ドア |
私は、大きく息を吐くと、分娩台に仰向けになった。陣痛の間隔は、だいぶ短くなってきていた。
分娩台の脇に置かれたモニタが、私の状態を逐一教えてくれる。全部の装置類が、ほんのわずか手を伸ばせば操作出来るようセットされていた。操作は、この十二年間に充分訓練した。万一、私が意識を失っても、オートモードですべてを終えられるはずだ。
「すべて想定の範囲内、何の問題も無いわ」
声に出してみる。心配は無い。不安ではあるけど。でもここまで来たら、覚悟を決めるしかない。
大丈夫、あの人は帰ってくる。
ただ、ひとつだけ。私には今もわからない。あの人がなぜ、この選択をしたのか。
ログを見る限り、どうやら私は二歳前に、最後の肉親である母を失ったらしい。以来、AIに育てられた私には、判断がつかなかった。
私が、ほかの人間について知っていることは、残されたログや動画のものだけだった。でもそこには、母親自身が残した彼女の映像などを除けば、演出された人格しかなくて、現実の参考にはならないだろうと、私には思えた。
私が触れ合った唯一の他人。それがあの人だった。名前は知らない。
あの人は名乗らなかったし、人間関係というものがどういうものか知らなかった私には、初対面の人間に名前を聞くという発想が無かった。
あれから、私も大人になっていった。
そして、あの人が眠っていた人工冬眠装置のログを読もうとしたけど、ロックが厳重で無理だった。なのに装置の胴体に大きく「二三三二年四月に蘇生のこと」と彫ってあるのが、何度見てもおかしい。
AIが、ある判断によって装置のプログラム(ログのだけは破れなかった)を数年がかりで変更して、あの人をこの時代に目覚めさせたとき、あの人が望んだ時代には、まだ三十年もあった。あの人は、たぶんもう年寄りと言っていい歳で、私はまだ七歳だった。
あの人は、ここが自分の望んだ時代じゃないとわかると、最初は怒りで肩を震わせていた。私はそれが何を意味するのか知らなかったけど、咄嗟に物陰に隠れた。でもそんなのはすぐに見つかってしまった。
でも、あの人は私の存在を認めると、それ以上に近寄っては来なかったので、私は心底ほっとしたのを覚えている。
あの人は、ここにいるのが私だけとわかると、母が必死に古代語に翻訳したログを熱心に読んだ。
そして、私が最後の人類とわかると、彼はあらためて私とコミュニケーションを試みた。
そして、俺はお前が孕める歳まで生きられないし、そんなつもりもない。治療手段がない時代に蘇生しても、自分の余命はせいぜい二ヶ月位で、スタッフもいなくては装置にも戻れないと言った。それから、あれ(AI)は、母親代わりかと言うから、ママだと答えた。
ママがあなたを起こしたと言うと、あの人は、言った。所詮機械だ。俺が異常者で人類のことなど考えず、お前を殺す可能性を考慮してない。まあ、俺が基礎コードを書いたのを今も使ってるんじゃ、相当前から文明は停滞してたんだなと笑って、私の頭を撫でた。
数日を私と過ごし、あの人は自ら望んで別の装置に横たわった。あの人によれば、ここは完全に閉じた循環系になっているのだそうだ。でもロスはあって、こうしなければ生命維持システムは、ほどなく破綻するだろうと言い残し、あの人はどうせ助からないのだからと、自ら循環系に飲み込まれた。
十二年後、私は母の希望に背き、あの人のクローンを宿した。クローンには問題が多く、最後の手段とログにあったけど、なぜだか私はそうしたかった。
それは、過去のログにある恋とか愛とかいうものではないような気がする。でもあの数日間で、私はあの人によって人間らしい感情というものを、本当にほんの微かではあると思うのだけれど、根付かされたのだとは感じていた。
その、感情と呼ばれるのだろうもので、私はそれを選んだ。
痛みの間隔が短くなる。
あと少しで、あの人が産まれてくる。
??分娩台の上で口述したらしいログは、そこで終わっている。
地下の施設で蘇生した俺は、横にある分娩台を見た。そこには、ログに記された年代が正しければ数十年分の埃に塗れたのであろう、骨だけになった骸がある。開いた足の間にもう一つ、小さな骨の塊がうずくまっていた。
三百年前、俺は女を殺した。そしてほどなく発覚し、当然、警察に追われた。
数週間後、ある町でもぐりのエンジニアに頼み込んで人工冬眠に入った。金はあった。女の金だ。そして、俺もエンジニアの端くれだった。設定年代は三百年後。それ以前に目覚めさせようとすれば、冬眠中の人間、つまり俺の生命維持が一瞬で損なわれ即死する、特殊なプログラムをほどこした。
もちろん、人工冬眠中の場所が見つかり、眠ったまま裁判にかけられ、最悪の場合、死刑になるかも知れない。だが俺は、女を殺してすぐには発覚しなかったから逃げただけで、この冬眠も、ゲームのようなものだった。
目覚めた俺の周囲には、人工冬眠装置を拘束されたような形跡も、眠ったまま逮捕起訴されたような痕跡もなかった。だが代わりに、人間もいない。ログを書いた女を狂人と決めつけながら、なぜか俺は、人類が滅んだことは信じた。
俺は小さな骨を、なるべく形を損ねないようにして、そっと両手ですくい取った。そして、母親だと思われる骸の胸に、静かに乗せてやった。しかしそれはすぐに介なく崩れ、形を失ってしまった。
俺は本当は、この骸から産まれたのではないかと一瞬考えたが、哀れな母親の妄想ログに惑わされるほど、精神のバランスは崩れていない。
他にすることもない。俺は、人類が消え去った大地を、最後に網膜に焼き付けるべく、外へ向かう。今さら、現在の大気の組成がどうなっているかなど、知ったことか。
まず、今いる部屋から出るために、最初の扉のロックを外す。
人差し指の先を、扉の脇にあるセンサーに押し当てると、そこからの微量な分泌物から瞬時に遺伝子情報が走査され、さらに瞳の虹彩、微量な電磁気による脳のニューロンネットワークの構造解析の三重ロックを解除した。
三百年が過ぎても正常に作動した一連の認証機械に、俺は人間に対するような敬意を覚えながら、部屋を出た。その時、背中で誰かがほくそ笑んだような気がした。
部屋を出ると、真っ直ぐで狭い階段があった。大小無数のパイプやダクトが壁や階段や天井を這っているのも三百年前と変わっていない。といっても、俺にとってそれはせいぜい昨日のことなのだが。
俺は確かにあの時、この地下まで目の前の階段を降りてきた。今度は、そこを逆に上がっていく。降り積もった埃が、階段を照らす碧く淡かな灯りに舞い、階段には三百年ぶりの足跡がついていく。次の扉までは三十段といったところだった。ここのロックは簡単なパスワードと、冬眠装置に隠してあった物理キーで開く。
それから俺は、何枚もの、様々な方式でロックされた金属製の分厚い扉を、一つ一つ手動で開けて、階層を上っていった。
どんなに厳重なロックでも、作った人間が開けることなど、造作も無い。
最後の扉が開いた。三百年ぶりの、だが俺にとっては明日である今日の、地上への扉だ。
数百年にわたり、静かに地球上空を周回していた巨大な人工衛星のエアロックが開き、最後の人類が吐き出された。
(完)
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オリジナルの新作短編小説。 | ||
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