目を開けたら蘇生のルール
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 視界が暗い。何も見えない。当たり前だ。目を閉じているのだから。さっきまで眠っていたのだ。今、起きた、というか、意識が覚醒した直後、というのか。ベッドの心臓の辺りが暖かく、そのことを考えているだけでふたたび何もかもどうでもよくなってくる…幸せであった。これをまどろみというのだろうか。ひたすら眠るだけなら何も考えなくともよい。このまま眠ってそのまま死にたい。より温まる体制になろうと寝返りを打ったところで、掛け布団が明らかに半分ほどベッドからずり落ちているのが体感でわかるが、引き戻すのももどかしい。微かにカチャカチャという陶器を出す音やパンを焼いている香りがしてくるが、それでもまだ眠っていたかった。今、まさにねんがんの死を体験している所なのだ。目を開けたら、蘇生。おしまい。そんなことは勿体なさ過ぎる。なるべく布団に包まって何も考えないようにする。首の辺りが熱い。音ももう聞こえない。

 

「というわけで早く起きろよリフリンジ」

 知っている声が聞こえるがリフリンジは無視した。閉じた目をいっそう強く閉じる。寝ている時と焼きたてのパンを食べるくらいしか楽しみがないというのに、それをわざわざ起こしていったいどうしようというのか。

「パンはいらない?」

 声は何かおいしいことを言っているが、悪魔の取引には応じるわけに行かなかった。それが何なのかを考えようとしても、寝ている頭にはどうしても何か黒い虚無のようなものが混じる。それは死そのもの。もっと無限大に増え行くべきだ。パンはおいしいがよく考えてみれば、食べると疲れるし、あれがあるとどうにか生きなければいけない気になってしまう。パンはよくない。何もかもどうでもいい。毛布から右手を出してヒラヒラさせながらリフリンジは呻いた。この行動にはそんなもんいらないからどっか行ってという意味が込められているので恐らく伝わったであろう。そしてもう一度寝る。しかし悪魔は去らなかった。何か笑い声が聞こえ、そこにどう反応すべきか虚無に塗り潰されきった頭で考えているうちに、もう一度言葉が振ってきた。

「とにかくその旨をきっちり喋りなよ見苦しいリフリンジ、そして目を覚ますんだ」

「うるさいーーーーーーーーーーー」

 声が何かごねている。それはリフリンジの声だった。実際そんなに不機嫌なわけでもないが、声だけが勝手に不機嫌っぽくなっているのでもうどうでもいい。もっと世界中を満遍なく真っ黒に塗り潰してほしい。それは死だ。とにかく、眠りたかった。虚無一色の眠りの世界はかなりかき乱されていたが、とにかくそれをはやく元に戻しておきたかった。その為には眠るしかない。何を言われても無視して寝るのだ。

「子供じゃないんだからさ。ねえ、ほら」

 あんたも母親でもなんでもないんだから揺さ振らないで欲しい。毛布を引っ張るのも典型的過ぎてわけがわからない。真っ暗でわけがわからない。何もかもどうでもいい。眠い。

「やだーーーーーーーーやめてーーーーーーーーー」

「あーあ。起きないとこうするよ」

 トローチが突然モップを振り上げ、リフリンジの胃袋か腸の境目辺りを思い切り打ってくる。リフリンジは驚いた。今までにトローチが自分に直接…接触しないのは勿論、暴力を振るったことなどあっただろうか? 否、ない。しかし今こうして、ある。なんだか何もかもよくわからない。頭の中がまだ虚無っぽかった。寝惚けていたとも言う。どうしよう? これは何? どうすればいいの? どうして殴るの? しかも何、それ、その、モップで?

「やっと起きた。口が半開きだよ醜いリフリンジ」

「どうして殴るの」

「早く起きて着替えて身支度を整えて食事をして健全な生活を送るんだ、そうだろ」

「どうして殴ったの」

「君殴られたことないのか。そうだろうね、だから柔いんだよ、醜いリフリンジ」

 もう限界だ、殺るねッ!!! リフリンジはベッドサイドに置いてあった包丁を手に取りトローチに斬りかかった。そのきれいな顔を滅茶苦茶にしてやる! しかしそう上手くは行かなかった。トローチは半笑いで包丁を全てモップで受け流し、さらにそのモップでリフリンジの左脇腹辺りにカウンターを繰り出す。リフリンジは回避なぞ知らなかったので思い切りそれを食らってなんだかわけがわからない。しかも涙が出てきた。新年から、なに? これ。わけがわからないし、惨め過ぎる。横隔膜とこめかみの辺りに虚無が渦巻いている感じがする。

「どうして殴るの」

 勿論自分が切れたのが裏目に出て返り討ちにあっただけであって、そんなことはリフリンジ本人にも死ぬほどよくわかっているつもりなのだった。しかしいくら愚問でもちょっとばっかし口に出したいこともあるじゃん。

「元々君が僕のことを刺そうと包丁で斬りかかってきたのがよくなかった。それくらいなぜわからない。本当に脳味噌入ってるのかいリフリンジ」

 そんなのとっくにわかっているのになぜわざわざトローチに言い直されなければいけないのか。勿論自分からわざわざ愚問を口に出してしまったせいであって、そんなことはリフリンジ本人にも以下略であった。その頭の回らなさにリフリンジはうっかり死にたくなった。なぜこんなことになるのか。わけがわからない。眠りたいだけなのにどうして暴力を振るわれ愚行を繰り返し暖かいパンの匂いがしていったいどうしたいというのか。もう虚無であった。

「もう嫌、死にたい、寝る」

「そんなに死にたい死にたいばっかり言って、聞かされる方がどれだけ傷つくかわかってるのかい、愚かなリフリンジ。うん、ラスボスっぽい台詞だ。まあいい、そんなに死にたければ今までのお礼とサービスも兼ねて僕が殺してあげようじゃないか」

 トローチは笑顔でそう言い切り、傍に落ちていた包丁を拾ってリフリンジの心臓がある辺りを縦横に滅茶苦茶に刺した。リフリンジはうまく反応できなかった。一突きにしてくれればいいものを、なぜこんなむごいやり方で。わけがわからない。どうしてこんなことになるのか。しかも、なんか痛い。

「うわ…」

 リフリンジが思わず素に戻って変な声を出したがトローチは普段とあまり変わらなかった。

「あーあ、早くバカを治さないとなあ、その方法は死ぬことだけっ」

 視界が真っ暗にブラックアウトする、否、寧ろさっきからずっと視界はちらちら見えたり見えなかったりしていたのだった。もうわけがわからない。とにかくここで死んだ。それだけは確実であった。結局最期まで何もかもよくわからないままであった。うん、それ、虚無。恐ろしさが理性とかを凌駕し、とにかくリフリンジは叫ぼうとしたが、切り裂かれた肺では上手く叫べず失敗してわけのわからないことになった。

「うわああああああああああ、ああ、あ」

 

「わ…」

 わ。そこまで現実に口に出して、リフリンジはやっと目を覚ました。思い切りうつ伏せで寝ていたようで、右肘が肋骨の下に入っておりなんだか痛かった。気管の辺りが若干苦しく、それはうつ伏せの体勢のせいと、おそらくは先程までの嫌な夢のせいだった。夢だった。嫌な夢だ。怖かった。でも、とにかく、夢でよかった。もう一度眠ろうかとも思ったが、恐ろしい夢を見たし、そのせいか頭がすっきりしているのもあって、気が進まなかった。体を起こしてみると、やはり右腕が痛い。しかしなぜこんな妙な体勢で寝ていたのか。意味がわからない。

 

 下りていくと、もう昼前だった。トローチがテーブルに着いて優雅に紅茶を飲んでいるのもわりかし慣れたようなそうでもないような光景だ。

「あけましておはようリフリンジ、早かったね」

「…………」

 リフリンジはもしかしてまだ自分が起きていなくて、このSSの締めもあの惨劇が繰り返されるオチなのではないかと疑っていたが、トローチはいつも通り普通の失礼さだった。少し安心したリフリンジがうっかり初夢の悪夢のことを漏らすと、トローチはしばらく笑っていて、その笑い方がいつも落ち着いた彼には珍しく爆笑と言っていいにぎやかなものだったので、リフリンジはコップを投げつけたが、案の定トローチには当たらなかった。

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