鴉姫とガラスの靴 新章 三羽
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三羽 黒の手品兎

 

 

 

 飛べない鳥とは、ダチョウやエミューといったいわゆる“走鳥類”を含め、ペンギンやカモなど、結構な数がいる。

 ということは、空を飛べることを鳥の定義とするのは、あまりにもおざなりな分類法であり、誰が考えても間違っていることだとわかるが、実際問題として俺達が鳥類を考える時、その姿の多くは空を飛ぶものである。

 また、俺のこの誤解は花鳥庵の存在により加速させられた節がある。偶然と言うのか、ある意味で当然と言うのか、あの屋敷に住む鳥はその全てが空を飛べる鳥である。

 いくら観賞用の珍獣としても、ダチョウのような大型の鳥が輸入されて来ることは少ないし、ペンギンについても言うまでもなく、都会のど真ん中なのでカルガモの放されるような田んぼもない。飛べる鳥ばかりが都会で反映しているのはそこまで不思議なことではなく、ゴミ回収の日と言えばカラスの姿を見ることからも、意識せずとも鳥イコール飛ぶ、という等式は完成させられてしまうように思える。

 さて。夏休みに入り、俺は今までよりも一層、深月と一緒にいられる時間が長くなった。すると色々なことがわかるもので、彼女のような空を飛べる鳥は、家の中でいつも座っているのではなく、大空を自由に飛んでいる方が自然な姿らしい。よく晴れた昼間を選んで、彼女は度々「ひとっ飛びして来るわ」と家を出た。

 木樺さんの話によれば、俺が大学に行っている間も、結構な頻度で外を飛ぶことがあったらしい。

「空を飛ぶ感覚って、どんな感じなんですか?」

 そこでこんな疑問が浮かぶのは、実に自然なことだろう。残念ながら人類に翼が生えた事例はなく、一度だけ生やしたことのある人間は落下死、あるいは焼死の憂き目に遭った。

「やはり、どうしても人には理解出来ない感覚でしょうね……。飛行機で空を飛ぶのとは全く違う訳ですし、スカイダイビングには似ているのかもしれませんが、やはり自分の体の一部である翼で空を飛ぶ、その感覚は人の身では絶対に味わえないと思います。ただ、すごく気持ちの良いものであるのは確かですよ」

 人間も、思いっきり走った時のある瞬間、言葉では言い表せない爽快感を味わえる時があるが、その時に似ているのだろうか?あれが恒久的に体験出来るのなら、確かに魅力的なことだ。

 ……こう言うとなんだかノロケ臭いが、深月は俺と一緒にいることを至上の喜びとしてくれている。その貴重な時間を削ってまで彼女は飛びに行くので、空を飛ぶというのは鳥にとってよほど重要なことなのだろう。

「私達が、人の身に翼を生やすことが出来れば、あるいは悠様を掴んで飛ぶことも出来たのかもしれませんが。残念ながら現代にその技術を蘇らせることは難しそうです」

「そう言うってことは、かつては出来たとか?」

「はい。平安の頃、一部の陰陽師は生きた鳥を式神とし、部分的に人の姿に変えて使役したそうです。その式神の姿が、翼の生えた人のものであったとか」

「陰陽師……。実在するんですね」

「そもそも、私のルーツがそうですからね」

「あ、ああ。実方雀でしたっけ」

 実方雀、あるいは入内雀――ニュウナイスズメという種類のスズメが実在することは有名だろうが、木樺さんの鳥としての姿は、そのスズメとは似ても似つかない。たとえるならば、普通のスズメの茶色い部分がそのまま墨を被ったように黒くなったものだ。

 これは、その昔、藤原実方という歌人がいたのだが、彼は藤原行成との口論の末、陸奥の国に左遷させられてしまう。当時の陸奥とは相当な辺境であり、このことを強く恨んだ実方は陰陽師、それも正道から逸脱した外法を操る外法師となり、己の霊魂をスズメの形に変えて都にまで放ち、そのスズメは宮中の米を食い尽くしてしまったという。それ以来、実方はその体すらスズメになってしまい、木樺さんはその末裔という話だ。

 ただのおとぎ話と考えてしまっても良い眉唾話だ、とは木樺さん本人が語ることだが、彼女のようなスズメは他に見ないし、恐らくは正しい伝承なのだろう。

「残念ながら、私のご先祖様はそれほど優れた術師ではなかったので、私にまでその能力が受け継がれているようなことはありませんが」

 欠片も残念に思っていなさそうな顔で言う。木樺さんにはよくある戯れの一種だ。

 木樺さんは普段からよく鳥の姿になっているためか、深月のように飛ぶために家を出ることはない。実は買い物に行く時、飛ぶことで大幅なショートカットをしているのかもしれないが。

「しかし、悠様。最近は悠様自身が外出されることも少なく、お暇なようですね。……いえ、嫌みではありませんが」

「この暑さですし、元からそんなに外で遊ぶタイプではないので。大学の課題もないので、気楽なものですよ。もしも深月が遊びに行きたいって言うなら行きますが、あいつはあいつでインドア派ですしね」

 さすがは箱入り娘と言ったところだろうか。あれだけアクティブな性格なのに、驚くほど外出は求められない。暑いのは嫌いと本人も言うし。

「そうですか。……では、もしもの話なのですが、私が行きたい所がある、と言いましたらどうでしょう?」

「木樺さんが?もちろん、良いですよ。深月もきっと嫌がらないと思いますし。どこか行きたいところでもあるんですか」

「はい、それが――」

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「絵本の展覧会なんてあったのか……。俺だけじゃ絶対に知りもしなかったイベントだな」

 その翌日、早速俺達はあるビルの一階の展示スペースへと足を運んでいた。

 木樺さんが行きたいと言ったのは、ここでたった二週間だけ行われている数人の絵本作家による展覧会であり、俺と深月もそれに同伴することになった。木樺さんは一人でも良いと言ったのだが、深月が行きたいと良い、俺もまた興味があったので、こうしていつもの三人組で行動することになっている。

「木樺は昔から絵本って好きだったわね。あたしが卒業してからもずっと読んでたから、どういうことなのかしら、って不思議に思ってたものだわ」

「ひ、姫様。そんなの、わざわざばらさなくても良いことじゃないですか……」

「そう?悠は絶対に馬鹿にしたりしないし、好きなだけ話しちゃって良いでしょう?ね、悠」

「ああ。俺も一応、文学部に通う学生としては、絵本もテキストとして精読する対象に入っているし」

 実際、大きくなってから絵本を読み返して、不覚にも泣きそうになったことは記憶に新しい。誰にでも読める平易な物語にこそ、文章を書く上での妙技は詰め込まれているのかもしれないな。

「客層は結構まばらね。子ども連れの家族もいるけど、お爺さんお婆さんもいるし……まあ、あたし達ぐらいの人はほとんどいないけど」

「あまり展覧会があること自体、宣伝はされていませんでしたし、学生の方は色々と忙しいでしょうから」

「それもそうね。……あ、別に悠が暇しているのが悪いとか、そういうのじゃないわよ」

「お、俺のこれは課外授業のつもりだぞ。もしかしたら、大学でも話の種に出来るかもしれないし」

「あら。悠ってそんなに学校でよく話すタイプだったのかしら?」

「……せ、先生にな」

 深月達と一緒の生活も、考えてみればずいぶんと長い。すっかり彼女達は俺のことをよく知っているし、俺もまた深月はもちろん、木樺さんのこともよくわかっているつもりだった。絵本が好きというのは全くの初耳だったが。

「姫様、悠様。どうぞ私のお構いなく、お二人で回られてください」

「えっ、木樺様と一緒に回りますよ?むしろ、案内してもらえると助かります」

「いえ。私は正直なところ、ある一人の作家の方の作品を見たいがためだけに、来させてもらったようなものですから、一つの場所で長い時間を過ごしてしまうと思います。悠様達をそれに巻き込んでしまう訳にはいかないので」

「そうですか?……じゃあ、勝手に色々と見て回りますけど」

 木樺さんのお気に入りの絵本作家も気になったが、いずれわかることだし、そもそも広い会場という訳でもない。遠くからでも木樺さんの姿はわかるだろうから、彼女がじっとしているブースがそうなのだろう。

「深月も小さい頃は、絵本を読んでいたのか?」

「そうね……正確には、ある程度大きくなってから、かしら。人で言う小学生ぐらいね。あたしが本当に幼い頃は、まだ花鳥庵の皆もよく人間社会のことは知らなかったから、子どものための絵本がある、なんてことも知らなかったわ。だけど、それがわかった頃には既に木樺は興味があったようね。もしかするとあの子が見に来たのは、初めて出会った絵本の作家の展示なんじゃないかしら」

「なるほど、そうかもしれないな。深月は何か好きな絵本とかはあるか?俺はどうも、小さい頃に読んで覚えてる絵本ってのはないんだが」

「あたしも、これ、と名前を挙げられる本はないわね。けど、ほら、この原画の展示とか見ても思うんだけど、絵本って子ども向けだから、文章も絵も、それこそ子ども騙しな適当なのかと思ったら、すごく奇麗だったり、表情豊かだったりするのよね。あたし、人間の描く絵って割とどんなのでも好きだけど、絵本に使われるような絵は特別好きかもしれないわ」

「言われてみれば、そうだな……。下手に見える絵でも、すごく人物がいきいきとしている。ものすごく上手いからこそ、こうしてデフォルメしつつも、リアルさを保てるんだろうな」

 以前、子どもは無知であるがゆえに、理屈で理解することは出来なくても、純粋であるがゆえに、直感で感じ取ることは出来る。ある意味で大人よりも納得させ、感動させるのが難しい、というある児童作家の言葉を読んだことがある。絵本は正にそういう世界で、中途半端なものを作り出してしまうと、子どもは親を質問責めにして困らせ、遂に親は答えに窮してしまうことだろう。

 絵本の絵にも、文章にも、子どもを舐めず、きちんと納得させるだけの力がなければ、それは名作とは呼ばれないのに違いない。ボードレールだったか、フランスのある詩人は“天才”をいつでも青春に戻れることだと言ったが、絵本を書く才能は、いっそ幼年まで帰れてしまうことなのかもしれないな。

「ねぇ、悠」

「ん、どうした?」

「……なんかこれって、図らずともデートみたいよね」

「ま、まあ、そうなの……か?すごい近くに木樺さんいるけど」

「考えてもみれば、あたし達ってまだ一度もしたことないわよね。デート」

 本当に、考えてみればそうだ。出会いの瞬間からしてどたばたしていた俺達だが、俺が元々インドア派だというのもあり、深月と二人きりで遊びに出かけたことはなかった。もう婚約もしているし、彼氏と彼女以上の関係だというのに、よくよく考えるとおかしな感じだ。

「手、繋いでも良いかしら」

「あ、ああ」

 正直、俺は公衆の面前でいちゃつくバカップルというものが大嫌いだ。それは、深月と知り合い、愛し合うようになった今でも変わらない。あまり人前で深月とベタベタしたくはないが、手を繋ぐぐらいならギリギリOKだろう。多少、独り者にはイヤミったらしく見えてしまいそうで、そこには抵抗があるが。

「腕を絡めたりはしなくて良いわ。本当に、あなたの手を握りたいだけなの」

 反射的に俺が肘を曲げ、深月にしなだれかかってもらうのを求めたのが、彼女には不満だったようだ。なんとなく、恋人同士が手を繋ぐというのは、手を握るのではなく、腕を絡め、肩に体重を預けることだと思っていた。……その手のアニメの見過ぎか?

「これで、良いか」

「ええ」

 普通に腕を伸ばし、軽く手を開くと、そこにきゅっ、と柔らかな手が絡み付いた。

 時々思うのだが、彼女の体がこんなにもふわふわで柔らかいのは、女性だからなのだろうか。それとも、彼女が柔らかな羽毛に覆われた鳥だからなのだろうか。

 深月以外の女性に触れたことのない(長濱もだ)俺には判断が付かない。だが、そこまで気になる問題でもないので、彼女と手を繋いでいることの幸福をただ受け取ることにする。俺とは違う体温が感じられて、なんだかすごく心地良い。もうそこそこに気温は高くなっていて、会場内は弱冷房なので暑苦しいはずなのだが、不快感なんてある訳がなかった。

「悠、どきどきしている?」

「ちょっと、な。深月はどうなんだ」

「あたしも。なんか、これ以上のことは前からしてるのに、変な感じよね。こんなにもどきどきして、いけないことをしている感覚になるものなんだ……」

「可愛いな、お前は」

「何を今更。周知の事実じゃない」

 ここで恥ずかしがったりしないのが、深月が深月である所以、か。それすらも愛らしく思えてしまう。

「悠。あたし、もう我慢出来ないかも」

「……さすがにそれは、ちょっと堪え性がなさ過ぎじゃないか。いや、そんな深月が嫌いって訳じゃないんだけど、ちょっとな」

 さすがに頬を赤らめているが、小声とはいえこんな所でそんな気持ちになり、口に出してしまうとは。……くそっ、とんでもない変態だとはわかっているのに、なんでこうも愛おしく思えてしまうんだ、この生物は。

「だ、だって、朝からずっと我慢してたのよ?ついつい行きそびれちゃってて」

「お、お前な。羞恥心が薄れ過ぎだっ。家に帰ったらいくらでもしてやるから、もうちょっと我慢してろ」

「……えっ?悠が、手伝ってくれるの?そ、それはさすがにあたしでも、その」

 こいつ、まさかその、自分ですることを我慢していると言っているのか?俺も基本的にはしないようにしているが、なんともまあ……旺盛なことで。

「いや、最近はまたちょっとご無沙汰だったし」

「悠、それってもしかして、ボーコーエンとかなってるんじゃない?病院行ったら?」

「おい、待て。その……自家発電の話だよな?」

「トイレの話よ!ずっと行きたいんだけどっ」

「じゃあ行けよ、普通にっ」

 びっくりした……。タイミングがタイミングだけに、深月が手を繋いだだけでどきどきして、そのままシたくなってしまうような、年中発情娘だと勘違いしてしまった。いくらなんでも、それはないよな。

「あっ……」

「今度はどうした?」

「大きな声出しちゃったから、その……」

「お、おい」

「なーんて、嘘よ。ふふっ、騙された?」

「さっさと行って来い!」

 手を握るというよりは掴み、そのまま投げ飛ばすように振りほどく。割と真剣に我慢ならなかったのか、深月は小走りで会場の外のトイレへと向かって行った。

 真面目な話をしたり、甘い展開になったりしても、あいつと一緒だとその状態がいつまでも続かないな。恥ずかしくならなくて良いが、やはり若者同士の恋愛なのだから、もう少しこう……と考えるのは、俺が夢を見過ぎなのかもしれない。

 未だに恋愛というものの勝手が掴めず、うんうんと悩みながら展示を見ていると、木樺さんがじっくりとある絵を見ているのがわかった。あれこそが、彼女が見たかったものなのだろう。遠目に見ても何かしらの伝わるものがあるように思えるそれは、他の絵本の絵とは少し画風……いや、全体の雰囲気が大きく異なっているように見えた。

 大きなパネルに引き伸ばされたその絵は、草原と海を描いた風景画だった。風景の美しい絵本は他にもたくさんあるが、その絵は草原のすぐ隣に、砂浜すら隔てずに海がある。最初は大河かとも考えたが、大きな波が描かれているので海と考えて間違いはない。どことなく、北斎のあの有名な絵を思い出すような構図だ。

 おとぎの国を描く物語は絵本に限らずともたくさんある。作者の頭の中に広がる幻想世界の中では、確かに海と草原が同居しているという不思議な風景も、あり得ることはあるだろう。それが想像の世界の醍醐味であると思う。

 だが、その絵はあまりにも自然に二つの異質な地形が連続させられている。二つの風景画を切り貼りしたようなものではなく、草が海に。海が草の原に溶け込んでいるようで、本当にそんな世界があり、これは絵ではなく写真なのだ、と思わせるほどの説得力が感じられた。いったい、こんな絵の添えられる物語とは、どれだけ神秘的で美しいものなのだろう。内容を全く知らない俺に、そんな興味を抱かせる名画だった。

「ただいま。……あら、どうしたのよ、そんな遠くからじーっと見て」

「い、いや。木樺さんが見ていたから」

 あの絵を見たきっかけはその通りだったが、十秒も経たない内に、俺はもしかすると生まれて初めて、絵画に目を奪われていた。ただ技巧的に上手いだけではなく、ただ景色的に幻想的で見事だというだけではなく、人の心を奪ってしまう魔的な魅力があるようで、深月もまた少しの間、言葉を忘れて見惚れてしまっていたようだ。

 初めて見た俺達ですらそんな調子だったのだから、木樺さんの感動に至ってはその比ではない、と判明したのは深月に腕を引かれ、より近くで見ようとした時のことだ。俺達の接近に木樺さんが気付かないはずないのに、ほんの少しも目を向けないどころか、その瞳からは一筋の涙が流されていた。初めて見た、彼女の涙なのかもしれない。

「作者は……外国の人ね。アンリ・ノワール。フランスの人かしら」

 絵本を手に取り、画家の名前を静かに深月が読み上げる。絵画の分野に明るくない俺には、それが有名な人なのかもわからないが、もしも埋もれているのであれば、世界はなんて損をしているのだろう、と思うほど、俺も一瞬の内にファンとされてしまった。

 更に驚くべきことに、物語もこのアンリ氏が手がけているらしい。作画と脚本を一人でやってしまう絵本作家は日本にも少なからずいるが、この人もまたその内の一人だとは。だが、そうして見てみると不思議なことではなく、逆に他人から与えられたシナリオに絵を付けるだけでは、ここまで見事なものにはならないのだろう、と考えることが出来た。

「生まれはフランス、パリ。この絵本は大学に通っている時に描いたらしいわね。今から十年と少し前だから、三十代の半ばってところかしら。絵本作家としてだけではなく、詩人、音楽家、エンターテイナー……?へぇ、マジシャンが一応の本業だなんて、面白い人なのね。プロフィールを読むだけで、どういう人なのかわかる気がするわ」

「多彩な人なんだな。でも、いちいち納得出来る気がする」

 ただ一枚の絵からでも、音楽的なセンスや、詩的な叙情。そして人――子どもに限らず――を脅かして楽しませよう、という奇術師的な遊び心も垣間見えるように思える。絵本を手に取り、本文と共に数々の絵を見るほど、その認識は強まって行った。そうしている内に、俺はどうもこの人に会いたいとすら思っているようだった。遠く離れたヨーロッパの国に住み、そう簡単には会えないとはわかっているのに。

「……姫様、悠様。お時間を取らせてしまって、ごめんなさい」

「木樺さん。いえ、俺達も楽しんでいましたから」

 それからもう十分ほどして、感涙し、どこか放心していた木樺さんが、いつも通りの優しさの中にも凛とした誠実さを感じさせる表情に戻り、言い訳をするように頭を下げてしまったのが、なぜだかものすごく可愛らしく思えてしまった。その心の動きを深月は感じ取ってしまったのか、軽く肘で突いて来る。

「あたし、悠の優しいところは大好きだけど、同時に最悪の欠点だと思うの」

「な、何言ってるんだ。俺は、その……」

「冗談よ。木樺はあたしの最高の友達だもの、いくらでも好きになってくれて良いわ。むしろ、あたしのことを嫉妬深い女だと思ったことを謝ってもらいたいくらいね」

「深月……お前って」

「なぁに?惚れ直した?」

「間違いなく、世界でもトップクラスに面倒な女だよな……」

「ど、どういうことよ!?」

「いや、言葉通りの意味で。なんか改めてすごくそう思った」

 今度こそ本気で肘鉄をもらったが、こういうところも含めて深月は深月であり……。いや、ものすごく痛くて、しばらくは無様に脇腹を押さえつつ歩く破目になってしまったが。

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「それでは、私は買い物をしてから帰りますので」

「そう?じゃあ、あたしは悠といちゃいちゃしながら帰るわね」

「はい、どうぞお楽しみください」

「いや、そこは何かしらの突っ込みを入れてくださいよ」

 木樺さんはどちらかと言えば俺の方に属する人のはずなのに、深月と組むとそっちに引きずられる傾向にあるから油断ならない。深月も大概だが、木樺さんも同じくらいかそれ以上に、俺をからかって困らせるのを生きがいとしているからだろう。カラスの深月ならまだしも、どうして(農家以外には)善良なスズメのはずなのに!

「今日は、楽しむことが出来ましたか?」

 わざわざ口に出して聞くのもおかしな感じがしたが、あえてそんな質問をしている俺がいた。

「はい、とっても」

 返す木樺さんは、深月とそう変わらない年頃の女の子のような、少し幼い心からの笑顔だった。……珍しい、なんて考えるのは、彼女のことを年上に見過ぎているだろうか。

「悠。もう一発もらいたいの?」

「い、いや、お前、焼き餅とか焼いてないって言っただろ!?」

「あんまりに度が過ぎると嫌なの。いくら木樺でも、あたしの彼氏を独占し過ぎるのは許せないわ」

「勝手だなぁ、おい」

「ええ、あたしは勝手よ。勝手じゃない姫がいると思う?」

「いても良いと思うぞ」

 苦笑しながら木樺さんと別れ、深月の機嫌を直そうと奮闘しつつ帰路に就く。こういう時にばったりと長濱辺りに出くわせば良いのだが、出かけるぐらいなら自分の制作をするあいつと、そうおいそれと街中で出会えるはずもない。代わりに、久しぶりに会う珍しい人物がいた。

「御園じゃない。久し振りね」

 今日は彼女も休日なのか、ある部分を見なければ少しおしゃれな青年、とでも思えそうな服装の、特徴的な銀髪の女性が向かいから歩いて来ていた。梟奥御園、木樺さんとは犬猿の仲だが、不思議と深月とは息の合っているフクロウの化身だ。

「これはこれは姫殿、そして悠もおるとは。今日はデートかの?」

「まあ、そんなとこ」

「……違うからな」

「ほほっ、相変わらずお熱いことじゃの」

「あんたも大概、皮肉屋だよな……」

 深月に振り回されるのも疲れるが、この人の相手はそれはそれで疲れる。しかし、今日は御園の方にも同伴者がいるようで、さっきから俺達を物珍しそうに観察している。体格は女性の中では長身で、あえてどことは言わないが肉付きの良い深月と御園の二人に比べれば、ずっと小さくか細く見えるが、十代の少女の体格としては標準的だろう。長濱と同じか、それよりもう少しだけしっかりとしている。

 髪の色は深月に似た漆黒で、肩にかかるかかからないか、と言ったショートヘア。なぜか頭の上で長い黒リボンを結んでいるが、これは俗に言うウサミミリボンというやつだ。なんとも少女的で、その、あざとい。

 服装は夏場だと言うのに、白い長袖ブラウスと黒のベスト。下は黒いパンツと、カジノのディーラーか、さもなくば執事かと思うほど暑苦しく、中性的なものだ。この辺りには御園の好みが反映されている。

「そっちの子は?」

 俺が質問をするより早く、深月が切り込んだ。

「ほんの一週間ほど前に、わしのところに来た娘でな。名は……自分で紹介させた方が良いか。杏利、こちらはこの街にある屋敷の姫殿で、もう一人はその婿殿じゃ。失礼のないようにな」

「はーい!ボク、黒崎杏利っていうんだ。ずーっと昔から日本に来たくて、つい最近になってその夢が叶ったトコ!御園ちゃんからなんとなく話は聞いてたけど、お姫様って、本当に奇麗だねー。お婿さんもすっごい格好良い!王子様みたい!」

「ふふっ、そうでしょう、そうでしょう。もっと褒めてくれても良いわよ」

「お前な……。御園が預かっているということは、君も何かの動物なのか?」

「うん!名前の通り、ウサギだよ!」

「名前の通り……って、黒崎って普通の人間の苗字ないのか?」

「ううん。だって、クロサキ、だよ?クロサキ、クロサキ、クロサギ、クロウサギ!ボク、黒い毛並みのホーランド・ロップなんだ。だから本当の耳はこのリボンみたいに立ってなくて、垂れてるの。なんかだらしなくてあんまり好きじゃないんだけどねー」

 まさかのダジャレだった。しかも、日本に来たかった、という言葉から察するに外国から来ただろうに、日本語も上手いな。名前は御園が付けたのかもしれないが、もうダジャレみたいな言葉遊びを理解しているというのもすごい。

「楽しい子ね。自分から来たみたいだけど、ということは御園の“仲間”ではないのね」

「そういうことになるの。だから、あえてわしが個人的に養っておるのじゃが、杏利はこの国に来る以前から、人に化けておったのだから面白いものじゃ。つまり、外国にも動物が人に変わる術は残っておる訳じゃな」

 確かに、外国のおとぎ話にも動物が人になり、人が動物になるようなものはあるからな。今更だが、ああいう話はあながち作り話でもなかったという訳だ。

「ただ、ボクの住んでいた辺りにも、ここみたいに技術の断絶はあるんだよ。なんか、世界的にそういう技術が失われるような事件があったのかな」

 さっきまでとは違い、少し難しい言葉を話す杏利が意外だったが、彼女も案外、俺より年上だったりするのかもしれない。木樺さんを含め、結構動物の化身というものは年齢不詳だったりするからな。御園もどうやら二十を少し過ぎたぐらいのはずだが、ものすごく風格があって歳がよくわからない。深月も、年齢以上に大人っぽい見た目だし。

「そういうことを調べるためにも、お主はここに来たんじゃったな。しかし、もう一つ目的があるんじゃろ?」

「うん!ボクね、ずーっとマジシャンをやってるんだ。こう見えて、結構上手いんだよー」

「ああ、その格好はマジシャンの衣装だったのか。なるほど」

「実際にマジックをするつもりなら、シルクハットとステッキも持って来たんだけど、今日はただのお出かけだからねー。きちんとマジックをする機会があったらきちんと教えるね。お姫様、王子様」

「あたしは深月、彼は悠よ。名前で呼んでくれて良いわ」

「俺からも頼む」

 婿殿と呼ばれることには慣れて来たが、さすがに他人も聞いているかもしれない中、王子様呼ばわりはかなり精神的にクるものがある。そもそも、俺のどこに王子様らしい要素があると言うんだ。

「わかった。それじゃあねー。あっ、山下ビルって、この通りを真っ直ぐ行ったトコにあるんだよね?」

「あ、ああ。ちょっと目立ちにくいビルだから、よく確認してな。御園がいるから大丈夫とは思うけど」

「ありがとー。……んー、御園ちゃん、やっぱりサインとかした方が良いのかな?んで、フランス語と日本語、どっちが喜ばれると思う?」

「やはり、フランス語じゃろうて。では、またそう遠くない内に会おう。もう一人、会わせたい娘もいるからの」

「ああ、じゃあまた」

「今度は木樺も一緒かもしれないわよ」

「……どうにからならんかの、それは」

 元気一杯に歩いて行く杏利と、今から木樺との再会を心配しているのか、苦笑がちにとぼとぼ行く御園を見送る。二人が完全に見えなくなってから、俺達は顔を見合わせ、ほぼ同時に言い合った。

『あの子、アンリ・ノワールだよな(よね)』

 続いて、同じタイミングで溜め息をつく。

 ノワールとは、フランス語で黒の意味だ。そして、アンリは確かにフランスならば男性名だが、女性作家が男性のペンネームを使うのだし、日本で使う分にはあんりという名前は、極普通な女性名として使われている。そして、彼女の職業はマジシャン。極め付けは、彼女が道を聞いたビルは、ついさっきまで俺達がいたところだ。しかも、サインの心配をしていた。彼女はあのビルでサインをしなくてはならない立場にあるということになる。

「……木樺は、会いたがるでしょうね」

「けどあの子、御園と一緒にいるんだよな……」

 もう一度溜め息。木樺さんを憧れの絵本作家と引き合わせるということは、彼女にとっての天敵と遭遇させるということだ。

 同時に杏利の実年齢が三十過ぎ、俺達の誰よりも大人だったことも判明したが、御園はこの国に不慣れな彼女の面倒を見続けるだろうから、二人が別れる機会もそうそうないと想像出来る。そうこうしている内に杏利が自国に帰ってしまえば、あまりにも木樺さんが気の毒だ。

「これは……夏休みの宿題だな」

 もうそれほど長く休みは残っていないが、なんとも難しい課題を与えられてしまったものだ。

説明
お久しぶりです
行き詰ったりすると、気が付くとこのお話を書いているような気がします。ンッンー、好循環、なのかなー
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