戦極甲州物語 弐拾巻 |
岩殿城に攻めかかる北条軍は間を置かない攻勢を仕掛けていた。時に矢を射かけるだけ、時に城門を破壊しようとするほどと、緩急をつけて昼夜の区別なく攻め立てた。それが精神的に追い込もうとする策であることは明らかであるし、守備側からしても攻撃側がそうすればするだけ攻撃側の疲弊も溜まるのだから、言ってしまえば意地の張り合いがどれだけ続くかの問題だった。
もちろん両者共にそのままでいいわけがない。だからこそ激しく刃を交わらせつつ、その裏で策謀も戦わせた。互いに乱破をけしかけ、それを見破り、時に捕らえ、時に偽情報を掴ませ。
長く続くかと思われたその均衡も、崩れるのは存外に早かった。それは準備の差というものなのかもしれない。
「せええええい!」
襲いかかってくる兵を斬り伏せる。刀が折れたら投げ飛ばす。
すでに槍は折れてしまっており、信龍は右手に刀を、左手に折れた槍を持って即席の二刀流のようにして戦っていた。
「小童の分際で――!」
「小童言うなああああ!」
迫る刃を槍で弾き、逆から刀を薙ぐ。体勢を崩された敵兵は鎧ごと胴体を斬り裂かれて斃れていく。その兵士を目隠しに、跳びかかってくる黒い影。手には逆手に持った刀――風魔の忍か。それをしゃがんで躱してやり過ごす。
「覚悟!」
「死ねええええ!」
それを隙と見て左右から槍を突き下ろしてくる敵兵。
「とうっ!」
もちろん捉えている。信龍はしゃがんだ勢いを反動にして跳躍! さらにねじりを加えて回転しつつ。刀と槍がきらめきを残して宙を走り、敵兵の首を見事に切り裂く!
敵兵が「こ、こやつ……!」「奇怪な身なりに惑わされるな!」と怯んだり罵倒したり。戦の熱で鋭敏になった感覚がそんな1つ1つを捉えてしまい、斬っても斬ってもきりがない状況に苛立っていた信龍は身なりを馬鹿にされて睨みつける。
「信龍様! 余所見をされてはいけません!」
昌辰の声がなければ間に合わなかったろう。視界に映る、覆面の黒装束。逆手に持たれたクナイの刃、それがいきなり伸びてきたようにも映った。咄嗟に首を後ろに。同時に刀を振り上げる。
火花を散らし、クナイは刀に軌道を変えられて信龍の頬を浅く裂くに留まった。が、それは牽制だ。忍びはそのまま信龍に蹴りを放つ。宙にあっては動きは制限される。ただでさえ牽制で体勢を崩した信龍にそれを避けることはできなかった。
「うぐっ!?」
腹を抉るように食い込む蹴り。どんなに力はあっても小柄な信龍の体だ。そのまま地面に叩きつけられ、それだけに留まらず、転がり続ける。
「あ、く……げほっごほっ……!」
背中を強く打ちつけたが、虎の着ぐるみのおかげかさほどでもない。それよりも転がった際に切ったらしい足の傷の方が痛んだ。だがそれを言うならばもう全身傷だらけだ。頬は砂埃で薄汚れ、着ぐるみもあちこち切り裂かれ、元々が露出気味の足はあちこち青痣だらけ。もはやここに傷が1つ増えたくらいで大して変わりはなかった。
だから信龍は痛みなど無視して呼吸できない苦しみも何のその、立ち上がろうとして――
「させん」
「あっ……!」
その腕を思い切り踏まれた。見上げれば先ほどの忍びが信龍の腕を踏みつけ、もう片方の腕もその手で抑えられる。ならばと小柄な身に宿る怪力を以って跳ね飛ばしてやろうと力を入れたが、途端、体を走る痛烈な痛みに顔を顰めた。
「小さな身の上でよく戦ったが……所詮はまだ元服したての小娘よな」
覆面の奥で忍びのくぐもった声がやけによく聞き取れる。彼は笑っているのだろうか。信龍は唸りながら顔を動かし体を動かし、何とか忍びから逃れようとするもそれもできず。
「御命頂戴」
忍びは背中の刀を抜き放ち、信龍の眼前で持ち上げて――突き刺さんと心の臓目掛けて振り下ろした。
が!
「っ、なんと……!」
「うううううううう……!」
信龍は首を上げ、横合いから歯で受け止めたではないか。さすがの忍びもこれには感情を隠しきれなかったか、目を見開いた。しかしそれも一瞬のこと。忍びは刀を片手で握ったまま、懐からクナイを取り出す。
「どうせだ。しっかり噛みしめておけ。さすれば心の臓を突き刺す痛みにも耐えられよう」
「う、ううぐ……!」
それでも言い返そうとしたが刀は力を入れられたままで、信龍も力を緩めるわけにはいかず。
「信龍様!」
「信龍様! おのれ、無礼者が! どかぬかあ!」
昌辰と小幡虎盛の怒声が響く。昌辰は敵兵を弾き返し、虎盛も槍を振り回して近付こうとするが、敵兵の数が多すぎて容易にできない。忍びはまったく意に介することはない。これで終わりと僅かに目を細めて――
「っぐ!?」
唐突に見開き、痙攣するように忍びが体を震わせた。信龍にも何が起こったのかすぐには理解できない。
何かが、忍びの体から生えた。
正確には、貫いた。
「ぐ、ぬ……」
滴る血が、信龍の顔に落ちた。刀からは力が抜けていたが、信龍もようやく理解が追いついてきただけで、刀を振り払うまでには至らなかった。忍びの方も同じなのだろうか。歪んだ目であまりに緩慢な動きでそれに手を伸ばす。己が胸を貫いた槍に。
「信龍様に何してくれてるんですか、この変態!」
叫びと共に、忍びの体が大きく反らされた。背中を大上段からの斬撃で斬られた苦悶の声も、覆面のせいか聞こえない。そのまま体を信龍の方に向かって倒してくる、が。その体が背後からむんずと捕まえられ、そして無造作に横に放り投げられてしまう。
「風魔ってのは変態の集団ですか! 信龍様にのしかかるなんて何てこと! って、そんなことよりも! 信龍様、ご無事ですか!?」
「う、うん。助かったのだ、昌盛。ありがとう」
「そんな、御礼なんて! 家臣として主君をお助けするのは当たり前です!」
「主君はノブタツじゃなくて兄上だぞ?」
「私にとっては信龍様こそ主君です!」
それは問題発言な気もするが、信龍も悪い気はないのでとりあえず頷いておく。
裾の無い着物に軽装の鎧を付け、膝丈の袴を履いた少女――小幡虎盛の娘、昌盛の差し出した手を握り、信龍は立ち上がった。
「ああ、信龍様、踏まれたところがもう青痣になってきて……足も傷だらけじゃないですか。おのれ、北条の猿共。信龍様を傷ものにした挙句、倒して踏みつけるなんて万死に値します!」
「ノブタツは全然平気だぞ!」
「ですよね! 武田最強の信龍様がこれくらいで音を上げるわけないですよね!」
やけに気分が高揚しているのか、昌盛はなぜか自分がそうであるかのように笑う。
初戦からこっち、昌盛は信龍をやけに持ち上げる。やれ「信龍様の強さに惹かれました!」だの「信龍様は目標です!」だの。どうして自分のような元服したての、まだまだ兄や姉たちに比べれば未熟も過ぎる者についてくるのかわからないが、信龍としては自分の第一の家臣になると言う彼女のことをとても嬉しく思っている。
「……すっかり信龍様の強さに魅了されているようですね」
「しかしこれではまるで阿呆の娘にしか見えませぬ……私はどこで教育を間違えたのか」
昌辰と虎盛は呆れるしかない。父の強さに憧れて必死に強くなろうとする昌盛は、兄や姉に追いつこうとする信龍と通じ合うところがあったのだろう。それだけならこれまででも通じていてもおかしくないのだが、初戦の後、信龍が自身の未熟さを痛感しながらも兄や姉を思い浮かべて決意を固くする姿を見て以来、完全に信龍の追っかけ状態だ。その直前に自らの未熟を虎盛に叱られていたから、対して自ら未熟ぶりに気づいて反省しながらも、前を向く信龍の姿は昌盛にとって衝撃的だったのかもしれないけれど。
「しかしこれだけの働きをしてもらえるのですから、将としてはありがたいものですよ」
蹴散らされた北条兵たちを見ながら昌辰は言うも、虎盛は微妙な表情のまま。そんな虎盛を傍目に、昌辰もやがて笑みを消した。その視線は未だ武田兵と北条兵が戦い続ける馬場を越え、ここからは木々や岩に隠れて見えないけれど、その先にある揚城戸の門。岩の奥から一条の煙が黒々と立ち上っている。
「揚城戸の門が落とされたのは痛い……もはや三ノ丸も限界ですね」
北条は初戦以後も積極的な攻勢を仕掛けてきた。その度に防いできたが、北条は無策に攻め続けていたわけではないらしく、昌辰も策を講じてきてはいたが、風魔の忍びや北条兵はそれを越えて岩殿城内部に入り込んでいたらしい。内通工作をされたか、今朝方、揚城戸の門から火の手が上がったのだ。
揚城戸の門は狭い。焼き払ったところで左右は巨岩に挟まれているから、武装した兵では1人が通れる程度の広さしかないのだが、一度侵入を許してしまうともう手の付けようがなかった。そのまま三ノ丸まで攻め入られ、さらにその先、馬場が今は防衛線だ。ここを通過されると、さらに少し小高い場所にある二ノ丸、そしてその先にある本丸を残すのみとなる。殊に二ノ丸は倉庫としての役割もあるから、ここは死守せねばならない。
「この岩殿城は元々が郡中……小山田の支配する地にあるわけですからな。徴兵した兵の中に小山田領内の兵がいてもおかしくはないでしょう。小山田が真に北条と通じているのなら、我らは最初から内に敵を抱えていたことになりますな」
誰が手引きしたのかは定かではない。北条の攻勢が始まる直前だったため、攻撃を受けて押されたというわけではないだろうから内通者の手引きという可能性が高いというだけだ。混乱して情報も錯綜しており、昌辰と言えど混乱を収拾して統率を取ることで精一杯だった。
「しかしそうなるとなぜ今になって小山田の兵が動いたのかが気になるところですね」
「左様。北条と内通していたのならもっと早い段階で手引きしたはず。北条氏康殿もこの戦いを見る限り、決して手際は悪くないというに……ええい!」
虎盛が矢を叩き落とす。その隙を縫って向かってくる敵兵の槍を昌辰が払い落とす。2人を守っている武田兵もそれぞれの敵にかかりきりで援護は望めそうにない。信龍と昌盛も連携しているのですぐには問題ないだろうが、あの2人の場合は熱くなりすぎて深追いしないかに注意を払わねばならない。
攻防戦はかなりの犠牲を出している。北条としてもいたずらに兵を失いたくはないだろうし、この間断ない攻撃からしても北条は時間を気にしているのは察していた。包囲されていて外からの情報が入らない以上、確定できる根拠はなく、色々と推測こそできるものの理由は定かでない。それでも兵の損失は極力避けたいのは当然のことで、ならば最初から内通していた小山田兵が動いてもいいはずなのにそうしなかった。今この時機に動いたのはなぜだ?
「……嫌な予感がしますね。小山田に何か動きがあったのでしょうか」
「もしくは御館様や信玄様の方に何か不利な状況となってしもうたか、別の要因か……なれど外の情報がわからぬ今は何を言うても致し方ないことでありましょうぞ」
「そうですね。私たちの役目はこの岩殿城の死守。北条氏康殿の足止め。最後までやり通さねば」
燃える馬場の長屋が耐えられずに支柱が崩れていく。火の粉が舞い、繋がれたままの馬たちが何頭も巻き込まれてしまう。が、それでも支柱が焼けて崩れ落ちた拍子か、燃えて拘束力が緩んだためか、自ら縄を引き千切って出てくる馬もいる。その中に自身の愛馬がいることを遠目に見て、虎盛は北条兵を薙ぎ払った槍を地に叩きつける。衝撃が放射状に広がり、砂煙が舞う。その轟音を聞きつけた馬が虎盛を見て、虎盛もここだと槍を掲げて誇示すると、馬は一声上げて猛然と突進してきた。
「上原殿。某、三ノ丸に向かい、撤退を指揮して参る。兵を十ほどお借りしたい」
「ええ、お願いします」
「ノブタツも行くぞ!」
「父上、私も参ります!」
北条兵を蹴散らしてやってきた馬に虎盛が飛び乗る。それを見た信龍と昌盛が駆けつけてきて、昌辰は総大将が敵兵のさらに多い危険な場所に行くのはどうかと言ったが、信龍はやはりそれを聞き入れる様子はない。
「危ない時はノブタツを呼べと言ったのだ! ノブタツは嘘つきにはなりたくないぞ、昌辰!」
「上原様、私からもお願いいたします! 信龍様は私が命に賭けてもお守りします! どうか!」
昌辰は見上げて迫る2人を前に、チラリと虎盛を見上げ……虎盛が肩を竦めつつも胸を叩いたことで、ややあって頷いた。
「総大将が助けに来たとあれば兵たちも士気を取り戻すでしょう。副将の身でこのようなことをお願いするのは申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」
「任せておくのだ! 行くぞ昌盛いいいい!」
「お供します、信龍様!」
先行する信龍が突撃していく。馬にも乗っていないのに本当に早い。虎の着ぐるみが真横に靡いているほどで、まるで虎が信龍にしがみついているようにさえ見えた。
「虎盛殿、信龍様を」
「お任せあれ。では参ります――皆、信龍様に続けえ!」
虎盛が自らの名を叫んで注意をひきつけながら向かっていく。続く兵たちも馬場で抜けだした馬たちに跨り、虎盛たちを追いかけて。
「……さすが信繁様の妹君。兵員の生存率の高さは信繁様の指揮の特徴なれば、これに倣った見捨てないという意気の表れでしょうか」
それゆえに味方を見捨てるという時に非情な判断が必要であることを理解するのは難しいことだろうけれど、それも今は副将の自分がやればいいこと。それが甘いことだと思いつつも、昌辰は虎泰がついつい信龍に対して甘くなってしまう理由がわかったような気がした。危なっかしくて、おいそれと目を離せない。けれどそれは信龍を信用できないのではなく、ただただ自分の子供を見ているかのような感覚。昌辰も信廉の傅役であり、基本的に信廉は手のかからない安心して見ていられる娘ではあったが、たまに驚くような行動を取ることもあるあたりはやはり姉妹なのだろうか。正確に言えば信繁も含めて。
「上原様! 搦手門が限界です! もはや支えきれません……!」
搦手門の方から時折ぶつけ合うような音が聞こえてきた。目をやれば、音がする度に門が外側から押し込まれており、閂がすでに折れ、今は武田兵が群がって押さえている。だが侵入した北条兵がこれを格好の獲物と狙ってきては押さえる者もたまったものではない。
「もう少しだけでいいのです。耐えなさい! 私が向かいます! 貴方達は二ノ丸への道を何としても守りなさい!」
率いる兵たちに指示し、昌辰は小太刀を振り上げて搦手門に襲いかかる北条兵に斬りかかっていくのだった。
戦の後というものは独特の静寂が立ち込める。
戦死した兵たちの骸が横たわり、刀や槍、折れた矢が辺り一帯に散乱する。怒号と喊声、悲鳴と絶叫がほんの一刻前まで飛び交っていた戦場は、疲れ果てた生者と物言わぬ死者たちの無言の空間。焼けて黒く焦げた跡、そして血痕で染まった大地。銃撃によって木の幹には弾痕が穿たれ、内部で弾丸が破裂したのか太い枝も引きちぎられてしまい、かろうじて下半分がまだ木と繋がっているために垂れ下がっているものもある。その木の上から狙撃していたのだろう兵士も、重い鎧を付けていては助かりようもなかったのだろう。頭蓋が割れ、目を見開いたままで天を見上げながら血の海の中で絶命していた。焼け跡からは未だに燻ぶっている煙が上がり、焦げ臭い匂いを放っていて。
「……やってくれたものだ」
馬を返して御坂山を登っていく信繁と虎昌の背中を射抜くように睨みつけていた綱成。
武田軍を何とか追おうとする兵たちであるが、炎の勢いは強く、先に進めはしなかった。綱成が黙り込んだままだったので兵たちもどうすべきかで信繁たちの背中と綱成を見るも、やはり何も言わず、さらには険しい表情を浮かべていることで下手に話しかけることもできず仕舞い。元忠が残った武田軍を制圧するよう指示を出すまでそのような状況だった。元忠の兵が制圧にあたり、綱成の兵は消火に当たり、武田軍は浅利・跡部両将の降伏を以って制圧され、火も先頃鎮火された。
……正確に言えば、火は勝手に消えたのだが。燃えるものがなければ炎はやがて消えるのだから。
「さすがに今回はやばつねえところだったとよ」
「……わかっている。俺が浅はかだった」
元忠を見ることなく、焼け跡を前に悔しそうに呟く綱成。すでにその先に信繁たちの姿はないものの、綱成の目には今でも撤退する武田の、信繁の姿が焼き付いていた。
「総大将自らが打って出てくること自体が更なる策の陽動だったとはな……すっかり騙された」
打って出てくるか撤退するか、そのどちらかであろうことは綱成も想定していた。いつまでも守戦に拘り続けていてもそのうち武田軍は崩れただろうし、それは信繁自身もわかっていたはずであり、地の利を活かした策を使っているのであれば当然に気付いているだろうと思っていた。
だが信繁はその心理や状況すらも利用し、自らが正面に出てきたことすらも更なる策の1つであるということを覆い隠し、見事に綱成や元忠を誘導して追撃させることに成功した。武田軍の本質は荒々しく猛々しい力押し――その思い込みが綱成や元忠からさらに策があるかもしれないという警戒心を薄れさせた。もしかすると信繁の暴君ぶりや虎昌の挑発的な態度すらも、綱成と元忠の冷静さを失わせるための演技であったのかもしれない。
綱成が焼け跡を左右に見渡す。焼け跡の範囲は今改めて見てみると存外少ない。あれだけ傲然と火柱が立ち上っていたにもかかわらず、実は燃えていたのは左右見回してみるとそう広い範囲ではなかった。見かけ騙し……まんまとそれにしてやられていたのが腹立たしい。
「武田軍が先に着陣した後、罠を準備していたのはこれのためか」
「罠はぶつかる前にすべて風魔の連中が片したと思うとったぎゃあ……これのための隠れ蓑だったとは思わなかったべや」
「馬防柵や罠を作るために材料の木を切っていたと思っていたのが、実は必要以上に周囲に燃え移らないようにあらかじめ切るためでもあったとはな……」
綱成は焼け跡の端にある、盛られた土砂を足で軽く踏みつけた。この土砂も、周囲に燃え移らないようにされたものなのだろう。そしてそれは、武田軍が最初に山という地の利を活かして北条軍を引っかき回していた際、武田兵たちが防壁代わりにしていたものでもあった。単純に土砂を掘って10人程度が座れるような、そんな簡単なものだ。「一粒で二度美味しいってか」と元忠が腰に手を当てて見下ろしていた視線を空へと。綱成も釣られて見上げれば、どんよりと曇る空が視界に広がる。湿気を含んだ風は戦の熱も冷めてきた身には少し肌寒い。これは降ってくるだろう。
「風は御坂山からの吹き下ろしだった。おかげで炎がこちらに襲いかかってくるからこそ我々は追撃しようにもできず……山風も計算のうちに入れていたのだろうな」
少なくともこの展開も想定していたことは確実に言える。他人の掌の上で踊っていたということを否が応にも理解させられ、綱成は拳を強く強く握りしめた。
もし信繁のこの策が成功していたら、先頭を走って追撃していた綱成と元忠はほぼ間違いなく炎によって後続の兵たちと分断され、武田軍と炎の壁によって逆に包囲されてしまう事態となったろう。どんなに兵が多かろうとも大将を捕らえられるなり殺されるなり人質にされるなりされれば、北条軍とて手出しようがない。
「……小太郎」
「――ここに」
小太郎が来ていたのは気配で察していた。罠にはめられた自身への苛立ち、はめた武田、そして信繁への複雑な感情が邪魔をして冷静になれないがために、背後に来るまで気が付かなかったが。
「武田は陰陽師や呪術師の類でも抱えているのか?」
「お答えする前に1つ……問いの意図をお伺いしたく」
「……武田は雨が降ることを予測して火を放ったとは考えられないか?」
「……理解いたしました」
さすがに小太郎の飲み込みは早く、そばで聞いていた元忠も無言のまま頷いていた。
この時代、天候を読む術は確立されていない。例えば『山の上に傘のような雲がかかったら明日は雨だ』といった経験則のようなもので確率的にはやはり高くはなく、天候が変わりやすい山に囲まれた甲斐は特に予測が難しい。もし天候が読めていれば、甲斐における洪水をあらかじめ予見して対応もできただろうから。
天候は戦においても戦略上の要素である。風が強いと向かい風で矢が飛ばないし、逆に風上を陣取れば矢はよく飛ぶ。火攻めをするにも風上がいい。そして鉄砲が伝来してより、余計に雨は脅威だ。雨が降っては火縄銃の扱いは神経を削る。湿気が高い時期ともなると平時でも湿り気を帯びないようにするために気を遣う。天候・気象を読めるということは、非常に重要なことだ。
「山本勘助なる男、覚えておいでで?」
「覚えているが、まさかあの男がそうだと?」
「いえ、あの男は武門の生まれに相違なし。しかし諸国放浪のうちに吉凶を占う呪いなどを手掛けていたという話もありますれば、天候を占う術も持ち合わせていると考えられます」
「……武田信繁、そこまで理解してあの男を囲い込んだか?」
その問いには小太郎もわからないということだろう。静かに頭を垂れるだけだった。
小太郎が続けるには、武田は先日、京から天皇の使者を迎えており、朝廷との縁の強化を図ったらしい。今川義元がその仲介を行ったというし、北条もすでにそれは知っていて、今川はきっと北条に対する当てつけや脅しの意味も含んでのことだろうと受け取っていた。使者は三条家の者で、信繁は彼の男に随分と気に入られた様子。
「京の公家なら陰陽師との関係も深い。聞きだした可能性も無きにしも非ずか」
「御意」
世が武家政権によって支配され、朝廷の権威が形だけのものとなって久しい。朝廷の権威の低下は同時に公家の権威の低下に等しく、これに結びついている陰陽師たちの立場も総じて苦しいものだった。本来なら吉凶の占いや陰陽の考えなどは軽々しく陰陽師以外の者に広めていいものではないが、その立場ゆえに時の権力者と少しでも結びつきを以って存続を図ろうとする動きがあってもおかしくはない。応仁の乱で秩序が崩壊した京において、そのような影の部分は決して否定できないのだ。
尾張の織田信長などは仏教の教えなど旧来のものに対する反目姿勢は特に顕著で、彼女の場合は極端ではあるが武士は総じてそういったものに対して懐疑的だった。もちろん中には例外もあって、大友宗麟などは熱心な切支丹だし、信玄のように仏教に帰依する者もいるし、戦の前に勝利を願う儀式を行うなどはしているのだが。
「仮に俺と多目殿が分断されるのに気づいてその狙いには乗らなかったら?」
「それにしたかて武田側にすれば充分な足止めができとうよ。追撃できひんうちにさっさと兵を引きゃええだけや」
「火が他に回らないようにしているのなら、こちらは回り込んで追えばいいだけ。多少は時間がかかるだろうが、効果的とも思えないぞ」
「『愛民』を掲げる北条が山火事になるやもしれねえもんを放っていったと知れれば?」
「…………」
火を放ったのは武田軍でも、当事者として在りながら放置したなら北条軍への印象は少なからず悪化する。それにこの地は郡中――小山田氏の支配が強い地域。ここで山火事を放置などすれば、小山田氏の反感を買いかねない。ただでさえ信用という面に置いてお互いに不審を抱いている相手なのに、今以上に悪化させるのは得策ではない。
要は綱成と元忠を罠にはめることができようができまいが、信繁の策はどちらにも対応できるというわけだ。もちろん罠にはめることに成功した方がいいだろうが、二重三重に考えてもしもの場合に対応できるように組まれてある。
――攻め時をわかっている将は、引き時を弁えている。
そして多重策というものは、実際の戦況によってどの策を使うのか、どの時点で次の策を実行するのかを見極める目と時機を読み即断する力、一言でいえば洞察力と決断力が物を言う。信繁はその両方を兼ね備えた将であると判断するに足るであろう。ただ将の器量と方向性に、他の武田将兵がついていけなかったことが策の失敗に繋がった。
「運が良かった、か」
「八幡の加護、馬鹿にしたものじゃねえやな」
理で物を考える軍師が運をあてにしていたら話にならないが、元忠と言えど『愛民』を掲げる北条の軍師。情を完全に排すべしとの立場と『愛民』との間で常に決断を迫られている。どこの生まれなのかわからなくなりそうな多数の地方の訛りを口にする、一見ふざけているように見える軍師も、その内で軍師としての理想と北条としての理想に挟まれているのだ。
「痛み分け……などと言うはおこがましいのだろうな」
「お互いにの」
振り返れば累々たる屍。倒れた兵たちが背負っている旗が風に揺らされて力なくはためいている。
その数は……どんなに甘く見積もっても北条の方が多い。
「軽く見ても向こうの2倍は兵を失ったな……」
失態だと綱成は改めて眉を顰めた。
6倍の兵力差にありながら武田の2倍は被害を受けたと知れれば、武田の勢いのみならず、周辺国さえも北条を侮りかねない。せっかく川越夜戦で北条軍の精強ぶりを知らしめたというのに、下手をすれば宿敵上杉に立ち直りの機会を与えてしまう。折しも上杉軍が甲斐と武蔵の境に兵を揃えているともなれば、これを知った上杉は一気に押し寄せる可能性がある。
「その辺りは手前に任せえ」
「どうされるおつもりか?」
「流言をまく。こちらの兵の損失は隠せねえにせよ、武田が火を付けたというのはやはり利用できるけえのう。『武田の暴君は悔しいが強い。しかし自国領内にも関わらず火をつけるような男にて、北条はこれに怯まず正面から叩き破った』」
「…………」
元忠の意図は綱成にもわかる。
兵の損失を隠した場合、ばれた場合の民や周辺勢力への印象が悪い。ならばここは武田信虎の悪名を利用して暴君の息子に果敢に挑んだ北条軍を演出し、正当性を訴えた方がいい。敵を褒めつつも暴君であるという噂を流す。父信虎と変わらぬ暴君であり、これまでのまともな活動はただのフリだったのだと。嘘は言っていないし、この炎の煙はきっと郡内の小山田氏にも見えたことだろうから、これで小山田氏も本格的に腰を上げるかもしれない。
「気に食わねえのはこの際目を瞑ってくりゃれ」
「……此度の俺の失態を思えば、反対などできるわけがない」
婉曲に綱成は元忠の案を許可して背を向けた。好戦的ながらこういう手は好かない向きの綱成のことだから、元忠も何も言わず、軽く頭を下げてからそばに控えていた黒ずくめの風魔の忍に今の手を囁くと、忍は1つ頷いてすぐさま去っていく。戦の後だというのにその足は軽い。改めて忍の軽快さとは似つかぬ体力には元忠も恐れ入る思いだった。
「で、小太郎。何か報告があったのだろう?」
「は。上杉軍、甲斐に侵攻した由」
綱成も元忠も驚きはない。元より北条軍本隊の氏康軍五千が岩殿城に手間取っているのだから、上杉軍に侵攻の意図があるならこの機会を逃すことはないだろう。綱成の別働隊三千が仮にこの御坂山で武田軍を早々に破ったとしても、三千で甲斐深く侵攻するには心許ないし、本隊を放置して先に進めるものでもないと考えたのではないか。
「上杉軍は奥多摩湖方面より甲斐に侵入の後、二手に分散。うち一隊は兵力六千にて南進しつつ郡中へ、もう一隊は残る四千で西進し、国中へ。その侵攻を止める武田軍は皆無にて、上杉軍は比較的緩やかな速度で進軍中」
「完全に漁夫の利を得る気だな」
北条軍本隊五千と籠城する武田軍岩殿城守備隊一千の戦闘は続いている。難攻している状態で北条軍にも相応の犠牲は出ているし、武田軍も風魔衆と連携する北条の動きについていっているものの、初戦で大手門を失うなど決して善戦とは言い難い。双方共に疲弊と損耗が出ている中に、両軍の初期兵力を合わせた数に等しい上杉軍が介入すれば氏康と信龍と言えど苦戦は免れまい。
一方、国中へ侵攻する四千も手堅い兵力だ。綱成と信繁の両軍を合わせても双方損耗した状態では兵力的に劣る。西方の武田軍主力も、信州連合軍を退けたところですぐに全軍取って返すようなことをすれば信州連合軍はこれ幸いと再侵攻を始める可能性が捨てきれない以上、警戒のために残る必要はあるし、もともと信州連合軍総兵力の半分しかいない武田軍主力には僅かなりとも東部へ兵を向かわせる余裕はなかろう。
「多目殿、上杉が交渉に応じると思うか?」
「そりゃ無駄だぁな」
「だろうな」
北条が郡中、上杉が国中と分配する。信州勢に関しては上杉に任せてしまう方がいいだろう。
綱成が思いついたのはそんな密約を交わすことであるが、言ってみただけで交渉を持ちかける気は毛頭ない。どのみち上杉がそんな言を聞き入れるとは思えないからだ。そんなつもりがあるのならば上杉軍は郡内に兵を向かわせることはしないだろうから、上杉は甲斐全土を手中に収める腹積もりであろう。
ここで北条から上杉に対して下手に出るような態度は折角の川越夜戦の勝利を無駄にしかねない。上杉憲政が調子に乗らないとは限らないどころか、その可能性が大いにある。関東の佐竹や結城、里見氏も、すでに関東管領の権勢の衰退ぶりに見限っており、配下のように従うのはそうする方が利があるというだけで、本心から上杉につき従う者はほぼ皆無と言っていい。北条としてはむしろその方がありがたく、ここで下手に上杉を勢いづかせて佐竹たちと結びつきを取り戻させたくはない。
「小太郎。武田と上杉に連携する動きはないな?」
「皆無」
武田と上杉の結びつきはやはりない。連携するなら信繁がわざわざ五百で出向いて戦う必要はないし、上杉軍がしばらく国境付近で機を窺うように留まっていたのもおかしい話だ。
「多目殿。上杉と信州勢の間には如何か?」
「今のところはねえな。だが互いに連携を模索する可能性は充分考えられるぜよ」
上杉と信州勢の関係は北条と信州勢のそれよりもはるかに深く、信州勢は上杉を後ろ盾としていることが多い。北条よりは何かと手を結びやすいところもあるだろう。小笠原長時も北条とは手を結ぼうとしなくても、信濃守護と関東管領という家柄や立場からなら手を結ぶことに嫌悪感もないだろうし、特に諏訪頼重は慎重な男だからこそそうしようとする可能性が高い。
上杉と信州勢が結託すれば、信州勢は無理に武田軍に攻撃を仕掛ける必要も、そもそも侵攻する必要もない。武田軍主力が東部に行きたくても行けないよう、武田が兵を動かせばすぐにでも侵攻できるという体勢を維持するだけでいのだ。それだけで武田軍主力は身動きできず、その間に上杉は甲府まで進撃してしまえばいい。武田軍主力が西方を捨てて戻ってきても、ならば上杉軍と信州勢で挟み撃ちにできる。しかもそのまま対北条で行動すれば北条とて国中への侵攻は諦めざるを得ない。
ただ上杉としては信州勢と結ばなくてはならないわけではない。武田軍主力はどのみち信州勢警戒のために東部へ兵を向けることは難しい上、向けられたところでその兵力はかなり限定的だろう。結果的に上杉にとって信州勢と結ぼうと結ぶまいとほぼ同じ結果が齎されるのだ。
「……多目殿。捕らえた武田将兵はどの程度だ?」
「浅利と跡部を筆頭に十数名ってとこだの。降伏した兵はもっと多いねんけど、あまり大量におるとかえってこっちの負担になっちまうけえのう」
捕虜が多いと扱いに苦労する。捕虜を生かすなら当然見張りに人を割かねばならないし、数が多ければ多い分、必要な人員も増えるわ糧食も減ってしまうわで、元が三千、そこからさらに減った綱成軍では重荷になる。信繁が引き際に放ったあの言葉、どのような意図があるか知らないが、もしかするとそれが理由かもしれないのだ。
「処分は保留にしておいてくれ」
「相わかった」
逆にそれを利用することもできるだろう。そう考え、綱成は浅利と跡部の処分を一旦保留とした。
「武田と信州勢が和議を結ぶ可能性は決して低いわけではない……多目殿はどう思う?」
「なるほど、和議か。ふ〜む、手前も否定すっ気はねえ……ばってん、綱成殿よりはその可能性は低いと見ちょる」
「小笠原長時、か?」
元忠が腕を組みながら1つ頷いた。
状況は信州勢・北条・上杉・一揆勢と四者から攻められる武田軍の一方的不利。そして兵力で勝る上、主力を率いるのは大きな実績もない――中身を見れば決して無視できない働きをしてはいる――武田信玄を相手に、自分の方から和議を結ぶとはとても考えられない。韮崎に陣取っていた武田軍主力が信州連合軍に向かって進軍を始めたという情報も先ほど聞き及んだし、今頃はぶつかっている最中というところではないだろうか。だとすれば和議はないだろう。
あるとすれば武田の方から和議を申し入れること。そのためには兵力で劣る武田軍主力が信州勢に兵力的な大被害を与えるなり士気を大幅に下げるなり、何らかの手痛い損耗を与えることが必須だ。
「よしんば武田が信州勢に痛撃を与えることに成功したとしても、小笠原長時が侵攻を容易く諦めるとは思えねえやな。兵力差で勝りながら、しかも齢二十にも満たぬ小娘に負けたとあっちゃ、信濃守護の面子は丸潰れよ」
「群雄割拠の日ノ本にあって、信濃は特に多勢力が入り乱れる混沌とした地……すでに守護の面子などあってないようなものだと思うがな」
「綱成殿もなかなか辛辣だの。わっはっは!」
元忠が腰に手を当てて大口開けて笑う。その横で小太郎は目を閉じて黙っているが、綱成は彼も黒装束で隠した奥で苦笑しているのを察していた。
辛辣にもなる。綱成から見れば小笠原長時は上杉憲正と同じ暗愚。そのような者に厄介事を持ちかけられる立場はよくわかっている。敵ながら武田信繁の苦悩がわかるようで、綱成も愚痴の1つもつきたくなるというもので。
「にしても、上杉の侵攻に対して武田の迎撃がないっちゅうのが想定外や。甲武国境の守りは精鋭の大村衆と御岳衆のはず。連中、どこ行ったとや?」
「すでに配下に命じ、行方を追わせております」
如何に武田軍が一揆勢に信州連合軍と北条軍と上杉軍、この四者四方からの侵攻に対して割ける余力がないともとれるが、今回の武田軍本隊に大村衆と御岳衆らしき姿は確認されておらず、岩殿城に籠る信龍・昌辰ら岩殿城守備隊の方にも彼らがいるという話はなかった。てっきり甲武国境の守りを固めていると思っていたのだが、上杉軍は一切の抵抗なく進んでいるという。信州連合軍に対して同じく精鋭の武川衆・小尾衆は撤退を繰り返したそうだが、同じような動きを取っているなら風魔の忍者がこれに気づかぬはずがない。
「それにわからないのはもう1つある」
「武田信繁の『時間稼ぎ』……」
「ああ」
小太郎もわかっているらしい。ということはその辺りにも探りを入れているということだろうと、綱成は小太郎の優秀さを信用していちいち命令は出さない。
「武田軍主力が信州勢を早々に破って兵を回してくるまでの時間稼ぎだと最初は俺も思っていたが、今考えてみると、信州勢がそう簡単に兵を引くとも思えない。和議を結ぶにしても現状で小笠原長時が頷くわけもなし、痛撃を与えても小笠原長時は逆に意固地になって和議の申し入れを跳ね付ける可能性もある。此度の戦いで武田信繁の深慮ぶりはよくわかった……あの男がこれらのことを理解していないとは到底思えない」
少なくとも信州勢と武田は長らく互いを意識してきたゆえ、北条よりも良く互いの傾向や得意不得意をよく理解しているはず。今回、こちらを見事に罠にはめてくれた信繁が、小笠原長時の性格を理解していないと考える方にこそ無理がある。
信玄が西方の戦況を確たるものにして兵を回すことが前提にしての武田信繁と武田信龍の『時間稼ぎ』だとすれば、この前提はかなり危うい。小笠原長時はともかくも、慎重な向きで知られる諏訪頼重がこの前提に気づく可能性は充分にあるし、気付かれればそれを逆手に取られて武田にとって不利益な条件で和議を結ばれる可能性もある。
まだ、何かある。
唇を引き結ぶ。北条早雲でさえも気にかけた武田信繁という男。さすがは早雲だと綱成も納得していたつもりであるが、早雲はここまで見越して気にかけていたとすれば、まだまだ足りなかったのかもしれない。
「……どうされる、綱成殿? 進軍するか、一旦留まって岩殿城の落城を待つか?」
「……いや、上杉に先に甲府を抑えられるのは避けたい。兵力に差はあるが、相手は四千。そこまで大きな開きがあるわけではないし、いざとなればそれこそ小山田を動かすだけだ。これで動かないようなら御本城様と義姉上に奏上し、圧力をかける」
綱成は進軍を前提として答えた。小山田を挟むように進軍することでもしもに備えていた北条軍だが、上杉軍の介入により状況は変わりつつある。いざとなれば早雲も更なる兵の投入も考えてくれるだろうし、武蔵にいる北条軍に上杉軍の後背を突かせることもできる。
「綱成様!」
そこに女性兵が伝令としてやってきて、彼女からの知らせは綱成の進軍の意思をより固くさせることになる。
「小山田が動いたか」
「はい! 先んじて上杉の動きを知った氏康様が小山田に対して強く出兵を要請されたようで、当主小山田信有殿がこれを承諾。兵二千を率い、岩殿城に向かって進軍中です!」
「さすが氏康様じゃ。やることが早い。これで兵力的にも上杉と互角だべや。綱成殿、これでこっちも動けそうやで」
「ああ。全軍に通達だ。半刻後、兵を進める」
「甲府まで攻めのぼられますか?」
「いや、国中に攻め入りはするが、甲府までは無理だろう」
甲府・躑躅ヶ崎館には、武田軍の守備隊五百が残っている。これと信繁本隊が合流すれば、三千で攻めるのは少々心許ない。さらに上杉軍もいるし、武田軍主力が西方を捨ててまで舞い戻ってこないとも限らない。さすがにこれはもう深追いと言わざるをえまい。
ゆえに綱成が狙うのは、勝沼の館だ。
勝沼の館は甲府盆地から相模、あるいは武蔵に通じる街道が大菩薩嶺と黒岳を中心とする山々によって隘路となる要衝の地に築かれている。笛吹川上流の日川に面した断崖の上に築かれており、館とは言うものの実態は城構えに近い。郡内にも近く、武田の親族衆である勝沼氏が目付としての役割を負ってこの館を守っていた。
氏康が笹子峠を越えて進撃する上でも、上杉軍が進撃してくる上でも、この勝沼館は避けては通れない拠点である。ここを抑えておくことにより、氏康が来るまで綱成が勝沼館で上杉軍を釘づけにしておけばいいし、仮に武田と上杉が同調したとしても、勝沼の館を防衛拠点として使えばいい。仮に今回の戦は郡中を手に入れるだけに終わったとしても、ならば勝沼の館は今後の甲斐進攻の橋頭保としても使える。
「大変失礼なことを申し上げますれば」
「構わない」
「もし氏康様の本隊に何かあり撤退することにでもなれば、綱成様は敵中に孤立することになります」
「それがどうした?」
綱成は小太郎の懸念に対し、不敵な笑みを浮かべて振り向いた。
「この綱成、川越城を半年に亘り両上杉・足利から守り通した。あれに比べればどうということもない」
兵糧や兵の士気、城の堅固さから地の利の問題と、川越城の合戦とは相違点が多々あるが、それでも綱成は尊大なくらいに言い放つ。こう言われては、元忠も小太郎も返す言葉は肯定の1つだけだ。
「勝沼に向けて進軍する。兵に指示を」
「任せとけえ」
「小太郎。先導を頼むぞ」
「承知」
拳をぶつけ合わせて綱成は御坂山を仰ぐ。
この山より先こそ武田の本拠地。上杉如きにあの男の首はやらない。此度の失態はそれ以上の功績で以って払うだけだ。
綱成の頬に冷たい感触があった。
折しも、暗い雲から雨が降り始めてきていた。
【後書き】
大変長い間を開けて申し訳ありませんでした。
う〜ん、日本の土はやっぱりよく馴染む……海外なんてやっぱり旅行でちょっと行ければいいです。よりにもよって仕事で行くことになろうとは……。
また数ヶ月したら行かないといけない予定ですが、それまでにできる限り投稿できればと思っています。
今回は少し時間を戻し、信玄たち武田軍主力が信州連合軍とぶつかる直前の時間軸で進めています。甲斐西部の戦いとは逆に、東部の戦況がまずくなっている様子を描きました。常勝武田軍団と言えど、この時期から常勝とは行かずというところでしょうか。
昌盛が何だかアホの子に……う〜ん、先に描いていた秋山虎繁とキャラが被らないようにしようと思ったらこんな感じになっちゃいました。信繁に近づこうとする虎繁に対して、信龍ラブ(?)な昌盛。彼女たちでいずれ日常のギャグみたいなのを書いてみたいですね。ああ、忠次と虎盛の苦労が増えるのが手に取るようにわかる……。(笑)
ちょこちょこと各所で疑問を持ち上げつつ、上杉軍の侵攻開始と小山田の出陣。
『甲州擾乱』も後半戦に入っていきます。
ちなみに勘助が実は呪いなどを手掛けていたというのは、たまたま先日の新聞に載っていたのを見たからです。新聞って本当に貴重な情報源になりますよね。まあ、陰陽道に関わっていたかどうかまではわかりませんが……可能性はほとんどないと言うべきかな。
皆さまから指摘を頂きました。ありがとうございます。まだまだ情報収集不足というのか、基本的な知識が足りていないなと思います。やはり戦極姫SSと言えば……という某SSのあの著者の方は、どんだけすごい知識量と想像力、執筆の腕を持っておられるのかということを、書いていると改めて実感します。
>トーヤ様
本来の戦いはこんなSSのように上手くいくものでもなかったでしょうね。でも中にはすごい発想をしたり実際に大軍を少数で破ったりと、現実は小説より奇なりを体現した戦いもあったのですから、歴史は本当に面白いと思います。
>シュウ様
幾度のご指摘、ありがとうございました!
読んでいてあれも違うこれも違う、と目につくことが多いと思いますが、それでもお付き合い頂けていることは本当に嬉しく思います。
>通りすがりのジーザスルージュ様
正直、誇張にしてもやり過ぎたかと思っています。現代に残る甲州軍鑑などの資料に誇張は付きものとは言え。あれは後世の人の視点から、今に伝わる書物を読み解くと〜という視点から描いたものなので、誇張していてもいいかと思ったんです。現代でも5割の兵力損失は作戦失敗だとも言いますから、4割の損失は確かに実質的敗北ですよね。
以上の方々以外にも、メッセージをわざわざ下さった方々へも御礼申し上げます。ありがとうございます!
それでは失礼いたします。
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戦極甲州物語の21話目です。 | ||
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コメント | ||
先達様である作者様、ご挨拶遅れましたが毛並みの違うSS書いています者です。 次回の更新自分も楽しみにしています!(いた) 最近見つけて一気に読んでしまいました。次回の更新楽しみにしています。(timtim) お待ちしておりました!(赤トンボ) 待っていました!更新再開ありがとございます!!!(奄美) |
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