですからね。これと王都を一望できる景色は旅の疲れを癒すには絶好な場所です。つい寝過してしまうのも無理ありませんよ」
セリアがそう言うと、三人は眼下に望む景色を眺め、しばし心奪われた。
「二十四年前、前国王が反王家派の貴族らに倒され、敗走する騎士団は、この丘から炎上する王都を眺め、一夜の間、呆然としていたのだそうだな」
「当時、騎士団の総帥・副総帥であった祖父母上の不在を狙っての反乱。その結果、あの暗黒時代が訪れたのだから、当時の連中の行為が如何に卑劣なものだったのかという事だね」
二人の騎士が表情に寂寥めいた色を帯びる。
歴史の舞台となったこの丘で、二人の騎士と神の使いたる少女は二十四年前、嘆きながら敗走する騎士団と同じ景色を眺めていた。
「そんな敗走する騎士団と同じ景色を、故郷を追われ、今まさに敗走の最中の我々が眺めているのは、何とも皮肉な話だな」
「従姉さん!」
そんなアリシアの自虐めいた冗談をウェルトが諌めた。
「僕たちは負けてなんかいないよ」
「──そうだな」
口元に軽い笑みを浮かべ、聖騎士はいまだ座り込んでいるウェルトの頭を軽く叩く。
「少し休んだら行くぞ。昼には王都に辿りついておきたいからな」
そう言い、アリシアは歩きだした。
先程見た夢は、既に忘却の彼方。聖騎士の意識は、既に王都へと向けられていた。
あの夢が、彼女の未来を暗示している事も知らずに。
<4>
──王都グリフォン・ハート。
幾重にも囲われている城壁の内側に、肥沃にして広大な穀倉地帯と首都機能が両立している、東方最大の街。
街の北端の一角、貴族達が住まう高級邸宅街の中心部にある一際大きく、絢爛な建造物がある。
『王都議事堂』と呼ばれる、貴族らが議会を開く為の建物。今は会期中なのか、建物内の廊下を議員やその関係者と思しき人が絶えず行き来している。
その議事堂の一室、小さな会議場。そこは然程重要ではない案件について議論する場所であり、言わば、若手の議員らが経験を積む修行場のようなものである。
故にそこには高位の貴族などといった、重鎮議員が立ち入る事は殆どない。
だが、今日は事情が異なっていた。
二十ほどの席には重鎮議員と思しき老齢の貴族らが顔を連ね、壇上にある三人の若者に、厳しい視線を向けていた。
「──聖騎士アリシアの名において、王都議会に抗議いたします」
三人の若者の一人、アリシアは堂々と声を発する。
この前口上の後、彼女は懐より数枚の羊皮紙を取り出し、読み上げた。
それは先日、王都議会より派遣されたバルクレイ・ジェラド公爵によって壊滅的な被害を受けた街──グリフォン・アイ。そこを守衛する騎士隊との連名による抗議書であった。
「貴方達は老練なる上級貴族。王家に関する情報など──それが、醜聞であっても──手に取るようにわかっているはず。無論、バルクレイが前王妃と愛人の間に出来た不義の子であるという事も、彼がグリフォン・アイの神殿で育てられた事も、そして、幼少期に身寄りなきゆえに迫害に遭っていた事が原因で、街全体に対する強烈な恨みを募らせていた事をも」
「──それを把握しているにも関わらず」ウェルトが続いた。
「議会は彼より提示されたグリフォン・アイにおける騎士隊の規模に関する歪められた情報を鵜呑みにし、誤った判断を下しただけに留まらず、事もあろうか、その執行をバルクレイに命じた。それは何故であるか、納得のゆく説明をして頂きたい!」
「それだけではありません」間髪いれず、セリアが切々と訴える。
「公爵は、巷の若者達の間で流行している新興宗教に取り入り、自らの不遇を他人の所為にするあまりに差別主義へと陥ってしまった信者らを飼いならし、暴徒へと変貌を遂げさせ、自らの復讐の為に利用したのです。今頃、その信者らは裁きにかける為に、この王都へ次々と護送されている頃合い──議会は彼らに対し、如何なる罰を与えるおつもりなのでしょうか?」
小さな会議場に三人の批難の声が響く。だが、それを受け止める老人らのうち、これらの痛切な批難に対して真摯に受け止めんと沈痛な表情を見せる者は皆無。
誰もが壇上の三人を観察し、値踏み、そして如何にして切り返すか計算を巡らせていた。
──思った通りの反応、と言ったところか。
そんな冷やかな反応を、ウェルトは冷静に受け止めた。
今回の議会によって引き起こされた過失。これを素直に認め、騎士である自分やアリシア、そして神官たるセリアに謝罪するという事──それは即ち、議会が騎士団や教団に敗北を喫した事を認めるという事にもなりかねぬ。
かつての騎士団が主体となって行われた『十年政権』。かつての暗黒時代の直後に訪れた黄金の時代により、執政の手腕においても、議会は騎士団に事実上敗北を喫した事を衆目に晒してしまい、忽ちのうちに民の心は議会より離れていったのである。
その苦々しき経験ゆえか、議会を構成する貴族らは、政権返還後の現在においても騎士団とそれと蜜月の関係にある教団を敵対視しているのが多数派を占める。
そんな状況下で、騎士より指摘された過失。今の議会の連中に、どうしてこれを素直に認められようか?
だが過失は事実である以上、何らかの答えは示さねばならぬ。
今の眼前の連中の頭の中に渦巻いているのは恐らく──いや、間違いなく『この問題に対する幕の引き方』であろう。
一刻も早く事態を収拾し、如何に賠償を最小限とするか。その為の論法や説得法を必死になって考えている。
言わば、『賢い負け方』をするための計算であると、ウェルトは想像を巡らせていた。
だが、とウェルトは思う。
──通用すると思うなよ? そんな見え透いた手口。
少年は誰にも悟られぬよう、小さく舌舐めずりをした。
この爺ども、俺達が若造だと思って舐めてやがる。だが、手の内がわかれば対処のしようがあるというもの。
ならば、その軽視めいた態度。今に後悔させてやろう。
少年は隣に立つ従姉アリシアに目で合図を送る。そんなウェルトの意思に気付いたのだろうか、アリシアもまた彼に視線を返し、小さく頷きを返した。
舌戦を予期した。老齢の議員らの言葉を待つ。
「聖騎士殿らの御指摘の通り、我々とてバルクレイの素性について承知していなかった訳ではない」
しばしの沈黙の後、老叟の群れうち一人が立ちあがった。
老人はバニトゥと名乗った。勅命により、この王都議会の議長職に任じられている者であると。
バニトゥは言葉を発した。
「だが、あの男は為政者としてはあまりにも問題があり過ぎて、議論に適さぬ性格をしていたがゆえ伝令という名誉だけの閑職に回していたのだが、まさか、その立場すら悪用するとは思わなんだ。バルクレイもまるで精密な調査をしていたかのように、資料を周到に準備していた為に、我々もその信憑性を見抜けずにいた。こればかりは我々の責任だ──謝ろう」
そう言い、ゆっくりと頭を下げた。
この予想外の反応に、室内の議員らは騒然となった。アリシアとセリアは両目を瞠り、ウェルトは訝しげな表情を見せる。
そして、更に続けた。
「護送されて来た若者らの素性はこちらも把握しており、彼らに関しては各々の罪状に関して十分な精査をした後、厳罰に処するとお約束しよう」
その言葉に、ウェルトはある『臭い』を察し、すかさず釘を刺す。
「──なるほど。そうやって事の責任を死人と弱者に押しつけ、自分達は尻尾を巻いて責任逃れかい? 大した為政者もいたものだ」
「言葉を慎め!」
激高の声が飛ぶ。それを聞き、ウェルトは心の中でほくそ笑んだ。自分の嗅覚が正しかった事を確信して。
先刻、彼が察した『臭い』とは誘導。
グリフォン・アイ騎士隊からの抗議書には、バルクレイと彼が利用した新興宗教団に対する批難に占められている。それを読み上げたアリシアの口調より、そんな者達に対する怒りの感情を鋭く読み取ったのだろう。
そんな聖騎士の直情径行な性格を利用した誘導。今、この場に存在せぬ罪人に向けた敵意を利用し、自分達にあるはずの責任の転嫁、無効化を狙っての形ばかりの謝罪。
今、そこにウェルトは斬り込んだのである。
「だが、貴方達にも重い責任はある」
臆せず、ウェルトは言った。両横で、ただ目を丸くする従姉と友の視線を受けて。
「前王妃の隠し子、公爵位を授かった人物であろうとも、問題のある性格のあると理解していながらも、たとえ閑職とはいえ公務を任せた事。彼が周到に用意した捏造まみれの調査書を精査できなかった結果、彼にグリフォン・アイに対する復讐を看過してしまったこと。その結果責任を貴方達はとらねばならないのではありませんか?」
「今、グリフォン・アイは先の暴動により多くの家屋に火を放たれ、廃墟の如き様相。更には多数の死傷者を出した結果、復興の為の手が足りず、更には多くの貴族家も被害を受け、無事だった富裕者も多くは早々にあの地を見限ってしまい、資金も不足している有様。当事者たる議会が、何の責任をとらずして喃々と逃げ果せられるなどと思わないで頂きたい!」
急ぎ、アリシアがウェルトに続いた。
彼女は背中に冷たいものを感じずにはいられなかった。
ウェルトの指摘がなければ、自分は今頃、この老獪どもの口車に乗せられ、自分が成すべき事を見失うところだったのだ。
あのグリフォン・アイの惨状を見た人間として為さねばならぬ事。それは、かの地の現実を突きつけ、支援の手を引きだす為の手段を具体化させる事に他ならぬ。
実際に人や金を引き出させ、復興を完遂させるために『実行』させる事。
それこそが肝要。これは決してぶれてはならぬ──言わば、神から聖騎士へと下賜されし至上命令であると言えよう。
改めて、それを自覚したアリシアは、確固たる意志をもって訴えかけた。
「この場で宣言を頂きたい。グリフォン・アイにおける暴動──いや、虐殺の当事者として、如何なる方法をもって償いをするつもりなのかを」
議事堂の廊下を歩く最中、セリアが何度目かの溜息をついた。
バニトゥ議長以下、王都議会の重鎮らとの会合は先刻のウェルトの発言以後、終始険悪な雰囲気のまま、一時間ほどで終わりを迎えた。
議会に対する責任追及の手を緩めぬ騎士らに対し、議会の老貴族らもまた強硬なる抵抗に終始した。
脅迫。恫喝。脅嚇や威嚇。そして懐柔──
だが、二人の騎士の心は決して揺らぐ事はなく、いかなる脅しや揺さぶりにも、僅かも惑う素振りすら見せなかったのである。
「心臓が止まるかと思いましたよ」
その常人のものとは思えぬ度胸と謹厳さに、セリアは半ば呆れ返っていた。
同じ脅迫だとしても、街のならず者が発するのならば、武芸の心得のあるセリアにとっても脅威に値せぬ。だが、この度の相手はこの国の権力、その中枢に存在する者達である。
いくらアリシアとウェルトが国内唯一の聖騎士と、その従騎士と言えど、今や所属を持たぬ在野の武人。潰す事など造作にもないはずである。
「怖く──なかったのですか?」
黒髪の神官は、率直な疑問を投げかけた。
それに対し、アリシアは「最初こそ、少し戸惑ったが」と前置きし、答えた。
「奴らとて最初から我々の主張など、聞く気などなかったのだろう。ならば下手に出ようが喧嘩腰に出ようが大差はない──ならば、我々にとってやり易い方法を選ぶまでの事」
「──その結果、奴らから多額の支援金と人員の提供を引き出す事が出来たのだから、大収穫さ」
次いで、ウェルトが得意げに胸を張った。
「奴らの心情、その根底には『責任逃れ』という確固たる目的がある。それがわかった以上、対策は簡単。逃げ道を僕が塞いで、アリシア従姉さんが真正面から切り込んでいけば良いだけなのだからね」
事実、責任逃れの為に必死に言葉を弄する老貴族らに、ウェルトが釘を刺し、アリシアが辛辣な言葉をもって鋭く突き刺す──そんなやり取りが、幾度となく繰り返された。
全ての逃げ道を塞がれ、貴族らは青息吐息。遂に吐き出させることに成功した。議会の責任を認め、抗議を受け入れるという言質を。
「本題には従姉さんが斬り込んでくれる。僕の役目は、そこに導くための土台を整える事さ。だけど、これがなかなか度胸の要る事でね。場合によっては今回のように挑発したり、喧嘩腰になったりしなければいけない場面もあるというだけだよ」
「そういうものなのですか……」
セリアは釈然とせぬといった様子で呟いた。
このウェルトとアリシアという騎士は、時折、このように我が身を一切省みぬ行動を起こす事がある。
人間である以上、我が身が脅威に晒された時は保身に走るのが自然な姿であろう。
しかし、この二人の騎士は一切それをせぬ。今回のように、相手が国の権力を牛耳る上級貴族らを相手といえども、いとも簡単に啖呵を切るのだ。
並外れた精神力の成せる技か、或いは、そのような防衛本能など生来より備わっていない特殊な人間か、はたまた、ただの狂人か。
でも、とセリアは思う。
そのくらいの気概がなければ、暴動と虐殺の憂き目にあったグリフォン・アイ住民の悲嘆の声を届ける事も、彼らを助ける事も不可能であるのも知れない、と。
そういった意味においては、彼らは騎士としての役目を全うしたとも言えよう。
「ですが、もう少し平和的なやり方というものがあると思うのですが……」
目の前を歩く二人の友に聞こえぬよう、小さな声でぼやく。
雑談をしながら廊下を歩く二人の耳に、それが届いた様子はなく、彼女の嘆きの声は誰にも認められる事無く、議事堂内の空気へ霧消していく。
──かと、思われた。
「それは、無理な相談だと思うけどね」
呟きを聞き入れた者がおり、その者が声を発した。
「──!」
声の源は、セリアのすぐ背後。
慌てて三人が振り向くと、そこには女がいた。
歳の頃は四十前。神官衣こそ纏っていたが、その顔立ち僧とは思えぬほどに凛々しく気品に満ち、双眸には強い意志の光が宿っていた。その様は、まるで武人であるかのよう。
そんな彼女の姿を見て、真っ先に反応を示したのはウェルト、次いでアリシアであった。
「母さん!」
「叔母様!」
「──え?」
友の思いがけぬ反応にセリアは呆気にとられた。そして、ウェルトとアリシアの顔、そして不意に現れた女性の顔を交互に見つめる。
確かに顔つきの凛々しさはウェルトに、双眸に宿る意思の光はアリシアに通じるものが感じられた。
──只者ではない。
セリアの戦士として芽生えはじめた勘が、自身にそう告げる。
緊張の面持ちを見せるセリアに向かい、女は微笑み──そして、一礼した。
「貴女がセティ司教の養女セリアね。私の名はシェイリ・クラウザー。貴女の後見人のようなものと思って頂戴」
<5>
議事堂の程近くに存在する、広大な敷地を有する一軒の邸宅。
──クラウザー邸。
ウェルトの実父アインスが、王都での公務に赴く際、一時的に滞在している屋敷である。
その邸宅の一階にある応接間。
流石は王都での公職に就いている名家の屋敷、その客間といったところであろうか。室内に存在する調度品、壁際にかけられている絵画や宝剣の数々は、窓より室内に降り注ぐ陽光や、夜間における照明の光量、壁の色から室内に訪れる者の服装の傾向など、全ての色彩を計算に入れた上で、最も美しく映えるよう設計し、配置されていた品々であった。
訪れた者全てが見惚れる、まさに瀟洒の極致とも称すべき室内にウェルト、アリシア、セリアの三人の姿はあった。
彼らは、室内に備えられているソファに腰をかけ、卓の上に差し出されている香草茶入りの碗にも手をつけず、目の前にて、ゆるりと茶を嗜むシェイリの姿を眺めていた。
沈黙の中、茶をすする音だけが静かに響く。
王都の中枢に存在する人物を夫に持つ彼女ならば、情報は全て筒抜けであろう。
聖都におけるセリアを巡る紛糾も、そしてグリフォン・アイにおける騒動も。
五十年前の戦乱期ならばいざ知らず、平和な現在においては稀に見るほどの血腥い事件の連続である。
それらの中心として存在していた自分達に対し、母は、叔母は、自分の後見人と名乗ったこの女は──如何なる言葉をもって迎えるのだろうか?
全身が緊張で強張る。
そんな三人の感情を察したのだろうか。茶を飲み終えたシェイリが微かに笑みを浮かべ、そして、沈黙を破った。
「司教様がお亡くなりになられたそうね」
それは、何気ない話題であるかのように発せられた。
だが、その声には寂寥感を帯びており、不幸を背負ったセリアの心情を察する──そんなシェイリの温かい性格を伺わせた。
「聖都にいるゼクスとイデアからの手紙が届いてね、粗方の事情は承知しているわ。聖都で起こった後継者争いの事も、それが契機となって聖都を追放されたという事も、そして、その渦中にあるセリア──貴女の素性についても」
「……」
「司教様との約束なのよ。『私が死んだら、セリアの事をどうかよろしく頼みます』──とね」
沈黙を続けるセリアに、シェイリは優しく微笑みかける。
「生前、貴女のお養母様には私も大変世話になったわ。その御恩に応えるためにも、貴女の面倒を見させて頂けないかしら? 勿論、ゆくゆくは王都大聖堂で生活してもらう事になると思うけど、何しろ貴女は大司教セティの関係者。受け入れるには色々と準備があってね──それが整うまでの間、ここで王都の生活に慣れてもらおうと思っているの」
優しい声だった。
まるで、その声に後押しされるかのように、セリアは小さく頷く。
最初、彼女はこの申し出を断るつもりであった。
養母が亡くなった事により天涯孤独の身となり、そして、そんな自分を政治的に利用しようとする人間にも否を突きつけ、自立の道を──自分の血族の宿命に立ち向かう事を決意したのである。
今更、誰かの庇護下に入る事は、その決意に自ら水を差す事になりかねぬ。その相手が自分の仲間、友人の親であるというのならば尚更である。
だが、それが養母の遺志であるといのならば──最終的には庇護より外し、自立の道を示唆してくれると言うのならば、話は別。
故に、セリアは快諾した。
その意志を確認したシェイリは満面の笑みを浮かべて手を叩き、部屋の外で待機させていた召使いの者達を呼び付けた。
「──そう言ってくれるだろうと思って、既に貴女の部屋を用意しているの。荷の整理が終わったら、湯浴みでもして夕食まで一休みするといいわ」
「叔母様。何と礼を言ったらいいか──」
セリアが召使いに連れられ、部屋を去ってから一刻。
アリシアが深々と頭を下げた。
「私が不甲斐ないばかりに……」
「いいのよ。元々、司教様との約束でもあるんだし」
遮り、シェイリは替わりの茶に口をつけ、平然と答える。
身内しかいなくなった所為か、その態度は砕けたものへと変じていた。
「困っている人に手を差し伸べるのも貴人の努めでもあるのよ。それが貴女やウェルトの友達ならば尚更よ。気にしないで──それに、これはクラウザー家の人間にしか出来ない事なのだからね」
「……」
この言葉にアリシアが押し黙る。
聖都騎士隊や、聖都大聖堂に掛け合い、セリアを王都へ移送させんとしたのは自分。ならば、セリアの保護に乗り出さなければならないのは、彼女のクラルラット家の方ではなかろうか?
しかし、それは出来ぬ相談であった。
理由はセリアに流れる──かつて、国中の敵とされてきた女、ソレイアの血にある。
かつての内戦の折、その国賊を討った英雄の直系たる家が、かの血族たる人物を保護していると知られれば、要らぬ憶測を呼ぶのは必定。
アリシアの父──現クラルラット家当主は優秀であれども所詮は一介の文官。ましてや近年、重い病を患い、大陸中央部エッセル湖畔の田舎町で療養している。
そんな状況下で、痛くない腹を探られるような状況は決して望ましいものとは言えなかった。
「一番の理由は、さっきも言った通り、貴女やウェルトの友達を助ける為よ。ただ、不幸にもそれに伴う事情が少し複雑なだけ。貴女が深く考える事じゃないわ」
聖騎士の苦慮を察し、叔母がそっと語りかける。そして彼女は「それよりも──」と続けた。
「──全く驚いたわ。急にグリフォン・アイ騎士隊の人達が捕縛した市民を引き連れて続々と王都を訪れるんだから。まさか、あそこであんな事が起こったなんてね」
ウェルトの表情が一瞬、苦悩のそれへと変じた。
──あんな反吐が出るような事など、思い出したくもない。そんな本音めいた感情すら抱く。
「暴動によって、騎士隊の詰所や罪人を閉じ込めておく地下牢も機能しなくなってしまったからね」
「それに、王都議会より派遣されたバルクレイが領主を洗脳し、自殺させるに至り、本来、その替わりを努めねばならぬはずのあそこの田舎貴族どもが身の危険を察して逃亡を図ってしまった所為で、指揮を執る人は皆無。今は残された住民らはグリフォン・アイ騎士隊の指揮と教団との協力のもと、最低限の秩序を保ちながら、必死に復興作業に努めている。罪人の裁きなど、到底手が回らぬ」
従弟の言葉を継ぐアリシアの顔にも、一瞬だけ苦しさが浮かぶ。
「事情は粗方、そのグリフォン・アイ騎士隊の人達から聞いているわ。──貴方達も嫌な事に巻き込まれてしまったわね」
「でも、あの事件を目の当たりにしたお陰で、本当の意味で、この国の姿というものを思い知ることが出来たよ」
苦々しき記憶がよぎったのか、ウェルトは拳に少しだけ力を込める。
「まだ、内戦は終わってなんかいなかったという事を。その歪みは姿形を変え、人々の心にいまも芽吹いているという事もね」
「確かに私はウェルトとともに、暴動の首謀者であるバルクレイは討ち、死の制裁を与えた。だが──」
次いで、アリシアが絞り出すかのように声を発した。
「本当にこれで良かったのか──と、思う時がある」
「力なき市民にまで、制裁を与えてしまった事──それを悔んでいるのね?」
「ええ」シェイリの指摘に、聖騎士は素直に頷き、認めた。
「あの暴動を食い止める時は、それも已む無しと決断していたのですが、冷静になった今、改めて考えると……」
呟き、俯いた。
騎士とは魔物という外からの脅威から民を守る為、日頃より武芸を磨く誇り高き防人である。
先の暗黒時代──権力争いに奔走する貴族の尖兵らによって武力衝突にまで発展させた事により、市民に被害が及んだ時も、抵抗する力のない市民側に立ってこれを鎮めたという歴史もある。
そういった性質上、騎士は弱者──市民に肩入れする傾向が強い性質を有する。それ故に、民もまた騎士を敬う。
だからこそ、時折発生する市民らが中心となった暴動、その鎮圧に関して、騎士の心情は複雑であると言えよう。昨日、自分達が守り、敬ってくれていた市民達を、場合によっては自らの剣をもって傷つけねばならぬのだから。
そんな迷いの渦の中に溺れる二人の若人に、シェイリは助言した。
「『弱者』とは、ただ力が弱いだけ。力の強弱と『善悪』は本来、無関係よ」──と。
僧の言葉に二人の騎士は、はっと顔を上げた。
「聖賢な名君がいくら善政を施そうとも、騎士が魔物や罪人から守ろうとも、学者や錬金術師が技術を開発して生活が便利になろうとも、我々聖職者が道徳を説こうとも──歪んだ心を持つ人間は、いつ如何なる時代でも一定数現れるものよ。今回、この王都に護送されてきた市民たちが、その好例なのかも知れないわね」
「好例?」
「ええ」
息子からの問いに、母は頷いた。
「彼らに対する裁きの議会を見る機会があってね。聞けば、これら暴動に参加した人達の多くが、成人しているにも関わらず定職につかないで、毎日遊んで暮らしていたそうよ。そんな無責任な生活を送っているにも関わらず、殊更『区画』の住民らに関しては、驚くほど強硬で攻撃的な意見を展開していたの。これには誰もが面食らい、目を白黒させていたわ」
だけど、これは何も驚くような事ではない──そう、彼女は言う。
「──人間、経済的に貧しくなれば、その生活の苦しさから心の働きまで愚鈍になる。おのれの不遇を言い訳に、善悪の判断を狂わせ、凶行へと走るもの。こうして起こった暴動の類は、どこの国でも、必ず一度は発生ししているものなのよ」
ウェルトは不愉快そうに鼻を鳴らす。
そんな事、関係ない──少年は、そう言い捨てた。
「いくら彼らが社会的に恵まれていなかろうが、心の隙間をつかれて利用されようが──彼らは彼らなりの意思で暴動に手を染めたんじゃないか!」
「勿論、彼らには相応の罰は受けてもらうわ。今、騎士隊が総出で精査にあたっているところよ。貴方達がバルクレイに対する処罰だけで満足せず、暴動の参加者を一人残らず捕縛してくれたおかげで、『区画』の住民に対する迫害の実態が明るみとなり、実質、迫害者の受け皿となっていた新興宗教の危険性も指摘されるようになったのよ」
悪い話ばかりではない──と、母は優雅な所作で語気の荒い息子を、やんわりと宥めた。
だが、ウェルトの不満の声は尚も続いた。
「その割には、随分と時間がかかっているようじゃないか? 奴らの多くが放火や殺傷、掠奪を行っているんだ。軒並み厳罰に処するべきじゃないのかい?」
それとも、別の事情が──
そう言いかけ、止まった。
今まで笑みが浮かんでいた母の顔が、複雑な色彩を帯びたものへと変じていたからである。
「──あるんだね?」
「暴動者の証言から、気になる事が幾つか──ね」
「気になる事?」と、アリシア。「──とは、やはり」
「ええ」シェイリは頷いた。「貴方達の報告にもあった、暴動の際に発現した、一部の者達に発症した異変」
「魔物への変異だね?」と、ウェルト。
「貴方達の報告によると、その新興宗教の信者に与えられている羽根飾りについている石が、装着者の精神に反応して発現したと書いていたのを見て、私も色々と識者に聞いて回ったけど──錬金術を含めた如何なる技術を用いたとしても、それらの現象を発現させるのは不可能というのが彼らの結論よ」
シェイリは俄かには信じられぬといった様子で首を小さく横に振る。
「でも、それは瑣末な事。現に、貴方達の目の前で彼らが魔物と化して襲いかかってきたのは事実なのでしょうし、何より、如何なる分野においても、前例を覆すような天才というものがいつかは現れるもの。我々の知らぬ間にそのような天才が暗躍していたとしたら、最早、何が起きても不思議はないとも言えることだしね」
「で、暴動者は何を?」ウェルトが尋ねる。
「グリフォン・アイで暴動を起こした新興宗教の教団の中にはバルクレイ以外にも国内の有力者が存在していたそうよ。そして、事もあろうか、その人物が信者である彼らに術を施したと思しき羽根を与えたのだとか……」
僧の言葉に二人の武人は驚き、目を瞠った。
「初耳……ですね」
「母さん。それは一体、誰なんだい?」
「飽くまでも、これは今裁かれんとしている暴動の参加者──グリフォン・アイ住民の言葉よ。責任逃れの為に発した、その場凌ぎの言い訳である可能性も否定できない事を留意した上で聞いて頂戴」
強く念を押すように前置きする。
それでも尚、シェイリは逡巡したかのように口籠り、押し黙る。
しかし、それは数瞬の事。彼女は意を決したかのように口を開いた。
「王妃──いえ、王妃によく似た女性より、その羽根飾りは与えられたと」
「──!」
「でも、王妃は毎日国内の公務にあたっており、ここ半年は王都の外に出てはいないわ。無論、裁きの議会の折、その証言は出鱈目だと論破されていたけど……」
それでも尚、釈然としない様子の母の感情を息子は鋭く読み取った。
「同じ事を証言する奴が多過ぎるんだね? まるで、事前に口裏を合わせたかのように」
「ええ」母は即座に頷いた。
「『区画』の住民に対し、あれだけ強硬に手厳しく批判し、罵倒する癖に、少しでも自分に都合の悪い事があれば、全て『区画の住民どもの陰謀』と、無理矢理にこじ付けた屁理屈を臆面もなくこねるような大馬鹿者よ? その術を施した人物とやらも、その区画の手の者と主張する人間がいてもおかしくはないじゃない?」
「……なるほど」
アリシアは思案した。
思えば、先日の暴動──グリフォン・アイに対する復讐を望むバルクレイや、自分に差別を強いる民衆全般に対する私怨ゆえに彼に協力をしていた錬金術師シンシア、この二人の陰謀として片付けるには、無理のある事柄が多々見受けられた。
第一に、あの術が施された羽根飾りは錬金術師であるシンシアによって造られたものではなく、またシンシア自身も術の正体を見抜けるほど、錬金術に精通していなかったこと。
第二に、本来危険であるはずの、その羽根飾りを、どうしてバルクレイが身につけていたのか?
そして最後に、バルクレイは所詮、前王妃と愛人との間に出来た不義の子である。便宜上、公爵位を授かってはいるものの王家の血を引いておらず、王都議会においても閑職に追いやられていたのが実情。
彼に対する処遇は、王家の醜聞が不必要に外部に漏らさぬ為に与えられた──言わば『飼い殺し』のための地位である。紆余曲折を経て現国王が王位につき、不十分ではありながらも王家の人間による安定した政権が確立した今、その王家の覚悟さえあれば簡単に切り捨てる事も可能であるはず。
そしてこの度、暴徒と化した者達とは、公益の為との言い訳のもと、その実、惨めなおのれの現状より目を背ける為に、他者への迫害に手を染めていった卑劣な連中である。
責任能力などある訳がない。ただ有るのは、誰かにその責任を擦り付ける卑しさと、その卑しさを満たすための知恵と嗅覚のみである。
そう、そんな彼らが最も恐れる事、それは自分自身が責任を問われる事。即ち、いざという時、責任を押し付けられるような人間が誰もいなくなる事である。
そんな連中の後ろ盾として、バルクレイのような不安定な立場の人間は、いささか不適任ではなかろうか?
また、連中の中より、バルクレイの素性について密かに探りを入れんと動いた者はいなかったのだろうか?
──そう考えれば、暴徒と化した者どもの、バルクレイに対する盲信ぶりが、あまりにも不自然であった。
「あの連中の中に──」
思案の後、聖騎士が口にしたのは、この疑問を唯一氷解させる事の出来る仮定。
「バルクレイ以外の強い権力を有した人物がいれば話は別──という事ですね?」
「ええ」
シェイリは首肯した。
「私も王妃本人があの教団に混じっていたとは考えていない。恐らく、風体が良く似た──言わば、王妃の関係者。姉妹や従姉妹、血縁的に近しく、そして高位の爵位を有した女性ではないかと考えているわ。貴族に代表される富豪層の人間とは往々にして遊蕩者もいるわけだからね。どこに血縁関係を残しているか知れたものではないわ。無論、王妃もその例に漏れず、両親や兄弟姉妹、隠し子の存在に至るまでの身辺までは明らかとなっていないしね」
そして、更に続けた。
「──あの艶のある黒髪。そして歳を重ねても老いを感じさせぬ端正な顔立ち。以上の事から王妃には以前よりある噂が囁かれているわ」
「ソレイアの血が混ざっているのではないか──だろう?」
「え……?」
不意に発せられたこのウェルトの言葉に、アリシアが驚く。
「──だからセリアの聖堂入りも、現段階は保留とした訳だね?」
「その通りよ。万一、その噂が真であった場合、彼女を我々の目の届くところに置いておかないと、王妃がセリアに良からぬ接触を図ってくる可能性があるからね」
「王妃がセリアに接触? 何のために?」
「だってそうじゃない?」
シェイリは、何をそんな愚問を、と言いたげな表情で答えた。
「今現在、この国において『ソレイアの血』というものは汚点以外の何物でもない。万一、その事実が今、露呈したらどうなると思う?」
「それは当然──」
少しの思案の後、アリシアが答える。
「世論は王家に対して大きな反発を起こすはず。その後押しを受けた反王家派の議員らが一気に勢力を拡大し、近くお生まれになる、陛下のお子様に対する王位継承権を巡って、紛糾する事でしょう」
「もしかしたら一部の過激派が暴動を起こすかも知れないしね」
ウェルトが追従する。
「そうね」と、シェイリ。
「では、セリアはどうかしら? 同じ『ソレイアの血』を継いでおり、確かに聖都では、一部の者達から迫害こそ受けはしたものの、そんな彼女に対して同情的な感情を抱く人も多かったはず。それは彼女が司教セティ様の養女だったからじゃないかしら?」
「どういう事ですか?」
「かつて『ソレイア』の魔の手よりこの国を救った英雄が、その『ソレイア』の血族にある人物を娘として愛情籠めて育てたのよ? その美談はまるで、先の戦いに対する『許容』の象徴であるようにも思えない?」
「──!」
アリシアは息をのんだ。
叔母の思惑の意図が、ここにきてやっと呑み込めたからである。
「王妃は、セリアを自分の側へ引き込む事によって──いや、セリアとセティ様の美談を利用する事によって、自分の中にも流れる同じ血をも、その『許容』の範疇に入れようとしている?」
「私はそう考えているわ」
シェイリは静かに目を瞑った。
「でも、その『美談』が今の時点で民衆に通用するかはわからない。セリアを味方に引き込み、その素性を公表する事によって、世論の変動を観察しようと思っているのでしょうね」
「それで世論がセリアに同情的になってくれればいいけど──」
ウェルトが奥歯を噛む。
「もし、そうならなかったら、セリアの人生は平穏とは程遠いものになってしまうじゃないか」
「ええ」
母は頷いた。
「そう言えば聞こえはいいかもしれないけど、結局のところ、王妃はセリアを『鉱山の小鳥』にしようとしているだけなのだからね」
「でも、王妃殿下がソレイアの子孫であるというのは、あくまで噂なのですよね?」
聖騎士の指摘に、シェイリは「勿論よ」と頷いた。
「今、父さんがその真偽を確かめるために探りを入れているはずよ。その結果が判明するまでの間、この噂は絶対に口外しないこと──いいわね?」
「わかった。あくまで可能性の一つという事として考えておくよ」
「ありがとう。ウェルト」
物分かりの良い息子の言葉に、母は笑顔を見せた。
「でも、可能性が僅かでもある以上、セリアの処遇を早々に決める訳にはいかない。どこに王妃の手の者が潜んでいるか知れたものではないからね。まずは、聖堂から不穏分子を排除してから、セリアの聖堂入りという流れと繋げるのが理想なのだけど……」
語る母の表情に苦々しげな色彩が帯びた。
察し、ウェルトが問いかける。
「それはそれで問題がある──という事かい?」
「時間がないのよ」
「──と、言いますと?」
「三日前の早朝、貧民街の片隅にある家で、ある女性が自ら命を絶ったのよ。その葬儀に、どうしてもセリアを列席させなければならないのよ」
「──という事は、セリアの関係者という事かい?」
ウェルトとアリシアが首を捻った。
セリアは、育ての母たる司教セティが亡くなった事により、既に天涯孤独の身。
そんな彼女に近しい関係と言えば、自ずとソレイアの血族という事となるだろう。
いまだ内戦の記憶が色濃く残るこの世の中において、そのような血を引く人間が、全うに生活を送れるはずなどない。
王妃のように、いくら疑惑を抱かれようとも、その高き地位によって守られているような、特殊な場合を除いては──だが。
「故人の名はアイナ。セリアの産みの母にして、あのソレイアの次女にあたる人物よ」
その言葉に、ウェルトは驚きの表情を見せた。
だが、それも一瞬の事、彼の表情が暗く沈む。
「確かに、ソレイアの実子は戦後、騎士団に保護されたと聞いていたけど、まさかこの王都で暮らしていたとは知らなかった……」
──その生い立ちゆえに、そのアイナという女性も相当に苦しんだのだろう。
世間はかの血筋を、子を残す事など許されなかったのは想像に難くない。
それ故、アイナは我が子を──セリアを捨てる事を余儀なくされたのであろう。母として、その心労が如何ほどのものだったのか。
その壮絶さ、惨たらしさは想像に難くない。
「心を病まれ、耐え忍びに忍んだ果て、遂に力尽きたのでしょう」
アリシアは、故人の悲運を憐れんだ。
「もう少し待てば、我が子と再会できたものを──神というのは、時に残酷な事をなさるものだ」
「ええ。神とは時に我々人類に悲しみを与えるわ」
シェイリは首より下げた聖印に手を当て、小さく祈りの言葉を捧げる。
しかし、その表情は偉大なる神に祈りを捧げるに相応しい──静謐めいたものとは程遠いものであった。
──怒り。
「でも──」再び声を発する。
彼女は、猛々しき光を宿した視線を、虚空へと投げかけていた。
「その残酷な事を、神ではなく──『神の信徒』が行っていたとしたら、許せない事だと思わないかしら?」
刹那、騎士の心臓が氷塊と化した。
「──どうして?」聖騎士が根拠を尋ねると、僧は即座に答えた。
「アイナが命を絶った前日──周囲の住人らの証言によると、アイナの家を聖都大聖堂の者達が訪れたそうよ。目的は不明だけど──その翌日、彼女は自ら命を絶ったのよ。どういう事だと思う?」
返答を聞き、二人の騎士は必死に思考を巡らせる。
「僕達を聖都より追放した張本人が、先んじてアイナさんと接触を図った──奴らはソレイアの血族が残る事を快く思っていない」
「母子が再会すれば、それだけでも互いにとって励みとなる。精神を参らせたアイナさんも持ち直す。だけど、それは聖都大聖堂にとっては歓迎出来ぬ事態。ならば、彼女を自殺へと追い込むため、ある事無い事吹きこんだ……?」
アリシアの拳が膝の上で強く握られる。
もし、彼女の考察が真実ならば──それはあまりにも卑劣な行為に他ならぬ。
絶対に許す事など出来はしない。
「概ね、そんなところだと思うわ」
怒りに震える二人の騎士を、真摯な眼差しで眺める僧は言った。
「今のセリアには王妃と聖都大聖堂、この二種の敵が存在していると考えられるわ。そこでクラウザー家当主の妻として、そして『双翼の聖騎士』の血を引く者として、貴方達に願いがあります」
「──?」
「セリアを守って頂戴。今は忌まわしきものとされている、かの血筋もいずれは必要とされる日がやってくるはず。そして、その日までどうか、彼女に幸せな人生を送らせてあげてほしいのよ」
それが、司教様の最後の願いである──と、最後に付け加えた。
この願いの言葉を聞いたアリシアとウェルトは即座に答えた。
「誰が、この願いを撥ね退けられようか?」
「セリアを──友を守る事は、人として当然の事。母さんに言われるまでもないさ」
そう語る二人の表情は極めて晴れやかであり、そして双眸には決意の光が宿っていた。
僧は答えを得た。満足げに頷き、笑顔を見せる。
「そう言うと思って、色々と手配しておいたわ。明日は陛下への謁見の為、王城へ行くのでしょう?」
「?」
「それが終わった後、騎士団総帥と接見するのよ。恐らくそこで貴方達は『王都騎士隊』に編入される運びになるはず」
そう言い、シェイリは卓上の冷めた茶に口をつけた。
「騎士として動くにしても、組織の後ろ盾は必要でしょう? 国内最大の騎士隊の一員ともなれば、司教なき今の聖都大聖堂なんて生臭坊主の集団と同様。そう簡単に手出しは出来ない筈よ」
「随分と周到じゃないか? 流石は王都大聖堂の中核を担う高司祭だけあるね」
「茶化さないの」
いつもの調子に戻った息子の頭を、母が小突いた。
「私は自分の正義に忠実なだけよ。それに息子と姪を煽った挙句、ここまできっぱりと宣言された以上、私も引くわけにはいかないからね」
「『吐いた唾は飲むな』──これがクラウザー家の家訓だからね」
「なるほど──な」
アリシアは得心して頷いた。
普段ウェルトが如何なる相手でも一切臆することなく堂々と真正面より衝突していけるのは、この家訓があるからこそであるのだと悟った。
時には大きな事を語り、虚勢を張る事もある。
その際にも彼は常に威風堂々としているのは、万一の際、その大言壮語すらも実行に移す覚悟と、実現させる自信があるが故であろう。
それは、並大抵の精神力では成せぬ業。だが、この姿勢を貫き通す事こそが、自分の言葉や行動に対する彼なりの『責任』なのだろう。
──これが十七の少年の態度か?
アリシアは心底呆れ果てていた。
だが、と彼女は思う。
老いも若きも、そして富める者も貧しき者も、本来自分が被るはずの責任すらとらぬ者の多い世の中──そして、こんな無責任な世の中に苛立つ人間の一人として、このウェルトという男の存在は、どれだけ痛快な事であろうか?
だから、任せられるのだ。
『逃亡』という選択肢を自ら進んで捨てるような、極めて青臭い人間だからこそ。
──自分の背中を。
脆弱な、自分の背中を。
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C84発表のオリジナルファンタジー小説「Revolter's Blood Vol'03」のうち、 第一章を全文公開いたします。 | ||
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