500年目の赤ずきん 三章 |
三章「対立」
世界のあらゆる事物が「黒」か「白」に二分出来るのであれば、どれだけ簡単だったのだろう、とは思う。
それが多様性なるものを殺すと言われても、正義のヒーローを信じていた頃の自分が、世界を退屈なものとして見ていたのかと言えば、決してそうではない。むしろ、現実の世界にある様々な「微妙なもの」を知ることで、疲れていったのだと、そう俺は考える。
だが、俺はかつて完全に吸血鬼を「黒」と決め付けていて、自分達のコミュニティが抱える様々な問題に気付きながらも、おおよそ「白」だと正当化していた。十九年生きて来て、再び単純な思考に立ち戻っていた浅はかさを痛感せざるを得ない。
そして今。俺はマリーと共に次なる目的地、イタリアの土を踏んでいた。かつて世界の中心だったこの場所で、また一つ歯車は進む。
「まさか、こんな観光地にやって来ることになるとはな……」
イタリア、ヴェニス。言わずと知れた水の都であり、物理的な理由で車によって街中に入ることが出来ない、歩行者専用の観光地としても有名だろう。少し周りを見渡せば、背の高い大聖堂がいくらでも入ってくる。ゴシック建築だかバロック建築だかよくわからないが、いずれにせよ田舎ばかり訪れていた俺にとっては、荘厳な建物が眩しいぐらいに感じられる。
一方、マリーはどこか懐かしむような目でその景色を見つめていた。敵の象徴である聖堂をこんな瞳で見つめる吸血鬼なんて、恐らく前代未聞だろう。少なくとも、人間がその存在を把握している限りにおいては。
「初めてじゃないのか?」
「はい……。何度も、何度も訪れました。あたしが吸血鬼になって少しした頃でしょうか。この街を中心に、人と吸血鬼との戦いが激化したのは」
「そうなのか」
「丁度あの頃から、吸血鬼狩りに伝わる武器達は様々な問題を生んでいたと記憶しています。教会に言わせれば、吸血鬼の力を利用する武器は異端だとか、他の吸血鬼狩りが必死に既存の武器で戦っているのに、一部の主流派だけでこんなに強力な武器を使って生き延びて、不公平だとか……。実際、当時の吸血鬼狩りは本当に頻繁に殺されていました。あたしは、出来るなら戦いたくなかったのですが」
ですが、と感情のこもっていない言葉を続ける。
いつもは太陽も霞むほどの笑顔をしているのに、今日の彼女は今にも泣き出しそうな表情だった。彼女の懐かしむ気持ちは、決して楽しかった過去を思い出すものではないのだろう。恐らくは……。
「あたしは、決して人を殺しはしませんでした。ですけど、弱らせることはしました。……結果、確かにあたしは一度も直接的には人を殺していません。しかし、間接的には何十、何百の人を殺めたのでしょう。とんでもない卑怯者ですよね、あたし」
「気に病まなくても良い。降り注いだ火の粉を払うのは、当たり前のことだ。多分、俺だって同じことをしていただろうし……それに、俺も吸血鬼を殺して来た」
吸血鬼じゃない俺は、完全にマリーの苦悩を共有することが出来る訳ではない。それでも、俺は人型のアンデッドを倒すことに、心の隅で罪悪を感じて来ていた。恐らくそれは、全ての吸血鬼狩りが共通して背負う業だ。
皮肉なことに、吸血鬼と敵対し、最前線で戦って来た吸血鬼狩りこそが、マリーと同種の罪悪を感じているとは。
「ごめんなさい。気を使わせてしまって。……うん、もう大丈夫です。ここにも一人、あたしの知り合いがいるはずです。リディのレーダーはさすがにこの広さと人の多さでは働きませんが、まあ大体の目星は付いていますので、安心してください」
「気にしなくて良い。それより、今度はどういう奴なんだ?」
ギリシャで出会った男の吸血鬼、カーミルは嗜好こそ独特だが、数少ないマリーの理解者のように感じた。初めは紳士ぶっていて、後から凶悪な本性を表すという吸血鬼はよく知っているが、彼は完全に穏やかな心を持っているらしく、吸血鬼の中でもイレギュラーな存在のように思えた。もしかすると、リディと同じようにあまり大きな力を持たない、戦闘には向いていない吸血鬼なのかもしれない。
結局、彼はあれからリディと協力して分解された鎖鎌の欠片の埋められた場所を発見し、無事に回収することに成功した。今ではマリーが所持している。人であり吸血鬼である彼女が持っていた方が何かと安心らしい。本来使用する側にいるのは俺の方だが、伝説的に伝わっている武器の詳細を知っているはずもなく、よく理屈はわからなかったのだが。
「そうですねぇ……。カーミルはあたしを王として慕ってくれていますが、彼女はリディと同じように、同列の友達に近い感じですね。と言いますか、敬語が出来ないタイプの子で、誰に対してもフランクなんです。ですが、人のことはやや軽視しているところがあります。上手く説得出来ると良いのですが」
「仕方ないだろうな。人間は少し知恵や技術を獲得しただけで、依然として単体じゃ吸血鬼には敵わないんだ」
「ですが、それを手にするに至った経緯……つまり、努力や斬新な発想、そして何よりも執着とすら言えるほどの粘り強さは、吸血鬼にはそもそもないものです。種としてある程度の完成を果たしている吸血鬼は、何か大きなことを成し遂げようという意志の力が圧倒的に不足しているのですよ」
「だから、マリー以外の誰もが行き詰まる未来を知っていながら、行動出来ないでいるのか……」
ふと、当時の技術、美術の限りを尽くして造り上げられた建造物達を見上げる。そう言えば吸血鬼はこうした文化財や、芸術作品を残していると聞いた覚えはない。人間の方が圧倒的に命は短いからこそ、長い間を生き残るシンボルを求めるのかもしれないが、もしかするとマメに何かをする、という習慣や考え自体が吸血鬼にはないのかもしれない。
「あたしも、そんなに皆とは変わりませんよ。五百年も生きて、やっと今です」
「でも、吸血鬼全体から見れば、すごい前進だろう?」
「確かに、そうだと思います。……問題は、ただのあたし一人の思い付きで終わらせてはいけない、ってことですね。そのためにも、と言うと甘えてしまっているようですが、ダイキも力を貸してください」
「当たり前だ。いつまでだって、支えるさ」
と、勢いで言ってしまったのは良いが、これではまるで一生涯支える――つまり、有り体に言ってしまえば人生の伴侶になるという、告白の言葉のようだ。そう気付いた時には一気に頬が火照っていくのを感じ、次いでマリーも思わず顔を背けた。
「い、いや、その……」
「わ、わかってますっ。ダイキがそんなジゴロな台詞を言うはずがないですもんっ」
誤解されていないようで良かった……と、ほっとするべきなのか?わからないが、とりあえず吸血鬼を探すとしよう。これだけ人が多く、広い街なので一日二日で見つかるかはわからないが、吸血鬼ならばぞっとするような美貌でわかるはずだ。
「それは良いとして、その吸血鬼の特徴は?」
「えーと、ピンクっぽい銀髪をしていますね。お上品な言葉を使えば、真珠色?パールピンクとでも言えますでしょうか。髪の長さは、切っていなければあたしよりもちょっと長いぐらい。胸が隠れるぐらいでしょうか。結構長身で、スタイルも……まー、あたしと同じぐらい良いと思いますよ」
「なるほど……名前は?」
「カーニャといいます。……あの、ダイキ。もしかして、ちょっとカーニャに対して魅力を感じたりしてません?」
「な、何を!そ、そんな訳がないだろう」
「ですよねぇ……?」
口ではそう言いつつ、思いっきり疑って来ている目だ。
確かに、身体的な特徴を聞かされると、マリーとはまた別ベクトルの美女だということはわかる。美しいということは吸血鬼ならば確定事項だが、やはり詳しく聞かされると興味が出て来る。名前からすると、ロシア系なのだろうか。吸血鬼に国籍もないだろうが、生まれた国の言語を自分の名前に付けることは普通にあるだろう。
「言っときますけど、カーニャはあたしほどお淑やかじゃないですよ。ぎゃーぎゃーうるさいですし、ガサツですし、あたしとは違って家庭的じゃない子なんです。……以上の理由から、あたしの方がよっぽど魅力的な女の子になる訳です」
「すまない、割とマリーと似た人のような気がするんだが」
「むー、なんで会ったこともない子のことを、そこまで美化しちゃうんですか!」
「美化、か……」
マリーは自称“お淑やか”らしいが、多少話し方が丁寧なだけで、俺にしてみればお喋りで騒がしいし、ガサツとまではいかないが、お淑やかとはとても呼べない。そんな明るさこそが彼女らしさで、俺が魅力を感じているのは間違いなくそこなのだが、類は友を呼ぶ、だろうか。カーニャという女性も明るく騒がしい人のように思えた。
「なんか、ダイキとカーニャを引き合わせてはいけないような気がして来ました……」
思いっきりジト目で睨み付けて来た。……まさか、にやついた表情でもしているのか。会うのが楽しみだな、と思っていたのは事実なのだが。
「何、俺みたいな奴が、自分から女を引っかけるなんて出来る訳ないだろ。浮気なんて、したくても出来ないに決まってる」
「し、したいんですか!?」
「落ち着け、たとえ話だ」
「でも、ほんの少しでもしたいと思ってるから、そんな台詞が出て来るのであると、あたしは推理しますっ」
「だから、そんな気はないって。本当に浮気したくなるぞ」
「あわわわわ。ダ、ダイキ、最近あたしに意地悪じゃありません?」
「どうだろうな。まあ、お前がからかったら面白い奴だな、ということは認識して来ているとは思う」
なんとも恨めしそうな目を向けてくる。あまり歓迎はしたくない視線だが、思えば彼女も色々な表情を俺に見せてくれるようになった。
初めて会った時から、とにかく笑っていて、それが眩し過ぎるほどの人物だと思ったが、意外と怒りや悲しみの表情はほとんど見たことがない。もちろん、そんな負の感情を爆発させている姿なんて、もう出来るなら見たくないのだが、日常の戯れのレベルなら、多少は怒ってもらった方がこちらとしても安心出来る。マリーにはどこか、どんな思いも笑顔で隠してしまう、妙な不器用さがあるのではないか、と感じていたからだ。
彼女は本当に、あまりにも健気だ。俺に対しても、誰に対しても。まだ幸いにも吸血鬼や人間に襲われていないが、もしそんな時が来たら、一人で悪役を引き受けてしまいそうな危うさがあるほどに。現に、既に吸血鬼の界隈で彼女は裏切りの女王として認識されている。ここまで来れば、彼女は最後までヒールを演じてしまうことだろう。かつて俺に対してそうして、そのまま倒されようとしたように。
だが、そんなにもあれこれ背負って平気な奴なんて、きっとどこにもいない。特にマリーは、人一倍悩み、傷つきやすいことはわかっている。多少は怒ってももらわないと、彼女がいつか壊れてしまいそうで不安だった。
「あたしの方がすんごいお姉さんなのに、もてあそばれてる感がなんかヤですよー」
「マリーにとって俺は、どっちかと言うとお兄さんなんだろ?妹が兄貴にいじめられるのは宿命だ。観念して、泣かされとけ」
「うわーん、やっぱりダイキは最近、あたしに対して意地悪ですっ。本当に嫌いになっちゃうんですからね!」
少し顔を赤くして、手を振り上げる。本気で殴られたら俺の華奢な骨の一本や二本は持っていかれそうだが、当然ながらただのポーズで留まる。……正直、公衆の面前でするべきやりとりではないような気がするが、さすがはイタリア。こんなにしゃれた水の都でも、ハグからキスの無限ループを決めているカップルや、誰彼構わずナンパしている色男もいる。こんな痴話喧嘩めいた会話など、誰も気に留めはしないだろう。
その意識が気を大きくして、それから俺とマリーは滅多にしない、恋人らしい言葉を何度も交わした。
少しして、俺とマリーは別れてカーニャを探すことになった。と言うより、俺が提案し、そのままゴリ押した結果だ。
以前とは街の規模がまるで違うので、皆で固まってちまちま探しているのでは、何日もここで潰してしまうことになるだろう。元より長くかかるのはわかっている旅だが、いたずらに日数をかければリスクも増える。割と本気で浮気を疑っているのか、マリーはあまり別行動をしたくない様子だったが、監視役兼レーダーとしてリディを預けられ、なんとか許可をもらえた。
とはいえ、今はまだ昼を少し過ぎたぐらいの時刻だ。吸血鬼は一日のサイクルが人とは真逆のため、陽の高い時間とは彼女達にとって深夜にも等しい。リディが姿を変えたコウモリをコートの内ポケットに入れているが、彼女はくぅくぅ寝るばかりで、およそ役立ってはくれないだろう。それに、この姿では言葉を喋れない彼女が魔術を使ってまで、俺と意思の疎通を図ってくれるかもわからない。
結局、俺は自力であたりを付けて一人の女性を、この人ごみの中から見つけ出すしかない訳だ。
――まず、簡単な推理をしてみよう。カーニャは吸血鬼だ。太陽の下に出て平気な訳がない。ついでに言えば、この時間はリディと同じように眠っているのが普通だろう。となれば、建物の外にはいない。必ず屋内にいるということになる。
加えて、彼女はこの土地に住んでいるという訳ではなく、この地のどこかに眠る道具の破片を探し出そうとしている。つまり、観光地ということもあって無数にあるホテルの内の一つに宿泊しているか、もしくは吸血鬼であることが発覚するリスクのある人間の住居を避け、それこそ前回のカーミルと同じように廃屋に潜んでいる可能性が考えられる。
ヴェニスの街に古びた廃屋なんてそうそうないような気もするが、探せば空き家ぐらいは見つかるだろう。まず探すべきはそこだ。だが、それは誰でも出来る作業だ。恐らく、そちらはマリーに任せても良いだろう。俺には、俺にしか出来ない探索法がある。
「すまない、失礼する」
バッグの中の冊子できちんと名前を確認してから、小さな教会の扉を叩く。
吸血鬼狩りは教会と密接な関係があり、主に宿の提供や、借金の借入、返済の窓口となっている。数百年前から続く伝統らしく、最も吸血鬼との戦いが激しかった時代は、教会の神父も戦列に加わったという記録が残されているほどだ。
「私は吸血鬼狩りの者だ。この街に吸血鬼が潜伏していると聞いてやって来た。もしも何か情報を掴んでいるのであれば、教えてもらいたい」
二分弱待って答えがないので、勝手に中へと入らせてもらう。規模は小さめとはいえ、ノックの音が届かなかったのかもしれないし、そもそも教会に入るのにノックなど必要ないだろう。一応、事務的にしただけだ。
「吸血鬼狩りの?お話を聞いていませんが、お名前は?」
中に入ると、一人のシスターが祈りを捧げていた。後ろを向いたままなので、若いかどうかもわからない。声質的には、少女と言っても通用するようだが。
「前の仕事が早く片付いたので、こちらに寄ったんだ。名前は……」
俺は死んだことになっている。本名を名乗ることは出来ない。咄嗟に“ソール”という名前が思い付いたが、俺は誰がどう見ても東洋人の外見をしている。西洋風の名を名乗るのは難しいだろう。一瞬だけ言葉に詰まったが、次の瞬間には打開策を思いつくことが出来た。
「もしかすると、近くで吸血鬼が聞き耳を立てているかもしれない。名乗るのはやめておこう。寝床に襲撃をかけられては事だ」
「そうですか。用心深いようで、安心しました。――ところで、聞き耳を立てている吸血鬼とは、どのような姿をしているのでしょう」
「姿?妙なことを聞くな。さあ、俺はその吸血鬼が、翼魔とも人狼とも聞いていない。ただ、女のようだが」
このシスターは吸血鬼の情報を一切掴んでいないのか、と背中を向けようとした時、風のうねりのような音が聞こえた。たとえるならば、目の前を車が猛スピードで通過した時のような、音と風の衝撃だろうか。そして、理解する。これは人間の出来る動きじゃない。
サーベルを抜き、咄嗟に構える。直後に剣が振るわれ、なんとか受け止めるも思わず取り落としてしまいそうなほどの力に、目を見張る。襲いかかって来たのは他でもない、この教会で祈りを捧げていた敬虔なシスターだ。その髪の色はピンク色の差した銀。瞳は、多くの吸血鬼に共通する赤色。指の爪は鋭く尖り、高速移動によって脱げたフードの下には、狼の耳があった。
「まさか、カーニャか」
「まさかそうだったら、どうなるって言うの?吸血鬼狩りのお坊ちゃん」
実際の狼を見たことはないが、まるで狼のように舌なめずりをする、と直感的に感じた。探していた吸血鬼がシスターに化けていたことも驚きだが、剣という人間が使うような武器を用い、屋内とはいえこんな街中で襲いかかって来たのも衝撃的過ぎる。それに、今は真昼。よく見ると窓のカーテンが全て閉まっていて太陽の入らない作りになっているが、マリー以外の吸血鬼が白昼堂々と活動しているとは、普通思う訳がないだろう。
「待て、俺はあんたを殺しに来たんじゃない。まずは話を――」
する状況ではないらしい。一度剣が引かれ、そのまま二撃目。防御すると更に何度も何度も、まるで棍棒を叩き付けるように、両刃の直剣を力任せに振りかざす。
まるでタクティクスというものを感じない攻撃のため、父から伝えられた日本の剣道と、西洋の剣術を混ぜ合わせたような俺の剣は全てを軽くいなすことが出来る。相手の力も、剣自身の重量も凄まじいが、まともに刃で受けなければこちらの剣が破損するほどのものではない。力を受け流す型はきちんと取れている。
「おい!だからまずは話をっ。マリー……あんた達の女王、マリエットと一緒に俺はここに来たんだ。もう話は伝わってるんじゃないのか?」
「マリー……?」
剣撃が止む。やっと話を聞いてもらえたか、と安堵するといきなりすくい上げるような一撃が飛び、防御が間に合わず俺のサーベルは遥か上まで吹き飛ばされ、天井に突き刺さって落ちて来なくなった。
「どこで聞いたのか知らないけど、人間ごときが私の妹の名前を口にしないでくれない?……そういうことされると、こま切れにしたくなるぐらいムカつくんだけど!」
後ろは引き戸。逃げ場はなく、吸血鬼の腕力で振るわれる剣を回避するなど不可能だ。軽い恐慌状態に陥った挙句、白刃取りをするというアイデアを思い付いたが、間違いなく勢いを殺し切れずにばっさりとやられる。そもそも、カーニャの構えは剣道で言う中段に構えられており、このまま縦斬りも、横斬りも、突きも袈裟斬りも自由自在だ。予測なんて出来るはずがない。
だが、少なくとも俺をひと思いに殺す縦斬りではない、そのことをさっきの言葉から予想することが出来る。ならば、思い切り身をかがめ、その後に蹴りを放てばあるいは――ただ一つ見出せた活路を信じ、身を低くしたと同時に、風を切り剣が真っ直ぐに振り下ろされるのが見えた。俺をこのまま真っ二つにしようという、純粋な殺意のみが溢れた一撃だ。こま切れにするとは、俺を殺した後ということだったのか――!
もう剣を受け止めるのも間に合わない。身を逸らすにしても遅過ぎて、ただ瞑目するだけだった。こんなところで、本来なら説得をするはずだった吸血鬼に殺されるだなんて。マリーが知れば、さぞ悲しむことだろう。
鉄の刃が頭の上にあるのがわかる。斬られるとは、こういうことなのか。悔いも悲しみもあるはずだったのに、全ての感情がなくなっていくようだ。それが、死なのか。どうしてだか、ただ静かな気持ちだった。
教会もまた静かで、この場所なら安らかに逝ける。そんな気が――したと思ったが、それはどうやら幻想だったらしい。金属音が鳴り響き、静寂と、死の安らかな絶望とがかき消される。
「ちょっとカーニャ!あたしの大事な大事なダイキに、なにをしてくれちゃってるんですか!」
「え、ええ、マリー!?う、うそ、ほんとのことだったの……?」
「あなたはまた、人間だからって変な偏見を持って――!あーもう、喧嘩っ早過ぎますよ、あなたって人は」
「う、うぅ……ごめんなさい」
「あたしじゃなく、ダイキに謝ってください」
目を瞑っていた俺には状況がわからないが、マリーが割り込み、カーニャの剣を爪で弾き飛ばしたということは理解出来た。そして、彼女が入って来た瞬間にこの騒がしさだ。暗い教会にも、日が灯る、といった感じだろうか。
「いや、俺は」
「いいえ、きっちり謝らせましょう!カーニャは昔っから人間のことを悪く思い過ぎなんです。仮にもあたしは人間だったって言うのに、過去にちょっと嫌なことがあったからって、びゃーびゃー、びゃーびゃー。何百年も前のことを……」
「ご、ごめんなさいって。え、えっと、ダイキ、っていうの?あなた、本当にマリーの知り合いだったのね。いきなり斬りかかったりして、ごめんなさい」
「あたしが来なかったら、取り返しの付かないことになってたかもしれないんです。本当、今度からはもっとちゃんとしてくださいよね。――はぁ、ということで、ダイキ。彼女がカーニャです。一応、あたしよりも年上なのでお姉さんぶってますが、まあ、あたしの方がずっと成熟した淑女なのは確定的ですよね」
「……え?」
確かにまあ、一応、確かに今のやりとりの中では、明らかにマリーの方が姉のような感じだった。だが、なんだって?淑女?今、この目の前にいる吸血鬼は、再び自分のことを淑女と称したと言うのか。
「こほん。カーニャ、彼はダイキ。端的に言いまして、あたしの彼氏さんです」
「……か、彼氏?マ、マリーに、人間の、彼氏?」
「はい。それに何か問題でも?」
「あ、あ、あ、ありよ!大ありよっ。私の、私のマリーに男の、しかも人間の唾がかかるなんて、絶対にあり得てはいけないことだわ!」
「うっさいんで黙ってください。嫌いになりますよ」
「…………ごめんなさい」
マリーが俺を紹介した瞬間、半狂乱になったカーニャが一瞬にして静かになる。マリーの、普段の表情からは想像も出来ない恐ろしい顔から放った一言で。
……こうして、ほぼ完全に理解することが出来た。カーニャはマリーを溺愛している。一方、マリーは普通に男の方が好みで、時にわずらわしくなりがちなカーニャを、脅迫の一言で上手く制御しているのだ。……なんとも恐ろしい。怖過ぎる。
「それは良いんですけど、カーニャ。あなたも、あたしが何をしようとしているのかはわかっていますよね」
「えっ?さっきダイキも言っていたけど、マリー、あなた何かしたの?」
「何かって、滅茶苦茶すごいことをして来ましたよ、あたし。まさか、このイタリアまで情報が行き届いてないって言うんですか」
ギリシャの片田舎には伝わっていて、イタリアの大都市に伝わっていない、なんてことはあり得るのか?
人間の尺度で考えればおかしな話だが、吸血鬼は恐らく都心を避け、隠れ潜んでいるのが普通だろう。ならば、辺境にこそ……いや、マリーの監視役の吸血鬼がいるなら、そいつが全国各地に触れ回っているのが普通だ。やはり異常なことに違いない。
「んー、どうなのかしら。ほら、あたしは情報を集めるためにこうして、ずっとシスターに化けていたのよ。だから、吸血鬼狩りの情報は入って来るんだけど、逆に吸血鬼自身の情報はあんまりで。……まあ、本人がここにいるんだから、直接教えてくれない?」
「はぁ……。相変わらず、カーニャは何かと極端ですねぇ。じゃあ、いい加減、道具のある場所の目星ぐらいは付いているんですよね」
「そう思う?」
「聞き返された時点で、そうじゃないと理解出来ました」
「ふふー、正解!」
「出来るなら、不正解であって欲しかったです」
いつもはボケに回るはずのマリーが、今は呆れつつ突っ込みを入れている……。どうしてだろう、軽く感動する光景だった。
――と、そんな場合ではないか。カーミルの時と同じように突貫で探し出すには、今度は探索すべき範囲が広過ぎる。それに、こうも人が多い地域ならば、夜でも人はたくさんいることだろう。人目を忍んで街中を探す、となると一筋縄ではいかないに違いない。
「しかし、アンデッドの発生パターンによれば、間違いなくこのヴェネツィアが怪しいんですよね。ここにはイタリアの吸血鬼狩りの大家の一つがあるということもわかっています。その屋敷の敷地内……というのはあまりにも安直過ぎますし、封印するべき物が近くにあり過ぎるというのも、考えづらい話でしょう。とすると、行くのにそれほど不便はせず、かつ人目に付きづらい場所……」
難問だ。ちなみに、前回に回収したものは、カーミルの仮の住まいであった廃教会の近くにあった。灯台元暗し、といったところか、あまりにも近過ぎたため、感じる吸血鬼の気配が自分のものであるとばかり思っていたらしい。今思えば間抜けな話だが、見つけづらい物というのは、得てしてそんなものなのかもしれない。
そう思い、もう少し思考を柔軟にしてみることにした。
「アンデッドを発生させているということは、必ず地面とじかに接している、ということだよな」
「いいえ。今回はその逆だと思います。ヴェニスはご存知の通り、橋で大陸と繋がれているに過ぎません。地続きという訳ではないのですから、この石畳と面していると考えるのが自然です。今までの事例から、海の底を通って大陸に伝わる……という可能性は考えられませんし、地面に比べれば石は魔力を伝えづらいため、アンデッドの発生もかなり小規模なものなのですよ」
「なら、ローラー作戦しかないのか……?」
水の都ヴェニスだが、植え込みの数も結構ある。そこに埋められていて、どこかおかしな木を探せば簡単に見つかる……なんて考えたが、そうまで単純ならカーニャが既に発見しているか。
「そんなの、私がもう既にやってるわ。……と言うか、私の役目の話も良いけど、いい加減あなたが何をしたのか教えてくれない?後、その男の説明と」
「あー、はいはい。きちんとお話しますよ。カーニャにしてみれば、ショッキングなことかもしれませんが」
実の妹のように溺愛しているマリーが、女王という立場すら捨てて吸血鬼の側を一度離れ、人間との和平の道を模索しようとしているのだ。しかも、現に俺という人間の“恋人”まで連れ歩いている。強く拒絶されることは、あるいは必然だ。
ここは、下手に俺がこの教会の中に長居し、彼女を刺激するのもよくないだろう。マリーがより話しづらくなってしまう。
「じゃあ、マリー。俺はしばらく一人で探ってみる」
「え――あ、はい。わかりました。……ありがとうございます」
吸血鬼二人を教会の中へと残し、俺(と一応リディ)は再び、太陽の当たる外へと出て行く。しかし、いくら吸血鬼狩りの大家――ヴィヴァルディ家だったか、があるにしても、孤島のきちんとした地面がない場所に封印、というのもいまいち理に適っていない話だ。
建物の下敷きにするような形にしては、再利用しなければならない、ということになった場合に不便この上ないし、あまりに単純な隠し場所だと、それを求めた吸血鬼狩りに奪われたり、一般人が発見し、ゴミか何かと勘違いしたりしてしまいかねない。
ならばいっそ、場所だけを記録して地中深くに埋めてしまえば良い……大陸で行われたことは実に豪快だが、それぐらい単純なやり方が一番正しいのかもしれない。特に、この大変な遺産の管理に関しては。
それとも――全く別の考えが生まれて来る。そもそも、今度のアンデッドは本当に吸血鬼の意思とは別に発生しているのか、というものだ。つまり、小規模の発生であるのなら、吸血鬼がなんらかの目的を持ち、アンデッドを作って人を襲わせている、とも考えられるということになる。
もしもこの推察が正しければ、いくら探しても道具が出て来ない理由もわかる。そもそも、なかったのであれば。だからと言って、マリーの理想からすれば、アンデッドを量産し、人を苦しめる吸血鬼を放っておく訳にはいかない。今度こそ戦闘になってしまいそうだが、なんらかの手段で説得……それが無理であるならば、強引に拘束という形で、人間との敵対をやめさせることになるだろう。
そうなれば、こちらには絶大な力を持つマリー。それにカーニャがいるとはいえ、相手を殺さずに戦闘行動を止めさせるとなれば苦しい戦いになるだろう。リディも活躍してくれるかもしれないが、少なくとも吸血鬼を殺す術に特化した俺は、精々アンデッド共を散らす程度のことしか協力出来ない。
……なんとなく別なケースを考えてはみたが、もっと事態が単純であることを願いたいところだ。
それにしても、唐突な戦いによる疲労、心労が教会を出ると一気に襲いかかって来た。思わず、近くにあったベンチへと腰を下ろす。近くには噴水があり、どことなく癒される気分だ。
吸血鬼と人が正面からぶつかり合って、人間が勝つなど、よほど上手く人間が相手を罠にはめた場合ぐらいだ。少なくとも、剣の勝負で相手になるはずはない。……だが、確かに俺は防戦一方であったにしろ、油断さえなければまだ粘れた戦いだった。上手く行けば、攻勢に転じることだって出来たはずだ。勝つことはないにしても、負けはしなかった勝負であると、今になって思う。
なのに、俺は戦いの最中で油断をし、致命的な隙を晒した。もしもマリーがあの場に現れなければ、俺は間違いなくお釈迦だ。下手をすれば、コウモリになったリディまで巻き添えを食らっていたかもしれない。
そうなれば、いよいよマリーは救われなかったことだろう。自分の友人に俺を殺され、しかも最高の親友までも……感じるのは絶望どころではなく、全てを投げ出してしまっても、決して咎められはしないほどの衝撃のはずだ。俺は後一歩のところで、彼女にそんな経験をさせてしまうところだった。俺を愛し、俺が愛する人なのに。
「……………………」
愛する、か。
息を大きく吐きながら、胸に手を当ててみる。今も尚、彼女の傍にいるとこの胸の鼓動の数は増え、軽い緊張と、強い安心感に包まれる。これは、間違いなく恋をしているということなのだろう。もしもそうじゃなくても、彼女を強く求めていることに違いはないはずだ。姉代わりに。あるいは母代わりに。
だからこそ、マリーを支えたいと思う。応援したいと。そして、力になりたいと強く願っている。それなのに俺は、願うだけで何一つとして満足には達成出来ていない。むしろ、ことごとく逆のことをしているだろう。
愛している。その言葉の意味を、今一度よく考えるべき時が来ているのかもしれなかった。
こんなにも弱い力で、彼女のような強い人を好きだと、守ると言って良いのか――かつて俺は、マリーに言葉は使われるものなんだから、使うのをためらうなと言った。その信念は、今の俺の心の中にもあるはずだ。しかし、今の俺には、この言葉を使うことにためらいがあった。自分の資格を自分で問い質しているようだった。多分、今の俺にはそれが必要だと思うから。
水の音は、一分ごとに強くなっているようで、妙に不安にさせる。たまらず立ち上がって、なんとか屋内に逃れようと思った。
*
「……カーニャ。わかって、くれましたか」
多少の割愛はあったが、マリーはたっぷりと時間をかけ、大輝と出会う以前のことを含め、こうして女王としての役目を実質的に放棄するに至ったまでの経緯、そして今までの旅の内容を語り聞かせた。カーニャは間違いなくマリーの理解者の一人ではあるが、他の多くの吸血鬼と同じく、人間には差別的で、やはり変化を好まない保守的な性格をしている。
最初に説得したカーミルには明確な縦の関係があり、そもそも彼の性格が穏やかだったということもあって説き伏せる必要はなかったが、彼女の場合はきちんと段階を踏み、わからせる必要性があった。
「マリー。あなたのやろうとしていることは、きっと将来的にあなた自身を不幸にするわ。私達吸血鬼は、結果として新たな未来の可能性を手にすることが出来るかもしれない。けど、あなたはそのために」
「はい。いっぱい、失くしちゃいますでしょうね。でもね、カーニャ。あたしは、それで良いんです。ダイキもいてくれる、リディもずっとあたしの傍にいる……だから、頑張れるんですよ。頑張らないと、駄目なんです」
静かに目を瞑る。まるで、祈りを捧げるように。
「私はあなたが大切なの。決して、あなたをこのまま行かせる訳にはいかないわ。他のどうでも良い他人ならともかく、あなたに。大好きなあなたに、避けることのない壁ばかり立ち塞がる道を行かせることが、私に出来るとでも思う?」
「思え……ませんね。カーニャは、そういう人です。だから、あたしはなんとかその壁を、全部越えるので大丈夫ですよ。そりゃあぶつかったり、飛び越え損ねて痛い目を見ることもあったりすると思いますが、その道を踏み固め、誰もが通れるようにすることは必要なんです。あたしにはもう、王の資格なんてあるかどうか知りませんが、王として。そして、かつて人であった者としてあたしは、その仕事を引き受ける義務があると、そう考えるんです」
「そんな義務、ないわ。過去はどうであれ、あなたは吸血鬼だし、既に良い女王よ。あなたがいなかったら、吸血鬼はもっと数を減らしていたし、人間の世も乱れていたわ。今までも十分、あなたはあなたの役目を果たしていたのよ」
僧服を身にまとった吸血鬼は、自分の妹同然の存在であった女王を、力いっぱいかき抱いた。彼女がもうどこにも行ってしまわないように。これ以上、その身や心を傷付けさせてしまわないように。
だが、マリーはその拘束にも似た抱擁をすり抜け、逆にカーニャを抱きしめた。背丈も体格もそう変わらないが、軽く涙を浮かべるカーニャの体は縮こまっていて、あまりにも頼りない。自分よりずっと長く生きているとは思えないほどの弱々しさだ。
「だからこそ、いつか新たなもう一つ上のステップに進まなければならないのです。そして、その“いつか”とは、出来るならば早い方が良い。そう、今を明日にするべきなんですよ。……カーニャ。わかってください。これ以上話したら、きっとあたしも泣いちゃいます」
「泣いてなんか……ないわ。むしろ、怒ってるのよ…………」
「そうですか。そう、ですか」
より強く抱き、その背中と頭を何度も撫でる。かつて大輝も、マリーに同じことをしていた。吸血鬼の常識で言えば、握手や軽い抱擁以外のスキンシップは非礼とされる。人間の間でだけ成立するなだめ方だ。
「マリー。あなたは、もうこの街を発って。道具はきちんと私が見つけておく。だから、早く次の目的地に向かって欲しいの」
「……良いんですか?」
「私はあなたよりも大人だもの。聞き分けのないことを言って、“大人”のあなたを困らせたくないわ。だから、せめて急いで行って。……私もね、あなたと離れてこの街で暮らしている内に、色々なことを考えたわ。教会に訪れる人ともたくさん話して、人間のことも多少はわかった。そうしたら、こうして対立し合うことの意味も、どんどんわからなくなって来て、いつしか恨みは人間全体ではなく、吸血鬼狩りに対してだけになったわ。だから、ダイキには悪いことをしてしまったわね」
つり目がちな赤の双眸は、今も軽く濡れている。しかし、再び目を大きく開いたカーニャの表情には、悲しみでも怒りでもない感情が見受けられた。ある意味での祝福。ある意味での寂寞。別れの表情だった。
「だから、あなたの理想の通り、人との争いをやめることはそう難しくないの。そりゃあ襲われたら自衛ぐらいするでしょうけど、殺してしまわないようにするわ。そうすれば、少しずつでも確実に戦いは減ると思うの」
「はい……。カーニャ、本当にありがとうございます」
「堅苦しい感謝の言葉はなしよ。私は、妹の考えに共感してそうするだけなんだから、特別感謝なんてされる筋合いはないじゃない。さあ、早くあの男を回収して、私の街から出て行って。人間のことは嫌わないけど、私の大事な妹の心を奪ったあいつだけは嫌いだわ。同じ空気を吸ってるってだけで、虫唾が走るの」
「もう、カーニャってば……。
では、さようなら。次に会うのは、世界が変わってからですね」
姉に背を向け、マリーはゆっくりと。だが、残酷なほど着実に教会の出口へと向かって歩き出す。もう振り返ることはなく、別れの言葉も、表情もそれ以上は見せない。
「…………長く、お世話になりました」
扉に手をかけつつ呟いた小さな言葉を、人狼の耳は聞き取ったのだろうか。それはマリー自身にはわからず、この街を去る以上、確認する術はない。
*
俺は思春期や青春という言葉とは無縁だったはずだ。
少年時代の大半を剣と銃だけを相棒に過ごしたのだから、一般的な同年代の学生が抱えるような恋の悩み、未来への不安、絶望や挫折は遠い存在だった。……そのはずだった。
それなのに、今の俺は明確に悩んでいた。不安を感じていた。自分がマリーの傍にいて出来ることとは何か。果たして、本当にマリーの理想は俺と一緒にいることで叶うのか。もっと適任の奴がいるんじゃないのか。そもそも、俺は今、何をしているのだろう。
考え事に慣れていなかったせいか、一度考え出すといつまでも繰り返し同じことを考えてしまい、軽食屋に入り、別段食いたくもないパスタを食べ、更に紅茶を飲んでいる間も、延々と俺は悩み続けていた。何かをしようと思っても、まるで手に付かない。そして、こうして更にマリーの足を引っ張っている俺自身に嫌気が差して来る。よくない連鎖が出来ていることには気付いているが、止めようもなかった。
「……………………」
気が付けば、また水音のうるさい噴水広場にやって来ている。太陽は西の空へ沈みかけていて、東の空は紫とも青とも言えない色をしている。まもなく夜。吸血鬼の時間だ。同時に、本来ならば人間が眠るはずの時間。電球、そして電灯を発明した人間は、たとえ夜の暗闇の中にも、光源を得ることが出来るのだが――。
『ダイキ。不安なの?』
「誰だ?……いや、リディか」
心の中に、直接声が届く。そんな不思議な感覚は今まで味わったことのないものだが、既にマリーからこの手の魔術の話は聞いている。そして、リディがその使い手であるということも。
「もう起きたんだな。マリーは、無事にカーニャと会って話しているよ。俺はぶらぶら時間潰しだ」
『うん……。でも、ダイキ。泣いてる』
「泣くだって?そんな訳ないだろう。ちょっとの間マリーを取られたぐらいで傷付くほど、俺は繊細じゃない」
『心で、わかる。すごく不安で、悲しそう。……昔の、私みたいに」
マリーと同じ魔術、だろうか。なんとなくリディは“発信”専門なのだと思っていたが、一般的に翼魔の方が魔術には優れる。マリーと同じことが出来るのはそう不思議じゃない。
彼女にも、嘘がつけないのか。
「リディみたいって?」
『昔……マリーと会う前の私は、何も出来なかった。自分で吸血する力がなかったから、周りの仲間に手伝ってもらっていたんだけど、私はそれに甘えてばかりで、ロクにお礼も言えなかったし、お返しなんてもっと無理だった。そうしている内に愛想を尽かされて、もう私は一人でどうしようも出来なくなっていた』
「それは……」
彼女が無口で極度に内向的な性格であることは、俺と彼女が今日までまともに会話をして来なかったことからわかる。だが、それにしてもきちんと感謝の言葉を述べることが出来なかったのは、不味かったのだろう。
たとえ実力主義の吸血鬼の世界でも、リディが戦う力を持たないと知っていれば、きちんと誰か親切な者は面倒を見続けてくれていたはずだ。
『後悔したけど、もう遅くて、私は誰にも相手にされなかった。そんな時、人間から吸血鬼になる、という形で仲間になった女の子がいたの。もちろん、それがマリー。……最初、私は計算づくで彼女に近寄った。だけど、マリーはあまりにも素直で、純粋で、今まで会って来たどんな吸血鬼より私に優しかった。
だから私は、彼女だけは。彼女だけは、私の傍からいなくなって欲しくない、そう強く思った。でも、私はマリーの悩みの相談相手にすらまともになれなくて、家事をしてあげるぐらいしか出来なかった。せめて、強いけど脆い彼女の心の支えになってあげられれば。そう思ったのに、逆に遠慮させてしまうぐらいで……』
「……マリーは、そういう奴だよな。優しくて強くて、だけど絶対に弱いんだ。なのに、全部を抱え込んでしまう。その癖、あんまりに明るいから忘れてしまうんだ。笑顔の裏の暗い顔のことを」
思えば、彼女の弱さをはっきりとした形で見たのは、ルーマニアで会ったあの時が最初で最後なのかもしれない。あれ以降、マリーは悩んだり不安を感じたりすることはあっても、あそこまで心を乱し、余裕を完全に失くすことはなかった。ということは、絶対にどこかで無理をしているはずなんだ。
『でも、昔マリーは言ってくれた。私が一緒にいるだけで、すごく気が楽になって、だからこそ笑顔でいられるんだって。……ダイキも、きっとそう。もしかしたら、今は私よりもマリーにとって大事な人なのかもしれない。だから、何も負い目なんて感じなくて良い。あなたが傍にいるだけで、マリーはこの終わりの見えない旅を笑顔でいられるのだと思う』
「リディ…………」
本当に、そうなのだろうか。――いや、彼女が言うのなら、きっとそうなのだろう。魔術による会話ですら苦手な彼女がわざわざ伝えてくれたことなのだから、信じてあげるしかない。
「ありがとうな。……もう、悩まないことにしよう。結局、どれだけ考えても俺は俺の出来る範囲のことしか出来ないんだ。それをうじうじ悩んで悲観しても、どうしようもないもんな」
『それで良い。きっと、マリーはあなたが暗い顔をしていると、心配してしまうから』
俺はマリーの笑顔が好きだ。眩し過ぎるほどだが、だからこそ心が澄み渡っていくような気持ちになれる。そんな彼女の笑顔を曇らせないためにも、出来るだけ俺も明るい顔をしていこう。その第一歩として、コウモリの姿のリディに可能な限り笑顔を作って見せた。まだぎこちないだろうし、元から暗い俺は眩しい笑顔なんて絶対に出来ないが、リディは満足そうに頷いてくれた。
もうそろそろ、話も終わる頃だろう。教会の場所は覚えているので、そこまで彼女を迎えに行くとしよう。そう思って立ち上がると、今心の中にあったその人の声が聞こえる。そう遠くない場所から。
「ダイキ。こんな所で黄昏ちゃってたんですか?」
「ちょっとな。リディと話してた」
「おおー、やりますねぇ。本当、あたし以外とは全然喋ってくれない子なのに」
どんな話をしたのかについては伏せておく。彼女ならもしかするとおおよその予想は付いているのかもしれないが、あえて言葉にしない方が良いだろう。
「それで、話は付いたのか?」
「はい。あたし達はこのまま旅立つようにと、そう言ってくれました。……彼女は、変わりませんね。昔から」
「良くも悪くも、か」
「良いところばっかりですよ。正しくあたしの“お姉さん”という訳です。だから、カーニャのことがあたし大好きなんですよ」
目を瞑り、しばし物思いに耽った後、マリーは歩き出した。それに俺も続く。
「もう夜ですが、とりあえずヴェニスは出ましょう。正直、こういう観光地のたっかい宿は取りたくないですし」
「じゃあ、車内で夜を明かすことになるかもしれないな。適当な町に泊まれれば良いんだが、ぎりぎりでチェックイン出来るホテルもそうないだろう」
「それも良いですね。ふふー、密室でダイキと大接近出来るチャンスですよー」
「あんまり、無茶はしないでくれよ……」
「ふっふっふっ。そいつぁどうでしょう」
なんとなくだが、今のマリーのテンションはいつもより高いような気がした。俺が無理に空元気を振り絞ってるからこそ思うのかもしれないが、彼女の笑顔が見れて救われた気分になった。……そうして癒されていると、ついさっきまでの悩みなんてものは、確かに必要がなかったのでは、という気分にすらなれる。
誰よりもマリーと長く一緒にいたリディは、そんな彼女にいつも励まされて来たのだろうか。そして、俺もまた幾度となく彼女によって心身共に助けられるのだろうか。
あちこちで街灯の点灯した市街を、マリーは楽しそうに目を輝かせながら歩く。その瞳はこの街を初めて訪れたかのように輝いていて、年端もいかない少女のように自由で、苦悩を知らなそうに見えた。あくまで、見えるだけだが。
それでも、俺は何も言わずに彼女の傍を歩く。そこでしか生きられない者であるかのように。
車に乗り、ヴェネツィアと大陸を繋ぐ橋を抜けた頃には、七時を過ぎていた。吸血鬼にとってはやっとやって来た活動の時間だが、人間の世界の常識で言えばそろそろ宿を取るのは困難になり、更に夜も深くなれば静かに声を潜めて過ごさなければならなくなる。
現代では、八時や九時を過ぎて大声を出したりするのは「近所迷惑」として処理されているが、これはほぼ間違いなく旧来の吸血鬼に見つからないための対策が形を変えたものだろう。もちろん、吸血鬼には知恵があるので人の住居と見ればそれを襲撃する危険性もあるのだが、やはり狩りは楽にやりたいもの。一人孤立して、外を出歩いている人間を狙いたがる。
だからこそ、夜間に出歩く際は息を殺すのが定石となったのに違いない。また、そんな吸血鬼を狩る人間としての教育を受けた俺は、昼でも夜でも呼吸や気配を感じさせない振る舞い方をしている。それと同時に、わずかな月明かりでもあればある程度の地形と、人影ぐらいならば索敵する能力も身に付けているのだが……。
「今、人影があったな」
「ですね。向こうの森の方で、確かに人影が動きました」
次は近場でスイスを目的地とする。とりあえず今日の内に可能な限り西へ向かい、ミラノの近くに辿り着いておきたいと思ったのだが、車を走らせること一時間ほどだろう。国道の脇に広がる森林に、俺とマリーは同時に人影を認めた。
もしも昼間なのであれば、それほど気にはしなかっただろうが、この時間だ。吸血鬼やそれを狩る者である可能性を疑わずにはいられない。だからと言って、下手に接触すればこちらが追われかねない相手だ。あまり関わり合いにはなりたくもないのだが、状況を確認する必要ぐらいはあるだろう。
少し道を外れた所に停車し、出来るだけ足音を立てずに森の方へと近付く。たとえ一般人であってもこんな時間であれば、自分が異形の存在だとばれないだろうという確信からか、マリーはコートのフードを脱ぎ、大きな耳を立てて音や気配を探っている。こういう時にこそ、人狼としての能力が役立つというものだろう。まるでパラボラアンテナのように耳は前方百八十度を探り、やがてある角度で静止する。
「見つかったのか?」
「ええ……。複数、いますね。しかも多分、これは人間だけでも、吸血鬼だけでもありません。両者が恐らく……対峙している。リディ、コウモリの姿のまま飛んで行って、軽く偵察してもらえませんか。くれぐれも気を付けて」
即座にマリーのコートの中から一匹のコウモリ――リディが飛び出し、真っ直ぐ前方へと向かって飛び立つ。少し行くと森を俯瞰するように大きく飛び上がり、肉眼ではほとんど見えなくなった。
「人間と吸血鬼で、戦いが起きているのか……」
「恐らく、両者が通りすがりに偶然遭遇したのだと思います。ご存知の通り、吸血鬼の数は少なく、現在となっては千にも満たない数ですので、カーニャのように特別な目的を持って常駐している場合を除き、数人で連れ立って世界を転々とするものなのですよ。ですから、吸血鬼が一人だけとは思えないのですが」
「数人で、か。俺は一人でいる吸血鬼としか戦わなかったが、それは……」
「そういうことです。相当、苦労されましたでしょう。吸血鬼狩りと交戦することになっても良いように、かなりの実力者ばかりを選出していますから」
吸血鬼側の背景を知った今となっては、後味の悪さを感じずにはいられない話だ。どうしようもなかったこととはいえ。
「リディが戻って来たら、止めに入りましょう。あたしは吸血鬼を。ダイキは、吸血鬼狩りの方をお願い出来ますか」
「ああ……。でも、大丈夫か?人間の方はともかく、気の立っている吸血鬼を止めるのは、相当きついと思うが」
「なんとかやりますよ。本当は同族もあまり傷付けたくはないのですが、実力主義のルールで生きる吸血鬼を止めるには、やはり武力を行使するしかないのでしょう。血を流さない程度に、痛め付けるとします」
「そ、そうか」
真剣な表情を見ていると、本気で言っているとしか思えない。しかも、既に俺はマリーによって一度蹴り飛ばされており、その身体能力と力の強さは身を持って知っている。比較出来るほどの経験が俺にはないが、人狼の中でも特に優れているのは間違いないだろう。
それに、マリーは多少の無理をしても、決して自分の命を危険に晒すようなことはない。それは確信出来ている。彼女には叶えるべき希望があり、そのためには彼女が生きていなければならない。理想のために死ぬような馬鹿げた真似は、決して出来ないはずだ。
久し振りにエンフィールドを折り、中の銀弾を確認する。まさか発砲するようなことはないと思うが、全くの無用心で行く訳にはいかないだろう。続いて、サーベルも鞘から抜く。もしかすると、こいつの方は活躍するかもしれない。戦闘中に突然声をかけられれば、俺でも斬りかかりそうになるだろう。それを受け止めるためにも、これは抜剣したまま行くことにする。
一方のマリーは、表情にこそ油断がないが、どことなく余裕は感じられ、特に構えを取る様子もなく、緊張することなく待機している。
「リディ。どうでした?」
間もなく翼魔の少女が舞い戻り、やはり魔術によってマリーといくつかの会話を交わす。
「わかりました。――確実な情報ではないかもしれない、ということですが、やはり吸血鬼と人間は一人ずつのようです。吸血鬼――人狼の方は、あたしと全く面識がないという訳ではないので、交渉の余地は十二分にあると思います」
「そうか。人間の方は、言葉が通じるか心配だが、まあ困ったら英語を使えば良いだろう。行くか」
「はい。……リディ、あなたは念のために車の近くで待機しておいてください。もしも他の吸血鬼や人が近付くようであれば、あたしかダイキに知らせてくださいね」
決行するからには速やかに。俺とマリーは同時に走り出し、夜の森の中へと足を踏み入れる。どうやら開けた所で真っ向から勝負をしているのではなく、木々を利用して回避しつつ戦闘を繰り広げているようだ。人狼の機動力を殺すための人間側の作戦だろう。さすがによく考えられている。俺より熟練の吸血鬼狩りなのは明らかだ。
木々の幹にはいくつもの爪痕があり、中程から折れてしまっているものも少なくはないが、血痕らしきものは見当たらない。暗いせいで見えないというのもあるだろうが、手負いでない相手ならば、まだなだめるのも楽というものだ。これは好都合と言える。
「あっちですね。あたしは急いで吸血鬼の方に追い付き、接触を試みます。ダイキ、こんな跳弾の危険のある場所で相手が発砲するとは思えませんが、銃には気を付けて」
「そうだな。マリーこそ、吸血鬼と人の両方に襲われかねないんだ。油断はしないで、慎重にな」
「はいはーい」
お気楽に言うと、地面を強く蹴って前方へと大きな推進力を得て、ボウガンの矢のように木々の合間を飛んで行く。俺にその真似はとても無理だが、大きく手を振り、可能な限り早く人間の方へと追い付こうと走った。
距離にして、三十メートルもないだろう。ほんの少しだけ行くと、日本刀らしき刀剣を持ち、木に身を隠している男の姿を見つけた。日本刀を使っているからといって日本人ではなく、金髪の肌も白い二十五前後といった男だ。顔見知りではないが、俺は死亡扱いとはいえ吸血鬼狩りの人間、話しかけても不自然ではない。
「なぁ、あんた」
「誰だきさ――失礼、同業者か。いきなり背後から話しかけるものだから、吸血鬼かと」
「吸血鬼なら、口より先に手を出しているだろう。それより、すまないがここは引いてもらえないか」
「なに?まさか、手柄を横取りするとでも言うのか」
「いや、俺が一人で追うにはリスクが高過ぎる相手だ。そんなこと、したくても出来ない。
そうじゃなくて、今回は偶然あの吸血鬼と出会っただけなのだろう?なら、こうして戦う必要もないはずだ。あいつが人に害をなしたのならともかく、少なくとも今は無害な存在だろう」
俺の言葉は、吸血鬼狩りの立場の人間からすれば考えられないものだ。その自覚がある。だが、言わなければならない。たとえ、この言葉が相手の神経を逆なでして、激昂させるものであっても。
「なんだと?吸血鬼狩りである限り、たとえ任務外であっても吸血鬼やアンデッドを発見することがあれば、それを討ち滅ぼすのが最善だろう。それに、ここで引いたらまるで私が臆病風に吹かれたみたいではないか。たとえ一体一の戦いであっても、私には勝つ自信がある」
「……そうじゃないんだ。まだほんの一部だけの話だが、吸血鬼は人との争いの歴史を、この時代で終わりにしようとしている。今追っていた吸血鬼も、他の新たな考え方を持つ吸血鬼が説得している」
「馬鹿な。吸血鬼は人の血がなくては生きられない存在だ。そんなことが実現するはずがないだろう」
「人間が平和的に血を提供し、それを吸血鬼側が素直に受け取っていれば、どうだ」
「あの人を見下す種族が、その施しを受けるとは思えないな。どこの誰だかは知らないが、つまらない吸血鬼の洗脳から目を覚ませ。さっきから言っていることに破綻があり過ぎるぞ」
「そう簡単にはいかないことだという自覚はある。だが、両者の大きく開いた距離は、必ず互いが一歩踏み出すことで埋められる。旧来の因習に囚われ続ける時も、終わりに来ているはずだ」
尚も続けようとするが、もう会話を続けることすら無意味と判断されたのか、無言で男は吸血鬼達の方へと向かってしまう。説得なんて軽く言っても、吸血鬼の存在すら知らない一般人ならともかく、吸血鬼狩り相手に上手くいくとは思っていなかった。せめてマリーの側が上手く行くまでの時間稼ぎになればと思ったが、どう考えても五分と稼げていない。
ネゴシエーションというものの技術がまるでない自分を呪いながら、一瞬遅れて俺も彼について行く。……あくまで、遠巻きに。
ただでさえ俺に対する心象は最悪だと思われるので、これ以上怒らせて斬りかかって来られても困る。ただ、向こうが吸血鬼を攻撃しようとするのであれば、足を掴んででも止めようと思っているので、その気になればいつでも飛びかかれるような距離を保っておく。後はお喋りなマリーのトーク力に期待するばかりなのだが。
「なっ……どういうことだ!?」
先を行く吸血鬼狩りの青年が、木の向こうになんらかの存在を認め、思わず立ち止まって叫んだ。
一般的な人間にとっての非常識を知り尽くしている吸血鬼狩りが、ここまで驚愕するとはすなわち、逆に彼等にとっての常識が覆された瞬間を目撃してしまったのだろう。
「実戦で使うのは初めてですが、なるほど大した効力ですね。さすがのあたしでも、同じことをされたらまずそうです」
俺が追い付いて見ると、そこには頑強な鎖により、腕の拘束を受けた人狼の姿があった。凶悪な闘志――殺気を滾らせた目をしているものの、物理的な拘束だけではなく、魔術的にも自由を奪われているのだろう。口を開き、自身を縛り付けるマリーを罵ることすら出来ていない。
彼女が使用している鎖は全く初めて見る物だが、少し頭を働かせばその正体はわかった。マリーはこのイタリアに来る以前、ギリシャでカーミルから吸血鬼狩りの道具の欠片を受け取っていた。伝承にあるその道具の内、パーツとして鎖を含む道具は鎖鎌しかない。分銅とエッジの部分は取り外されており、武器としては機能しそうにないが、拘束具としてはそれで十分だろう。
また、人間が扱うことを想定して作られた物だけに、元人間であるマリーが使うことによる相性は抜群なようで、鎖には彼女の扱う赤黒い光を伴う魔力が通っているのがわかる。
「マリー。その鎖、持って来ていて良かったな」
「そうですねー。まあ、少しして大人しくなってもらったら、きちんとお話をするつもりです。ちなみに、この魔術は非殺傷のものですのでご安心を」
「まあ、そうじゃないとまずそうだからな。――これで、わかってもらえたか?あの吸血鬼を拘束しているのもまた吸血鬼、しかも吸血鬼の女王だ。俺はあいつと手を組んで旅をしている。他でもない、吸血鬼と人の争いを止めさせ、各地でのアンデッドの異常発生も解決するためにな」
吸血鬼狩りに目を迎えてみると、この光景のショックが大き過ぎて、俺が話しても状況の理解が追い付かないようだ。多分、これは少し前の俺と同じなのだろう。吸血鬼であるマリーに恋をされ、戸惑うことしか出来ていなかった頃の俺と。
「お、お前達は、アンデッドの発生と吸血鬼は無関係と言うのか?」
なんとか絞り出せた言葉は、俺の後半部の説明に対する疑問らしい。しかし、吸血鬼狩りにとっては目下の一番の心配事とも言えるのだから、存外に冷静なのかもしれない。
「ああ。正しくは、彼女が使っている鎖。ああいった俺達吸血鬼の祖先達が作った、吸血鬼の魔力を宿した道具達。それが現在は破棄されていて、それから漏れ出る魔力が死体をアンデッドに変えているんだ。現在、吸血鬼もまたアンデッドを倒し、その発生源である道具を回収しようとしている」
「なんだと……。では、アンデッドが増え始める以前、吸血鬼が突如として表立っての行動を避け始めたのは」
「彼女、マリーが女王に就いたのと同タイミングにそれは始まったらしい。理由は単純、彼女が人間を必要以上に殺害したり、傷付けたりすることを禁じたからだ。尤も、多くの吸血鬼は殺人をしてしまっているようだが、露骨な戦争じみた人間とのぶつかり合いは起きていないだろう。それは間違いなく彼女の功績だ」
俺がマリーから聞いた話の全てを、そんなかつての俺に対して話して聞かせる。ふとマリーの方へと視線を戻すと、いつも通り彼女は微笑をたたえ、俺と青年の姿を見守っている。その姿だけを見ていると、まるで母親のようだ。
――だが、そんな表情が一瞬にして凍り付く。露出している耳はぴんと立ち、遠くになんらかの気配を感じたようで……。
「マリー、どうした?」
「ちょっと信じがたいのですが、アンデッドの気配があります。そう遠くない地中にいくつも……かつてこの場所に土葬されたものとも考えられますが、どうも作為的なものを感じますね。……すみませんが、その件について何かご存知なら、教えていただけません?」
今度は驚きの表情が更に変化し、冷酷でサディスティックな“女王”然としたものになった。同時に鎖の拘束が強まり、それに走る魔力が熾烈さを強める。同時に赤い魔力の迸り――ではなく、縛られている人狼の血液が飛び散った。深くは切れていないようだが、鎖に通う魔力が攻撃性を持って締め上げているのは明らかだ。
「あたしは、あたしの大切な人と、あたしの大好きな人間達を守らなければならないのです。その状況下では少しだけ、同族相手だからこそ余計に容赦がなくなってしまいますよ。知っていることがないのでしたら、そう素直に言ってくれれば痛くはしません。どうですか?」
「し、知らないっ。俺は本当に偶然ここを通りかかっただけで、何も……」
「そうですか、わかりました。ご協力ありがとうございます」
鎖を走る魔力が弱くなっていくのと同時に、まるで興味を失ったかのように人狼を地面に放り出す。しかし新たな魔術がかけられたのか、鎖はマリーの手を離れても解けず、かすかにだが赤黒い魔力も残り続けている。
「ふむ……あるいは、彼とそこの吸血鬼狩りの方は、良い囮にされたのかもしれませんね。あたしもリディも、正面から吸血鬼が近寄って来ていればわかります。ですが、リディのような翼魔ならともかく、人狼は意識して気配を探らなければいけませんからね。こうしてあたしがこっちに釘付けになっている内に、確実にあたしを始末する準備を進めていた、というところでしょう。実に幸運な襲撃者さんでしたね」
「心当たりがあるのか?」
「無数に。ご存知の通り、あたしは裏切り者と呼ばれてもおかしくはないことをしでかしてますから、ほとんどあたしに味方してくれる吸血鬼はいないと思います。そして、かねてよりあたしのことを快く思っていなかった吸血鬼は、堂々とあたしを殺し、王の後釜に収まることが出来る、と」
今まで誰にも襲われなかったのは、あくまで幸運でしかなかった、ということか。吸血鬼と偶然鉢合わせになるのが一番恐ろしいと思っていたが、向こうが能動的に襲いかかって来るのなら、更に危険度は高まる。しかも、そういう相手はどうやっても説得出来ないだろう。撃退し、大人しくさせるしかない。
「その……マリー。一応聞いておくだけなんだが、吸血鬼にも吸血鬼は殺せるんだよな?」
「ええ。銀製の武器を用いなくても、頭と心臓を同時に破壊されれば、自己再生能力が追い付かず人間のように死にます。銀製の武器は、少ない力でも大きな威力を発揮し、それで付けられた傷が治りにくいだけですね」
つまり、吸血鬼同士の戦いでも、どちらかが死ぬ可能性は十二分に考えられる……。考えたくない、考えたくないことだが、最悪の場合を考えてしまうのが一度でも戦いに身を置いた人間で――。
そうやって、なぜか自分で自分に言い訳をし始めたところで、もう一つの疑問が湧いた。マリーはさっき、人狼は意識して気配を探らなければならないと言っていた。つまり、犬がよく匂いを嗅いだり、耳をそばだてたりしなければならないのと一緒だ。しかし、コウモリが超音波を放つように、常に吸血鬼や人の気配を感じられる翼魔であれば、このアンデッドの接近、そしてそれを操っているのであろう吸血鬼の存在を知覚出来たはずだ。それなのに、未だにリディが現れない。こちらの場所がわからないということも、彼女にとってはあり得ないはずだ。
「リディは……」
「恐らく、もう捕まるか、殺されていますね。あたしが考えるに、前者でしょう。人質として機能しますから」
「…………冷静なんだな」
その冷静さが、意識して作られたものだとはわかっている。
「そうですね。確実に救い出せると、確信していますもの」
薄暗い中でも、マリーの表情がどんどん険しく、影が差したようなものになっていくのがわかる。同時に耳は細かく動き、敵の数、その方向を探り出しているようだ。
「吸血鬼が二人、片方は微弱なものであることから、コウモリに姿を変えているか、瀕死のものであると考えられます。……ダイキ、あたしは、もしかするとリディを捕らえた相手を殺してしまうかもしれません。そうなったら、いよいよあたし、王としても一個人の吸血鬼としても終わりですよね。高々と理想を掲げているのに、私怨だけで同族を殺すなんて」
「マリー……」
噛み締められた唇と、握り固められた拳が目に入る。
「いや、俺は信じる」
「何を、です?」
「マリーのことを。優しくて、だからこそ傷付きやすい、無茶してばっかりのお前のことを」
プレッシャーをかけるつもりはなかった。ただ、心を伝えるだけだった。
涙が出るほど悔しいが、きっと俺にはアンデッドを片付けることぐらいしか出来ない。だから、彼女だけが頼りだ。きっと、吸血鬼と人間の種族の違い、ということを言い訳にすることは出来ない。俺にもっと実力があり、経験も深ければ戦力になれたはずだからだ。だが、俺には何もない。玉砕覚悟で突っ込むのも、彼女を悲しませたくないと思えば出来ない。
傍観者でしかない俺が唯一出来るのは、彼女の手を握ることぐらいだ。
「ダイキ。……やっぱり、大好きです。無事に三人で帰れたら、デートしましょうね」
「馬鹿。そういうのは、全部終わってから言うものなんだよ。縁起が悪いだろ」
「おっと、それは確かに。今度からは気を付けますね」
小さく笑い、その表情とは裏腹に鋭い爪に赤黒い魔力を集中させる。白く細い腕はまるで血に濡れたようになり、改めて彼女の吸血鬼性を見せ付けられた気分だ。
「それから、あんた。なんとなく事情は察してくれたと思うが、いきなり大変なことに巻き込んでしまったな」
「あ、ああ……。だが、これではっきりとわかった。その、彼女は仲間から追われるほど、人間の側に近付いているんだな……」
「正確には、中庸ですね。人間にも吸血鬼にも味方しますし、最終的には互いが共存することを望んでいます。ただし、その途上である今の段階では、あたしはあたしが考える正しい行動を取ります」
マリーは毅然と言い放つ。
「とりあえずあんたは、ここであの吸血鬼を見張りつつ、休んでいてもらえないか。戦闘の疲れもあるだろうし、この先の戦いは俺とマリーに任せて欲しい」
「いや、私も……そうだな。わかった。申し訳ないが、少なからず疲弊はあってな。弾薬は足りているか」
「大丈夫だ。詳しくは、帰ってから話そう。まだ協会や仲間には連絡しないでおいてくれ」
「それぐらいの判断力はある。馬鹿にしないでもらおうか」
「態度が大きい奴だな……。じゃあ、一応気を付けておけよ」
可愛げのない同業者に背を向け、マリーと共に走り出す。どれだけ余裕のある表情をしていても気は急いているのか、マリーの歩調は人狼が出せる最大のものになっているのがわかる。段々と引き離され、この暗い森では下手をすると見えなくなるほどだが、その行く手にアンデッドが現れて道塞ぐ。当然ながら魔術による強化を受けた爪で引き裂く――と言うよりは砂の山を崩すように怪力で薙ぎ払って行くが、想像以上に数が多い。すぐに俺も追い付くことになり、マリーの倒し漏らしを銃で撃ち抜いていく。
木々の密度は跳弾を気にする必要のあるものではなくなっており、マリーが前で暴れ回っている以上、剣を振り回すのは逆効果だ。確実に狙いを付け、銀弾に空を滑らせる。ここまで銃を撃つのもずいぶんと久し振りの感覚だが、たった数週間のブランクで腕が鈍ることはないか。一発も過たず、全てのアンデッドを蹴散らすことが出来た。
「主なしとは、やはり異なっていますね。あちらのアンデッドがどこか虚ろで攻撃性がそれほど高くないのに対し、こちらは明確な意思を持ってあたしを殺しに来ています。相手が吸血鬼の場合、アンデッドはためらい、攻撃を止めるはずなのに、これはある種の洗脳じみていますね」
「強力な吸血鬼が相手、ってことか」
「そうなりますね。ライカンスロープであるあたしに個人能力で勝ることはあり得ませんが、実力の差はそう大きくはないかと。けど、他ならぬダイキがあたしのことを信じてくれるって言うんですから、頑張らないといけませんね。リディも救い出しますし、相手も殺しはしません。あ、もちろんあたしも生きて戻ります。……ふふっ、さて、三匹も兎を追っちゃって、どうなりますかね」
「マリーなら、たった三匹の兎じゃ足りないぐらいだろう?」
「むっ、兎さんは普通に可愛がりますよー、食べる訳ないじゃないですか。けど、確かにそうですね。どうせでしたら、十匹ぐらいは同時に飼いたいものです。兎が寂しいと死んじゃうのって、デマみたいですけどね」
彼女なりのジョークを返し、女王は更に深い闇の中へと、その体を溶け込ませて行った。この先に俺がついて行くことは出来ない。彼女の無事を祈り、その帰還を待つだけだ。俺が祈りを捧げる相手なんて、空に輝く星ぐらいのものだが――。
*
「ジスラン。あなたは昔から、あたしのことを認めてはくれませんよね。一応、その明確な理由をお聞きしておきたいのですが」
夜の森。その状況は、彼女にとって運命だと言っても差し支えのない出会いを果たした、あの日のことを自然と思い出させる。しかし、今宵の出会いはとてもではないが望まれたものではなかった。少なくとも、マリエット自身にとっては。
「理由?私はただ、貴女のような半端者が王の座に就いている、その現状を憂いているのに過ぎませんよ。嗚呼、なぜここまで我が血族は落ちぶれてしまったのか。嗚呼、なぜ新たな王は、食料の奴隷となることを望んでしまったのか。ただただ、悲嘆に暮れるばかりですな。元、女王様」
「あたしのことを怒らせるつもりでしたら、言い分が少々お上品過ぎますよ。人の神経を逆なでするのには、正論よりも理不尽な罵倒の方が適切です。あたしが異端者で、小娘に過ぎないことはあたし自身が承知のことですからね」
一匹のコウモリを利き腕である右手の中で弄び、慇懃無礼な態度で女王に口を利くこの人狼のことは、マリエットもよく知っていた。吸血鬼の中でも特に優れた力を持ち、自ら公爵を名乗る“ダンディ”ことジスラン・バヤール。フランス的な名前を持つが、主に東ヨーロッパを生活拠点としている吸血鬼であるはずだ。
「全く、その減らず口も実に腹立たしいことだ。その回る口を利用して、今度は人間の男をたらし込むとは。いよいよ貴女の行動にも見境がなくなった、ということですかな」
「あたしがダイキを口車に乗せたと。そうあなたは考えている訳ですね。……そうして、変化を望まない体質。それは確かによくわかります。延命措置のつもりが、逆に寿命を削ることとなる、そんな事例はいくつあるか知れませんからね。でも、変化を受け入れる勇気は必要なはずです。そうして日夜変化し、発展を続けて来た人が今どうなっているかは、あなたもご存知でしょう」
「我々が保守的であったがゆえに、今の衰退があったと?」
「事実でしょう。反省し、新たな解決策を提示、実行し続けるのが政治というものです。あたしは、王としての役目を全うしているつもりですよ」
マリエットも決して引き下がりはしない。いつもは柔らかで精緻な印象を与える赤の双眸も、ルビーの宝玉のように固く、強い意志の光を放って見える。
「私はそう思えませんな。今の人間――吸血鬼狩りは、長いブランクによって弱体化している。つまり、かつて主だった同胞をことごとく殺し、我々の種としての力の平均を大きく引き下げた人間は、既にいない。再び我らが。吸血鬼が歴史の表舞台に立つべき時は、他ではない今でしょう!そんな肝心な時に、こともあろうか人間への隷属を望むとは、やはり貴女も人間上がりの裏切り者ということか」
「あなたがそう考えているのであれば、これ以上の話は無理でしょうか。それに、いい加減にあたしの親友も返してもらいたいですし」
「ふっ、私にその爪を向けるのであれば、この娘の命はありませんよ。握り潰し、その血を糧として貴女を殺す力を得るとしましょう」
「そうですか。やれるものでしたら、どうぞ」
一瞬。一秒にも満たないほんの一瞬だった。
時間という全ての生命を等しく縛る概念も、空間というあらゆるものを存在させる基盤も、その一瞬だけ一人の吸血鬼を見失った。
会話する二人の間にあった距離は、およそ五メートルほどだろう。人間はもちろん、人狼が出せるだけの最高速で移動しても、その距離を一秒足らずで移動することは出来ない。その間に、か弱いコウモリに姿を変えた少女は殺害されてしまう。だが、吸血鬼の王としての資質を持つ彼女だけが、不可能の上書きに成功していた。魔力を帯びた爪は吸血鬼の腕を切り落とし、その手の内から親友であるコウモリを取り戻す。
「何が起こったのかわからない、そうお考えでしょうので、説明させてもらいますね。……あたしは、ライカンスロープですよ。そして、それは固有の魔術を持ちます。後はもう、おわかりでしょう」
「時間の跳躍……?」
「惜しいですね。そこまで大層なものではありません。ただ、一瞬だけ自分の体を、うーんと、わかりやすく言うと、無敵にするって感じですね。自傷、他傷を問わずに傷付かなくなるし、単純な身体能力も多少は強化され、一時的に体力も増強される……正直、恐ろしいほど防御的な魔術な訳ですが、実にあたしらしいじゃないですか。一度は吸血鬼に殺されたあたしが、決して殺されなくなる魔術を得るだなんて。
それになんでも使いよう、ってことですね。その無敵を利用して、普通なら筋肉や骨が折れ、摩擦で燃え尽きるぐらいの速度で動いて、その腕をいただきました」
「そんな、無茶苦茶、過ぎる……」
「ええ、自覚済みです。でも、自分の体のことを気にしなくなれば、吸血鬼の体って案外なんでもありなんですよね。ただ、連続使用が出来ない上に、一度使うとごっそりと気力も体力も奪われるのがネックなのですが……」
リディをコートの内側……ではなく、魔術によって意識を覚醒させた後、大輝達がいる方向へと飛び立たせる。
「あなたと戦うのには、丁度良いハンデでしょう。尤も、あなたに戦意があるのなら、ですが」
爪が赤黒い魔力を帯び、瞳と共に怪しく光る。ただしその表情はあくまで笑顔で、それゆえに見る者の恐怖を煽るものだ。
「うっ、が、がぁっ…………」
王の目に凄まれ、一時的に失われていた感覚が戻って来たのだろう。傷口から流れ落ちる血液と共に、紳士を気取った吸血鬼は地面に伏せる。切断面は剣で斬ったように奇麗ではなく、ノコギリを用いたかのように粗くなっており、吸血鬼の再生力でも瞬間的には接着が出来ないようになっている。マリエットの爪を強化する魔術が、後追いで更に切断面を破壊したためだ。
平常時であれば、いくら傷が遅かれ早かれ完治する吸血鬼相手でも、ここまでのことはしない。だが、一撃で相手を戦闘不能に陥らせることが出来なければ、リディの安全の確保が怪しくなってしまう。そのため、ここまで徹底的に破壊したのだ。……そう、女王は自らに言い聞かせた。いつもの余裕の笑みが、嗜虐の笑みに変わろうとしていることを認めたくはなかった。
「ジスラン。これが、今の吸血鬼の社会です。力のみが正義であるゆえに、下克上も可能でしょう。しかし、力で劣っていれば服従の道しかありません。これが今の時勢にそぐうあり方でしょうか。同族の内でさえその首を狙い合うような状態で、これからも種として存続することが出来るのでしょうか。……あたしは、無理だと考えます。根拠のない悲観ではなく、今まで生き、自分の目で見て知ったことから導き出した理性的な意見として」
しばらくの沈黙。それからマリエットは、今切り落としたばかりの腕を拾い上げ、魔術を施した。柔らかな光が切断面を包み、やがてそれは吸い寄せられるように主であるジスランの元へと戻っていく。
治療をしている間中、彼女は無言だったが、その顔には親友を盾にしようとした男への憎しみや怒りではなく、慈愛のようなものが浮かべられていた。
「なぜ、治療を……」
「言ったでしょう。あたしは、こんな悪しき因習を捨て去りたいんです。だから、自分が勝った相手を支配するのではなく、救いの手を差し出すのですよ。甘いと思いますか?」
「……なんて、甘い。貴女は、あまりにも。あまりにも甘過ぎる。もしも私が貴女であれば、そのまま捨て置くか、トドメを刺すぐらいはすると言うのに」
「そうですか。でも、あたしはあなたを生かします。そうしたいんです」
再び襲われるというリスクを考えないほど、この女王である吸血鬼は愚かではない。もしも背中を見せた時、それを引き裂かれないとは、誰も保証することが出来ない。だが、それでも彼女は自ら傷付けるのではなく、傷付けられる方を喜んで選ぶつもりでいた。
今も、本能は爆発しそうになっているのにも関わらず。
「私は、貴女のことを手放しで優しい、とは評価しませんよ。むしろ、だからこそ恐ろしい、心に野獣を飼う危険な女性だと認識させてもらいましょう」
「野獣、ですか。……そうですね。あたしの本性は、正にそれです。何もかも縛り付けることで、なんとか今を保つことが出来ているんです。ですから、まだあたしが笑っていられる内に、あなたが諦めてくれるとすごく助かるのですが、その辺りは?」
「…………ひとまず。ひとまず、貴女様が夢を追うことを、黙認しましょう。ただし、貴女が間違った方向へと我々を導いていることがわかれば、再び貴女を狙うことになるでしょうな」
「ふ、ふふっ。では、一応あたしは女王でいても良い、ってことですね。あなたの中では」
諦めたように吸血鬼は頷き、そのまま姿を闇へと消した。
黙認する、と言うからには邪魔をすることも、逆に助けることもしないということだろう。別に協力者を求めていたという訳ではない。今まで出会って来た吸血鬼も、旅の同伴者となることはなかった。そのこと自体は問題ではないのだが、思わずマリエットは嘆息せずにはいられなかった。
「あたしは、これからも何度も、この気持ちを押し殺して、旅を続けないといけないのかな」
気付くと、拳が固められており、鋭い爪は自身の手のひらを突き刺していた。爪は血で汚れ、肉が裂けている。引き抜けばすぐに治るものの、まるで呼吸をするように自傷していた。そうでもしなければ、血に飢えた本能は抑えきれなかったとも言える。
野性は、全ての吸血鬼が例外なく抱えている。ほとんど吸血を行っていないリディですら、怒れば普段の彼女からは想像できないほどに暴走し、滅多に用いない攻撃のための魔術を連発するほどだ。女王になるだけの力を持つマリエットが、同じく暴走しないということは考えられない。
もしも、理性のタガが外れ、本能だけが体を支配した場合、それは最も近くにいる餌――大輝を狙うに違いない。彼女が、誰よりも愛しく思っている異性のことを。
「まだ、まだあたしは大丈夫……。だけど、こんなにも、自分の体を制御するのって大変なんだ」
まともに歩くことすらままならず、爪で自らの体を裂くことを繰り返しては、再生させる。無限に流すことの出来る血液はやがて自身の服を真っ赤に染め上げ、乾燥しては黒く染みになり、鮮やかな赤のコートを黒ずんだものにしてしまった。
「ダイキ……あたしは、あたしで居続けます。ですから、あたしを。あたしを、愛していてください…………」
最後に自らの胸を貫き、迸る血しぶきと共にようやく獣性は消え去った。さすがの吸血鬼も、心臓を貫かれれば少しは動きが止まり、心臓自体が再生するのにも時間はかかる。既にマリエットが大輝と別れて三十分は経過したことだろう。リディは五分もしない内に戻っただろうから、そろそろ心配して来るかもしれない。吸血鬼との戦闘に自分がどれだけ役に立つのかも知れないのに、危険を承知で来てしまう。それが彼女から見た大輝という青年――いや、少年だった。
「では、王子様の到着を待って、あたしはちょっと眠りましょうか……。ふふっ、森で眠るのは、赤ずきんではありませんでしたね。まあ、細かいことは気にしない方向で」
いつ、殺意が再び現れるかわからない。ひとまず眠ることで、荒れた感情の波を和らげることを目指した。
説明 | ||
メインキャラは三人、かつ視点人物は原則的に一人、という「小さな物語」として作っている本作ですが、ゲストキャラは多めの設定になっています ものすごく非常に言えば彼等は使い捨てで、再登場の可能性が絶望的、せいぜい回想で出るか、名前が出されるだけ、という程度なのですが、命名を含めてキャラとして出すからには、相応の設定を作ってはいます。表沙汰にはなりませんが…… |
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