飴。 |
それは三日月の美しい、夏の終わりのできごとだった。
祭りの通りで人々は、下駄をカタコロ笑わせながら浴衣の袖を振っている。
出店はいろいろ、何でもあった。たこ焼き、綿あめ、金魚すくい。焼きそば、焼きいか、カキ氷……。
祭りというのは、本当に不思議なものだ。 提灯の薄ぼんやりとした橙の明かりと出店の裸電球だけで、こうも明るく、賑やかにみえるのだから。
いろいろとある出店のひとつ、射的に興じる友人の横で、千秋は裸電球に群がる小虫をなんともなしに眺めていた。 その間にも、自分の肩や、手にした綿あめの袋に、浮かれた人々の手や足や気配がぶつかっていく。 友人は相変わらず射的に夢中であることだし、と千秋はこの隙に人混みから抜け出した。
中学二年生になって背も少しは伸び、幾分息がしやすくなろうとも、毎年来ている祭りであっても、人混みには慣れない。 苦手なものは苦手なのだ。
祭りの催されている通りから横にのびた路地裏へと身を隠すように逃れ、暗い壁に背を預けると、千秋は大きくため息をついた。 たかだか十数歩抜け出しただけなのだが、賑わいは一歩ごとに、十歩分は遠くなったように感じる。
祭の通りだけがこの世から浮かび上がったように煌々と照らされているものだから、 出店の裏やこの脇道にはまるでそこから逃げ込んだかのように、夜の気配がひっそりと立ち込めている。
千秋は路地の隙間から射し込む祭りの賑わいを目にしながら、妙に冷めている自分を自覚していた。
祭りの通りがこの世のあの世ならば、この細く長い路地はあの世のこの世なのかもしれない。 それならば自分は今、少なくともあの通りにいる人々よりはこの世に近いのではないか、そう思うと多少なりとも心が落ち着き、 千秋はその場にしゃがみ込み、続いてあぐらをかいた。石畳の冷たさが心地いい。
藍の布地に赤いとんぼがするりとひかれた浴衣の裾の乱れを正して、まだ一口も食べていない、 しっかりと封がされた綿あめを自分の横に置いた。
祭りの喧騒が、どこか遠くで響いている。
路地の奥に目をやると、石畳は緩やかな下り坂になっており、途中から急な階段になっていた。 道幅は、今、千秋のいるところは足を伸ばしても下駄でなんとか向かいの壁を触れられるかどうかといった程度の幅だが、 坂を下るうちにも少しずつ狭くなっていき、階段に差し掛かった辺りになると、おそらく人ひとり通るのがやっとの道幅しかない。 壁と壁の合間、建物の二階上程のところには石造りのアーチがいくつかかかっていて、それがまるで鳥居のようにもみえた。 曲がった先の階段がどこに続いていくのかは、千秋には分からない。
上空には、晴れ渡った空に三日月が浮いている。
千秋はすっかり空になったラムネのビンを、路地の奥に見える三日月に向かって掲げてみた。 中に入っているビー玉が、カラン、と澄んだ声で鳴いた。
月明かりに透かされて、ビー玉はまるで、緑色の小宇宙に閉じ込められたガラスの地球のようだった。 そこだけで世界が創られ、そして、完結しているかのように。
その様子に心惹かれて、千秋はビンを掲げたまま、更に顔を寄せてそのビー玉を見つめた。
するとどうだろう? そのビー玉の上で、無数にうごめく何かが見える。千秋は、自分の眼を疑った。 ぱちぱちと瞬きをしてみたものの、やはりそれは気のせいではないようだった。ビー玉の上に、たくさんの人が見えるのだ。 人だけではない、動物もいる。山もある。海もあるのが見えるのだ。
「まさか。こんなこと、あるわけがない」
千秋はビンを逆さまにしてみたが、ビー玉はカラリと音を立てて飲み口の手前で止まってしまった。 ビー玉の上の人々は慌てる様子もなく、先ほどとまるで変わらない。
「帰して!」
誰もいないと思っていたところに突然の大声を投げかけられ、千秋はビクリと肩を震わせて、思わずそちらを振り向いた。
祭りの提灯の明かりやらをしょいこんでいる為、その声の主の顔は暗く、よく見えない。だが顔が見えないのもそのはずで、 その子は狐の面をしていたのだ。背格好と声からして、十二歳頃だろう。自分よりも少し幼く見えた。 真新しい藍色の浴衣に赤い鼻緒の下駄を履き、その浴衣には、赤いトンボがするりとひかれている。
その子は続けて言った。
「飴を寄越せ!」
「飴?」
千秋は、訳が解らずに聞き返した。
「キミの持っている飴だ!」
「……ああ、これか」
ようやく自分が綿あめを持っていたことを思い出して、目線を自分の横に置かれた綿あめに向けた。
千秋は、実のところ綿あめがあまり好きではない。知り合いの店で無理やり買わされたのに等しかったし、 捨てるにも勿体無くて捨てられずにいただけだったので、はっきり言ってこれはちょうどいい申し出だったのである。
千秋は、その子に向かって無造作に綿あめを差し出した。
その子は野良猫のように用心深くにじり寄って来て、千秋の手から綿あめをひったくると、 手にしたそれを不思議そうに見つめながら訊ねてきた。
「これが飴?」
「そうだよ。綿あめ。知らないで欲しいって言ったのか?」
言われて、少年の両肩がぐっと上がった。
「うるさい!!」
そう怒鳴ったかと思うと、その少年は千秋の前を走りぬけ、路地の奥へと駆けていった。
千秋はその少年の後姿をぼんやりと眺めていたが、その後姿もやがて夜の闇に溶け、消えてしまった。
少しばかり不愉快になって、ラムネを飲もうと飲み口に唇を押し付け、喉を逸らせて、ビー玉を舌先で押し上げる。 けれども、一滴も落ちてはこない。 そういえばとうに飲み終えてしまったのだということを思い出し、千秋はビー玉から舌を離した。
ところがその時、奇妙な事が起こった。
狭い路地にカランと音を響かせて、ビー玉が口の中まで下りてきたのだ。 千秋は慌ててビー玉を吐き出そうとして、けれど、そうはしなかった。 ビー玉だと思っていたそれは、ビー玉ではなく、飴玉だったからだ。
口の中で飴玉を転がしてみると、甘くはじけるサイダーの味が口の中いっぱいに広がり、舌先にしびれていく。 舌裏からは、じんわりと唾液が滲み出てきた。 どうやらこの飴は本物らしい。
さて、では、さっき見えたものは幻だったのかと思考を巡らせ始めたところで、祭りの通りの方から妙にはっきりと、 友人が千秋の名を呼んでいる声が聞こえてきた。どうやら、急に居なくなったのを心配して探してくれているようだ。
千秋は立ち上がり、口から飴玉を取り出して指先でつまみ上げ、月明かりに透かしてみた。 ビー玉だと思っていたその飴玉は、唾液にぬるりと包まれながらも透明に近い緑色の影を千秋の頬に落とし、 その奥には空に浮かぶ月が歪んで映るばかりだ。
今度は、人の姿も何も見えない。やはり気のせいだったのだろう。
透き通った緑の飴玉は美しく、舐めてしまうのはもったいないと思えるほどだったが、舐めかけの飴をとっておくわけにもいかない。 千秋はもう一度、それを口内に放り込んだ。 飴でべとついた指先を代わる代わる口に含み、舌に包み込んで舐めとると大きく伸びをする。
千秋は下駄をカラリコロリと鳴らしながら、祭りの方角へと足を向けた。 段々と近づいてくる祭り独特の賑やかさと眩しさに、思わず目を細める。
路地から抜け出し、祭りの雑踏の中へと身を戻した千秋は、やはりこちらがこの世のようだと呟いて、 友人にひらひらと手を振ってみせると、向こうもようようこちらに気づいた。
ラムネのビンは暗い路地に置き去りにされたまま、淡い光を放っている。
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祭りの夜の不思議なできごと。 | ||
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