奇跡と輝石の代行者 一章 |
奇跡と輝石の代行者
紅の飛沫が舞っていく。落ちていく。
かき集めようとしても、砂よりずっと小さなそれは指の間をすり抜け、堕ちて逝く。
最期の言葉が何度も頭の中で響く。
たったひと月のかけがえのない思い出が、弾丸の速度で駆け抜け、虚しく消えた。
砕けたルビーは光を失い、瞑られた瞳は二度と開かれることはない。
こうして俺は、全てに等しいものを失った。何もない人生に与えられた、ただ一つの光の喪失は、人生の喪失にも等しかった。
一章 瑠璃なる血脈 〜 Noble Blue
あの瞬間に至るまでの日々を語り尽くす必要が、俺にはあるだろう。
決して忘れることなく、記録と記憶とを残し続けるために。
電車にどっぷりと二時間ほど揺られ、辿り着いたのは地平線すら見えるほどのド田舎。この国にまだこんな場所があったというのは驚きだが、都市部をこれだけ離れれば訳もないか。駅に降り立ってすぐ、車内で買ったホットドックを口にして、他愛もない感想を漏らす。
伝統を素敵に打破してくれたドイツ風のソーセージは、実にジューシーで美味い。元来、この国――つまりイギリスという国には、美味い食事を摂ろうという文化そのものがなかった。食事は単なる栄養摂取の手段でしかなく、だからこそ仕事をしながらでも食べられるサンドイッチというものが発明されたのかもしれない。
――と、どの道、俺は純血の日本人移民だ。この国の歴史的なことについては、実はどうでも良い。それよりも重要なのは、こんな田舎まで来て、果たして夕食にあり付けるのかということと、兄貴からもらった情報は確かなのかということだ。これがつまらない歴史研究なんかよりずっと重要度の高い、人の生き死にに関わる大問題であることなのは誰の目にも明らかだろう。
「んー、空気の良い所ですねー。さすがに、二時間ずーっと座りっぱなしは疲れましたが」
「まあ、そこは利点かもな。けど、俺みたいな極文明人にとって、こういう未開の地は不安でしかないぜ」
ビスケットをかじかじやっている赤髪のメイド、紅凪(あかな)がのんびりと月並みの感想を付け足した。元から彼女は少食だが、昼飯をあんなちょっとの焼き菓子で済ませるとは。よほどのお菓子好きなんだろうな。俺にはとても真似できない。
「この二千年代、そこまで非文明的な土地はありませんって。わたしも助手としてメイドとして、最低限の寝床の確保ぐらいは頑張りますから、もうひと頑張りですよ」
「でもなぁ、紅凪。俺はまだこれが二つ目の仕事だぞ?それなのにこんだけ遠くに出かけさせて、兄貴も人使いが荒いぜ、全く。俺はつい最近までニートしてたんだから、外回りの仕事をする体がまだ出来ていないんだよ」
「まあまあ……。と言うか、あんまり人前で言わないでくださいよ、ニートだったことなんて。靖直(やすなお)さまがどんな過去を持っていてもわたしは痛くもかゆくもありませんが、そんな人の助手をしていると、わたしまでロクデナシと思われちゃいそうですし」
「おい待て。誰がロクデナシなんだよ」
「靖直さまですが」
完全なる真顔である。ほわほわしているように見えて、中々に辛辣なやつだ。まだ出会って一週間ほどだが、ほとんどずっと顔を突き合わせているだけあり、大体はこのメイド少女のことがわかって来ている。
紅凪・C(カリス)・フロギストン。やたらと長く和洋折衷な名前だが、名付けた人間のセンスが一般的ではないので仕方がない。鮮やかな赤色のセミロングヘアーが特徴的な十六、七の少女であり、髪と同じく真っ赤な大きく丸い瞳を持っている。話し方はやや舌っ足らずで崩れた敬語を用い、天然で毒舌気味。加えて言うならば、小柄な割には結構スタイルも良く、俺好みの美少女であると言える。
ただ、俺の方で勝手に好みとかなんとか言っていても、彼女自身は俺に欠片ほどの好意も抱いてくれていない。いや、決してぞんざいに扱われている訳ではないし、親愛の情を感じることもある。だけど、なんと言うか……決定的な心の距離があるのだと思う。仲は良いが、ただそれだけ。そういう現状だ。
「毒にも薬にもならない議論は良いですが、とっとと行きましょうよ。暑くて暑くって嫌になっちゃいますけど、目的地は一応、涼しい所なんですから」
暑いとはいえ、まだ五月だ。しかし温室効果ガスだかなんだかの影響で、近年の五月は既に夏の様相を呈しつつある。寒くても暑くても不快感を覚える人間にとって、実に住みづらい世界になったものだ。
「はぁ、それじゃ行くか。俺はマシだけど、紅凪はその格好だからな。もうちょっと露出の多い、エロいメイド服を着れば良いのに」
「わたしは暑さが改善されるのならそれで良いですけど、そうしたら靖直さまはハレンチなメイドを連れ歩く、汚物ということになりますね」
「ちょいと待て。どうしてそれしきのことで、俺が汚物扱いされる破目になるんだ。それより、兄貴の方が問題だろ。メイドを何人も侍らせて、何百年前の英国貴族だよ」
「そこはほら、良嗣(よしつぐ)さまは立派な方なので」
「はぁ、さいですか」
「さいですよ」
軽く今の仕える相手である俺をあしらい、本来の主人を持ち上げるメイド殿。当たり前の話だが、つい最近まで高校中退ニートをしていた俺が、自分自身の甲斐性でメイドを雇うことなんてあり得ない。彼女は俺の兄貴に仕えるメイドであり、今は仕事に慣れていない俺のサポートのため、同行してくれているだけだ。いずれ別れる時も来るのだろう。
それからついでなので言っておくと、この少女は人ではない。その本来の姿は彼女の頭を彩る純白のヘッドドレス、その左端を控えめに飾っているネクタイピンだ。いや、より正確に言い表すなら、そこに収まっている小さなルビーの宝石ということになる。
「どれぐらい歩くんだろうな」
「一時間もかからないはずですよ。本当にかすかですが、ここからでも気配は感じますし」
「マジか。なら、少なくとも空振りに終わることはないんだろうな。それがわかっただけで良かった」
「伝説的なお話でしたからね。わたし自身、いくら良嗣さんのおっしゃることとはいえ、半信半疑だったほどです」
「へぇ、お前が兄貴を疑うなんてあるのか」
「そこまで依存しているつもりはありませんよ?少なくとも、わたしは」
彼女達にしては珍しい、と他人事のように。いや、まさしく他人事として思う。紅凪のようにいい加減な忠誠心を持った人材は珍しいはずではあるが、兄貴は数十人という規模で集めているようだし、中でもメイドとなってその仕事のサポートをする人達は、神か仏のように兄貴を慕っているのが普通だ。紅凪が例外的なのは、まだやって来て日が浅いからだろうか。それに、まもなく兄ではなく、弟の俺の世話をするようになってしまった。
すり込みか洗脳に近い思想の変化に至る前に兄貴の側を離れられたのは、幸運なのか不運なのか……俺としては、これ以上美人のメイドをあの男が侍らせるのは我慢ならなかったので、良い気味な訳だが。
その後は適当に他愛ない会話をしつつ行って小一時間。途中に小さな町があったのでそこでまた軽食を腹に入れ、空腹も渇きも満たしたところで、田舎のあまり奇麗とは言えない街道を行くと、視界の左隅にガレキの山のようなものが見えて来た。
遮蔽物は全くない道なのだが、起伏に富んでいるため、ほんの二百メートルほどの地点に来るまで見えなかったのだが、あのゴミ山っぽいものこそが、俺達の目的地で相違ない。中世の頃の邸宅という話だったが、さすがに千年近くも経てば当時の美観は見る影もないか。残念ながらただの廃墟にしか見えない。
「はー、これはまた、見事に打ち捨てられていますねぇ。写真に収めておきましょう」
呑気に言うと、本当に荷物の中からデジタル一眼を取り出す。雑談の中に出て来たのだが、どうも紅凪は廃墟や他人から見ればしょーもないガラクタのような物が好きらしい。中々に変わった趣味だが、そもそも彼女が人ではないことを考えると、自分の同胞とも言える物品に興味があるのは当然なのだろうか。
「おい、暑いんだし、とっとと中に入ろうぜ。あんなボロボロだけど、かろうじて屋根はあるみたいだ」
「はーい。けど、下手したら屋根が落ちて来て、わたし達がぺしゃんこになっちゃうかもですねー」
「……え、縁起でもないことを」
そんなことを言われてしまった以上、少し廃屋敷の中に入るのが怖くなってしまう。怖々と鍵の壊れたドアを空け、劣化の激しいアッシュ色……恐らく千年前は鮮やかな赤色の絨毯の敷かれた屋敷の内部へと踏み込んだ。石造りの柱や壁もかなり脆くなっていると見えて、叩けばぼろぼろと砂になって崩れて来そうだ。つまるところ、外観、内観ともに典型的な西洋風のお化け屋敷といったところだろうか。
これで玄関ホールに鉄の甲冑なんかがあれば、そいつは間違いなく中身がないのに動き回るはずだが、そこまで客に媚びた廃墟ではないらしい。代わりに天井を見上げると、十字型をした古風なシャンデリアがあり、今にも落ちて来そうな恐怖心を素敵に与えてくれる。あれが頭の上に落ちたら、まずアウトだろうな……。
「おぉー、これはまた良い雰囲気。カメラマンの血が騒ぐってもんですよ」
「よくもまあ、こんなデンジャラスな屋敷で騒げるなぁ。興奮するのは良いが、物を壊すなよ。一つ壊れたら、全てが連鎖的に崩壊しそうだし」
「了解了解ー。いやー、でも実際良いですよ、こういうお屋敷。どうせ働くなら、こういう所ですね。良嗣さまのお家も良いですが、いささか以上に今風過ぎます。わたし達みたいな古い宝石(にんげん)にとっては、ゴシック様式こそがお友達なんですよ」
何やら歴史的なことをペラペラ語っているが、紅凪が加工されたのは早くとも十九世紀になってからのはずだ。当然、ゴシック芸術をリアルタイムで鑑賞していたような世代じゃない。つまり、それっぽく語っているだけの“にわか”だ。
まあ、俺としてはきゃっきゃっ騒ぎながら、なぜか偉そうに講釈を垂れている紅凪が嫌いじゃないので、余計な茶々は入れないでおく。壊れて床に転がった燭台や食器棚から落ちて割れた皿を避けて奥に行くと、恐らくはこの屋敷の主人の書斎なのだろう。古びて尚、どこか威厳を感じさせる部屋を見つけた。そして半分壊れた暖炉の傍の壁に、未だに輝きを失わない蒼色のエンブレムが掲げられている。どうやら幸せの青い鳥と、幻の青いバラをモチーフにしているらしい。剣や血を思わせる赤が使われていないことから、騎士の家系ではなく、比較的穏やかな気性の貴族の屋敷であることがわかる。
それから、その傍ら。かつて主人が座っていたであろう、木製の玉座のようにも見える椅子に、一人の老紳士が腰かけていた。頭髪は全て白で、体そのものもあまり血色が優れない。しかし眼光はワシのように鋭く、顔のいたる所に刻まれた皺は、決してただの老いぼれではない、老賢者のような印象を与える。そんな厳しい蒼の瞳は、当然ながら無断で屋敷に侵入した俺へと向けられていた。
「……や、やあ。こんにちは。良い天気ですね」
本来ならこういう時に交渉をしてくれる紅凪は、未だにカメラをパシャパシャやっている。かと言って、俺にこんな怖そうな老人とまともに話せるだけのコミュニケーション能力など、あるはずがない。だって俺、ちょっと前までニートだし。友達少ないし。彼女いないし。
仕方なしに好青年らしき人物を演じてみたが、老人の皺は更に深く、眼光は視線だけで人を殺せるレベルにまで鋭くなってしまった。言うまでもなく逆効果。まごうことなき火に油を注いだ状況だ。
「お、おい、紅凪!早く来てくれっ」
『えー、もう少し待ってくださいよー』
「いや、俺マジでヤバいから!宝石と対話するのは、お前の仕事だろっ」
そこでぴくり、と老人の眉が動いた。相変わらず無言で視線も凶器のようだが、俺の発した言葉に興味を持ったらしい。
「えっと、あなたはその、そこのエンブレムにあしらわれた瑠璃そのものですよね」
「――なぜ、それを知っておる」
やっと発せられた声は、容姿から受けるイメージ通りに貫禄のあるしがれ声だ。どことなく口調も古めかしい。
「あなたはご存知ないかもしれませんが、宝石が自我を持ち、人のような姿を発現させることは、実はそう珍しいことじゃないんですよ。それで、僕はそんな方々に孤独な人生を送らせることがないよう、一所に集めようとしている訳でして」
俺自身に与えられた仕事の内容は十分に理解していたが、こうして実際に口にするのは初めてだ。我ながらよくわからないことを言っている気がするが、当の宝石達にとっては伝わりやすいことだろう。……と言うか、紅凪よ。さすがに遅過ぎないか。
「そうか、私のような者が他にもいると言うのか……。しかし、私はこの場所を離れる訳にはいかん」
なぜ、とは聞くまでもなかった。紅凪の本体はほんの小さな宝石で、それもピンという小さな装飾具に加工されているので、自分の衣服に付けて移動することが出来るが、エンブレムともなれば持ち運びが難しい。確か、彼等は本体の宝石から何十メートルとは離れられないはずだ。この老紳士の場合は、この廃屋敷の敷地と彼が行動可能な範囲が丁度同じぐらいか。
「ふー、お待たせしました、靖直さま。あ、初めまして。わたしはここの木偶の棒さまの助手兼お守りを勤めている紅凪と申します。ご覧の通り、このルビーが本当の姿なんですよ」
さらっと俺に毒を吐き、ヘッドドレスの片隅で光る赤い結晶を示す。石があまりに小さくて遠目にはビーズのようにすら見えるが、まだ幼さの残る紅凪にはそれぐらいの方が「らしい」ように見える。まあ、彼女達には成長という概念がないので、後何十年経っても今の十代の見た目のままなのだが。
「紅凪。今ちょうど、この人に来てもらうのは難しいだろう、という話をしていたんだ」
「あー、確かに。壁から外さないといけないですし、経年劣化も激しいですね。残念ながら金の部分は落ちちゃっていますし、この部分もほら、本来なら瑠璃が乗っている部分ですよね。剥がれてしまっていますが」
「お、おい、手では触れるなよ……」
「わかってますよー。ね、おじいさん」
なんて能天気な……。実はこの爺さん、紅凪が現れてから、また一段と表情を険しくしているんだぞ。折角、俺が苦労をして気分を害さないように振る舞っていたのに、無邪気にそれを無駄にしやがって。
「こ、こほん。それで、確かにこのままでは持ち運ぶことは難しいのですが、この紅凪、こう見えて色々と専門的な技術を持っていて、傷付けることなくこのエンブレムも持ち運ぶことは出来ると思うんですよ。そうだよ、な。紅凪」
「いや……。物理的な理由ではない、私はこの屋敷の主人に仕える者なのだ。その少女が君に仕えるように、な。たとえ主人がとうの昔に死んでいたとしても、この屋敷をおめおめと離れる訳にはいかんだろう」
「え、ええ。なんでまた、そんな」
完全に予想していなかった言葉だ。まず間違いなく紅凪はこの紳士のように殊勝な奴じゃないので、俺が身近な例から忠誠心というものを理解するのは難しいし、言ってしまえばこんな無価値な廃屋で過ごす理由もわからない。ただの宝石であった時代はまだ良かったかもしれないが、こうして自我を持っている以上、人生を楽しむこともなく、また老いて死ぬこともなく寂しく存在し続けるなんて、それはただの拷問としか思えない。
「靖直さま。このお屋敷は、確かに古びていますが、意外なほどに家具などがきちんと揃っていますよね。これはきっと、お爺さんの功績ですよ。泥棒や解体をしようとして来た人を追い払って来たんです。たとえ主人がいなくなり、老朽化が進み、誰も見向きすらしなくなっても、この方にとってはここが。ここだけが故郷なんです。我々宝石の主人は人であり、その人のいた場所こそが自分の居場所なんですよ。その気持ちはわたしにもよくわかります。……わたしにしてみれば、居続けることが出来る場所があるなんて、妬ましいぐらいですが」
「故郷……か」
途端に、俺の生まれ育った家のことが、火花が散るように思い出された。長く、本当に長くあの家に俺はいたが、兄貴の仕事を手伝うことになり、兄貴の宝石店で寝泊りすることになって二週間が経とうとしている。
この人の故郷を思う気持ちは俺なんかのそれとは比較にならないのだろうが、ニート時代の俺のことを思い出してみれば……無理に家から引き離されることなんて、絶対に認めたくはない。結局、俺は兄貴の侍らしているメイドの一人を助手にしてくれるという、ニートである以前に一人の男である俺にとって魅力的過ぎるエサに釣られた訳だが。
「私はこの家で、何代と続いた誇り高き血筋を継ぐ主人達の姿を見て来た。最後は紙が日に焼けるように緩やかな斜陽を迎えたが、この屋敷の一員であり、象徴である私は……この身が風化して崩れ落ちるその時まで、この場所を守り続けるべきであろう」
「……わかり、ました。あなたがそう言うのであれば、俺に強制することは出来ません」
「すまない」
口だけはお利口さんな言葉を吐いたが、それでも、俺の心はこの老人があまりにも「古い」と叫びを上げているのがわかる。エンブレムの宝石が剥がれ落ちてしまった部分は、今はまだ少ないが、このボロ屋敷が後何回の雨風を凌げるのかすらわからない。彼をこのままここに放置することは、一人の宝石紳士を見殺しにすることと同義なのだと、まだあまりこの世界に詳しくない俺ですらわかってしまう。
だったら、同じ宝石の仲間である紅凪はより深刻にそのことを受け止めているはずだ。なのに、彼女はいつも通りの純粋な笑顔で、自身の年老いた祖父を見るようにして老紳士の前に佇んでいる。
宝石自身が美しいように、その化身たる彼等も例外なく輝かんばかりの容姿を持っている。豪奢な衣服を身にまとう老人と、古式ゆかしいエプロンドレスの少女のツーショットは、紅凪の一眼レフの中に収めたいほど絵になっていた。だが、残念なことに彼等を電子的な記録の中に残すことは出来ない。宝石の化身である彼等は、人間の瞳には普通に見えるし、鏡やフィルム写真もその姿を映し出す。更に誰でもその体に触れることが出来るが、絶対に電子的なデータにすることは出来ない。デジカメの写真にもムービーにも残らず、そもそもファインダーにすら映らないという特性があった。
「お爺さん。では、せめて今夜一晩、このお屋敷に泊めていただくことは出来ませんか?」
「この屋敷に?」
「はい。わたしも靖直さまも疲れていますし、近くの町で宿を求めるにもお金的な余裕は少ないですし。……何より、わたしが個人的にお爺さんのお話をもっとよく聞いてみたいので」
「それなら、構わないが……この屋敷からは、人の食物などとうに失われている。君の主人の夕食は大丈夫なのかね?」
「今夜の夕食と、明日の朝食は町で済ませますよ。本当にただ、寝る所だけを貸していただければよいので」
紅凪は以前から老人の従者であったかのように話をまとめ、ひとまずは俺を屋敷内から連れ出す。いつもは適当かつ天然な頼りないメイドだが、こういう時の仕事は早いんだな。
「はぁ、頭の硬い爺さんだ」
「靖直さま。口が悪いですよ」
「いや、でも事実としてそうだろ。何百年前の主人に忠誠を誓っているんだよ、って話だ」
町へと引き返し、適当なレストランで夕食を摂る。こんな田舎なので大した店は期待出来ないだろうと思っていたが、想像以上に流行っていそうなものがあって良かった。俺の注文した料理はメニューの写真に惹かれた牛肉のポワレで、運ばれて来た現物はさすがに写真のものに大きさでは劣るが、ナイフを軽く入れるだけでほぐれてしまうほど肉は柔らかく、かかっている赤ワインのソースも品の良い味に仕上がっている。問題点があるとすれば、イギリスなのにフランス料理を提供している点ぐらいだろうか。
一方、紅凪が注文したのは白身魚のフライ、いわゆるフィッシュアンドチップスだ。折角のレストランなのにえらく庶民的な料理だが、俺に気を使って値段の安いものを選んだというよりは、このイギリスの伝統食の方が味の想像が付きやすく、大きな当たり外れはないと踏んでこの無難な食事を選んだようだ。値段で選んでいない証拠に、コーラを単品で注文してちゅーちゅーやっている。
「確か、宝石に食事は必要ないんだよな」
「ええ。わたしはすっかり食べるのが習慣になっていますが」
さっきの老人の言葉の通り、当然と言えば当然だが、宝石の化身達は食事をする必要がない。ただ、昼間に紅凪が暑さを訴えたように、一般的な人間の持っている感覚はその全てを持っている。つまり、空腹感や疲労感もその例外ではなく、食事や睡眠も十分に取った方が良いのだが、それが死や健康の悪化には直結しないため、我慢すれば乗り越えることが出来る。あの老人は屋敷から出られないようだし、もう何百年と空腹に耐え、恐らくは空腹でいることが当たり前になり過ぎていて、その感覚を忘れているのだろう。
仕方がないこととはいえ、やっぱり俺にはそれも酷く辛く、寂しいことのように思える。……本人達には、逆にそんな感覚はないのかもしれないが。
「なぁ、紅凪」
「んー、靖直さまのも美味しそうですねぇ……。え、えーと、どうしました?」
「やらないからな。――兄貴って俺が働くようになるまでは、自分の足で宝石を集めて回っていたんだよな」
「えぇ、一口ぐらい良いじゃないですかー。……ええ、わたしは直接その姿を見たことはありませんが、人伝に聞く限りではそうですね。さながら臨床心理士のような活躍をされていたとか。あくまで宝石の相手限定ですが」
「やっぱりそうか……」
あの人なら、こういうケースにぶち当たった時でも、なんとかしたのだろう。相手を諭すか、あるいは完全に諦めるのか。そのどちらかの方法で。
でも、俺にはその内のどっちが正しいのかわからないし、正しいと思われる方がわかったところで、どちらか一方の道を選ぶようなことは出来ない。なぜなら、もう俺の方で選択肢は決まっているからだ。
「靖直さま」
「ん?」
酢と塩のかけられたフライをコーラで流し込んだ紅凪が、まるで俺の心を見透かしたように冷静な声をかけて来る。
通常の人間にしてみれば珍しい赤い瞳は、幼さの残る顔にあって、森の知恵者である老婆のような落ち着きを醸し出している。単純な冷静さではなく、老獪さがあると形容することが正しいのだろう。
「迷いのない生き物は、多分いないのだと思います。迷いの終わりとはつまり、生命の終わりなんですよ。生きている限り、生き物は試行錯誤を繰り返すんです。そうしなければいけないと、初めから規定されているんですよ」
「どういう、ことだ?」
「あのお爺さんは生きています。人からすれば不完全な命かもしれませんが、自我があり、肉体がある以上は生き物です。今も迷っていると思いますし、これからでも、いくらでも迷いますよ」
恐ろしく遠回しな言い方だが、説得してみろと言うのか。あの老人を持ち帰りたいと思いつつも、本人がそれを拒むのであれば、やはりそれも仕方がないのかもしれない、とどっち付かずの考えのままでいる俺に。
わざわざまともなベッドもないあの屋敷に泊まろうとしたのも、つまりはそういうことなのだろう。さすがに兄貴が有能だと太鼓判を押すだけはある。さらりと舞台を整えてしまっている、その手際の良さに感心するのと同時に、軽い恐怖、あるいは不快感すら覚えてしまう。俺はもしかすると、この少女に操られてしまっているのではないか、という不安から来る感情だろうか。
「紅凪、お前はどうするのが一番だと思う?」
じゃあ、操られついでだ。どこまでも彼女に頼ってしまおうと思った。
「さて。わたしの故郷はもう故郷じゃないですし、元のご主人さまはもう過去の人ですし、今のご主人さまはうだつの上がらない元ニートですし。自分とあまりに環境が違い過ぎているので、よくわからないですね」
「嘘だろ。はぐらかさないで、ちゃんと言ってくれよ。俺は本気で悩んでるんだ」
「悩んでいるのでしたら、もっと悩めば良いじゃないですか。悩んで、迷って、後悔して、精一杯“生きて”ください。靖直さまは折角、生身の人間として生まれて来たのですから。わたしにはない自由を持ち、その自由を自分なりに不器用に消費して来たんでしょう?あなたという人間は」
突き放すように。しかし、同時に抱きしめるように言うと、彼女はその口をコーラのストローで塞いでしまった。子どもっぽくそれを吹いて、ぶくぶくとコーラの表面を泡立たせる。作られた大粒のあぶくがはじけ、元からある細かな炭酸の泡が水面を泳いで、茶褐色の海が混沌と波打つ。
「紅凪。お前は、あくまで中立なんだな」
「そんなそんな。わたしは大体、靖直さまの味方ですよ。愛ゆえの言葉だと思ってもらえれば」
「お前、俺に惚れてるのか?」
「……靖直さま」
「ああ」
紅凪は少し潤んだような瞳で、俺を上目遣いに見る。その頬は赤く染まり、ストローを持つ手は震え、体全体がわなないているようだった。ネクタイピンのルビーの光も、少し強くなっているように感じられる。
「冗談は顔とクズっぷりぐらいにしてもらえないと、手が出ますよ」
全力で頭を下げて謝罪したのは言うまでもない。
再びあの廃屋敷を訪れる。
すっかりと陽は落ち、灯りの類のない屋敷は真っ暗になってしまうが、紅凪が持って来た懐中電灯があれば、とりあえずの光源の確保は出来た。それから野営を視野に入れたランプの用意もあるので、これを適当なテーブルの上に設置すれば照明に不自由はしない。
それに何より、昼間から続く快晴は夜になっても続いており、満月が近いこともあって月明かりが眩かった。ガラスの失われた屋敷の窓からは月光が入り込み、意外なほど室内を照らし出している。
「お爺さん。お邪魔します」
主の書斎に入ると、数時間前と同じように老紳士は座っていた。そこから離れることの出来ない、地縛霊のように。
「月の奇麗な夜だな……」
「そうですねぇ。お散歩には丁度良いかもしれません。ちょっと外に出てみません?」
「いや、しかしそれは――」
打ち合わせをしていた訳ではないが、俺が口を挟むとすればこの瞬間なのだと、直感的にわかった。
「俺たちは何も、無理にあなたをこの屋敷から連れ出そうとはしませんよ。ただ、こうして俺達が来たのも何かの縁でしょう。ちょっとぐらいは外に出てみるのも、そう悪いことじゃないと思いますよ」
「靖直さまの言う通りです。たまには体を動かさないと、いくらわたし達でも鈍ってしまいますしね」
紅凪も適当に同調し、老人の説得にかかる。アドリブも利く、本当に優秀なメイドだ。
俺の言葉の方にどれだけの力があったのかは知らないが、孫娘のような紅凪に手を引かれると、遂に老紳士も観念したようだ。厳しい老人貴族ではなく、若い世代を見守り、見守られる老人の顔になって立ち上がった。
立ち上がった姿は意外に長身で、下手をすると俺より背が高いだろう。百八十センチほどはありそうだ。
「さ、お爺さん。行きましょう」
最大の物理的な問題であるエンブレムの取り外しは、紅凪が簡単に解決してしまえる。いつの間にかに彼女の手にあった樫の杖を使い、撫でるように優しく壁をなぞると、人には扱えない不可視の力が壁と宝石の双方に衝撃を与えず、エンブレムを壁から引き離してしまった。紅凪が得意とする、魔法のような技術だ。
「これは……?」
「あ、接着もまた出来るので安心してくださいね」
「長く生きて来たが、このような力を見るのは初めてのことだ……。他にも、このような力を持つ宝石はあるのか?」
「数多く。お爺さんはお持ちじゃないんですね。石の種類にもよるのですが、わたしみたいなルビーは多く、破壊的な力を持っているらしいんですよ」
まるで遺影を抱くように紅凪は瑠璃のエンブレムを持ち、これでは老人の手を引くことが出来ないため、片手に持ち替える。俺がエンブレムを持つことも考えたが、餅は餅屋。宝石は宝石仲間に任せるのが一番か。彼の本体を壊してしまいそうで怖かったので、二人を遠くから見守るだけに留める。
「さて、行きましょうか」
「ああ……」
当時の貴族の衣服なのだろう。老紳士が身を包むのは青い布地に金糸がいくつも入った衣装であり、どことなく彼の本体であるエンブレムをモチーフに服を仕立ててれば、これとそっくりの服が出来るような気がするデザインだ。青白い月明かりの下へと出ると、より一層にその神秘的な青が際立って見える。白髪も月光を受け、銀色に輝いていた。
「お爺さんのご主人さまは、どのような方だったのですか?」
「この地方を治める領主の家系だったよ。家が続いたのは七代ほどだったが、どの時代の当主も実直で寛大で、領民のために尽くしていた。金に苦労する者がいれば、自身の生活にもそれほどのゆとりはないのに、ほとんど無利子で金を貸し、無法者に領地が襲われそうになれば、自らが先頭に立って軍を率い、危険を顧みず勇猛に戦った。貴族に生まれたならば、相応の義務を負い、仕事を果たさなければならない。そう固く信じて」
「ノーブレス・オブリージュ……ですか」
日本語風に言えば、位高ければ、徳高きを要す、とでも表せるのか。貴族だからと民衆を食い物に好き放題はせず、よき領主として振る舞い続けたのだろう。……宝石に宿る人格は、持ち主の影響を強く受ける。なるほど、歴代の主人が誇り高い地方領主だったからこそ、この生真面目な紳士が出来上がったのか。
「それゆえに、家系は長くは続かなかった。最後には没落し、こうして屋敷も打ち捨てられてしまったが、私はこの家の紋章として今も生きていることを、何物にも替えがたい誇りであると感じているよ。人の歴史からはとうの昔に消えてしまっても、私と屋敷だけは彼等のことを覚えておきたい」
やはり、無理だ。紅凪はさりげなく俺に目を向けたが、首を横に振る。この老人から屋敷という居場所を奪うことは、彼から誇りを奪うことと同じだ。俺にだって多少のプライドはある。その根拠とそれ自体が同時に失われることを考えたら、同じことを他人に実行する訳にはいかない。
二回目の仕事でも黒星が付いてしまうことになるが、兄貴もわかってくれるだろう。何も俺達は、迷える宝石達を集め、それで金儲けをしようという団体ではない。ただ、人助けの一環として宝石の収集をしているだけだ。集める対象自体がそれを拒むなら、無理に連れ帰る必要は一つもない。
更に俺個人のことだけを語るならば、そこそこに兄貴の手伝いをしていれば、それだけで日本円換算で三十万ほどの月給が与えられることになっている。兄貴はいわく付きの宝石を集める傍ら、通常の宝石商としても非凡の才覚を見せていて、十二分に店は潤っている。俺が仕事に躍起にならなくとも、俺や兄貴の生活が脅かされるようなことはなかった。
「夜風は、冷たいですね。だからと言って我々は体に障るようなこともないですが、そろそろ戻りましょう。お馬鹿な靖直さまは不用意に半袖で着てしまったので、夜が辛そうですし」
「なっ、俺に対して馬鹿だって?」
「ええ。衣服の用意も満足に出来ないお子さまじゃないですか。もう成人を迎えているのに」
「俺はその、お前の荷物が重くなって負担にならないように、と思ってなぁ!」
いい加減に生意気が過ぎるので、拳を振りかぶってみせる。もちろんそれを振り下ろすつもりなんてないが、紅凪は老人の手を取ることも忘れて逃げ回り、俺はそんな彼女を小走りで追いかけ回す。
影になっていて老人の表情は見えなかったが、きっと彼は微笑を湛えていたのに違いない。その根拠は、くっくっ、と軽くしゃくり上げるような声が夜の静かな空に響いたからだ。
一期一会とは、日本の茶道家、千利休の言葉だったか。もう二度とその人間と会えないような覚悟でもてなせ、という意味だったと思うが、俺達とこの老人の出会いは正にこの一瞬だけ。明日には別れ、もう二度と人生が交錯するようなこともないだろう。俺と紅凪は、そんな彼の心をひと時でも満たす孫代わりになれたのか。
いまいち自信はないが、じんわりと背中に汗が滲むまで走り回って、それから今度は俺が老人の手を握って屋敷へと戻ることにした。
紅凪の体温は平常時から少し高いが、この瑠璃の老紳士は少し冷たいぐらいで、数字にすれば丁度、三十度ほどだろうか。皺くちゃの手は失礼な話、死人のそれを思い起こさせるが……彼の足どりは思った以上にしっかりとしていて、これからも長く生きてくれるのに違いない、と確信させてくれる。
「あなたに、お名前はないんですか?――ああ、そういえば、俺達も名乗るのがまだでした。俺は靖直。ヤスナオといいます。彼女はアカナ。ロンドンの方に住んでいるのですが」
「私の名前、か……。ウィルと。そう記憶していてもらえると嬉しい。最後の主人、その息子に付けられるはずだった名前だ。結局は流れてしまったが、私のような宝石ごときが名乗るには……あまりにもったいないだろうかな」
「そんなことは。瑠璃の血(ブルーブラッド)を持つ紳士、ウィルさんと。そう記憶させてもらいます」
ちょっと気取り過ぎたかな、とも思ったが、老紳士はまた、くっくっと笑みをこぼした。青い瞳は優しげに細められ、俺の手を優しく握り返してくれる。――そろそろ俺は、この老人に離れがたさを覚え始めていたことに気付いた。
俺には両親も健在だし、兄貴もいるが、祖父母だけは生まれた時からいなかった。兄貴は少しだけその顔を見たことがあるそうだが、たった三歳ほどの時のことだし、ほとんど記憶はないという。そんなお祖父さんのことを知らない俺が、ウィル老人のことを実の祖父の代わりに仕立て上げてしまうのは、そうおかしなことではないだろう。やっぱり、彼と最後に手を繋ぐなどと言い出したのは馬鹿なことだったか。すぐにでも紅凪に代わってもらうのが賢い選択だろうが、老人の気持ちを考えるとそうも出来ない。
――偽善者。
春先に強い風が吹くようにそんな言葉が脳裏を過ぎり、唐突に現れたそいつは頭の中を駆け巡り始める。俺は貧弱な動機と安い同情心だけを持ち、人様の生活を荒らすだけの人間なのだろうか。そんな不安がこみ上げて来て、運動による気持ちの良い汗ではなく、じめっとした不快な汗が滲んでくる。いや、でも俺は――。
「靖直さま。どうされました?」
「い、いや。何でも……ない」
俺は露骨に悩んでいるような顔をしていたのだろうか。いつの間にかに紅凪が前に回り込んでいて、じっと顔を見つめている。老人もまた例外ではなく、“大人”二人に大変な心配をかけていたようだ。
「それより、早く戻ろう。寒くて鼻水が出て来た」
「うわっ、人前でよくそんな言葉を出せますねぇ。ばっちいです」
「う、うるせー。お前になすり付けるぞっ」
なぜだか涙が出て来ていて、そのせいで鼻が垂れそうになっていたことは、なんとか隠せていたのだろうか。
どうもこうして紅凪と一緒に仕事をしに来ていると、感情的になったり、感傷的になったりしていけない。俺は本来、もっとこう、物事を斜に構えて見ているような奴だったのに。俺の他にも多くいる、就労を拒み、自分を社会の中の歯車の地位にまで落とし込めることを、まるで親の仇であるかのように毛嫌いする連中と同じように。
これが健全な変化なのか、望ましくはない変化なのか。俺にはまだいまいちよくわからない。よくわからないこそ、今はまだ、誰にも打ち明けることはしないと決めた。今はどんなに親切なアドバイスでも、天邪鬼な子どもみたいにムキになって拒んでしまいそうだからだ。
青く太い月はロンドンで見るより遥かに大きくて、美しいと感じるのと同時に、薄ら寒いものも感じさせていた。巨大な頭蓋骨のようにすら見えたからだ。
少し、疲れたのかもしれない。
その気になれば野宿も出来るように、荷物の中には薄手のブランケットがある。そのため、まともな寝具のない廃屋敷でも体を休めることは出来た。とはいえ、ブランケットは一枚しかない。この一枚の使い方には、単純に考えて三通りあるだろう。
一、俺は主人なのだから、と独り占めする。二、レディファーストの精神に則り、紅凪一人に与える。三、相手は少女と言っても、メイドであり、更にはただの宝石なのだから、と割り切って一緒に寝る。
仮にブランケットを失うことになっても、ウィル老人のように椅子を寝床にすることは出来る。俺の体重を受け止められるぐらいの耐久力のありそうな椅子はいくつもあるし、足を伸ばして寝たいならそれ等を連結し、ベッド代わりにすることだって出来るだろう。つまり、俺は何がなんでもこの薄っぺらな毛布を手にしなくても良い。
ともなれば、ここは男らしく紅凪に与えるのが格好良いだろう。彼女の好感度もうなぎ上りと見て間違いない。
「あ、わたしは椅子で休むので大丈夫ですよ。メイドがご主人さまの寝具を奪ってしまう訳にはいきません」
しかし、紅凪のメイドとしてのプロ意識は無駄に高かったようで、無理に押し付けようとしても受け取ってくれない。結果、俺はある意味で惨めにもぬくぬくと眠ることになってしまった。
老人が案内してくれた客間に横になり、しばらくは不満で歯噛みしていた俺だが、やがて意識がふっと遠のき、遂に再び瞼が開くことはなくなって、夢の世界へと落ち込んでいく。
浅いか深いかすらよくわからない眠りの中、ふと目が覚める。誰にでも、どこででも訪れる当たり前のことだが、今夜この屋敷で俺がそんな経験をしたことには、何か運命のような大きな力を感じずにはいられない。別に俺は運命論者じゃないし、神の存在を信じているようなこともないが。
「君はもしかすると、私を迎えに来た天使なのではないか、と。そう感じるよ」
「そんな、天使なんて。本当のこととはいえ、恥ずかしいじゃないですか」
お前はどこまでナルシストなんだよ、と思わず突っ込みを入れたくなるが、じっと我慢する。どうやら二人とも外に出ているようだ。窓の外にぼんやりとシルエットが見える。ここからは結構な距離があるが、窓に遮るものがないので声はここまで届く。特に紅凪の高い声はよく聞こえて来た。
「私はあるいは、君に連れられていくために今まで存在していたのではないだろうか。――今までずっと、私のような者は他にいないと決め付けていた。だが、そんな私の中の常識を君の存在が打ち砕いた。しかし、この後も尚、この屋敷に留まることを選べば、その新たな発見も無意味なものになるだろう。屋敷を出る機会があるとすれば、それは今だ」
「でもお爺さん。そんなことをわたし自身に話してしまう辺り、どうあってもここを離れるつもりはないですよね。わたしが天使であり、死神ではない限り、望まない者を楽園へと連れ去ることはしません。そして、きっと、お爺さんにとっての楽園はこの場所ですよ。自我が生まれる以前から……千年以上もいるこの場所の他に、一体どこに安息の場所はあるのでしょう」
二人は俺に背を向けて立っている。その表情はよくわからず、声音も詳しくは判別が付かない。ウィル老人はともかく、紅凪の表情が気になった。それは死神の顔なのか、彼女が自称する通りの天使の顔なのか……。
「そうなのだろう……。爺のくだらない話につき合わせてしまって申し訳ない。君は故郷がないと言ったが、あの青年のいる場所こそが君の居場所になるよう、祈らせてもらうよ。そして、そうなる時まで私が生きているようであれば、再びこの場所を訪れてもらえないかな」
「わかりました。いつかまた必ず、お邪魔させてもらいます。その時にお爺さんがいなくても、必ず」
老人はまた、くっくっと笑ったような気がした。どうあってもその声は聞こえないが、きっと彼ならば笑ったことだろう。
二人の会話はそこで終わり、老紳士とメイドはゆっくりと屋敷に向けて歩き出す。振り返った紅凪は、俺の方を向いた気がしたが、気のせいだったかもしれない。その赤い目が俺を捕らえることはなく、むしろ屋敷そのものを一瞥したように見えたからだ。
まさか紅凪が俺の部屋に侵入するとは思えないが、もしも話を盗み聞きしたとバレたら、嫌みの一つ二つは間違いなくもらうことになる。それも癪なので再びブランケットに包まって眠りに就いた。今度こそ途中で目覚めることはなく、二人の密談のことすら忘れそうなほど深い眠りがやって来ていた。
後に俺は、この熟睡を後悔することになるのだが、当然ながらこの時点では未来のことなど知ることは出来ず、呑気に眠りこけることしか出来ない。
……いや、仮に俺が起きていたとしても、あの結末は変わらなかったのか。
俺に出来ることなんて、そう多くはない。それはこの日にも、そして後々にも痛感する、生涯の教訓だ。
*
一切の足の露出を許さないロングスカートが、夜風に揺られる。そう強い風ではないが、初夏の季節にしては冷たく、何か不吉なものを運ぶ禍つ風だ、と直感的に紅凪は思った。女の勘などという言葉もあるが、目に見えない神秘的なものを視る第六感に関しては、人よりも宝石の方がずっと優れているのだろう。
なぜならば、宝石とは元来穢れを祓う物としての性質を持つ。時代が進むにつれて逆に不幸――戦争、略奪、相続争い――を呼ぶ物に変容してしまった宝石も多いが、悪意に触れることのなかったこの小さなルビーは、限りなく穢れからは縁遠い存在だ。特別に穢れには敏感だと言える。
ただ、ここで穢れの正体までわかってしまうようなら、それはカルト的カリスマだ。人間やそれに近い存在となった宝石には感じることは出来ても、その正体を見抜くほどの力は持ち合わせていない。だから、取れる対抗策はただ一つだ。
「お爺さん。少し急ぎましょう。なんだか、不吉な予感がします」
この言葉ですら、軽くオカルトの領域の住人だろう。見ず知らずの相手がこんなことを言っても信じないだろうが、老人にとって紅凪は同胞であり、たった一日だけの交流ではあったが、信頼関係も既に結ばれている。伸ばされた手を掴み、足早に屋敷へと向かった。
紅凪はなんとかこの不吉な風の正体を掴めないかと、周囲を油断なく見回すが、いくら月明かりがあるとはいえど闇の中の小さな変化を完全に探ることは出来ない。屋敷も一瞥してみるがそこでは彼女の仕える青年が眠るのみ。少々軽そうに振舞ってはいるが、基本的には真面目であると同時に小心である彼が、何かよからぬことを考えているために感じた穢れではないだろう。
ならば、と残りは推理をしてみる。元来、紅凪は物事を論理的に推理するのはそう得意ではないが、ここがあまり文明的ではない僻地であり、更にこの辺りは廃墟があるような土地であることを考えれば、凶暴な野生動物の類か、あるいは人の悪意を受け、歪められた宝石の化身か。そのどちらかだと予想を立てることは出来る。
そして、現在の戦力を確認。紅凪はそこまで戦闘の能力に秀でた宝石ではないが、最低限の護身と、主人の戦闘のサポートが出来るぐらいの能力は持ち合わせている。また、老人も完全な無力ではないと考えるのが自然だ。ただ、一度に複数との戦闘になれば結果はわからないし、可能ならば心身共にウィル老人の寿命を削るようなことはしたくないと考える。
戦略的な撤退のための足は、老人に無理をさせない程度に加速して行き、やがて無事に廃屋敷の正面玄関にまで辿り着くと、今にも崩壊してしまいそうなドアを荒々しく締め、壊れた鍵の代わりに樫の杖を作り出し、それをつっかえ棒にすることで施錠した。
「君、それは?」
「わたしの能力の一端です。わたしは炎の象徴であるルビーとして、炎を操る能力を持つのですが、その媒介となるのがこの杖になります。見た目はただの樫の棒ですが、強度には自信がありますので、万が一何者かが襲って来ても、こちらが迎撃の準備を整えるまでは時間を稼げるかと」
「襲って来る、か」
不安そうな顔になる老人を見て、紅凪は今の発言は得策ではなかったか、と直ちに自分の行動の間違いを悟った。なんとか彼を危険から遠ざけようとしていたが、人の心の傷つきやすさは、宝石の傷つきやすさと同じかそれ以上だ。ふとした言葉でも心を大きく揺さぶり、乱し、不安を与えてしまう。
「そんなことはないと思います。少なくとも近くに動くものの陰はありませんでした。ですが、今夜はどうも普通ではないような気がするので……」
なんとか老紳士を安心させようとするが、コップから流れ落ちた水が元に戻ることはなく、老人が自室に戻るまで見届けても、彼はこの夜に不安を感じているままだった。
それから、失敗を恥じると共に悔いているメイドは、罪滅ぼしのようにガラスのない窓から外を見た。ついさっきまではあんなに晴れていたのに、今では黒雲が月を覆い隠し、そのわずかな光すら地上に届かせまいとしている。深海の奥深くのような暗黒の夜は、全ての生命に底なしの不安を与えるようで、見張りの任を勤めようにも、長続きはしなかった。
――まるで、自分の未来が暗示されているようだ。
宝石の命は決して尽きることがない。あくまで、外的な力が加わらない限りは。しかし、紅凪は気ままに生きる宝石ではなく、主人である良嗣に。また、彼の弟である靖直に仕え、彼等の剣とも盾ともなる存在だ。また、自らの命を断つような状況になることもまた、完全にあり得ないとは言うことが出来ない。その死は、実はすぐ身近な所にあるのかもしれない。それに気付かない、あるいは気付かないふりをしているだけで。
……なんて。暗い考えに囚われるのは、自分に合わない。慌てて曇天の空を見上げるのをやめ、紅凪は再び荒廃した屋敷の観察を始めた。
紅凪がこうした壊れ逝くものに強い興味を覚えるのは、別に彼女がある程度の年月を経た宝石だからという訳ではない。それならば他の彼女の仲間であるメイド達もまた、共通した趣味を持っているはずだが、廃墟を好むのは今の時点でわかっている限りで紅凪だけだ。他に誰もルビーの知り合いはいないため、もしかするとルビーの持つ破壊の性が壊れた物を望むのかもしれないが、少なくとも紅凪は完全に壊れたものについては、それはそれでつまらないと感じる。
あくまでこれから滅んでいくものこそが、興味深く、美しく感じることが出来るのであって……その方が、もしかするとタチが悪いのだろうか。
一人で考えていると、何を見ていても重く、暗い思考へと行き着いてしまう。悪い癖だ、と頭を大きく振り、少女は立ち上がった。
未だに胸騒ぎは止まることなく、不吉な風は荒野のように閑散とした屋敷の周囲を撫で回している。こんな中、呑気に休む気は起こらないが、彼女等の体は睡眠を求めずとも心身の休息は必要とする。体と心を休める手段は、眠るように目を閉じ、体を横たえることだ。つまりそれを睡眠と呼ぶ訳だが、人間の睡眠とは異なるもので、夢を見たり、起床直後に寝ぼけたりはしない。
玄関を真っ直ぐ進んだ先にある大きなホールの、かなり風化した土の壁に背中を預ける。少女の四十キロほどの体重ですらこの老いた壁には苦痛だろうが、我慢をしてもらうしかない。石の床に身を横たえることにより感じる冷たさと硬さは、同族である宝石の少女にも中々堪えるものだ。まだ温もりと柔らかさのある土の方が良い。
「おやすみなさい……」
誰に言うでもなく、習慣として紅凪は呟いた。即座に完全には意識の失われない不完全な眠りが始まり、現実との接点を少しだけ希薄にする。人ではない紅凪は、人が睡眠の時に感じる安らかさを推測することしか出来ないが、自分の眠りとは、人のそれとはそう大きくは変わらないものなのだろう、と思った。それほどに現実からの一瞬の逃避を許されるこの睡眠というものは安らかで、決して何かに侵されたいとは思わないほどに大事なものだった。
意識が完全には途切れない宝石の眠りとは、人に比べれば驚くほど正確にその睡眠の時間がわかる。ほんの三十分ほど眠った後、紅凪という名を与えられた赤髪のメイドは起床を余儀なくされた。
廃屋敷の壁を可哀想になるほど強く叩く風はその強さを増していて、明日は暴風雨になるかもしれない、と予感させるほどだ。しかもそれに加え、明らかに自然の天候が奏でるものとは異なるノイズが紅凪の耳には届く。別段、彼女の耳が良いという訳ではなく、決して車の走らない土地であることに加え、テレビやラジオのような音を出す機器の電源も点いてない。その中で鳴り続ける不自然な音は、嫌でも耳に付いてしまっただけだ。
――靖直さまを起こそうかな。
騒音の正体が招かれざる客であることは明らかだ。その正体まではわからないが、紅凪の地の身体能力は見た目通りの少女のそれと同等だし、能力を行使しても良いのは同じ宝石の化身だけだと、良嗣によって制限されている。普通の野生動物や暴漢を彼女一人が相手取るのはいささか以上に厳しいだろう。そんな時、一応頼りになるのは大の男である自身の主人だ。
残念ながらスポーツ的な才能には恵まれず、武術の類も中学生の頃にやっていた柔道の心得しかないが、動物が相手ならば自分よりも体の大きい生き物が二体もいるだけでプレッシャーになるし、相手が人間であったとしても、無人と思われた屋敷に宿泊客がいるという事実は、襲撃を諦めさせるだけの要因になるだろう。ともかく、彼を伴って打って出た方が良い。
しかし、それと同時に従者としての意識が主人の安眠を妨げることを躊躇させる。自分にとっての睡眠が非常に気持ち良いものであるのと同じように、靖直にとっての眠りのひと時とは大切なものだろう。確かに、一つ間違えれば彼の眠りが永遠のものにもなってしまう状況ではあるが、ここで短絡的に主人を叩き起こしてしまうようであれば、彼女はこうして彼の助手役を任されてはいない。
紅凪が靖直のサポートに付けられた理由は、家事の能力や秘書的な能力に優れていたからではなく、つい最近になって自我が芽生えたゆえに、他の宝石メイド達に比べてよく考え、よく悩む思慮深さがあったからだ。自我に慣れ過ぎてしまった他のメイドでは、決断が冷静にして的確過ぎていけない。未だ迷っている靖直の助手だからこそ、彼と同じように迷い、悩み続ける彼女が抜擢されたのだった。
思考は三分ほどで切り上げられ、立ち上がった紅凪は一人で玄関に向かうことを決めた。彼女が普段活動しているこの体とは、かりそめのものに過ぎない。たとえ傷付いても、宝石さえ無事であればいずれ再生出来る。刺し違えてでもなんとか追い払うことが出来れば問題ないだろう。
最終的に出た結論はどこか楽観的にして諦観的なもので、いずれにせよ人間であれば出せないものだろう。逆に言えば、いかに彼女が自分の命や体を軽視しているかがわかる。ここに靖直がいれば絶対に止めたのだろうが、ナンパ者の彼は夢の中にいる。決して紅凪とは共有の出来ない、この世界の裏側の別世界に。
「人間であれば、そろそろ扉を蹴破るなり、別の侵入路を見つけるなりしているはず……。なら、動物?」
執拗に何かを叩き付けられ続けている扉の前に立ち、軽い予想を立てる。もしも野犬の類ならば少しやりづらいだろう。単純に的が小さく機敏だという問題もあるが、紅凪は犬や猫といった四足の獣も好んでいる。虫や爬虫類の類なら即刻ご退場を願うのだが、仮にこれだけの質量を感じさせるその類の生物が来たのなら、姿を見た瞬間に卒倒してしまうのに違いない。
一抹の不安はあるが、この屋敷やここで眠る人が傷付けられる方がもっと恐ろしい。侵入者を防ぎ続けていた杖を手元に移し、構えると同時に扉が開け放たれた。開いたのがパンドラの箱ならば最後には希望が残されるはずだが、どちらかと言えばこの屋敷の方が“箱”だ。後退は決して許されない状況。メイドは目の前の獣を見据えると、十字軍が異端の使途を切り捨てるような無情さで杖を振り下ろした。瞬間、ただの樫の棒が火炎に包まれ、杖という概念を超越した“炎そのもの”へと姿を変える。
俗に“魔法”や“超能力”と呼ばれる、自然法則を無視するどころか、改ざんすらしてしまう、人ならざる者だけが扱える能力だ。ルビーの石言葉は一般に“情熱”などと呼ばれ、ルビーのことは炎を封じ込めた宝石と呼ぶこともあることから、このような力がルビーの化身である少女に現れたのだろう。
屋敷を炎上させることなく、標的の命のみを削り取る魔法の炎は牙を向いた獣の体を包み、瞬間的に炭化させる。――だが、襲撃者はこの一体のみではない。続く二体目をそのまま打ち据えることは出来ず、炎の杖を口に噛ませてなんとか攻撃を防ぐ。
闇をそのまま切り取ったような黒の毛並み、狼やライオンよりも鋭く見える牙。そして何より、普通の獣のものとは思えない妖しげな光を帯びた、真っ青な瞳……深く考えるまでもなく、紅凪にはこれが呪われた同胞なのだとわかった。宝石の化身の多くが自らの本体である石と同じ色の目を持つことから推測すると、この獣の本体はサファイアや瑠璃のような青い宝石なのだろう。水や氷を彷彿とさせるそれ等の宝石は、ルビーであり炎を操る紅凪からすれば相性の良い相手と言える。
とはいえ、全身が筋肉で出来たような狼に似た大型の獣と、細い手足しか持たない少女が力比べをしても結果は見えている。少女は杖のまとう炎を一時的に破裂させ、それによって起こる衝撃で獣を弾き飛ばすと、杖を振るうのではなく額に向けて突き刺した。水の中に落としたインクのように炎が獣の体の表面を駆け巡り、やはりほとんど瞬間的に燃やし尽くしてしまう。
「……思った以上に多いなぁ」
三体目の獣の爪を避けるために飛び退きつつ、偶発的な遭遇戦と言うよりは、群れのハンティングのようなこの状況を再認識して呟く。片側のみ開いている扉の向こうに見える青い瞳の獣は、まだ十体近くはいるように見えた。宝石の化身は原則的に一つの石につき一体のみ現れるので、微細な粒子のような宝石から発生した獣なのだろうと予想が付く。姿はどれも似通っているので、元は一つの大きな宝石だったのが、いくつもの欠片に砕けてしまったのだろう。それでもまだ化身を作り出すだけの力があるとは、よほど強い力の宿っていた宝石なのだと想像出来る。
飛びかかって来た獣の柔らかい腹を、杖で思い切り突き刺す。衝撃で相手が吹き飛ばされるのと同時に炎上し、仲間の後ろから襲いかかろうとしていた四体目の獣をも巻き込んで燃え尽きた。出入り口が狭く、一度に相手をするのが一体だけなのでなんとかなってはいるが、そろそろ学習能力が備わる頃合だ。つまりは……。
「そう、なりますよね……」
五体目の獣が屋敷内に入ったかと思うと、即座に振り返ってもう片方の扉に体当たりし、吹き飛ばしてしまう。引いて開ける扉を外側から開けることは出来なかったようだが、内側から開けるという発想はあったようだ。そして、出入り口を広くした後で、一体では敵わなかった相手に向かって、複数で襲いかかる。実に野生的で単純な理屈だが、紅凪と獣達の間に大きな力の差はなく、物量作戦は大きな意味を持って来る。杖を構えつつ、嘆息をするしかなかった。
「(念のため、ピンは遠くに投げておこうかな……)」
あの数で来られれば、間違いなくこの体は引き裂かれてしまうだろう。それは痛いし折角の服も破けてしまうので嫌なことだが、宝石が無事であれば体も服も、いくらでも代用が利く。今守るべきは、自分の命。つまりネクタイピンにはめられているルビーの宝石だ。
ヘッドドレスを無造作に取り、その一般的なものよりもクッション性に富む布地で宝石を包む。床に投げ捨てた時に石が傷付いてしまっては元も子もない、初めからこの用途を想定して作られた特注品だ。良嗣に仕える他のメイド達も、自身の宝石を守るために同様のものを着用している。
途中で解けてしまわないようにしっかりと包んでそれを後ろに投げ捨てるのと同時に、三体の獣が一度に身を躍らせる。紅凪は一瞬の内に一番危険度の高いもの――正確に首筋を狙って来たものを杖で打ち据え、残る二体がそれぞれ両腕に食い付こうとするのを甘んじて受けようとしたが、そこに一陣の風が駆け抜けた。
廃屋敷なので隙間風も入り放題だが、それにしては不自然過ぎる。自然界には存在しない密度を持った塊が、宙を滑る時にだけ起きる風だ。その元凶については、二通りの予想を立てることが出来る。真実は、紅凪が思い付いた内の二つ目だった。
「お爺さん……」
老人が、大柄な刺突剣――エストックを手に、少女の目の前に立ち塞がっていた。どんな技を用いたのか、ほんの一瞬の間に二体の獣は撃退されており、増援の登場に黒皮の獣は怖気付いているようで、すぐに第二派が攻めて来ることはない。
「遅れてしまってすまない。ここから先は、私が相手をさせてもらおう」
「……でも、お爺さん。彼等は、その」
「わかっているよ。貫いた瞬間、私にもはっきりとわかった」
老人はメイドを軽く後ろへと突き飛ばし、振り返ることもなく背を向けている。その表情はわからない。だが、青い瞳は優しげに細められているのであろうと、想像出来ないはずはなかった。
「恐らく、この者達の石を砕いたとしても、完全にその存在が消えることはないのだろう。大元を断たなければならない。……君が、その役目を果たしてはくれまいか」
「無理ですよ。……わたしは、まだあなたの五分の一も生きていません。ほとんど生まれたばかりのようなわたしに、お爺さん。あなたはそんなことをさせるんですか?」
「すまないことだとは思っている。だが、逆に君以外には任せられないよ」
「わたしはこれから、靖直さまを起こして、この場所を去ります。玄関が使えなくても、窓から出ることは出来ますし、そうすれば彼等を消す理由は……」
「誰もいなくとも、彼等は野性のままにこの屋敷を踏み荒らしてしまうだろう。最早彼等は、私の制御など利かない存在だ。いや、もしかすると、それこそが私の本性なのかもしれない。ならば、自分自身が自分の主人の屋敷を壊してしまうなど、どうして許せるだろうか」
少女は背中を向けた。これ以上聞きたくない、そう言いたかったが、今度口を利けば、目の端に溜まったものがこぼれてしまう。この老人に泣き顔を見せることだけは避けたい。その一心で、背中合わせで老人の言葉を聞いた。
「長く生きてしまったが、それも今夜までだ。この呪われた生に、終わりを与えてくれ」
「……呪いなんて、ありませんっ。もしもお爺さんの命が呪われているのなら、わたしも、他の誰も、呪われた命を持つことになります」
「全く、君も強情な娘だ。頑固さは私以上かもしれないな…………。さて、どう言ったものか」
「誇ってください。あなたの人生を、誇りに思ってください。そして、一人の卿(サー)として、名誉の死を遂げてください。そうして、わたしの犯す罪の穢れを少しでも軽いものにしてください……!」
後方で音が鳴る。獣が今度はさっき以上の徒党を組んで押し寄せようとしているのだろう。
「わかった。それで君の気が済むのなら」
「……それから、一つ、賭けをしましょう。わたしはこの場にネクタイピンを残して行きます。当然、これが壊れればわたしは死にます。……あなたが卿として戦い、死ぬに値する人物であるのなら、たった一欠片の宝石を守り抜くぐらい、訳ないですよね」
無言の首肯。紅凪に後ろを見通す力はないが、老紳士が上品に首を振るその情景が頭の中に映し出された。
「では、アカナ君。頼む」
「はい、瑠璃の紳士、ウィル伯爵(Yes,sir)」
成立していないも同然の賭けだった。
いくら宝石の化身とはいえ、獣はエサの姿をした者に襲いかかるだけ。偶然、宝石を踏み潰すようなことはあれど、自発的に宝石を砕くために動くはずがない。ならば、紅凪の宝石が傷付く可能性など、限りなくゼロに等しい。
エントランスを抜け、廊下を走りつつ、メイドは自嘲の笑みを浮かべた。
老人の本体、瑠璃のエンブレムは一部分の宝石が欠けている。単純な経年劣化、あるいは風によって吹き飛び、どこかに行ってしまった宝石の欠片は、いつしか呪いを帯びるようになったのだろう。あるいは、あの高潔な老人にとって不必要な、邪悪なる精神を宿していたからこそ、自浄作用的に欠け落ちたのかもしれない。
ともかくとして、呪われた石は魔物を生み、魔物は皮肉にも自分の生まれ育った屋敷に再び戻って来た。そこに眠る人間の臭いを嗅ぎ付け。もしかするとそれだけではなく、自分の年老いた兄弟を本能的に求めたのかもしれないが……。
しかし、二つの同一の石を元とする命が再会した時、それが永遠の別離の時だった。長く続いたこの屋敷の歴史にも、遂に終止符が打たれることになる。歴史上、線でも点でもない、ちりくずですらない矮小な宝石の少女によって。
書斎に立ち、少女は再び嗤った。真顔で出来ることだとは思えなかった。
彼女がするべきことは、杖をエンブレムに突き立てる、あるいは乱暴に床に叩き付けることだ。ただ、それだけの行動を完了させるだけで良い。本当になんでもない、少し日常を逸脱しているかもしれないが、普通の人間が人生の内で何度かは経験するかもしれない、なんでもない行動。そんなちっぽけな動きの一つで、一人の仲間の命はその灯火を消す。
美しい宝石の命は、大切に守られている限りは永遠だが、乱雑に扱われた瞬間、その輝きはなくなり、ゴミの塊になってしまう。そして、今の彼女が背負った使命とは、恐らくこの地上にそう多くは残っていないであろう、本当に尊い輝きの一つを奪い取ることを意味していた。自身の美しさゆえに、美を至上のものと考える宝石の少女にそのようなことが、少なくとも正気の内に出来るはずがない。
だからこそ彼女は、束の間の狂気に身を委ねた。ルビーが暗示する破壊の炎は、狂気とそう距離のあるものではない。杖を取り出し、それを燃え盛らせる儀式により、正気は縁遠いものへ。狂気は親しみ深いものへと変わる。
それからすることは、簡単だった。目の前の美の結晶を。今も尚、輝き続ける高潔の光を闇の谷底へと蹴落とす。炎の悪魔に限りなく接近した少女には、簡単に出来てしまうことだった。
説明 | ||
オーバーラップさんに投稿し、残念ながら一次で落ちてしまいましたが、私的には大満足の出来の小説です この手の「擬人化もの」は「鴉姫」以来ですが、一年経った今、より完成度を上げられたかな、と思います お楽しみください |
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