フェイタルルーラー 第十八話・原罪の名
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一 ・ 原罪の名

 

 本隊がブラムへ発ってから二週間後の明け方、一羽の白鳩が仮邸宅の窓に舞い降りた。

 こつこつと窓の桟をつつく音にカミオは窓を開け、早朝の露風を室内へ取り込む。

 

 鳩の脚には蝋引き紙で包まれた手紙が括り付けられており、それが峡谷での戦況報告だと彼はすぐに気がついた。

 エルナ峡谷での戦勝が綴られている内容を確認し、彼はそれを埋み火の残る暖炉にくべた。明るく燃え上がる炎を一瞥すると立ち上がり、王城へ向かうために着替えた。身支度を整えると一振りの剣を棚から取り出し、携える。

 

 将軍からの手紙には、すぐには戻れず、偵察や処理のためブラムに駐留する旨があった。

 その程度はカミオにも予測はついていたが、この先独りで大公レナルドと対峙せねばならなくなるのは厄介でもあった。

 相手は後先考えずに殺人を犯し、それを微塵も省みない男だ。幾分あしらい易い相手ではあるが、それ相応の用心も必要だった。

 

「手始めに剣を取り戻すか。全く骨の折れる話だ」

 

 涼しい顔で居室を後にすると、カミオはその足で王城へ向かった。

 朝もやは一人歩く彼を包み込み、微かにその衣装を濡らす。庭園を抜け中庭を通り過ぎ中央回廊へ入ると、彼はそのまま三階にある判事室を訪れた。ここは大法廷を管轄する判事長の執務室であり、滅多な事では中に入れない。

 諜報員に内偵させた情報では判事の出勤は昼に近く、侍女が一人で早朝に掃除をしているとの事だった。

 扉を叩くとやはり判事はおらず、侍女が窓を開けて室内の掃除をしている最中だった。カミオの身なりに身分が高い貴族だと察した侍女は、彼を押し留めようとしたが、カミオは構わず足を踏み入れた。

 

「お待ち下さい! 判事様が不在時の入室は、どなたであろうとも禁じられております」

 

 侍女の言葉に耳を貸さず、彼は執務机横の木製棚に歩み寄った。白木の枠にガラスの蓋がはめられた棚には、丁寧に血を落とされた神器の剣と鞘が収められている。

 蓋には鍵が掛けられており、持ち出せる状態ではない。カミオは戸惑う侍女に振り返り、柔らかく微笑んだ。

 

「ご心配なく。判事殿には許可を頂いております。先日の痛ましい事件で凶器として使用された剣が、当家から盗まれた骨董品の可能性があると聞き及びました」

 

 カミオが指差す方向を見て、侍女は納得した表情をした。

 神器の剣は白い薄刃を有した細身の剣であり、戦で使用するような無骨な形状をしていない。刃渡りは小剣の倍ほどあるが、手荒に扱えば人を殺傷する前に刃が折れてしまいそうに見える。

 

「優美な剣ですのね。とても殺人の凶器とは思えませんわ」

「儀礼用に造られた物ですからね。こんな薄刃では人の命など奪えませんよ。念のために確認して、すぐ戻します」

 

 慣れた手つきで机の引き出しを開け、カミオは小さな鍵を取り出した。事前に内偵させておいた通りだと彼はほくそ笑んだが、侍女がその表情に気付く由もなかった。

 棚の鍵に適合するのを確かめ、彼は解錠しガラスの蓋を開く。汚さないよう布で剣を包み取り出すと、それと分からないように帯びている剣を抜き、隠し持った。

 侍女が窓を閉めるために目をそらしたのを見ると、手早く持参した剣を棚に収め、神器の剣は自らが帯びる。すり替えられた剣は、見た目にも神器の剣と遜色が無い。ただひとつ違うのは、柄に巻かれたなめし革が血を吸い込んでいない点だけだ。

 

「どうやら私が探していた物とは違うようです。お手を煩わせてしまい申し訳ありません。では私はこれで失礼します」

 

 剣が元に戻されているのを確認して、侍女は安堵した。

 カミオはそのまま部屋を出ようとしたが、ふと思い出したように彼女へ振り向いた。

 

「そうそう。判事殿は古い知人なのですが、個人的に誰かを立ち入らせたなどと知れたら、判事殿の御立場も悪くなるかも知れない。あなたも、この事は誰にも話してはいけませんよ。では失礼」

 

 彼はネリア銀貨を一枚彼女の手に握らせると、判事室から足早に立ち去った。

 侍女は呆然としていたが、我に返ると掃除を手早く終わらせ、慌しく姿を消した。

 

 神器の剣を手に入れ仮邸宅の執務室に戻ると、カミオは手ずから柄のなめし革をはずし、握りを新調する事にした。

 職人を呼んで交換させればよいのだろうが、大切な物であるが故に、見知らぬ者には触れさせたくなかったのだ。

 

 血を吸って硬くなった握りをはずした時、なめし革の下から小さな紙片が落ちた。

 蝋引き紙で保護されていたためか、中にある手紙は無事で、そこにはレニレウス王家の封蝋も見える。

 

 保護紙から手紙を引っ張り出すと、カミオは宛名だけを見て、机の引き出しを開けた。

 引き出しにそれを収めると、再び宛名書きを見つめ、引き出しを閉めて鍵を掛ける。

 

「あの男も……父親ではあったのか」

 

 カミオの呟きと共に『我が最愛の娘、ノアのために』と綴られた手紙は暗闇の中、ひっそりと眠りについた。

 

 

 

 軟禁されているエレナスの許にノアが訪れるのは、すでに数え切れない回数になっていた。

 エルナ峡谷攻略戦で本隊がブラムに駐屯している今、セレスはノアに保護されている。セレスは、エレナスに会う事を頑なに拒み、ノアがいつも一人で来ていた。

 

「あの子も、いろいろ複雑なんだと思うわ」

 

 彼女はそう言い、エレナスの知り得ない外界の話をした。

 それは季節の移ろいであったり、セレスやカミオの話であったり、王都の情勢であったりした。

 中でもエレナスの興味を惹いたのは、同盟国軍によるエルナ峡谷進軍の話だった。

 姉が再び前線に出ていると思うと、彼の心は穏やかではなかった。それでなくても、ブラムで味方の矢に倒れていた可能性もあるのだ。もし狙われていたのが姉なら、今回の峡谷攻略戦もかなりの危険を伴う。

 

「本隊が出発してから二週間以上経っているけど、そろそろ峡谷攻略戦は終わったんだろうか」

「そうね。カミオ様の許に伝令が届いていたようだから、そのうち戻って来ると思うわ。でも……」

 

 ふと言葉を切り、一瞬青ざめたノアの表情をエレナスは見逃さなかった。

 

「どうした? 何かあるのか? あるなら言ってくれ」

 

 鬼気迫るエレナスの表情に、ノアは根負けした。

 

「……参謀がネリア王と共に、制圧した峡谷の奥へ入って行ったとの情報なの。ユーグレオル様が何度も止めたようなのだけど、お二人は……」

 

 その言葉に、エレナスは勢いよく立ち上がった。蒼白な彼の表情を見て、ノアは激しく後悔した。

 

「ごめんなさい。心配させると思って、今まで言えなかった。峡谷攻略戦も、最初に言い出したのは参謀だそうなの。きっと何かお考えがあるのよ」

「……いいんだ。少し、独りにさせてくれないか。落ち着いて考えたいから……」

 

 椅子を立って顔を伏せるエレナスに、ノアは小さく答えて部屋を後にした。

 残されたエレナスは部屋の隅で机に向かうと、頭を抱えた。

 

「俺はどうしたらいいんだ……姉さん……」

 

 姉に対する不安と、また失うかも知れない恐怖がエレナスを支配する。

 だが檻に囚われている今、彼に出来る事は何もない。エレナスは姉に思いを馳せ、机に伏せたまま逡巡し続けた。

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二 ・ 託した思い

 

 机で思い悩むエレナスの耳に、何かの物音が届いた。

 枯れ木を踏むような足音が壁の外から聞こえて来る。高窓に寄り、彼はその正体を探ろうと耳を壁に当てた。

 

 人の顔がようやく通る程度の小さな窓にはガラスがはめ込まれておらず、鎧戸すら備え付けられていない。およそ窓と呼べる物ではなく、通風孔として機能させているのだろう。

 大人の身長よりも位置の高い窓を見上げ、エレナスは焦慮した。ここから出ようにも窓は高く小さく、そして武器すら手許には無い。

 思案していると不意に窓から顔が覗き、エレナスは驚いて後ずさった。そこに見えるのは白い髪に金色の目をした誰かだ。目を凝らしてみると、その人物は金色の瞳をエレナスへ向け、口を開いた。

 

「無事だったか、エレナス。……いや、無事とは言えないな。現にお前は今、こうして囚われている」

 

 蒼い衣装の男は金色の目を伏せ、ぽつりと呟いた。

 

「ソウ? どうしてここへ……」

 

 エレナスの問い掛けにソウは一瞬言葉を切った。つかの間の沈黙に、エレナスも何かを悟る。

 

「……北の森での、お前たちの戦いを見ていた。他に方法が無かったとはいえ、私には納得がいかなかった。そして『代行者』と成り果てながら、何も出来ない自分自身にも」

 

 代行者、という言葉にエレナスは驚いて彼を見た。

 黒森やダルダン領内で会った頃と、ソウの様子に変わりはない。神殿遺跡でクルゴスを相手に戦っているのを見た時、恐ろしいまでの威圧感があるとは思ったが、それでも彼は何ひとつ変わった訳ではない。

 そこにいるのは、エレナスがよく知る心根の優しい獣人族の男だ。何も訊こうとしないエレナスに、ソウは口を開いた。

 

「故郷を滅ぼし、代行者『狂』となった身内を、私はこの手で倒した。その瞬間『狂』は奴の体を離れ、私に憑いたのだ。私はもう人ではない。神の眷属と称される代行者になってまで、無力さを感じるとは……思っていなかった」

 

 代行者ですら無力であると言うなら、人には一体何が出来ると言うのだろう。

 ソウの言葉がエレナスに心を決めさせた。姉は山岳遺跡に向かっている。それはシェイルードとの決着をつけるために他ならない。

 

「ソウ。頼みがある。姉さんを助けるために、ここから出たい。……神器の剣を取りに行きたいんだ」

「リザルが最期に託した思いを否定する事になっても、戦うというのか」

「自分に出来る事をしたい。……護りたいんだ、姉さんを」

 

 エレナスの決意を聞き、ソウは承諾した。

 二人は夜まで待ち、離れの壁を壊してカミオの仮邸宅へ入る事にした。

 離れから脱走を企てれば、後見となっているカミオの顔に泥を塗る結果になる。そして何よりも、自ら罪を認めたと公言するに等しい行為でもあった。

 

「エレナス。ひとつだけ言っておく。人の多い場所に私は行けない。『狂』が暴走してしまえば、全てを殺し、破壊し尽くすまで収まらないからだ。だから仮邸宅には上空から忍び込む形にする」

 

 ソウの助言に彼は従った。

 元より単独で行動するつもりでもあったが、人知れず忍び込めるなら、ソウの力を借りる方が騒ぎを起こしにくい。王都を離れて峡谷へ行き着くまでは、慎重にならざるを得ないのだ。

 

 夜半を回り、辺りから人の気配が無くなった頃、彼らは行動に出た。天窓のある壁をソウが破壊し、エレナスの身を自由にする。

 法的に釈放された訳ではない仮初めの自由は、以前にも増してエレナスの立場を危うくするだろう。それでも彼は戦う道を選んだ。

 月明かりの下に現れたエレナスを抱え、ソウは風を呼んだ。渦巻く突風は二人を飲み込み、瞬く間に天へと舞い上がった。

 

 

 

 夜も更けた頃、ごうごうと鳴る暴風が仮邸宅の窓ガラスを叩き付けた。

 昼間には雲ひとつなく晴天だったというのに、響き渡る轟音は嵐の前兆のようにも聞こえる。

 

 二階の執務室で、カミオは独り手紙をしたためていた。書き終えるとそれを侍従に手渡し、彼はバルコニーのある隣室へ入った。

 風の鳴る音はこれまで聞いた事もないほど大きい。暴風雨が直撃すれば、バルコニーを覆うガラス製の扉が吹き飛ぶ可能性もある。

 

 がたがたと鳴り響くガラス扉は、嵐の訪れが近い事を知らせている。

 念のために鎧戸を下ろそうとバルコニーに寄ったカミオは、窓の外に驚くべきものを見た。

 

 叩き付ける風が二つの人影をはためかせ、彼の方に近付いてくる。

 程なく影たちは開け放たれたバルコニーにその姿を現した。一人は白い髪に白い尾を持ち、異国の蒼い装束を纏った獣人族の男。そしてもう一人は――離れにいるはずのエレナスだ。

 荒れ狂う暴風がやみ、二人はカミオの姿を見ると静かに歩み寄った。

 

「……何故君がここにいる? あの離れを抜け出すという意味が、君には分かっているのか」

 

 エレナスが口を開くよりも先に、カミオは暗い表情で呟いた。

 

「君が王都を出れば、必ず大公が食いついてくるだろう。今までよりも強引に極刑を推進するはずだ。再び囚われれば私でも庇い切れん。それでも行くというのか、姉の許に」

 

 何もかも見通しているカミオに、エレナスは静かに頷いた。

 

「俺は行きます。ここへは御挨拶に伺いました。それと……剣を貸して頂きたいのです」

 

 その言葉にため息をつくと、カミオは隣室へ戻った。再び二人の前へ現れた彼の手にあるのは、紛れもない神器の剣だ。

 手渡された剣を鞘から抜き放ってみると、血にまみれて赤黒い脂を浮かべていた刃は研ぎ澄まされ、柄は新調されている。

 

「必ず生きて戻って来い。私から言えるのは、それだけだ」

 

 カミオが指差す方向には、いつの間にか壮年の男がいた。ノアと同じ濃紺の衣装に身を包んでいる姿を見ると、諜報員の一人なのかも知れない。

 

「あれが王都を出るまで案内をする。抜け道に長けているから、すぐ出られるはずだ」

 

 礼を述べ、すぐにでも行こうとするエレナスをソウが呼び止めた。

 振り返るエレナスの目に映るソウは沈んだ面持ちを向けている。

 

「エレナス。気をつけろ。……クルゴスの気配がする。奴の持っている銀盤は、刃だろうと術だろうと跳ね返す代物だ。普通にやりあっても勝てる見込みは無い。覚えておいてくれ」

 

 ソウの忠告にエレナスは頷き身を翻すと、案内役と共に彼は仮邸宅を去った。

 その背を見送るとカミオは再び深いため息をつき、ぼそりと呟いた。

 

「全く。仕方の無い奴だな。これまでの計画が全て台無しだ。立て直さねばならん」

 

 呆れ帰るカミオを尻目に、ソウはバルコニーへ向かった。風を呼ぼうとすると背後から声を掛けられ、彼はゆっくりと振り向いた。

 

「ところで、あなたは代行者なのか。先ほど銀盤の話をしていたが、あれは今どこにあるのかね」

 

 やんわりと話しながらも鋭い眼光を放つカミオを、ソウはちらりと一瞥した。

 

「あれは他の代行者が持っている。一度奴を倒したが、銀盤をどこかに隠していたのか、見つけられなかった。今でもそいつが持っているはずだ」

 

 その言葉にカミオは相槌をった。

 

「そうか。あの銀盤は変わった特性を持っているのだ。黒い布に包まれていると、所持者以外は銀盤を見つけ出せなくなる。恐らくその代行者は、それを知った上で隠し持っているのだろう。面倒な話だ」

 

 カミオの話を最後まで聞くでもなく、ソウは掻き消えるように姿を消していた。

 叩き付ける暴風はいつしか鳴りを潜め、開け放たれたバルコニーに吹き込む夜風だけがカーテンを揺らした。

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三 ・ 妄執の闇

 

 崩れ落ちた瓦礫の中を進む、二つの影があった。

 彼らは崩落しかかったエルナ峡谷の北側をひたすら目指した。そこに何があるのか知る者は少ない。ただダルダン人は昔から、その頂上に寂れた遺跡がある事を知っていた。

 巨大な岩をくり抜いて造られたその巌城を、彼らは夜叫城と呼び恐れた。奇怪な鳥が昼夜問わずに啼き叫ぶ声は、大の男ですら震え上がらせたからだ。

 

 エルナ峡谷を陥落させた後、本隊は全軍ブラムへ帰投した。

 斥候を放ち、敵の様子を探りながら遺体の回収や埋葬などを行ったが、敵影はおろか、その正体すら杳として知れなかった。

 

 峡谷制圧から五日後、シェイローエは峡谷を抜け、山岳遺跡を目指す事を決めた。

 参謀が本隊から離れる訳にはいかず、峡谷奥と山岳遺跡の調査と銘打ち、彼女はユーグレオル将軍に申し出た。

 将軍は渋ったが、責任の所在を幾度も話し、ようやく承認を得る事が出来た。

 

 シェイローエが出発する朝、彼女の居室をフラスニエルが訪れた。

 青ざめた表情は彼女の身を憂い、案じているからなのだろう。

 

「どうしても行かれるのですか」

 

 身支度を終えて立ち上がったシェイローエに、彼は声を掛けた。

 荷もそれほど多いとは言えず、フラスニエルは不安を覚えた。驚くほど軽装で、明らかに復路を考慮していない。死地に赴くつもりなのか、他に理由があるのかは分からないが、このような状態で一人行かせるなど、彼には出来なかった。

 

「……どうしても行かれると言うなら、私も行きます。あなたを一人で行かせるなど、出来ない」

 

 決死の表情で見つめるフラスニエルに、シェイローエは何も言わなかった。

 もはや止める事も、戻る事も出来ない。山岳遺跡へ踏み込むのは彼女の悲願であり、使命と捉えているからだ。

 

「フラスニエル様。王であるあなたが、本隊を離れるなど、もってのほかです。わたしはわたしの使命を果たさねばなりません。どうか、思い留まって下さい」

 

 シェイローエの言葉にも、フラスニエルは静かに首を振った。

 

「危険なら尚更、私も行く。現在、本隊の指揮権は将軍にある。それに……私の身に何かあったとしても、ローゼルやセレスがいる。私が王としてそぐわないのは、よく理解しています。それでも、あなたと共にありたい」

 

 フラスニエルのゆるぎない思いに、シェイローエは俯き、密かに涙を拭った。

 彼女は分かりました、とだけ呟き、フラスニエルは荷物をまとめ王器の弓を携えると、彼女の後を追うように王都ブラムを出発した。

 

 

 

 ネリアの王都ガレリオンを出たエレナスは、案内役の男に教えられた林道をひたすら北へ進んだ。

 今のところは追っ手も無く、男が用意してくれた食糧や備品などで凌げている。何故ここまでしてくれるのかエレナスは訊いたが、彼は何も答えなかった。ただ、必ず生きて戻るようにとだけ言われ、エレナスはその言葉を心に刻み込んだ。

 

 昼となく夜となく走り続け山の麓を越えると、そこは砂礫が吹き荒れるダルダンの地だった。

 遥か地平の向こうには土埃に霞む王都ブラムが見え、蜃気楼のような光景にエレナスは目を細めた。その更に北には、目指すエルナ峡谷、そして姉が向かっている山岳遺跡があるはずだ。

 

 ガレリオンからの追っ手や、脱走を伝える早馬があるかも知れない今、ブラムに立ち寄るのは危険だと彼は判断した。

 幸いな事に携行食糧は乾燥した肉や果物が多めにあり、水はベリル山脈に流れる湧水で賄えた。

 

 王都ブラムを目視出来る位置に据えながら、エレナスは慎重に北上した。

 人間よりも鋭い感覚が頼りになる事はこれまで何度もあったが、今ほど必要とした日はなかっただろう。遠目に警備兵が見え、彼らはひっきりなしに城塞の外を警戒していた。恐らくエレナスが脱走した一報を、ガレリオンから受けたのだろう。

 

 彼らに勘付かれないよう、エレナスは数日を掛けてブラムを迂回し、エルナ峡谷へと向かった。道中は変わった事もなく、彼の旅は順調に見えた。

 峡谷を目前にし、エレナスは仮眠を取る事にした。辺りには何も無い荒野が広がり、月明かりも見えない暗闇の中、エレナスは潅木の下へと腰を下ろす。

 これだけ暗ければ人間はまず追って来れない。峡谷に入った時の事を考え、エレナスは睡眠を取るために目を閉じた。

 

 夜の闇が眠りをいざない、うとうととし始めた頃、不意に何かの足音が聞こえてエレナスは目を覚ました。

 暗がりの中、何かが近付いて来ている。子供くらいの大きさしかないそれは、杖をつきながらぼろ布を引きずり彼の前へ現れた。

 

「許さぬ……。許さぬ……」

 

 うわ言のように呪詛を呟きながら、老人はエレナスへ向かって歩み寄る。その左腕に輝く銀盤を認め、彼は剣を抜いて飛び退った。

 

「神器の剣を持つ者よ。わしは、お前を許さぬ。我らが目論みを潰し、リザル様をその手に掛けるなど……許しがたい」

「貴様は……クルゴスか!」

 

 青白い光を放つ刃を見つめながら、クルゴスは不気味に笑った。

 

「リザル様は……あのお方は、わしにとっては大切な方だった。あの方の肉体に神の魂が息づき、この大陸を掌中に収めるのなら……わしはあの方を我が王とし、供奉するつもりだった」

 

 憎悪の炎を灯す骸骨の眼窩は、エレナスの姿を映し出し激しく燃え盛った。

 

「有限生命のくせに、お前がわしの主を奪ったのだ! 再びヤドリギの術具を作るにしても、儀式に膨大な時間を要する。そしてもう、リザル様はこの世にはおられない。……お前のせいで、何もかもが台無しになった!」

 

 爛々と燃える瞳をたぎらせ、クルゴスはエレナスに詰め寄った。

 柄をぎりぎりと握り締め、顔を伏せるエレナスの青白い手は、微かに震えていた。

 

「……何が王だ。何が主だ。あんたは元々、リザルの家臣だったんだろう? 臣下である事を辞めて、人の尊厳すら捨てて、そうやってあんたが追い詰めたんじゃないか。そんな奴が、リザルを語るのはやめてくれ!」

 

 怒りに震えるエレナスの声は、静かな闇夜を打った。

 心を落ち着かせるように拳を強く握り、顔を上げてエレナスはクルゴスを睨み付けた。

 

「それが何だと言うのだ小僧。人はな、誰もが高みを目指して、熾烈な生存競争を繰り広げるもの。……役にも立たぬモノなら、主であろうが何であろうが、すげ替えていけば良い!」

「黙れ!」

 

 大気を震わせ、腹の底から嗤うクルゴスに怒り、エレナスは地を蹴り斬り掛かった。

 体躯に似合わずふわりと避ける骸骨を睨み、彼は剣の柄をぎしりと握る。

 

「わしの言葉が気に障ったか? それとも侮辱だと感じたか。ならばわしを斃してみせるがよいわ。お前にそれが、やれるものならな」

 

 楽しげに燃える双眸が、エレナスの青い瞳に映り込む。

 青白い刃はエレナスの静かな怒りを内に秘め、宵闇の中で強い輝きを放った。

 

 次の刹那、エレナスは剣を手にクルゴスとの距離を詰めた。

 ソウが言っていたように、クルゴスが銀盤を持っているのだとしたら、無闇に斬り掛かっては反射される恐れがある。それでもエレナスは、リザルに対する侮辱を許す事が出来なかった。

 

「どんなに大切なものも、その手を放したら終わりなんだ! お前にとってリザルは大切だったんじゃない。自分自身を投げ打つほどに、お前は自分だけが大切だったんだ!」

 

 輝く弧を描いて振り下ろされた刃は、鈍い金属音と共にその剣撃をエレナス自身に跳ね返した。

 忠告を聞いていなければ、今頃真っ二つになっていたかも知れない。反射を避けた時に崩れた体勢を立て直し、エレナスは再び剣を握り締めて、クルゴスへ向かった。

 

「何度やろうと、お前はわしには勝てん。たかがヒトの分際で! このわしに盾突いた事、後悔させてくれる!」

 

 クルゴスは邪悪な笑みを湛え、両腕に抱えていた銀盤を高く掲げた。その動作に隙は無く、反射角を考慮しても斬りつけられる位置が見当たらない。

 エレナスは思案し、懐から術符を何枚も取り出した。古代語を呟くと小さな炎を呼び出し、クルゴスへ奔らせる。

 揺らめく火球は暗闇を赤く染め、怒りに燃えるエレナスと、不気味に嗤うクルゴスの表情をつぶさに映し出した。

 

「術など効かぬわ、痴れ者が。我が銀盤は全ての刃、全ての術を反射する王器。お前などに勝てる道理は無い!」

 

 火球を軽く受け流し、クルゴスは大声で笑った。

 骸骨の嘲笑を意に介さず、エレナスは次々に火球を作り出した。その数は次第に増え、ざっと見ただけでも十以上はあった。

 

「数だけ増やしたところで、反射し切れない訳ではないぞ、小僧。嘘だと思うなら、やってみるがいい」

 

 煽り立てるクルゴスの言葉には耳も貸さず、エレナスは火球を次々に骸骨の顔へ撃ち込んだ。

 その度に詠唱を繰り返して火球を補充し、周囲にぼんやり浮かぶ炎が、狐火のようにエレナスの顔を照らした。

 圧倒的不利の中、諦めようとすらしないエレナスに、ついにクルゴスは痺れを切らした。

 

「何をやっても無駄だ! つまらぬ。そのような下らぬ戦法しか執れぬなら、さっさと死ぬがいい!」

 

 苛立ちをむき出しにして、クルゴスは自らの眼前に術を展開した。

 詠唱も、触媒すら必要としない代行者の放つ術は、人にとっては甚だ強大であるとしか形容しがたい。荒野の只中で荒れ狂う風の刃は空を裂き、輝く銀盤に反射されて、その全てがエレナスへと襲い掛かる。

 

 銀盤が術を反射する瞬間を、エレナスは見逃さなかった。

 自らの火球を全てクルゴスへ叩き付けると、剣を握り締めそのまま突進をした。意図の見えないその挙動に、クルゴスはエレナスが自暴自棄になったのだと判断し、ほくそ笑んだ。

 反射で仕留めようとエレナスへ銀盤を向けたその一瞬、古代語の詠唱を口にしながら走る彼の姿が、突如火球の陰に消え失せた。

 

 目標を見失い慌てたクルゴスは、すぐ横に何かの気配を感じて飛び退こうとした。

 振り向く瞬間、見えざる手が伸び、銀盤の向きが捻じ曲げられた。反射がクルゴス自身に向かい、真空の刃が彼を直撃する。

 

「ぐうっ……小僧! どこへ行った!」

 

 自らの術に切り刻まれ、ぼろ布のような風体を曝しながら、クルゴスは必死に周囲を見回した。

 彼はまだ気付いていなかった。銀盤の向きが急に変わったのも、手を滑らせたからだと思い込んでいたのだ。

 ようやくそれが、『隠匿』の術によって姿を隠したエレナスの仕業だと思い当たった頃には、すでに遅かった。

 

「……俺ではお前を斃せない。だが神器の剣がお前を眠らせる。永遠に昏い泥の中を、独り這いずり回るがいい!」

 

 背後から響く声に、クルゴスは振り向いた。

 そこには姿を現したエレナスがいる。両手に握られた輝く剣はクルゴスの骨ばった左胸を貫き、彼はもんどりうって大地へ倒れ込んだ。

 

「このわしを……よくも、よくも……」

 

 呪詛にも似たうめきを上げながら、クルゴスは立ち尽くすエレナスを睨み付けた。

 

「だがもう遅いわ。お前を足止めするわしの役目は終わった。お前は、その手を放した大切なものを護り切れるのか?」

 

 喉の奥から高らかに嗤うクルゴスの声は、不気味な鳥のように天に木霊した。だがそれも次第に小さくなっていき、終いには老いさらばえて、乾いた骨だけの屍となった。荒野に吹く風が骨を打ち砕き、クルゴスだったものは堆い骨の山となり果てた。

 剣を握り締めたままのエレナスは、言葉も無くただじっと骨が崩れていく様を見届けた。

 砕けた骨が突風にあおられ吹きすさぶと、彼は踵を返してエルナ峡谷へと向かった。

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四 ・ 異界の門

 

 エレナスがクルゴスと対峙している頃、シェイローエとフラスニエルは峡谷の最深部へ到達した。

 左右にそびえる絶壁が開けると、最奥はぐるりと岩壁に囲まれた突き当たりになっている。見上げれば天空には茜が差し、夜が近い事を知らせていた。

 

「そろそろ日が落ちそうですね。夜明けまでここで休みましょう」

 

 安全そうな岩場の陰を見つけ、シェイローエは微笑んだ。

 普段とあまり変わりないようにも見えるが、フラスニエルにはその笑みが、ひどく陰惨な影を落としているように感じられた。

 たとえシェイローエに何が起こったとしても、必ず護ると彼は自らの心に誓った。だが彼女は未だその本心を隠しているようにも思え、フラスニエルは不安を拭いきれなかった。

 

 岩陰で身を寄せ合うように息を潜めていると、不意に彼らの視界を何かが横切った。辺りを窺うために顔を覗かせてみれば、突き当たりの景色が何故か歪んでいる。

 まるで空間に亀裂が走っているかのような門と思しきそれは、黒い影を飲み込んでは吐き出していた。

 驚いて息を呑んだフラスニエルの背後から、シェイローエもちらりと外を覗いた。フラスニエルと同じように黒い亀裂を見て、彼女は鋭く囁いた。

 

「……あれは『異界の門』! 何故こんな場所に……」

 

 彼女の言う異界の門とやらが、フラスニエルには分からなかった。ただ、うろついている生物が、先日の戦で殲滅した敵と同じような造形をしている事に彼は気がついた。

 既存の生物を掛け合わせたような不気味な頭や足。それらは一体何を指し示しているのか。

 

「あの黒い亀裂の正体をご存知なのですか? 先程から不気味な生物が出入りしているように見えますが」

 

 フラスニエルの疑問にシェイローエは一瞬口をつぐんだが、観念したように少しずつ話し始めた。

 

「……あの裂け目は、古代文献の中に書かれている『異界の門』と呼ばれる時空の歪みだと思います。神が人や生物を創る前に、実験で創り出したとされる者たちを閉じ込める牢獄だと、書物には記載されていました」

「ではあれらは、我々が生み出される前の失敗作だと……。では神とは一体……」

 

 その言葉には首を振り、シェイローエは何も言わなかった。

 黒の門から溢れ出る異形たちは次第にその数を増していき、いずれは二人とも見つかってしまうだろうと彼女は思った。

 

「ですが、このまま異形たちを放っておく訳にもいきません。ここで『異界の門』ごと葬り去ってしまわねば、またダルダンの地は蹂躙されるでしょう。先日の攻略戦で奪われた命が……浮かばれません」

「あれを殲滅するとおっしゃるのですか。しかし、我々で出来るでしょうか」

 

 フラスニエルの不安も無理はなかった。

 異形たちの数は膨れ上がり、すでに辺り一面に広がっている。その数はざっと見積もっても数十体だ。

 

「わたしの術で倒します。フラスニエル様のお力添えがあれば、何とかなるはずです」

 

 フラスニエルに重ねられるシェイローエの手に温もりを感じ、彼は愛しい人の顔を見た。その表情は諦めた訳でもなく、自暴自棄になっている訳でもない。確固とした自信がそこにはあった。

 

「ネリアに伝わる王器は、その姿を主の望むままに変化させたと聞きます。ですから今一度、願いたいのです。真実の姿――杖の降誕を」

 

 シェイローエの真摯な瞳に、フラスニエルは頷いた。

 いずれにしてもこのままでは、二人とも生きては帰れない。それならば、彼女の言う王器の杖に賭けるしかないと彼は思った。

 

 王器の弓を納めていた鹿革の袋から引っ張り出すと、彼は弓の胴を握り締めた。

 その手にシェイローエは自らの右手を重ね、静かに呟いた。

 

「遥かなる刻を長らえた王権の証、王の杖よ。その真なる姿の顕現を王器の主が願います。術者の依り代となり、代行者にも劣らない力を振るう者。どうか我々に加護を!」

 

 二人の願いに呼応するかのように、王器の弓は静かな輝きを放った。

 次の瞬間、彼らの前には人の背丈よりも長い黒鉄の杖が現れた。その黒い柄には真鍮の蛇が巻きつき、天頂に向かって鎌首をもたげている。

 その優美な造形に、二人はしばしの間見惚れた。その間にも異形は滾々と湧き出し続け、いつしか彼らは異形たちに囲まれる形になっていた。

 

「フラスニエル様。わたしの手を離さないで下さい。今から術の詠唱に入ります。杖がわたしの術力を、増幅してくれるはずです」

 

 杖に手を置くシェイローエの上に、フラスニエルは自らの手を重ねて握り締めた。

 シェイローエは静かに古代語を紡ぎながら、杖へ精神を集中させた。体内を駆け巡る術力が杖へ流れ込み、それが人では練り上げられないほどの爆発力を生み出す。

 猛り狂う巨大な嵐が天空を切り裂き、辺り一面を薙ぎ払いながら大地を打った。竜巻が撒き散らす豪雨は鋭い刃となり、異形たちを屠り倒す。

 轟音と共に砕け散る岩と砂礫。めりめりと音を立てて飛び散る肉塊は周囲の岩に生々しくへばりつき、二人は必死に正気を保たせながら詠唱を続けた。

 

 やがて詠唱がやみ、彼らは静かに目を開いた。眼前には打ち壊された岩山と、折り重なる屍体とが積み上がり、生きている者は何もない。『異界の門』があった裂け目は跡形もなく消え失せ、そこには一人の男が立っているのが見えた。

 もうもうと立ち込める霧の中、男が近付いて来るのが二人の目に映る。体を強張らせ、彼らは杖を握り締めた。再び詠唱に入ろうとした瞬間、男が立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。

 

「ようやく来たね。待っていたよ」

 

 白く霞む霧の中から姿を見せたのは、黒の軍服を纏ったマルファスだった。

 まるで『異界の門』から現れたかのような状況に、シェイローエとフラスニエルは一瞬身を固くした。

 

「そんなに怖がる事はない。あの門は、神の遺した遺産のようなものだ。あまりに不安定で出現と消失を繰り返してはいるが、何千年もの時の中で、異形と呼ばれる者たちは確実に数を減らしている。いずれは門ともども完全に消えて無くなる存在だ」

「マルファス……あなたは一体どこから現れたのです? まさか、あの門を通って来たのですか」

 

 シェイローエの疑問に、マルファスは静かに頷いた。

 

「門は現在、代行者がそれぞれの裁量で使用している。代行者がいきなり現れたり、どこからともなく異形を召喚するのは、そういった遺物を利用しているからだよ」

 

 それを聞いて彼女は多少納得したようだった。

 シェイルードが影の中へ潜むのは、恐らく『異界の門』を利用しているからなのだろう。時間と空間を超越して、思い通りの場所へ移動する。代行者が、人とは一線を画した存在なのは確かだ。

 

「では先ほどの亀裂は、すでに消失したと思って良いのですか? 門の影響で、相当数の戦死者が出ました。なるべく、あのような惨事は避けたいのです」

「この一帯にある『異界の門』は僕が消滅させた。しばらくは亀裂も現れないはずだ。……ところで、フラスニエル。キミはどうしてここへ来た」

 

 マルファスがスミレ色の双眸を向けると、フラスニエルは押し黙り俯いた。

 

「シェイローエの手助けをしたいと思っているなら、それは無理だ。彼女には大切な役目がある。それは何人であろうと、覆す事の出来ないものだ。たとえ、この僕でも」

 

 お前では役に立たないと言われている気がして、フラスニエルはマルファスを睨み付けた。

 その視線を気にも留めず、マルファスは再びシェイローエへ向き直った。

 

「覚悟は出来ているんだね。ならば行こう。シェイルードの居城、夜叫城まではもう少しで到着する」

 

 そう言うと、マルファスは懐から術符を取り出した。古代語の呟きと共に、それは小さなカラスの姿となり、舞い上がると南の空へ羽ばたいて消えた。

 訝しがる二人を尻目に、彼は微笑みながら振り向いた。

 

「後から来る者には、案内役をつけないとね。キミたちは、僕が案内しよう」

 

 すでに東の空には夜のとばりが降り、弓張り月がその顔を覗かせた。

 三人は大カラスに乗ると、ふわりと青白い天空へと舞い上がってやがて消えていった。

-5ページ-

五 ・ 勝者と敗者

 

 甦った代行者クルゴスを眠りにつかせ、エレナスは必死に姉の後を追った。

 クルゴスが時間を稼いでいるのだと気付いた時、エレナスは自らの浅はかさを呪った。

 早く追いつかなければ、今この時にも姉の身に危険が迫っているかも知れない。間に合わずに姉を失う事を、エレナスはひどく恐れた。

 

 北へ向かって走り続けているさなか、突如頭上から鳥の声が聞こえた気がした。目線だけを上に向けると、そこには一羽のカラスがいる。

 カラスはエレナスの頭上を旋回すると、まるで案内でもするかのように北の空へ飛び去った。

 

「姉さん……無事でいてくれ」

 

 カラスが飛び去った北の空を仰ぎ、エレナスは息が切れるのも構わず走り続けた。

 峡谷を抜け、断崖の果てまで辿り着くと、彼は壁のような大岩を登り始めた。手が擦り切れ、幾度と無く足を踏み外しても、エレナスはひたすら遺跡を目指してカラスを追った。

 

 

 

 シェイローエとフラスニエルが案内されて着いた先は、巨大な岩をくり抜いて造られた遺跡だった。

 天を衝く巨城は雲の合間に隠れ、見上げるだけでも圧倒される。この内部に斃さなければならない相手がいるのだと思うと、シェイローエの肩は震えた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 そっと気遣ってくれるフラスニエルに、彼女は小さく、はいとだけ答えた。

 彼は何も知らない。シェイローエがこの地で命を落とす運命にある事も、彼女が元からそのつもりである事も、何もかもだ。

 愛した人を最悪の形で裏切ろうとしている状況に、シェイローエの心は痛んだ。優しげなスミレ色の瞳を直視する事も出来ずに、彼女は目をそらした。

 

「問題ありません。それよりも先を急ぎましょう」

 

 二人を尻目に先を行くマルファスを見やり、シェイローエは呟いた。

 懐にある短剣を握り締め、彼女は心を落ち着かせるように小さく息を吐く。そうでもしなければ、頭上から押し潰してくる圧迫感に耐えられなかったのだ。

 

 巨大な石扉を押し開き、彼らは山岳遺跡内部へ歩を進めた。

 黒曜石の板が敷き詰められた黒い廊下は足音を反射し、窓から覗く月明かりはきらきらと影を落とす。三人はそのまま廊下を抜けると、その先にあるホールへと入った。

 ホールの天井を見上げれば円形のドームは半ば崩れ落ち、明かり取りからは星々が瞬いている。

 マルファスが右手を挙げると、ドーム内にある全ての松明に炎が灯った。明るくなった室内を見渡し、フラスニエルは奥にある何かに目を留めた。

 

「何だ……あの玉座は」

 

 彼は中央奥に見える玉座を凝視した。

 そちらへ目をやったシェイローエにも、フラスニエルの疑問はすぐに理解が出来た。

 何故なら玉座のすぐ背後には――底の見えない深い奈落が、ぽっかりと口を開けていたからだ。その面積は、ホールの三分の一を優に占めている。天井の隙間から流れ込む夜風はごうごうと奈落へ流れ込み、ひどく耳障りな音を立てた。

 

「この遺跡の歴史は古い。あちこちで崩落を起こしているのかも知れません。慎重に行きましょう」

 

 短剣を抜き放つシェイローエに倣い、フラスニエルも王器の弓を携えた。

 王器は主の手に戻ると、その形状を見慣れた姿へ変化させた。丁寧に弦を張り矢をつがえると、黒鉄の胴は艶やかな輝きを放った。

 

「いるんだろう? 出て来るがいい」

 

 マルファスが玉座に向かって声を掛けると、今まで何もなかったそこに、どす黒い霧が渦を巻いた。

 やがてそれは徐々に人の形を模っていく。白銀の王冠を戴き、長い黒髪を引きずる男の姿は、どろどろとした這いずる影を思わせる。その造形は、命あるものなら誰しもが震え上がる不気味さを醸し出した。

 

「うるさい奴だ。余興でも始めようというのか」

 

 玉座にこびり付く影はそう言い放った。

 見ればブラムで会った時よりも、多少弱っているようにも感じられる。シェイローエはこれが最初で最後の好機であると踏んだ。

 彼女は前に出ると短剣を握り締め、ゆっくりと玉座へ歩み寄った。

 

「シェイルード。お前との決着をつけに来た。一族の名にかけて、お前を放っておく訳にはいかない」

 

 彼女の顔には憂いも悲しみも、感情すら無いとフラスニエルは思った。

 替われるものなら替わりたい。だがシェイローエはそれを許さないだろう。双子の弟と対峙するために彼女はここまで来た。それさえ終われば、何も背負う物も無い普通の女として、自分のところへ戻ってくれる。

 ――次の瞬間まで、フラスニエルはそう思い、疑ってすらいなかった。

 

 シェイローエの囁くような詠唱と共に、突如輝く壁が出現し、フラスニエルは戸惑った。

 彼をぐるりと取り囲むように展開された壁は、ちりちりと焼け付く音を立て、彼女に近付く事すら拒む。

 

「フラスニエル様。その障壁の内側なら安全ですから。どうかそこにいて下さい」

 

 彼は驚き、障壁を破ろうと右手を振り上げる。それを制止したのは、傍らの瓦礫に腰掛けているマルファスだった。

 

「やめるんだ。その障壁に触れようものなら腕が飛ぶ。彼女を愛していると言うのなら……彼女の覚悟を最期まで見届けるべきだ」

「あなたには関係ない! 私はあの人を護ると約束した。だから……」

「シェイローエは、自らの意思で歩むべき道を選んだ。数十年前、初めて彼女に会った時……双子の弟を止めるという道を選択したんだ。僕もキミも、彼女に対して何も言う権利などないんだよ」

 

 マルファスの乾いた瞳は、対峙する双子の姉弟を見つめていた。

 

「でもね、人は頭で理解出来ていても、感情によってひどく心を揺さぶられる。彼女も恐らく、何度も夢見て悩んだはずだ。双子の弟など忘れて、愛する男と共に生きる未来を」

 

 瓦礫に座しながら、マルファスは視線をフラスニエルへ移した。

 

「あの男はシェイローエの手でしか消滅させられない。キミも王であるなら、選ぶべきだ。大陸に生きる全ての命と、愛する女の命……どちらかひとつを。簡単に選べるものなら、誰も苦労はしないけどね」

 

 うなだれ膝を折るフラスニエルに、マルファスは言葉を掛けなかった。

 

「彼女がしたように、私も選択しなければならないと、そうおっしゃるのですか。私は彼女と一緒にいたかった。だから共にここまで来たのです。それでもやはり、最後は……」

 

 最後は自分を選んで欲しかった。そう言いかけ、彼は口をつぐんだ。

 崩れ落ちるフラスニエルには目を向けず、マルファスは子供を宥めるように呟いた。

 

「彼女の心はキミにある。そのために、この術式は失敗すると僕は思っている。体だけくれてやっても、恐らく消滅しないだろう。……そういう意味では、キミは勝者なんだよフラスニエル」

 

 フラスニエルが顔を上げると、双子の弟の前に歩み出たシェイローエは、聞き覚えの無い古代語を紡いでいた。

 一瞬マルファスの顔が険しくなり目線の先を見ると、玉座を離れて、無防備な彼女に近付くシェイルードの姿があった。

 彼はそのまま手を伸ばし、シェイローエの肩を掴む。

 

「やめろ!」

 

 フラスニエルが叫ぶのと同時に、輝く剣の軌跡が見えた気がした。

 青白い一閃が弧を描き、シェイローエの肩を掴んだ右腕がごとりと床に落ちるのが見えた。

 シェイルードは怪訝そうな顔で剣の切っ先を眺めると、その表情は次第に怒りの色をなしていく。

 腕を落とした使い手を睨むと、そこにいたのは神器の剣を下げたエレナスだ。走り続けたのか息は上がり、激しく肩を上下させている。だがその顔は戦意を失うどころか、青い瞳をぎらぎらと輝かせていた。

 

「……姉さんから離れろ」

 

 跪いて詠唱を続けるシェイローエを護るように、エレナスは二人の間に割って入った。

 剣を構えて対峙すると、シェイルードは嘲るように笑い掛けた。

 

「今更何の用だ? お前の出る幕など無い。姉上は私を選び、ここへ来たのだ。この意味が解るか?」

「ああ、解るさ。姉さんはお前を止めようとしていた。だからこの場を戦場として選び、お前を消滅させようとしている」

 

 にじり寄るエレナスには目もくれず、ふと思い出したようにシェイルードは口を開いた。

 

「そういえば、あれはどうした。深淵を宿した男の気配が消え失せてしまったようだが。ヒトとはいえ神懸りの者を斃すとは、腐っても神器といったところか」

 

 シェイルードの言葉は、鋭い切っ先のようにエレナスの胸を抉った。

 声も上げられずただ唇を噛み締め、彼は神器の剣を握り締める。

 

「お前を斃す。そうじゃないと……失われた命が無駄になってしまう」

「何とも甘い奴だ。生まれ、死んでいく命に意味があるとでも思っているのか。生命が織り成す仕組みは、世界に属する歯車のひとつに過ぎない」

「戯言を!」

 

 右手が落ちたままのシェイルードにエレナスは斬り掛かった。

 風のように身を翻す捉えどころのない相手に、彼は苛立ちを募らせた。

 

「いずれ命は死に絶える。そして神々と代行者だけが残されるだろう。誰もいない死の世界に君臨する支配者。これほど滑稽なものもあるまい。望むものを得られなければ、存在する意味すら無い。お前はそう思わないのか?」

 

 残された左手に大鎌を握り、シェイルードは楽しげに笑った。

 

「さあ、私を斃すと言うのなら、掛かって来るがいい。どうせお前には、何も出来はしない」

 

 振り下ろされる大鎌の一撃を避け、エレナスは相手の死角へ回り込もうとした。

 だがシェイルードはまるで行動を予測しているかのように、エレナスの一歩先を行く。

 床を砕く大鎌の切っ先は土埃を上げ、どれだけ視界を奪われようとも、その攻撃は恐ろしいまでに正確で、たちまちエレナスの姿を捉えた。

 

「あれが王冠の力。本当に厄介な代物だ」

 

 瓦礫に座したままのマルファスは、ふとそう呟いた。

 

「相対する者の思考を読み、所有者へつぶさに伝える。何を考えていても全て伝わってしまうのだから、並の者なら勝ち目など無い」

 

 その言葉はエレナスにも聞こえたのか、彼は次の行動を考えあぐねた。

 どうしたら良いのか。何か方法があるのか。立ち回りも、剣の軌道すら見破られ、エレナスは徐々に追い詰められつつあった。

 正確無比な切っ先はエレナスの皮膚を幾度も切り裂き、流れ落ちる血液の多さに彼はとうとう膝をついた。

 

 命の遣り取りを何も出来ず見つめていたフラスニエルは、ぎりぎりと弓を握り締めた。

 彼を取り囲む障壁は鳥かごのように行く手を阻み、マルファスも助け舟を出す気配がまるで無かった。

 

「このままではシェイローエとエレナスが危ない。でもどうしたら……」

「我々は傍観者に過ぎないんだよ、フラスニエル。自ら判断し、選択した者だけが行動を許され、未来を紡ぐ権利を得る。何もしない者は、流れる川をただ見つめ続けるだけさ」

「選択を、した者だけが……」

 

 フラスニエルが目を落とした瞬間、手許にある弓が目に入った。

 一か八か、彼は賭けに出た。弓に矢をつがえ、シェイルード目掛けて狙いを定める。

 

「王器よ。どうか、彼らに加護を。姉弟に未来への道筋を!」

 

 充分に弦を引き絞り、フラスニエルは矢を放った。

 金色の矢尻は障壁を貫き、黄金の軌跡を残しながら真っ直ぐシェイルードへ向かう。不意に放たれた矢にシェイルードが気付いたのは、すでに避けようもない位置に到達した時だった。

 

 シェイルードの気が逸れた瞬間、エレナスは剣を握り締め、懐へ飛び込んだ。

 矢を避け切れず、剣への対応も遅れた彼は、影に潜んでやり過ごすしかなかった。影を呼び寄せようと手を挙げると、ざわめく影たちはその姿を消し、ついには彼の傍から全ての影が去っていった。

 

「何故だ! 何故『異界の門』が開かん!」

「門? ああ、時空の裂け目の事かい」

 

 焦るシェイルードを尻目に、マルファスは頬杖をつきながら、にべなく答えた。

 

「邪魔だったからね。この山岳遺跡周辺にあるものは、僕が全て閉じておいたよ」

 

 マルファスを激しく睨み付けながら、シェイルードは王器の矢を肩に受け、その心臓を神器の剣に貫かれた。

 誰からも傷ひとつ受ける事のなかった矜持が彼をずたずたに引き裂き、シェイルードは真っ赤な目をむいて怒り狂った。

 

「貴様……許さん。必ず、必ず殺してやる!」

「出来るものなら、やってみるがいいさ。僕を消滅させられる者などいない。以前にもそう言ったはずだよ」

 

 呪詛を吐き続けるシェイルードの左胸からは、どろりとした黒い血が滴っている。彼はふらふらと玉座へ後退し、それをエレナスが追った。

 

「エレナス。下がって」

 

 シェイルードを玉座まで追い詰め、声に振り返るエレナスの目に映ったのは、術式を終えた姉の姿だった。

 彼女は静かに立ち上がり、短剣を逆手に握り締めた。

 

「後はわたしがやる。今までずっと、わたしを護ってくれてありがとう、エレナス。血は繋がっていないけど、本当の弟だと思っている」

「姉さん? 何を言って……」

 

 玉座へと近付く姉を凝視し、エレナスは疑問を口にした。

 

「シェイルードを再び甦らせないために、わたしの術式を奴に埋め込む。これで終わる。何もかも」

 

 術の込められた短剣は、初めて目にする赤い光を放っている。

 その不気味さにエレナスは胸騒ぎを覚えた。恐らく、生命力を術力に転換する禁術を行使したのだ。

 

 長命種である精霊人が生命転換の禁術を使えば、数千年を生きる怪物であろうと一撃で屠れるだろう。その代償として術者は命を落とし、その魂は消え失せて、生命の環に戻る事は未来永劫叶わない。

 本当に輪廻転生などというものが存在し得るのか、それは誰にも分からない。だがシェイローエは全てを犠牲にする覚悟で、この禁術を発動させた。その意味を考え、エレナスは手にした剣を取り落とした。

 姉は自ら命を捨てる事で救い、救われようとしている。彼女の命を救おうなどという考えは、エレナスの勝手な思い上がりでしかなかったのだ。

 

 玉座にすがるシェイルードは崩れるように膝をつき、その背後にシェイローエは立った。

 禁術を込めた短剣を握り締めたまま、彼女はフラスニエルへ振り向くと、優しげな笑みを見せた。

 

「フラスニエル様。どうか、わたしの最期の願いをお聞き届け下さい。わたしの事は忘れて、どうか大陸の平定を。世界の行く末を導いて下さい」

「何をするつもりなのです! ……やめて下さい!」

 

 ただならぬ雰囲気を察したのか、フラスニエルは障壁の中から叫んだ。

 その声を背に、彼女は玉座にすがりつくシェイルードへ向き直った。逆光の中、彼女の美しい緑の瞳だけが、シェイルードの赤い目に映り込む。

 

「これで終わりね、シェイルード。お前の望み通り、魂すら残っていない抜け殻をお前にあげる。一緒に地獄の底へ逝きましょう」

 

 シェイルードが玉座から立ち上がり振り向いた瞬間、深紅の刃が彼の胸に食い込んだ。体重を乗せた一撃は二人をよろめかせ、玉座の背後にある奈落へといざなった。

 白銀の王冠が黒髪から滑り落ち、澄んだ音を立てて奈落に吸い込まれていく。

 姉を抱きとめる形で暗闇の底へ落ちていく二人に、フラスニエルが絶叫した。弓の矢はずを障壁に叩き付け無理やりこじ開けようとすると、マルファスが驚き立ち上がった。

 

「やめるんだ! そんな事では障壁は破れない。腕が飛ぶぞ!」

 

 マルファスの言葉に耳を貸さず、フラスニエルは狂ったように障壁を叩き続けた。次第に障壁には拳大程度の小さな穴が開き、彼は押し広げようと無理やり右腕をねじ込んだ。

 愛しい人の名を呼び、腕を伸ばした瞬間。彼の右腕は肘から上を残し、一瞬にして消し炭と化した。右腕を飲み込んだ障壁は再び閉じ、何事も無かったかのように再び耳障りな音を立て始める。

 シェイローエの姿が奈落へ消えていくのを、フラスニエルはただ見届けるしかなかった。どれだけ腕を伸ばそうとも、彼女を受け止める右手も、そして彼女自身の姿もすでにそこには無かった。

 

 絶叫とも慟哭ともつかない声を上げ、フラスニエルはその場に崩れ落ちた。

 血の迸る腕の痛みよりも、彼女を護れなかった後悔よりも、言い知れぬ敗北感が彼の心を突き抜けた。

 

「どうして……どうしてこんな……」

 

 膝をつき天を仰ぎながら、フラスニエルは目を見開き涙を流した。

 奈落は姉弟を飲み込んでもなお、ごうごうと亡者の声を上げ続けた。

説明
創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。欠損表現・流血・残酷描写あり。死亡者あり。R-15。21109字。

あらすじ・姉が山岳遺跡へ向かった事実を知ったエレナスは、ソウの手を借りて脱走を試みる。
一人で山岳遺跡を目指す彼の前に現れたのは、甦った代行者クルゴスだった。

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オリジナル ファンタジー ダークファンタジー 戦闘 魔法 残酷描写 R-15 

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