春になれば |
光にかざせば、醜いところが白く、ホワイトアウトすると思っていた。柘榴のような、鮮やかで固い芯を、そしてそれを無理にでも欺瞞で埋めようとする心が、何よりも醜いと思った。
粘つく糸をひきながら、おびき寄せる花の芯は、とても私には不似合いで、不適切、不謹慎で。でも、それでも花なのだといって欲しかった。
純潔な百合は、無垢な白さを装う。その中は粘つく雌蕊が、ひたすらねだっている。そのような矛盾に、私は耐えられなかった。
つぼみのままでいれば、気がつかれやしない。
ただ、ひたすら待っているのだから。
「悪性、が見つかった」
玄関先で、彼が言った。彼は朝病院へ行き、夕方ごろ帰ってきた。眠れないから、診てもらおうと言って、私を安心させる微笑を見せた。検査には、そんなに時間はかからなかったはずだったが、彼がマフラーをきつく巻きつけけ、ホッカイロを手に握っているのを見て、もしかして、外にいたのかしらと思った。
私は、何科へいったの、と問うしかなかった。悪性の腫瘍なのか、いったいどこが悪いのだろうか、そう問う事は、もう私は勘付いていた。
勤めていたときから知っている、彼の眼光の鋭さは、私に向けられていなかった。何かに向けられていないのではない、その眼光の鋭さが、彼自身へ向いていたことにはっとした。そして、その鋭さは、ここ一年くらいの間、彼がよく見せていたものだったと。そして、その瞳には、薄く水の膜が張られていた。けれど、泣いてはいない。そういえば、表情は、ここ最近固かったなと思っていたことに、気がついた。
毎年、春先には、お寺へ桜を見に行く習慣ができた。付き合ってから、結婚した今までの年を数えると六年になる。私の名前は、旧姓に桜がついて、桜園という。ちょっと乙女的な名前に、時折うんざりし、新しい出来事は起こらないかといつも思っていた。今年の春も、桜を見に行った。今年は見ごろに雨が降って、アスファルトに桜がこびりついていた。仕方ないね、と彼は笑った。
こうして季節が巡ると確認するたび、私は自分の中でいつからか、時が流れなくなったように思える。季節が流れることは知っている。でも、体感として感じないのだ。そうか、冬が来たんだな、と感じたのは、この日の彼の持ち込んだ冷気とマフラーだった。
私の中で、冬は数年ぶりだと感じた。そして、その寒さに、凍えた。
そして私と彼は、会社を休むようになって、私と二人の時間を楽しんだ。筋肉質だった彼の背中は、私が知らない間に、ちょっと脂肪がつくようになっていた。老婦人のように、湯飲みで茶を沸かし、縁側で飲んでみた。分厚い雲の間から差し込む、太陽の鈍い光に、体が少し温かくなった。彼と一緒に料理もした。トマトの切りかたも分からない彼に、芯を先にくりぬいてから切るよう教えた。
「普段生活している中で、当たり前のように過ごしてきたけど、こうして、日常があるのかな。だから、こんなに空虚になってしまったのかな」
と彼はひとりごちた。
ホームセンターで、沢山の鉢に植えられた植物を見た。彼は、植物に水をやって、来年の春に咲かせるのだと意気揚々と語った。来年の春まで見通せる彼が、少し羨ましかった。彼の瞳は、生き生きとしていて、へんに水っぽくなくなった。私は安堵する。
彼が生き生きとすることは、とてもよいことで、とても、喜ばしいことだ。だけど、同時に私がずっと停滞していることを思い知らされるようで、くるくると回る彼の表情を見ていて複雑だった。
「春には、桜を見ような。もしかしたら、庭に桜の木を植えたほうがいいかな。気が遠くなるけどさ」
私は、笑った。
夢の中で、辺りが薄暗いなかを走り続ける。多くのひととすれ違う。何か、ひどい事を言い捨てた気がする。けれど、私は走り続けた。途中から下り坂になり、まばゆい光が目前に迫る。(目の前が眩しくなって、目がひくひくと動く。でも、夢から醒める事はない。)そして私は通り過ぎるひとの肩に手をかけて、笑ってちゃかして走り去る。それを何人も繰り返した。次第に、自分に優越感を感じて、幸せな気持ちになって、くるくると踊りだしたくなる。走りすぎて足がもつれて、転びそうになったとき、そこに彼がいた。足は疲れているけれど、爽やかな気持ちの笑みを精一杯につくり、彼の肩をたたき、走り去る。
(さようなら、さようなら。さようなら!)
走り去って、後ろに人が過ぎ去ったから、もう誰もいない安心だと思った。そうすると、光が遠ざかる。待って、と思った瞬間、私は崖から落ちて、夢から醒めた。
「雪が降ってきた」
彼がそう言って見ると、窓ガラスの外では、強めの風に吹かれた雪が舞っていた。お正月まで、あと少しだ。親戚に挨拶する習慣を持たない私の家では、特に気にかかる行事ではない。彼の両親は他界しているから、彼の多くの兄弟が私たちの家を訪れる。長男の彼は、いつも弟と妹たちのいいお兄ちゃんだなと見ていて思う。
「プランターは、家かな、寒そうだ」
そう言って、彼はプランターを縁側のあるほうの窓の近くに置いた。日光は当たらせたいということだった。そして、駅へ買い物に行こうか、と彼は誘ってくれた。正直、家に篭っているばかりで退屈していたところだった。私は読みかけでいっこうに進まない本を閉じた。
「今日は、好きなものを買ってあげるよ」
ハンドルを握りながら、ちょっと手慣れている雰囲気を出そうとしたその言い方からは、結婚前の、ういういしかった頃の彼の言い方を思い出し、少し笑ってしまった。久しぶりに、マニキュアが欲しいと感じ、マニキュアが欲しいと答えた。
「何色がいいの?この色が似合いそうだけど」
店員の女性が勧めてくるより先に、彼は私に合う色を選び出した。女性らしいし、肌が白いから、淡い色も似合うよと言ってくれた。私は彼には悪いけれど、どの色も魅力的に思えなかった。もっと、海のように深い、血よりも真っ赤な色が欲しいと思った。そう思ったら、黒に近い茶色に惹かれた。そう言ってみると、君らしくないな、と驚いた顔をされた。
「じゃあ、僕が君に似合うと思う色を」
そう言って、彼は淡いピンクを差し出した。その色は、少しいいなと思えた。
夜、お風呂からあがると、彼が変ににやついてしていた。そして、マニキュアの瓶をちらつかせ、これ塗らせてよ、と言った。足の爪になら、と言うと、私をソファに促され、彼は跪き、マニキュアの刷毛を瓶から取り出した。たっぷりとした色艶のある桜色を見て、彼はうん、と頷く。
「やっぱり、これが似合うかも」
そうつぶやいて、私の足の爪にマニキュアを丹念に塗りつける。一ミリもはみ出さないその塗り方は、器用で几帳面な彼の性格が出ていて、見惚れてしまった。そして、その丁寧なところが、彼を追いやったことを知っている。そしてその塗り方は、妙に美しかった。
そして、私思いつきで、声をかけた。
「フレンチネイル、ってできる?」
「フレンチ?」
「ごめん、ちょっと大変かな。二色の色を、部分的に乗せるやつなんだけど……難しいかな」
「いいよ、やってみる。ちょっとまって、ネットで調べるから」
そう言って彼は、パソコンを立ち上げて、調べ始めた。ベースの上に違う色を引けばいいのか、と頷いた後、層を分けれそうなテープを探して持ってくる。
「仰せのままに」
そう目を見開いて言われ、私が少し笑うと、彼も安心したように笑った。
「ちょうど、二本買ったし、いいね」
彼はそう言うと、液がたっぷりついたネイルを塗り始める。独特の匂いが鼻につくが、次第に慣れた。光に塗れててらてらと光る液体は、グロスのように艶やかで、艶やかだった。出来上がった、濃い茶色と、淡いピンクの組み合わせは、なんとなく私を穏やかな気持ちにさせてくれた。
はみ出さないで塗れるとはいえ、さすがに難しかったらしく、左足のネイルはよれてしまったが、コツを掴み始めたのか、右足のネイルはきれいに二層にくっきりとわかれた。これは、大切な宝物だなと、塗っている表情の彼を見て思った。なんとなく、今日のことは忘れたくないと思えた。嬉しさがこみ上げてきた。
「桜の木みたいね」
「え?」
「濃い茶色と、淡いピンク」
「あ、本当だ」
私の心にも、これを見ている間は、きっと春を焦がれるようになるだろうと信じる事ができて、乾いていた心が濡れるのを感じた。ありがとう、そうつぶやいて彼に寄りかかった。
わたしたちの街にも桜前線がやってきて、近所の公園にも春がやってきた。暖かな日差しに、私の心にも光が差し込んできたと感じる。プランターのつぼみは、ふっくらと色をつけ始めた。
数ヶ月経っても、私はネイルを除光液で落とす気になれなかった。新しい爪が生えてきてしまうと、それは歪に見えるけれど、私はそれがいいと思えた。彼はみっともないからやめろ、と笑っていた。ストッキングを履きながら、私は彼に告げた。ずっと、この爪を見て、春が来る事を待ち続けていたのだ。桜、見に行きたいな、と声をかけて、私たちは車に乗った。
毎年桜を見に行くお寺は、100段ほどの階段を登った頂上にある。私の肩まである髪をやさしく風は揺らし、彼は穏やかに微笑んだ。日差しは本当に穏やかだった。お寺に来ると、しゃんとした気持ちになれる。周りの背の高い木々のおかげで、空気は澄みきっていて、鳥が飛ぶ春の空はこんなにも広く感じる。親鳥が、泣く子供に餌をやり、ちいちいと鳴いていた。私は、心の不純物が、すっかり抜けきったのだと知る。世界のあれこれを見ても、ゆらがない。ただ、季節の移ろいに、心は揺れる。
「桜のつぎは、夏の花がいいかな。マニキュア、こんどは」
桜を見てうきうきと話す彼に微笑み、そうだね、と返す。心がこんなにも爽やかで、今までのじっとりした感じは私の中にはない。瞼の裏に思い浮かべる。春の次は、夏がやってきて、秋で寂しくなって、冬で、春に焦がれる。
だから、ここでまた季節が正しく巡るために、私は、ゆっくりと歩みだそう。
「マニキュア、勉強してもっとうまく塗れるようになるからさ」
「ふふ……そうだね、うん、……私、きみが浮気してたの、知ってたよ」
「え」
「こんなときにごめん」
彼は茫然とした顔で私を見つめ、顔を引き締めた。彼は何も言わない。
「結婚して、私が子供を作れる体じゃないことを知って、私以上に、君が動揺してたの、知ってた。ううん、そうじゃなくて、マニキュアの塗り方、上手で。私以外の誰かに、そうしてきたのかな。けれど、それは邪推かな。よく、街であのひと一緒にいるの見かけた。貴方の会社まで行って、夜どこに行ったかも、知ってる。ううん、なんだろう、追求じゃないよ。それはきっと、君にとって、正しい事だったんだと思う。それが、君の心のバランスをその時はとってくれたんだと思う。でも、君は、やさしいからちょっと辛くなって……」
私はそこで言葉を区切った。彼の優しさを、本当は私は知っていたと気がついたから。
「ごめん……」
彼は、言い訳もせず、肯定した。思わず、苦笑した。
「ううん、言うつもりはなかったんだよ。しょうがないと思った。でも、見ないふりをしていたら、私は進めないから。自分勝手で、ごめんね。でも、ずっと、君が憎かった。でも、君と一緒にいたかった。やっと、憎しみから、自分を開放できそうなんだ。別れるとかじゃないから、安心して。ただ」
私は一呼吸置いて、心に決める。
「一番、君を憎しみから解放してあげたかった。自分を責めるのは、もうやめて」
結局、私は彼が辛い顔を見ても見ないふりをしていることは、やさしさではなく、彼を苦しみで縛りつづけようとしていたのだと、気がついたから。
風がびゅうと、吹いた。彼は、下を向き続ける。ずっと、彼の顔は平面的な顔をしていたのだ。私にほんとうの感情を見せないように、のっぺらぼうのような顔をし続けていた。それが、崩れだした。彼の奥底から、辛い表情がのぼってきて、それを耐えようとした歪な顔が、彼の本当の顔らしいな、と思った。久しぶりに、彼の奥底に触れることが出来た気がした。そして、私の心の奥が、開いていく感じがした。
「こんどは、一緒に夏の花を見たいから」
私は掌を彼にあずけた。
「秋の花も、冬の花も」
掌を握り締めた。手の甲に、暖かい指の感触が返ってきた。
彼は、私に辛さと嬉しさの混じった本当の顔を見せてくれた。
夏になった。夫は、仕事から帰ってきて、冷たいシャワーを浴びている。
私の足の爪は伸び、先っぽに色を残していた。黒に近い茶色は、あと数ミリしかない。いい頃合だと思い、私は爪切りを探し、爪に刃をあてる。
(さようなら、さようなら)
今でのわたしとあなた。
ぱちん、と小気味いい音が鳴った。
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夫婦のはなし。 | ||
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