鳴家の住む家 |
ガタン、と部屋のどこからか音がした。
はっとして振り返ったが、妻の気に入っているソファがいつも通りそこに静かに佇んでいる。
周りをきょろきょろと見回してみたものの、物が落ちた、というわけでもなさそうだ。
気のせいか、と思うと丁度、パソコンの起動音が聞こえ、パスワードを打ち込んだ。
USBをパソコンに差し込んで、起動するのを待つ。
残業を快く思っていないうちの会社ではもっぱら納期の迫った仕事は家に持ち帰えざるおえない。Excelのファイルを開けると目が痛いほどの数字の羅列。
「こんな時間までお仕事ですか?」
帰って来た時には眠っていた妻が起きてきたらしい。
キッチンへ入っていって何かカチャカチャとやっている。
ぱぁぁと明るい画面に思わず目頭を押さえた。
「まぁな、仕方ないさ。納期が迫るといつもこうだ」
「それでも会社でなさればいいのに」
こった肩を回していると、熱いお茶を運んで来た妻がふわふわと笑っている。
もういい年なのに、どこかしら幼げな雰囲気が抜けきらない。
「この書類が出来上がったら、寝るから。先に寝てなさい」
「ええ。そうします」
彼女は立ち上がってつけっぱなしになっていたキッチンの電気を消した。
自分の座っているダイニングだけ明るいといつもの部屋なのに、周りがやけに暗く感じてしまう。妻がリビングと廊下をつなぐ磨りガラスのドアを押した。
きぃと音がして、彼女は思い出したように振り返った。
「貴方もいい歳なんですから。早めに寝ないと駄目ですよ」
私は返事をせずに疲れた顔で笑った。いい歳なのはお互い様だろう。
妻が廊下へ足を踏み入れようとした瞬間だ。
パタパタパタパタ・・・・
それは、確かに人の足音で、何かから遠ざかるように早足になって、
音は小さくなっていった。
それは、妻が足を踏み入れようとした廊下から、確かに聞こえた。
心臓が大きく鳴った。緊張が走る。妻も同じような気持ちを抱いているようで
ドアを開けたまま固まっている。
「・・・・・・・・・・何か、聞こえませんでした?」
心持、震えた声で彼女が聞いた。
私は、立ち上がって彼女の隣にたって、真っ暗な廊下を眺めて見る。
勿論だが、何も見えないし、静かだった。
「ああ。ちょっと見てくる。」
まぁ何もないと思っていた。ここはマンションで、上か下に住んでいる人の生活音なんか
よく聞こえるものだ。ただ、さっきの物音に続いてこれだと少し気味が悪い。
時間も、日付を越えるか越えないかの時間だ。
妻を安心させる意味でも手さぐりで廊下の電気をつけて一つ一つ扉を開けて行く。
寝室、風呂、妻の部屋、私の部屋、最後にトイレも一応開けて確認しがが
当たり前だがなにもいないし、誰もいない。
「何か、ありましたか?」
心臓をつかむように寝巻の端を握りしめる妻がリビングから問いかけた。
本当に、それなりの歳なんだから。と思う。彼女は結婚してからずいぶんと歳を取ったが
それでも時々、想像もできないくらい幼い表情を浮かべるときがある。
下唇をかみしめて、棒のように立っている。
「いいや。何もないよ。大丈夫だ。上か下の部屋に住んでいる人の足音だろう。」
「・・・・・・そう、ですか・・・」
私はダイニングへ戻り、スタンバイモードになっていたパソコンをつけなおす。
妻はまだ廊下を見いるように立っている。
「何もないよ、先に寝てなさい」
「・・・え・・あ、ええ。」
何とも不安そうな答えだ。
彼女は何もない廊下をただ警戒するように見つめていた。
生活音なんて、よくあることだろう。
ただでさえ大勢の人間が住んでいるマンションだ。
妻は何も言わず、何度か私の方を振り返ったが
私が仕事を始めたのにしびれを切らしてゆっくりと寝室へ入って行った。
ぱたん、と扉が閉まる音が奥の方から聞こえて、ちいさくため息をついた。
廊下は、まだ煌々と電気がついている。
結婚した当初はそれこそ虫が出たと言って電話をかけてきたくらいの彼女だ。
そう言えば、結婚して何年目だっただろうか。お互い歳を取ったのは確かだ。
歳を取ったと言えば、今年、私は何歳だっただろうか。
仕事に明け暮れているうちに、誕生日なんてそんなに祝えるものでもなくなった。
そんなことをぼんやりと思いながら数字の羅列を追っているうちに
そんな些細な疑問も、謎の物音も私の頭の中から消えていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
気付けば日付をとうに超えてから2時間ほど経っていた。
ぐ、と背中を伸ばすと椅子が体重に耐えきれず、ぎぃと小さな悲鳴を上げた。
ついさっきまで湯気が立っていたお茶もとうに冷たくなっている。
冷えた緑茶を喉に流し込みながら画面を上書き保存する。
机の上に所せましと乱雑に並べた書類や資料をまとめている間に、保存が完了したようで
ファイルを閉じて、もう一度開けて、本当に保存できたか確認した後、USBを抜いてパソコンをシャットダウンした。
今日はもう寝ようとリビングの電気を消そうとしてはっとした。
開けっ放しの扉の向こうに続く廊下は、真っ暗だったのだ。
妻が電気をつけたまま寝室に入ったところを眺めていたのはぼんやりと思いだせる。
確かに、電気はつけていたはずだ。自分が消したんだろうか。最近は電気代も馬鹿にならない。
それとも妻が起きてきて電気を消したのだろうか。
長い間、同じ姿勢でパソコンに向かっていたせいもあり、あまりはっきり思いだせない。
それなりに集中していたんだろう。消したような気もするし、いいや、どうだったか。
リビングの電気を消して、廊下の電気をつけた。目に痛いくらいぱっと明るくなった
電気が切れたわけでもないらしい。
ヴォン
背後で音がした。聞きなれた機械音。
振り返るとシャットダウンしたはずのパソコンの画面に、windowsの文字。
心臓が凍りついた。は、は、と息が細切れに飛び出る。
がつんがつんと心臓がなって、少しめまいがする。
さっきの物音や足音が手伝って背中は冷や汗が広がっている。
運が悪いと言うか、気味が悪いと言うか。パソコンの不具合が起こるにしても
今日じゃなくてもいいじゃないか、と少し憤りながら深く深呼吸する。
足早にパソコンに近づいてキーボードを操作し、強制終了させた。
キィィンと音がしてまたリビングに静寂が戻る。
私は踝を返して、寝室へ急いだ。
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全ては、あの日の、あの足音から、始まった。 | ||
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