鳴家の住む家 |
玄関につくと、幽かに味噌汁の香りがした。
鍵を差し込んで中へ入るとその香りは一層強くなる。
「お帰りなさい」
キッチンから顔を出す妻に小さく答えて靴を脱ぐ。部屋で鞄とジャケットを脱いで、靴下を脱衣籠に放り投げた。
机の上にはまだ湯気の立っている白米が乗った茶碗、長方形の皿の上にさんま。ほうれん草のおひたし。これからそれに味噌汁が加わるのか。
結婚したての頃の妻の料理は、お世辞でも「うまい」と言えるものではなかった。ただ、ごめんなさい、ごめんなさいと苦笑しながら言う彼女に、わざわざ「焦げてる」だの「まずい」だの「辛い」だの言う気にも慣れず、ただ「うまい」と言っていたのを急に思い出す。うまくはなかったが、それでも妻がいる空間に、どこかしら、懐かしさと幸せを感じていたあの頃。今ではお世辞抜きでも「うまい」と言えるものが並ぶようになったのだから、それだけでも年月と重ねてきた歳を感じる。そして、なんとなく寂しい気持ちになる。
「ご飯入れるの、少し早すぎましたね」
味噌汁を二つ持って妻がキッチンから出てきた。「ああ、まぁ。いいだろ。」と呟きながら味噌汁を受け取る。
「さんまが安かったんです」
「そうか・・もうそんな季節か」
と答えて、ふと疑問に思った。今は何月だったか。納期が迫ったり仕事が立て込むとこう言う感覚によく陥る。必要なのは、締切の日時。何月の何日か、なんて正直どうでもよくなる。新聞やテレビを見ていて「ああ、そんなに経ったのか」なんて思うこともしばしばだ。
「会社の同僚が一人亡くなったらしくてな」
「・・・・そうなんですか?」
「ああ、あまり喋ったこともないし、正直言って顔もあまり覚えてないんだが」
「ええ。」
「なんだか・・・かわいそうでさ」
「・・・他人事みたいに言わないでくださいよ。貴方だって、もう結構な歳なんですから。今からが怖いんですよ?脳梗塞とか、癌とか。そういうのが見つかるのはそのくらいの歳からなんですから。ほら・・こないだニュースになってた俳優さん。あなたと同じ歳ですよ」
とぶつくさいう妻に「そうか・・・そうだな」と答えていた。ニュースになっていた俳優、というのもあまり思いつかない。だが、大きな病気が見つかってもおかしくない歳になってしまったことは、確かだ。自分には絶対に起こりえない、なんて断言もできない。それなりに体を酷使しているし、ストレスがないと言うわけでもないし。
「あの、」
ぷつり、と切れてしまった会話を再開させたのは妻からだった。言いにくそうに考えた後、持っていた茶碗を置いて、口を開いた
「どうした。」
「今日、お昼間の事なんですけど・・」
「ああ。」
「・・・・・一人でいたんです。家で」
「・・・・ああ。」
「そしたら、廊下で、」
「どうしたんだ。はっきり言いなさい」
「ひ、人に」
「?」
「人にぶつかったんです・・!」
言っている事が良くわからなかった。
家に一人でいて、誰かにぶつかるわけがないだろう。呆れてしまって何を言っているんだ、と笑えばよかったが、彼女の表情を見ると、それもそう笑っていられないようだ。
「気のせい、だろう?昨日の足音がが気になっているんだよ。」
「・・・・・・・・・・そう、ですよね」
私にはどういうこともできない。信じてやればいいのか、それじゃあ彼女の恐怖心をさらに増長させるだろう。ならば、頭ごなしに『気のせい』で片づけたほうが、幾分ましだ。妻はまだ何か言いたそうだったが、話していても無駄だと思ったのか、茶碗を手に取って食事に戻った。その日は、それ以上何か話す気になれず、無言のまま、食事を終わらせることになった。
風呂に入って足を伸ばす。そしてぼんやりと、ここ2日だけでも立て続けに起こっている家鳴りや足音、妻の体験。気味が悪いといえば、気味が悪い。だが、だからと言って何になる。このマンションもそれなりの築年数だ。家鳴りや生活音がなんなんだ。
そう思うと、なんだか気が晴れた。人間の思い込み、というのは刃にもなるが救いにもなるらしい。少し冷えたので湯沸しのボタンを押して、私は、湯気の中でゆっくりと目を閉じた。
「寒くなってきましたね。」
「・・・・・ああ。そうだな」
ベッドに入ると、シーツが少しひんやりとしていた。妻は肩まで布団を引っ張って横になる。私も、そこへ横になって明かりへ手を伸ばした。
真っ暗になった寝室で、亡くなった同僚のことを思った。やはり、自分と同じようなん年齢の人が亡くなると、気にならないといえば嘘になる。
「・・どうしたんですか」
暗闇の中で声がした。眠そうな、ゆったりとした声だ。
「いや・・・亡くなった同僚のことだよ」
それは何十年と聞き続けた声。笑い声も泣き声も怒鳴り声も聞いてきた
「・・・そうですか。」
彼女は特に何を思って聞いたわけではなかったらしい。とりあえず、相打ちをした、という感じだった。
「・・・あなたは、私より先に死なないでくださいね」
・・・・・つけたされた声があまりにも心細い声で、その心細さが私にまで伝染する。
「・・・そうだな・・わかったよ」
私は、平静を装って、そういうのが精いっぱいだった。子供の時に体験した、涙があふれるのを押さえつけるあの感覚。喉元がぐっと押さえつけられるような、独特の感覚。
年を取るということは、こういうことだ。何かと、感傷的なっていけない。ぼやける視界を無理やり閉じて、緩やかに忍び寄る睡魔に従うことにした。そういえば、あの同僚は奥さんに先立たれたんだったな。心細かっただろうな、私が同じ立場だったら、思ってみたが想像はつかなかった。妻に先立たれて、一人。独り。そんなことをぼんやり思っていると、背中に小さな体温。ゆっくりと背中をなでる小さな体温は、妻が何思ったのかやっているらしい。小さな手から伝わる体温を感じながら、私は彼女を置いて逝ってはいけないと、そう強く思った。
何があっても。
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心に決めた。 | ||
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