天の川の向こう側 |
深夜に入って、日付が変わった七月七日午前〇時。夜空には満点の星空が広がっていた。皆が寝静まった深夜、空との境目が分からなくなった地平線の向こう側から、小さな白い波が打ち寄せては去っていく。真っ黒な海の白波が、空と海との境界を示している。深夜の海辺は前夜祭の後とだけあって、花火の跡やごみの散乱などもあったが、僕らを除いた人気のない砂浜はひどく静かだった。日中の暑さの名残を残しつつも、少しだけ涼しげな潮風が僕の鼻をくすぐる。
「天の川の向こう側ってさ、要は好きな人が自分を待っていてくれてるってことでいいんだよね?」
隣に座る綾乃は、空を見上げながらつぶやいた。
「ああ、多分そうなんじゃないかな……」
海岸を見つめたまま、僕はおざなりに答える。
「そっか。……そうだよね」
僕のこんな態度を見ても、彼女は機嫌を損ねることなく、再び海岸へと視点を戻す。
それからまた、しばらくの沈黙が流れる。波の音だけが静かに聞こえ、それが二人の沈黙を和らげているように思う。そうでも思わないと、いたたまれない気持ちになって、僕はどうかしてしまいそうだった。
横目で彼女を見ると、その姿はひどく小さく見えた。今までずっと長いこと彼女を見てきたが、元気がないという事もあってか、今の彼女は僕の目に小さく映った。膝を抱え、どこか遠い目で海岸を見つめる彼女に、かつての面影はなかった。
「ねえ」
綾乃が一人つぶやく。
「あなたは待っていてくれるの?」
彼女の方に向き直るが、僕はその問いに答えることが出来ない。答えは既に出ていたが、どう言葉にしていいのか分からなかった。
「何も、言ってくれないんだね」
向き直った彼女と目が合う。その表情はひどく哀しいものだった。笑っているのにどこかさみしそうで、今にも泣きだしてしまいそうな印象を受ける。
「でもいいの、こうして今もあなたはここにいる」
僕の右手を彼女が握る。そのひんやりとした感触はどこか懐かしいようで、儚げで弱弱しく感じた。
「綾乃……」
短く彼女の名前を呼んで、彼女に顔を寄せる。
「でも、ダメよ」
そう言って彼女は僕の唇を人差し指で止める。
「もう終わりにしなくちゃって思ってたの。こうして、いつまでもあなたを縛るのはきっとよくないの」
そう言って彼女は僕の手から指を離す。
「僕は――」
「いいの、何も言わないで」
そう言って彼女はほほ笑む。とても、哀しそうに。
五年前、綾乃は交通事故で亡くなった。
事故は僕が運転していた車で起きた。反対車線から飲酒運転をしていた車に突っ込まれたのだ。過失は向こうにある。そんなわかりきったことを言っても、もう彼女は帰ってこない。
あの時も、綾乃は笑っていた。この海岸の近くで交通事故に遭った時も、自分の身に起きたことなど気にもせず、大した怪我でもない僕の心配ばかりしていた。
「大丈夫、私は大丈夫だから……」
結果的に、大丈夫ではなかった。体はぐったりとしていて、額からは血が流れていた。そして死ぬその瞬間まで、綾乃はずっと同じ笑顔だった。
初めて会った時も、そのどこか影のある笑顔に僕は惹かれていた。それはいまでも同じだった。どこか存在があぶなげとでもいうのか、ふとしたことで簡単に砕けてしまいそうな繊細さが彼女の魅力だったのかも知れない。だから僕は彼女の事を一層大切にしていた。故に、その彼女を失った反動は大きかった。
しかし、彼女は今こうして青白い霊体となって僕の隣に座っている。もう生きてはいないのだが、確実にそこに存在していた。
僕が霊体となった彼女と初めて会ったのは、彼女の一周忌の後だ。彼女の実家でお線香をあげ、ご両親と少しだけ話をしたあとに、何となく僕はこの海岸に立ち寄っていた。彼女の実家からこの海岸は遠く、そこに着く頃にはもう深夜を回っていた。彼女が亡くなってからの僕は、どうしようもないほどの傷心状態で、何も手に付かなかった。それは一年経っても変わることはなかった。
元事故現場には花が添えられている。僕が置いたものだ。月に一度花を換えているのだが、今日だけはどうしても綾乃の笑顔が脳裏を離れなかった。
「龍之介君」
今でも、隣でそう呼ぶ彼女がいてくれるようで僕はうなだれた。耳に馴染んだ彼女の声、透き通るようにきれいな背中、やわらかい唇。思い出すことは綾乃のことばかりだった。
しばらく彼女の思い出に浸ったあと、やり場のない現実感に苛まされ、花を換えて重い足取りで車へと戻った。その途中、横目で海岸で青白く光る何かを見つけた。
遠くからでよく確認できなかったが、それは人の形をしていた。どことなく、綾乃の後ろ姿に似ているような気がして、僕は海岸へと向かった。距離が近づくにつれて、それは確証に変わっていった。間違いなかった、その後ろ姿は綾乃のものだった。
そして、いざそこについてみると、彼女はゆっくりと振り返った。
「龍之介君?」
それは聞きなれた彼女の声だった。
「まさかこんなことになっちゃうとはねえ」
彼女は自身に起きたことを端的に話した。まず、彼女は今幽霊となっており、僕と会うことが出来るのは七夕の深夜〇時から、夜明けまでらしい。死んでから今までの記憶はかなり曖昧らしく、気が付くと海岸でぼんやりと突っ立っていたらしい。
「でも嬉しいよ、また龍之介君に会えて」
そう言って彼女は暢気にほほ笑む。死んでしまった現実など感じさせないほどに明るく。その明るさが彼女らしくなくて、どこか違和感を覚えてしまう。その違和感は間違いではなかった。
毎年、綾乃は死んだ次の年の状態で僕と会っていた。姿も記憶も、事故に遭った当時の物であって、昨年話したことも僕だけが歳を取っていくことも、まるで気付くこともなく、思い出すこともなかった。
僕自身も、どこかで終わりにしなくてはいけないと思っていた。会うにつれ、徐々に間が出来ているように思えた。年に一度しか会えず、彼女は毎年記憶をリセットしてしまう。でも、どうしても終わりにすることが出来なかった。それは未練なのか、罪悪感なのか、僕はいまだに答えを出せずにいた。
今目の前にいる、青白い霊体の彼女は何を想っているのだろうか。
終わりにしよう。そう言う割には、天の川の向こう側は恋人が待っていてくれているとか、七夕は彦星と織姫が会える唯一の大切な日だと話す。それも毎年、同じような言葉を何度も繰り返すのだ。
僕は迷っていた。彼女との関係をここで終わりにするのか否か。もう彼女が亡くなってから五年も経つ。その五年の間に色々な事があった。彼女の他にも、僕を好いてくれる人も出来た。でも、綾乃とのことをうやむやにしたまま、その子と向き合うことは僕には出来なかった。おざなりな関係だった。彼女の好意は目に見えていたし、僕が返事をすればおそらく恋人同士になれるはずだ。でも、彼女に想われていても、僕の心は満たされなかった。
「ずっと待っているから」
皮肉なことに、彼女のその言葉はどこか綾乃を思い出させる。他意はないのだろうが、僕にとっては精神的に来るものがあった。
僕自身もどこかあきらめがつかないのだと思う。最愛の彼女が死んでしまったという事実に。
僕は今でも綾乃の事が好きだ。
この気持ちに嘘はない。だからだろうか、こうして毎年七夕の日に、この海岸に訪れて彼女に会いに来てしまうのは。捨てきれない思いがあるとでも言うのだろうか。
答えはまだ、出せそうにない。中途半端な気持ちを僕はいつまでも持ち続けていた。五年の間ずっと。
色々と思い詰めていると、次第に空が白んで、夜明けが近づいていた。
「もう、終わっちゃうね……」
立ち上がった綾乃の頬を涙が伝う。それを見て、こらえきれなくなった僕は彼女に抱き着く。そこに実体はない為、触れるか触れないかの所で止める。止めざるを得ない。もっと話したいこともあったはずだ。でも、いざ彼女の顔を見ると、どうしても言葉が出なかった。色々思う事が多すぎて、毎年毎年、同じことを繰り返してしまう。そんな惨めな気持ちを押し殺したくて、腕に力が入る。
「痛いよ……」
綾乃の手が僕の腕に触れる。すり抜けるようにして、僕の腕にその冷たい感触が伝わる。実体に触れることが出来ないことがこんなにもどかしいなんて、もう何度も経験したはずなのに、こればかりは慣れることが出来ない。
「痛くないよ」
だって触れてない、触れられない。
「ううん、痛いよ。ちゃんと私には分かるよ、あなたの気持ちも。……だからね」
綾乃と目が合う。涙で少し充血した優しい眼に、僕の顔が映る。
「最後に、キスして」
もうそれ以上言葉はいらなかった。
ゆっくりと顔を近づけ、静かに唇が触れ合う。何度も感じた唇の感触と、生気を感じさせないその冷たさに、気が付くと僕は泣いていた。
今目の前にいる彼女は、もう生きてはいないのだ。それを強く感じると、どうしても涙が止まらなかった。
そのまましばらくして、唇が離れる。にじんだ視界で彼女が照れたように微笑む。青白い肌がほんのりと赤く上気している。
お互いに涙を拭う。夜明けはもう目の前に迫っていた。
「何でだろうね。せっかく七夕の日にしか会えないのに、言いたいこと、全然話せないや」
「僕も、もっと話したいことがいっぱいあったんだ。聞きたいことも、言わなくちゃいけないことも」
額を合わせるようにして、お互いに向き合う。
「でもね、不思議なの。何だか前もこうして同じような事を話していた気がするの。……そういえば龍之介君、ちょっと老けた?」
僕は思わず固まった。
どうして、綾乃がそれに気づいたのだろうか。
「もしかしてさ、私ってもう幽霊になってから何回も龍之介君に会ってたりするの?」
「……うん」
「そっか……」
そう言って、綾乃は少しうつむく。こんな時に、どうしてこんな言葉が出て来たのかよく分からなかった。いや、こんな時だからこそ、その言葉が出てきたんだろう。感情が漏れるようにして、それは自然と口から出てきた。
「僕は綾乃が好きだ」
うつむいていた綾乃がぴくりと反応する。
「どうして今になって記憶が戻ったのかは分からないけど、これだけは言っておきたいんだ」
一呼吸おいて、僕はもう一度言う。
「僕は、綾乃が好きだ。今でもずっと」
そこで綾乃が顔を上げた。今まで見たことがないほど、涙でぐしゃぐしゃの顔だった。
「ずるいよ、ずるいよ。どうして今になってそんなこと、私もう死んじゃったんだよ!」
嗚咽混じりの綾乃が両手で涙を拭いながら話す。
「ごめん、でも僕は自分の気持ちに嘘はつけないんだ。綾乃がどんな姿になったって、僕の大切な人に変わりはないよ。これからもずっと……ね」
その時にもう迷いはなかった。彼女に記憶が戻ったからとか、そういったわけではない。自分の気持ち、彼女を好きだということに素直になれた。どうして、たったこれだけの事に、五年もかかってしまったのだろうか。どうして、こんな大切な事を今まで思い出せずにいたのだろうか。
「それ、信じていいの? ずっとあなたの事、ここに縛りつけちゃうよ」
「いいさ、全然。天の川の向こうでも何でも、僕はずっと待ってるよ」
それを聞いて、綾乃が微笑む。今までとは違って、楽しそうに。
「随分とかっこつけてくれたわね」
「まあ、たまにはこういうのもいいだろ」
言った後に僕も何だか照れくさくなってしまう。でも、いいんだ。こういうのも、たまには。地平線の向こうから太陽がのぼろうとしている。これで、本当に最後だ。
「綾乃」
僕は最愛の恋人の名を口にする。
「なーに?」
どこか懐かしさを覚えるこのやり取りも、時間はかかったが取り戻すことが出来た。
「また、来年な」
「そうね。また、来年」
最後にもう一度僕たちは抱き合った。
次も必ず会えるように、何度も何度も、またね、またねと言い合った。
そして、太陽がのぼると同時に、綾乃の体はすうっと消えていった。彼女のひんやりとした感触を腕に残し、彼女はまた天の川の向こう側へと帰って行った。
今までのわだかまりが解けたように、不思議と僕はすっきりとしていた。これでいいんだ、と。生死に関わらず、僕が好きなのは綾乃だけなのだと。
それから僕は、好いてくれた子の誘いを断った。結果的に彼女をひどく哀しませてしまったのだが、これが僕の選んだ道だと後悔はなかった。
そして、また七夕の日がやってくる。
今までとはまた違った意気込みで、僕はあの海岸を目指す。彼女に会ったら、色々な事を話そう、ずっとそう決めていた。この五年間で起きたこと、話せなかったこと全部。
どんな反応をしてくれるんだろうか。きっと、楽しそうに聞いてくれることだろう。
今年もまた満点の夜空に天の川が見える。織姫と彦星も僕らのように再会を果たしているのだろうか。
最愛の恋人の後姿を確認して、僕は思わず叫ぶ。
「綾乃ー!」
声に反応して振り返る彼女。僕が手を振ると彼女も笑顔で手を振り返した。
また会えてよかった。ほんの少しだけ、もう会えないんじゃないかと、どこかで思っていたので僕は安堵した。これからもずっと綾乃と一緒にいられる。これまでのことも、これからのことも二人で一緒に。そう思うとうれしくなって、つい口元が緩んだ。五年の緊張とでもいったところだろうか、僕は久しぶりに心から笑う事が出来た。
そして、天の川の向こう側に待つ恋人の元へ、僕は駆けだした。
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流れとか色々と納得がいかなかったので、修正して再投稿しました。 | ||
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