奇跡と輝石の代行者 三章 |
三章 壊れた翡翠石 〜 Evergreen Jade
「そうか、また壊すことになったのか」
「ああ……。なぁ、兄貴。この仕事って、こういうことばっかりなのか?」
「確かに、自我を得た宝石は繊細なものだ。それは一人の人間と接するのと同じ。ならば、当然ながら他人が干渉するのは難しく、その干渉の結果、その人生を狂わせることも多いだろう。幸せな結果は、滅多なことでは見れないのかもしれないな」
「やっぱり、そうなのか」
瑠璃の老人の最期の報告を終えた俺は、この上なくブルーな気持ちで兄貴を正面に見据えた。
死にそうな目に遭ったあの最初の戦いの結果、黒曜石は砕けることになった。今度の瑠璃もまた、紅凪が砕かなければ俺と紅凪の命も、そしてあの老紳士の思い出の屋敷も、全てが奪われるところだった。そのどちらも、後味が悪い最後だと誰もが思うことだろう。
「では、靖直。私達の行動は無意味。あるいは彼等の死期を早める余計なことだと、そう考えるかい?」
「そうとも言えないから、悩んでるんだよ……。紅凪は売りに出されたって聞いたけど、他のメイド達は……たとえば、青羽さんは、兄貴に助けられたんだよな?」
俺を試すような眼差しを向ける兄から自然を外し、その隣で控える青髪のメイドさんを見る。上品さと美しさを兼ね備えた、最高のメイドの一人であると俺も思う。紅凪と出会い、彼女の傍にいた俺であったとしても。しかし、そんな彼女にとって兄貴とは、恩人のはずだ。
「はい。永遠とも思われる地獄から救い出してくださったのは、紛れもない良嗣様でした。他のメイド達も、多くは同じ過去を抱えています。それに、メイド以外にも、たくさんの石が良嗣様により助け出されています」
「そうなんだよな……。だから、とりあえず俺はまだまだこの仕事を続けたいと思う。けど、ちょっと辛くなって来ているのは確かなのかもな……」
「靖直は、私よりも繊細で有情だからな」
「何を。兄貴ほどの善人はいないと思うぜ。俺のは――ただの自己満足の偽善だよ」
謙遜で、こんなネガティブな言葉を使うつもりはなかった。こんな言葉を用いたのは、今までの俺の行動について考え直してみると、必ずしも俺は、俺が思う最も正しいことをして来たとは思えなかったからだ。
誰か――つまり紅凪に、良い格好を見せたかった。そんな気持ちがないとは言い切れない。だから、あの老人のことを翻弄して、結果的にその未来を奪ってしまったのかもしれない。……彼の宝石の破片が、ずっと胸に突き刺さっているかのような気分だった。
「偽善か。偽善とは、善行の種だろう。後はそれを育てることだけを考えれば良い。お前は、今に立派な好人物になるだろう。私が保証するよ」
「は、はぁ。兄貴が保証するなら、ちょっとは信じてみようかな」
「それが良い。しかし、確かに大変な仕事が続いてしまったようだ。少し……これから一週間、お前も紅凪も休むと良い。少し街をゆっくりと歩いてみるのはどうだ」
「え、マジか?それは本当にありがたいな……」
「ははっ、休み過ぎて、ニートのテンションに戻らないようにな」
「わ、わかってるよ。それぐらい」
一瞬、優し過ぎる我が兄の背中に白い翼が見えたような気がしたが、直後のイヤミでそれが黒い翼だとわかった。やっぱり、男女を問わず俺の天使は一人、紅凪だけだ。
逃げるように扉を開け、店の外に出ると紅凪が丁度、二階の俺の部屋のメイキングを終え、降りて来たところだった。
「紅凪。もしかして、話が聞こえていたのか?」
「いえ……今来たところですから。でも、相当お疲れのようですね」
「また、顔芸をしているか?」
「はい。前衛芸術めいていると思います」
「そんなにか……」
どの手の前衛芸術かはわからないが、紅凪が使う場合の前衛的とは、十中八九ディスるための文句に過ぎない。また、俺には似合わない、深く悩んでいる表情をしているんだろうな。
「一週間の休みをもらえたから、とりあえず今日は休むよ。で、もしよかったら明日にでも、街に行かないか?」
「えっ、わたしと一緒にですか?」
「逆に、俺一人じゃロンドンの街なんて楽しめないし、下手すりゃ迷うぞ。もうずいぶんと外には出てなかったんだ。ロンドンの街並みより、駅までの道の方がずっと馴染み深い」
「さすがプロニート……。わかりました。そう言えば、いつぞや何かおごってくださると、そう言ってましたよね。……さて、何を食べさせてもらいましょうか」
もう二週間も前のことだが……よく覚えているな。約束を言い出した俺自身、あの後には通院とかの色々があって忘れていたぞ。
「あ、あんまり高いのはなしな。フルコースとかそういうのは」
一応、釘を刺しておくが、どれほどの効果があるものか。
紅凪は少食なので、料理のフルコースなんかが注文されることはないと思うが、彼女の好きなお菓子なんかは量が少なくても、厳選素材を使っているとか、有名パティシエが作っているとかなんとかで、目玉が飛び出て、そのまま帰って来なくなるほどの値段がすることも多いと聞く。給料は既にもらっているが、何割かは持ってかれるかもしれないと思うと……恐怖しかない。
霧の都、ロンドン。かつてはスモッグに覆われていた街だったが、近年は逆に過剰なほど環境に配慮するようになり、大都市の中では世界でも有数なほどクリーンな街に生まれ変わった。
その都市政策は、伝統的な建築物の保護と、それら過去の遺物と並んでも美観を損なわない、洗練された現代的なビルディングの両立を目指している。その甲斐あって、なるほど街並みは均整が取れていて、中世、近世、近代、現代。その全ての時代が共存しているかのような雰囲気がある。
一つの街の中にいくつもの国があるように見えるところもあり、まあ、見ていてあまり退屈はしないところなのかもしれない。少なくとも、普段からこの街に住んでいない観光客にとっては。また、折角この街に住んでいても、ほとんど家から出なかった残念な人間にとっても。
「お待たせしました。靖直さま」
「いや、俺も今来たトコ……だよ?」
今の時代にはテンプレと化した“例のセリフ”は、思わず彼女に見とれてしまったことによって疑問形に変化した。
当たり前かもしれないが、今日は仕事ではなくオフということで、紅凪はメイド服を着ていない。逆の言い方をすれば、私服を着ている。身長は低いが胸は豊かで、足のラインも実に魅力的な犯罪級の可愛さの彼女だが、線のよく出る夏の私服を着ている。
――完全に男を殺しに来たコーディネートだった。
全体的な色のイメージは、ルビーである彼女らしい赤、およびオレンジ。夏にしては少し暑苦しい色合いかもしれないが……チェリーのカクテルのように鮮やかな赤のノースリーブのワンピースに、その上に羽織る薄いオレンジ色のボレロ。そしてややミニのスカート丈を気にしてか、照れ隠しのように履いた黒のニーソックスは――完璧としか言いようがなかった。
童顔で小柄なので普段は高校生ぐらいの少女に見えるが、この格好ならぐっと大人びたセクシーさと、やはり少女らしい健全な可愛らしさの両方が引き出されていて、なんとも年齢不詳だ。実際、宝石である彼女達に人間の年齢を見出すのは無意味なんだろうが、それにしても。それにしても可愛い。
「じ、じろじろ見ないでください。そ、そりゃあもちろん、いい加減に暑いので涼しげな格好もしますよ……」
「そうだよな!いやー、眼福眼福。本当、紅凪は可愛い。反則的なほどに」
「……靖直さまは、正直言っていつも通りですね。むしろスーツの方が、まだいくらか見れるお姿のように感じますが」
「わ、悪かったですねぇ。野暮ったい元ニート野郎で」
「自覚があるのでしたら、安心です」
褒められて照れ臭いのか、そのお返しとばかりに俺をディスってくれやがる。まあ、俺のファッションセンスなんて犬に食わせているようなレベルのものだ。いや、犬に食べさせてしまうと腹を壊しかねないので、埋めて処分しておこう。ともかく、色付きの服なんてまともに着こなせる気がしないので、白とか黒とか、割と誰でも着れそうな無難過ぎる服を合わせている。確かに、これじゃスーツとそんなに変わらないかもしれないな。
ちなみに、いつもはヘッドドレスに付けている紅凪のネクタイピンだが、髪にワンポイントで結んだ深い緑色のリボンに付けられていた。やっぱり、ここでも自己主張し過ぎない赤い宝石は少女的で、彼女によく似合う。
「さて、予定通りに十時か。まだまだ飯を食うには早いし、どうする?」
相互のファッションチェックを終え、これからの予定を決める。
俺にあらかじめ女の子と遊びに行く時の予定を練っておくような、気の利いたことが出来るような甲斐性はないので、この辺りは相談の上で決めていくしかない。人はなんと言うか知らないけど、俺っていう人間はこんなもんだよ。ちくしょう。
「実はわたし、まだ一度もゆっくりとはこの街を歩いたことがないので、一緒に歩いてもらって良いですか?別に、何かを買ってくださいとはおねだりしません。そう、ウィンドウショッピング、ってところですね」
「そうなのか。なら、良いぜ。金を使わないで紅凪に喜んでもらえるなら、お安いご用だ」
「幻滅するぐらい正直ですね……。そもそも、幻想がありませんでしたが」
滅されてしまう幻想がないなら、それはそれで何よりだ。俺は誰かさんみたいに気取った喋り方も、紳士な態度も出来ないし、そもそも自分を小マシに見せようという努力すらしたくない。少なくとも今の俺には、肩肘張った生き方なんてわずらわしくてやれないだろうし。
――さて、とはいえ男女が街を歩く訳だ。もしもこれが恋人同士のデートなら、手を繋いだりするのが定石だろう。だが、残念ながら俺は紅凪の彼氏などではなく、うっかり手を繋ごうとした日には、ゴミクズを見るような視線で「キモっ……」と拒絶されることはわかりきっている。
少し不格好だが、手を繋がないで俺が半歩ほど先を行き、彼女を案内する。きちんと車道側を歩くのは、俺でも知っている最低限のレディファーストのマナーだ。さすがにこの英国でも、その文化は失われつつあるのだが。
「従者がご主人さまに危険な道を歩かせてしまうのは、少し気が引けてしまいますね」
「今はオフだろ?なら、甘えてくれて良いって」
「ほほう……。言いましたね?」
「えっ」
ぎらり、と紅凪のルビーの瞳が光る。頭の中でかちり、と地雷を踏み抜いた音がする。
「あ、いや、その……紅凪さん?」
「さて、先を急ぐとしましょうか。靖直さん」
「お、おう……」
なぜか彼女にさん付けで呼ばれると、どきどきしてしまう。いつものさま付けの方が丁寧でかしこまっているんだが、どうしてだろう。やっぱりほぼ同年代の相手にさん付けされると、すごく距離が縮まっているような気がして――不味い。顔がにやけてきている気がする。
「うわっ……」
「やっぱりかー!」
思わずにやにやしているのがばれてしまい、思い切り嫌そうな顔をされてしまった。
「靖直さん、はやり過ぎでしたか……。では、靖直くんで。これでどうです?」
「そ、そっちに行くのか!?」
「えっ?他にありますか?」
「いや……。紅凪がそれで良いなら、まあ、俺はそれで……」
最近は彼女の毒舌ばかり目立っていて忘れていたが、そう言えば紅凪は結構な天然娘だった。俺のにやつきを変に解釈して、よもやくん付けに発展させてくるとは恐れいった。こんなの、絶対に頭を下げてお願いしても叶わないことだと思っていたのに。
でも、そうすると俺も彼女を呼び捨てして、いつも通りにメイドとして扱うのも申し訳なく感じて来る。次に呼ぶ時は、昔懐かしい呼び名。紅凪ちゃんを復活させてみるとするか。実は俺としても、こっちの方がしっくり来る。
呼び捨ては確かに親しい気がするが、ほとんど女の子と交流を持たずに生きて来た俺としては、最低限女の子には敬意を払いたい。ただの自己満足だろうが、ちょっとした俺のこだわりだ。
――とはいえ、中々彼女の名前を呼ぶ機会。もっと言えば、会話をする機会がない。宝石店の近くの高級商店の中に彼女の興味を惹くものはないらしく、沈黙のままに過ぎて行き、やっと紅凪が反応を見せたのは小さな骨董店だった。商品も店構えと同じく細々としたオルゴールや、兄貴の店では置いていないような安価な装飾具がメインだ。
「やっぱり、廃墟マニアとしてこういうのに興味があるのか?」
オルゴールを開けてみて、控えめに響く何かの童謡を聴きながら、紅凪が頷く。
「やっぱり、この子達にはすごく懐かしいものを感じます。数十年来の旧友に、思いがけず出会ったような、不思議で懐かしい感じが」
見たところ、かなり古い品物のようだ。まだ音が欠けずに演奏出来ていることに驚きだが……少し埃臭い店内の雰囲気とも相まって、オルゴールを手に取った紅凪は絵本の人物のようで、彼女が人ではなく宝石であることを強く意識させられてしまう。
彼女もまた、かつてはこういった骨董店に並んでいたのだろうか。古びた小さなネクタイピンとして、大して注目されることはなく、古びた物に美を見出す一部の崇高な人間だけに愛されつつ。
「欲しいなら、金は俺が出すぞ?そんなに高い物じゃないみたいだし」
「いえ……。冷やかしは申し訳ないですが、このままにさせておいてもらいます。きっと、この子はわたし以上に、人の手を求めていると思いますから」
切ない言葉を残し、来客に気付いて奥からやって来た店主――白髪にヒゲの老爺と顔を合わせることなく紅凪は出て行く。俺は店主に一礼した後、すぐに彼女を追った。
「紅凪。俺は、別に宝石が物を愛しても、良いと思うぜ」
人が宝石に恋してしまったかのように。なんてクサいセリフは、兄貴の専売特許だ。一瞬思い付いてしまったが、続けて言う気にはならなかった。
「別に、わたしが宝石だからではありませんよ。わたしにはあのオルゴールよりも、大事にすべきものがある。そう思っただけです」
「俺の財布の中の残金か?」
「…………靖直くんじゃなかったら、スネ蹴りで転ばせてからのスタンピングでしたね」
相変わらずの辛辣な言葉だ。しかし、そう言う彼女の顔は明らかに喜びのそれだった。さっきまでは今にも泣き出しそうな表情だったのに。
彼女が大事にするべきものとは、なんなのだろう。それがもしも俺や、俺とのこの関係のことなら嬉しいが――俺にはもっと違う、もっと大きな何かのように思えた。彼女自身もまだよくわかっていない、未来への希望や、これからの新たな出会い、とでも言ったところだろうか。
「でも、ありがとうございます。靖直くん。元気は出ました」
「ん、それなら良いんだ。紅凪ちゃんには悲しそうな表情より、明るい表情の方がずっと似合ってるからな。ルビーが赤く明るく輝いてないと、なんか変だろ?」
「は、ははっ。そうですね。靖直くんにしては上手い言い回しです」
……なんだろう。黒い冬だった俺の中学から高校時代が、一気に浄化されていくようなこの感じは。
なんとか自然な流れで彼女のことを“紅凪ちゃん”と呼び、当然ながら紅凪も“靖直くん”と呼ぶ、この感じ。これは正しく、高校生の男女の会話ではないだろうか。それも、かなりリア充サイドに傾いた人間どもがする類の。
では、俺は今この時より、リア充になれたのか?高校中退のひきこもりニートの俺が?……まさか。たった二回、修羅場をくぐり抜けただけでこんな報酬が与えられるのなら、世の中の人間は全員億万長者でハーレムを形成している。
「なんか俺ら、すごい普通な感じだな……」
思わず、中学生並みな感想を口に出す。
「お仕事がない時ぐらいは、普通にしないとですよ。そもそも人じゃないわたしはともかく、靖直くんは休める時にしっかり休んで、人としての常識を維持しておくべきです。靖直くんが生きるべき世界は、この世界だと思うので」
ゆっくりとアーケードを歩き、次の店へと足を向ける。紅凪はやっぱり、衣服や宝石、そしてもちろんゲームなどよりも、どちらかと言えば落ち着いた品物を扱う店が好きなようで、彼女が今度興味を寄せたのは本屋だった。きょうび、紙の書籍はかなり珍しいものとなって来ている。しかも、この店は古本ではなく新品を扱っているらしく、なおのこと珍しい。
「紅凪ちゃんはどんな本が好きなんだ?」
「そうですね……。良嗣さまの本を読ませていただいた限りの知識しかないのですが、思想書なんかはすごく興味深かったです。でも、もっとたくさんの小説を読んでみたくて」
「ああ……。兄貴、ほとんど小説は読まないからな。読んでも、すごい哲学的な、変な小説ばっかだろ?」
「ええ。小説と言えば、その名前の通り、小さなお話だと思ったら、いきなり主人公が哲学的な世界に埋没していくのですから、あれには面食らいました。それはそれで面白かったんですけどね」
苦笑しつつ、紅凪の足は意外と言えば意外なことに、恋愛小説を求めて歩き出した。紅凪も、そういう本を望んだりするのか……。
とまあ、いつまでも彼女の金魚のフンになっているのも、気持ち悪がられかねない。俺も久し振りに紙の書籍というものを見てみるとしよう。ほとんど漫画やライトノベルは電子書籍でやりとりされるようになっているが、それでも紙ならではの価値の追求。つまりは装丁の美しさ。それからポスターを付録として封入させることの関係から、サブカル的な書籍はそれなりの数が生き残っている。
久し振りにがっつりと二次元の美少女を目で追いかけ、最新のアダルトゲーム雑誌も覗いて……おっと。一人で来ている訳ではないことを忘れていた。こんな場面を紅凪に見られたら、今度こそ転ばされてからのスタンピングのコンボがやって来る。それはそれでご褒美……でもないな。痛いのは嫌だ。なにせ、俺は現代文明の中を生きる、繊細な人間だからな。
「靖直くん」
「お、どうし……た?」
俺がいるのは、まだがっつりと成年雑誌のコーナーでした。
「こ、こほん。お取り込み中だったようで。どうぞお一人でお楽しみください。ご主人さま」
「ま、待ってくれ!これはその、誤解だ。そうは見えないだろうが、意外や意外、誤解なんだよ!」
「………………」
信用していない目だ。でも、俺は本当にギリギリのところで思い止まったし、俺のすぐ傍にあるアダルトコミック誌は、実はと言えばそんなに好みじゃない。あくまでゲームが好きなだけで、エロ漫画はそんなにであって……。
「何か事情があったのだろうということで、信用しておきます。ともかく、ここは離れましょう」
「あ、ああ」
引きずられるようにレジ前へと連行。欲しい本があった、ということか。
「その……一冊だけ。本当に安い文庫本なのですが、買っていただけても良いですか?」
「もちろん。これぐらい、別に遠慮しなくて良いんだぞ」
「ありがとうございます……」
背表紙を向けて渡されたので、あえてそのタイトルを見ることはしない。多分、ただの恋愛小説なんだろうが、彼女にしてみればこういう本ですら俺にとってのエロ本の感覚なんだろう。なんとも奥ゆかしくて可愛いことだ。
レジを通し、彼女の気持ちを考慮してカバーもかけてもらって、環境に配慮した再生紙の袋はそのまま俺が持っていることにした。男女で買い物に来た以上、荷物持ちは俺がするべきに違いない。
「靖直くん。今、時間は?」
「ん、十一時をちょっと過ぎたところだな。って、自分の携帯があるだろ」
「ちょっと聞いてみたくなったんです。あんまり遅くなるとお店がなくなってしまいそうですし、そろそろご飯にしましょうか」
「そうするか。ま、店を選ばなければこんだけデカい街なんだ、いつでもどこかしらには入れるだろうけどな」
「折角、おごってもらえる権利を使用するんです。美味しい店じゃないともったいないですから」
「はぁ、しっかりしてるよ。色々と」
でも、たとえこの食事がメインであったとしても、見ていて眩しいぐらいの笑顔の紅凪と歩けるのは良い。ただ少しの出費だけで彼女がこんなにも機嫌よく、メイドとしてではない紅凪個人の顔を見せてくれているのなら安いものだ。
ロンドンの飲食店は、新設の建物ではなく伝統的な建物を利用したものが多い。
結果的に、紅凪が好きそうなゴシックだかなんだかの様相を呈した、感じの良い店ばかりで、大して大昔の芸術に興味のない俺でも、おっ、と視線を向けざるを得ないような注目度を誇る店が続く。
その中で紅凪が選び、入店を決めたのは今時珍しい喫茶店だ。
かつてはゆったりとお茶を楽しむ店として一世を風靡したこの手の店も、多くはファストフード店に駆逐され、生き残ったのは逆に高級志向のスロウフードを自称する店ばかり。下流から中流層をターゲットとした喫茶店は衰退の一歩を辿り、まともに利潤が得られないので、老人が仲間との会合に利用するため、趣味的に開けている店ぐらいしか生存していないのが実情だ。
そんな現状にも関わらず、この店はどうして中々流行っているようで、外から見るだけでも八割ほど席が埋まっている。生存の理由は、紅凪が目を光らせたもの――デザートに力を入れたことか。
「もう注文は決まっているんだろうな」
「ええ。イチゴのパフェです」
なぜか自信満々にドヤ顔で言う。あらやだ、この子可愛い。
……謎のオネエキャラが出て来てしまったが、山のようにアイスだか生クリームだかを積み上げた豪華なパフェではなく、一番小さくて値段もリーゾナブルなものを選ぶとは。俺の財布に配慮してくれたようにも思えるが、きっと少食な彼女が、一番食べたいものを選んだ結果、こうなったのだろう。でないと、ドヤ顔の意味がわからない。
四人席も空いていたが、混雑していることもあって紅凪が気を利かせ、二人席に座ることになった。必然的に正面から向き合うことになる訳だが……こうして正面からその顔を見るとなると、なんとも小っ恥ずかしい気分になる。
紅凪が可愛過ぎるってぐらい可愛い分、俺の残念フェイスを晒すのが、なんと言うか申し訳ない。
もちろん、俺だってイケメンと名高い兄貴の弟であり、多少はそれに似ている部分もある。だが、中途半端に童顔なせいで美形とは言いがたく、かと言っていわゆる可愛い系の魅力も、割と良い体格のせいで消し飛ばされている。身長が高くて足が長いのは美点とばかり思っていたが、こんな罠があったとはな……世の中は不条理に出来ているもんだ。特に、優秀な兄を持った弟という生き物にとっては。
「あー、俺もオーダーを決めないとな。と言ってもそんなに腹が減ってる訳でもないから、これにしておくか」
「ケーキセット、ですか?……うわー、なんですか、その露骨な女子力アピール」
「う、うるせー!甘いものはそんなに好きじゃないけど、チーズケーキは好きなんだよ。それに、サンドイッチも付くから普通に費用対効果が良い感じだしっ」
「靖直くん、チーズケーキが好きだったんですか?」
「あ、ああ。なんだ、そんなにおかしいか?」
「いえいえー。なるほど、そうですか」
いつもの微笑みではなく、明らかに腹に一物を持っているようなクスクス笑いをする。くっ、これが俗に言う「プー、クスクス」なのか……!今まで経験したことがなかったが、そんなに気持ちが良いものとは、とても言えないな……。
「わたしは紅茶とパフェだけにしておきますね」
「本当、小食だな。他の皆はもっと食べるんだろ?」
「まあ、そういう人も多いですね。でも、わたしはこれぐらいで十分ですよ。あんまりがつがつと食べてお腹に溜め込まなくても、美味しいものは少し食べるだけで幸せな気持ちになれるものだと、わたしは思いますので」
「はぁ……。なるほど」
外出もしない癖に食う量だけは一丁前だった俺にとっては、中々に痛い食事の哲学だ。
尤も、本来的に紅凪達には食事なんて必要ない。だが、だからこそ言える理想論だと切り捨てるのも、ちょっと短絡的過ぎるような気がする。特に近年、食事に娯楽性を見出すのが当たり前になり、それを大いに楽しむのは悪いことだとは思わないが、大量の消費の裏側には、大量の廃棄される食料がある。それを続けても良いのか。いつか、この地球上には人口の食べ物しか存在しなくなるのではないか――。
珍しく頭を働かせてみていたが、そんな真面目君な思考は聞き覚えのない声の介入で妨げられた。
「おー、紅凪じゃん。なになに、休みもらったからって、男の子とデート?」
「ええっ!?あ、レオノラ先輩ですか……。どこの誰がやって来たのかと」
「ふふーん、驚いたっしょ?あたしもお休みもらってたんだー。と言っても、紅凪とは違って三日間だけだけどね。仕事の予定が詰まってて、それはそれは大忙しなんだよ」
「大変ですね……。なんだか、申し訳なくなって来てしまいます」
「いやいや、紅凪は紅凪で大事な仕事をしてるんだから。……って、もしかしてこの中々のイケメンは!えーと……誰だっけ。名前忘れちゃった」
「俺を無視して話を進めまくった挙句、名前知らないのかよ!靖直だよ、ヤスナオ。もうわかっているんだろうが、良嗣兄貴の弟な」
急に現れた女の子は、金色の長髪が一際目を引く、十五歳ほどの……やはり宝石だけあって、とんでもない美少女だ。
背丈は紅凪よりも更に低く、小柄と言うよりは“ちまっこい”と形容した方が正しいようで、意外なほど胸の大きな紅凪と比べると順当にスレンダーな体型。つまり、言ってしまえばかなりのお子様に見える。ただ、服装は黒を基調としたやや背伸びしたもので、いくらか見た目年齢が上がって見えるので、年齢不詳なのは他の宝石達と同じだ。
本体である宝石はペンダントとして首から提げられており、かなり大きく透明な黄色の宝石……恐らく、オパールか。石言葉は確か希望や無邪気さ。それから、幸運を招く宝石とも呼ばれていたように思う。快活な彼女は正にぴったりの気質を持っていると言えるだろう。
「あー、靖直くんね。おっけ、もう覚えたよ。多分、もう忘れないと思う」
「頼むよ……。えーと、俺や紅凪のことを知ってるってことは、君も兄貴のトコのメイドなんだよな」
「うん。レオノラ・トレーダ。最も高貴にして最も美しい宝石、オパールだよ」
「お、おお。そうか」
「あっ、今、『うわぁ、こいつ面倒だよぉ……』って思ったでしょ!ふふーん、残念ながら、その通りだよー」
「そこは否定しろよ!」
なんともハイテンションな娘だ。そう言えば、前に兄貴が宝石の色と性格もリンクしていると聞いた覚えがあるな。群青色のサファイアである青羽さんは落ち着いた人だし、鮮やかな赤のルビーである紅凪の性格はほどよく明るい。で、燦然と輝く黄色のオパールのレオノラは、一緒にいて疲れるレベルの元気っ子という訳か。
「レオノラ先輩は、いっつもこんな感じですから……」
「なんか、あたしとナオくん、相性良さそうな気もするけどねー。紅凪はぽえぽえしてて、きちんとツッコミくれないじゃん?やっぱり、餅つきみたいなボケとツッコミのテンポの良い掛け合いが必要なんだよ。日本の伝統ってやつだよ」
「先輩は、どう考えても日本の方じゃないですけどね」
「こんだけ日本語喋ってれば、チャキチャキの日本っ子も同然だって。ね、ナオくん?」
「そ、そうかもな。と言うかそのあだ名、流れるように決められたけど拒否権ないのか?」
「え、嫌なの?」
「い、いや。そんなことはないけど」
「じゃあ、ナオくんで決まり!」
「わ、わかったよ」
マシンガントークとは、正にこのことか。本当にノンストップでたった、たったと会話が進んでいく。紅凪との会話とはまたリズムが違っていて楽しいが、これは一時間も持たずに疲れるだろうな……。
「と言うか先輩。先輩もこのお店でお食事してたんですよね。あんまり勝手に席を立ってしまうのは……」
「あー、うん。そうだね。じゃあ、料理が来たらあたしの席に二人ともおいでよ。まだ空いてる時に来たから、一人だけど四人席に通されちゃったんだ。もうちょっとしたら相席にされちゃいそうだし、それの防止のためにもさ」
「う、うーん。それって良いんでしょうか」
「まあ、個人経営の店だし、それぐらいは出来るだろ。じゃあ、レオノラ、先に戻っておいてくれよ」
「ん、らじゃっ。まだ食べてるトコだから、食べ終わったと思って下げられたら困るしね。ではでは、後はお若い二人に任せてー」
「……どこでそういう日本語を覚えるんだ」
かつて日本で行われていた、お見合いという儀式での定石的な、ものすごく古風な言い回しだぞ、それ。
くるんくるんと、ところどころが跳ねたりカールしたりしている金髪を揺らしながら、オパールの女の子は帰って行く。ただ歩く姿だけでもぴょこぴょこと楽しそうで賑やかな娘だ。
「なんか、すごい子だな」
「すごい先輩です……」
今まで俺が仕事の上で出会って来た宝石達は、紅凪を含めて暗いところのある、少なくともそこまでテンションが高くない人ばかりだった。そんな彼女達と比べると、レオノラは浮いているとさえ言えるレベルの明るさだ。しかもただ明るいだけじゃなく、いちいち言うことがエンターティナーのように面白い。本当に個性の強い娘だな。
「もっと大人っぽいメイドさんばっかりだと思ったけど、ああいう小さい子もいるんだな。まあ、宝石に年齢なんてないんだろうけど」
「お店に出ているのは、青羽先輩みたいな大人っぽい方ばかりですね。一応、宝石のお店ですし。でも、レオノラ先輩は今のわたし達によく似たお仕事をしているんですよ」
「ってことは、色々なところに行って、宝石を集めてるのか」
なんとなく、彼女のイメージには合わないな。もっとアグレッシブなことをしているような印象を受けた。
「いえ……先輩は宝石の回収ではなく、破壊だけを専門にしているんです。つまり、初めから魔物型の宝石の仕業とわかっている事件や、他の人が一度調べたことがあって、強力な魔物型がいるとわかっている場合の対処をする、という訳ですね」
「つまり、戦闘が専門か……。イメージに合うっちゃ合うけど、そんなのを担当している子もいるんだな」
「先輩はご覧の通り、人に合わせたり、交渉をしたりというのが苦手ですから。そして、戦闘を任されるだけあり、わたしや他のメイド達と比べても、抜きん出て強いんです。……わたしは、まだ戦っている姿は見たことがないんですけどね」
「へぇ、レオノラの言ってた通り、オパールって言えば激しさとかより、煌びやかさの印象が強いのに、そんなに強いのか。でも、小柄だし力もなさそうなのに、どうやるんだろうな」
「わたし達に外見上の特徴はあまり関係ないですけどね。でも、確かにわたしもちょっと興味があります」
やっぱり、魔法的な力で戦うんだろうか。でも、紅凪が実に物理的な魔法を使ってみせてくれたので、もう彼女達の攻撃方法に俺の常識を当てはめることはやめた。どんなことをするのかはわからないが、まあいずれ見るような機会も出てくることだろう。どうせ、俺はこの仕事に長く身を置くことになるはずなんだ。
その後も、俺と紅凪は珍客についていくらか言葉を交わし、そうしている内に注文の品が来たので、レオノラの席で一緒に食べさせてもらうように話を通し、改めて彼女と顔を突き合わせることになった。
……なぜか紅凪が気を遣い、彼女とレオノラは仲良く並んで座っている。つまり、俺の正面には二人の宝石少女がいることになる訳だ。喜ぶべきシチュエーションだろうが、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまう。紅凪にはかなり慣れて来ているとは言え、私服の彼女は今までにない魅力があるし、レオノラもスレンダーで子どもっぽいとはいえ、プラチナブロンドの髪と、大きく輝く金色の瞳なんかは――人を魅了する魔的な力があるとしか思えない。宝石ってだけで人を狂わせる要素があるのに、黄金を思わせる配色なのだから、もう完全に卑怯臭いと言える。
「へー、ナオくんはケーキセットなんだ。おうおう、女子力高いじゃんかよー」
「皆そう言うな……。好きなんだから良いだろ」
「あたしも好きだよー、チーズケーキ。で、紅凪はイチゴパフェ、と。このあまーい感じは、二人の関係そのもの、ってお姉さん勘ぐっちゃって良いのかなー?」
「なっ、そんな訳ないじゃないですか!」
「うひゃあ、マジ怒りっすか。そ、そこまで険悪なんだ。二人」
「いや、そ、そこまででもないんだぞ?」
「はい。ばっちり険悪です」
「…………自信とか色々と失くすんだが」
いや、これはレオノラの追求を避けるための、紅凪なりの起点の利かせ方だ。そうであると信じたい。
しかし、しかしそれにしても、大声で否定され、険悪とまで言われるのは……切ない。うわっ、軽く涙がにじんできやがった。
「んー、結構な修羅場をくぐって来たって聞いたから、吊り橋効果的に急接近してると思ったんだけどなぁ。ちょっと残念。でも、紅凪、ナオくん。恋のお悩みだったら、いつでもレオノラおねーさんを頼ってくれて良いよ。むしろ、そういう話聞きたいから、がしがし相談してね」
「お、お姉さんって」
「あたし、これでも自我を持って百年は経ってるからね。実は、お店全体で見ても結構なお姉さんなんだよ。青羽もあたしの妹みたいなもんー」
「えっ、マジか」
「はい。レオノラ先輩よりも古い方は、ほとんどいませんね。ただ、勤務年数では青羽先輩が最長で、次ぐらいがアドリア先輩で――レオノラ先輩は、四番目ぐらいでしたっけ」
「ん、そだね。まぁ、おねーさんにも昔は色々とあって、荒れてた時代とかもあった訳ですよ。んで、そこを拾ってくれたのが良嗣くん。今思えば、あれが初恋かもねー」
兄貴をくん付けで呼ぶメイドとは……新しいな。いや、そもそも彼女のようなメイドがいたなんて。なんともゆるくて自由で、主人の世話を真面目にするべきメイドらしからぬ感じは、他に類を見ないことだろう。でも、どちらかと言えば俺にはそっちの方が心地良さそうだ。最初にレオノラ本人が、俺と相性が良さそう、と言ったのも外れではなかったということか。
……ま、まあ、私的には紅凪が一番で、彼女以上の女性はいないだろうがなっ。
「靖直くん、そろそろ食べても良いですか?」
「え?あ、ああ。じゃあ食べよう。いただきます」
「はい、ごちそうになります」
「あたしも、いただきまーす」
いつもはあまり食事にがっつかない紅凪だが、目の前にあるパフェの誘惑には勝てなかったのだろう。俺も、そろそろ腹が減ってきていた。シンプルなミックスサンドに手を伸ばし、なんとも無難だが、それゆえの美味さを満喫する。
紅凪もまた少しずつクリームをすくい、イチゴと一緒に口の中へと運び味わうその姿は、幸せの味を噛み締めているような、見ているだけで幸福感と満腹感とかが得られるようで、こんなところにも彼女の可愛さは表れるんだな、と少し嬉しくなる。
既に注文した料理を食べ終えていたレオノラは、わざわざ追加で注文したのだろう。プリンアラモードをつつき、やはりなんとも幸せそうな、子どもっぽい顔になっていた。おしゃれに飾り付けられているとはいえ、プリンというところに幼児性が出ている気がして、彼女の外見とよく合っている。
「はぁっ……。甘いものは、幸せをくれますね……」
「うんうん。紅凪、あたしのちょっと食べてみる?」
「えっ、良いんですか?わたしのパフェはあげられませんよ?」
「う、うん。いいよ。あたしはおねーさんだもんね」
和んでいるところに、紅凪の意外な強欲さが露見するという、ショッキングなエピソードが挿入された気がするが、見ないふりをする。
「うぐぐ、こうなったらナオくんのケーキをもらっちゃうぞー」
「あっ、ちょ、やめろっ。こんなの滅多に食えないんだぞっ」
皿を手元に引き寄せ、全力でガードする。たかがケーキに、と人は笑うかもしれないが、マジで貴重なケーキ分の補給だけに、おのずと本気になってしまう。そうこうしている内に、紅凪にも分け合う気持ちが芽生えてくれれば、と思ったんだが……。
「先輩。靖直くんは極貧生活を送っているので、勘弁してあげてください」
「そうなの?じゃあ、しょうがないね。……ってことで、やっぱり紅凪が!」
「ダメです」
「なぜにっ」
それにしても頑なだ。相当な好物みたいだが、今までここまで食べ物に執着する彼女は見たことがない。隠れた一面なのか?それとも何か理由が――。
「これは、靖直さまがわたしにくださったご褒美なので。いつもならいくらでも先輩にお分けするところなのですが、初めていただいたご主人さまの気持ちなので……。ごめんなさい」
「ふえっ。にゃっ、なんてその……うわーん、紅凪やっぱり大好きだよぉー」
「せ、先輩。ほっぺたを擦り付けないでくださいっ。痛いですよ……」
すりすり。いや、ずりずりと全力で頬を擦り付けるレオノラ。そして嫌がりつつも笑顔の紅凪。微笑ましい光景だ。
それにしても、紅凪がそんな風に……くっ、俺まで泣けて来る。本当に彼女はメイドの鑑だ。いや、それだけじゃない。人としても素直で好ましく、ああ、なんて誰にでも愛される人格を持っているのか。照れ屋で、その裏返しに辛らつなディスりをするなんて欠点、欠点の内に数える必要がないほど愛らしい。
彼女のことを大事にしよう。これ以上がないほど、大切にしよう。そう、改めて思えた。
「あっ、靖直くん」
「ん、どうした?」
「今のその変顔、過去最悪にアレですよ」
「…………そ、そうか」
これは欠点になんか入らない。入らない……ぞ。
食後、レオノラも加えて三人で街を歩く。元々は紅凪の案内だったはずだが、いつしかただの冷やかし旅……もとい、ウィンドウショッピングとなっていて、女の子が二人になったことで騒がしさも増している。女が三人寄ればかしましい、なんて表現もあるが、女二人と男一人でもなんとかなるらしく、会話と笑いの尽きない散策となっていた。
「紅凪。紅凪は、この街を見てどう思う?楽しい?面白い?可愛い?奇麗?汚い?好き?嫌い?」
そんな折、レオノラが本当に素朴な疑問、といった調子で質問を投げかけたので、紅凪は明らかに驚き、動揺している様子だった。唐突だったのもそうだし、何よりレオノラの質問の仕方が、軽く病んでいるような感じだったというのが一番大きいだろう。彼女が饒舌なのはよくわかっているが、口が回り過ぎるのもちょっと不気味だ。
「え、えーと……。総合的にはとても素敵な街だと思います。少しうるさ過ぎて、淀んだところもあると思いますが」
「今更かもだけど、ナオくんは?」
「俺か?まあ、万歳しながら大好きとは言えないが、悪くはないと思うな。一人で歩いてもつまらないけど、女の子と歩く分にはすごく良いし」
「あ、そういうのは良いから」
「はい……」
紅凪に続き、レオノラからもキモがられているのが、視線と声色からわかる。……別に、女の子から軽蔑されるのが癖になってるとか、そういう変態的な嗜好はないぞ。
「あたしもね、好きだよ。この国だけじゃなく、世界中を色々とお仕事で回るけど、この街に帰って来ると安心出来るし、休みの日にこうして歩くのも大好き。だけど、紅凪。ここはあたし達にしてみたら、最悪にむかっ腹の立つ街だよ。だからこそ、良嗣くんはここでお店を開いているんだから」
「えっ……?」
「こっちに来て。紅凪と、ナオくんには知っておいてもらわないといけないと思うから」
ニコニコと笑う少女の顔が、歳不相応なほどに落ち着いた大人の女性のものへと変わる。俺も紅凪も、彼女が戦う姿を見たことはないが、きっとその時もこれと同じ表情なのだろうと、直感的に理解出来た。
彼女の案内に従うのは、もしかすると地獄巡りの誘いに乗るのにも似たものなのかもしれない。きっと貴重な経験が出来るが、同時に危険が。肉体的ではなく、精神的な危険が付きまとうのだと思う。なぜなら、明らかに彼女は俺達に、汚い世界を見せようとしている。平和な姿だけを見て満足している子どもに、建前を取り去った世界を見せて、大人の次元にまで世界観を引き上げようとしているのに違いない。
それは多分、今の俺や紅凪には必要なことなのだろうが、不用意に首を縦に振れば、大人の階段を上るどころか転げ落ち、退行を余儀なくされることすらあり得る賭けとも考えられる。彼女の手を取って良いものか……。
悩む俺の隣で、紅凪はこの先輩メイドに従うことを決めた。……なら、俺がそれに付き添わない訳にはいかない。
「あたしは一丁前に考える力なんてないから、君達がこの経験を通して後悔するかどうかなんてわからないけど、知りたいことと、知るべきことが重なるのって、実はすごく珍しいことと思うの。だから、ごめんね」
彼女に頭を下げられたからには、もう何も言えることはなくなってしまう。黙ってこの船頭について行き、人の波や音の波、それから町並みを通り抜けて、中心街からはかなり離れた、恐らくは比較的貧しい人の住む区域にまでやって来た。
かつて、パリのある区域には金のない若手アーティストが住んでいて、月に一度は華やかな作品展を行っていたらしいが、このロンドンの貧民街は、それとは少し違ったきな臭さが感じられる。つまり――犯罪の温床とでも呼べる、アウトローで危険な空気が充満していた。
「ここは?」
「違法賭博、密輸、ドラッグ販売……大抵はされているところだよ。ここだけはこれだけ文明的なこの街の中で、唯一数百年前からの負の伝統を引き継いでるの。で、あたし達にしてみればここは――墓場」
レオノラの示した通りへと入って行くと、そこには確かにゴミ捨て場のような、不自然な空間があった。そして、無数の宝石達が転がっている。いずれもヒビが入ったり、完全に砕けたり、半ば溶けていたり……それ等全てが人の形をしているならば、さすがに気分が悪くなってしまいかねない、酷い姿の屍達だ。
「あたし達の存在は、普通の人は知らない。普通は怪奇現象とか、幽霊とかで片付けられるからね。でも、都市伝説なんてきょうび流行らない素朴な噂話だけど、そういう形でなんとなく伝わってるんだよ。……古い宝石には、よからぬものが憑く。だから、所有者に不幸が降りかかる前に捨てるべきだって」
「それが、彼等ですか……」
無言の首肯。俺には、この宝石達を“彼等”と呼べる感性は、まだない。しかし、紅凪やレオノラには、どのように見えているのか。
「それから、宝石を傷付けてもよくないと言われているから、ここに捨てられた時、宝石はまだ生きていたはずだよ。こうなったのは、後天的な理由。わかる?」
「……なんとなくは」
俺にはわからない。宝石が石そのものの形で所有されることは少ない。大抵はペンダントやブローチなどに加工される。しかし、ここにある宝石達には、そういった土台の部分がない。ならば、その貴金属を回収されたのはわかるが、ならどうして石を傷つけてしまうのか。たとえ古びていても、いくらでも使い道はあるから、買い手は付くはずだ。研磨用や研究用、砕いて顔料にすることだって出来るに違いない。
「ナオくんにはわからないか。じゃあ説明するけど、宝石の価値は、人にだけ見出されるんだよ。他の動物はもちろん、宝石達自身も、自分達に価値なんて見ていない。もし宝石を大事にしようと思う宝石がいたら、それは自分の本体だけか、あたしみたいに人の社会に染まって、人もどきになった宝石ぐらいだよ。だから、憂さ晴らしに宝石が宝石を砕くことは、十二分にあり得る。そういや、最初のお仕事の時、宝石を食べる魔物に会ったんだよね。そういう宝石も、他にももちろんいるだろうから」
「つまり、共食いの結果なのか?」
「そうだね。そもそも、宝石に仲間意識なんてものはそんなにないだろうけど」
これが、レオノラの見せようとした裏の世界なのか。
人が宝石の人生に介入し、そえゆえに滅ぼしてしまうかもしれないというリスクを負いながらも、それが必要なこととされる一つの理由として。
「先輩は――。先輩には、ありますか?」
「仲間意識?なかったら、こんなことをしてないんじゃないかな。だって、あたしは良嗣くんに君達を案内しろって命令されてないんだから。ただ、あたしなりに紅凪のことを考えて、こんなお節介を焼いたの」
「それなら、レオノラ。君は仕事の中で」
彼女の仕事、それは宝石を砕くことだと聞いた。たとえその命を絶ってしまった方が幸せに思える、魔物であったとしても、宝石は宝石だ。もしかすると、彼女と同じオパールの宝石の魔物だっていたかもしれない。いや、きっといたことだろう。
「うん。罪の意識はあるよ。でも、それは仕方がないことだと思ってる。人間が自分達の生活のため、他の動物を殺したり、その生息域を開発したりしているように、あたし達も生きるため、犠牲にしなければならないものがある。だからそれは、背負って当然の業だよ。紅凪も、二つの命を、二つの罪を背負ってここに立っている。それは忘れたり誤魔化したりするんじゃなくて、受け入れないと。あたしは、そう思う」
レオノラは寂しく言い終えると、光の当たる華々しい都へと戻るため、この薄暗い通りの出口に立った。俺も、紅凪もそれに続く。
幼く穢れがないと感じた少女の姿は、もう数十分前とはまるで見え方が違っていて、それでもレオノラという煌びやかなオパールの少女は、彼女のままの輝かしい美しさのままだった。
「――先輩」
「うん?」
「わたしはきっと、先輩ほどはたくさんのものを背負えないと思います。そんな時は、どうすれば良いんでしょうか」
「二人で抱えれば良いよ。紅凪には、その相手がいるでしょ?二人で一緒のものを持つのって、何も単純な二分の一ずつの負担じゃないんだ。目に見えない力が、支えてくれるんだと思うよ。だから、いくらでも背負って行ける。それでも疲れちゃったら、いつでもあたしを頼って。あたしがいる限りは、力になってあげるから。……お姉さんだもん」
小さな“お姉さん”は笑う。たとえ太陽がなくなっても、彼女がいれば光には不自由しないのでは、と思ってしまうほど明るく、爽やかに。
「っと、ごめんな。痛かったか?」
「う、ううん。ぼくの方こそごめんなさい、お兄さん」
「いや、お前に怪我がないなら良いんだ」
貧民街から出る途中、曲がり角から飛び出して来た小さな影が俺にぶつかり、そのまま盛大にすっ転んだ。慌てて駆け寄ろうとした紅凪を静止し、きちんと俺の方から助け起こして謝る。
「本当にごめんなさい。……じゃあ、ぼく、急いでいるんで」
「ああ。あんまり急ぐのは良いけど、角の飛び出しには注意しろよ。こんな通りなら車は通ってないだろうが、ガラの悪いおいちゃんなんていくらでもいるからな」
特にこの辺りは。
背中で聞いた少年をしばらく目で追い、追いきれなくなった辺りで紅凪が近付いて来る。
「あの子……」
「宝石だったね」
「えっ、そうなのか」
反射的に驚いてしまったが、確かによくよく考えればあの少年の髪の色は、自然にはちょっとあり得ない緑色だった。瞳も同じ色だった気がするし、とすると緑色の宝石……翡翠かエメラルドの化身という訳か。ほんの子どもの外見だったから油断していたが。
「しかし、こんなところに宝石がいるってことは……」
「まだ、無事ということですよね」
「……なぁ、レオノラ。ここにいるような宝石は、兄貴が集める対象には入らないのか?」
「さて、どうかな。良嗣くんが気にしているのは、人に害を与える宝石と、逆に人の世界に突然現れて、取り残された宝石だけだよ。彼等は彼等なりに生きている。たとえ長くは生きれないとしても、自分の力で生きている子に、突然、水とパンを与えるものかな」
「全ての動物が、天然記念物として人間に保護されている訳じゃない、ってことか。人が生きているだけで、どんな生き物でも少なからずその生活を脅かしているだろうに」
俺自身が、俺の考えていることは理想論に過ぎないとわかっていた。もしかすると、ここに来る前の俺なら、一切恥ずかしがることもなく、この不条理を呪い、自分が理想とすることを大声で叫んでいたのかもしれないが、もう子どもじみた理想を掲げる気は失っている。
それは決して諦めじゃなく、前向きな方向転換のつもりだ。……つまり、現実を知り、自分の出来ることの小ささを知ったからこそ、手の届く範囲のことをやっていきたい。そう思った。
「靖直さま。行きましょう」
メイドとして、紅凪が手を引く。だから俺も、彼女の主人として。また、レオノラの主人の弟君として、二人のメイドと共に行こうとした。……すると、再びあの少年がすぐ前を走り過ぎた。さっきと寸分変わらない速度で、角を曲がって消えていく。これが普通のことじゃないとは、俺でも理解出来た。
「これは……」
「バグって、あたし達は呼んでる。全体ではなく、部分的に破損した宝石は、最後に与えられた命令や、自分自身が最後に抱いていた使命に囚われて、その行動を繰り返し続ける。人間とも、似てるのかもしれないね。古くなった人の、最後の数年に」
レオノラが、わざと大人を体現する自分を偽悪的に見せていることはわかっていた。そうじゃないと、ここまで彼女が感情を捨てて、俺の気に障ることばかり言うとは思えない。だが、今だけは彼女に対して思い切り不満と怒りをぶつけたかった。
救いのない宝石が目の前にいて、しかしそれを見捨てることを、兄貴やお前は選ぶのかと。俺も兄貴の仕事の一部をしている以上、同じ選択をしなければならないのかと。
「……行こう」
「そう、ですね…………」
今度は俺が紅凪の手を引き、この場から逃げるように立ち去ることになった。
恐らく、俺も紅凪も、二度とここを訪れることはないだろう。……それでも、レオノラが言うように、この記憶を封じ込め、忘れてはならない。その理屈はわかる。
わかったが、受け入れられるかどうかは、また別の問題に思えた。
説明 | ||
オムニバス的な、あるいはロードムービー的な書き方は「赤ずきん」でやったので、一度、街に戻して休暇を取らせる、という試みをしてみました 前二つのエピソードでバトルや世界観を描いているので、今度は人間関係の補完をするべきかな、と思ってのことだったのですが、どうだったでしょうか |
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