500年目の赤ずきん 四章 |
四章「一つの終わり」
「あまりに遅いな……。まだ決着は付かないのか……?」
リディが解放され、俺の所にまで飛んで来てから、小一時間は経過しようとしていた。言うまでもなくマリーは強力な吸血鬼であり、相手もまた相当な実力者となれば、どう終わるにせよ勝負は一瞬だと思っていたのだが、そこまで長期戦にもつれ込む要素があるのだろうか。
「……多分、もう付いてると思う」
「リディ。じゃあ、なんでマリーは?」
「理由が、ある。私にそれはわからないけど、マリーが意味もなく人を心配がらせることはない」
「それもそうだな。……でも、いい加減、迎えに行こう。勝負が付いているなら、俺が足でまといになることもないだろう」
ずっと大木にもたれかかっていたので、体が固くなっている。地味に寒さも身に堪えていたに違いない。マリーと出会ってからは時の流れが速く感じられていたが、それでもまだひと月も経っていない。十二月に入り、寒さは増すばかりだ。
背筋を伸ばし、腕を回して、いつでも剣が振るえるような体の状態を作り上げる。すると、コートの中に一匹のコウモリが入って来た。言葉はないが、彼女もまたマリーのことを気にしているのはわかる。
「なんだ、この臭い……」
既に倒したアンデッドは土に還っているので、その死臭ではない。ただ、生臭い嫌な臭いが向かう先からは漂って来ているようだった。まさかマリーが血を流しているとは考えたくないが、結構な距離があるとリディは言う。しかし、まだ歩き始めたところなのにここまで強い臭いがするとは……凄惨な光景が広がっていることも、覚悟しなければならないのかもしれない。
心臓は否応なしに激しく鼓動を打ち、自然と早足になる。森の木々は視界の端をどんどん流れて、やがて少し開けた場所に出た。それと同時に、死臭じみた強烈な異臭が鼻を叩く。わずかな月光のみが光源であるこの場所でも、地面には容易に血だまりを見つけることが出来、周囲の木々にもいくつものひっかき傷や、こびり付いた血液が見える。
ほとんど人の手の入っていないこの森は、夜間に見れば少々不気味に見える。迷いの森や呪いの森と呼ばれ、肝試しスポットとなってもそうおかしくはないだろう。だが、これではまるで現実に地獄が顕現したかのような有様だった。
そんな中に、赤黒く変色したコートと、それを身にまとって倒れている金髪の女性を認めた時は、思わず心臓が止まりそうになる気分だった。その姿は、とても生きているものとは思えなかったから……。
「マリー……?お、おい、マリー…………」
触れるのが恐ろしい。もしも体温を感じなければ。もしも触れた所から崩れてしまうほど、その体がぼろぼろになっていたら……そう思うと、軽く肩を揺らすだけでも、恐ろしく勇気の要ることだと思った。
恐る恐る血を吸って重くなったコートに触れ、体を揺する。かろうじて生きている熱を感じられたので、救われた気分になることが出来た。とりあえず、彼女は生きている。それがたまらなく嬉しい。
「これは、返り血なのか?」
彼女が負傷していることを考えると、下手に動かすのは逆に危険だろう。生存が確認出来たので目線を周囲の血溜まりに移す。周囲には血の臭いと共に、すさまじい濃度の吸血鬼の気配が立ち込めているが、マリーも、彼女が対峙した相手も吸血鬼だ。その気配だけでこの血の持ち主を特定することは出来ない。自力では難しそうなことなので、リディに確認してもらった方が良いだろう。
『間違いなく、マリーの』
コートの中から飛び出したリディは、おびただしいほど散乱している血液を舐め、すぐに魔術で俺に心を伝えた。
「そうか…………」
酷い有様なのは、木々も同様だ。森の一角を地獄のように変えてしまうほど、マリーは激しく戦ったのだろうか。それならば、こうして彼女が地に伏しているのも理解出来る気がする。
「マリー、大丈夫か」
まだ意識は戻っていない。それでも、その手を握り――思わず、取り落としてしまった。いつもは細くてしなやかな白魚の手指が、今日ばかりは紅と黒にまみれているからだ。戦闘の時に鋭くなる爪も今は平常時のものに戻っているのに、血まみれの手にはどうしても恐怖を覚えてしまう。
「…………ごめん」
再び手を取り、自分の手が汚れることもいとわず、握り締める。やはり確かな温かさがある。彼女は危うげなく、今も生きてくれている。ほんの五十分ほど会えなかっただけ。ヴェニスではもっと長時間離れていたというのに、生きた彼女と会えた喜びは何事にも変えられそうになかった。今までの人生で一番、そう多少大げさでも、宣言出来るほどだった。
涙が自然と流れ、一層強く、彼女の手の感触を確かめる。もう一方の左手は、彼女の髪と耳を求めた。毛皮のような手触りの、可愛らしく動く彼女の狼の耳を。
そうして、何をするでもなく、マリーの体に触れて、どれだけの時間を過ごしただろうか。俺が彼女を待っていたのは約一時間。彼女に触れていたのも、それと同じぐらいの期間だと思う。いつしかリディも人の姿になっていて、マリーを見守り続けていた。
「マリーは……。マリーは、すごく苦しんだのだと思う」
「苦しむ?」
「私を助け出す時のマリーは、ずっと昔のマリーに似ていた。あの頃のマリーは、まだきちんと悩むことも、悩んだ末に吹っ切れることもなく、多くの過激な吸血鬼のように人と戦っていた。でも、同時に正義や義理にはこだわりがあって、“敵”である人間相手にでも、卑怯なことをする吸血鬼は許さなかった。……その時のマリーに、すごく似ている。あのマリーは激しくて、ちょっと怖い」
「……でも、マリーは決して相手を殺さなかったと、俺はそう信じるよ」
「うん。だから、そのためにすごく苦しんでた。……この血はきっと、その苦しみの表れ。激しい闘志の行き場がなくて、それを発散させるため、色々なものを壊したんだと思う。自然も、自分の体も」
殺人衝動、とでも言うのだろうか。普段の彼女からは想像も……いや、いつもはその姿を見せていないからこそ、一度表面に現れた吸血鬼としての激しさは、容易にはコントロール出来ないものなのかもしれない。
そんな彼女に、恐怖がないと言ったら嘘になる。事実として俺は一度、彼女に体を刺し貫かれたことがあるし、あの時の衝撃と痛みは今も一種のトラウマとして鮮明に覚えている。もう二度と味わいたくないものであり、再びあんな状況が作られて欲しくはない。だが、この地獄絵図……仏教的と言うよりは、教会的な地獄の光景を見せられると、今の先が見えないながらも幸せな旅と、俺の命がいかに儚いのかが嫌というほどわからせられてしまう。
「リディ。この情景が広がってるってことは、マリーは打ち勝てたんだよな。その、本能、みたいなものに」
「そう思いたい。けど、私が知る限りここ四百年ほどのマリーは、激しく怒るということがなかった。女王の立場に立ち、気に入らないことは山ほどあっただろうけど、全部を“背負い”続けていたし、その発散は料理みたいな趣味とか、私と話すことでして来た。……そのはずだった」
「それにも、限界があったと言うことなのか……」
今まで彼女が笑顔の裏にしまい込んで来ていた様々な負の感情。加えて、自分の親友が敵対者の手に落ちるという怒りと恐怖。……そして、もしかすると俺との出会いも一つのトリガーになったのかもしれない。彼女は本当に俺のことを好いてくれていて、何気ない会話を交わす時は、いつも笑顔だった。
幸せを感じるほど、彼女の抱える闇も深くなっていただなんて、あまり考えたくはないが――。
「ふ、ぁっ…………。んー……」
反射的にマリーの手を強く握ると、まるでそれに反応したかのように彼女は声を上げ、意外にも元気そうに上半身を持ち上げた。当然ながら衣服が血の色に染まっているので、一瞬彼女であって、彼女ではない何者かのようにえ見えてしまったが。
「マリー?……よかった。無事なんだな」
「ダイキ。そう、ですね。なんとか大丈夫でした。……でも、怖いですよね、こんなの。滅茶苦茶に自傷して、やっと自分を保てるなんて危険な女、嫌ですよね」
屋敷で会った時と同じように、マリーは自虐の言葉を重ねた。きっとこれは彼女の癖なのだろう。偽悪的に振る舞ってみたのもそうだし、笑顔じゃない時の彼女は……なんて悲しいのだと、そう思った。
「そんなことない。たとえどんな方法であったとしても、今こうしてマリーがマリーでいてくれて、いつものように俺と話せている。そのことの方がずっと嬉しいんだ。……それに、俺との約束も守ってくれたんだろう?」
小さく頷く。あの時の「信じる」という言葉もまた、重荷になっていたのかもしれない。それでも、俺は彼女を信じたくて、こうして見事に彼女は信じた俺を裏切らないでいてくれた。
「後、マリー。未だに勘違いしてるみたいだから一応言うけど、俺は全くお前のことを“お淑やか”とか、女の子っぽいとか思ってないし、それが好きな訳じゃないからな。どれだけ暴れても、俺を殺そうとしても、マリーが人間のことを好きでいて、人と吸血鬼のための理想を失わない限り、俺はマリーのことが好きだ。
……俺は仕事柄、過程よりも結果の方を尊びがちなんだ。どれだけ迷っても、お前が帰って来る場所が一つなら、俺はそれで良い。これからも俺と旅を続けて、理想を叶えようという意志があるのなら、俺がお前のことを愛する理由は十分だよ」
俺も本当に不器用で、要領が悪い、おまけに空気を読むことも人を気遣うことも出来ない、どうしようもない奴だが、彼女も大概だ。マリーは、本当にこの、どうしようもない俺が彼女の可愛いところにだけ惹かれ、彼女に好意を寄せられることを幸せとしているとでも思っているのか。そこまで、恋愛というものを理解していると男だとでも思っているのか。……もし本当にそうなら、まだまだ俺と彼女の距離は大きく空いており、俺もまた彼女のことをあまりに知らな過ぎるのだろう。
「……ダイキ。ダイキは、優し過ぎます。どうして、どうしてそんなに優しくなれるのですか?」
「優しくなんてないだろう。むしろ、自分勝手だ。だって俺は、マリーに全てを押し付けて、勝手に期待しているんだ。俺よりずっと行動力があって、慕ってくれる仲間もいるお前に。だから、そんな弱気にならないでくれ。むしろ、腰巾着の俺が自分のことを気遣うのを当たり前と考えて、堂々としてくれていれば良い。じゃないと、俺が期待するような理想のヒーローっぽくないだろ」
ふと彼女の足やコートの裾の部分が血溜まりに浸かっているのが気になって、マリーが何か言葉を返す前に、彼女の腕を握りながら助け起こした。月光に照らし出された金髪は、自分の血でそこかしこが黒ずんでいて、すぐにでも洗い流してあげたい気持ちになる。吸血鬼でありながら、彼女に血は似合わない。そう感じた。
「そんなに、自分のことを悪く言わないでください。あなたは、あたしにとっての王子様なのですから」
「それを言うなら、マリーこそな。憧れる相手が卑屈になってたら、憧れてる俺が馬鹿みたいだ」
気が付くとマリーの顔がすぐ傍にあって、声を出すと一緒に漏れ出た息が肌で感じられるようだ。思わず顔を引こうとすると、今度はマリーがその腕を俺の背中に回し、決して離すまいとする。それから不意に――彼女の唇が頬に触れた、ような気がした。瞬きしている間の出来事だったので、あれが本当にキス、と呼ばれる行為なのかはわからないのだが……。
「なーんて、まだ早いですよね。もっと二人の仲を深めて、旅もある程度順調にいってから、改めてきちんとしましょう。……その、初めてのことですし」
「また、そんな不吉なことを」
意識を失う前の会話を、もう忘れてしまったのだろうか。耳をぴんと立てて驚き、しかしまた笑顔を取り戻して言う。
「ふふっ、露骨なフラグは、逆に生存フラグじゃないですか。なのでダイキ、生きてくださいね。少しでも長く、幸せに」
「少なくとも、マリーと一緒にいれば退屈はしないし、と言うことは不幸にはならないだろうな。あまりにうるさくされるのは、幸せじゃないかもしれないが、そこは追々慣れていけば良い」
「もう、あたしにばっかり頼ってちゃ駄目ですよ。自分で幸せも見つけてくれないと。今のダイキは、協会とも縁が切れて自由なんですから――」
そこまで言って急に、マリーは俺を抱きしめる手を緩め、即座に走り出した。俺を体で跳ね除け、少し後ろの方で鈍い音と、次いでヴェニスで見た噴水のような音が上がる。
慌てて振り返り、目では追えない速度で飛び出したマリーの行く末を確認出来るようになると、思わず目眩がしてその場に崩れ落ちそうになった。視線の先にいたのは、地面に倒れた一人の青年。それから、当然のことながらマリエット・ルーガルその人。ただし青年――一時間前にマリーが鎖で拘束した人狼の右手は真っ赤に濡れていて、間もなく重なり合うように倒れたマリーは、真新しい血液を浴びていた。
その状況が意味することを理解するより先に、彼女の下へと駆け寄り、助け起こそうとする……が、生温かい彼女の血液ですぐに伸ばした手も血みどろになって、下手に動かすことは出来ないと悟った。吸血鬼は銀製の武器以外で傷付けられても、即座に傷が再生して行く。だが今の彼女は、腹部にも胸部にも大きな切り裂き傷が空いていて、再生はまるで進んでいなかった。
血飛沫の正体は、一目見ただけで心臓が噴き上げたものだとわかり、急所の一つである心臓に大きなダメージを受けたのであれば、この再生の遅さと、叫び声すら上げなかったことの理由がわかってしまう。
「どうして……」
何に対してそう言っているのかは、俺自身にもわからない。ただ、反射的にそう言うしかない。
「迂闊、でした。ぅっ、ぁ…………こ、からは、魔術で」
無理矢理口を開くマリーは、言葉よりも多くの血を吐き出し、瞳からは生気が失われている。どれだけ致命的な傷を受けたのかが知りたくなくてもわかってしまい、涙がこみ上げてきているのがわかった。
『あの道具は、死んだ吸血鬼の魔力と、呪いを帯びたもの。今までは武器として使われ、敵対していた吸血鬼は残らず殺されたため、どこの記録にもありませんでしたが……恐らく、あの道具達の呪いに長く触れた吸血鬼は、精神を侵されてしまうのでしょう。もしかすると、未だに道具には古の王の魂が残っていて、憑依されているのかもしれませんね』
「つまり、あいつはそれに操られて……」
『直前に魔術で速度強化までしていたのに、彼程度の人狼があたしに一太刀浴びせられたという時点で、それは間違いないと思います。…………、………………』
「マリー?苦しいのか、いや、当たり前か……。少しすれば、治るんだよな?」
『ちょっと考え事をしていただけですから、気にしないでください。今は全力で心臓を修復しているので、相手の変な魔術が働いていなければ治せますよ。ただし、こうしてあたしも彼の魔力に触れることになってしまいました。あるいは、次に侵されるのはあたしになるかもしれません。ですから――』
「マリーが、侵されるって」
つまりそれは、理性を完全に失った彼女が、このまま俺を襲うことを意味するのだろう。しかも以前のように彼女の意思で、偽悪的にではなく、吸血鬼狩りの人間を恨む旧い王の意思で。
『ですから、彼を、楽にしてあげてください。まだあたしが女王を名乗っていいかは正直微妙ですけど、女王として、あなたにお願いします。本当は自分でしないといけないんですが、カップ麺が出来るぐらいの時間では治りそうにないですし、時間を与え過ぎるとあたしの方が操られちゃいそうなので、ダイキにお願いしたいんです』
「……殺すってことか」
『全てはあたしが勝手に想像しているだけのこと、正しい選択とは限りません。その場合、ダイキには罪の片棒を担がせてしまうことになりますが』
「いや、マリーがどんな気持ちで俺にこう言ってるのかぐらいは、俺にだってわかる。それに、俺は吸血鬼狩りだ。吸血鬼狩りが吸血鬼を殺すのは、何も不思議なことじゃない。……それで他の吸血鬼に恨まれても、俺はお前のために戦うんだ。それで良い」
体に染み付いた動きでサーベルを抜く。従来、人狼との戦闘は必ず三人以上で行い、一人が銃撃を担当。二人が近接戦を行い、銃撃を回避した隙を狙うのが最も確実な戦い方だとされていた。当然ながら今は人手が足りず、あの人狼がここまで来ているということは、休んでいたあの吸血鬼狩りはもう殺されてしまったか、辛くも逃れたかのどちらかだろう。後者を祈りたいが、いずれにせよ戦力には数えられない。
俺一人でどこまでやれるか、それはわからない。それでも、ここで俺がやらなければマリーも、そして俺自身の命も危険だ。――俺が剣を構えると同時に、とてつもない速度と力強さで倒れていた人狼が飛び上がる。マリーは相手にタックルをかましただけだったが、彼女の脚力とあの勢いでぶつかるということは、砲弾にも似た威力を発揮していることだろう。人間ならば骨がいくつも折れているだろうに、それも再生したのか、人狼はその動きを全く鈍らせた様子がない。
血走った恐ろしい目で俺を射抜くと、そいつは真っ直ぐに俺の方へと肉迫する。簡単にトドメを刺せるであろうマリーを無視したのは、やはり新たな宿主とするためなのだろうか。ならば、彼女の体が治り次第、より優れた能力を持つ彼女に鞍替えするはずだ。……非情な決断なのは重々承知だが、やはりあの人狼を操っている内に、その体ごと殺してしまうのが最良のやり方だ。
問題は、俺に出来るのか。
「いや……やらないとな。少なくともマリーは、俺を信じたんだ」
俺に対して向けられる鋭利な爪は、首を刈り取ろうと水平に繰り出される。その軌跡を読んで、弾き返されるのを覚悟で剣を縦に振るうと、後方から伸びて来た濃紺の魔力が、サーベルと俺の腕を包み込み、爪と刀身の衝突の瞬間には、予想していたほどの大きな衝撃はなく、むしろ同等か、それ以上の力で抵抗出来ているのがわかった。
この場には魔術を使うことの出来る吸血鬼は三人いる。マリーは自分の回復に必死だし、彼女の魔力は赤黒いものだ。今対峙している人狼が、敵に塩を送るような真似はしないし、魔力の方向は後ろからだった。つまり――。
「リディ、この魔術は、お前の……」
後ろを向く余裕はない。凶悪な殺気と共に爪を叩き付けられ、それを弾き返すので精一杯だ。
「剣の重量を三倍にして、筋力も一時的に強化した。……私は、自分で戦うことは出来ないし、マリーを治してあげることも出来ない。でも、これぐらいは出来る。これなら、打ち合いでは負けないはず。効果は十分弱、きっと、それ以上経つとマリーの方も時間切れになる。…………私の分も、戦って」
「ありがとう、本当に助かる」
剣の重量が恐ろしいことに三倍になっているという話だが、重さが変化したように思えないのは、筋力もまた強化されているためなのか。だが、剣も重くなってくれたお陰で、力負けはしなくても武器の方が負けてしまう、ということもなくなっている。強度もいくら上がっているのだろう。魔力に包まれた相手の爪も決して欠けないが、俺の剣もまた刃こぼれしていない。
とはいえ、こちらから攻め込めるほど戦力差が縮まった訳でもない。速度では依然として負け、休むことなく繰り出される攻撃は、いずれも防御に失敗すれば体の一部を持っていかれる即死級のものだ。受け続ければ強化された筋力でも疲弊し、集中力も途切れてしまうのは理解していても、やはり攻勢に転じることは出来ない。あくまで冷静に対処しつつ、なんとか隙を発見出来ないかと焦りながら刃を交える。
だが、尚も耐え続けていると、相手の爪を剣で弾いた時、その重心が大きくぶれるのが見えた。そうだ、相手も操られているとはいえ、生物。実力以上の運動能力で体を酷使していれば、そう遠くない内にガタが来る。それが俺も同じなのは、ほとんど感覚がなくなって来ている腕で実感済みだが、打ち込むとすればこの一点だ。
この一瞬は見送り、焦ったように速く鋭く腕を振り下ろす、その瞬間。筋肉を切る覚悟で今までより遥かに強い力を込めた一撃を放つ。人狼の体は大きく吹き飛ばされ、地面に落ちる寸前で宙返りして体勢を立て直そうとするも、俺が近付き、剣を振り下ろすには十分過ぎる隙だった。
全体重をかけるように振り下ろした剣が、空気の層を裂きながら相手に殺到するのが体の芯で感じられる。咄嗟に伸ばされた相手の腕を、軽々と斬り飛ばし、剣は心臓を、そして相手の上半身と下半身を二つに分断した。それでも、終わりではない。
血がべったりとへばり付いているのを気に留めず。間髪入れないで突きを放つ。狙いはもちろん、頭だ。これをすぐに済まさなければ、この吸血鬼の体に住み付いているかもしれない魂は、死に行く体を捨ててマリーへと乗り移ってしまう。
柔らかいような、硬いような感覚があって、剣は確かにマリーと同族である青年の頭を貫いた。すると、体は一ミリたりとも動かなくなり、更に経つと、灰状になって夜風に霧散してしまった。今まで吸血鬼の体は焼いて処分して来た。勝手に灰になるだなんて、こんなのは初めてだ。
薄気味悪いものはあったが、これでマリーにも、そしてリディにも変化がなければ、この件は解決だろう。……結局、一人の吸血鬼を殺した業は、俺が背負い続けるべきものに違いないが。
「マリー、大丈夫か」
信じられないほどの疲労が両肩にのしかかって来たが、正しく最後の力を使ってマリーに走り寄った。
「ええ……なんとか、傷も塞がりました。あたしの体感時間が正しいかはわかりませんが、九分ぐらいでしょう。ギリギリ、でしたね」
「そんなにか。……けど、間に合って良かった」
すぐにリディも、マリーの傍に駆け寄る。マリーが目覚めた時は、俺がすぐに彼女のことを抱きしめてしまったから、控えめなリディは遠慮してしまったのだろうが、数百年来の親友である彼女の方がマリーのすぐ傍にいたかったのに違いない。少し身を引いて、親友を二人にしてやることに務めた。
でも、リディの力があったからこそ、俺は勝つことが出来た。……彼女が、マリーを救ったのも同然だ。
「リディ。ダイキを守ってくれて、ありがとうございます。……ふふっ、あたしの死ぬ覚悟も、あなたのお陰で無駄になってくれました」
「マリー、お前……」
「もしも倒すことが出来ず、あたしに憑くようでしたら、道連れにするつもりでした。あたしなら、少しぐらいは自力で動けるかな、という予感もあったので」
「はぁ、確証もないのに命を張ろうとするとはな」
「でも、やっぱりダイキはあたしの王子様でした。……すごく、格好良かったですよ」
しばらくリディの黒髪を撫でてやっていたマリーは、その腕を俺に向けて伸ばす。俺はそれを取り、抱き寄せた。
「俺はそんなのより、お前のことを守れたのなら、それが一番嬉しいよ。マリー、お前は確かにここにいて、生きているんだよな」
「はいっ、ほら、この感触も温度も、あたしのものでしょう」
「そうだな……俺に対してこんな風に甘えてくる女は、きっとマリーしかいない」
「……むっ。抱きしめたのはダイキの方ですよぅ!すんごい心外な濡れ衣ですっ」
抱き合った二人は、このまま夜を明かそうとでもするように、静かに互いの肌と温度とを感じていた。
自然と話す言葉は消えて行っていたが、それでも五感で幸せを感じることが出来た。
ほんの小さな、二メートル弱の等身大の幸せを。
俺とマリーが立ち上がったのは、あれからまた一時間は経った頃だと思う。
元来た道を戻っていると、なんとあの吸血鬼狩りと、俺がこの手で殺したはずの人狼があの場所に変わらずいた。
これもまたマリーが予想することだが、俺が戦っていたのは、そもそも鎖に宿っていた邪念が、巻き付いていた人狼の姿を真似て形になったもので、そのためにあの凶暴性を持っていたのだという。ただし、より強い吸血鬼であるマリーの体を奪うか、その能力を真似る危険性はあったので、「わざと瀕死の重傷を負った」マリーの勇気溢れる行動と、俺とリディの戦いは意味があったということだ。
しかし恐ろしいのは、あの強烈な強さすら鎖鎌が分解された時に分割された邪念の一端だということだろう。奴は人狼の姿を取った上で、その力にも多少の上方修正を加えていた。もしもマリーの姿になっていれば、俺がまるで歯が立たなかった彼女が、更なる強敵となっていたかもしれないという。……そんな恐ろしい道具がまだまだこの世界には眠っていると思うと、本当の驚異は生きた吸血鬼ではなくこれなのだろうと、そう確信出来る。
――マリーが残された魔力の残滓からそれだけの推測をした後、俺はあの吸血鬼狩りと。そしてマリーは件の人狼と話し合う場が設けられた。そこで俺は、ある一つの提案をするつもりだった。
「あんたはこれから、協会に帰るところだったのか?」
「まあ、そうだ。目下のアンデッドの殲滅の仕事を全て終え、直接その報告をするつもりだったんだが」
「そうか……なら、俺も一緒に行きたい」
「は、はっ……?」
青年の目が大きく見開かれ、心底意外そうな呆けた息を吐く。……それもそうか。自分の首にロープをかけると言っているのにも等しいことだ。
「今夜のことで、いつまでも人間の側に間違った認識……でもなく、吸血鬼が人を殺していることも事実だが、アンデッドのことやマリーのことを伏せたままでいるのは、実りが少なく、害ばかり生んでいることだというのが理解出来た。この辺りで、完全に吸血鬼狩り側の不安は取り去っておきたいんだ」
「……しかし、協会に吸血鬼を連れ込み、こいつを信用しろ、などと言っても聖職者や退役吸血鬼狩りは信じないばかりか、即刻お前達を殺そうとすると思うぞ。話し合い以前の問題だ」
「だろうな。でも、そこをなんとか出来ないかと、俺は思うんだ。危険も伴うし、一筋縄でいくことだとは思っていない。でも、挑戦する価値はあることだと」
「そうか……。出会う吸血鬼狩り全員に説明をしていては大変だし、そもそも話が通じないこともあり得る。だが、協会が動けばたった数百人しかいない吸血鬼狩りは、全員動くことになるだろうな。部の悪い賭けだが、リターンも大きい……」
それに、一応は交渉材料も持っているつもりだ。今は邪念が取り払われ、吸血鬼狩りの最終兵器として信頼出来る物となったあの鎖。かつて分解、封印されたあれをマリーが所持し、使いこなすことが出来るとわかれば、彼女が吸血鬼であり、人間でもあることは証明出来る。
俺の勝手な想像の域は出ないが、凝り固まった協会が重要視するのはその体に流れる血であり、人の血を持つことがわかれば、少なくとも話ぐらいは聞いてくれるだろう。それに、全世界を飛び回る吸血鬼狩りの報告が集まる協会なのだから、五百年生きているマリーの情報もある程度持っているかもしれない。それと彼女を結び付けることが出来れば、より話し合いは円滑なものになるはずだ。
「それにしても、大胆なことを考えるものだな……。私ならたとえ思い付いても、実行に移そうとは思わないぞ」
「……危機感を覚えただけだ。俺が戦った時に全く歯が立たなかったマリーだって、あんな風に傷付くことがある。そう思うと、吸血鬼に加え、それを狩る人間に追われるのは、あまりに恐ろしいことだと思うようになった。つまり、俺なんかじゃ彼女を守り抜けない、そんな臆病風に吹かれただけなんだ」
「十分な動機だろう。ま、私は女一人守れない男など、最低の部類だと思うがな」
「イヤミな奴だ」
「なんだ、お世辞でも立派だと言われたかったのか?」
「いや……けなしてくれるぐらいで丁度いい。マリーみたいなすごい奴の傍にいると、自分まで特別な何者かのような気がして、なんでも出来るんじゃないかと思いそうになるからな」
マリーが与えてくれる自信は、俺に欠けている行動力や勇気というものを少しばかり補強してくれる。それは間違いなく良い影響の受け方だろうし、その自信がなければさっきの戦いも出来てはいなかった。だが、いつまでも勝利の美酒に酔っている訳にもいかない。一つの戦いが終わった今俺に必要なのは、次の武力だけではどうにもならない仕事に備えるため、冷静で論理的な判断力を養うことだ。
彼の物言いは間違いなく癪に障るが、そんな冷や水を浴びせられることこそが、酔いの回った体には必要なのかもしれない。
「ああ、それから、あんたを巻き込むつもりはない。俺に脅されていたとか、適当な理由を付けて協会の人間と接触出来たら、すぐに離れてくれ」
「馬鹿が。私が今日ここであったことを話せば、強力なお前達の助けになるだろう。そもそも、ここまで事情を知った上で私を部外者にするなど、薄情過ぎるとは思わないのか」
「そ、それはそうだが、協会的には死んだ扱いになってる俺や、そもそも追われる身であるマリー達はともかく、現役の吸血鬼狩りであるあんたが危険分子とでも判断されたら、本格的に身寄りがなくなるぞ?さすがにそこまで巻き込むのは、申し訳ないと言うか……」
「何をつまらない遠慮をしている。お前もそうだろうが、私も家柄のせいで仕方なくこんな仕事をしている身だ。吸血鬼狩りの仕事がなくなるのなら、それは私にとっても大きな利益のあること。まさかお前、この私が他人の利益のために動いているとでも思ったのか?」
「は、ははっ、そうか。じゃあ、遠慮はした方が失礼だな。向いている方向が偶然同じなのなら、最大限、利用させてもらおう」
素直じゃないのか、本気でそう思っているのか、こいつの場合はいまいち判断が付かないな。まあ、それはともかく、俺の方の話は付いた。マリーの方はどうだろうか。あの人狼自体は、話が通じる相手だと思いたいが。
魔術による無理な肉体強化の反動が出たのか、腕が千切れそうなほど痛むし、体全体がとにかく軋み、鉛のように重くなった感じがする。彼女を立ちながら待つのは無理と判断して、青年に軽く手を上げて別れ、マリーの姿が見える位置に腰を下ろした。ごつごつとした木にもたれかかっていては、中々疲れも癒えてくれないとは思うが、こんな場所なのだから贅沢は言えない。せめてこの後、車を少しだけ走らせることが出来るぐらい回復出来れば十分だ。
目を瞑るとそのまま眠ってしまいそうなので、想像以上に明るい表情で話しているマリーの姿を見ていると、一匹のコウモリが傍にやって来た。他人に人の姿を見られるのは嫌なのだろうか。
「リディ。今夜は大変だったな」
言葉はないが、頷いてみせる。今日だけでずいぶんと彼女との距離が縮まったような気がするな。なんとなく今まではミステリアスな印象があったが、今はより身近で、儚げな見た目からは想像も出来ないほどの、意思の力を持った人物であるように感じられた。
「リディは前、何があってもマリーの傍にいる。それで死んでも良い、って言ってたよな」
またコウモリが首肯する。
「俺も。いや、俺はそうしようとは思わないな。マリーの傍にいて、出来るだけ長く生きてやるつもりだ。どうせ俺の寿命じゃ一緒には死ねないだろうが、一分でも長くいて、彼女に出来るだけ長い時間、笑顔でいてもらいたい」
苦しむ彼女を見てしまったからなのだろう。反対にその経験は、彼女が心から笑顔でいられる時間を増やしてあげたい、そんな気持ちを生んだ。リディは夕方、俺に対して無理をしないように言った。その通り、きっと俺は俺の出来ること以上のことを望んでも、上手くやることは出来ないし、逆にマリーのことを不安がらせてしまう結果を生んでしまうだろう。
だが、だからこそ。出来るだけのことは絶対にやりたい。まだ自分に出来ることが残っているのに、死ぬという形で彼女の前から消えてしまうことは、どうしようもなく卑怯なことだと思った。
『ダイキはまだ若いから。それで良いと、私は思う。……私は、もう十分生きて来た。その中でマリーという素敵な人とも出会えたし、最期が彼女の傍なら、それが一番だと、そう思っている』
「……そういうことを本人に言うと、怒られるだろう。それか、まだまだ若いよ、って笑うか」
『その通り。だから、ダイキにだけ言う』
「俺だって、同じ返事しかしないぞ。何年リディが生きてるのかは知らないが、その気になればいくらでも生きられる吸血鬼なんだ。老いも若いもあってないようなものだろう。だったら、人間という種がこれから先どうなるのか、それを全て見届けて欲しいと思うな。少なくとも俺は」
一匹の獣の姿を取っている少女吸血鬼は黙りこくってしまい、何かしらを考え込んでいるようだった。俺も、今日は特に喋ることが多い一日だったように思う。それ以上は口を開かず、喉と疲労に包まれた体を癒すことに専念した。
五分から十分の間だっただろう。小さく、ささやくように。しかし、不思議な存在感のある声が、心に伝わって来た。
『マリーがそう思うなら、私もそれを目指してみようと思う。それが、私の意思』
「……そうか。マリーは、理想が実現した後、どうするんだろうな」
俺が生きている間にその時は来ないのかもしれない。それでも、ふとそんなことが気になった。マリーは人と吸血鬼の争いがなくなった世界で、何をするのだろうか。彼女らしく、今度こそ本当に笑いながら日々を楽しむことが出来るのだろうか。永遠とも言えるほどの“明日”を、めいっぱい楽しみ続ける、そんな人の身からすれば最高の幸せと思える日々を、彼女は生き続けるのだろうか。
そうなれば。そしてその協力者に俺がなることが出来れば、それは俺にとっても幸せだと言えるだろう。彼女の中で生き続ける、なんていうクサい台詞を吐くつもりはないが、殺しの術と海外で生きるための勉強に日々を費やした俺が、まともな形で人の役に立てるのであれば、とりあえず俺の人生は有意義なものであったと言えるのだと思う。もちろん、俺個人の気持ちとしては、マリーと出会い、今こうして旅が出来ている時点で、十分過ぎる幸福感を覚えているが……。
「ダイキ、リディ。お話は終わりましたよ。円滑にとんとん拍子に進んでくれて良かったです。若い吸血鬼はこれが良いですね」
「そうなのか。見た目で吸血鬼がどれぐらい生きてるかって、マリー達ならわかるのか?」
丁度、今考えていたマリーの声が聞こえて来て、思わず後ずさりしてしまいそうになるが、後ろは木だ。軽く頭をぶつける結果となってしまった。
「いいえ。あたしの記憶と照らし合わせただけです。まあ、話していれば大体わかりますけどね。けど、そんな若い子だったので、先行きが不安である現状に危機感を持ってくれていて、お話が進めやすかったです。それに、若い意見も取り入れることが出来ました」
「何か革新的な意見があったのか」
「老人連中はとりあえず置いておいて、若者の支持を集めてがばーっとやっちゃえば良いんじゃないか、と。強引だとは思うのですが、案外これが効果を期待出来そうなのではないかとも思うんです。多くの人間の国では、民主主義的な選挙がありますよね。もしもそれを吸血鬼の間でした場合、若い吸血鬼はかなり少ないのであたしを支持してくれる人は全然いないと思うのですが、古い吸血鬼達は保守的な性質からもわかるように、ほとんど行動はしないんですよね。
それで、その手先……と呼べば言い方は悪いですが、あたしを止めようとして来る吸血鬼は、若年層から壮年に値する人達ばっかりです。なので、なんとか動きを封じ、話し合うことが出来れば、懐柔することも十二分に考えられると思うんですよね。幸いにも、そのための道具は一切の憂いなく使うことが出来るようになりましたし」
例の鎖を得意げに軽く持ち上げてみせる。ついさっきまで自分を苦しめていた原因なのに、トラウマのような感覚は……ないんだろうな。その辺り、マリーはさっぱりとしていそうだ。いつもの喋り方などは、どちらかと言えば甘ったるいぐらいだが。
「なら、これからは向かってくる吸血鬼から逃げるんじゃなく、迎え撃って説得することになる訳か」
「はい、一応はそのつもりです。……もちろん、生かさず殺さずの戦いをする以上、負担は増えることになると思いますが」
「俺に異存はないよ。それと、俺の方からも提案があるんだが」
「ほほう、どのような?」
さっき吸血鬼狩りの青年に話したような旨のことを、もう少し上手く整理した上で伝える。彼が協力してくれるらしいことも話すと、苦笑いをし、むすっとした表情で待機している彼の方を見た。マリーもまた、本心からそう言っているのか、照れ隠しなのか、その真意を汲み取れきれずにいるのだろう。その両方のような気もしているが。
「――ここに来て、一気に動き始めましたね。あたし達の旅が」
「それぐらい、今日は濃い一日だったな。これから先、今日みたいな日がそう頻繁には来ないことを祈らせてもらおう」
「ふふー、それはどうでしょう。あたしとの旅は、退屈なんてしてる暇はないと思いますよー」
「勘弁してくれ……。腕の筋肉が冗談じゃなくぶち切れそうなんだ。今までも結構無茶な戦い方はして来たが、こんなのは初めてだ」
「大丈夫ですよー。いざって時は、あたしが治してあげますから。リディも、筋力強化を応用して、筋組織の修復ぐらいは出来ますよね。あたしが繋げた後ですが」
簡単に言ってくれているが、普通に筋肉が切れたことを前提に話が進められているような気がする……筋肉が切れる痛みとは、一体どれぐらいのものなのか。アキレス腱が切れる、という話はたまに聞くが、それには相当の痛みを伴うそうだ。とすれば、筋肉の場合もそれと同様と考えれば……。
「マ、マリー。もう少し、ここで休んでいて良いか」
「そうしましょう。あたしも、正直に言えば本調子ではありません。今夜だけで、何リットルの血を流したのか――」
俺の傍に腰を下ろそうとしたマリーの足が、何もない地面に引っかかったように見えた。その直後、彼女の平均よりやや大きめで、女性的な質感に溢れた体が、そのまま俺の体の上に落ちて来た。慌てて腕を伸ばすが、体重を支えきれずにその場でひしゃげてしまう。
「っ、てて……。マリー、大丈夫か?」
「は、はい。ごめんなさいっ。ふっと意識が遠くなって……」
「ついさっきまで、心臓が破れてたんだからな……本当、無理はしないでくれ」
「いえ、その傷はもう良いんですけどね。ただ、あまりに血を流し過ぎてしまったので、もうまともに活動するだけの栄養がないっぽいんですよね。きちんと栄養補給しないと、このまま眠ってしまいそうです」
なんとか体勢を立て直し、マリーを気に寄りかからせた。薄暗い中でも、いつも以上に彼女の肌が白く、どことなく人形じみた血色をしていることがわかる。
「栄養……。とはいえ、今から車を走らせても営業時間に――いや、そうか。マリー、俺の血を飲むか」
「えっ?」
「なんだかんだで、もうずっと吸血することもなかっただろう。だから、栄養補給のためにも俺の血を吸ってくれ。体はかつてないほどにくたびれているが、血は一滴も流してないから、ちょっと多く吸血してくれても大丈夫だ」
彼女の返事を待たずに首元を緩め、動脈を露出させる。以前にも一度、マリーとリディには吸血させることがあったが、実はその時のことはあまりよく覚えていない。吸血は夜に行うと決まったのだが、あれはずいぶんと寝不足が溜まっていた日だったので、ほとんど寝ぼけている間に吸血が済んでいた。
意識がはっきりとしている今、首筋に噛み付かれるのには本能的な恐怖があるが……マリーなら、きっと大丈夫だろう。
「あ、ぅ……なんか、こうして改まって血をいただくとなると、不思議な緊張がありますね……。前より多く飲んじゃうことになると思いますが、良いですか?」
「好きなだけしてくれれば良い。もちろん、死なない程度にな」
彼女は小さく笑うと、顔を真っ赤にしながら、はにかんだようにその顔を俺の首元へと近付けた。息も匂いもすぐ近くで感じることになり、俺の方まで緊張してしまう。
「では、失礼します」
目を瞑り、彼女を受け入れた。いつもはわかりづらいのに、彼女の歯の中には人の犬歯よりずっと鋭い、牙としか表現出来ないものがあり、真っ直ぐにそれが血管を貫いてくる。その穴から血液と体温が抜け出ていくのがはっきりとわかり、次いでマリーの柔らかな舌がその傷を塞ぐように伸びて来て、溢れる血液を絡め取った後に唇を密着させる。
後は唇で血を絞り出すように軽く圧迫しつつ、音を立てて飲み干していく。……一つ一つの動作がオートメーション化されているかのように、淡々とこなしているところを見ると、これが吸血鬼の持つ本能の一つなのだろうか、などとぼんやり考えた。
不思議と痛みはないが、これはマリーが魔術で治療しながら吸血してくれているのだろう。そうだ、以前も想像していたような鋭い痛みはなく、傷跡も数分としない内に消えていた気がする。
ただじっと血を吸われ続ける、というのも慣れてしまえば退屈なもので、もう一分ぐらい経ったはずだが、まだ終わらない。そこで、ふと彼女の頭を撫でてやるいたずらを考え付いた。マリーにこちらは見えていないから、さぞ驚くことだろう。そっと左手を伸ばし、頭頂部を邪魔にならないよう軽く撫でてやる。
はっ、と気付いたマリーは一瞬だけ驚いたように血を吸うのをやめたが、すぐにまた血液を求め始める。ただし、今度は報復とばかりに舌を突き出し、その上に血を流して飲むという、やたらと持って回ったやり方をする。舌先がちろちろと首に触れるのが、くすぐったいようで気持ち良く、癖になりそうなほどだ。
俺もそれに対抗するために頭だけではなく耳まで触って、もふもふとした毛並みを堪能してやる。さっきから何か音がすると思ったら、マリーのぴんと立った尾がぶんぶん振り回され、地面をハタキのように叩いている音だった。ものすごい土煙が上がり、彼女の真っ赤なコートをどんどん白く汚してしまっているが、それで良いのだろうか。反射的な行動なので、制御も出来なさそうだが。
「はぁ……ごちそうさまでした」
体感で三分ほどだろうか。後半は遊んでばかりだった気がするので、二分弱で吸血を終えたのだろう。首元からマリーが引き上げ、小さく会釈する。
「お粗末さま。口の端、付いてるぞ」
「えっ、どっちですか?」
ぺろぺろと右の方を舐めているので、左を指差してやった。普通の食事なら取ってやるところなのだろうが、さすがに自分自身の血液を回収する気にはなれず、指示だけにさせてもらう。
「これでもう、大丈夫か」
「はい。少しすれば馴染んで、貧血も栄養不足も解消されると思います。ダイキの方こそ、血が足りなくなったりしてませんか?」
「ああ。ちょっと血を抜かれて、逆にすっきりしたぐらいだ」
「ふふっ、そう言えば、ヒルに血を吸わせる治療法なんてものもありましたよね。あれって今でもあるんですか?」
「さ、さあ……俺はよく知らないな」
まさか、暗に自分のことをそんな生物にたとえるとは……。今は人ではなく吸血鬼の身とはいえ、日常の語彙の中に“ヒル”なんてワードを忍ばせる女性とは、いかがなものなのだろう。なんとなく、彼女らしいと言えなくもないのが、更に微妙なところなんだが。
「……ダイキ。ひとつ、良いですか」
「ん?ああ。どうしたんだ、そんなに改まって」
「大好きです」
「……そ、そう来るとは思わなかったな」
もう何度も言われた言葉だったが、体を密着させた後にそんなことを言われてしまうと、いつも以上にその言葉の“特別さ”を意識してしまう。マリーは自分のことを人間好きだと度々語っていた。だから、好きという言葉が出て来るのは不思議なことじゃない。だが、俺に向けられたその言葉が、一般的な人間愛と異なった意味を持つことは彼女の口から既に説明されている。
マリーは俺に恋している。そして、俺もまた同様に、彼女のことをどんどん好きになっていた。今のこの気持ちを説明し得る言葉はきっと、その言葉しかないのだろう。だから俺も、それをはっきりと口に出す。魔術で心を読まれて、自分の口で伝えるチャンスを失ってしまう前に。
「――だけど、俺もマリーのことが大好きだ」
「どれぐらい、好きですか?」
「えっ、好きの度合いって、言葉に出来るものなのか」
「言葉に出来ないのでしたら、行動で示してください」
「うっ…………」
不味い、完全に墓穴だった。それか、これは誘導尋問だ。……さすが五百年生きているだけあって、こういう時には駆け引きの上手さが現れる気がする。
「正直、今更って気がするんだが……」
「何度でも愛を確かめ合いたい、それが女の子ってものですよー」
「女の子、か」
「はい。ラブを夢見る少女です」
「……吸血鬼の女王が、自称ドリーミングガールとはな」
真面目な顔でするのがどうしようもなく恥ずかしかったので、そんな軽口を叩きながらジェスチャーで立つように促し、彼女の背中と首に腕を回した。俺にプロレス技の心得があるならば、ここからなんらかの技に派生するのだろうが、愛情表現がノックアウトとは嫌過ぎる。一瞬ためらった後、観念してその体を抱き寄せた。
マリーはボロボロの服装だったが、そんなみすぼらしい外郭に包まれた彼女の体は柔らかく、すぐ傍にやって来た髪から漂う匂いは眠りそうになるほど甘く官能的ですらあった。吸血鬼の女王、そして人間の中をどれだけ探しても見つからないであろう美貌を持つ女性が、俺の腕の中にいる。なんだかすごく分不相応なことをしているように感じられて、何に向けられているのかわからない申し訳なさと、初めて深く知った女性が彼女であることの幸福とが胸の中に溢れていた。
「もう、いいか」
「あと少しだけ」
「……仕方ないな」
苦笑いしながら、しかし俺はその言葉を求めていたのだろう。より一層強い力で彼女を抱き寄せ、彼女風に言えば“愛を確かめ合った”。俺にしてみれば本当に反射的で素朴な行動だったが、考えてもみれば異性とこんな風に密着することになるとは、少し前までの俺は想像することすらなかったはずだ。
そう考えると、俺は今大変な変化の中にあるのだと実感出来る。協会に乗り込むのもそうだが、俺とマリーは今、間違いなく夜の世界を変革しようとしているのだろう。その過程で俺という一個人の人生が大きく変わるのもまた、当然の変化のように思える。
ふと、数週間前の夜のことがフラッシュバックしていた。
あの夜の俺は、運命的な出会いを果たした。運命なんて言葉はその裏に大いなる存在の香りを感じさせて、とてもではないが好きな言葉とは言えないが、あの出会いにだけはその言葉を使うのが一番上手くいく気がする。
俺とマリーは、吸血鬼狩りの人間と、元人間の吸血鬼という、およそ出会ってはいけない関係の中にあった。そんな二人の内の片方、吸血鬼の方が人間に一目惚れしてしまい、そんな彼女に俺もまた惹かれるようになって……本当、出会いというものは予測不可能で、出会った者同士がどんなことを感じ、実行に移すかも未知数だということが、実体験としてわかった出来事だった。
マリーの体温を感じていると、確信出来る。これからもきっと、彼女といる限り俺は様々な難事件、怪事件に巻き込まれる。それは彼女が困難な道を歩んでいるのだから仕方ないことだ。
それでも、俺はそんな絶対に退屈しない日々を、心から楽しめる。その確信があった。
なぜなら、他でもない、マリーと。俺が最初で最後の恋をした女性と一緒なのだから。
説明 | ||
毎度のごとく、最終章ではありませんが事実上の最終回です 今回は意図的に「中だるみ」の期間を用意し、そこに全力で恋愛展開を突っ込んだ形になるのですが、これも完全に自分の好みですね 常に甘くても、常に暗くても嫌、という自分の考えを、初めて上手く形に出来たのかな、と思います |
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