たゆたう |
日付けが変わってからの三時間が私の番だと聞かされて、反射的に顔に出てしまったのかもしれない。
敏感に察した彼女に軽くではあるがたしなめられた。
「ごめんね、大井っち。でも、そういうつもりじゃなくてさ」
あわてて弁明してみたものの、後の言葉が続かない。
本意がどうあれ、通夜を憂鬱に思ったのは事実なのだから。
しかし、いったいどのような顔をしていたら正解だったのだろうか。
誰とも知れない娘の通夜へ、やおら出張ることになったと聞かされて。
「駆逐艦ですって」
陽の落ちた鎮守府庁舎の廊下の向こうから聞こえてきた声に、意識せず私は振り返ってしまっていた。
「直撃だったらしいわよ」
「それでよく遺体が戻ってきましたね」
「小口径の弾丸が胸を一撃。命を落とすには、それで十分だもの」
いったいだれとだれが話しているのだろう。会話の様子では三人以上に違いなさそうだったが、影が覆い被さって遠目には確認できない。
もちろん歩み寄れば、確かめることなど造作もなかったはずだ。
「でも体が残っているだけ幸せなことよ」
「私と同艦隊にいた娘は、一声悲鳴をあげたきり。振り返った時には、もう波間に気泡が浮かんでいるだけだった」
「妹は艦載機の爆撃を受けて髪も残さず焼け尽くされたわ」
「着任もずっといっしょだった姉は、とっさに伸ばした私の手を握って、そこから先をどこかへ吹き飛ばされたの」
だが、一歩たりとも踏み出すことはできなかった。どの声にも、あまりに聞き覚えがありすぎたから。
聞きたくない話だった。せめて、どこかへ場所を移してほしい。そう思った矢先、一つ、鴉の鳴き声が影を走った。
耳のすぐ傍から叫ぶような、鋭く重い声で私の前髪は揺らめいた。
蜘蛛の子を散らすように、廊下の向こうの人々は、途端にいなくなってしまった。音はしなかったが、耳の奥底でうごめく気配が伝わってきて気持ちが悪い。
「なんだろうね、アレ」
できるだけ平穏を装ったつもりで、剽げた調子になるよう努めた。
ところが期待した返事はなかった。
「大井っち?」
振りむいてみれば、傍らの大井は眉をひそめて窓の外を眺めていた。その視線を追ってみれば、防砂用に植えられた海岸線の松の枝に、鳥が黒い羽を休めている。
それはあるかなきかの月明かりを写して、黄色く光る瞳でじっとこちらをうかがっているようだった。
通夜といっても、鎮守府内でのことだから、大仰に式が執り行われることはない。むしろ粛々と時間の過ぎるのが待たれ、翌日の葬儀に備えるのが通例だ。
弔問に訪れるのも同じ艦隊に所属していた仲間ばかりで、その少女達ですら所在なげで、日をまたぐ前には自室に引き返してしまう。無論、提督の姿など、どこにもありはしない。
別館に誂えられた霊安室に、明かりがともされることを除いて、鎮守府内はいつも通りの日常がくり広げられている。
違う点といえば、短い仮眠を終え、割り当てられた時間に霊安室におもむこうとしている私がいるくらいなものだ。
あまり足を向けることのない別館の廊下を、スリッパの音を響かせて、到着した当の室内にはアイツがいた。
「あたしで悪かったですね」
襟と袖口、それとスカートを若草色で合わせたブレザーを身につけ、目立つ淡い枇杷色の髪を二つ左右で結んだ姿は一度見たらそうそう忘れられるものではない。阿武隈だ。
「だれもそんなこといってないでしょ」
「うそ、部屋に入ってくるなり、『げっ』ていった癖に」
「ちょっと勘弁してよ、被害妄想? ウザイんですけど」
「はあ? なに言ってくれちゃってるんですか? 北上さんこそ若年性健忘症でも入ってんじゃないですか」
訓練校時代から、とにかく阿武隈とはそりが合わない。特に演習で一度手ひどくぶつかってからは、顔を合わせれば互いになにか言わないと気が済まないくらいになった。
「なにさ」
「なによ」
普段ならここで激して罵り合いになるところだが、この時ばかりは場所も場所ということもあり、どちらからということもなく矛を収める形になった。
「やめやめ、ンなことしてる場合じゃないっての」
「そうですよ。じゃあ、後はまかせましたからね」
木製の椅子を、派手に音をさせて、阿武隈は腰を上げつつにくまれ口をたたいてくる。
「最近また頻発してるそうですよ。くれぐれもあたし達先行組の努力を無にしないでください」
退室しようとしているその背に、なにか一言ぶつけてやろうとしたところが、思いの外言葉が出てこず、不本意ながら見送るしかなかった。
霊安室は六畳ほどの小部屋だ。板張りの床、コンクリむき出しの壁、天井からは裸電球が吊るされているばかりの、飾り気というものをおよそ感じさせない閑とした造りになっている。
窓は一つ、私では背伸びをしてようやくのぞくことのできる場所に、明かり取りとして小さなものがつけられているきりだ。擦り硝子が入れられたその窓からは、外の様子をうかがうことはできない。むしろ、外から内部が見えないようにしているのだろう。
私だって好き好んで見たいわけではない。けれども、不可抗力というやつは、どこにでもつきまとう。
室内のほぼ中央には、腰の高さほどの台が設えられている。これが六畳ばかりの部屋では、否応もなく視界に入ってくる。
樫製の縦長の天板は、等間隔に空けられたひょろ長く華奢そうな六本脚で支えられている。
六本脚の台座など、鎮守府内を見渡してみてもここでしか使われていない。何か由来があるのかと、かつてたずねてみたことがあった。
「四本だと四足の穢れを思わせるから」
説明してくれた空母の言葉は簡にして要を得ているようにも思えたが、
「けど六本は六本で虫を連想しちゃうみたいな」
というささやかな疑問が喉の先まで出かかるのを抑えるのにずいぶん骨を折った。
その台座には棺が載せられ、内には遺体が横たえられている。
一度確認してみたが、知らない顔だった。聞いた通り、目立った外傷もなく、まるで眠っているような、と言いたいところだが、胸元にぽっかりと開いた大きな穴が経帷子を凹ませていては、死亡を疑うこともできない。
ひとしきり確認したところで、私は仏の横たえられている台座のかたわらに置かれた木製の椅子に腰を下ろした。
「うえ」
失敗した。十分に間をおいたつもりだったが、腰掛けの綿にはまだ阿武隈のぬくもりが残っていた。
時計を確かめてみれば、まだ五分と経過していない。
遺体が消えたというのが報告されたのは、一年ほど前だ。
演習の事故で亡くなった体が消えた。安置されていたはずの霊安室から見えなくなったのだ。前代未聞の不祥事に鎮守府は湧きかえり、敷地内は隈なく調べられたが、とうとう発見されることはなかった。
以来、同じような事件は頻発し、消えた遺体の数は十を超えている。
原因は不明のままで、噂話レベルの「真相」があちこちでかまびすしく口にされている。死体が勝手に歩きだしてどこかへ消えていった、なんていうのはまだ穏当な方だ。
ただでさえ無気味な夜番が、そんなわけで今ではたんげいすべからざる事態まで加わっているわけだ。私の憂鬱は、なにも怠惰ばかりのせいじゃない。
とはいえ、任務放棄が許されるわけもない。とにかく、自分の当番の時間を粛々と過ごすように努めようと決めた。
できるだけ棺を見たくはなかったのだが、なにしろ狭い部屋だから無理な望みだ。だから開き直って、むしろ台のすぐ傍らに腰を下ろした。
ところが、いざ覚悟を決めてみると、やることがない。もちろん警備の任務はあるが、これはなにもしないことが求められる。このなにもしないというのがたまらない。
自室を出る間際、大井に押しつけられた本が、かなりありがたかった。
袖珍版の一冊で、表紙に「くちぶえ」とタイトルが書かれている他は著者や書肆の名前すらない。中身も独特で、当たり前のように思っていた改行後の頭の一文字空けがされていない。なんとも面食らいつつも、折角の厚意でもあるし、私は本文に目を通しはじめた。
大井には申し訳ないが、時間つぶし程度に考えて読みはじめた本だったが、いつの間にやら思った以上に身が入っていたらしい、ふと気付いた時には、読み終えたページがずいぶんと厚くなっていた。
ただ、文字から顔を上げたのは、使命感に突き動かされてとか、そういう理由ではない。
紙面に走らせる眼差しのその端、私の足もとのあたりをなにか細かなものが横切ったからだ。
「きゃっ」
まず思い浮かんだのはねずみだ。我ながら、らしくないとは知りながらも、椅子に腰掛けたまま、つい足を浮かせてしまう。
けれども、それらしい気配もなく、おそるおそるつま先だけを戻してみる。
すると、たちまち姿を現したのは一羽のかけすだった。
ややずんぐりむっくりとした体型で、頭部から背中にかけて赤茶けた羽を僧帽のように整えた姿は独特で、さらに胸のあたりを黒い斑を散らした浅葱色で染めているとくれば、さすがに私でも見間違えようがない。
ただ、あまりにも小さい。成鳥だろうが、全長が私の拳ほどしかない。
その小さな体で、羽ばたきもせず、両足を揃えてかえる跳びの要領で、ちょこまかとはねまわっていた。
そして、時折私の脚に突っかかってくる。ダニでも抱えて、体をこすりつけてくるというのではない。明確な意思をもって、頭から私にぶつかってくるのだ。
いったいなににそんなに憤っているのかわからない。もしかすると、そのわからないことに腹を立てているのかもしれない。
やがて、いよいよ私に頭突きをしても甲斐がないと覚ったものか、ひょこひょこはそのままで、かけすは部屋の隅に身を移してしまった。
到着すると、それまでとは裏腹に、その場に静止して動かなくなってしまった。
ただ首を傾けて天井を見上げる姿は、精巧な造り物を思わせた。
その様が無性にユーモラスで、私もつられて、本から離れた目線を天井に走らせた。
かけすの真似をしたわけではない。それでも、私の動きも、そこで制止されざるをえなかった。
くらげだった。
傘の部分だけで優に私の体がすっぽりと入ってしまいそうなほどに巨大なくらげが、天井すれすれに、むしろ身をこすりつけて、さらに長い触腕をいっぱいに伸ばして漂っていた。
一体ではない。体を重ね合って、天井を覆うほどに群集している。
半透明だから、それでも長年で煤けた天井は見える。傘のない電球からのうす暗い明かりが照らす、くらげの体液越しの天井は、照明弾に照らされた海面を底から仰ぎ見ているのにも似ていた。
私は絶句して、それまで瞼の裏に隠れていた眼球に、ひんやりとした外気が触れるまま、瞬きもできずに立ち尽くしていた。
硬直を救ってくれたのは、かけすの鳴き声だった。木肌を砂利でこすりつけたような、ざらざらとした声は、私の耳から脳髄を震わせて、かなり強引に停滞した心を引き剥がした。
かけすの声は警戒だった。
覚めた目で見れば、くらげは天井から無数の触腕を垂れ下げてくる最中だった。
なにをするつもりかはわからないが、よい予感はない。私は夢中で、明かりを受けてキラキラと輝く腕に打ち掛かった。
しかし、眼前にしてなお信じられない光景が、それ以上に実感に乏しいのは、とらえどころのないためだった。
鎮守府内ということもあり、銃剣の類は携帯していない。しかたなく、素手で迎え撃っていたのだが、触れたはずの手の甲、指の先にまったく伝わるものがなかったのだ。
空を切っているというわけではないはずだ。その証拠に、遮二無二ぶんまわした手のあたりにいた触腕は、天井にまで引っ込んでいった。
幸い毒を持っていないようだと気づいたのは、幾度かそんなことをくり返した後だった。ふと、時化の後に、かつおのえぼしが浜に打ち上げられている姿が思い浮かび、ぞっと背筋が粟立った。
しかし、私の怖気を刺激する事態はそれだけでは止まなかった。
外からはどう映ろうと、触腕との懸命の格闘を続ける私の視界が不意に陰った。電灯が消えたわけではない。心許ないその明かりを、なにか大きなものが遮っていたのだ。
なにがなにやらわからないなりに、反射的に背後を見やった。
そこでは彼女が立ち上がって、私を見下ろしていた。
今日の航海で、敵からの致命的な一撃を受け、沈んだはずの彼女が。棺の上で、二本の足でしっかりと立っていた。
息を吹き返したわけではない。その証拠に、目は閉じられたままだったし、鼻の穴からは無遠慮に押し込められた綿が顔をのぞかせている。なにより、撃ち貫かれたという、胸の弾痕を通して、電灯の明かりがうっすらと経帷子にいびつな円を映し出していた。
くらげの腕が彼女の体にからみついて、あやつり人形よろしく持ち上げていたのだ。
許容量を超過する事態は、かえって恐怖の伝達を遅らせ、それより早く体が動いていた。
くらげから亡骸を取り戻そうと躍起になってみたものの、信じられない力で、私だけではびくともしなかった。
触腕の一本一本を狙ってみても、やはりつかむための手掛かりがなく、宙を掻くのにも似たしぐさをくり返すしかなかった。
「埒が明かない」
そう考えたのは、どうやら私一人ではなかったらしい。
くらげの触腕が、私にまといついてきたのだ。
「やっ、こら」
たちまち何本もの腕が、私の手といわず足といわず、顔や腰にまといついてくる。やはり触れられた感触はないにもかかわらず、接触したと思しい個所が氷でも押しつけられたような冷たさを覚え、力が抜けていった。
懸命に抗ったが、なにしろくらげは私のどこでも触れるだけでいいのだ。まったく多勢に無勢、たちまち私の全身はだるく、膝が笑って、立っていることすらやっとという有様になった。
「こ、こん畜生っ!」
身を支えるためになかば体をあずけていた木製の椅子を、振り回したのが、私にできた最後の抵抗だった。それも手ごたえのないままに、無様に空を切るだけの力ないものだったが。
完全に反抗する力を失って、ぐったりとうなだれている私を見て、くらげも満足したのだろう、やがて周囲の触腕は引き上げはじめて、頭の後ろで髪をもてあそんでいた一本が、みつあみを引っ張る感触を残して去ったのを最後に、一切の関心を失ったようだった。
そうして、くらげは遺体を持ち上げると、それを漂わせたまま窓の方へ向かっていった。
悠々と錠を開き、窓から夜の空へと抜け出す。そう思った矢先、それまでどうにか触腕から逃れていたらしいかけすが鳴き声をあげた。
とはいっても、くらげからすれば芥子粒ほどの鳥の、地を這う声にどんな意味があるだろうか。
実際、くらげも、それには歯牙もかけず、窓から体をすり抜けさせようとした。その瞬間、巨大な黒い塊がくらげに覆いかぶさった。
烏だった。日暮れ時に目にした巨大な烏が、ただ羽ばたきの音だけを響かせて、嘴をくらげに突き立てていた。
あの黄色い眼でじっとうかがっていたのは、私達ではなく、この巨大なくらげだったのだ。
黒い、頭部以上の長さを持つ嘴がついばむ度、くらげの体は小さくなっていく。
くらげも、折角とらえた亡骸を、再度棺の内に戻してまでも、触腕をつかって応戦を試みるものの、烏はまったくひるまない。それどころか首を振る速度はむしろ上がっていくほどだった。
ものの数分もしないうちに、くらげの姿はまったく消え去ってしまった。体の一部、触腕の欠片すら残ってはいない。
大物をたいらげてしまった烏は、あと口を愉しむかのように、二度ばかり嘴を打ち合わせて、やおら背を見せると、窓の外に羽ばたいて飛び去っていった。夜に溶け込んで、黒い身体は瞬く間に、周囲の闇と見分けがつかなくなった。
とうとう最後まで、私など目もくれなかった。
「はは……」
私は無性におかしくなったが、どうにかかわいた笑い声だけは出たものの、それ以上どうしようもすることができず、ただ椅子の背もたれに体をあずけるしかなかった。
「……ちょっと。北上さんってば」
次に気付いた時には、しきりと肩を揺すぶられていた。
「あれ、大井っち」
「あれ、じゃありませんよ。寝てたの? 窓まで開けっぱなしにして、風邪でもひいたらどうするつもりなの」
「あははは、面目ない。ごめんねー」
いつもと変わりのない大井の態度がうれしく、自分でも声がうわずっているのがわかる。
「どうかしたの、北上さん、なにか変よ」
「どうかしたって? やだなあ、わたしはいつも通りだってば、ほらほら」
大井の訝しそうな視線が痛い。
取り繕おうとすればするほどぼろが出そうになるのが自分でもわかる。それでも、戻ってきた日常にすがろうと、痛々しくも滑稽な身振りを留めることはできなかった。
大井の疑惑と私自身の狼狽を払おうと、顔と手を振っていると、なにか違和感があった。
しかし、先にその正体を見咎めたのは大井だった。
「あら、北上さん、この髪どうしたの?」
後ろで束ねたみつあみはすっかりほどけて、かろうじて髪留めが引っ掛かっている有様だった。
私は何も言えない。言えるわけがなかった。
「もう、はしゃぎすぎよ。ほら、じっとして」
沈黙を照れ隠しととらえたのか、小さく吹き出すと大井は椅子に腰掛けたままの私の背後にまわって、ほつれたみつあみを再び結んでくれるために手をかけた。
あやうくあげそうになった悲鳴を、私は辛うじて飲み込んだ。
「ちょっと、大井さん、大丈夫なの? 首まですごく冷たいわよ」
真に迫った調子で、心配そうに言ってくれたが、その大井の手も、海の奥底の海流のように、こごえそうなほどに冷え切っていた。
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北上さまは怪談がよく似合う。 | ||
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