恋姫無双SS『単福の乱』 第一回(旧)
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プロローグ ―― 敗 北

 

 

 

 

 叩きつけるような雨が降っていた。跳ね上がった飛沫が霧のように立ちこめる。

「くそっ この雨――!」

 少年は天をにらんで悪態をついた。

 突然の豪雨だった。さっきまで星が見えていたはずなのに、今は2メートル先すら見えやしない。

「まずいな。………ええい。ちくしょう」

 荷物の中から油引きの上衣を引きずりだしつつ、伝令の一人を輜重隊へ走らせる。

「ありったけの雨具を配ってくれ! それから多少陣形が崩れても雨宿りをするよう隊長たちに! ――判断は現場に任せるって」

 啄県守備隊といえば、聞こえは勇ましいが所詮、民兵組織の自警団である。軍隊兵隊としての完成度はまだまだ低い。そうでなくても消耗戦じみたここ数日の戦いで、みんな疲れ切っている。こんな時に雨ざらしになっていたら大変だ。戦意喪失ならまだいい方で、最悪、病人続出なんてことも考えられる………と、そんなロクでもない想像ばかりを脳裏に浮かべていたその時――

「お兄ちゃんっ!」とせっぱ詰まった呼びかけがあった。

 声に振り返ると、巨大な蛇矛を担いだ小さな戦装束があった。後衛部隊の指揮に当たっていたはずの鈴々――しかし、何故か中軍の殿の位置まで下がってきている。

「何かおかしいっ! 後ろの森が燃えてるっ!」

「なんだと!」

 叫び返しながら彼は薄ら寒いものを感じていた。

 たしかに、鈴々が指し示す方向には朱色に染まっている。

 あまりに悪いタイミングだ――まさか。

「………冗談だろ」

 まさか――敵の火計。

 脳裏に浮かんだ想像を否定する暇もなかった。朱に染まった森から兵士が逃げ散ってくる。悲鳴のような喧噪と怒号が辺りを支配する。もはや秩序も何もない。兵たちは少年や鈴々がそこに居ることにも気づかないようすで、我先にと走っていく。

 そのどの顔に決死の焦燥があった。刃降る暗闇の中を定かならぬ命めがけて奔る表情(かお)。恐怖に急き立てられ立ちふさがる者は味方であっても襲いかかりそうなそれは、自壊した軍隊のなれの果てだった。

「ご主人様ーっ」

 馬蹄の轟きとともに、ずぶ濡れの騎馬が急停止し。聞き慣れた少女の声が降ってきた。

「夜襲です! 後方へお下がりください! このままでは」

 さすがに焦りを含むその声を途中で遮って、少年――啄県県令・北郷一刀は、叫び返した。

「愛紗、退却だ――兵を指揮して県城目指して落ち延びろ!」

「退却」の言葉に黒髪の少女――愛紗の顔が歪む。しかし無理に踏みとどまり守備隊の兵士を失うわけにはいかない。戦については素人以下の一刀にもわかる。この状態は暴動と大差ない。深夜の壊乱から立ち直れるようなスキルは、にわか軍隊の啄県守備隊(おれたち)にはないのだ、と。

「無念です……」と心底悔しそうに愛紗が言った。だが守備隊の未熟と限界は訓練を担当した彼女が誰より知っている。

「――無念結構。残念上等。生きてさえいれば、やり直せる」

 そんな言葉で愛紗の無念がいささかでも癒されたとは思わないが、その時の一刀には他にできることもなかった。

「むううううっ。悔しいのだ――鈴々、まだ戦えるのだ!」

 押し寄せる敵兵を睨みつけながら、鈴々が叫ぶ――確かに愛紗や鈴々にはまだ余力がある。でも、兵士の心が折れている。関羽に張飛――一騎当千の武将を擁する啄県守備隊は指揮官クラスの人材なら三国志屈指だ。しかし戦争は将軍だけじゃ戦えない。逆に言えば、啄県守備隊の最大の弱点は未成熟な軍隊未満の民兵組織だったこと。炎。夜襲。それにこの突然の『雨』。人の本能的な恐怖を呼び起こす要因をここまで揃えられたら、経験の浅い素人兵が壊乱状態に陥っても無理はない。

 敵の指揮官は二人の将軍を徹底的に無視した。一騎打ちに応じず、攻めかかれば退き、歩兵主体の鍔迫り合いを長引かせて、兵の損耗を強いた――骨を断たせて魂を抉るかのように徹底して弱い「心」を攻めてきた。

 そうと知ってからも現状を打開する術はなかった。敵の陣形は八門金鎖。旗と柵を操るこの複雑な陣形を敵は自在に操って、こちらの攻撃を防戦きった。これに対して啄県守備隊は定石どおりの「車掛かり」で攻めかかった。が、七日間にわたって猛攻を繰り返しながらついに突き崩せなかった。

 そして疲労困憊のこの時期に、狙いすましたような夜襲――これは並の相手じゃない。弄ばれたのだ。最早退却なんて烏滸(おこ)がましい。ひたすら逃げの一手だ。少しでも早く、一人でも多く、味方を啄県に届ける。それが街の人たちに戦う事を決断させた自分たちの責任だ。

「俺と鈴々が残る――愛紗が兵を先導してくれ!」

「そんなこと出来ません!――あなたを置いて逃げるなんて!」

 彼女にとっては絶対許せないことだったのだろう。返事は悲痛ですらあった。しかし一刀は生まれて初めて女の子を怒鳴りつけた。

「俺が逃げたら、まだ戦意が残っている奴も挫けるだろうがっ!」

 彼は彼なりに、自分自身の立ち位置を理解している。

 北郷一刀は元居た世界で「剣道」をやっていた。この乱世にあって、競技用に特化した現代剣道の技術はほとんど役に立たなかったが、それでもわかっていることがある。

 剣道の試合だろうが、現実の戦争だろうが、大将がどっしりと構えてこそ勝負になる。大将個人が一番強いか弱いかは関係なく、それ以前に大将は絶対動揺してはいけない。でないと先に戦うヤツの腰が据わらない。逃げる事にも護る事にも戦意は必要だ。心が折れたら逃げることすら出来なくなる。だから自分が残る。たとえ名前だけであろうとも、自分がこの軍の「大将」なんだから。

 否。名前だけだからこそ、そして今こそ、自分が踏みとどまって戦わねばならない。

 それに相手は全てを理詰めで謀るような敵だ。

 伏兵があって当然。戦うか突き抜けるか、攻めるか留まるか。その判断は鈴々にはまだ無理――いや啄県守備隊の指揮官では愛紗にしか出来ない!

「一人でも多く、啄県に連れて帰るためだ! わかるだろ!」

 一刀にわかるくらいである。そんな理屈、乱世を旅してきた愛紗がわからないはずはない。

 そう思いながら、一刀は頭蓋が白熱するような憤りを感じていた。誰でもない。それは自分自身に対する怒りだった。

 自分が一人で逃げ道を探せる指揮官なら愛紗が残るだろう。一人で引き際を計れる武将なら愛紗だって迷わない。だけど……自分が『天の御遣い』なんていう名前だけの役立たずだから、難しい仕事を全部愛紗に押しつけることになる――でも。

 ここにいる誰もが現状を理解している――今はこの方法しかないのだ、と。

「………頼むよ。愛紗」 

 一刀がそういうと、ややあって、

 ぎりっ!

 周囲の喧噪にも関わらず、耳に聞こえるほどの歯ぎしりが聞こえた。

 それでわかる。愛紗の心痛を。自分こそが残りたいだろうに、啄県守備隊の事情がそれを許さない。でも、そこで目の前の屈辱に固執せず大局から判断を下せる彼女だからこそ……

「……ご命令に、従います」

 絞り出すような苦吟が聞こえた。

「すまん――俺は愛紗に貧乏くじを引かせてばかりだ」

 そういって、一刀は馬上の愛紗に笑いかける。

 ねぎらいの言葉なんて、今かけるもんじゃない。と一刀は思った。そして、それでも言わずにいられない自分の未熟が歯がゆかった。

 だから、手を伸ばした。馬上で深く頭を垂れて俯いている愛紗のほほに指先を当てる。

 気がついて、愛紗はわずかに顔を上げた。

 これほど勇敢な女の子が、ほんとうに、泣きそうな顔をしている。

「ごめんな――愛紗、啄県で会おう!」

 それは果たして何に対しての詫びの言葉だったか。

 愛紗は幽かに息を飲み――まるで自分自身を納得させるかのように大きく頷いた。

「御意! 御武運をお祈りします――鈴々っ!」

 再び頭を上げた時、愛紗はすでにいつも自分を取り戻していた。大きく手綱を繰って、馬頭を逆しまに向ける。もはや振り返らず、義姉妹の契りを結んだ戦友に向かって怒鳴るように言った。

「ご主人様を頼むぞっ! きっと守り通してくれ!」

「がってん! お兄ちゃんは、鈴々に任せるのだっ!」

 一刀もまた背中を向けたまま剣を引き抜いた。鈴々も蛇矛を掲げる――二人は遠ざかる蹄の音を一度も振り返らなかった。

 信じているから、振り返る必要などなかった。

 目前の燃え上がる炎の中から鬨の声が聞こえた。

「――――」

 一刀は深呼吸を繰り返して、剣道の試合を思い出す。下っ腹に力を入れて両足を踏ん張った。

「――よし」

 一息吐いて、ようやく腰が据わった。

 自分はこの世界に来て「関羽」と「張飛」に出会ったが、まだ「劉備」に出会っていない。どうやらその役割は俺が担うものらしい。

「だったら……」

 しぶとく粘ってやろう。幾度も敗れて逃げて死にかけて、それでも諦めず最後には皇帝に上り詰めた劉備のように。せめて、そのくらいは頑張ろう。見ず知らずの世界に放り出された自分を助けて、信じてくれた女の子を逃がす間くらいは運命に抗ってみせる。出来なくてどうする? 命を張れなくてどうするのだ! もともと愛紗と鈴々に救われた命じゃないか!

 絶体絶命?――それがどうした! 

 今こそ意地を張る。ここで命を賭ける。せいぜい見栄を張ってやればいい。どうせ他にやることもない。

「うおおおおおおおおっ!」

 轟く馬蹄音をかき消そうと、北郷一刀は雄叫びを上げる。命を燃やせと己を鼓舞する。

 必ず帰る。啄県へ――俺たちの町へ。

「いくぞ! 鈴々!」

「応なのだ! お兄ちゃん!」

 

 

 

 

 

 

 

恋姫無双SS

 

 

 

 

 

『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』

 

 

 

 

 

 

第一回 朝霧の出会い

 

 

 

 

 雨は一晩降って上がった。土砂降りの雨は敵の放った火を短時間で消し止めた。

 まるで山火事を防ぐ役割を定められていたかのように。

「……そんなわけ、ないか」

 くすぶる山肌を見上げて、一刀はぼそりと呟いた。

 黄巾残党の追撃は激しくあったものの組織だったものではなかった。雨が止む頃には一時の狂奔から醒めたように来た道を引き返し、大規模な伏兵もなかったようで今は戦の気配も遠い。

「…………」

 雨が止み、周囲から敵兵の気配が消えたのを待って、一刀は木の「うろ」から這い出た。

 空を見上げると、東の空が幽かに明るい――一刀は辺りの気配を探りながら、山道を上に向かって歩き始めた。特に宛てがあったわけではない。「山で迷ったら上に登れ」という格言に従っただけだ。

 鈴々は一刀の背中で寝息を立てている。周囲を庇いながら戦って戦って、追っ手を振り切った途端に崩れるように眠ってしまった。

「…………」

 自分の無力が情けなかった。愛紗に責任を押しつけ、鈴々に頼り切りで、こうして背負って逃げることしか出来なかった。

 一刀は、目立つもの――ポリエステル製の白い制服や鈴々の蛇矛は石窟に隠し、かわりに死体から外套をはぎ取った。靴だけはスニーカーだがこれは慣れない靴を履いたら途中で動けなくなりそうだったからだ。どちらにせよ。一晩雨に打たれた体は冷え切っていた。せめて鈴々だけでも服を乾かしてやりたくて木のうろで雨宿りをしたが、湿気った服を乾かすために火をおこすことも出来なかった。

「……」

 幸い、はぎ取った外套がきちんと防水機能を持っていた。一刀も鈴々もおかげで意外に濡れずにすんだ。

 驚いたことに黄巾の残党は編み笠や油引きの外套など雨避けの装具を身につけていた。あのいきなりの雨を予想していたとしか思えない。――果たして、そんなことが可能だろうか? 

「――そんな、馬鹿な。諸葛孔明じゃあるまいし」

 一刀は誰に聞かせるともなく呟いた。

 三国志演義に登場する軍師「諸葛孔明」は天文の動きから霧の発生や東南の風を予測し、味方を勝利に導いた。一刀の行く道が三国志のストーリーを辿るなら、いつか孔明に出会うかもしれない。

 しかし、たしか諸葛孔明が劉備に「三顧の礼」で迎えられるのは、黄巾の乱も、虎牢関の戦いも、官渡の戦いも終わった後――赤壁の戦いの前、荊州の劉表のところへ身を寄せていた頃……だったと思う。とにかく今は関係ない。しかし、関係ないはずなのに――一刀の脳裏に何かがひっかかった。

「あれ?」

 八門金鎖の陣を使いこなして車掛かりの陣を食い止めたり、雨を予測して火攻めや夜襲を仕掛けたりなんて事は今までの黄巾党では出来なかったことだ。愛紗だって鈴々だって手を抜いた訳じゃない。それなのに、今回に限って全ての計算で上を行かれたのだ。

 なぜこんな事が急に起こったのだろうか? 

「これ……たしか」

 こんな展開を三国志の小説で見た覚えがある。どこかは確かに思い出せないけれど。

 くそ――思い出せない。

 頭の中に霞がかかってきたようだ……てか、なんでこんな時にこんな関係ないことばかり……

「あれ?」

 足元がぐらつく――そういえば、見張りと移動で、一睡もせず……に。

「じょ、冗談じゃない」

 自分だけなら兎も角、鈴々も一緒なんだ。ここで一刀が……どうにかなるわけには。

 必死に踏みとどまり、頭を振るが――糸が切れた操り人形みたいに体の自由が効かない。

「くそお……」

 愛紗に啄県で会おうと約束したのに……鈴々を、愛紗に会わせないまま、倒れるわけには。

「り……り、んりんをあ、いしゃに」

 せめて――せめて鈴々を、鈴々だけでも……なのに……目眩が酷い。――鳥の声が遠い。

「……? 誰かいるのですか?」

 突然、声が聞こえた。

子供のものらしい軽い足音が飛び跳ねるような感じで二つ三つ、その後、少し慎重な足音とともに、その声がする。

「美芳(みんふぁん)! 淑玲(すうりん)! ――待ちなさい。そんなに急いでは転びますよ」

 声は誰かを呼んでいた。穏やかな口調。

 一刀の霞かかった意識にそれは心地よく響き渡る。

 透き通った、耳に心地よい声だった。歌とかそんなんじゃなくて、話す声でもなくて……ああ、そうだ。聖フランチェスカの剣道部にこんな感じの先輩がいたっけ。

 よく通るきれいな声でてきぱき指示をだしていた先輩。

 代々道場を営む家に生まれ、地元では敵もいなかった一刀はフランチェスカの剣道部を多少なめても居た。彼のそんなプライドを初対面で粉々に打ち砕いたのが、その「先輩」だったのだ。当時の女子剣道部の主将。実戦も強かったけど型も上手でほれぼれするくらい綺麗で。凄く強いのに初心者や一年生に優しくて。そのくせ稽古は鬼のようで。頑張ると褒めてくれて。互角稽古で一本取れたら、たとえそれがまぐれでも、まるで自分の事のように喜んでくれた。

「………あ、あ」

 全然歯が立たなくて、せめて一本とりたくて、必死に食らいついても追いつけなくて――それほど、その女性(ひと)は、強くて、それでいて優しかった。

 入学したばかりの一刀はその先輩に憧れて……まともに稽古つけてもらったことなんて数えるほどしか無かったけれど。でも先輩の顔を見られるだけで、部活に行くのが楽しかった……

「どうしたの?――貴方、しっかりなさい! 気をしっかり持って!」

 膝が落ちた。ゆっくり前に倒れ込む。「背中に倒れなくてよかった」と思いながら、一刀は顔面に来るであろう衝撃を覚悟し――

「――子供?……それになんて熱……」

柔らかい感触に受け止められた。

「あ……れ?」 

 なんだか良いにおいがした……柔らかくて、あったかい。

「何処から歩いてきたのかしら……こんなに疲れ切って。可哀相に…」

 やさしく何か柔らかいものが額にふれる。その後、ゆっくりと頭を撫でてくれた。その感触の甘さに、最後の意識が挫ける――手のひらから水が零れるように、最後の気力が霧散した。

 くそ。だめだ。なさけない、な。――主将……すんません。俺、ちょっと限界みたい……で、す。

「大丈夫――もう大丈夫だから」

 ひっきりなしに聞こえていた雨音が、聞こえない。頬を撫でる乾いた布の感触に心底ほっとした。

 ――いつの間に、雨が上がっていたのだろう?

 そんなどうでも良いことを最後に、北郷一刀の意識は電源が落ちたテレビみたいに、ブラックアウトした。

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

「………ちゃん、」

 誰かの呼ぶ声で、ゆっくりと意識が浮上する。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 一刀は瞼を開いた。白い視界がゆっくり色彩を取り戻し、像を結び、梁が剥き出しになった粗末な天井が見える。

 ――ここはどこだ? 自分は……

「お兄ちゃんが起きた――先生!」

「――よかった。気がついたのね」

 ぼんやりした頭のまま、周囲を見回す。温かい部屋。火と――たくさんの人の気配。

「え……あ……りんりん」

 白く濁った意識の中から拾い出した言葉に「うんうん! よかった――よかったあ」と、元気いっぱいの返事が返ってくる。

「ああ、そうか――俺、倒れて………」

「気分はどうですか?」

 その言葉と一緒に、一刀の視界の中へ、覗き込むようにして知らない顔が入り込んでくる。

「……」

 きれいな女の人だった。いくつくらいだろうか。たぶん一刀より少し年上。

“大学生くらいかな”

なんて意味のない仮定がぼやけた脳裏に粟のように浮かんではじける。

「気分はどうですか? 痛みはありますか?」

 微かな衣擦れが耳に引っかかる。視線を動かすとようやっと、相手の姿に焦点があった。

 麻生地らしい無地の一重に黒い帯を締め、風通しの良さそうな黒い上着を羽織っている。飾り気はないけどこざっぱりして、清潔感があった。

 髪は短い。肩に届かないくらいの長さで潔く断たれた癖のある黒髪が、黒檀の細工物のように小作りな白い顔を縁取っている。

「痛むところはありませんか」

 尋ねられ、俺は呆然と彼女の顔を見上げた。瞳の色は黒。それが差し込む光の加減で碧に見えたりする。

「貴方は山道を歩いてきて、いきなり私の前で倒れたかけたんですよ」

「あ……」

 思い出した――この声は、さっきの。それをきっかけに一刀の頭の中の霧が晴れていく。

「貴方は二日二晩、ずっと眠ったままでした。よほど疲れていたんでしょうね」

 一刀は鈴々を背負って山を歩く前も不眠不休だった。

 一気に疲れが出たのかもしれない。時々目を覚ましては薬湯を飲んだらしいが、全く記憶になかった。

 一刀は一言一言に息を吸いなおしながら、押し出すように尋ねた。

「あなたが助けて……くれたんですか」

 その言葉に、黒髪の女性はゆっくりと首を振った。

「私は、貴方をここに寝かして薬湯を飲ませただけです。他にはなにもしていません」

 何もというが、それが無かったら自分は生きていなかった。鈴々だって………そうか――それで自分と鈴々は助かったのか。

「俺は――北郷」

 そう口にした時、女性の黒い瞳が「すっ」と細められた。

 どうやら近くで戦闘があったことも、どことどこが戦ったかも、わかっているらしい。

「北郷一刀といいます。啄県守備隊の生き残りです――親切には感謝しますが、このままだと貴方に迷惑がかかります」

 黄巾か啄県か、一刀にはこの人がどちら側の人間かわからない。自分に関わることでどんなトラブルが及ぶかもしれない。

 親切にしてもらった人に、これ以上、迷惑は掛けられない。

「そうですか。貴方は啄県の方でしたか」

 一つ頷いて、その女性は一刀の目をのぞき込むように、顔を近づけた。

 それが、一刀に無理に声を出させまいとする心遣いとわかっていても、一刀は微かに鼓動が早まるのを感じた。

 何故か、妙に懐かしい気がするのだ。自分の記憶にある誰の容姿とも、似通っていないのに。

 そんな一刀の動揺には全くお構いなしに、彼女はゆっくりした口調で話し始める。

「北郷さん、と、おっしゃいましたね。私は名を晶(しょう)といいます。洛陽から兵乱を避けてきた旅人で、どちらの陣営とも無関係です。また危難にある人を救うのは当然のことで、一度救ったからには誰であろうと迷惑とは思いません」

 義侠というのだろうか――外見や口調に似合わず剛毅に言い切って、さらに――

「それに、黄巾党と啄県の軍勢が戦った戦場はここから山二つ隔てた向こうで、もう黄巾党は退いています。啄県守備隊の撤退が思いのほか迅速だったので用心したのでしょう。

 ……貴方は、疲れた体で雨中の山道を歩き通して、お連れの女の子をちゃんと守り通したんですよ」

 よく、頑張りましたね。とまるで小学校の先生のような口調で最後に付け足して、彼女は一刀の頭を優しく撫でた。

「あ……」 

 そうか、それなら大丈夫だ――と、一刀は安心してため息をついた。

 その拍子に、何故か不覚にも涙が零れそうになった。不思議だ。こんなに自分が涙もろかったとは、思わなかった。それを堪えようとして、しくじった。

「おにいちゃん……どっか痛いの?」

 鈴々が顔をくしゃくしゃにして、言った。

 一刀は重い腕を何とか持ち上げて、鈴々の頭の上に置いた。撫でてやったつもりだったが泥のような睡魔が襲ってきてその記憶が定かでない。

 ただ、

「どうやら――お迎えがきたようですね」

夢うつつの中で、彼女の――晶の声がして、すぐ、ドカドカと大地を蹴る蹄の音が体の下から響いてきた。

 何の根拠もないが、一刀はその言葉が本当で、蹄の音が迎えに来た愛紗のそれだと、疑いもせず………

「疲れたのなら、お休みなさい。貴方は成すべき事をきちんとやり終えたのだから、その資格があります」

その言葉に何故かひどく安心して、再び、眠りに沈んでいった。

 今度の眠りは、温かい湯に浸かっているような穏やかで心地よいものだった。

 

 ――こうして、一刀の長い夜が終わり、彼は再び、つかの間の眠りについた。

 

 

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 夕暮れの空にわらべうたが響く………

 

 「先生不知何許人(何処の誰かは知らないけれど)

  不詳姓字(別に名乗りもしないけど)

  宅邊有五柳樹(家には五本の柳があって)

  因以爲號焉(先生は『五柳』とよばれてる)」

 

 遠くの啄県の城壁を眺めながら一刀は馬の背に身をゆだねていた。

 一刀の回復を伺いながらの帰路となったため、部隊の歩みは緩やかだった。

 

「 閑靜少言(無口で臆病引っ込み思案)

  不慕榮利(出世なんかしたくない)

  好讀書(本を読むのはスキだけど)

  不求甚解(細かい話は苦手だね)

  毎有會意(だけど夢中になる時は)

  欣然忘食(ご飯の時間も忘れちゃう)」

 

「くすっ」

 隣から小さな笑い声が聞こえてきた。一刀が見ると馬を並べていた愛紗が拳を口元に当てて笑っている。

 童歌だが、リズムが良くて韻も踏んでいる。しかも四コマ漫画みたいなオチまである。

 わかりやすい内容だから、一刀にもよくわかった。

 どうやら、とある学者先生の日常を歌っているらしいが……

 

「 性嗜酒(何はなくともお酒がほしい)

  而家貧不能恒得(とはいえ、センセは貧乏で)

  親舊知其如此(古いなじみはみんなして)

  或置酒招之(センセを呼んで飲むのだよ)

  造飮必盡(遠慮なんか当然しない)

  期在必醉(必ず決まって酔っぱらう)

  既醉而退(そしたら未練たらしく長居せず)

  曾不吝情去留(さっさと帰って寝てしまう)」

 

……なんて、文句まで聞こえてくる。牧歌的と言えば牧歌的だが、情操教育上、どうなんだろうか?という文言でもある。

 

「ぷっ……なんちゅう歌だ」

「そうですね。子供が歌うにしては、その、ちょ、ちょっと」

 

 回りを意識してか。愛紗は笑うまいと一生懸命こらえていた。

 わらべうたを歌っているのは、部隊最後尾で隊列を組む歩兵の、そのまた後ろからついてきている子供たちだ。

 一刀と鈴々を助けてくれた女性――晶は十二人の子供たちをつれていた。上は13才から下は3つ。そんな子供たちの真ん中で、晶は今もタクトのようにススキをふって、歌の調子をとっている。

 興が沸いたのか、歩兵の中には一緒に歌い出す者まで居る。さっきから同じ歌を繰り返しているので、覚えてしまった者がいるらしい。

 ちなみに、一番大きな声で歌っているのが、最年少の子供の手を引いた鈴々だったりする。

 

「みな、戦で家族を亡くした子だとか?」

「そう聞いたよ」

「そうですか……」

 

 微笑みを浮かべたまま、愛紗は目を閉じた。

 最初、愛紗は晶を露骨に警戒していた。しかし晶の連れている子供たちが戦災孤児であり、子供たちに学問を教えながら洛陽から戦を避けて旅をしてきたのだときいて、警戒を解いた。

「戦乱に虐げられる庶人を救いたい」と武器をとった彼女には、晶が子供たちにむける愛情が理解できたのだろう。

「ほんとうに……不思議な方ですね。晶老師(せんせい)は」

「うん」

 晶と子供たち(生徒たちというべきか)に同行を勧めたのも愛紗である。小さな子供もいるし、このまま旅をするのは危ないのではと思ったのだ。晶も少し考えて同意し、一緒に県城までくることになった。

 一刀もそれを聞いて安心した。自分たちのところにいれば安全――などと思い上がるつもりはないが、用心するに越したことはない。何しろ、現在啄県の近くには黄巾の残党と、正体不明の武装集団が徘徊している。

「………」

 黙り込んだ一刀をみて、愛紗も表情を改めた。

 一刀の考えを察したらしい。

「………正直、侮っていたかもしれません」

 小さく息を吐いて、愛紗が言った。

「八門金鎖は堅固な陣形ですが、それだけに複雑で速度で圧倒する攻めに弱いはず。それがよもやあれほど巧みに防御されるとは思いませんでした」

「そうだな」

 これまでの黄巾との戦いもけして楽ではなかったが、ここまで手玉にとられたことはない。

「加えて、地形や天候までも相手に有利になったとしか」

「だけど、そんなこと可能なのか」

 愛紗は首を振った。彼女にもわからないのだ。地平での戦いなら、また一騎打ちならともかく。

「あの後、斥候を放ち、情報を集めましたが、たいしたことは……あれほどの用兵をやってのけたのですから、名のある将かと思ったのですが、指揮官の名前もどうも、偽名らしく、思い当たる人物がいませんでした」

 偽名。……この誰もが名をあげようとやっきになっている乱世である。それが悪名であろうと大げさに吹聴することすらあるのに、正体不明とは。

 戦功を上げながら偽名で己の素性を隠すというのは珍しい以上に、不気味だった。

「わかっている事は黒い巾(ぬの)を頭に巻いている事と、用兵に通じた軍師であるということ、そして、噂を聞きつけた黄巾の残党が続々とその配下に加わっているということです」

 ゆゆしき事態である。これまで一刀たちは黄巾党の残党の連携を断ち補給線をつぶすことに腐心してきた。大きな集団を維持するためには補給の規模も大きくならざるをえない。拠点や補給線をつぶせば、集団は小さく分かれるようになる。そんな風にそれぞれを小さな戦力に分断して、一つずつ各個撃破していく予定だった。そしてそれは半ば成功していた。今更、求心力のあるリーダーの元に再集結されたら元の黙阿弥………いや。

 最悪、今まで戦ってきた黄巾の残党よりも、大きな武装集団に育つ可能性がある。

「次の戦いが山場になります。我々に二度の敗北は許されません」

 強い口調で愛紗が言うと、一刀もまた頷いた。

 

「 環堵蕭然(狭いあばら家すきま風)

  不蔽風日(日よけに水よけ役立たず)

  短褐穿結(短い上着は穴だらけ)

  箪瓢屡空(米櫃はいつもからっけつ)

  晏如也(それでもセンセは笑ってる)

 

  常著文章自娯(読み書きするのが大好きで)

  頗示己志(いつも未来を夢見てる)

  忘懐得失(自由気ままに毎日暮らし)

  以此自終(きっとそのまま死ぬんだよ)」

 

「………ふっ」

 一刀は頭を振って、緊張に固まった首をほぐし、わらべうたに耳を傾けた。この八句で、また最初に戻るのだ。その最初の句は………

「何処の誰かは知らないけれど……か」

 何となく、口にした言葉は、妙に口になじみがある。ふと視線を感じて横を見ると、愛紗がきょとんとした顔でみていた。

「ご主人様は、このわらべうたをごぞんじだったのですか?」

「えっと……似た歌い出しの歌を知ってるんだ」

 アレはとあるヒーロー物の歌い出しだけど、と胸の奥だけで苦笑して。

 一刀は改めて、愛紗に問いかけた。

「それで、その敵の指揮官の名前だけど?」

「はい………出身、経歴、年齢、性別、一切不明。その姿を見たものも非常に稀で、黒の巾で髪を縛っているとだけ……用兵に通じるばかりか、何かしら妖術まで使うとまで言われる鬼神のごとき人物。何の故あってか、姓もなく字も名乗らず――――ただ」

 愛紗は再び厳しい顔で、その名を告げた。

「ただ、その通り名を『単福』(ぜんふく)と」

「――えっ!」

 その名に、一刀は息をのんだ。

 確かに聞き覚えのある名前だったから。

 

 

 

 

 

 

単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話― 第一回 朝霧の出会い 完

 

 

 

 

 

 

 ―― 第二回 敵の名は単福(ぜんふく)  に、つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説明
「恋姫まつり」も終わってはや一ヶ月。「なんでまた、こんな時期に」というこれ以上ない微妙なタイミングですが、無印「恋姫無双」SSで、かつ北郷一刀がオリキャラと出会うところから始まる物語(三人称、基本一刀視点)です。
 ……紹介文書いて置きながらなんですが、需要というか、そもそも読んでやろうという方がおられるんでしょーか、コレ。
 なお、知る人ぞ知るという、通好みの人物が登場します。私はこのヒトが大好きなので「真〜」の企画を聞いたときには「キターッツ」と全裸待機していたのですが、………あまりに通好みであるが故に「真・恋姫無双」で華麗にスルーされてしまいました。同志求む。
 もー悔しくて悔しくて。その無念の一心で書いてます。
 原作外史でいえば、北郷一刀と愛沙・鈴々が出会って啄県の町作りに励んでいた頃で、黄巾党の跳梁も一息ついた時期を設定しています。朱里はまだ登場しません。
 桃香が居ない「恋姫無双」の世界では、一刀自身が「北郷軍」を率いて戦うことになります。現代人として「時代」とのギャップに苦しみながら、それでも自分なりの筋と正義を貫きながら、三国志の世界を武将の一人として生きていく辺りがキモと思いますので、ソコんところをきちんと書いてゆければと思います。

※現在コメントの会話では特にネタバレを禁止しておりませんので、普通に展開予想とか設定談義などを行っております。ネタバレがお嫌いな方はご注意くださいませ。
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コメント
>>クォーツ様 無論承知! 順番に原作ネタを消化していきますよ。とりあえず第一回では「歌いながら歩く」を消化してみましたっ! 歌の内容は真逆ですけどー(竹屋)
>>きりゅーのすけ様 ……えー、みんな彼女が彼で、一刀の味方になるのを疑ってないのですね。そうなのね。……一人くらい「何っ!ヤツが敵なのかっ まだ朱里もきてねえのに!」とか……騙されて、くれないか。やっぱり。 (竹屋)
>>ビスカス様 難しいですよね。あの辺り。彼の人間味と軍師としての限界が一緒にあふれるエピソードですなあ。(竹屋)
>>あしがけアルミハク様 目の肥えた方ばかりのようで、戦々恐々。がんばりまっす。(竹屋)
じょ、じょ、徐庶だァーッ!これで勝つる!!(きりゅーのすけ)
徐庶をだしてきましたかwww曹操にくだり母親が死んだあとどうなったのか自分はよく知らないのですが・・・どのような転回になるかとっても楽しみです♪w次回作も待っています!(ビスカス)
一か月過ぎたとしてもこのような素晴らしいSSが投稿されるので毎日チェックしている自分です。次回楽しみにしています(あしがけアルミハク)
>>シオン様 おお同志(w まったく、はわわ軍師のワンタッチスルーを見たときには脱力しましたぜ。執筆中でいらっしゃるとか、頑張ってください。完成の暁には是非私も見せて頂きたいです。 (竹屋)
八門禁鎖は元々、劉備(今作では一刀)の元で軍師となった徐庶に劉2000VS5000曹で敗れた曹仁が仕返しの為に使った陣形が八門禁鎖の陣ですしね。その時点で既にこの後の話持って行き方が限られてくるかと・・・。因みに曹仁の八門禁鎖は徐庶に見破られて居ます(クォーツ)
>>タタリ大佐様 恐縮です。というか是非出してあげてください。後、歌は東晋の陶淵明なので時代的には目一杯おかしいのですが、色々仕掛けの都合もありましてー(汗 (竹屋)
>>クォーツ様 八門金鎖とか原作ネタをどこまで押し込めるかが、腕の見せ所と(笑 さてどうしよう?(竹屋)
いやあ、実は私の作品でも登場寸前だったり…先を越されましたねぇ。それにしても、作中の歌はどこかからの引用でしょうか?あるいはご自身で考えられたのでしょうか?(タタリ大佐)
単福・・・徐庶ですか・・・確かに出てませんね。でも徐庶なら、有名な母親とのあのシーンが大変じゃないですかね?水鏡先生も出さないと。しかも、蜀と曹魏と掛け持ちだし・・・。頑張って下さい。次回更新楽しみにしています。(クォーツ)
同感です!私もきっとあの方は出ると思ったのに!!という事で私も現在彼女をオリジナルで執筆中です。がんばってください。(シオン)
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