鏡の中で君を待つ 2 |
苦笑した、そのとき。
コン、コン――と、戸を叩く音がした。
俺は咄嗟に雪待に目配せをしようとしたが、そのときにはすでに、鏡から雪待の姿は消えていた。
雪待曰く、この鏡の中の世界とでもいうべき空間は非常に狭く、この部屋の中しか再現されていないらしい。雪待の使った魔法では、元となった鏡に映ったことのある風景、空間しか再現出来ない。そしてこの部屋の姿見は、どうやら梱包されてか、そうでなければ布か何かをかけて運び込まれたらしく、扉の外には真実何もないのだそうだ。そういうわけで、雪待はこの部屋の中に閉じ込められたような状態にある。だから、鏡の視界から外れたところで、この部屋の中にいるのには違いないのだ。
――あ、追記。鏡の中では腹は減らないらしい。髪も爪も伸びなければ、歳もとらない。排泄も必要ない……兎に角、肉体的な新陳代謝の類が全く行われなくなるという。
「開いてますよー……ってのも変かな」
「あ……し、失礼します」
「あれ、日森さん。どうしたの?」
彼女にしては珍しく、何だか緊張したような面持ちで、日森さんが入ってきた。日森さんとは部活動が同じだということもあって、割合よく話しをする。性格は明瞭で快活、向日葵みたいな女の子――というとただの能天気な阿呆みたいだね、と本人に言ったことがあるのだが、その時は二の腕を三分間ほど抓られた。案外攻撃的なところがあるのだ。皆も注意しよう。
「あ、うん、……えっと――あれ?」
日森さんは不思議そうに首を傾げる。俺は彼女の一挙手一投足に冷や汗を垂らしながら、平静を装った。
「ん?どうかした?」
「あ……ううん。今ね、三城久くんが誰かと話してたような気がしたんだけど……」
「え?あー……多分アレだ……俺さ、結構独り言多い方だから、多分それじゃないかな……」
半瞬ほど、心臓が止まったような心持ちがした。大丈夫、バレるわけがないと思う一方、日森さんに雪待を紹介してみれば、雪待と言う存在が俺の妄想ではないと証明できるかなあ、とも思う。……まあ約束がある以上、日森さんに雪待の事を話すわけにはいかないのだけれど。
ままならないもんだね。
「そ、そっか。あはは」
日森さんは若干不審そうにしながらも、明るく笑い声をあげた。こういう姿を見ていると、やはり彼女は夏の花のようだと思う。何というか、彼女は周りにいる人間を暖かい気持ちにしてくれる人だと思うのだ。
俺は意を決して言った。
「日森さん」
「な、何?」
「スカートの裾が鞄に挟まれて、大変際どい様相を呈しているよ」
「え?あ、あー!?」
まあ、暖かいというか生暖かいというか。そういう感じだな。ドジという程ではないのだけれど、少し抜けているところがあるのも、日森さんの特徴だ。
「日森さんは顔を真っ赤にしながら、服装の乱れを整えた。……文脈を無視して字面だけ追うと、何かえろいよね」
「一々実況しないで!?っていか、『えろいよね?』とか振られても私困るんだけど!?」
「えろいとか言われてもね……それは君、セクハラというものじゃないかな?」
「何これ!?何で私がセクハラ女呼ばわりされてるの!?」
「あはははは、冗談だよ冗談。冗句と書いてジョーク。日森さんて、冗談が分かるうえにリアクションが良いからさ」
「………………はあ……まあね、遊ばれてるんじゃないかなあってのは、薄々感じてるけどね……」
「いや、遊んでるんだけどね。断言するよ。誓ってもいい」
「そんな事誓わないでよ……」
「そう? それはそうと、遊ぶとか遊ばれるとかって表現は、何かこう卑猥な響きがいててててて!? 痛い!千切れる!!」
「いい加減にしようね……?」
「い、いい加減にさせていただきます……」
二の腕の肉が引き千切られそうだったので、俺は日森さんの仰せに従って、いい加減にした。
「いてて……これは相当数の細胞が死滅したと考えて良いんじゃないかな……」
「文句を言うと、次は顔面の細胞が死滅する事になるかもしれないよ?」
「断固遠慮させていただきます……で、だ。日森さん、何か用事があって来たんでしょ?」
「あ、うん。そうそう……えっとね…………三城久君、課題はかどってるかなーって」
何だか歯切れの悪い物言いをする日森さん。何かここのところ、彼女の様子がおかしいような気がするのだが……気のせいじゃないよなあ、多分。最近何か、そんなに深刻にまずい事をした覚えはないのだが……しかし思い当たる節は無数にあるんだよなー……。
まあいいや、思い出せないんだから、どうにも仕様がない。
「ん。……ああ、結構進んでるかな」
この部屋から見える風景を描くという口実で、俺はこの部屋に居座っている。当然、他の部員は仮設の美術室で活動を行っているわけだ。日森さんは、一年生の中では、いつの間にかまとめ役のようなものになっていて、そのせいもあってか、ちょくちょく俺の様子を見に来ていたりする。
作業はといえば、進んでいるような進んでいないような……そんな状況ではあるのだが、俺にしては大分速いペースで進んでいるといえるだろう。これまでは、そもそも部活動自体を休みがちであったから。
「見る?」
「うん」
少し躊躇いがちな風に、日森さんは俺の隣にやってきた。
「……あれ?風景画だって聞いてたんだけど。変えたの?」
「うん。まあ何というか……特に理由はないんだけどね。心境の変化というか」
大嘘。外の風景を描こうとすると、どうしても雪待に背を向ける形になってしまうからだ。俺は話しかけられると、そっちを見てしまうものだから――風景画を描いていたら、仕舞いには首が痛くなってしまった。それで仕方なく、室内の静物を描くように急遽変更したのだ。
雪待が聞いていたら笑うかも知れなかったが、どうやらあいつは人の話を立ち聞きするようなことを好まないらしく、鏡の奥に引っ込んでいた。……まあ単純に、自分の存在が露見するのを恐れているだけなのかも知れないが。どのみち何処にも行けないのだから、どうしたところで、会話自体は聞こえてしまうのではあろうけれど。
「心境の変化かあ……うん、そんな感じだよね」
「ん、そんな感じって?」
「あ……うん。最近の三城久君、何か変わったみたいな気がしたから」
「そう……かな?」
「そうだよ。三城久君、部活動にこんなに熱心じゃなかったし」
「そうかな?」
「うん」
「ふうん……まあ、確かにそうかも知れないな」
「三城久君にしては、やけに物分りがいいね」
日森さんは小さく笑った。それは明朗快活な彼女にしては控えめな、しかしいつになく楽しげな――そんな笑みだった。
何だか、不思議な感じがした。
「あれ、こっちは何?」
俺が座っている椅子の側に、棚がある。その上に開いたままで置き忘れていたスケッチブックを、日森さんは目聡く見つけてしまったようだった。
「あ……ああ、人物画の練習」
そこに描かれているのは、雪待の姿だった。鏡の中で、椅子に座り優雅に微笑む雪待の肖像。未だ完成してはいない(雪待はあれで、案外じっとしていられない奴なのだ)のだが、我ながら良いものになりそうだという確信があった。
「……綺麗な人だね」
日森さんは、スケッチブックを両の手に持ったまま、ぽつりとそう言った。その背中は、何かを問いたそうな……そんな風に見えた。何となくいたたまれなくなって、俺は言う。
「だろ? 鏡を見て描いたんだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。というか、せめて冗談と言って欲しいね」
「……面白くない嘘は冗談とは言わないよ。それにこれ、女の子でしょう?」
「んー……多分」
実際にこの眼で見て、確かめたわけじゃないからな。
まあそれを言ったら、日森さんだって『多分女』なんだけど。だからといって、『あなたの性別は世に言うところの女性というものに分類されますか?』などと聞いた日には、俺は多分此の世から追放されてしまうだろう。
だから、多分。
「多分なの?」
「多分ね」
「……変なの」
日森は首を傾げて、小さく微笑んだ。
「あ、もうこんな時間だ」
日森さんはスケッチブックを閉じて、元の場所に戻した。
「じゃあ私、帰るね」
夕陽の中、日森さんは踵を返す。
「あ」
何かを思い出したように、
日森さんは、戸を開いたところで、急に立ち止まった。
「この部屋、他に使う人がいないからって、道具をそのままにして帰っちゃ駄目だよ?」
「……バレてんだ」
「バレてるよ」
バレていた。何だかなあ……日森さんには何もかもお見通しなんじゃないかとすら思えてしまう。――不思議と、不快ではなかった。
「じゃ、また明日ね」
「ああ。また明日」
日森さんはいつものように快活に笑って、去っていった。
戸が閉まると、途端に、部屋が放課後の静寂に沈むような気がした。
何となく手持ち無沙汰で、俺は鏡にきな粉棒を投げ込む。
「君も隅に置けないなあ」
「何でそうなるんだよ?」
「君も隅に置けないなあ」
「いや、だから何で……」
「君も隅に置けないなあ」
「えーと……何か怒ってるか、お前?」
「君も隅に置けないなあ」
「……あのう、一体何時まで続けるつもりでしょうか?」
「君が泣くまで」
雪待は、拗ねているようだった。
説明 | ||
1の続き。短いので暫定です。 | ||
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コメント | ||
そうですね。こういうキャラは可愛いと思います。(臓物島) ヤキモチですね、雪待可愛い。まぁ惚れていると言ってたし当然かな。(華詩) |
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