バイオハザード〜8. 永別〜
[全1ページ]

 紺碧に沈んだ世界を、心許ない光が照らしていく。背の高い木々の間から降り注ぐ月明かりと、木々が発する夜霧のために、洋館や木立は、海の底に佇む岩礁のように蒼褪めている。

 

 クリスは風によって梢が奏でる音の中に別の音が混じっていないか、神経を尖らせていた。視線が小動物のようにあちこちをせわしなく嘗め回る。

 

 小屋の外、通信機を拾った噴水の脇を通り過ぎた。クリスの前方を歩くジルとリチャードの足音が重なる。風が強くなってきたようで、木々が軋む音はより大きくなってきていた。上空では雲が速く流れていく。

 

 前方に聳え立つ大きな影に段々と近づいていく。まだライトの射程の外だ。ライトには闇しか照らされていない。

 

 自然と息が荒くなるのを、腹に力を入れて静める。続く緊張に思わず断っている煙草が欲しくなった。自分が思っている以上に、精神と肉体の疲労が大きい。

 

 ウェスカーが――いや、マリーニでもいい、とにかくそのどちらかが指揮してくれていれば、これほど不安を感じることも無かっただろう。そして何も気にせず、目の前のことに専念できる。

 

 だが、二人とも行方不明のままだ。雲の上を歩くような不安定さが、クリスの心をざらつかせていた。

 

 大きな雲が月を覆い、大地を照らしていた僅かな光が消えた。

 

 空気が重く、手足に粘りつくような異様な感覚、それが体を支配した。原因の分からない異変――いや、異変かどうかすら判別できない微妙な変化にクリスは戸惑った。世界はライトに照らされる直径二フィート前後の円――その範囲でしか、目に見える変化は知覚できない。

 

 耳が何かの音を拾った――ような気がした。聞いたという確信が持てない。風が草を撫でた音かもしれない。青臭さが少し増した気がした。だが、それも確かではない。地面を踏みしめる感触と獣の手触りだけが現実との接点だった。

 

 だが、歩を進め、闇に慣れる内に感覚が現実感を取り戻していく。そして――

 

 ――何かに観られている……?

 

 そう結論付けた。ゾンビではない。彼らは獲物を待つようなことはしないだろう。犬の化物だろうか。彼等の荒い息遣いは聞こえない。

 

 ただ、自分の荒い呼吸の音が耳に入ってくる。抑えようと努力するも、呼吸が乱れていくのを止められなかった。足が止まりそうになるのを堪え、前方に踏み出す。

 

 ショットガンの銃口を左右に振る。ショットガンに付属したライトが左右に動き、木々を照らしていく。しかし、監視者の姿はどこにもない。

 

 だが、何者かがクリスたちを見続けているのは確かだった。

 

 汗が頬を伝い、首筋へと流れていく。拭いたい衝動を堪え、神経を尖らせる。僅かな音、微妙な気配、それらを探るも何もない。

 

 クリスは前進しながら周囲を窺った。ジルとリチャードもクリスと同じものを感じ取ったのだろう、周囲をライトで照らしながらゆっくりと足を進めている。

 

 身体を縛り付けるような重圧感がクリスを縛り付けた。

 

 何かが地面を蹴り上げる音が耳に入る。梢や草葉の悲鳴が上がる。

 

 夜空よりも黒い影がクリスの目に入った。

 

 警告の声を上げる余裕は無かった。ただ、自分が視認した影へと銃口を向ける。

 

 ショットガンが咆哮を挙げた。炎が一瞬辺りを浮かび上がらせる。ライトとマズルフラッシュが一瞬だけ闇を裂いた。

 

 それと同時に聞こえてきたのは甲高い怒号――

 

 当たったという手応えがあった。銃の場合、それは錯覚に違いないのだが、それでも確かに手応えを感じるのだ。大地に重い衝撃が走る。地面に衝突した襲撃者が苦鳴を上げる。散弾を与えても命を奪い取るまでには至らないらしい。音から襲撃者の位置を把握し、そこに目を向け――クリスは舌打ちした。

 

 襲ってきた何かは一匹ではなかった。寂光の中に襲撃者の紅い目が幾つも見える。姿の見えない敵は複数。彼らに洋館への道は阻まれている。奇妙なのは、彼らがクリスたちと一定の間合いを保ったまま、一向に詰めて来る気配がないことだ。直接攻撃を仕掛けてきたのは最初の個体だけのようだ。

 

 こちらの火力に怯んでいるのか、もっと違う理由があるのか。

 

 下手に砲撃を加えれば、すぐ崩れてしまう、脆くも確かな均衡。乱戦状態となれば、攻撃手段が限られるこちらが不利だった。主導権は襲撃者に握られている。紅い目は獲物を追い詰めた狩人(ハンター)のようだ。

 

 その威圧感に、無意識にクリスの足は少しずつ下がっていく。

 

 そのとき、左後方の茂みから鬼気の様な物をクリスは感じた。

 

 クリスはとっさに右方に半歩ほど跳んだ。腕を畳み、ショットガンの砲身を顔の前で掲げるような形で保持する。

 

 一陣の風が顔面を撫で、鋭い何かが左頬に触れ、通り過ぎた。それは即座に熱い痛みに変わる。傷口から出た血が傷より下の皮膚を流れ覆っていくのが分かった。

 

 そして、何故か銃身に添えていた左手が軽くなり、銃把を握っていた右手に重みが増したことを感じ取った。ショットガンが両断されていることを脳が告げる。自分の判断にクリスは混乱した。銃声が響く。撃ったのはジルか、リチャードか。襲撃者の怒号が空気を圧する。

 

 着地し、石畳をブーツが軽く叩いた。同じくして、鋭い何かが石畳を掻いた。

 

 雲が流れ、月が顔を出した。月明かりが襲撃者の姿を照らし出す。

 

 襲撃者は鱗に全身を覆われた類人猿のように見えた。光を反射して紅く光る眼(まなこ)が獲物を前にした興奮に濡れていた。唇のない口には鋭い牙が見え隠れしている。

 

 日記に書かれていた怪物とは、おそらくこれのことだったのだろう。

 

 強靭そうな腕と脚、手の五指には十インチを超える長さの鉤爪が生えていた。その胸には散弾が減り込み、上半身が体液で濡れている。

 

 先の攻撃は牽制であり、囮だったのだ。獲物の注意を引き付けておき、後退して来た獲物が待ち伏せしていた伏兵が音もなく襲う。地面を滑るように接近し、繰り出された鉤爪は鉄の銃身を両断し、先端でクリスの頬を裂いた。もし跳んでいなければ、顔の肉をごっそり持っていかれていたはずだ。

 

 慄き自失していたクリスを仲間の銃声が現実に引き戻した。囮の意味がなくなったので、先の群れは行動を開始している。

 

 クリスはショットガンの残骸を投げ捨て、代わりに拳銃を引き抜いた。拳銃でどうにかなるような相手ではないことは分かるが、他に武器が無いのだ。狙いを頭部――眼球に狙いを付けたとき、銃声とともに横殴りの銃撃が銃撃者を襲った。頭の半分を失った襲撃者が地面へ倒れた。絶命している。

 

 銃声の方を見やると、リチャードが立っていた。反対側にはジルも立っている。彼らの後ろを見やれば、二体の襲撃者が血に沈んでいた。

 

 二人はクリスを中心に据え、円状に散開した。

 

 目を群れに戻す。赤い目はもう見当たらなくなっていた。一塊になっていた群れは闇の中で分散したようだ。

 

 闇の中より襲撃者がばらばらに音もなく、叫び声もなく飛び出してくる。迫る影は五つ。クリスの照準に迷いが生じる。そもそも、今夜経験したどの状況も戦闘も、それを想定した訓練など受けてなどいない。

 

 だが、二人は予め示し合わせていたかのように、躊躇することなく行動を開始した。散弾を持つジルが襲撃者の接近を防ぎ、スラッグ弾を持つリチャードが確実に一匹ずつ仕留めていく。標的が被るなどの愚行はせず、無駄な弾は一発足りとて使わない。ジルはクリスへと向かってくる襲撃者を余すことなく押し戻し、リチャードの銃弾は正確に急所を貫いていた。特にリチャードは、銃と一体になっているかのような見事な使い方だった。そして彼らは呼吸が合っている。彼らはお互いに合図などしていない。この暗さではアイコンタクトも役に立つはずも無い。にもかかわらず、お互いに相手が求めていることを察し、確実に応えているようだった。単なる信頼ではない、もっと深いところで彼らは繋がっているのだと嫌でも感じた。二人の関係は知っている。だが、これほど強いものだとは今の今までクリスは知らなかった。構えていた銃が自然と下がる。彼等の連携に、クリスが手を出せる余地など無かった。

 

立て続けに咆哮を上げるリチャードの銃の前に、瞬く間に襲撃者は断末魔の声を上げることすら無く倒れ伏していった。

 

「クリス動けるな?」

 

 足を止めず、リチャードの背が呼びかけてくる。彼の手は素早く弾を装填し、フォアグリップを動かした。

 

「俺とジルが道を開くから、おまえは別棟の確保に向かってくれ」

 

 クリスの返事を待たず、リチャードは次の指示をする。

 

「ジル、その後はクリスに続け」

 

「わかった」

 

「だが、リチャード――」

 

 クリスは漸く異議の声を上げた。だが、それをリチャードが制した。

 

「『だが』はなしだよ。これが最善だ」

 

地面に転がった、両断されたクリスのショットガンの残骸が目に入る。クリスは居た堪れなくなって、それから目を背けた。

 

「わかったよ」

 

 クリスは建物の方を見た。襲撃者たちの太い腕の向こう、月明かりに、そこまで繋がる道が照らし出されている。伸びた枝々が視界を塞ぎ、同様の理由で道幅をも狭くしている。そこを抜けられるかは賭けだ。まだ罠を張っていることも考えられる。

 

「ジル、行くぞ」

 

 少しずつ、三人は別棟の方向にいる襲撃者たちとの間合いを詰めていく。クリスは重心を、すぐ駆け出せるように移動させた。動きを読んで、襲撃者たちは別棟の方向の陣を厚くした。

 

 その刹那、リチャードはそれまで銃口を向けていた館方面の襲撃者に背を向け、別棟方向の襲撃者を撃った。道を防いでいた襲撃者たちが銃弾を受けてよろめいた。リチャードが装填したのはスラッグ弾ではなく、散弾だったのだ。よろめいて出来た隙間にクリスは駆け込んだ。同時にジルが発砲。背を向けたリチャードに襲い掛かった襲撃者に、だろう。

 

 包囲を抜けたクリスをブーツの音が追った。銃声は続いている。両脇の藪からはみ出た枝がブーツやズボンを引っ掻いた。

 

 出張った枝を潜り、目的の建物の前に辿り着いた。数段の石の階段の上に、洋館と比べれば粗末な木戸がある。それが入り口らしい。外壁は石造りで、その上を這うようにして生える鶴植物が年期を感じさせた。建物全体の大きさは分からないが、洋館よりも小さいようだ。

 

 左手に取っ手を握り、そこで初めてクリスは振り向いた。こちらに駆けて来るジルと、砲撃を浴びせながら後退するリチャードの姿を見る。石段の下でジルは立ち止まり、ショットガンではなく拳銃でリチャードの援護に回る。

 

 それを見届け、クリスは取っ手上部にある金具を親指で下げて戸を開けた。扉からはカビと腐臭が漂ってくる。

 

 中は館と同じく、淡い明かりがついている。素早く周囲の安全を確認する。中に入ると、悪臭が一段と濃くなった。正面はすぐに行き止まりで、左手の通路が奥へと続いていた。壁も床も丈夫な木板が直に張ってあり、踏み込んだ足の重さをしっかりと受け止めている。床には埃が積もっており、誰もここに訪れていないことが分かる。小さいフリーラックも同様に埃を被っていた。天井には蜘蛛の巣が幾重にも張られている。洋館で遭遇した巨大蜘蛛が嫌でも思い出された。

 

 目に見える範囲に脅威がないことを確認する。確認の合図を発する前にジルとリチャードも中に侵入した。

 

 リチャードが手近に有った木片を取っ手に差し込む。だが、あの襲撃者たちにはドアごと破られそうだ。

 

「気休めにもならない――ンじゃないか?」

 

 頬の傷のせいで、口を動かすたびに鋭い痛みが走った。クリスは左手で傷を抑えた。ぬめりとした血の感触が指先に伝わる。

 

 クリスの焦燥の混じった言葉にリチャードは首を横に振った。

 

「用心にこしたことはない。それに、あいつらはもう居ないからな」

 

「全部……倒したのか?」

 

 それにもリチャードは首を横に振った。浅く激しい呼吸にリチャードの肩は上下している。

 

「まさか。だが、奴らここに近づいた途端、動きが止まった。そして、姿を消してしまったよ」

 

「どういうことだ?」

 

「ここに近づくことを避けたように見えたな」

 

「あいつらも恐れるような何かがここに居るということか……」

 

「単に縄張りじゃないだけかも」

 

 フォレストたちへの通信を終えたジルが口を挟む。フォレストたちへ、あの襲撃者たちの情報を伝えたのだ。しかし、彼らの武器は拳銃のみなのだ。一斉に襲い掛かられたら対応しきれない。

 

「あと何匹残ってた?」

 

 奥へと進み始めたリチャードの背に問いかける。じんわりと冷や汗が浮き出てきていた。

 

「十匹弱だ。あれが全部とは限らないけれどな」

 

 一番手前の扉を開け、中を確認しながらリチャードがさらりと答えた。その様に、リチャードの余裕に、クリスの心は苛立った。頬の痛みも伴って、語気が荒くなる。

 

「くそっ。なら、早くここの探索を切り上げて戻らないと――」

 

「その前におまえの治療だよ」

 

 リチャードは開けた部屋を親指で示した。

 

「こんな傷、どうってことない!」

 

 叫んだクリスのわき腹にジルの拳がめり込んだ。身体に似合わない重い拳に苦鳴が漏れる。

 

「言うことを聞きなさい。この先どうなるか、その傷がどう響いてくるか分からないでしょう。それに、もう仲間が死ぬのは御免なのよ」

 

 呻くクリスにジルが静かな怒りを湛えた声が振りかかった。

 

「そういうことだ。ジル、クリスを診てくれ。弾は俺が補充する」

 

 そう言うとリチャードはさっさと部屋に入ってしまった。ジルもそれに続く。

 

 脇腹を摩りながら、クリスも彼らを追った。扉の上にあるプレートに《001》と刻まれているのを見てから、クリスは部屋に踏み入った。

 

 リチャードに銃を渡したジルが机の上にあったランタンを持ち上げた。彼女が歩くたびに部屋の光と影が目まぐるしく交代する。ビジネスホテルの一室程度の面積にベッドや机といった最低限の家具が置かれていた。部屋の主は慌てていたらしく、ベッドの上には物が散らばり、椅子は倒れていた。入り口に立って左手側の壁にはバスルームにでも繋がる扉とミニキッチンがある。

 

 ジルはランタンをベッドの上に置くと、クリスを手招きした。

 

 クリスがベッドに腰を下ろすと、ジルはクリスの傍に膝を付き、バックパックから必要な道具を取り出した。

 

 消毒液に浸した脱脂綿がクリスの頬を優しく撫で、血を拭って行く。冷たい感触が戦闘で火照った身体には心地よかった。

 

「これじゃ駄目ね。クリス、悪いけど自分で傷口を照らしてくれる?」

 

 ランタンの明かりだけでは不十分だったようだ。ジルが差し出したライトを受け取り、クリスは自分の傷を照らした。一瞬、眩しさに目を細める。ライトから発せられる熱が傷を包んだ。

 

「もう少し離して……そう、そのぐらい。はい、じっとしてて」

 

 ジルはまた流れた血糊をふき取り、傷を確認している。頬の皮を少し引っ張られたが、苦鳴を飲み込んだ。

 

「安心して。それほど深くないみたい」

 

 治療の間、クリスは目を瞑っていた。ジルの顔がすぐ傍にあったためだ。目を瞑ったせいで、平時よりも様々な音が耳へと入ってくるように感じられた。自分の拍動すらも聞こえるかもしれない。

 

 ジルの静かな息づかい。彼女は独り言が多いようだ。口の中で小さく呟いている。それと重なって、椅子に座ったリチャードが弾を込めていく音が聞こえる。ショットシェルが弾倉へと入っていくたびに金属が頼もしげな音を立てていた。

 

 クリスは先程の戦闘を思い出していた。あんなジルは見た事が無かった。交戦中であるにもかかわらず、余裕すらある身のこなし。その余裕が動きのひとつひとつのキレを良くしていたのだと、クリスは分かっている。彼女の余裕が信頼と安心感から生まれていることも。

 

 二ヶ月前まで、この二人は同じチームだったのだ。三年弱、死地を共にしていた。その頃から何度も繰り返されてきた戦い方であり、紡がれて来た強い絆だ。

 

 始めから入り込む余地は無かったのだ。クリスは胸中でそう自嘲した。

 

「終わったよ」

 

 ガーゼを当て、テープでしっかり固定されている。口を動かしてみると、多少の抵抗があった。だが、普通以下の大きさの声を上げるなら、それほどの不都合はなさそうだった。

 

「すまない。ありがとう」

 

「はいはい。どういたしまして」

 

 クリスの言葉に微笑を返したジルにリチャードがショットガンを渡した。

 

「俺が先頭を行く。その後、クリス、ジルと続いてくれ」

 

 リチャードはドアの隙間から周りを確認し終わると、そう告げて滑るように廊下へと出て行った。少し間隔を置いて、クリスはリチャードに続いた。ショットガンに付けていたライトは回収できなかったため、バックパックからハンディライトを取り出して辺りを照らす。通路の幅広めで、たとえ三人が並んでもそれほど閉塞感は無いように思われるほどだった。汚れた窓からは、僅かながら月明かりが差し込んでいる。通路は折れ、両脇の壁に窓が無くなった。変わりに幾つか扉があったが、戸を叩いても反応は無い。個々の扉の上には個室のナンバーブレートが鈍い金属の輝きを放っていた。ここは研究員や使用人のための寄宿舎といったところなのだろう。

 

 洋館のことがあるので、クリスはしばしば天井にライトを向けた。

 

 リチャードの歩みが止まった。見ると、彼のライトは床に転がる人影を照らしている。近づいていくと、頭を何かで砕かれた死体だった。

 

 生きた人間がゾンビを倒したか。だが、それを為した人間が今でも『人間』のままでいるかは分からない。

 

「さっきのあいつら、何だったんでしょうね?」

 

 後方を警戒するジルが囁くように疑問を口にした。

 

 長い爪と硬い鱗を持ち、犬程度の知能を持つ二足歩行の怪物。ゾンビや犬、クモなどは此処で研究されていた生物兵器に感染したことによるものだと納得できないこともない。しかし、あれは違う。明らかにこの地上にいるはずのない生物だ。日記からだと、あれは事故が起きる前からあの姿だった。

 

「ここで研究していた生物兵器ってとこかな」

 

「あいつらがもっと大きな群れでくれば、一個小隊くらいは葬れるかもしれない。対人兵器としては十分有効だろう」

 

「撃退した奴が言う台詞じゃないね」

 

 思わずリチャードに皮肉を吐いてしまう。前方のリチャードが苦笑を漏らすのが聞こえた。クリスはすぐに話を戻した。

 

「結局、疑問は一つに収束してしまうんだが……此処は何だ?」

 

「政府の施設ではないことは確かね」

 

「言い切るな。兵器開発なら軍が真っ先に思い浮かぶものだけどな……二ヶ月以上、放置されていたからか?」

 

 肩越しにジルを見る。彼女のライトの明かりに反射した埃が廊下の薄闇の中で星のように輝き舞っている。頷いたのか、光の筋が少し上下に揺れた。

 

「そうよ。装備の整った部隊なら、ここを制圧することは難しくない」

 

「大部分の装備を置いてきてしまった俺たちがまだ生き残っているのが、その証拠……か」

 

 クリスがつぶやいた時、目の前に階段が現れた。上と下、その両方に黒い口を開けている。リチャードにどうするか、問いかけようとしたとき、リチャードが口元に当てた指にしぃっと鋭く息を当て、階上に視線を向けた。クリスも耳を澄ます。コツコツと、硬い靴底が床を叩く音が微かに聞こえた。

 

 クリスはリチャードを見た。その視線を受け止めたリチャードが頷き、階上にライトを向けた。

 

「おい!誰か居るのか!?」

 

 階段を上りながら、リチャードが大声で呼びかける。だが、返される言葉はない。

 

 三人の体重が加わり、階段は大きな悲鳴を上げている。

 

 登り切ると、一階と同じような光景が広がっていた。足音は消えている。あれは気のせいだったのか。

 

 リチャードの呼びかけの声だけが無人の通路に木霊する。

 

 似たような扉が続く中、それまでとは違う扉がライトに照らし出された。幾星霜を隔てたような木戸に似つかわない、真新しい金具と南京錠が明かりを反射している。

 

 何かの保管庫に部屋を使っているのか。その考えを真新しい南京錠が否定する。誰かを閉じ込めたのだ。

 

 ――ゾンビを?

 

「ジル、開けられるか?」

 

「誰に言ってるつもり?」

 

 ドアを叩いて反応がないことを確認したリチャードの言葉に、ジルがわざと小馬鹿にした口調で答えた。ジルは鍵穴にフックピックを掛け、その後平らな金具――テンションを突っ込んで小刻みに動かした。そうして内部のシリンダーに圧力をかけているのだ。ほんの一、二秒で金属音と共に南京錠が外れた。

 

 リチャードが扉に手を掛けゆっくりと開けるのを、クリスは扉に銃口を向けながら待った。ドアの隙間から、悪臭に慣れたはずの嗅覚を貫く腐敗臭が流れてきた。開け放たれると、その猛烈な臭気は一気にクリスたち三人を包み込む。クリスは咳き込みたくなるのをどうにか堪えた。

 

 左手に持ったライトが部屋を照らす。放射される光は部屋の中央に、宙に浮く人影を浮かび上がらせた。深く息を吸わないよう気をつけながら部屋へと入る。臭気はこの首吊り死体からだ。三つの光がみすぼらしく朽ちた死体を彩った。天井の梁に幾つも結び目がある細長い布が何重にも掛けられ、それは死体の首元にまで続いている。安物ではなさそうなシャツとスラックスは自身の腐汁で赤黒く汚れていた。臀部に大きな染みがあり、床には排泄物の跡が残っていた。死後、一月以上は経過しているだろう。

 

 後ろで、臭いに後ずさりしたジルの足が倒れた椅子を軽く蹴った音がした。

 

「そいつはこの部屋の持ち主じゃないみたいだな……クローゼットが空だ」

 

 死体を尻目に部屋を捜索していたリチャードが告げる。

 

「感染した人間を隔離していた?」

 

「それならもっとこういう部屋があるはずよ。押し込めていたなら分かるけど、ここには彼一人しかいない」

 

 ジルの否定の言葉を背中にクリスは備え付けの机に近寄った。

 

 ライトに照らされた、埃に白く光る机上に黒い表紙の手帳とペンが置いてある。

 

 拳銃を仕舞い、それを手に取る。ライトを口に加え、ページをめくる。カレンダーにはアルファベットと数字の組み合わせが書き込まれている。本人か、ここの職員にしか分からない略号なのだろう。

 

 さらに捲ると長い文章が現れた。

 

 

 

『親愛なるエイダへ。

 

 エイダ、この手紙を君が読んでくれることを私は望まない。もし、これを読んでいるならば、すぐにでも逃げてほしい。人間の成れの果てを、君は見てきたことだろう。そうだ。ずっと恐れていたことが起きた。事故であったにしろ、その引き金を引いたのは私だ。

 

 おそらく空気中のT(タイラント)‐ウィルスは感染力を失っているだろうが、ウィルスは感染体の体液から容易に感染してしまう。もし感染生物に接触したのならば、すぐにワクチンを打たなければならない。T‐ウィルスは姿を急速に変える。保存室にワクチンが残っているはずだ。

 

 ただ、もしできることならば、動力室に行って起爆装置を作動させ、映像室に置いてある資料を持ってから脱出して欲しい。そして、ここで行われていた事の全てを公にしてくれ。それに私は失敗し、この部屋に監禁された。

 

 セキュリティシステムが正常に機能していれば、研究所のロックは全て解除できる。これには私のIDカードで小実験室にある端末からログインし、さらにパスワードを入力すればアクセスできるはずだ。パスワードは「ADA」、君の名だ。IDカードのコピーが洋館にある所長室の、私の机の引き出しの裏に貼り付けてある。私の裏切りの発覚からウィルスの漏洩が起こるまで時間が経っていなかったから、システムの変更はされていないはずだ。

 

 君があの日、研究所を出ていたことを神に感謝している。

 

 私は、君の前に恥ずかしい姿を晒してしまっていることだろう。本当にすまない。

 

 君の無事を祈っている

 

 ジョン』

 

 

 

 恋人へ当てた、研究員の遺書。ゾンビになる前に死を選んだということだろう。文を信じるならば、この死んだ男が此処の最高責任者であり、一連の猟奇殺人事件を引き起こした張本人だ。ここに書かれているエイダという女性はジョンの願いどおり来なかったようだ。もしくは、何処かでゾンビの餌食になったか。

 

 クリスは酷く冷めた気持ちでそれを考えていた。祈りの込められた末期の言葉も。

 

「ジル、リチャード。この男の遺書らしい」

 

 放った手帳はリチャードの手に捕まれた。二人が顔を寄せ合うようにして手帳を読んでいる間、クリスは拳銃を抜いて廊下の警戒に当たった。

 

 動くもののない暗い通路を見ながら、情報を整理する。

 

 ジョンという名の所長は此処で開発されていた兵器を公にしようとして監禁された。だが、それと生物兵器の漏洩が繋がらない。

 

 ――公にするために生物兵器を持ち出した?

 

 そして捕縛されるときのいざこざでバイオハザードが起こった。それなら一応の説明は付く。しかし、生物兵器の漏洩に対してジョンは第三者の眼で書いている。

 

 それに《T‐ウィルス》という名のエマージング・ウィルス。感染体の体液から感染し、生物を化け物に変える。だが、果たしてゾンビ化が生物兵器として売り物になるのか疑問だ。

 

 クリスは左手を見た。グローブからはみ出している、血の滲んだ包帯――ゾンビに噛まれて出来た傷。

 

 そう。最悪なのは、そのウィルスにクリスは感染している可能性が高いということだ。数日中にはゾンビとなり、生者の肉を貪るようになる。救いはワクチンが残っている可能性があることか。洋館と研究所を分けて書いている以上、研究施設は洋館と別に、おそらくはエレベーターを降りた先にあることが予想できる。しかし、ワクチンが残っていたならば、そしてそれに効果があるならば今の状態にはなっていないのではないか。何か理由があったのだと、疑念を振り払う。少なくとも、今はワクチンにしか生き残る道はない。また、ワクチンが手に入れば培養できるかもしれない。

 

 背後の足音でクリスは振り向いた。 

 

「クリス、あなたのナイフ貸してくれない?」

 

 遺書を読み終えたらしいジルが手の平をこちらに向け、指を動かしている。

 

「何に使うんだ?」

 

「死体を下ろすの。吊るされたままじゃ可哀想でしょ」

 

「奴はここの所長で、この連続殺人の元凶なんだぞ。それを――」

 

 怒気の篭ったクリスの言葉をジルの微笑が止めた。

 

「……死人に善人も悪人もないわよ」

 

 クリスは分かったよと呟いて、胸にある鞘からナイフを抜いて渡した。

 

「……起き上がったりしないだろうな?」

 

 ジルからナイフを手渡されたリチャードに問い掛ける。リチャードは倒れていた椅子を立て、それの上に立った。

 

「二ヶ月以上栄養を摂取してないんだ。首吊らなくても死んでるだろう」

 

 ぶつりと音がして、死体は床に落下した。腐敗した肉が水のような音を立てる。ジルがそれにベッドのシーツを掛けた。当然だが、ジョンが起き上がることはなかった。

 

「さっきの足音だが――」

 

 白い布に浮かぶ死体のおうとつが人を不安にさせる影を落としている。ナイフを鞘に納めながら、クリスは続けた。

 

「こいつの亡霊だったりしてな。ここを見つけて欲しくて」

 

「クリス……」

 

 耳聡く聞きつけたリチャードが制止の声をあげる。

 

「言ってみただけさ。冗談だよ」

 

 クリスは曖昧に笑みを浮かべた。あの足音は空耳ではない。ゾンビなら逃げる必要がない。生きている人間なら隠れる必要がない。

 

 ――残るは。

 

 ふと気付いたことを口に出した。

 

「もしかしてリチャード、オカルトが苦手なのか?」

 

 リチャードは呆れた様に深く溜息を吐き、クリスをじろりと一瞥した。そのまま無言で階段の方へと歩いて行ってしまった。クリスは慌ててそれを追った。

 

「随分余裕があるじゃない?気を使って損したわ」

 

 ジルは何故か面白そうにころころと笑いながらクリスの背に言う。

 

 全員が一階に降りると、リチャードが地下へ続く階段を照らした。

 

「念のため、地下も見ておこう。それで切り上げる」

 

「まだ調べていないところがあるが……」

 

「出来るだけ早くワクチンを打った方がいいだろう?」

 

 そう言ってリチャードは階段を下りていく。地下は地上とは違う悪臭が漂っていた。血とでんぷん質の生臭さが混ざったような、居心地の悪くなる臭いが鼻腔に侵入してくる。

 

「これ、何の臭いだ?」

 

 地下は配線が切れてしまったのか、電灯はついていない。ハンドライトだけが唯一の光源になる。寄宿舎全体に言える事だが、建物の作りは洋館と比べて雑だ。照らし出された通路の壁は心なしか歪んでいる様に見える。

 

「何にしろ、愉快なものがあるわけじゃなさそうね」

 

 ジルの声が低い天井に反射している。

 

 天井は丈夫な木の板と太い梁が張られ、梁には金具が付いている。そこに照明器具を掛けるようだ。

 

 顔に空気の流れを感じた。涼しげな微風が通路を泳いでいる。

 

「気をつけろ。天井が落ちている」

 

 リチャードが鋭く注意を呼びかける。リチャードの見つめる先、山になった砕けた木材に月明かりが注いでいる。一階だけでなく、二階まで巻き込んだ崩落らしい。圧し折れた燦がのけぞる様に残っている天井から垂れていた。

 

臭いが強くなっている。ここに臭いの源があるようだ。

 

「これは老朽化じゃ説明が付かないわね」

 

 ジルが開いた穴を見上げて言う。直径七フィートほどの大きな穴。見た目だけならモグラや蛇の巣穴のようにも見える。穴には飛び出した梁や、床板が出張っており生き物の骨格のようだ。

 

叩き付けられた木の破片が積み重なっているため、酷く歩きにくい。躓いたり、よろめいたりしながらクリスは辺りを見渡した。空間は意外に広く、二十坪ほどだろう。

 

「巣だな。これは」

 

 しゃがんで足元を調べていたリチャードが何かを摘み上げていた。親指の爪ほどの大きさの、光沢を持つひし形の物体。

 

「……それ、鱗か?」

 

「そのようだ」

 

「屋根裏で襲ってきた、あいつね」

 

「だといいが。あれ以外に居るとは考えたくはない」

 

 ため息のような吐息をリチャードはして、鱗を捨てた。

 

「恐竜ってのは誇張じゃなかったんだな……外の化け物が入ってこない理由はこれか?」

 

「かもな」

 

 リチャードは何かを探すように足元をライトで照らしながら、ゆっくりと歩いていく。

 

 ここが大蛇の巣だということは、この臭いは蛇の臭いということだ。

 

 気になるのは、蛇は今どこに居るのか。洋館に未だ居るのか、森に出ているのか。

 

 銃声が響いた。何があったのかと、慌てて駆け寄る。硝煙の上がるリチャードの銃の先には一フィートくらいの蛇が十匹あまり死んでいた。散弾で吹き飛ばされた肉片があたりの木材にこびり付いている。身体に、黒褐色の鎖のような文様が見て取れた。それに長さの割に胴が太い。

 

「そいつはその……大蛇の子供かな」

 

「多分。生後どのくらいかは分からないが」

 

「マムシみたいだ。だとすると、二十匹ぐらいは生んでいるな」

 

「もしもよ。巨大化もウィルスの影響だと仮定するとして、子供にまでウィルスの影響が受け継がれている可能性は?」

 

「そいつは俺たちの知識じゃ……こういうときこそウォーカーが居ればな」

 

 出動していない仲間への毒づきが漏れる。

 

「子供にまで受け継がれているとすれば厄介だ。幼体の大部分は淘汰されるだろうが、捕食者や分解者を通して感染は広まってしまうかもしれない」

 

 そうなれば事態が明るみに出る頃にはラクーンシティは罹患者で溢れているだろう。

 

「じゃあ、リチャード。残りの子供を捜すか?」

 

「明日にでも安全を整えた上で焼き払った方が良い。これだけ居たってことは、蛇たちにとって此処は居心地が良い所なんだろう。そうそう、出てはいかないんじゃないか?」

 

 そう言ってリチャードは元来た道を示した。

 

「親が帰ってくる前に出なければな」

 

「あなたの銃声を聞きつけて、飛んでくるかもね」

 

 親が帰ってくるという言葉にジルの顔色が少し変わっている。クリスは見ていないので分からないが、実物は余程恐ろしいものらしい。

 

 ジルを先頭にして、クリスたちは巣を出た。一階に上がるが、先ほどと何も変わっては居ない。クリスはカビ臭い空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 

 しかし、地下の臭いを嗅覚が感じ取った。染み付いたヘビの臭いは当分取れそうにない。

 

 

 

 

 銃声とともに精巧な鍵のかけられた扉が無残に砕け散った。

 

 如何に精緻の極みを尽くした防衛も、暴力に駆逐されてしまう。

 

 蝶番とドアノブを破壊されて内側に倒れこむ扉を見ながら、ジルは感傷的に思った。

 

「中に鉄板でも入っていたらお手上げだったな」

 

 扉の破片を足でどけながらリチャードが言う。

 

「道具が揃っていれば、こんな野蛮なことしなくても済んだんだけどねえ」

 

 口惜しげに言いながら、ジルは構えていた拳銃を下ろした。

 

 ジルとリチャードは洋館二階の、所長室に繋がると思われる通路の前にいる。ここは先刻、クリスが最初に喰人鬼に襲われたと言っていた場所だ。

 

 今、そのクリスは同行していない。彼は仕入れた情報を手にレベッカとフォレストの待つ玄関ホールに向かった。その際、ジルはショットガンを渡している。あの長い爪の狩人たちに襲われたら拳銃だけでは対処できないからだ。訓練生のレベッカを守りながらではそれでも厳しい戦闘になるだろうが。

 

 寄宿舎から洋館まで、狩人たちの襲撃はなかった。大蛇の臭いが染み付いていたからだとクリスは主張していたが、ジルは単なる偶然だと思っている。また、あの退散の仕方は何処か、生物的なものというより機械的なものを感じていた。

 

 背後を警戒しながら所長室を目指す。壁紙も何も他の場所と変わっていないが、一枚の静物画が掛けられていた。青白い花瓶に溢れんばかりに活けられた白い小さな花。素朴だが、とても温かみのあるタッチで描かれている。それはこの状況では酷く浮いた絵に見えるが、骨董品店で見かければ立ち止まって見つめてしまいそうな一品だ。

 

 これは、あのジョンという男の趣味なのだろうか。初めて、ジルはこの館の物に好意を持つことが出来た。

 

「ディック、そういえばクリスにばれちゃったわね」

 

「……何を?」

 

「あなたが幽霊とかそういうの苦手だってこと」

 

「…………」

 

 憮然と押し黙ったリチャードの気配を感じ、ジルは笑いを押し殺した。

 

「ここだな……」

 

 ジルたちは所長室の扉の前に辿りついた。室内は電灯が点けっ放しの様で、扉の下の隙間から明かりが通路に漏れている。

 

「鍵は?」

 

 もし掛かっていれば、先ほどのように銃を使うわけにはいかない。中のものを破損させてしまう危険がある。

 

 ドアノブを捻ったリチャードが首を横に振った。

 

「残念だが、掛かっていないようだ」

 

 そう告げて押し開いたドアの向こうは他の場所のように血にも腐汁にも汚れていない、綺麗なままだった。

 

 争った形跡もない。ジョンは無抵抗で拘束されたということか。

 

 奥にもう一つ扉がある。開けて中を素早く確認する。こちらは電気が点いていない。シングルベッドがライトに照らされた。寝室のようだ。脅威がないことを確認し、ジルは扉を閉めた。

 

 最初にジルたちを出迎えた部屋は横に長い十畳ほどの大きさで、床はベージュのカーペットが敷かれている。向かって右側に書棚があり、それと対になる形でソファーが置かれている。元々、館の主のために作られた書斎なのだろう。天井には美しい文様が彫られ、繋がった五つの球型電灯がその中央から白い光を部屋に注いでいる。

 

 問題の机は大きな窓を背に鎮座していた。上にはパソコンが置かれている。配線はカーペットの下を通っているようだ。机の正面に立ったリチャードが開けた引き出しに手を突っ込み、机の裏をまさぐっている。リチャードの表情が少し動き、やがて一枚のカードを掴み出した。

 

「これだな」

 

「それでエレベーターも動くと思う?」

 

 中庭のエレベーターは電力が供給されていなかった。スイッチを押しても反応はない。だが、スイッチの横にカードリーダーのような溝があった。それで認証してから起動する仕組みだとすれば、安全に研究所へと行ける。

 

「駄目だとしても、幸いリフトは下に降りている。縄を垂らすなりして降りれば良い事だろう?」

 

「降りている途中で襲われたら終わりね」

 

「ここに居ても死ぬのが長引くだけだ。帰り道がないんだから、進むしかない」

 

 リチャードはカードをジルに差し出した。ジルはそれを防弾ジャケットの内ポケットに仕舞う。

 

 遺書の言を鵜呑みにするならば、研究所には《T‐ウィルス》の研究データがある。それが手に入れば、此処で起きたことを信じてもらえるし、後々の調査もし易くなる。

 

 公表されればアンブレラに連邦捜査局の手が入り、またこのウィルスの処方案も生まれるかもしれない。

 

 机の上のパソコンが目に留まる。去年の冬に出た、新しいモデルだ。黒い大きなブラウン管にリチャードと自分の姿が映りこんでいる。

 

「ねえ。パソコンに何か入ってるんじゃない?」

 

「そうだな……」

 

 リチャードがパソコンを起動する。ハードディスクが音を立て、プログラムが立ち上がっていく。ブラウンが青い起動画面を映し出した。

 

「ロックが掛かっている。コードを入力しないとならない」

 

「『ADA』は?」

 

 リチャードの指がキーボードを叩いていく。

 

「駄目だ。『JOHN』では……」

 

 キーボードを叩き、決定キーを押したリチャードの顔が曇る。

 

「入れないな」

 

「二つを繋げてみたら?」

 

「駄目だ。順番を変えても……同じか。さぁて、次は全てのキーの組み合わせを試してみるか?」

 

「あと何回朝日が昇るかしらね。残りは一通り、ここを調べてみましょう。わたしはあっちの寝室を調べてくる」

 

 リチャードの返事を背中で聞き、ジルは扉を開けた。

 

 明るい所に居たために、電気のついていない部屋に視覚が付いていかず暗幕が目の前に下りたようになる。ライトで電灯のスイッチを探す。

 

 電灯が点いた寝室は六畳ほどの広さだ。ベッドは北側を頭に置かれ、西側の窓には厚いカーテンが掛かっている。ベッドは綺麗に整えられているが、埃が積もっている。だが違和感がある。この寝室は先ほどの書斎と違い、生活臭がない。埃も、漏洩事故以前から存在していたものだろう。ここの所長はベッドで寝ることすら出来ない生活を送っていたようだ。

 

 ――不幸な生活ね。

 

 少し同乗しながら辺りを調べる。年代物のベッドデスクの引き出しを開けると手垢で汚れた聖書が奥から出てきた。その容れ様は仕舞ったというよりも隠したという意図を感じさせた。

 

 そのことが、ここでどのようなことが行われてきたのかを示しているようである。

 

 部屋の南側の壁に扉があり、開けるとバスルームがあった。寄宿舎や洋館の個室にあったものと比べても、非常に大きい。強めの白色灯によって、ただでさえ白い浴室が雪原のような印象を与えていた。一人でいると孤独感に苛まれそうなほどに。

 

 洗面台には剃刀やローション、シャンプーやリンスのボトルが置かれている。

 

 ふと見ると、洗面台の横、バスルームの東側に更に扉がある。

 

 廊下を含めた構造を考えると、一畳あるかなしかのスペースしかないはずだ。戸を引き開ける。戸の向こうは何の家具もない。ただ、床の穴から梯子の先が飛び出している。

 

「ディック! 面白いものを見つけたわ」

 

 ライトで穴から下を照らす。書棚のようなものが幾つも並んでいる。書庫か資料室といったところだろう。

 

 梯子は一階へのクッションとなる中二階までで、そこから少し行ったところに一回へ降りる梯子が伸びている。

 

 中二回に何も居ないことを確認し、ジルは降りてみることにした。足を梯子に掛けた時、リチャードが入ってきた。

 

 梯子を見て、リチャードの眉がひょいと上がった。

 

「下はどうなってる?」

 

「書庫みたい。研究データはないでしょうけど、参考になるものはあるんじゃない?」

 

 梯子を降りたところに電灯のスイッチがあった。灯りを点けると、部屋の全容が明らかになる。三十畳ほどの部屋に市の図書館にあるような背の高い書棚が十以上並んでいる。棚の固まりは北と南で二つに分かれており、中央には長いテーブルが二つ置かれていた。

 

 暖色系の電球に照らされた部屋は荘厳さと穏やかな空気が同伴している。書棚の間などには影が溜まっており、明かりが届かない箇所も多い。ただ、耳を澄ましても何かがうごめく音はしない。

 

「おい、あまり先行するなよ」

 

 一階に降りたジルにリチャードの注意が飛ぶ。ジルはそれに手で応えながら、棚に並べられた書籍の背表紙を眺めた。

 

 棚にはナンバリングが施されており、分野ごとに整理されているようだ。狂犬病にエボラ出血熱など、ジルが見ている棚にはウィルス感染症についての論文や学術書が並んでいた。英語やドイツ語、フランス語だけでなく、スペイン語や中国語で書かれた本も少なからず置かれている。

 

 ジルが手近にあったC・J・ピーターズによるエボラ出血熱についての論文を手に取ったとき、何かが激突する音と共に部屋が大きく揺れた。ジルは本を振り落とし、拳銃を構え周囲を見渡した。天井からぱらぱらと埃や塵が舞い落ちている。

 

 音は一度ではなかった。外側の壁に重い物を叩きつけているような振動が身体のバランスを崩そうとする。吊るされた電灯が左右に振られ、部屋の影が大きくなったり小さくなったりと、まるで生き物のように激しく動いた。

 

「ジル!戻れ!」

 

 梯子の下で発せられたリチャードの声が轟音に掻き消される。

 

 音の発生源は北東の壁のようだ。書棚が大きく揺れ、収められていた本が床へばたばたと落ちていく。

 

 直後、一際大きく部屋が揺れ、壁が砕け散った。湿った外気が書庫へと流れこむ。その流れに混ざるようにして、大きな影が巨体に似合わぬスピードで音もなくジルとリチャードの間に割り込んだ。

 

 薄明かりの中で冷たく光る一つの眼。隻眼の鎌首を擡げた、あの大蛇がそこに居た。隻眼はジルを捉えている。その向こうではリチャードがショットガンの銃口が見えた。

 

 ジルはリチャードの射線に大蛇の頭部が来るように動いた。一瞬だけ自分が射線から消えればいい。大蛇の顎下に身を滑り込ませるのと同じくして銃声が響く。大蛇の動きが止まったのを認め、ジルは転がって大蛇の影から脱した。その回転を利用して立ち上がり、リチャードの元へと走る。

 

 ジルにはそこまでの距離がやたらと長く感じられた。粘りつくような悪寒が四肢を捉え、己を束縛しているような感触。それは、背後より床板を削る音によって具現化した。

 

 前方ではリチャードが飛び降り、声を上げている。

 

 銃声が――響く。

 

 ジルは肩越しに振り返った。大蛇の逆三角形の頭が背後に迫っていた。無理に振り向いたために足がもつれ、ジルは倒れこんでしまった。

 

 無慈悲にも、大蛇は大きく顎を開き、重車両のような勢いでジルの眼前に迫る。ジルは最後の足掻きと銃口を向け、引き金に力を込めた。

 

「ジル!」

 

 リチャードの叫びがすぐ傍で聞こえた。刹那、ジルの身体を浮遊感と衝撃が襲った。床に叩きつけられたことを悟った直後、ジルの意識は暗転した――

 

 

 

 クリスは小屋と寄宿舎での発見を私見を省いて説明をした。先入観のない方が、二人から新たな考察を引き出せると思ったからだ。レベッカとフォレストの手には先の日記と手帳が開かれている。

 

 クリスたちが捜索中、バリーは来なかったようだ。彼も犠牲者の列に加わってしまったと考えざるをえない。クリスは認めたくなかったが。

 

「――ってわけだ。どう思う?」

 

「どう思うってな……おまえはどう思うんだよ」

 

 きょとんとした顔でフォレストが言う。

 

「それは後だよ、フォレスト。二人の先入観のない、率直な考えを知りたい」

 

 クリスの返答に、フォレストがわざとらしく深い溜息をついた。

 

「あのなあ、これ読んで考え付くことなんてほとんど同じだってんだ。まず、おまえが気がついたことを先に言って、その後でおまえが気付かなかったことを俺たちが述べる方が効率的だろうが」

 

 フォレストの言葉に、クリスは腕を組んで唸った。考えてみれば、そのとおりだ。

 

「俺の考えを言わない方が、色眼鏡で通さない考えが出ると思ったんだがな」

 

「……もう、おまえ頭使うな。本能に従って生きろ。な?」

 

 フォレストが半眼で告げるのを聞き流し、クリスはレベッカを見た。彼女は二人の話も聞こえないようで、手帳を食い入るように何度も読み返している。

 

「俺が分かっていることはだ」

 

 レベッカにも聞いてもらうため、クリスは強めの語勢で言葉を吐いた。レベッカはぴくりと肩を震わせてから、顔を上げてクリスの顔を見た。それを確認して、クリスは続けた。

 

「此処が《T‐ウィルス》なるものを研究開発していた施設だということ。二ヶ月前に流出事故が起こり、ここの職員がウィルスに感染したということ。そのウィルスは二十四時間で痒みを伴う初期症状が起こり、数日中には皮膚と思考に異常をきたしゾンビとなってしまうこと。そのウィルスは感染体の体液を媒介して他者にうつるということ。また、ここの施設はウィルス以外にも生物兵器を開発しており、それが脱走し徘徊しているということ。その生物兵器の一部は繁殖している可能性があること。おそらくは中庭のエレベーターの先に研究所があるということ。そこにウィルスのワクチンが残っているかもしれないこと」

 

 そこでクリスは一呼吸間をおいた。溜まった唾液を静かに飲み込む。

 

「そして――俺はウィルスに感染した疑いが濃いということ。以上だ」

 

 一通り言い終え、クリスは左手を摩った。

 

 血の染みは先ほどよりも大きくなっている。傷口が凝血していない。それがウィルスのせいなのかは断定できないが。

 

 自分がウィルスに感染している。口に出してみると、そのことが現実感を帯びてきた。その一方で、腹の底にためていた蟠りを吐き出した開放感が身体を覆っている。

 

 研究所にワクチンが残っていなければ、自分はここに残らなくてはならない。

 

「あくまで私見ですが、このウィルスはリッサウィルスに手を加えたものじゃないかと思うんです」

 

 顔を下げたレベッカは控えめな口調で述べ始めた。ちらりと彼女は上目遣いでクリスを見た。気を使ってくれている。

 

「リッサウィルス?」

 

 聞きなれない単語にフォレストが聞き返した。レベッカが視線だけをフォレストに向ける。

 

「狂犬病ウィルスが属しているウィルスのことです。主にコウモリがキャリアとなっています。蝙蝠による咬傷から感染し、一例を除いて狂犬病と同様の症状が見られるウィルスです」

 

「君がそう判断したのは感染力から?」

 

 狂犬病ウィルスは全ての恒温動物に感染する。哺乳類にも鳥類にも。ただ、狂犬病と仮定するならば胎児の状態で親から子に感染することはなさそうだ。

 

 鳥類。フォレストはカラスに襲われ、負傷している。カラスが感染したが故に凶暴化していたのだとすれば、フォレストも《T‐ウィルス》に感染しているかもしれない。あのとき感じた予感が現実のものとなった。

 

「それも一つです。恒温動物のほかにも感染経路として昆虫が媒介となる例も出ていますから」

 

 それはつまり、《T‐ウィルス》が爆発的な速さで広まる可能性を示唆している。そもそもウィルスが感染しても発症しない生物は存在する。発症はせずとも感染しているので、それと接触した終宿主がゾンビとなってしまう。

 

「一つというと、他の共通点は?」

 

「症状……だろ?」

 

 フォレストの言葉に、先に言われたレベッカが一拍送れて頷く。

 

「そうです。罹患者の日記を読む限り、初期症状は酷い痛痒感と倦怠感――風邪の症状に近いものを訴えていることが分かります。加えて発症後の凶暴化と意識の鈍化。前者は人間には当てはまらない症状ですけれど」

 

「そこが作為を加えた所なのかもな。だから《暴君(タイラント)》なんだろうよ」

 

 フォレストが口の片端を歪めてみせた。

 

「それじゃ、逆に違うところは?一つは空気感染?」

 

「ええ。ただ、狂犬病も咬まれずに人間が感染した例があったと思います。ただ、それは特殊な状況下でしたし、厳密には空気感染ではなかった……ですね。それに潜伏期間が異常に短いこと。二十四時間で発症なんて聞いたことありません。それと対を成すように終宿主の生存期間の異常な長さ。何より、表皮組織の腐敗です」

 

「巨大化は?」

 

「ウィルス感染で巨大化なんてありえませんよ。染色体倍加によって巨大化させる実験をしているところはあるそうですけれど。ただ……もし、身体を構築する遺伝子に直接変異をもたらすことがあるのだとしたら、巨大化もありえるのかもしれませんが。そんなウィルスを開発したとしたら、ノーベル賞ものです」

 

 顔を上げたレベッカの瞳は好奇心で少し輝いていた。それを自覚したのか、彼女は恥じるように目を伏せた。

 

 たしかに巨大化するウィルスなどがあれば、世界の食糧問題は解決するかもしれない。だが、食べた人間がゾンビとなるのでは本末転倒だ。

 

「人工のウィルスだ。クリスじゃないが、既存のウィルスを基準に考えてると正解に辿りつけないかもしれんよ」

 

 フォレストの言い方は他人事のようだ。フォレストは自身も感染しているかもしれないことに気付いていないのだろうか。

 

「フォレスト、他人事みたいに言ってるが――」

 

「おまえも感染してるんだぞ。だろ? 分かってるさ」

 

 フォレストがあくび交じりに応えた。クリスは言いかけた言葉を飲み込む。

 

「気付いていたのか」

 

 フォレストは鼻で笑った。

 

「日記を読めば嫌でも気付くってもんだ。なんせ、今の俺はあの書き手と同じ状態なんだからな」

 

 少しの間、フォレストの言った意味が分からなかった。

 

 言葉を反芻するが、それが示す事柄は唯一つしかない。舌が渇いていく。

 

「傷口を中心に酷く痒い。頭も少しぼぅっとしているし、全身にだるさがある。何らかの感染症かとは思っていたがな」

 

 フォレストは笑いを消し、淡々と述べた。冷静に、自分の身体を分析している。

 

「待てよ。発症までは少なくとも二十四時間あったはずだ。断定するのはまだ早い」

 

クリスは漸く言葉を吐き出した。助けを求めるようにレベッカを見る。だが、彼女は申し訳なさそうに首を振った。

 

「リッサウィルスの潜伏期間は個人差が激しいんです。一週間から数ヶ月も。《T‐ウィルス》は潜伏期間が非常に短いウィルスです。だから、感染後数時間で発症することがあるかもしれません」

 

「俺の方が先に感染している!」

 

「個人差で説明がついてしまいます。また、リッサウィルスはRNAウィルスなんです。RNAウィルスはゲノム情報を絶え間なく変化させます。スパイヤーさんはクリスさんとは違い、カラスの感染体から伝染しました。ウィルスが一度カラスに感染したことで宿主域変異が起こった可能性も」

 

 猶予は二十四時間もない。クリスはウィルスが皮膚の下で、血管の中で自分の身体をじわじわと侵略していくような錯覚を覚えた。

 

「狂犬病は発症したら助からない。ワクチンと称している以上、そこは同じだろうよ」

 

 フォレストの言葉は諦観した落ち着きがある。しかし、そこにクリスは危うさを感じた。

 

「フォレスト、あんたが今考えていることは絶対に許さないからな」

 

「……俺の心が読めるってか?」

 

 フォレストの皮肉を真顔で受け止める。誤魔化されないために。

 

「映画マニアが思いつくことぐらい分かるさ」

 

 クリスの言葉にフォレストは苦笑で答えた。フォレストの目は駄々っ子を見るそれだ。治療法がなく、それどころか仲間に危害を加えることが予想できるのならば出来ることは一つしかない。クリスの脳裏にケネスのことが浮かぶ。あのとき感じた怒りの残滓が一瞬だけ赤く燃え上がった。

 

 ――ひょっとすると、ケネスも自分がゾンビ化する前に始末をつけた?

 

 だが、とすぐに否定する。もしそうだとしたら、ケネスはあの時点で《T‐ウィルス》の存在を知っていなければならない。

 

 突然、大きな音と振動が身体を貫いた。それは何度も続き、最後に一統大きな音と何かが崩れる音がホールに響いた。方角は、ジルたちが向かった南東。

 

「リチャード! ジル! 何があった!?」

 

 通信機にフォレストが何度も大声で呼びかけている。だが、声だけが朗々とホールに木霊するだけだ。

 

「くそったれめ。応答が無え」

 

 フォレストが舌打ちをする。今、ジルたちは応答できない状態になっているのか。何らかの原因で崩落し、それの下敷きになっているのかもしれない。

 

 クリスはジルに渡されたショットガンを掴んで立ち上がった。

 

「俺が見てくる」

 

「ああ。レヴィ、おまえも行ってこい」

 

 フォレストに言われ、レベッカは戸惑いの表情をクリスに向けた。

 

 それが意味するところを読み取り、クリスはフォレストを詰問するように見つめ、口を開こうとした。それをフォレストが笑って制する。

 

「おまえが見ていないところで死んだりしないから安心しろ」

 

「……本当だろうな?」

 

「俺ゃあ嘘が大好きだが、人を裏切るのは趣味じゃねえよ」

 

 フォレストが自慢げに言い放つ。自慢することじゃねえとクリスは口の中でぼやき、念を押すために息を吸い込んだ。

 

「もし勝手に――」

 

「もし勝手に死んでいたら承知しませんよ!」

 

 レベッカに先を越され、出所を失った言葉が宙に浮く。当のレベッカはクリスを振り返りウィンクをした。

 

 クリスは諦めの吐息と共に言葉を流し、レベッカの肩を叩く。

 

 ホールの東側の扉を開けて食堂に入る。

 

「レベッカ、頼む。力を貸してくれ」

 

 戸を閉めたレベッカを振り向かず、クリスは言った。お世辞ではなく、本心の言葉だった。

 

「はい!」

 

 レベッカの嬉しそうな返事が食堂を抜けていった。

 

 

 

 

 銃声が耳に入った。仲間が戦っている。終わりを告げる鐘が鳴ったのだ。

 

 ジルはそっとリチャードから身体を離した。心とは裏腹に、すんなりと身体は離れていった。

 

「……ディック、もう行くわ」

 

「ああ、そうしろ」

 

 ジルの言葉に、リチャードは弾薬の入ったウェストポーチを震える手で差し出した。彼の胸から下はどす黒い血に染まっていた。血はリチャードの周りだけでなく、部屋中の床に壁に飛び散っている。明らかな致命傷だ。

 

 少し離れた床の上に、あの大蛇の死骸が転がっている。両目を潰され、頭部の穴から脳漿を溢して。

 

 リチャードの傷はこの大蛇によってつけられたものではなかった。

 

 ジルはまたせり上がる吐瀉物を飲み込んだ。

 

 床に投げ捨てられた、ジルの拳銃。そこから放たれた銃弾がリチャードの右胸を貫いた。

 

 殺傷能力を高めるため、体内で止まって周りの組織に重大な損傷を与えるホローポイント弾。それから彼を守る筈だった防弾ベストは、いま自分が着ている。

 

 あのとき、あの大蛇が迫ったとき。リチャードが身体ごとぶつかってジルを横から突き飛ばした。そのとき、その反動で力の子の篭っていた指が引き金を引いた。銃口はリチャードに向いていた。

 

 ジルが意識を取り戻したとき、全ては終わっていた。ジルが見たのは、血まみれで壁にもたれるリチャードの姿だった。ジルが意識を失っている間、彼はたった一人で大蛇と戦っていたのだ。重傷を負いながら、命を流れ落としながら。

 

 謝罪の言葉はもう出なかった。既に言い尽くしていた。

 

 あのとき、振り向かなければ、リチャードだけに任せずに大蛇に銃弾を叩き込んでおけば、いや、先行さえしなければこんな結果にはならなかった。後悔と自分への怒りと憎悪は、隙間が無いほどに深く全身を抉り、血を流させていた。

 

 ジルはポーチを受け取り、そっと唇を重ねた。リチャードの唇は冷たくなりつつあった。鉄の味が口内に残る。死の味が、身体に浸透していく。

 

「ディック……」

 

 先の続かない言葉が口から漏れる。出来ることなら、赦されるなら、ずっとここに残りたかった。

 

「ヴァレンタイン巡査!」

 

 掠れた、しかし力強い、最後の命の火を燃やすような一括が耳を貫いた。

 

「後は頼んだぞ、ヴァレンタイン巡査」

 

 血の気の失せた顔に、リチャードは穏やかな微笑を刻んでいた。その瞳には未だに使命感の光が強く残っていた。

 

 ジルは立ち上がり、リチャードに向かって敬礼を行った。

 

「了解致しました、エイケン巡査部長」

 

 リチャードは上がらない右手で不完全な敬礼を返した。それを見て、ジルは自分の顔が歪んでいくのを感じた。ジルはそれを隠すようにして、拳銃とリチャードのショットガンを拾って、倒れた書棚を乗り越えながら出口に向かった。後ろを振り向かずに。

 

 しかし、廊下へと出るとき、ジルは一度だけ振り返ってしまった。

 

 リチャードは同じところに座っていた。彼はこれからも、ずっとここに居るだろう。彼がそこから立ち上がることは、もうない。

 

 銃声は続いていた。リチャードの望みは仲間と共にここを脱出し、このウィルスからラクーンシティを守ること。

 

 ジルは、まだリチャードの温もりの残るショットガンの銃把を握り、走った。

 

 

 

 

 耳障りな鳴き声が廊下を駆ける。長い爪を持った化け物が射線を巧みに避けた。クリスは舌打ちをして半歩後退した。銃口を向けると化け物は曲がり角に身を潜めてしまう。

 

 背後ではレベッカの銃声。レベッカの荒い、追い詰められた息遣いがすぐ傍で聞こえる

 

クリスたちは囲まれていた。後方はゾンビに、前方は化け物に。

 

 床には二匹の化け物が転がっている。だが、最後の一匹が仕留め切れず、膠着状態が続いていた。彼らはまるで銃との戦い方を学習したような動きをしている。

 

 所長室の真下へと繋がるはずの通路の先からは化け物が立てる物音以外何も聞こえてこない。そのことが一層クリスを焦らせる。

 

 ショットガンの残弾はとうに十発を切っている。レベッカが小さく悲鳴を上げた。注意が化け物から一瞬だけ逸れる。それを化け物は逃さなかった。化け物は爪を振り上げ、クリスに躍り掛かった。そのとき、化け物の頭が弾け飛んだ。クリスが身体を逸らすと、化け物は壁にぶつかって床に落ちた。クリスはレベッカの方を振り返り、ゾンビの群れに散弾を浴びせた。ゾンビは力なく崩れ落ち、身体を痙攣させている。

 

 もうゾンビが居ないことを確認し、銃弾の放たれた方を見た。ショットガンを構えた影がこちらに走ってくる。

 

 リチャードと呼びかける寸前、その影がジルだと分かった。彼女と共に来なければならないはずの男の姿は無い。

 

「ごめんなさい、遅くなったわ」

 

 ジルの口調に変わったものはなかった。ただ、彼女のベストと両手は血で染まり、被っていたベレー帽はなくなっていた。ベレー帽に収められていた髪が身体の動きに合わせて左右に揺れる。

 

「ジル……」

 

「IDカードは手に入った。これで念願のワクチンが手に入るわね」

 

 クリスの三歩手前で立ち止まったジルが内ポケットからカードを覗かせて見せた。クリスの表情を読み取ったのだろう、ジルは一度目を伏せた後、すっとクリスとレベッカを見た。

 

「リチャードは死んだ」

 

 短く、ジルは告げた。声には哀しみが垣間見えたが、彼女の瞳はそれを押し隠すように使命感で強く輝いていた。慰めの言葉は、今の彼女には侮辱にしかならなさそうだ。一方で、ふとした切欠に折れてしまいそうな脆さがある。

 

「そっちは何かあった?」

 

 もうジルの口調はいつものものに戻っていた。その気丈さに、クリスは強い痛みと哀れを感じた。

 

「何も……いや、フォレストがウィルスに感染して、初期症状らしきものが出始めている。バリーは来なかったよ」

 

「そう……残念だけど、彼らを置いて研究所へ向かうしかないわね」

 

「捜索は打ち切りか……」

 

「これだけ歩き回って、本人どころか痕跡すら見つからないんだもの……これ以上探しても意味が無いと思う」

 

 ウェスカー、マリーニ、バリーの三名は死んだと考える他ない。一刻を争う状況の今、そう断定して切り捨てるしかないのか。

 

「ジルさん、通信機は……その」

 

「壊しちゃったわ。全く駄目ね、わたしは」

 

 ジルが多少荒く、息を吐いた。

 

「フォレストを迎えに行きましょう。あの三人が、エレベーターの先に行っている可能性は捨てきれないわよ」

 

 ジルがそう告げた後ろで、こつこつという音が聞こえた。人間の足音だ。

 

 三人が音のしたほうを振り向いた。

 

「誰だ!?」

 

 銃を構え、クリスは叫んだ。

 

 途端、足音が止まる。

 

「クリス!」

 

 聞きなれただみ声が廊下に響いた。

 

 騒々しく足音を響かせて、声の主が現れた。髭面に疲労を色濃く映した中年の男。

 

「バリー! 良かった、また会えて嬉しいよ」

 

「俺もさ。ジルにチェンバースも一緒か。他の奴らは?」

 

 目を細め、バリーが訊ねる。手にはベレッタが握られていた。ヘリコプターを降りたときはコルトパイソンを携えていたはずだ。疑問に思って、脇の下のホルスターを見るとコルトパイソンが収まっていた。胸ポケットには、やはり持っていなかったはずの通信機が覗いている。

 

「フォレストが玄関ホールで待ってる。それから、リチャードが死んだ」

 

「そう……か」

 

 悼むようにバリーは上を見上げた。

 

 そのバリーにジルの声が向けられる。

 

「バリー、玄関ホールをチェックしろと言い出したのはあなただった筈だけど?何か理由が?」

 

 ジルは不審気な眼差しをバリーに送った。バリーは少し考え込むようにしてから、首を無造作に振った。

 

「ああ、すまん。失念していた」

 

「……まあ、こうして再会できたんだし、追求はしないけど。それで、誰か見つけた? その通信機、誰の?」

 

 ジルも通信機が気になったようだ。バリーは通信機に触れ、早い口調で述べる。

 

「ウェスカー隊長のだ。奴(やっこ)さんは、その、死んでいたよ。遺体は埋めた。化け物の餌にするのは忍びないからな」

 

 クリスは目眩の様なものを感じた。バリーの言葉は半ば覚悟が出来ていたものだ。それでも、現実のこととなると衝撃は大きかった。

 

「そう……隊長が」

 

 ジルもウェスカーの死の衝撃に耐えるように目を閉じた。深呼吸に微かに嗚咽のような響きが混ざる。

 

 次に眼を開いたとき、ジルからは感情の揺らぎが消えていた。その姿にウェスカーの寡黙な様子が重なって見えた。

 

「バリー、わたしたちは研究所に向かうわ」

 

「研究所?」

 

「中庭にエレベーターがあったでしょう? あれを使うの。研究所で必要なIDカードはわたしが持ってる。詳しいことは、フォレストと合流してから話すけれど」

 

「いや、待ってくれ、ジル!」

 

 バリーは突然気がはやったような声を出した。玄関ホールに向かいかけたジルの足が止まる。バリーはじっとジルの顔を見つめ、続けた。

 

「実はその、エレベーターに消える人影らしきものを見たんだ」

 

「人影……マリーニ隊長?」

 

「いや、分からない。職員の生き残りかも」

 

 クリスの方を見ずにバリーは答える。

 

「だから、そいつを確認したい。ジル、一緒に来てくれ」

 

 捲し立てるバリーをジルが視線を逸らさずに見返した。

 

「フォレストと合流してからでは駄目なの?」

 

「手遅れになる!」

 

 不思議なほど必死な形相でバリーが口角に泡をためて叫んだ。

 

「ジル、先に行ってくれ。バリー、何かあったら連絡をくれ。フォレストが通信機を持ってる」

 

 クリスはジルとバリーを交互に見ながら言った。バリーが弾けた様にクリスの顔を見る。それにクリスは笑って頷いてみせた。

 

 二人の様子に、ジルが深いため息を吐いた。

 

「分かった。バリー、行きましょう」

 

 バリーを見るジルの眼にははっきりと疑惑の色があった。裏口へと向かう二人の背を見送って、クリスはレベッカとフォレストの待つホールへと足を進めた。

 

 バリーの様子がおかしい。それはクリスも分かっている。一人でいるときに何かあったのだろう。ウェスカーの死に様があまりに惨たらしいものだったのか。それとも、自分たちと同じように、何かでここで起こった出来事を知ったのか。

 

 ――バリーも感染している?

 

 それに思い至り振り返るも、二人の姿は廊下の闇の中に消えていた。

 

説明
PS版「バイオハザード」をベースにした小説です。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
1594 1474 0
タグ
ゲーム ホラー バイオハザード ノベライズ 

暴犬さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com