S×S-02 |
「あの人が、匂坂さんの……。沙耶さん、って言ったっけ……」
春の柔らかい陽射しが射し込むカフェラウンジにて津久葉瑶はコーヒーに溶け込むミルクをぼんやりと眺めていた。しかし、目に捉えるものは全て意味なく、取り留めなく去来するは先の大教室でブチ撒けられた匂坂郁紀ロリコン疑惑のことだった。講義直後ということもあって、あのフロアに留まっていた学生はかなり多い。あの手のスキャンダラスな話題は、遠からずして学内に広まるだろう。大学が高校までとは違って学部内の隔たりが大きく、同じ学部内といえどもグループ以外の友人関係は往々にして表面上のことだけ、といっても、ニュース性は高いはず。そして、色々な意味合いで自分の胸の裡も占拠された。
ドキドキしていた。温かいコーヒーを口に含ませても、胸の鼓動は引いていかない。
脳神経医学というまだまだ未知の分野でトップクラスの学識を誇り、最先端の研究ラボを有するT大に所属する丹保涼子。彼女は一限を担当する佐々木教授の教え子であるらしく、教授は本当に教え子を扱き使うのがお上手なので皆さんも気をつけてください、と冗談まじりに挨拶し、依頼されたという特別講義を行った。彼女が語る細胞生物学や脳神経医学、一転して哲学的な見地から生起する示唆に富む語り。どれもこれもがとても魅力的で、瑶は大学に入ってから一番、といっていいほど真剣に耳を傾け、提示される情報や思考法などを心に刻んで吟味した。難解な内容だったし、朝一番の講義だったこともあって、疲労は大いに溜まったけれど、それにも増して充実感が体を包んでいた。講義が終了しても興奮が冷めやらず、涼子を注視していた瑶の視界には、歩み寄り談笑し始める郁紀と梳っただけの長い髪をぴょこぴょこと跳ねさせ、春先だというのに薄手のワンピースで幼い体を包んだ少女を捉えていた。
少女は大学の休みが開ける前に、郁紀に紹介された。瞬間、自分の恋が終着したことを知った。泣かず、二人を祝福できるくらいには自分が保てていたことに驚き、その後、親友である高畠青海との対話の中で涙腺が壊れたように溢れ出る水滴が、郁紀を好きだったことは嘘じゃなかった、と教えてくれた。
そんな鬱々とした終末を経た長期休暇が明けて、最初の講義だった。単純にも感化されて勉学に励もうかなとも思った。それなのに、幸せそうな二人を見てしまった。自分が他者を妬みやすい俗物であることなどとうの昔に受け入れてしまったので、胸の裡にわだかまるものが発生しようとも驚きはしない。寧ろ驚いたのは、
「ロリコン、だったんだ……」
そう匂坂郁紀がロリコンであり、あんなに幼い女の子を夜な夜なベッドに引きづりこんでアンナコトやコンナコトをしている、そのことだった。
瑶は、独りでに想像して赤くなり、気恥ずかしさを飲み込むように残りのコーヒーを口に入れ、
「津久葉瑶さん、でいいのかしら」
思わず、吐きそうになった。しかし、寸でのところで堪えきる。
「ケホッ、ケホ、ケ、ホッ」
「あら、御免なさい、驚かせてしまったかしら」
言っていることはともかく、口調も態度も全く御免なさいなところは絶無な涼子がそこにいた。
「……丹保先生、どうしてここに……。お寿司を食べにいったんじゃ……」
涼子はあら、という表情を見せて、
「今は二限が始まったばかりよ。彼らはこのコマも講義を受けているわ」
「そうですね……」
語尾に行くほど力がなくなる物言い。彼女独自の思考回路にてピンとキたのか涼子は、
「ひょっとして、サボり?」
級友の悪事を見咎めた底意地の悪い小学生みたいな笑みを浮かべる。
瑶は少し驚いた顔をして、
「ええ、学期始めからいけないとは思ったんですけど、ちょっと気になることがあって」
「匂坂郁紀と沙耶、この二人ね。あなたの懸案は」
瑶は大きく目を見開き、食い入るように涼子を見つめた。どうしてそのことを、と唇を動かすも、声はでない。
「そんなに驚かなくてもいいと思うんだけど……。まあ、色々な噂を聞くことがある、それだけのことよ」
「……はい」
涼子は漸く運ばれてきたコーヒーをブラックのまま口にし、90分間の講義で振るった舌を癒す。
その姿は優雅で大人びており、不用意にも自分と比較してしまった瑶をさらに落ち込ませることとなった。
「丹保先生、…男の人は小ぶりで幼い胸が好みなのでしょうか」
先の瑶同様、涼子の内心も大いに動揺した。確かに、乳房だの膣だの剛直だのと卑猥な言葉を乱発し、大学当局から注意されそうになって行方をくらまそうとラウンジに逃げ込んだ涼子であったが、いきなり小さいおっぱい夢いっぱい? などと人生相談されるとは思ってもみなかった。しかし、抜群の演技で切り抜け、内心の動揺など露ほども感じられない。
「そうだね、やはり各人の趣味にもよるが、日本人の初物大好きな民族気風に、少女を自分の意のままにできるという征服欲、端的に言うとこの辺りが男をロリコンに走らせる因子の一つとして考えられるようだね。―――匂坂郁紀のように」
「で、でも、私も、キ、キスをしたこともないし、当然、まだ、です」
じろり、そう擬音がなりそうな視線で瑶を見る。沙耶のように虚乳でなく、巨乳と明記可能なほどのボリューム。座っている為に他の部位をみることはできないが、当然、それらも発達していることだろう。つまり、
「世の男どもはどう思うかねえ。それだけ胸がデカいんだ。揉みしだかれ、吸われ、寄せられ、挟み使用済み、そう思われても不思議じゃあないだろうねえ」
「そ、そんな、そんなことありませんっ」
瑶は思わず立ち上がって叫んだ。周囲の視線を集めてしまったことからなのか、それとも憤慨しているからなのか、顔が赤い。
「まあまあ、あなたを疑っているとかそういうんじゃなくて、世の男どもがどう見てるかは分からないよ、というだけの話よ。ほら、立ってないで座りなさい」
「す、すみません」
「でも、まあ匂坂くんはもう無理だろうね。ロリコンがどうの、ってレベルじゃなく、沙耶そのものにどっぷり浸かっちゃってるよ、あれは」
「――――――」
瑶は無言で涼子を見た。
「私の大立ち回りもそういった警告部分が少なからずあってね、あの沙耶って女の子は外見こそ幼いけど、房術は歴戦の古強者だと考えていい。ま、これはただのオンナの勘ってやつなんだけどね」
「もう、どうにもなりませんか」
「匂坂くんを、かい?」
「はい」
瑶は力強く頷いた。
涼子は足を組み直して、
「彼のことが好きかい」
「はい」
「本当に?」
目を細めて尋ねる。その真剣さに気圧されることなく、瑶は頷いた。
「ふー、あることは、あるんだけどねえ」
軽薄に笑い、ちらっと流し目を送る。瑶の言葉を待つかのように。
「大丈夫です。何でもしますから」
「彼に対して身を張る、つまり、かなり恥ずかしい真似をすることになるよ」
「大丈夫です。何でもしますから」
自分に言い聞かせるように、繰り返す瑶であった。
艱難辛苦の寿司地獄が終わり、大学に戻って四限を受けて、ようやっと家路に就こうとした郁紀と沙耶に、瑶は何気ない振りをして話し掛けた。
「お久しぶりです、匂坂さん、それに、……沙耶ちゃん、でいいかしら」
唐突に登場した瑶に呆然とする郁紀をよそに沙耶が反応する。
「一応、私も大学に通う年齢なんだし、ちゃんはやめてくれないかな」
「あ、そうだったよね。でも、そんな風には見えないよね、何歳なの?」
「18歳」
「そうなんだ、でも、ほんとそうは見えないよね。もっと若く見えるわ」
いけない、と思いながらも冷ややかな空気を作り出してしまったと瑶は反省する。しかし、あからさまに不機嫌な態度で反応する沙耶を見るにつけては、自制などできる筈もない。
「ありがと。郁紀はロリコンらしいから沙耶は嬉しいんだ。えへへ」
そういって、沙耶は郁紀に抱きつく。少女特有の愛らしさを纏って。しかし、瑶に向ける視線だけは艶然としたオンナを感じさせるものであった。
理性が軋む音がした。オーケー、そっちがその気なら容赦はしない。沙耶が虚乳に訴えるなら、自分もまた巨乳に訴えよう。
場を収めようと苦心する郁紀をよそに、女の戦いが、幕を開けた。
事情を知らない者が端から見れば、随分と羨ましい光景である。片や人目引く胸をさらに強調した白いドレスに身を包む美女、片や幼くはあるが、整った顔立ちやスタイルを黒いドレスにてより完璧なる領域へ昇華させた美少女。その二人を引き連れた郁紀は、ハイソエティな香り漂う空間、即ち、クリスタルタワーの36階に出店しているイタリア料理店へと訪れていた。
その店先で。
「しかし、本当に、先生が?」
「ええ、昼はムリヤリ奢らせてしまったから、そのお詫びとお礼にって」
郁紀は信じられない、という表情を浮かべ、沙耶は子どものようにはしゃいでいる。
「それって、あの、その、む、無理矢理、ですか?」
「何を言ってるのよ、あなたみたいなキレイな女性とセックスできて嫌に思う男なんかいないわ。合意なんて後づけで十分。それよりも間違えないでよ、これが匂坂くん用の薬、こちらが沙耶用の薬。沙耶の方はただの睡眠薬だけど、匂坂くんの方はちょっと特殊な薬だからキチンと彼に飲ませなさいよ。まあ、少々効果のある媚薬、とでも思っておけばいいわ。あなたはその巨乳で彼を悦楽へと導くことだけを考えればいいのよ。それから、イタリア料理店で落とせなかったらその下の階にはバーも入っているから、そこで何とかなさい。そのあとは手筈通りに31階のスイートルームでNTRよ。お金? 大丈夫、私から出るわけじゃないから、好きに飲み食いしてくれて構わないわよ。匂坂くんには私からのお詫びかお礼とでも言えば誤魔化せるでしょう、恐らく」
問題は薬をどのタイミングで忍ばせるか、それに尽きた。まさか疑われてはいないだろうが、二人の視線はあるし、テーブルはやけに大きいし、席は離れているし、料理や飲み物を運ぶのはウエイターの仕事だし、チャンスは中々訪れない。無難な会話に、料理を誉める声、それらが偶に行き交うだけだ。
時間が刻一刻と過ぎる。料理はコースで予約されていた為に、初めての瑶には今がどの段階かは良く分からなかったが、セコンドピアットなどと言われたこの皿の雰囲気からしてメインのように思えてならない。食しているのは本格イタリア料理だというのに、瑶は味も分からず、ただ機械的に口に運ぶだけである。結局、チャンスは訪れず、そのままずるずるとデザートまで食してしまい、瑶は自分の不甲斐なさに落胆のため息を漏らした。
そんな時である。
「えへへ、トイレにいってくるね」
沙耶が席を立った。黒いドレスをふりふり可愛らしく歩いてゆく。遅いよ、と瑶は思った。もう、食事は済んでしまった。かくなる上はバーでなんとかするしかないな、そう思った瞬間、
「ディジェスティヴォでございます」
ウエイターがグラスをそれぞれ配置し、濃い紫色の液体を注いでいく。どうやら食後酒、らしい。瑶の目に野心的な色が浮かんだ。辺りを見回す。まだ、沙耶が帰ってくる気配はない。
やるなら今しかない。覚悟を決める。
ウエイターが離れた。言うまでもなく郁紀は沙耶が戻ってくるのを待っているようで、先に手をつけようとはしない。
絶好の機会だ。今、薬を混ぜることができれば、それは、その直後に胃の腑へと落とし込めるであろう。何とか郁紀の注意をそらして、グラスへ薬を注ぎ込め。ほら、早く、これ以上引き伸ばせばあの忌々しい少女が戻ってくる。そうなれば全ては水泡に帰す。今だ、夜景が綺麗だとか何とか言って郁紀の注意を、
「あ、ああの、あああ、の」
細く小さな、誰にも聞こえることのなかった声が瑶の口から漏れた。郁紀は当然のように反応しない。それを見て、また、決して郁紀の注意を逸らすなどできないであろう自分に、暗澹たる気持ちになった。
泣きそうだった。自分は肝心なところでいつもこれだ。なんて臆病なのか。郁紀のことも、沙耶が現れる前にもっと積極的にアピールしておけば、こんな汚い真似をしなくても彼と恋仲になれたのではないのか。いや、しかし、自分の内面はこうも汚く醜い。こんな女なんて、何がどうであれ、結局、彼は応じなかっただろう。もう、どうでも―――――、
「津久葉さんっ」
郁紀の鋭い声に瑶は思わず顔を上げた。郁紀は瑶の少し前の辺りに目をやっていた。釣られて見る。そこには、傾きかけたグラスがあった。反射的に手を伸ばすが、遅い。グラスが床にまで落ちなかったが不幸中の幸い。しかし、内容物まではそうはいかず、テーブルから床へと滴り落ちていた。
「ご、御免なさい」
郁紀は大丈夫、と笑みを浮かべて、手持ちのハンカチでテーブルを吹き始めた。
そして、しゃがんだ。床を拭く為に。
テーブルの上へと注がれる視線は、瑶だけとなった。
本能的な所作だった。
無が支配していた、といっていい。
全ては、濃い紫色が覆い隠した。
瑶は一瞬だけ、悪魔のような笑みを浮かべた。
その後は実に予定通りだった。郁紀は次第に落ち着かなくなり、沙耶は眠いと言い出した。そこへ部屋を取ってあるとの瑶の一言。部屋は二つとってあるので、郁紀と沙耶は一方で自分はもう一方で寝ればいいとの甘言の前に、二人は一も二もなくあっさりと承諾した。前後不覚な二人は手渡された鍵が瑶の部屋番号になっていることも気づかなかった。
二人と別れた瑶は、自分に割り当てた部屋で興奮に打ち震えていた。節々が軽い熱を帯びる。それはそう、小さいころ、かくれんぼで、隠れて鬼の動向を窺うような、そんな昂揚感だった。
5分くらいが経ち、そろそろ、と郁紀、沙耶ペアの部屋へと向かう。
鍵を持つ手が一層震える。胸の鼓動も直に食い込んでくるように大きい。知らず知らずの内に肩で息をしていた。震える右手を左手で押さえ込み、穴に鍵を差し入れる。喉が鳴る。ゆっくりと回す。ガチャリ、と音がした。
部屋は自室と同じ造りで、入って直ぐに視界が開けた。二人の居場所を確認しようと入り口から動かず視線だけを彷徨わせる。郁紀はすぐに見つかった。ベッドにうつ伏せで倒れている。しかし、
沙耶が見当たらない。
もう一度、視線だけを動かす。やはり、いない。浮かれていた気持ちの半分は暗黒色に塗りつぶされた。急に膝の力が抜けてドアに凭れかかる。いやいやと首を振る。それでも、前へと進んで、沙耶の現在状況を確保しなければならない。それは自分の平安と直結する事柄だ。今度こそ逃げるわけにはいかない。
ゆっくりと、足音を立てず、一歩を踏み出す。
部屋は面積が大きい代わりに、付属のバス、洗面所、トイレを除いてほぼワンフロアだ。要するにこの三つか、もしくは、ベッドの裏側、それが残された死角となる。その中で優先して確保しなければならないのが、ベッドの裏側だ。ここは他の三方からも死角となるため、ここさえ確保してしまえば、これを拠点とすることで自分の安全は保障される。
瑶は祈るようにベッドの裏側を覗き込んだ。
空、だった。
欲を言えば、ここで寝ていてくれた方が良かったが、取りあえず、当面の安全は保障された、と身を隠して息をついた。
「なーにしているの」
瑶は動けなかった。恐怖に震えて、ではない。見えざる何かに強制的に体を押さえ込まれているかのように動けないのだ。いや、その両者に境界などあるのだろうか。当の瑶にはそんなことは関係なく、自分は動けずに、背後には沙耶がいる、その事実だけが全てであり、絶対的な恐怖だった。しかし、疑問が残る。何故。睡眠薬を飲んだではないか。眠いと言っていたではないか。
「勿論、見てたからだよ。トイレっていうのは嘘。瑶、何かしそうだったし、それなら誘い出したほうが監視するのも楽だしね郁紀が寝ているのは私とキスしたから。その時に流し込んだの。ワインと一緒に睡眠薬を」
瑶の心を読んだように、沙耶は言った。そして、瑶は慄然と震えた。
「私のこと怖い? でも、安心して。郁紀に手を出そうとしたのは憎いけど、今の私には皆で仲良くっていうリミットが存在するから、瑶が郁紀に抱かれたい、っていうのならそれを排除することはできない。皆で仲良くを遵守して3Pっていう程度かな。ま、私も我慢するから瑶も我慢して、としか言えないよ」
さっきまでの金縛りが嘘のように瑶は振り返った。そこにはバツの悪そうな沙耶がいた。
「胸、おっきいね」
と沙耶。
「胸、ちっさいね」
と瑶。
そして、二人は郁紀へと向き直り、
「この幸せ者」
キョ乳同盟成立の日、だった。
翌日、痛む節々の違和感で目覚めた郁紀は、傍らに裸の沙耶が寝ていることはともかく、瑶までもが裸で寝ていたことに心底度肝を抜かれて、進退窮まり、どうしようかと激しく悩んで、逃げようかとも思ったが、腹を括った。
「土下座で済めば、いいなあ」
「あはははははははっ、あはは、あははははははっはっは」
盗聴器で始終聴き通しだった涼子は最後の郁紀の科白で凄まじい哄笑を上げた。所々で大笑いしていたが、それにも増しての爆笑であった。
「しかし、やるねえ、人外ロリ」
息も絶え絶え、そう口にする丹保涼子は、玩具を買ってもらった幼児のようにどこまでも嬉しそうであった。
<了>
説明 | ||
沙耶の唄のSS第二弾。今度の涼子先生は裏で大活躍です。 | ||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
2166 | 2018 | 2 |
タグ | ||
沙耶の唄 匂坂郁紀 沙耶 丹保凉子 津久葉瑤 | ||
新屋敷さんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |