【K】土地神様と鬼の話/2019.08.02追記アリ |
【土地神様と鬼の話】
ふと顔を上げ楠原は、ぐるり、辺りを見回し、あれ? と小さく漏らした。気づけば一緒に茸や栗を取りに来ていた仲間の姿はなく、心なしか山の雰囲気も知った物とは違っている。
思ったように食材が見つからず、知らぬ間にひとり奥へ奥へと踏み込み、はぐれてしまったといったところか。
「まいったな」
この地へ来て間もないこともあり、地理に明るくない。加えて陽も暮れかかっており、遠くから聞こえる烏の鳴き声に急かされ、とにかく一刻も早く戻らないと、と来た方向すらあやふやなまま道などない山の中を足早に移動し始めた。
神社の神主である宗像礼司の目に止まり、楠原がこの地へやってきたのはほんの一ヶ月前のことだ。座学の後は自由時間であるが、身を寄せている神社への奉仕も兼ねて境内や社殿の掃除をしたり、山に入り薪や山の幸を集めたりと、そこまでが仲間全員の日課となっている。
神社には楠原の他にも宗像が集めた子供たちがおり、表向きは読み書き算盤を教え将来的には宗像の補佐として励んでほしいといった物であるが、実際のところはそうではない。
先にいた者たちはみな気さくで、特に日高は楠原をまるで本当の弟のように可愛がった。だが、彼らは人とは異なる存在であると、誰に教えられるでもなく楠原は理解した。当の楠原本人もそうであったからだ。
そして当然のことながら、彼らを集めた宗像も人ではなかった。
「まさか土地神様自身が神主やってるとは、誰も思わないよなぁ」
涼しい顔をして人に紛れている神の顔を思い出し、楠原は、はは、と力なく笑う。人ではないことはわかっているが、その正体は未だ持って不明なのである。それは宗像だけではなく他の者にも言えることなのだが。
生粋の妖か混じり者かすら不明なのは、正体を知られれば自ずと弱点も知られるからだと教えられ、どこから話が漏れるかわからない為、用心に用心を重ねてのことなのだと、その徹底ぶりに驚いたものだ。
気を紛らわせるためにあれこれ思い返していたが陽は着実に沈み始め、闇の帳がすぐそこまで迫っている。焦る気持ちとは裏腹に木々は深く生い茂る一方で、村に近づいている気配は欠片もない。
そういえば日高たちは神社の裏手の山には鬼が居ると言っていなかっただろうか? と不意に思い出し、楠原は、ぶるり、と身を震わせる。妖の中でも鬼は別格だ。大半の者は気性が荒く、それだけでも関わりたくないと思わせるに十分だが、その強さは桁外れなのだ。鬼が戦っている姿を見ただけで魂が食らわれるとまで言われている程だ。さすがにそこまでいけば眉唾だが、恐怖心を煽るには十分すぎる話である。
不安からか背負い籠の紐を、ぎゅっ、と握り、大きく踏み込んだ刹那、呆気ないほどに足下が揺らぎ身体が宙に投げ出された。共に落ちる落ち葉や土砂に斜面を転がり落ちているのだと楠原が理解したのと、視界の隅に大きな影を捉えたのを最後に意識は闇へと落ちたのだった。
ぼそぼそ、とどこからともなく聞こえてくる声に宗像は書物を繰っていた手を止め、やれやれ、と言わんばかりに軽く息を吐いた。室内は蝋燭を必要とする時刻で、子供たちは常ならば夕餉の席に着いているはずである。
「まったく、困った子たちです」
ふっ、と燭台の明かりを吹き消し、宗像は静かに腰を上げた。声の出所は境内の隅であると迷いのない足取りで向かえば、見慣れた小さな頭がひとかたまりになって何事かを懸命に話している。
聞き耳を立てるまでもなく良く通る日高の声に薄く笑みを浮かべながら、宗像はやはり音もなく子供たちへと近づくや、「一体なんの相談ですか」と頭上から声を降らせたのだった。
円陣を組んで互いの顔しか見ていなかった子供たちは文字通り、ひゃっ、と飛び上がり、月を背負った宗像を見上げて、あわわ、と今更ながらに狼狽え出す。
「おや、ひとり足りないようですが」
どこか子供たちの反応を楽しんでいるような空気を醸しつつ宗像が問えば、全員が途端に神妙な顔つきになり、ちらちら、と互いの顔を伺ってから榎本が「実は……」と口火を切った。
一通り話を聞いたところで宗像は全員の顔を順番に見やり、それで、と静かに口を開く。
「探しに行く相談をしていた、と。本当に困った子たちですね」
ふぅ、とため息をつきつつ、ゆるゆる、と首を振る宗像の様子から叱られると思ったか、全員が反射的に瞼を、ぎゅっ、と閉じ、首を竦めた。
「どうしてすぐに私に報告しないのですか。皆になにかあっては困ってしまいます」
だが続いた言葉は叱責ではなく、おそるおそる目を開ければ宗像は穏やかな眼差しで子供たちを見ており、それに安心したか道明寺が、ふぇ、と情けない声を漏らした。それが合図となったか「れーしさま、ごめんなさい」「タケルを見つけてやってください」「あいつきっと道を間違えたんだ」「鬼に食べられちゃってたらどうしよう」と皆が口々に半べそで訴える中、宗像はきちんと全員の言葉を聞き分け、ふむ、と何事か思案するように背後の山を見やった。
暫し無言で山を凝視していた宗像だが、
「心配はいりません。明日の朝には無事に帰ってきますよ」
事も無げにそう言うと子供たちの物問いたげな視線を受け流し、全員を伴って夕餉の席へと向かった。
翌日、宗像の言葉通り楠原は早朝に元気な姿で鳥居をくぐり、出迎えた日高に「心配させやがって!」と一発はたかれた後、よかったよかった、と髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫でられたのだった。
その光景を物陰から眺め薄く笑みを浮かべるや、宗像の姿はその場から忽然と消え失せた。
「お礼くらいさせていただけませんか」
山の中腹へと一瞬で移動した宗像が前を行く大きな背に向かって言葉を投げれば、一瞬、肩を揺らしはしたものの男は振り返ることはなく、その歩みを止める気配もない。
「おや、つれないですね」
「礼を言われるようなことは、していませんので」
「あなたが助けてくれた子供は私が面倒を見ている子でして、親代わりとして礼を述べるのは当然と思いますが」
ひらり、と軽やかに倒木を越え難儀した様子もなく悠々と後を着いてくる宗像に、男は苦い表情のまま僅かに片眉を上げる。
「神主様が『鬼』と関わっては、村で悪い噂が立ちます」
「実際はその『鬼』が村を守っているのですから、おかしな話です」
くつくつ、と喉奥で笑う宗像を不快に思ったか、鬼はやはり振り返りはしなかったが、その歩みは、ぴたり、と止まった。
「本当に律儀な方ですね、善条さん。先代の土地神との約束を未だに守り続けているのですから」
「私は、ただ羽張の……先代の眠りを妨げないよう、ここを守っているだけです」
山向こうの土地神とのいざこざに巻き込まれ、先代の土地神は神格を失い永い永い眠りについた。村のためではなくあくまで先代のためだと言う善条に、宗像は「そういうことにしておきましょう」と相手が見ていないにも関わらず軽く肩を竦める。
「あなたは、あの子たちをどうするおつもりですか」
不意の問いかけに宗像は軽く瞠目するもすぐさま目を細め、ふ、と軽く息を吐くように笑みを漏らす。
「あなたの負担を軽くして差し上げようと、ただそれだけです」
軽い調子で告げられたが、その内容は決して軽いものではない。善条はたまらず振り返るや宗像の胸倉を掴み上げそうになるも寸でのところで堪え、ぐっ、と強く拳を握った。
「私は私のやり方で、私の地を守ります。そのためには盾にも矛にもなりうる力が必要なのです」
ただ……、と続けられた宗像の声音が場の空気にそぐわぬ柔らかなもので、善条は訝りつつも言葉を差し挟むことなく次の音を待つ。
「なにぶん幼い子たちですので、まだまだ先の話ではありますが」
これまで通りあなたには期待していますよ、と何食わぬ顔で、しれっ、と言い放った宗像に呆れ果てたか、善条は眉間に深い皺を刻むと苦々しい声を出した。
「では、これまで通り私には関わらないでください」
「……えぇ、出来うる限りご要望にはお応えしたいところです」
一瞬の間がなにやら意味深ではあるが、元から弁の立つ方ではない善条はこれ以上の会話を由とせず、早々に打ち切る方を選んだのだった。
別れの挨拶すらせず再び背を向けた善条だが、ひとつだけ、と唇に乗せた。
「鴉が……日に何度か山向こうから来ています」
「あぁ、おそらく様子見ですね。さすがあちらの参謀は情報通だ。それにしても血の気の多いあの鴉を寄越すとは、よほど人材不足なんですかねぇ」
くつくつ、と愉快そうに喉を鳴らす宗像は、恐らく蛇のような狡猾な表情をしているのだろう。目にせずとも容易に想像できるそれに、善条は唇をへの字に引き結んだ。
陽が中天に差し掛かった頃に訪れた不意の来客を前に、善条は表情を動かすことこそしなかったが、その眼光の鋭さは相手を射殺さんばかりだ。
「なんのご用ですか」
「そんな恐い顔をしないでください。この子がどうしてもあなたにきちんとお礼をしたいと言うものですから」
連れてきました、と己の腹の辺りで揺れる黒髪を、くしゃり、と撫でながら朗らかに言葉を連ねる宗像と、怖さ半分、興味半分といった眼差しで見上げてくる楠原を前に、善条は諦めの息を吐いたのだった。
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2013.02.23
【ちみっこたちはれーしさまがだいすきです という話】
おや、とまるで他人事のような声を上げ、宗像は己の小さな掌を、ぐっぱーぐっぱー、と二度ほど開閉させた後、これは困りましたね、とやはり他人事のような呟きを漏らした。鏡を見るまでもなく身の丈が小さくなったのは、すっかり脱げ落ちた寝間着が雄弁に語っている。
着物は神力でどうにでもできるが、問題は──
「れーしさま、おはようございます!」
障子の向こうから寄越された元気の良い朝の挨拶に、困りましたねぇ、と宗像は再度同じ呟きを漏らした。
「なんで礼司さま、ちっちゃくなってるんですか」
「わー、俺らよりちっちぇー!」
台所で朝餉の準備をしていた弁財のところに、宗像を起こしに行った道明寺が意味不明な言葉を喚き散らしながら駆け込んできたことにより、同じく台所で配膳を手伝っていた秋山と加茂、つまみ食い常習犯の日高は、よくはわからないが宗像になにかあったのは確かだ、と揃って主の私室へと向かい、彼の現状を知ることとなったのだった。
絶句している秋山と加茂を余所に弁財が至極尤もな疑問を投げかけ、日高はといえば自分たちよりも更に小さな宗像の姿に何故かテンションが上がっている。
「そうですね、まぁ、あれです。風邪のようなものです」
さらり、と淀みなく返され、その余りにも堂々とした物言いに飲まれたか、子供たちは、あぁそうなのか、と深く考えることなく納得し、だいじょうぶですかー、痛いところないですかー、と心配の声を上げた。
「えぇ、今日一日ゆっくり休んでいればすぐによくなります」
布団を挟んで左右に分かれて座っている子供たちを交互に見やり、安心させるかのように微笑んでやれば、心配で眉尻を下げていた秋山が、ぱっ、と立ち上がり、
「お粥さん作ってきます」
と、一早く部屋を後にし、続いて立ち上がった加茂は、
「水桶と手拭い持ってきます」
と、小走りに出て行き、日高がどこかワクワクソワソワした調子で、
「お粥さんふーふーしたげます!」
と、身を乗り出せば、隣にいた道明寺が、
「えっずるい! 俺も俺もー!!」
と、負けじと身を乗り出すも、
「ばかなこと言ってないでメシの支度手伝え」
と、ふたり揃って弁財に首根っこを掴まれ、ずるずる、と引き摺られていったのだった。
えい、と栗のイガを踏みつけ中身を出しながら、布施が「せりちゃん、いつ帰ってくるんだろーなー」と漏らせば、アケビをもいでいた榎本が「当分、無理なんじゃないかなぁ」とやや沈んだ声音で答える。
「ご機嫌うかがいだっけか? こくじょうじのじい様の」
「そうそう。あの爺様すごいよねぇ」
えいえい、と立て続けにイガを踏むだけ踏んで回って栗は放置の布施の問いに、それを拾うことに専念している五島が、ゆるゆる〜、とした口調で相槌を打つ。
「あー、せりちゃんのあんこ攻撃にひるまなかったんだって?」
「んー、れーしさまに『おまえのところではあんこの塊をおはぎと言うのか』って言いながらも、ふつーに食べてたらしいよ。一緒に居た銀髪の異人さんも笑ってたって」
お茶を持っていった秋山から聞いた、と五島が答えれば、布施は『淡島作のおはぎ』を思い出したかやや青ざめた顔で「あれ、米要素皆無だったよな」と胸元を押さえた。
「こくじょうじのじい様といやぁ、あの姿は世を忍ぶ仮の姿で本当は若いって噂あるの知ってるか?」
榎本のもいだアケビを籠から、ひょい、と拾い上げ、遠慮無く囓りつつ日高が言い出せば、そんなワケねーじゃん、と布施が容赦なく一蹴する。
「爺様の話はいいとしてさ」
まだなにか言いたげな日高を軽く小突きながら榎本は全員の顔を一通り見回し、こてん、と首を傾げた。
「楠原、どこ行ったの?」
ひのふのみ、と各々が指さし確認をしながら人数を数え、同時に、あ、と声を上げた。
「そんなこんなで、れーしさまが小さくなっちゃって大わらわですよ」
はいどーぞ、と途中でもいできた柿を剥き終わった楠原が、切り分けたそれを善条へ向かって皿ごと差し出せば、突き刺さった楊枝を摘むことなく善条は深い息をひとつ吐いた。
「どうして君はここにいるんだ」
「えーと、また迷っちゃいました」
見え見えの嘘をカバーしようというのか、えへ、と笑う楠原に善条は軽く額を押さえる。何度も「ここに来てはいけない」と言い含めているにも関わらず、週に三度は「迷っちゃいました」と顔を出す楠原を強く拒絶できないのは、どうやら情が移り始めているかららしい。
「ご飯運んだりご用聞いたりは年長組がやってるので、僕たちはまぁ、いつも通りというか」
全員さほど歳は離れていないが、最年少はこの楠原で齢十だと聞いている。最初に宗像が連れてきた秋山と加茂、弁財に道明寺が十二だったか、と遠目にしか見たことのない子供たちを思い出しながら、善条は一方的に話し続けている楠原に相槌こそ打たないが、小さく頷いて聞いている事を示す。
「『俺たちもれーしさまのお役に立ちたい』って日高たちはちょっと不満そうでしたけど」
「君は、違うのか」
「んー、来たばかりだし、そこまでれーしさまのことよく知らないし。あ、でも好きか嫌いかでいえば好きです」
まだ少し果肉の固い柿を頬張りながら、えへへ、と笑う楠原に、そうか、と返して善条も柿を口へと運ぶ。
「善条さんはれーしさまのこと嫌いなんですか?」
悪気の欠片もない純粋な問いに一瞬、喉を詰まらせるも、善条は困ったように顔の傷を一撫でしてから、どうかな、と曖昧に笑った。
陽が落ちる前に帰りなさい、と善条に途中まで送られ、その道すがら彼と共に集めた食材と共に楠原が神社へと戻れば、日高たちも随分と足を延ばしたのか、常とは比べものにならない量の入った籠が台所に並んでいた。
「はりきったなぁ」
その隣に背負い籠を下ろし、ただいま〜、と呑気に皆が居るであろう部屋を覗き込むも予想に反して誰も居らず、そういえば時間的に台所に誰も居ないのも妙だ、と気づく。かまどを覗き込めば冷え切ったそれは灰が綺麗に掻き出されており、昼以降、誰も火を起こしていないと知れた。
全員がどこに行ったのかは考えるまでもなく、楠原はなるべく足音を立てないよう廊下を行き、宗像の私室の前で静かに膝を折った。
「れーしさま、開けていいですか?」
潜めた声に呼応するように、どうぞ、と寄越された声も、空気に溶けるような静かなものだ。中に入る気はないのか障子を細く開けただけの楠原に、宗像は手にしていた書物を膝に広げたまま薄く笑んで見せる。
「なにか掛ける物を持ってきて貰えますか」
今日一日のことを順番に報告していたのか、行儀良く並んで掛け布団に突っ伏すように寝入ってしまっている子供たちを起こさぬよう、透き通った声でお願い事を口にする。
「よく頑張ってくれましたからね」
疲れたのでしょう、と愛しそうに全員の寝顔を見つめる宗像は、そこに居る誰よりも幼い容貌をしているのだが、眼差しだけは常と何ら変わりない。
しつれいします、と小声で断りを入れてから室内に踏み込み、押し入れから布団を引っ張り出すも、楠原自身余り身体は大きくないためその背は、よろよろ、と揺らぎ少々頼りない。足りない分を他の部屋から持って来させるのは酷と思ったか、後は自分の綿入れを使うよう宗像は指示を出した。
起きたときにケンカにならないといいけど、と思いつつも楠原は素直に従い、最後の一枚を日高の身体に掛けながら、そうだ、と小さく声を上げた。
「れーしさま、なにか食べますか? エビカズラ穫ってきました」
僕じゃなくて善条さんが穫ってくれたんですけど、と楠原が正直に言えば宗像は、くつり、と喉奥で笑い「本当に困った子ですね」と、彼が善条の元に通っているのを黙認している自分を棚に上げて柔らかな声音で漏らした。
「ですが、楠原君はそれでいいのです。もっともっと善条さんを困らせてあげてください」
「えっ、れーしさまは善条さん嫌いなんですか!?」
困らせる=いじわるをすることだと受け取ったか、楠原が驚いた声を上げれば、宗像は「とんでもない」と少々大袈裟に目を丸くする。
「私は好きですよ。むしろ嫌われているのは私の方です」
羽張が居なくなってから閉じた世界で独り生きている鬼を、この子供なら此方側に引っ張り出すことが出来ると宗像は確信しており、それは打算のない自然体でこそ為し得るのだということもわかっている。
とても残念です、と眉尻を下げるもどこか愉快そうな宗像を不思議そうに見やり、楠原は、善条さんがはっきり答えてくれなかったことと関係があるのかな、とぼんやり思ったのだった。
きしり、と微かに上がった音に加茂は、むー、と不満そうな声と共に意識を浮上させる。
「どーみょーじ、うるさい……」
どれだけ注意しても足音を立てて歩く癖の直らない道明寺が動き回っているのだと思い、寝惚け半分に文句を言えば、隣で丸くなっていた道明寺が、なぁに? とこちらも負けず劣らずの寝惚けた声で返してきた。
「動き回るな、うるさい」
「動いてないよぉ」
同じ布団で寝ているふたりの間の抜けた会話で目が覚めたか、秋山が「ふたりともうるさい」と窘めれば、つられて起きた弁財が何かに気がついたか、「ちょっと静かにしろ」とやや強い調子で言葉を発した。
なになに? と状況が飲み込めず更に声を上げようとする道明寺の口を、むぎゅり、と加茂が強引に掌で押さえて黙らせた後、全員が息を殺して耳をそばだてる。
きしきし、と小さくはあるが確かに近づいてくる音があり、その音の間隔から廊下をやってくるのは子供ではないと知れた。
「だ、だれぇ……?」
「しっ」
既に半べそになっている道明寺を慰める余裕もなく、年長組は緊張の面持ちで廊下側を凝視する。最早、空耳では済ませることの出来ない足音と、自分たちの激しい鼓動で緊張が頂点に達したその時、音もなく開いた障子から、ぬっ、と現れた大きな影に、子供たちは堪らず「きゃーッ!」と甲高い悲鳴を上げるや布団から飛び出し、向かいで寝ていた日高たちを踏みつけたことにも気づかないまま壁際まで逃げた。
「なっ、なんだぁ!?」
思いっきり背中を踏まれた日高が、がばり、と起き上がり、寝惚け眼のまま室内を、きょろきょろ、と見回すや、
「ぎゃー! なんかデカイの居るぅーッ!!」
と、大声を上げ、榎本たちを叩き起こして回り、綿入れを抱き締めて半分寝た状態で涎を垂らしている五島を引っ張って、どうにか年長組の元へと辿り着いた。
「え? せりちゃん?」
「んなわけねーだろ! デカイのはおっぱいだけだろ!! アレはどう見てもちげーよ!」
こちらもまだ寝惚けているのか、布施のぼけた反応に日高が即座に突っ込む。
一塊の団子状態で、がたがた、震えている子供たちに面食らったのは善条だ。夜陰に乗じてやって来たはいいが、まさか全員がここにいるとは思いもせず、迂闊だった、と己の行動を悔やむばかりだ。
ここで下手に声を掛けよう物なら混乱は更に大きくなり、収拾がつかなくなるだろうことは容易に想像できた。さてどうしたものか、と黙りこくっていれば、それすらもが恐怖の材料となったか、子供たちは、あわわわわ、とその場から動けない。
出直すか、と善条が、ちら、とこの騒ぎに気づいた様子もなく眠っている宗像に目をやった刹那、子供たちは、はっ、と呪縛から解き放たれたかのように畳を蹴ると、善条と宗像の間に立ちはだかった。
「れ、れーしさまは俺たちがまもるっ!」
だが、割って入ったかと思えば威勢の良い言葉とは裏腹に、やはり一塊の団子状になってしまい、声も小刻みに震えている始末だ。
これは本格的に出直した方がいい、と善条が弱り顔で顔の傷を一撫でした視界の隅で、のそり、と小さな影が起き上がった。
「あれ? 善条さん?」
ずるり、と大きな綿入れを引き摺って、とてとて、と近づいて来るのはひとり離れた場所で寝ていた楠原で、なぜ大騒ぎをしているのか理由がわからないのか、不思議そうな顔で皆を見てから、ぺこり、と善条に向かって頭を下げた。
「れーしさまの様子見に来てくれたんですね。ありがとうございます。あ、それお薬ですか?」
善条が手にしている蓋の付いた陶器の小さな壷に気がついたか、再度、ぺこり、と頭を下げてから躊躇無く手を伸ばす。
「あぁ、うん」
どこか、ほっ、とした面持ちで壷を手渡し、善条は軽く楠原の頭を撫でてから、これで用は済んだと踵を返そうとした。だが、はっし、と中身のない袖を握られ、何事かと軽く目を見張る。
「お茶いれますから、ゆっくりしてってください」
楠原の爆弾発言に固唾を呑んで成り行きを見守っていた子供たちから、声にならない悲鳴が上がったのだった。
チチ、と外から聞こえる雀のさえずりに宗像はゆっくりと瞼を持ち上げ、顔の前に己の掌を翳した。
「戻ってませんか……」
やれやれ、と溜め息混じりの言葉と共に起き上がり、ふと、隣室とを繋ぐ襖が開いていることに気づき、僅かに片眉を上げる。何事かとよくよく見れば、きちんと並べられた布団に子供たちが寝ていた。
障子を透かして届く光はまだ夜明け前の物だが、日の出は近いようだ。そろり、と寝床から抜け出し、ひたひた、と廊下を行けば、朝靄の中に佇む背中が見えた。
「どういった風の吹き回しですか」
ひたり、と足を止め大きな背中に言葉を投げかければ、振り向いた男ではなくその更に上から「おはようございます、れーしさま」と朝の挨拶が降ってくる。
目礼を寄越してきた善条は肩に楠原を乗せており、宗像は、鬼も子供には形無しですね、と喉を鳴らした。
「善条さんはれーしさまを心配して来てくれたんですよ」
お薬持って、と肩車をされたまま楠原が昨晩のことを説明すれば、傍目にはわかりにくいが善条は僅かに顔を顰める。
「放って帰るのも気が引けたので……」
ただそれだけです、と話を打ち切った善条の頭上では楠原が彼とは対照的に、にこにこ、している。宗像の傍を頑として離れなかった子供たちが睡魔に負けて寝入ってから、ひとりひとり布団に運んでやっている姿をしっかりと見ている身としては、善条がどう言ったところで『いい人だ』としか思えないのだ。
「それで、楠原君はどうしてそこに居るのですか?」
「日の出がよく見えるようにって、善条さんが」
えへへー、とこれまた嬉しそうに笑う楠原の口を塞ぐわけにも行かず、善条は敢えて口を挟まずだんまりを決め込む。
「そうですか。では、私もお願いします」
さも当然とばかりに、さらり、と言われ、善条はわけがわからないと顔に貼り付けたまま宗像を凝視する。
「私も綺麗な日の出がみたいのですよ。肩には楠原君が居るので抱っこでお願いします」
さぁ、と言葉と態度で促してくる宗像を半眼で見下ろした後、善条は諦めたかのように緩く息を吐くと片腕で小さな身体を掬い上げた。
「落としても恨まないでください」
「落ちるときは彼も一緒ですよ」
身体を支えるためにか肩から垂れた楠原の足を宗像が掴んで見せれば、善条はなにも言わず唇をへの字に引き結んだ。
「そういえば善条さん、角ないですよね?」
頭部や額を遠慮無く撫で回していた楠原が不思議そうに問えば、善条が答えるよりも早く宗像が口を開いた。
「怒ると出てきますよ」
「そ、そうなんですか」
「えぇ、見てみたかったら頑張って怒らせてください」
この辺りからですよ、と額の中央から右に寄った所を指さし、くつり、と笑った。
後日、善条が鬼だと知った日高たちに「タケルすげーすげー!」と、楠原は羨望の眼差しで見られたという。
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2013.02.26
【ちみっこたちが好きではない伏見さんと鬼が好きな楠原君の話】
ただいま戻りました、と私室に座す宗像の前に現れたのは、旅装を解き見慣れた赤の袴へと着替えた淡島だ。いろいろと話を聞く前に同行させた者の姿がないことを指摘すれば、淡島は、ゆうるり、と眦を下げ、子供たちに見つかってしまいました、と困りつつもどこか仕方がないと言いたげな笑みを浮かべる。
「おや、それでは仕方がないですね」
元から咎める気はなかったか、それを受け宗像も眦を下げて小さく笑った。
荷物を自室へと置き、くたびれきった旅装から袴へと着替えたところで、伏見はやっと人心地ついたか、ふぅ、と小さく息を吐いた。
着替えたらすぐに報告に向かいます、との生真面目な巫女の言葉に、ちっ、とひとつ舌打ちをしてから「わかりました」と答えれば、淡島は僅かに片眉を上げただけで叱責が飛んでくることはなかった。おそらく説教よりも報告を優先させたのだろう。
報告ついでに渡してしまうか、と伏見はいくつかの手土産を風呂敷に包み、すたん、と廊下に面した障子を開けた。
「あ、ふしみさんだ」
廊下をいくらも進まぬうちに背後で上がった声に伏見は隠すことなく嫌そうな顔をし、まるで聞こえなかったと言わんばかりに歩調を緩める気配は微塵もなく、ずんずん、と進んでいく。
だが、ぱたぱた、ぱたぱた、と駆け寄ってくる足音はひとつではなく、各々が「ふしみさん、お帰りなさいー」「おかえりなさいー」「お仕事どうでしたー」と声を上げながら、伏見の無言の抵抗も虚しく、ぐるり、と取り囲んでしまう。
「いつ戻ったんですか」
「ぜんぜん気がつかなかったー」
一応、控え目に聞いてくる秋山と無邪気にまとわりついてくる道明寺に、気づかれないように戻ってきたんだよ、と内心で呻きつつ「おまえら、どけ」と押しのけて進もうとするも伏見が移動すれば子供たちも一緒になって移動し、包囲の輪は変わることなくそこにあり続けた。
「おみやげはー? ふしみさん、おみやげないんすかー?」
遠慮のえの字もない日高に『このクソガキ』との思いを込めて盛大に舌打ちをしてから、伏見は面倒くささと苛々の入り交じった声で、あーくそ、と漏らす。
「あー、わかったからそこ並べ。ほんと面倒臭いな、お前ら」
気怠げに手を振って指示すれば子供たちは素直に包囲網を解き、秋山を先頭に行儀良く一列に並んだ。
ほらよ、と風呂敷包みからべっこう飴と笹団子を取り出し順番に渡していけば、ありがとーございますー、と礼を述べ、子供たちは、きゃっきゃ、とはしゃぎ、そんな彼らを伏見はやはり面倒臭そうな眼差しで見やる。
早速、立ったまま、もしゃもしゃ、と笹団子を頬張る日高の隣で、楠原が何事か思案しているのか難しい顔で、じっ、と手中のお土産を見ていることに気づき、ちっ、と舌打ちが漏れた。
「なんだよ、気に入らないのか」
「あ、いえ、そうじゃなくて、その、今おなかいっぱいなので、あとで食べようと……」
「とか言っちゃって、あの鬼と一緒に食べたいんだろ」
こつん、と肘で楠原の脇腹を小突きながら日高が、にしし、と笑えば、そんなこと思ってません、と楠原は慌てて否定するが、きょろきょろ、と定まらぬ視線は正直だ。
「鬼?」
「ほら、裏山に居るおっきな……」
「あぁ、隻腕で片角のあの鬼か」
この位置から見えはしないが山の方角に顔を向け、伏見は独り言のように漏らす。
「片角?」
不思議そうに問うてくる楠原を無視して、伏見は止めていた足を再び踏み出した。
「お前ら、いつまでも遊んでないで薪でも拾ってこいよ」
冬はすぐそこだ、とぶっきらぼうに言い捨てて廊下を行く伏見の背に、ふしみさんごちそうさまでしたー、と子供たちの行儀の良い声が響く。それに応えることも表情を緩めることもなく、伏見は暫し無言で足を進めていたが不意に動きを止めた。
「なにニヤニヤしてんですか。すごく気持ち悪いんですけど」
「伏見君は優しいですねぇ」
「……ッ、いつから見てたんだアンタ」
通り過ぎようとした部屋の中、肩口で障子に凭れるようにひとり佇み、にこにこ、と笑みを浮かべている宗像に悪態を吐き、伏見は心底嫌そうに顔を背ける。
「子供たちが可愛いのはわかりますが、私への報告も忘れないでください」
「こっちは被害者ですよ」
邪魔されてたんですよなに見てたんですかつか可愛くねぇし、と口中で小さく早口にぼやく伏見を宗像は相も変わらず、にこにこ、と見下ろしている。
「どうせ報告は彼女からもう聞いたんでしょう? ならいいじゃないですか。はいこれ」
お土産です、と伏見が無造作に風呂敷包みを差し出したのと、「伏見さん」と背後から声を掛けられたのはほぼ同時だった。
「……なんだよ」
ちっ、と舌打ちを漏らしつつ振り返れば大きな目で見上げてくる楠原がおり、伏見は僅かに目を眇める。
「あの、伏見さんは善条さんのことよく知ってるんですか?」
「は? なんでそうなるんだよ」
なにを言い出すんだこのガキは、と小馬鹿にしたいのか呆れたのか判然としない口調で伏見が問い返せば、楠原は、う……、と一瞬ひるむも口を閉ざすことはなかった。
「さっき、片角って言ってました。善条さんの角は普段は出てないのに、伏見さんはなんで知ってるんだろうって思って……」
「……どういうことですか。アンタ、アレには関わるなって言ってませんでしたっけ?」
じとり、と横目に睨み付ければ、宗像は悪びれた様子もなく、ふふ、と笑みを漏らす。
「楠原君は特別です」
「なんだよそれふざけんな。なんの為にこれまでガキ共脅して裏山行かせないようにしてたんですか」
クソやってらんねぇ、と口汚く吐き捨てる伏見に、すみません、と宗像は、あっさり、詫びの言葉を口にして、室内から廊下に一歩踏み出すと楠原の前で膝を折った。
「楠原君は善条さんが好きですか?」
「はい」
一欠片の躊躇もなく頷いた楠原に伏見は顔を歪める。
「れーしさま、どうして善条さんはひとりでお山に居るんですか」
荒ぶる神や鬼の圧倒的で一方的な力を知らないからそんなことが無邪気に言えるのだと、だからガキは嫌なんだと、伏見は目の前のやり取りに拳を震わせ奥歯を噛み締める。
「ひとりはさみしいです」
「そうですね。私もそう思います」
ぽんぽん、と楠原の頭に優しく掌を当て、宗像は柔く笑む。
「ですが、善条さんがひとりで居るのは理由あってのことなのですよ」
「じゃあ、ずっとひとりなんですか」
今にも泣き出しそうに、くしゃり、と顔を歪めた楠原を胸に抱き込み、宥めるように背中を、ぽんぽん、と叩く。
「楠原君が会いに行っているのですから、ひとりではありませんよ。それとももう行かないのですか?」
宗像の問いに、ふるふる、と小さな頭を懸命に振り、楠原は「毎日だって行きます」と力強く宣言した。
「座学を疎かにしてはいけませんよ。あぁ、そうそう。元は善条さんの角の話でしたね」
部屋でゆっくり話してあげましょう、と楠原を伴って私室へと向かう宗像の背を半眼で見やり、伏見はなにに対してか判然としないまま、ちっ、とひとつ舌打ちをした。
お裾分けだそうです、と楠原が持ってきた酒と笹団子という組み合わせに、善条は僅かに片眉を上げるも礼を述べるのは忘れない。
さすがにこの場ですぐに酒を飲むわけにもいくまい、と酒瓶を脇へと寄せ卓の上を笹団子だけにすれば、気を利かせたか楠原がお茶をいれ始める。
「今日、伏見さんが戻ってきたんです。笹団子は僕ももらいました。おいしかったですよ」
「そうか」
何年か前に隣から、ふらり、とやって来た青年の顔を脳裏に描く。神社に居ることは極稀で、大半は情報収集に出歩いている状態だ。だらけた態度とは裏腹に瞳の奥にギラついた凶暴な光を宿しており、一筋縄ではいかないとの感想を抱いた事を思い出す。
目の前に置かれた大振りな湯呑みに手を伸ばし掛け、善条は、ふと、動きを止めた。
「どうかしたか」
てっきり、定位置となった向かいの座布団へ戻るかと思いきや、楠原は隣から動こうとせず、じっ、と食い入るように善条の顔を見つめている。正確には左目よりも上の辺りだ。
なにか付いているのかと善条が己の額に触れようとすれば、それよりも早く立ったままの楠原の手が伸ばされ、ゆるり、と撫ぜられた。突然のことに善条は驚きに言葉もなく楠原を見やる。
──折れてしまったんですよ。
善条は大切な主と共に角と腕を失ったのだと、静かに静かに語って聞かせてくれた宗像の声が楠原の脳裏に蘇る。どうしてそんなことになったのかは難しくてよくわからなかったが、それでも善条が辛くて悲しい思いをしたのだということはわかった。
心も身体もすごく痛かったに違いない。
ゆるゆる、と善条の額を撫でながら楠原は、いたいのいたいのとんでけー、とまじないの言葉を小さく呟いた。
それがなにを意味するのかを理解したか、善条は一瞬、身体を強張らせるも、直ぐさま瞼を伏せ、ふぅ、と緩く息を吐き出すと、楠原の小さな手に己の手を重ねた。
「飛ばしたら他の誰かが痛い思いをしてしまう。これは私に留めておけばいい」
言霊を軽く見てはいけない、と静かに告げる善条の眼差しはそれでも柔らかく、楠原は胸の奥が、しくり、と痛んだ。
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2013.03.05
【鬼が嫌いな伏見さんとやっぱり鬼が好きな楠原君の話】
さらさら、と筆を動かしている宗像の差し向かいで同じように筆を動かしていた淡島の手が、ふと、止まった。
何事か思うところがあるのか宗像の様子を窺っているが、躊躇いの方が勝っているらしくその唇はなかなか開かれない。向けられる視線と逡巡の気配に宗像は表情ひとつ変えず「どうかしましたか」と静かに問いを投げた。
相手から水を向けられては答えないわけにはいかず、淡島は筆を置くと心持ち姿勢を正す。
「楠原のことです」
「彼が、どうかしましたか」
すっ、と紙の上を滑らせた最後の払いが会心の出来であったか、ふっ、と口許を緩めた宗像に、淡島は少々厳しい表情になる。
「些か性急過ぎはしないかと。楠原は自分が何者であるか自覚がありません。そのような状態で彼に近づけるのは危険ではないかと……」
かたり、と置かれた筆に淡島の口が止まる。
「確かに楠原君は『自分が人ではない』ということしかわかっていませんね」
宗像が楠原を初めて見たとき、随分と巧みに人の中に融け込んでいるものだ、と感心したのだが、それは思い違いでしかなかったと、数日その村に留まり様子を見て考えを改めたのだった。
ひょろり、と小柄で弱々しい印象を見る者に与えるせいか、庇護欲をかき立てられる者が存外に多く、楠原自身も素直で人懐こい性格であったため、出自がはっきりしない点も同情を引いてか良い方向へ働き、村人から可愛がられていた。
だが、時折不思議なことを言う、と主だって面倒を見ていた村長が漏らし、違う話題を織り交ぜつつ詳しいことを聞き出せば、あの子には人には見えないモノが見えるらしい、とのことであった。
実際に宗像が楠原と言葉を交わしてわかったことは、意図的に正体を隠しているわけではなく、人となにの混じり者であるか彼自身わかっていないということだった。
それを知っていたであろう母親は、長旅が祟ったかこの村に辿り着くや病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。当時五歳であった楠原はなにもわからぬままに天涯孤独となり、憐れと思った村人たちが世話をし今日に至ったというわけである。
「あそこまで穴が空くほどに正面から見つめられたのは初めてでしたよ」
くつくつ、と喉を鳴らす宗像は当時を思い出しているのか、その眼差しはどこか遠くを見ている。
他とは比べものにならぬ強大な力を感じたか棒を飲んだように立ち尽くし、大きな目を零れ落ちそうなほどに真ん丸に見開き、じっ、と見上げてきたがその瞳に恐怖の色はなく、純粋な驚きと興味で、きらきら、と輝いていたのが印象的であった。
「とても面白い子だと思って連れてきましたが、私の目に狂いはなかったようです」
「そのような呑気なことを言っていて良いのですか?」
「餅は餅屋ですよ、淡島君」
声音こそは穏やかであったが、これ以上の議論は不要とでも言わんばかりに、ぴしゃり、と返され、淡島は「出過ぎたことを言いました」と静かに頭を下げたのだった。
「淡島君の言葉を軽んじているわけではないのですよ。進言は尤もですし、率直な意見は大変ありがたく思っています」
「勿体ないお言葉です」
にこり、と宗像が笑みを見せれば、淡島も真顔でありながらどこか、ほっ、とした面持ちで笑みを浮かべる。
「一段落したらお茶にしましょうか」
再び筆を手に取った宗像に倣い淡島も筆に手を伸ばしたその時、バタバタ、とけたたましい足音と共に小さな影が障子の向こうを駆け抜け、その後を追ってきたのか「待てよタケル!」と日高の声が響いた。
「何事だ!」
すたんっ、と躊躇なく障子を開け放った淡島に驚いたか、部屋の前を通り過ぎるも、びくり、と背を強張らせた日高の足がその場で、ぴたり、と止まる。
「あ、いや、なんでもない、です」
しどろもどろに言葉を押し出すも、すぅ、と細められた淡島の目に見据えられ、日高は次の言葉を唇に乗せることが出来ず、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
「そんな恐い顔をしては美人が台無しですよ」
ぽん、と淡島の肩に軽く触れて下がるよう促し、宗像は顔を強張らせている日高の前で膝を折った。
「楠原君がどうかしたのですか?」
「あの、俺もよくわかんないんすけど、ふしみさんとなんかケンカしたみたいで、タケルがいきなり『なんでそんなこと言うんですか!』って怒鳴ったと思ったら、ふしみさん突き飛ばして駆け出したっつーか逃げたっつーか」
「伏見君と、ですか……」
ふむ、と何事か思案するかのように顎に手をやる宗像を、おどおど、と見ていた日高だが、きゅっ、と拳を固めると意を決したか口を開いた。
「どっちが悪いとか俺わかんねーけど、タケルが大声出すなんてよっぽどのことだと思うんです。だから、あの、叱らないでやってください」
お願いします! と勢い良く頭を下げた日高に微笑を浮かべ、宗像は小さな頭を、ゆるゆる、と撫でる。
「理由も聞かずに叱ったりなどしませんよ。だから心配せずに日高君は戻りなさい。座学の途中でしょう?」
「でもタケル追い掛けないと」
「あぁ、彼ならいつものところですよ」
だから心配いりません、と不安そうに顔を上げた日高に更に柔らかな笑みを見せてやり、宗像はもう一度、ゆるり、と頭を撫でたのだった。
神社へと続く石段の中程に腰掛けていた伏見は、背後に立った気配に、ちっ、と反射的に舌打ちを漏らす。
「大人げないですね」
「俺が悪者ですか」
どいつもこいつもあのガキに甘いんだよ、と悪態を吐く伏見を咎めるでもなく、宗像はその場から動くことなく青年を見下ろす。
「そうは言っていません。ただ、年端もいかない子供を泣かすのは、やはり大人げないとしか言いようがないでしょう?」
「泣かしてなんかいませんよ」
「では、なにがあったのか教えてくれますね」
振り返りもせず、ちっ、と再度舌打ちを漏らし、伏見は面倒臭そうに、がしがし、と後ろ頭を乱暴に掻いた。
「脳天気にあの鬼と一緒に居たいだの、諦め悪く未だにここで皆と一緒に暮らせるようになればいいのにだのとうるさかったんで、無理に決まってるだろって言っただけですよ」
「それだけですか?」
全てを見透かしているかのような声音に伏見は、イライラ、と爪を噛み、更に無言でありながらも明確に促してくる宗像に我慢の限界を超えたか、勢い良く立ち上がると同時に振り返った。
「自ら望んで独りで居るならほっといてやりゃあいいだろって言いましたよ! それから、あの鬼はおまえなんか見てねぇし、そもそも鬼なんかと暮らせるか、真っ平御免だとも言いましたよ!! 誰が好き好んで鬼なんかと関わるんだってな!」
常にない感情の爆発を見せた伏見に、だが宗像は眉ひとつ動かさず、じっ、と波のない湖面のような瞳で青年を見下ろすだけだ。
微かに肩を上下させていた伏見も頭に血が上ったのは一瞬であったか、すぐに落ち着きを取り戻すやばつの悪い顔で石段に向かって、ちっ、と舌打ちを落とした。
「……原始的な恐怖を覚えるほどに、それほどまでに周防の力は強大でしたか」
火焔を自在に操る鬼神の元にいたこの青年がこちらへとやって来たのは、隣の地で一騒動あった後だと宗像は記憶している。山の形が変わるほどの力の放出は意識せずとも感知でき、いくら自分の土地を守るためとはいえ相変わらず野蛮な、と秀麗な眉を顰めたことも覚えている。
「……なんのことですか」
平静を装い嘯くも、伏見の拳は小刻みに震えており、心なしか語尾も掠れている。
「まぁいいでしょう。事情はわかりました。悪いと思っているなら謝ればよいですし、そう思っていなければ謝る必要はありません」
伏見が楠原に対して抱いた苛立ちのもうひとつの理由に気づいているのか、宗像は静かにそう告げると返事を聞く前に踵を返した。
やはり全て見透かされているのだと、伏見は苛立ちのままに石段を蹴り、だから神様ってのはイヤなんだ、と憎々しげに呻く。
盲目的に鬼神を慕う鴉と隻腕の鬼を慕う楠原がダブって見えたのだなどと、口が裂けても言えないことであった。
入りますよ、と声を掛けてから扉を開けた宗像の目に真っ先に飛び込んできたのは、囲炉裏端で胡座をかいた善条の膝で蹲るように丸くなっている楠原の姿であった。
音も立てずに上がり込み「ご迷惑をお掛けしました」と宗像が詫びの言葉を述べれば、善条は、いえ、と小さく返し、膝上の楠原を見下ろす。
「泣き疲れて眠ってしまいました」
右手でしっかりと善条の着物を掴んでいるせいで、きちんと布団に寝かせてやることも出来なかった、と苦く笑む善条に宗像は「あなたの傍が良かったのでしょう」と楠原の寝顔を覗き込んで薄く笑む。
「彼はなにか言っていましたか?」
「いえ、駆け込んできたと思ったら、私の顔を見るなり、わぁわぁ、泣き出して……忙しいことです」
少し驚きました、と、ぽつり、漏らした善条の顔は言葉に反して穏やかで、宗像は、ふっ、と空気に溶けるような笑みを漏らすと、楠原の黒髪を、やわり、と撫でた。
「少々妬けますね」
この状況下でのその言葉の意味が理解できなかったか、善条が怪訝に宗像を見やれば、ふふ、と小さく笑って二度三度と黒髪に指を透き入れる。
「あなたにそのような顔をさせることが出来るのですから。私に向けてくれたことなど、これまでに一度もないでしょう?」
「……向ける理由がありませんので」
「つれないですね」
くつくつ、と喉奥で笑い宗像は楠原の右手を解きにかかるも、ふと、顔を上げ、じっ、と間近の善条を見つめる。
「この子の父親が善条さんってことはありませんよね」
「……生憎と戯れ言に付き合う気分ではありません」
「本当につれないお人だ」
そっ、と善条の膝から楠原を抱き上げ、静かに腰を上げた宗像を見上げる善条は、隠すことなく眉根を寄せている。
「後ほどお詫びの品をお持ちします」
それでは、と言い置いて瞬きひとつの間に消えた宗像の居た場所を見つめたまま、善条は無くなってしまった重みと温もりに、どこか寂しさを感じたのだった。
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2013.03.18
【土地神様と鬼と鏡の話】
ガタガタ、と少々立て付けのよろしくない扉を強引に開けた瞬間、むわっ、と押し寄せてきた埃っぽさに淡島はやや眉を寄せるも、背後に控える子供達に向かって、ぱん、と景気よく掌を打ち鳴らした。
「今日は天気がよいので年の瀬の大掃除に先駆けて倉を片付けてしまいましょう」と朝食の席で宗像から仕事を任された子供達は、期待に応えようとやる気満々だ。しかし、この中に収められているのは壊れ物も多く、勢いだけで始められては惨事は火を見るよりも明らかである。
「改めて言うことではないけれど、ここに収められている物は大変貴重な物から曰く付きの物まで様々です。封紙を破るなどもってのほかです。取り扱いには充分気をつけること」
いいわね、と念を押せば全員が「わかりました!」と声を揃える。それでも一抹の不安が拭えないのか淡島は秋山に「道明寺から目を離すな」と言いつけ、加茂にも同様に日高の監視を命じた。
なにかをやらかすとしたらこのふたりであると、淡島の判断は適切ではあるが当の本人達からしてみれば不本意極まりない。
「えー!? それちょっと酷くね!?」
「そっすよ! 俺よりもタケルの方がなにやらかすかわかんねーじゃん!!」
「えっ!? なんで僕!?」
当然、不平不満が飛び出すも、さりげなく楠原を巻き添えにしようとしている日高が一番酷い。
「無駄話をしている暇はないぞ。はい、始め!」
再度、ぱん! と手を打ち鳴らし、淡島は虫干しも兼ねた大掃除を開始したのだった。
子供達では持てない大きな物は淡島が運び出し、その背に続いた子供達は各々手にした物を中庭へ敷いた筵の上に整然と並べていく。
壷や書物、書簡、桐の箱に収められた刀など、多種多様な物品が続々と倉から持ち出され、これを再び戻すことを考えただけでげんなりする、と日高は隠すことなく顔を歪める。
「なんでこんな小汚い壷を大事にしまい込んでんだ?」
こんこん、と緩く握った拳で表面を軽く叩きながら布施が首を傾げれば、籐の籠を抱えた加茂が「曰く付きの物もあるって言ってただろ」と大真面目に返してきた。
「人が持つには不適切な物とか回収してるって、ふしみさんが言ってた」
小箱を開けようとしている道明寺の手を、ぴしゃり、と叩きつつ秋山が話に加われば、榎本が抱えていた箱を気味悪そうに見下ろし、そそくさ、と筵の上へ降ろす。
「どんな物があるのか興味深いね」
んふふ、と笑う五島を「ある意味大物だなおまえ」と弁財が苦笑混じりに小突いた。
「ふしみさんからどういった物があるか聞いてないの?」
この茶碗とか、と先ほど榎本が降ろした箱の蓋を躊躇なく開けた五島に一瞬、空気が固まるも、特に封紙があるわけでもなし、と各々胸を撫で下ろす。
「どれがそうとは聞いてないが、いくら水を入れても一向に溜まらない水瓶とか、逆にいくら使っても水が減らない水瓶とか、過去見の鏡とか、鞘から抜けない刀とか、まぁいろいろあるみたいだ」
五島に続いて手当たり次第に箱を開けようとする道明寺を押さえるので手一杯な秋山に代わり、加茂が以前聞いたことを思い出しながら口を開けば「そんな便利なモンがあるなら使えばいいのになー。水汲み超めんどくせーし」と日高が脳天気に漏らす。
「えー、僕はイヤだよ。そんな得体の知れない水、飲みたくないなぁ」
心底、気味悪そうに顔を顰める榎本に同意するように布施は首を縦に振り、「腹壊したくねぇもんなぁ」と笑った。
「あの、その鏡の話、もっと詳しく……」
「こらー! おまえたちサボるんじゃない!!」
水瓶の話をする皆をよそに何事か考え込んでいた楠原が口を開いたのと、倉の入り口から顔を覗かせた淡島が声を荒げたのは同時であった。
「やべ!」
「ほら行くぞ」
既に飽きている道明寺を秋山と弁財が引き摺って行くのを苦笑混じりに見やった加茂が「なにか言ったか?」と楠原に顔を向けるも、「いえ、なんでもないです」と最年少の子供は遠慮がちな笑みを浮かべるや、日高達と並んで仕事に戻ったのだった。
粗方運び出したところで昼食とあいなり、倉内部の掃除は子供達だけで大丈夫だろうと、午後から淡島は自分の作業に戻ることになった。年始に村の各家へ配るお札は全部で四枚あり、宗像が毎日書いている魔除けの護符と、その護符の効力を高める補助的な物を始めとする他のお札は全て淡島が作成しているのだ。
では頼みましたよ、と宗像に送り出された子供達は、それぞれ雑巾やハタキを手に倉へと向かう。
宗像の一言が効いたのか全員黙々と手を動かす中、楠原を肩車している日高が、なぁ、と小声で肩の上に話しかけた。
「なんですか」
精一杯伸び上がって棚を拭いていた楠原は僅かに首を下へと向けるも、日高の表情はよく見えない。
「仲直りしたのかよ、ふしみさんと」
内容に反して軽い調子で聞いてくる日高に楠原は一瞬目を丸くし、それが日高なりの気遣いなのだと気づいて、やや眉尻を下げる。
「ケンカしたわけじゃないから……」
善条の元で大泣きをし、気づけばいつの間にか神社へと戻ってきていた日のことを思い出す。あの日のことは宗像も善条も、伏見もなにも言って来ない。誰が正しくて誰が間違っているといった単純なことではないのだと、頭ではわかっているつもりでも、やはり伏見に言われたことは悲しいことに違いはない。
「ふぅん。俺はおまえもふしみさんも好きだから、ふたりがギクシャクすんのやだなーって思ってよ」
なんでもないならいいんだ、と日高は笑っているのか肩が僅かに上下に揺れ、楠原はありがたいような申し訳ないような複雑な気持ちになる。
「前から不思議だったんだけど、なんでみんなそんなにふしみさんを好いて……」
我ながら失礼な物言いだなぁ、と楠原が思いながら問いを口にしたその時、出入り口付近の掃除をしていた秋山が「あっ!」と鋭い声を上げた。
「どうした秋山!?」
雑巾を握り締めたまま弁財が駆け寄るも、それを待たずして秋山は倉から飛び出してしまった。なんだなんだ? と全員状況を把握できないまでも尋常ではない秋山の焦りは伝わったか、直ぐさま秋山の背を追い掛けて倉を飛び出していく。
日高の肩に乗せられたままの楠原は振り落とされないよう、しっかり、と日高の頭を掴み、走るのは日高に任せていることもあってか、周りを見る余裕があった。
皆は気づかなかったが、楠原の目は確かにそれを捉えた。
中庭に整然と並べられた物品の一部が、ぽっかり、と空いていたことを。
「なにが盗られたんだろう……」
ぽつり、と漏らした楠原の呟きを拾い損ねたか、日高が走りながら「あ? なんか言ったか!?」と声を張った。
「追いかけるのはみんなに任せて、れーしさまのところに行きましょう!」
ぺちん、と日高の額を平手で叩き、強引に足を止めさせて楠原は肩から降りようとするも、「この方が早い」と日高は肩車のまま方向転換をする。
「で、れーしさまんとこ行ってどうすんだよ」
「なにが盗られたのか見てもらった方がいいんじゃないかなって」
「は? なんか盗られたのか!?」
ワケもわからず秋山を追い掛けていただけの日高には、寝耳に水であったに違いない。
「大事じゃねーか! れーしさまー大変ですー!!」
宗像が居る部屋の窓が見えるや大声を張り上げた日高に面食らうも、直ぐさま気を取り直し楠原もそれに続けて声を張り上げた。
「れーしさまー! 泥棒が出ましたー!!」
「おや、それは一大事ですね」
すっ、と開かれた障子の向こうには宗像と共に作業をしているはずの淡島の姿はなく、彼女の叱責を覚悟していたふたりは拍子抜けしたか、ぽかん、と宗像を見上げるばかりだ。
「他のガキ共はどうした」
その代わりに、ぬっ、と顔を出したのは伏見で、ふたりの声が癇に障ったか寄った眉は不快を示している。
「犯人を追っかけてるんだと思います……たぶん」
物品が消えたことと秋山の行動を照らし合わせての推測でしかないため、そうと言い切れない楠原を一瞥し、伏見は、ちっ、と舌打ちをする。
「ガキ共じゃどうせ追いつけないでしょうから、なにが盗まれたのか先に見ておいたほうがいいと思いますが」
気怠そうに進言してくる伏見の態度を気にした様子もなく、宗像は「そうですね」とひとつ頷くや、とん、と無造作に窓から地面へと降り立った。その足にはいつ履いたのか草履があり、伏見は「ひとりだけラクしやがって!」との悪態を早口に吐き捨てると同時に踵を返したのだった。
中庭に並べられた物を一通り見て回った宗像と伏見は、日高と楠原からやや離れた場所で状況を確認しあう。
「なくなっているのは鏡ですね」
「『時戻し』と『姿破り』と『先見(さきみ)』ですか。これは困りましたねぇ」
言葉に反して大して困った様子のない宗像を、じっ、と上目に見やり、伏見は唇を歪め「わざとだろ、アンタ」と苦々しく漏らす。
「なんのことですか」
「自分の懐で余所者が好き勝手してるのに、アンタが気づかないわけねぇだろ」
「護符に集中していて気がつきませんでした。護符の作成には意外と力を使うんですよ」
気合いを込めていますから、と涼しい顔でしゃあしゃあと言ってのける宗像の底意を探ろうというのか、伏見は一層険しい顔で目の前の神を睨め付けた。
「おやおや、恐い顔ですね」
ふふ、と薄い笑みを浮かべる宗像に、ちっ、と舌打ちをした伏見は更になにか言いかけるも、秋山達が戻って来たことに気づくや話を中断し、見るからにすっかりしょげかえっている子供達の元へと向かった。
「ご苦労様です」
「すみません、見失いました」
途中で転んだのか汚れた着物もそのままに秋山が項垂れる。加茂の結われた髪はすっかり解け、弁財は枝に引っかけたのか頬に赤い筋が走っている。他の子達も似たり寄ったりで、その中でも道明寺は半べそ状態だ。
「元から期待してねぇよ。でも姿くらいはわかるだろ」
宗像の労いの言葉とは対照的に突き放すような口調で伏見が問えば、秋山は再度「すみません」と頭を垂れる。
「はっきりとはわかりませんでした」
「僕達にはなんかぼんやりした影にしか見えなくて、姿隠しの術だと思うんですけど……」
「それでも秋山ならちょっとはわかんだろうが」
戻ってくる間に犯人について全員で話していたのか、秋山の言葉を受け榎本が続ければ、伏見が、イライラ、とした態度を隠しもせず秋山に言葉を投げつけた。
「顔まではわかりませんが、鴉……あるいは鴉に近いもの、だと思います」
無意識にか髪に隠れた右目を掌で覆いながら、ぽつりぽつり、と告げられたそれに、伏見の口角がみるみる吊り上がっていく。最終的にやたらと粘ついた印象を受ける、にたぁ、と歪んだ笑みを浮かべた伏見に、子供達は、ひっ、と喉奥で悲鳴を上げる。
「鴉……、そうか鴉か。おい、ソイツどっちに行った」
「あ……あっちです」
微かに震える指で榎本が指した方角を見上げ、伏見は一瞬、不快そうに眉を寄せるも再び歪な笑みを浮かべるや「じゃあ、ちょっと行ってきますよ」と宗像に断りを入れ、悠然と神社の敷地内から出て行ったのだった。
「たまーにだけど、ふしみさん、すっげぇやる気出すよな」
「いや、あれはやる気とはちょっと違う気がするよ日高」
病的って言うかいろんな意味でこわいよ、と口許を強張らせる榎本の隣では、布施が怪訝な顔で、きょろり、と辺りを見回している。
「そういやせりちゃんは?」
「お風呂だったりして」
んふふ、といたずらっぽく笑う五島の発言に、まさかーこんな時にありえねーって、と道明寺が、けたけた、と笑い声を上げた。
だが。
「えぇ、その通りですよ。よくわかりましたね」
宗像の口から肯定の言葉が飛び出し、一緒になって笑っていた子供達の動きが、ぴたり、と止まる。
「女性が埃で汚れたままというのは良くないですからね。伏見君が戻ってきたので彼女にはゆっくりしてもらおうとお湯を使うことを勧めました」
直接、宗像からそう言われて淡島が断れるはずもなく。それでもこの騒ぎに気づかないとは考えにくい。
「あとは伏見君に任せて掃除の続きをお願いします」
さぁ、と皆を促す宗像の横顔を見つめ、この人がなにかしたんだろうなぁ、と楠原は思うもそれを口にすることはせず、歩き出した皆の背に続いて倉へと向かったのだった。
どっ、と鈍い音を立て地に落ちたそれは一度大きく跳ね、勢いを失わぬまま枯れ葉の上を転がり、まるで測ったかのように伏見の足元で止まった。
恐怖に歪んだ表情を刻んだまま一太刀で斬り飛ばされた首は伏見の知る男の物ではなく、そのことに些か安堵するも、目の前の光景は首の産毛が逆立つほどに凄惨な物であった。
「これだから、鬼ってやつぁ……」
大太刀を携えこちらに背を向けている男に左腕はない。賊の逃げた方角から予想はしていたが、これは最悪の部類と言っていい。
荒い呼気に合わせて上下する肩は獣じみた凶暴さを宿しており、目には見えぬが立ち上る気は伏見を圧倒し、冷や汗とも脂汗ともつかぬ物が頬を伝い顎から滴り落ちる。
視線のみを素早く周囲に走らせ、目的の物を目視する。
箱ごと粉々になっている物がひとつ。
肉の塊が抱えたままの物がひとつ。
箱から離れた場所で枯れ葉の上に転がっている物がひとつ。
「本当に……最悪だな、おい……」
頭部を失った身体が三つあることから、それぞれの鏡を全て別の場所へ運ぶ腹づもりであったらしい。合流場所をこの山に選んだ愚か者共は、隠遁していた鬼に見つかったのだろう。
だが、平素ならば軽くお灸を据える程度で、命まで取ることはないはずだ。
一体なにがあった、と思考を巡らせたその時、新たな気配に気づいたか鬼の首が、ゆうるり、と動いた。
ちらり、と見えたその横顔を認識するが早いか、伏見は反射的に大きく飛び退き、着地と同時に再度強く地を蹴るや鬼の視界から姿を眩ませたのだった。
あわよくば鏡の回収をと思っていたが、振り返った鬼の目と額の角を見た瞬間、それは甘い考えであったと伏見は、ぎりり、と奥歯を噛み締める。
あれがもし、山を下り人里へと向かったら……
脳裏を過ぎった考えに全身の血が冷えるような感覚を覚え、ぶるり、と身を震わせる。
猛る鬼を鎮めるなど到底不可能だ。
唯一、どうにか出来るであろう男は己の土地が血で汚された事により、既にこの事態を察知しているに違いない。
為す術もなく逃げ帰るなど屈辱以外の何者でもないが、命あっての物種だと自身に言い聞かせ、伏見は苦い物を飲み下し、ただひたすらに地を蹴った。
事は一刻を争いますから、と口にした宗像に手を取られたと思った時には、既に景色は一変していた。それこそ瞬きひとつの間に違う場所へと移動しており、楠原は、ぽかん、と目の前の見慣れた戸を見つめるしかない。
「大きな声を出しては駄目ですよ」
すっ、と己の唇の前に人差し指を立てて見せる宗像の言わんとすることが良くわからないのか、不思議そうに首を傾げた楠原であったが、なにに気づいたか瞬時に顔を強張らせると不安そうに宗像を見上げた。
何度も何度も通った善条の住まう炭焼き小屋から、今までに感じたことのない異様な気配が押し寄せてくる。
鬼気迫るとはこういう物を言うのか、と臓腑の底から湧き上がってくる畏れと恐怖に手足の先から冷えていく。
「善条さん、入りますよ」
常と変わらぬ口調で宗像が断りを入れれば、押し寄せる気配に険悪な物が色濃く滲んだ。当然、歓迎はされませんね、と薄く笑う宗像の羽織りを、楠原は無意識のうちに、きゅっ、と掴む。
「いい機会です。鬼の本質をよく見ておきなさい」
淡々と告げる宗像の表情はそれに相応しく、どこか冷酷さすら感じさせる男に、楠原は初めて畏れを覚えた。善条の身を案じているのは嘘ではないだろう。だが、それ以上に別の思惑を持って動いているように思えてならないのだ。
内部からの無言の拒絶を物ともせず宗像が戸を引き開ければ、叩きつけられたのは紛う事なき殺気だった。それを正面から受けたにも関わらず宗像に動じた様子はなく、彼の影に半身を隠すように立っていた楠原だけが小さな悲鳴を上げ、カタカタ、と震える膝は今にも頽れそうであった。
「大丈夫ですか」
「は、は……い」
強張る唇を無理矢理に動かしどうにか声を押し出すも、それは可哀想なほどに震えており、突然のことに見開かれたままの眼からは、死に晒された恐怖が涙となって体外へ溢れ出ている。
「酷いことをしますね、善条さん」
可哀想に、と楠原の頭を、ゆうるり、と撫でながら宗像が奥へと声を掛ければ、地を這うほどに低い呻きが返ってくる。
「──貴方が、それを言うのか」
「正気には戻っているのですね。安心しました」
楠原の背を緩く押し共に上がり込めば、善条は更に低く唸った。
「楠原君はここで待っていてください」
少年をひとり囲炉裏端に座らせ、宗像は更に奥へと足を進める。寝所として使っているそう広くはない部屋の木戸は閉ざされておらず、難なく足を踏み入れることが出来た。
「素敵な姿ですね」
ゆるり、と首を巡らせ目的の人物を視界に納めた宗像が薄く笑えば、奥まった場所で壁に凭れて項垂れていた鬼が射殺さんばかりの鋭さで睨め付けてくる。ギラギラ、と凶暴さを隠しもしないその眼と額から突出している角に、宗像の笑みが更に深まる。
「何故、彼を……連れて来た」
「善条さんは私を殺すことになんの抵抗も躊躇いもないでしょう?」
歪曲的な返答に善条は握ったままの大太刀の切っ先を鋭い風切り音と共に、ひたり、と宗像の喉元へと突きつけた。座った状態で予備動作もなくそれをやってのけた豪腕に、素晴らしいですね、と宗像は場にそぐわぬ賞賛の言葉を口にする。
「伏見君から報告を受けたときは貴方を殺さなければならないのかと思ったのですが、そうはならず非常に安堵しています」
見下ろしてくる視線は怜悧で、子供達に見せている捉えどころのない男の面影は微塵もない。
「彼は私にとっては保険で、貴方には枷といったところでしょうか」
「利用、しているのか……彼を」
「言ったでしょう? 私は私のやり方で、私の地を守るのだと」
それを耳にした瞬間、膨れ上がった怒気は確かに宗像を打ち据えた。だが、突きつけられたままの刃が細く白い首を貫くことはなかった。今にも爆発しそうな程に力の込められた腕は小刻みに震え、ぎりり、と音がしそうな程に奥歯は噛み締められている。ふーふー、と荒い呼吸を繰り返すその姿は、理性と本能のせめぎ合いを如実に現していた。
「『鬼』とはどういうものか、彼に見せようと思ったのですが……」
力無く降ろされていく切っ先を目で追いつつ、宗像は静かに息を吐いた。
「やめておきましょう。恐らく、泣いてしまうでしょうから」
「恐怖や、蔑みの目で見られるのは、慣れている……」
今更なにを、と独り言のように漏らした善条に「そうではありません」と宗像は首を横に振る。
「彼が泣くのは貴方のことが好きだからですよ」
鬼の目の前に膝をついた宗像の白く長い指が、するり、と折れた角に触れた。
「貴方を案じて、泣くのです。そういう子なのだと、貴方だってわかっているはずです。善条さん」
暫し無言で宗像を見据えていた善条だが、角に触れたままの手を煩わしそうに払うや、言葉無く項垂れた。既に善条の瞳から獣じみた光は消えており、宗像は払われた手に軽く肩を竦める。
「大分落ち着いたようですが、これはそう簡単には鎮まらないですね」
一度解放された鬼の本能はそう容易く押さえ込める物ではないことを、宗像は知っている。
「そのままでいられてはなにかと面倒ですので、少々荒療治になりますがどうにかしましょう」
物騒な物言いに善条が断りの言葉を口にするよりも早く、にこり、と宗像の面に笑みが浮かんだ。それを目にした瞬間、逆らってはいけない、と常よりも鋭敏さの増した本能の警告に、善条は首を縦に振るしかなかった。
もういいですよ、と隣室から手招かれ、恐る恐る、中を覗き込んだ楠原の目が点になった。そのわかりやすい反応に満足したか、宗像は更に相手を手招くと自分の隣に座らせ、布団の中で寝息を立てている青年をよく見るよう促す。
「善条さんですよ」
「は? え?」
「本当はもう少し小さくして力を削ぎたかったのですが、さすが鬼と言うべきでしょうか。抵抗値が高くてこれ以上やっては、力を使いすぎて私が小さくなってしまうところでした」
参りました、と薄く笑う宗像は纏う雰囲気が柔らかくなっており、もう大丈夫なのだな、と楠原は、ほっ、と胸を撫で下ろす。
「あの、なにがあったのか聞いてもいいですか?」
「それは善条さんから直接お聞きなさい。楠原君になら話してくれるでしょう」
「そう、ですか」
残念なような、それでいて喜ばしいような複雑な心境をよく表した声音に宗像は目を細め、ゆるゆる、と少年の頭を撫でながら、善条の気力が尽き気を失う直前に無理矢理取り付けた約束を思い返しつつ口を開いた。
「楠原君に折り入ってお願いがあるのですが、聞いていただけますか?」
渋る伏見が回収してきた鏡のうち無事だったのは『時戻し』と『先見』であった。
「死体はそのままですよ」
「構いません。いい見せしめになるでしょう」
さらり、と表情ひとつ変えずに返してきた宗像を半眼で見据え、伏見は不快そうに、ちっ、と舌を打つ。
「状況からしてあの鬼が『時戻し』を見たんだろうと思いますけど」
「知っていますか伏見君。『時戻し』はその人にとって一番見たくない物を見せるそうですよ」
「……なんですかソレ。最悪ですね」
「そうですね。善条さんが正気を失うほどのものとは、一体なんだったんでしょうね」
くつり、と喉を鳴らす宗像に「わかってるくせになに言ってやがる」と伏見は胸中で悪態を吐く。
あの鬼が唯一執着しているものなど、考えなくともわかるではないか。
角と腕を失った日のことに決まっている。
未だそれに未練を残し縋っているからこそ、取り乱し、無力さに苛立ち、そして傷付くのだ。
「衝撃が大きければ大きいほど過去と現実が混ざり合って同調してしまい、精神に異常を来す者も出たとか」
「そんな物騒なモン、とっとと処分したらどうです」
「駄目ですよ。私は付喪神化するのを待っているのですから」
本気か冗談か、箱に収めた『時戻し』に触れながら薄く笑う宗像の顔からは判断できず、伏見は疲れたように嘆息する。
「まぁいいです。ガキ共が持ち出さないよう、きつく言っといてくださいよ」
面倒はごめんです、とぞんざいに手を振り、伏見はこれで話は済んだとばかりに腰を上げた。
「あぁそうだ。アンタ、ほんっとあのガキに甘いですよね」
心底気にくわないとでも言いたげな伏見に「そうですか?」と宗像は意外そうな顔をする。伏見はどうやら、鬼の力を抑えられ身体能力が人並まで低下している善条の世話を住み込みでするようにと、楠原にお願いしたことを言っているらしい。
ちなみに、『姿破り』を叩き壊したことを盾にこの件を承知させたのは、宗像と善条だけの秘密だ。
「冬に向けて本格的に炭の蓄えが必要な時ですからね。善条さんがあの状態では楠原君に頑張ってもらわなくては」
この状況を作った本人がいけしゃあしゃあと、と伏見は眉を顰めるがこれ以上話を長引かせるのも面倒になったか、はいはい、と軽く流し「自覚がないんだかとぼけてんだか知りませんけどね、俺には理解できません」と吐き捨てるように言い放った。
「そうですか。伏見君がそう言うのなら、そうなのでしょうね」
伏見の失礼な態度など気にも留めていないのか、微笑と共に発せられた言葉は静かでありながら胸をざわつかせる得体の知れないものを感じさせ、伏見は胸にしこりのようなものを抱いたまま黙って退室したのだった。
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2013.07.24
【遠い昔の話】
不意に顔を巡らせた羽張の視線の先に居たのは、十にも満たないであろう少女であった。
「あれか?」
俺は匂い嗅がないとわからねぇな、と羽張の視線を追い気怠げに言ってのけた金色がかった茶髪の男に向けられたのは溜め息ひとつ。
「往来で誰彼構わずそのようなことをしたら、ただの不審者だぞ」
やるなよ、と真顔で言い放ち風に揺れる黒髪を押さえつつ、羽張は隣で唇をへの字に引き結んでいる連れを促して歩き出した。
あぜ道に、ぽつ、と置かれた石がその少女の定位置であるのか、彼女の視線の先では両親と思しき男女が黙々と鍬を振るっている。
驚かせぬよう出来るだけ穏やかな声音でまずは少女に声をかけてから、羽張は凜とした声で畑にいるふたりに声をかけた。
少女の両親は見ず知らずの男に突然声を掛けられ最初はあからさまに不審がっていたが、相手が山の上の神社の神主だと明かしたことで、多少は警戒心を解いたようであった。
この家族がよその村から移ってきたばかりであると羽張は事前に塩津から話を聞いており、ここにやってきたのは偶然ではなく確たる目的があったからだ。
激しい拒絶がなかったことに内心で安堵の息を吐き、羽張は一切強要はせずあくまでも相手が自ら口を開くよう穏やかに促していく。
「最近はそうでもありませんが、昔はこの子が触れた花はあっという間に枯れ果て、小鳥や犬なども……村ではいつからかこの子が生気を吸い取っているのだと噂されるように……」
これがこの村に三人が移ってきた理由であり、塩津の報告とも合致している。
「先祖返りですね」
母親の膝に抱かれている少女と向き合いその手を取っていた羽張が、これ以上聞く必要はないと言わんばかりに父親の説明を遮るように口を開く。無礼な神主の行動に父親は、むっ、と口をへの字に引き結ぶも、辛い過去を思い出し泣きそうな顔の娘に気づいたか、そのまま口を開くことはなかった。
敢えて全てを明かすことはしないが、秩序の保たれた場所に投げ込まれた小石から広がる波紋が大きくなる前に、羽張は自ら手を打ちに来たのだ。暫し無言で少女の手を優しく握ったりさすったりしていた羽張は、穏やかな笑みを浮かべつつ口を開いた。
「この子は生気を吸い取っているわけではありません。生物の成長を促進させる力があるだけです。あなた方のどちらか、もしくは両方の血縁にそのような方がいらしたのでしょう。まぁ、希有な能力には違いありませんが、制御できるようになれば重宝するかと……」
少女に向けていた目を説明と共に両親に戻した羽張は、そこで困ったように口を噤んだ。能力の性質云々ではなく、彼らは自分たちの娘が異質であるという事実を疎んじているのだと気づいてしまったからだ。
「その力、自分たちの娘が化け物みたいでイヤなんだろ?」
今まで黙って事の成り行きを見守っていた神主の連れが、ここで初めて口を開いた。
「善条」
平然と言い放った連れを羽張は低く名を呼んで咎めるが、呼ばれた方は気に留めた様子もなく両親を、ひた、と見つめている。
「このエラーイ神主様がわざわざ足を運んできたんだ。こいつの気が変わらねぇうちにどうにかしてもらうんだな」
琥珀色に輝く鋭い瞳に見据えられ夫婦はお互いを、ちら、と窺うように見やり、ややあってから気まずそうに、よろしくお願いします、と蚊の鳴くようなか細い声で告げたのだった。
少女の左手の甲に紋を描き、同じ物を羽張も自分の左手の甲に描いた。その手を掌におさまるほどの小瓶の口へと押し当て、神主は右手で少女の左手を取る。
「そんなに緊張しなくていい。痛いことはしませんよ」
繋いだ手を優しく握り込んでやれば、少々ぎこちないまでも少女の顔に笑みが浮かぶ。
いい子だ、と小さく頷いて見せてから少女に目を閉じるように言い、羽張自身も数回深呼吸をした後、ゆうるり、と瞼を閉ざした。
一体何が起きるのかと固唾を呑んで見守っている夫婦の耳に、言葉とも歌とも付かぬ音が聞こえてくる。見れば羽張の唇が微かに動いており、囁くようなそれに呼応するかの如く、彼の掌が塞いでいる瓶の中にモヤのようなものが音もなく渦を巻き始める。
それはやがて底へと溜まり、波打つ液体へと姿を変えた。透明度の高い薄い桃色に、善条は隠すことなく舌打ちをする。
「善条」
羽張に再度咎めるように名を呼ばれ、贅沢は言わねぇよ、と不満たっぷりな表情のまま、差し出された瓶を受け取り中身を一気に飲み干した。
「まぁ……不味くはないな」
なにが巻き起こったのかわかっていない夫婦に羽張は初めて柔らかな顔を向け、「終わりました」と簡潔に告げたのだった。
ほてほて、と陽の暮れかかった道を山に向かってふたり並んで歩く。
「大したことなくてガッカリだ」
「そうそう大物にぶち当たる訳がないだろう」
むしろぶち当たったら厄介だ、と漏らす青年を横目で、ちら、と見やり、善条は、はー、と大仰に溜め息を吐いてみせる。
「この方法、まどろっこしくないか?」
「文句を言うな。おまえのやり方じゃ荒っぽ過ぎる。いや、荒っぽいどころか最悪だ。相手が人間でも容赦なく喰らう気だろう?」
相手の血肉を取り込むことでその能力を我が物とし、力を付けていく。確かに手っ取り早いがそれでは、下衆なただの人喰らいと同じだ。いかなる理由があろうとも、彼はそのようなことをしてはならないのだ。
「俺はなにがあろうともお前を人喰いにはさせんからな」
「わかってる。お前がそう言うなら俺は従うまでだ」
人や人外の者が持つ異能の力のみを吸い出し、目に見える形へと変化させる。それが先の液体の正体だ。強大な物ほど赤味が増し透明度も下がる。
「お前を守るのが俺の役目だからな。強くなるに越したことはないが、それでお前の立場を悪くするのは本末転倒だ」
血気盛んな鬼から寄越された言葉に羽張は、くつり、と喉奥で小さく笑う。
「なんだ?」
「いやなに、塩津にも聞かせてやりたいと思ってな」
常日頃から何事かあればロクに話も聞かず真っ先に飛び出していく善条に、ギリギリ、と眉間のしわを深くしている塩津の顔を思い出し、羽張は口元を隠しもせず、はは、と声に出して笑い出した。
思慮や配慮に欠けている訳ではない。この鬼はただ羽張が全てであるだけなのだ。
「善条、お前がいればこの地は安泰だな」
「おかしなことを言う。俺じゃなくてお前がいればだろう?」
「そうか?」
「そうだ」
欠片ほどの躊躇もなく即答してくる善条に、そうか、と小さく返し羽張はうっそりと笑んだ。
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2018.08.22
入るぞ、と一声掛けてから塩津は障子を開いた。書物に目を落としていた羽張が顔を上げ、どうした、と短く問えば、塩津は手にしていたカゴを僅かに傾ける。
「村の者が礼にと持ってきたのだが……」
相手に中身が見えるようにと一歩室内へと踏み込んだ塩津は、なにに気づいたか僅かに片眉を上げるや、ここに居たのか、と苦々しく漏らした。
「境内の掃除をほっぽらかしてどこに行ったのかと思えば」
文机の影になり一瞥しただけでは気づかなかったが、塩津の視線の先には羽張の膝を枕に、くーくー、と呑気に寝こけている善条の姿があった。
今にも声を張りそうな塩津を、まぁまぁ、といなし、羽張は手中の書物を、ぱたん、と閉じる。
「代わりに別の掃除をしてきたのだから大目に見てやれ」
そう言うや善条の瞼を掌で覆い、まだ寝ていろ、と吐息を吹き込むかのように囁けば、うー、とも、むー、ともつかぬ音がそれが返事であるかのように善条の喉奥から漏れ出た。再び、くーくー、と寝息が上がったのをしかと耳にしてから羽張は、ゆるゆる、と善条の胸を数度撫でる。
「裏山に『客』が来てな。山菜採りに来ていた親子を庇いながらはコイツも難儀したようだぞ」
羽張の軽い物言いとは裏腹に、若干緩んだ着物の合わせ目から覗くサラシには朱が滲んでいる。
「あぁ、だから礼か」
合点がいったとカゴに入った山菜を見やり、ぽつり、漏らした塩津だが不意に、はっ、と目を見張った。だが、彼の言わんとすることなどお見通しであるのか、羽張は薄く笑うや、心配するな、と自信満々に言ってのける。
「『猪と鉢合わせた』ことにしてあるからなにも問題ない」
さらり、と記憶の改ざんをしたと告げてくる羽張に、塩津は渋面を隠そうともしない。
「出会ったモノの姿形を誤認させるだけだ。他はなにもいじっちゃいない。さすがに善条が相手の首を飛ばす姿は刺激が強すぎるだろう?」
「確かにそうだが……神はあまり人に干渉するものではないと俺は思っている」
なにを危惧してか重々しく口を開く塩津を、じぃ、と見据えた後、羽張は一旦瞼を伏せ、そうだな、と小さく頷いた。
「お前はそれくらい慎重でいてくれるのがいい」
「そして俺はいつも貧乏くじを引かされるわけだ」
「そう言うな」
はは、と悪びれた様子もなく笑う羽張に、ゆるゆる、と首を振り、塩津は「お前も善条も変わらんのだろう? なら俺が合わせるしかないだろう」と疲れたように漏らしたのだった。
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2018.08.29
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・和風ファンタジーなパラレル。 ・単発物がある程度たまったので投下。 ・セプ4のA〜H+楠原がちみっこです。 |
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