三題噺詰め合わせ2 |
「喧嘩」「財布」「自転車」
敗戦兵とは、きっと今の自分のようなのを指すのだろう。
ほうほうの体で、片手で自転車をカラカラと押しながら、痛む場所をもう片方の手で押さえる。制服は埃まみれ、所々破れてもいる。見るからにボロボロで、惨めで、それでも、割と心の中は晴れやかだった。
手元には、無傷の給料袋。初めて、自分の手で稼いだお金。今までだったら、痛い思いをするなら、って思ってたけれど、
「もう、二度とあいつらなんかに、やるもんか」
父さんや母さんだって、こうして一生懸命稼いだお金なんだ。もう一円だって、くれてやらない。
喧嘩には負けたけど、これ以上ないってくらい負けたけど、
「もう、心で負けてやるもんか」
「蟻」「砂糖」「星」
―――その日も、いつもと何も変わらない一日になるはずだった。
早朝、まだ日も昇る前に愛用の自転車に乗って仕事先であるビジネスホテルへと向かう。まだ鳥達も眠る頃合い、水音だけが耳朶を擽る河川敷を抜け、やがて見えてきた鉄橋を渡り、敷地内の駐車場の奥へと向かおうとして、
「ん?」
見慣れない人影を見つけた。屈みこんでいるにしても、大人の体格ではない。気の早い近所の子供が紛れ込んだのか。そう思って近づくと、それはやはり少女であるようだった。まだ小学校も半ばという年頃だろうか、身なりも綺麗である。随分と熱心に地面へと視線を注いでおり、その先を追うと、
「……蟻?」
手元の角砂糖をぼろぼろと崩すと、それに群がっている黒い小さな影、影、影。それを見ている彼女は能面のような、この上ない無表情だった。
「ねぇ、どう思う?」
「え?」
「時々、思うの。この子達は地面の下のこんな小さい巣の中で、ぎゅうぎゅう詰めになっても賢明に暮らしてるのに、私達がどれだけ環境を切り開いて、自然を無駄にしてるのか、って」
「…………」
突然の問いに答えに窮した。その問いのみならず、ぐるりとこちらに向けた視線、抑揚のない言葉、まとう雰囲気、何もかもに。
「いるじゃない。入り口に爆竹を突っ込んだり、水責めにしたり、彼が一生懸命に作った家を、自分の快感のために壊す奴。どんな気分なのかしら。家に帰ったら、家がなくなってるって」
何も言わない。何も言えない。覚えがあるからだ。幼い頃、小学校のグラウンドの隅っこや、公園の砂場。子供は純粋故に残酷だ。倫理観、道徳観が形成される途上の段階。しかし、それがどうしたというのだろう。
「なのに、蜂の巣はなかなかつつかないわよね。襲われると怖いから、痛いから」
ぞわり、とした。
彼女が立ち上がる。身体を左右に揺らしながら、こちらへと少しずつ、少しずつ。それは、四肢に繰り糸を結ばれた操り人形のようでもあった。そして、
―――それじゃあ、”私たち”があなたたちの家を壊すのも、おかしなことじゃないわよね?
彼女は犬歯を剥き出しにした、とても獰猛な笑みを湛えて、そう言ったのだった。
「盆」「音」「器」
それは、あまりに唐突だった。
大学に進学して3年。墓参り以外に特に帰ってすることもなく、かといってドがつく田舎に時間を潰す術もなく、ひたすら縁側で陽炎の昇る庭を横になったまま呆然と眺めていると、風鈴の音に混じって声が聞こえた気がした。
―――私の器になって。
それは、世界からにじみ出るように目の前に現れた。白いぼろ切れのような服。額に巻かれた三角形の布。ステレオタイプな幽霊。見るからにそんな存在だった。
―――お願い、私に体を頂戴。
再び、ずいと顔を寄せて来てそういった。そして、
「い★や★DEATH♪」
「……はい?」
満面の笑顔でそう言ってやった。
流石に予想外の反応だったのか、幽霊の彼女は先ほどまでのおどろおどろしい空気を霧散させ、目をカッ開いて呆然としている。
「聞こえなかった? IYADAって言ったの、アタシ」
「えっと、その、状況、解ってます……?」
「そら解るよ。あんた幽霊でしょ?」
「あ、はい、幽霊です……」
「アタシにとりつこうってんでしょ?」
「はい、体欲しいです……」
「だから嫌だって言ってんの。お分かり?」
「えと、怖くないんですか……?」
「別に。全然」
「ど、どうして……?」
「あんた、迫力ないもん」
「えぇ〜……?」
「そもそも今時その衣装って、ねぇ」
「いや、これは別に私が意図的に用意したものではなくてですね……」
「これでうらめしや〜とか言い出したりしないわよね? 言ったら流石に退くよ、アタシ」
「そ、そんなにですかっ……?」
「ってか、アンタさっきから”…”多すぎ」
「え、っと、それは別に指摘されることじゃあ……」
「試しにさ、それ全部”www”に変えて見てよ」
「えぇwwwそんなこと言われてもwwwってうわぁ、勝手に帰られてるぅwww」
「なんだ、満更でもなさそうじゃない」
「いやwww字面だけで見ればそれっぽいだけで、私何も話し方変えてないんですけどwww」
「今度からそうしなさいよ。アタシが一緒に出たげるから、R−1グランプリ」
「私一人で出させる気満々ですよねwwwというか、そもそも出たいなんて一言も言ってないんですけどwww」
「あ〜、なんか食べるものなかったかなぁ」
「飽きてますねwww普通に飽きてますよねwwwというか早くこれ直して下さいwwwお願いしますwww」
終わっとけ
「歌」「窓」「喧嘩」
―――窓一枚という薄いようで分厚い壁が、彼と私を隔てる最大の敵だと、最近になって思うようになった。
”彼と幼なじみなんて羨ましい”皆、口を揃えてそう、私に言うけれど、それは所詮無い物ねだりをしているに過ぎない。知らないのだ。近すぎる距離というものが時にどれほど残酷かを。
小さい頃、彼が隣に引っ越してきてから、パジャマ姿での窓越しの会話が、私達の習慣だった。それは成長しても相変わらずで、現にこうして高校に進学した今でも続いている。いや、今に限っては続いていた、と言い換えてもいい。何せ、今の私達は冷戦状態にあるからだ。
きっかけは些細なこと。でも、私にとっては重大なこと。登校して間もない玄関で、彼のげた箱からでてきた一通の手紙。照れくさそうに微笑む彼を見て、思わず腹が立った。なんて嫌な女なんだろう、私は。自己嫌悪という底なし沼に、自分の身体が飲み込まれていくような、そんな不快感。あのだらしのない顔を見ていたら胸がむかむかし出して、気がついたら憎まれ口を叩くだけ叩いて、当然彼も怒りだして、今に至る。お風呂上がりの火照っているはずの身体が、全く暖かい気がしない。窓を開けてる訳でも、薄着でいるわけでもないのに、ちゃんと布団に入っているのに、私の心は冷えきったままだ。
自分の想いを自覚したのは、小学校に上がって間もない頃だったか。特筆するような理由はない。気づけば彼の隣が当たり前になっていて、離れたくないって思うようになって、本心を打ち明けたい反面で、今の関係が崩れてしまうなら、と思う自分もいて、そんな葛藤をもう10年近くくすぶらせている。
恋愛感情は、誰かを好きになろう、と思って抱けるものじゃない。当に奇襲だ。こっちのことなどお構いなしに襲いかかってきて、心をこんなにもかき乱すだけかき乱して、中毒症状のように相手を欲してしまう。
「はぁ……」
眠れそうにない。気分でも変えよう、そう思ってラジオを点ける。この時間帯の番組は前知識無しで聞いていても面白いからいい。パーソナリティのトークや視聴者投稿など、シンプルな企画。いつの世も、ラジオという娯楽だけは不変のスタイルを保っているからこそいいのだと、そう思う。
と、
”それではいってみましょう、本日の一曲。リクエストしてくれたのは―――”
定番中の定番。番組の途中で流す一曲を視聴者のリクエストで選ぶコーナー。今日は何だろうか、自然と耳を傾けて、
「あ……」
随分と古い曲だった。多分、自分がまだ生まれる前の作品。歌詞も曲調も実に単純明快。だからこそ”クる”ものがあるのだと、レトロ趣味のある両親はよく言っている。
それは、悲恋を歌ったものだった。もう二度と会えない貴方に、あの時どうして想いを告げなかったのだろう。ただひたすらに、そう繰り返す女性の声。それがじわりと、私の心臓を握ったような、そんな錯覚を覚えた。
「…………」
考える。明日もし、彼がいなくなってしまったら。私の前から、この世界から、そう考えただけで、胸が苦しくてたまらなくなってしまう。
気がつくと、窓に手を伸ばしていた。鍵を開け、向かいを見る。カーテンは閉められていたけれど、まだ明かりは点いていた。
布団はたきを伸ばして窓を叩く。いつもの合図。すぐに開いたカーテンに、そこから覗く彼の顔に、心拍数が早くなる。
何を言おうか。何から言おうか。順序を組み立てる暇もなく、彼は窓を開けはなってこっちを、私の目をまっすぐに見る。
そして、
「あ、あのね…………」
「海」「電話」「テレビ」
寝起きの布団の誘惑への抵抗ってのは酷くもろく儚い訳で、そのまま睡魔に身を任せても何の問題もない休日ってのは最高のシチュエーションな訳で、
「あ〜……暑ぃ、寝すぎてダリィ」
ぼんやりと靄がかったような思考回路のまま、歯ブラシを動かしつつテレビを電源を入れる。画面には真っ青に広がる大海原が映し出されていた。そういえば、そろそろそういう季節である。
「だんだん暑くなってきやがったしなぁ」
汗だくのシャツを脱ぎ捨て、窓を開け放つ。吹き込む風が火照った身体を程良く鎮めてくれる。すると、携帯からけたたましく電子音が鳴り始めた。
「ん?」
「お〜っす、生きてるか〜?」
出ると、悪友の声が聞こえた。
「死んでるよ、いろんな意味で」
「ま、いいや。お前、今日暇か?」
「これから爆睡に勤しむところだが?」
「よし、暇なんだな。それじゃあ、今から海に行こう」
「―――は?」
呆然と口を開けたまま、相変わらずリゾートの宣伝を見慣れたタレント達が「私も行きたい」だのなんだのとまくしたてているのを見て、再度思考回路が働き出すのを待って、
「今から?」
「そ、今から」
「聞いてないぞ?」
「そりゃあ今言ったからねぇ」
「……お前、今、どこにいる?」
直後、室内に響く耳になじんだインターホン。
「…………」
多少げんなりとしつつ、玄関の鉄扉を開け放つと、
「おい〜っす」
「……なんでもう水着着てんだよ」
というか、浮き輪にゴーグルにシュノーケルまで完備とか、一昔前のマンガじゃあるまいし。
「はぁ……飯だけは食わせろ。まだ何も食ってないんだ」
「あ、僕も食べるよ。お腹空いてるし」
「なら取りあえずさっさと上がれ。ここまでそのカッコで来たりはしてねぇだろうな」
「流石にそれはないよ〜。僕だって恥じらいくらいは持ってるさ」
「だったら隣人から妙な噂を立てられるかもしれない俺への配慮も考えてもらいたいもんだな」
「そんなことはいいから早く。シーズン前の今なら混雑だってそんなにしてないだろうしさ」
「はいはい」
と、俺は遅めの朝食の準備を始めるのだった。
なんだ、君もその気だったんじゃないか、と点けっぱなしのテレビを見て嬉しそうに呟く、ビキニ姿の幼なじみに嘆息を吐きながら。
「春」「アクセサリー」「年の差」
桜吹雪が舞う。踏みしめる革靴は石畳の街道をこつこつと馴らし、降り注ぐ山吹色の陽光は肌を包み込むように暖め、スーツ姿でも少し暑さを感じる程であった。
「午後から丸々空くとは、運がいいのやら悪いのやら」
日頃休みが欲しいと願っているもんだが、いざ休みが入ると手持ちぶさたになる。何とも不思議な感情である。はてさて、どうしたものかと考えて、ふと目に入ったのは、
「…………」
目に入ったのは煌びやかな輝きの数々。思い出す。そういえば、あの子がそろそろ誕生日だったことを。
「高校生にはちょっと不釣り合いかなぁ」
でもまぁ、社会人としてカッコつけたいところもあるわけで、安物でもいいかな、と取りあえず覗き込んで見て、
「……あ〜」
甘かった。並びに並ぶ0、0、0。一つ桁を間違えてるんじゃないか、と吐き捨てようとして、自分の方が不釣り合いだよなぁ、と思い直す。
確か、四月の誕生石はダイヤだったよなぁ、と思い出して、
「―――お」
見つけた。大分小さくはあるが、輝きは十分だろう(照明の効果かもしれないが)。首飾り。模しているのは桜だろうか、花弁の中心に輝く金剛石。値段も……まぁ、少し食費を切り詰めれば何とかなるだろう。
「すみません」
店員を呼び止め、プレゼント用に包んでもらう。帰りがけに店員が”頑張ってくださいね”と微笑みかけてきたのを見て若干の照れくささを感じつつ、特売の惣菜を手にするため、俺は帰り道の途中にあるスーパーへと足を運ぶのだった。
「奇跡」「器」「神社」
薄暗がりの中を、おっかなびっくりとしながら少しずつ歩く。いつか来るとは思っていたけれど、やはり心のどこかで他人事のように捉えていたのだろう。その事実を、今この時になって思い知る。
「ひっ……」
微風のたてる物音だけでびくついてしまうこの始末。古来より人は見えざるもの、触れ得ざるものに神秘的な現象を重ねる生物である。それは他の種族にはない美点でもあり、そして同時に大きな欠点ともなる。
一度起こってしまった混乱というものは、自分の意志で抑え込むには相当の訓練が必要なほどに、非常に困難だ。合理的な判断を鈍らせ、適当や的確という概念を蚊帳の外へと弾き飛ばしてしまう。それに更に拍車をかけるのが、恐怖という感情だ。そして、この村に暮らす子供達にとって、今の私が置かれている状況は共通の、そして最大の恐怖に他ならない。端的に言うなら、村の為に捧げる生け贄になれ、ということなのだから。
いつからかは知らないし、知りたくもない。毎年この時期になると、翌年の村の繁栄を願うとか訳の分からない大義名分で、村から子供を一人、人柱として奉納するという儀式がある。今までも、そしてこれからも、忌まわしき呪縛のように、それは続いていくのだろう。いつか、そのような根拠も証明もありはしない曖昧模糊な存在の価値に終止符が打たれるまで。
古びた床板は踏みしめる度にギシギシと軋みを鳴らし、進む度に材木の腐臭や蜘蛛の巣の数は増していく。住職も滅多に近寄ることすらしないという、神社の奥にある祠へと続く道。おどろおどろしい雰囲気は殊更に私の脳内を塗りつぶし、それに連れて視界は決壊した涙腺から溢れ出す滴で滲んでいく。そして、もうどれくらい歩いたのかも忘れた頃、
―――ふむ、今年の妾の器はそなたか?
初めて耳朶を叩く声に数瞬、身体を振るわせる。突然の声というのもあったが、この状況下においてその声がいやに艶っぽく聞こえたのが大きい。それほどの恐怖が思考を埋め尽くして尚、それは半ば強制的にそう感じさせるほどの”何か”を秘めていたのである。
―――面を上げい。その顔を、よく拝ませておくれ。
糸で繰られる人形のように、自然と首をもたげてしまう。滲む視界の中、緩やかにこちらに近寄る陰一つ。暗闇の中でそれは、ぼんやりと妖しく光っているように見えた。そして、
その、年端もいかぬ少女は、唐突に少女の唇を奪うのだった。
「湖」「犬」「屋上」
その地には、とある言い伝えがあった。
その昔、湖の畔に小さな村があった。豊かな水資源に恵まれたその村は一次産業による自給自足によって成り立っていた。しかし、異常なまでの長期間に渡る大雨によって湖は溢れ返り、その村はあっと言う間に飲み込まれて滅びてしまった。
時は流れて数百年。今や広大な湖として知られるこの地を訪れる者たちの間に、まことしやかに囁かれているのが、その言い伝えである。
その村では、人々は現在の人類と同じように、過去の人類の歴史の例に漏れず、多くの犬達と協力し、彼らの力を借りて狩猟を行っていたという。山々を駆け、水中へ潜り、その優れた聴覚と嗅覚、身体能力をもって獲物を捕まえていた彼らを、その村では神からの遣いとして崇めていた、という記述もある。その中に、最近になって解読できたものがあった。曰く、その村が滅んだのはその大雨ではない、との事である。
神々の世界から追放された邪なる者が下界で暴れ回っていた。水を司っていその者によって、大雨は引き起こされたとされている。しかし、今にも大波に飲み込まれようとする村を救った存在があった。
かの者は、光輝く山吹色の体毛を持ち、しなやかな四肢を持って波紋を描きながら自在に水上を駆け、その逞しい顎をもってして邪なる者の命を刈り取り、その荒波を鎮めたという。そう、かの者は優に人間数人はありそうな巨躯をした山犬だった、というのだ。
それを裏付けるように、最近になってその湖底から発見されたものがある。苔にまみれたそれは、巨大な犬の石像であった。かのものへの最大の感謝を、と当時の文字で刻まれていた。
真偽のほどは定かではない。しかし、その地に嘗て異常気象とも言える大雨があり、そしてその村が存在していた事は確かである。次なる進展がある事を願い、我々はこれからも一層の奮起をもって調査にあたるであろう。
「自転車」「鋏」「恋」
―――その鋏は、あらゆる想いを断つ。
そんな都市伝説じみた噂が流れている美容師がいるという。風変わりな彼はなんでも自転車に乗って各地を思うままに放浪し、様々な人の髪を無償で切っては去っていくという。そんな彼が今、この町にいると知り、やってきた一人の女性。長く艶やかな烏羽色をした彼女は、とある想いを断ち切る為に、彼の元を訪れていた。
「如何致しますかな、お嬢さん」
彼は思っていたより歳を取っていた。ロマンスグレー、というのが実にしっくりと来る、携えた立派な髭が特徴的な彼。自転車というのも随分とレトロな、明治や大正を感じさせる旧式であった。それを後押しするのが彼の佇まいである。比喩的な意味でなく、彼は執事然とした風貌をしていたのである。燕尾服にアスコットタイ。どこからともなくコーヒーやスコーンでも取り出してくれそうな気もする。
閑話休題。椅子に腰掛け、布を巻かれ、鏡を見せられ、彼は落ち着いた声でそう尋ねた。
「はい。私の恋心を、断ち切って欲しいのです」
彼女の心には、とある男性の姿があった。小さな靴屋。親に決められた結婚相手が嫌で逃げ出したあの日、壊れてしまったヒールをなおしてくれた彼の笑顔に、彼女は心を奪われた。しかし、彼と彼女はあまりに身分が違った。跡取りたる人物との婚約を”生きる理由”の一つとされていた彼女にとって、彼への想いは蝕む毒に他ならなかった。許されざる、しかし振り切れぬ想い。そんな矢先にこの噂。一も二もなく、彼女は縋った。
「畏まりました。今しばらくお時間をいただきます。どうぞ、身をお任せ下さいませ」
取り出したのは銀色の鋏。綺麗に磨かれたそれは鏡面のように白銀を照り返していた。やがて、そっと髪をかき分ける切っ先。優しくそっと、髪の切れる音が鼓膜を擽る。心地よかった。そして、髪が切り落とされていく度に、彼女は心が軽くなっていくような感覚を覚えた。余りの心地よさに、段々と瞼が重くなっていく。
「構いませんよ。どうぞ、安らかにくつろいで頂いても」
「そう、ですか……」
その言葉を皮切りに、彼女は睡魔に身を任せた。体がゆるりと沈んでいくように、四肢から力を抜く。やがて、脳裏に映し出されたのは、
(あぁ、貴方を忘れてしまう私を、お許し下さいませ……)
やがて、数十分後。
「終わりましたよ、お嬢様」
自分を揺さぶる振動に、彼女は目を覚ます。そして、
「如何ですかな? お気に召されましたでしょうか?」
鏡の中に写る自分の髪は、肩口で切りそろえられたボブカット。そこには深窓の令嬢ではなく、一人の女の子がいた。
「これは……」
「ご要望通り、貴方の忘れたい想いは断ち切られました。
お代は要りませぬ。後は貴女のご自由に」
「……はいっ、ありがとうございますっ」
それは、咲き誇る華のように可憐な笑顔であった。
布を取られ、椅子から立ち上がり、彼女の足が向いたのは、あの靴屋への道。駆け出す足取りはあまりに軽く、彼女は自分に羽が生えたのでは、と錯覚を覚えるほどであった。
―――私は確かに断ち切りましたぞ、貴女の”本当に忘れたい想い”を。
「賭事」「エンジン」「嵐」
一か八か。元はカルタ博打に由来するこの言葉は、運を天に任せて冒険に出る事をさす。当たるも八卦、当たらぬも八卦。人生とは、選択の連続である。迫られる取捨選択。常に自分の命を天秤の秤にかける職業。自分の生業はそうであると、そういう自覚はあった。
「―――以上が、作戦の概要になる。出立は3日後。決して遅れることのないよう、各自それまでに時計を寸分違わず合わせ、バイクの整備を済ませておくように」
だがしかし、いざその場に直面した時、躊躇や戸惑いを感じてしまうのは、弱さ故なのだろうか。一歩を踏み出すことが、明日を迎える事が、ただ単純に、時間が流れていくことが、これほどまでに恐ろしく感じられる。
何千匹も苦虫をかみつぶしたような苦渋の表情を、しかし表に出さないように必死なのだろう、司令官はなるだけ淡々と、そう告げた。その、今にも震え出しそうな声色の裏に、この上ないほどの悔恨が秘められている事を察するのは、余りに容易であった。
「我々の双肩には、全国民の命運がかかっている。我々の後ろには、全国民の未来がある。それを決して、忘れてはならない」
きっと、私がこの大地を踏むことは二度と叶わないだろう。後3度、太陽が昇ったその時、私は死地へと赴かねばならない。嘗て私と同じように祖国の為に戦った父の墓に手を合わせることも、家に帰って母の暖かいシチューを口にすることも、最近随分と背丈の伸びてきた妹にからかわれることも、いつも利用する食堂の看板娘である彼女と他愛のない会話をすることも、出来なくなるのだろう。
「3日後、1200時、再びここに集うように。それまでに、家族に、友人に、親しい人々に、挨拶をしておくように」
そう言って、司令官は去っていった。皆が一様に言葉を発さず、否、発することが出来ず、一人、また一人と少しずつ、力無い表情で立ち去っていく中、私は最後まで、その場に立ち尽くしたまま、動く事が出来なかった。
怖かった。その恐怖は時間が経つにつれて、幼虫が歯を食むようにじわりじわりと、私の中身を浸食した。縫いつけられたように動かない四肢は、しかし微かな震えを続けている。引き剥がすように必死の力を籠めて、自分の身体を抱きしめて見ても、それは変わらなかった。変われなかった。
軍に入ったその時から、人の命を奪ったその時から、ベッドの上で安らかに死ねないだろう事は覚悟していた。しかし、それが戦力の拮抗した戦場でなく、覆す事はまず不可能であろう圧倒的な戦力差による”蹂躙”であると知ったその時、何の躊躇いもなく意気揚々と赴ける者がいたとしたなら、それは戦場に居場所を見いだす戦鬼か、自らの価値をまともに知らぬただの愚者のいずれかである。そして、私は戦鬼にもなれなければ、愚者に身を落とす事も出来ない、ごく平凡で矮小な人間であることを、自覚している。
「死にたくない。私は、死にたくないんだ……」
その呟きは、誰も鼓膜をも擽ることはない。嘆いても、喚いても、時が遡る事はない。
曇天の空の彼方、低く重く雷鳴が轟く。脅威の嵐が忍び寄っていることを報せているようで、私は一層、自分自身を抱きしめるのだった。
「盆」「珈琲」「音」
陽炎と蝉時雨が世界を埋め尽くそうとする真夏の昼下がり。世間では大勢の社会人が故郷へと戻り、先祖代々受け継がれる墓石の前で冥福を祈る頃。コンクリートに染めあげられた高層建築群の合間をくぐり抜けた先、そこだけが緩やかに過ぎゆく時流に取り残されたように、懐旧を抱かせる佇まいをした喫茶店が一軒。からんころん、と鳴るベルと共に扉を開いたと同時、鼻孔をくすぐるのは優しく仄かな木々と珈琲の香り。この時点でマスターの拘りが伺い知れる。もっとも”前の”と言う形容詞を用いらなければならなくなってしまったが。
「ふぅ……」
客が来ない。洗い物はないし、掃除もし尽くした。アンティークの配置に特に問題はないし、ならばと始めたカップ磨きもとうに終わった。
つい先月、この世を去ったマスターの跡を継いで店を続けると決めた。バイト歴こそ長いものの、正直ただこの店が好きなだけの赤の他人である俺に店を譲ってくれるなんて思いもしなかった。そりゃあ、マスターの淹れる珈琲が好きで、なんとしてもものにしたくて頼み込んで働かせてもらっていたから、思い入れは人一倍あると自負しているが。
「宣伝とか、考えるべきかな……」
人数こそ多くないが、常連客はそれなりにいる。俺もバイトさせてもらえるまでその中の一人でしかなかった。そんな俺としては、この店の珈琲をいろんな人に知って欲しい反面、自分たちだけの秘密にしておきたいと思いもするのだ。第一、大勢が押し掛けてわいわい賑わってもらうようなコンセプトではないし、何より店内はそれほど広くない。従業員は今のところ俺一人だし、そもそもこの店自体がマスターの道楽で営んでいた部分もある。
だが、ここまで閑古鳥が鳴いていると決意も若干揺らいでしまうのは無理もないと思わないだろうか。
「バイトん時は夕方が多かったし、この時期は実家に帰らせてもらってたもんなぁ……」
と、そう呟いたその時だった。
―――カランコロン
「っと、いらっしゃいませ」
久しぶりに聞いた音に、表情を引き締める。やってきたのは壮年の男性のようだった。目深にかぶった帽子を取ると、皺が寄り初めているものの、まだまだ活力に満ち溢れているような血色をしている。きっと、まだまだ現役で働いているビジネスマンなんだろう。部下も大勢いそうな、そんな貫禄を感じる。いつもの常連ではない、初めて見る人物だった。
「珈琲を、貰えるかね」
「はい」
予め暖めておいたカップに挽きたてのオリジナルブレンドと沸騰寸前で止めた熱湯を少しずつ。マスター直伝の淹れ方。ふわりと立ち上る香りに脳内で満足し、いつの間にかカウンター席に腰掛けている男性に差し出した。
「どうぞ」
受け取ると、男性はまず香りを確認するようにブラックのままカップを口元へ運び、軽く鼻を左右に揺らす。やがて小さく流し込むように一口。一言も言葉を発さず、ただただ緩やかに少しずつ。初めての客人の反応はいつも緊張するが、表情の変化一つ伺えないこの人のそれは、普段のそれより強烈に感じてしまう。満足いかなかったのだろうか。そんな不安がよぎったその時、男性が空になったカップをソーサーに戻して、
「ん、会計を頼むよ」
「あ、はい」
すぐに席を離れ、お釣りを手に取ると目深に帽子をかぶり直し、
―――ありがとう。親父の味を守ってくれて。
「……え?」
それは、気のせいだったのかも知れない。気がついて思わず声が出たその時には、男性は既に扉に手をかけ、鐘を鳴らして出ていってしまった後だった。
そう言えば、と思い出す。マスターの葬儀の日、俺がこの店を継ぐと親戚一同の前で豪語したその時、マスターの長男だけは仕事の都合で海外中を飛び回っていて、どうしても葬儀には出席できなかったと言っていた。”親不孝も甚だしい”と言っている人もいたが、その時にこうも聞いていた。マスターの淹れる珈琲が、何より大好きだったと。
「…………」
今になって、遅れて涙腺が緩み始める。滲む雫はこぼれて落ちて、拭っても晴れることはなくて、でも、たまらなく心地よかった。
真夏の空、山吹色の太陽と純白の雲、その下で、俺は自分がこの店を”3番目”に愛していたのだと知ったと同時に、絶対にこの店を、この味を、この場所を守り抜こうと、心に堅く誓ったのだった。
―――からんころん
説明 | ||
投稿108作品目になりました。 随分前にもやったのと同様、時折私がサークルや練習でやっている三題噺の詰め合わせ。要するに、執筆時間は5〜30分以内と限定し、適当に単語を書いたくじを引いて即座に練って書く、という作業を繰り返しまくって生まれた駄文達、とゆ〜わけです。 詰まったらそこで終了、と本当に適当に書いているだけなので、低クオリティ及びぶった切りが数多く確認されますので、それらをご了承して頂ける方々のみ、どうぞ。 |
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一丸>こ〜ゆ〜のを毎週、サークルで練習としてやっているのだよ。その場でくじを引いて構想から執筆まで30分以内とか、先週の内にお題を決めておいて、お互いに創ってきたプロットを交換して書き合ったりとか。やってみるといいと思うぞい。(峠崎丈二) もう、素敵の一言しか言えません。全部の話が好きです。恋愛要素に絡む話や、最後のコーヒーみたいな話が特に好きですね〜・・・・ではでは、続き楽しみに待ってます。(一丸) |
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