生きた屍の人生 2話 人の織り成す悲喜劇 |
出会いとは人生そのものなのかもしれない。
数秒にも満たない出会いが、その人間のあり方や生き方そして趣味趣向さえも決定してしまうことさえあるからだ。
これからのAという人間のあらゆる言動や行動そして思考はすべてMの影響を受けることになる。
その影響は時間を経るにつれて顕著になっていく。
その証拠にAは自身をMの劣化コピーだと苦笑いをしながら自称していた。いや、自嘲していたのが正しいのだろうか。
前回はAをこれから苦しめ続けるMとの出会いを描いた。
悲喜劇めいた出会いの後はその構成員の織り成す政治的な喜劇をお届けすることにしょう。
Aという人間は家族に長年詰られてばかりだった故主体的に話しかけるということが苦手だった。
何かしら話たいことはあったのだろうが、自分が話掛けることに後ろめたさを感じていた。
そもそも、話すということと人を批判することの区別が出来ず、自分がいつか人を自分の言葉で傷つけてしまうのではないかと恐れていたからだ。
Mはピアノを母から習い、画家であった父からは絵の手ほどきを受けていた。
Mの口から紡ぎだされる、ショパンやラフマニノフ、マネやコローといった聞き慣れない呪文めいた言葉にS,YそしてM以外の者はひっそりと外国人といった他者へ向けられる冷たい視線を浴びせていた。
三人のなかでAは無口であったために、口から生まれたと揶揄されていたMの一番の聞き役であった。
赤と黒だけで構成された抽象画を理解し、彼女のピアノの練習に最後まで付き合っていたのはいつもAだった。
こういった日常からAは気づいたら芸術の批評を業としていた。
自分の作るものをたとえ一人でも理解してくれると知ったMは前衛的な画家になった。
考えてほしい。ロマン主義の弊害の一つであるフィーリング重視の価値観に芸術教育が毒されたわが国での抽象画やクラシック音楽の立ち位置を。
そんな嘆かわしい状況ではMもまた異邦人であった。
しかし、彼女は美しかった。
彼女の外見、明るい性格そしてその政治力が幸いしていつも彼女には数人の取り巻きがいた。
ただ、その取り巻きには彼女の言葉は何も届いていなかった。
だから、彼女にとって取り巻きは自分をより孤独に追いやる悩みの種だった。
取り巻きは彼女の美貌を拝むだけだった。
Mのピアノが奏でる音色も彼女の描く前衛的な絵画も取り巻きにとってはMの付属品であり、そこから彼女を読み取ろうとする者はいなかった。
Sは俗にいう完璧超人であった。
中学ではサッカーの主将に一年で抜擢され、学業もそつなく熟し、女子生徒の心を常に鷲掴みにしていた。
つまり、同性から心中で爆ぜろと言ってもらえる人だったのである。
SがMの周囲にいたのは、Mの取り巻きが目当てだったからに他ならないと考えた人はどのくらいいるだろうか?
勿論、そういった理由もあるだろうが、彼がMの周囲に腰を落ち着けていたのはAがいたからだ。
自身の内側を見通すあのAの視線を恐れていたからだ。
いつかは自分の本性をAに暴かれて、自身の人気が失墜するのを恐れていたからだ。
つまり、Aを監視するためにSはMの傍にいたのだ。
人と人が織り成す政治的の舞台のここが醍醐味なのだろう。
人は自分の見たいようにしか物事を見ていない。
それはどんなに有能な人間であっても例外ではない。
それどころか、有能であるほどにこの愚かしさは当て嵌まるのである。
自分の心に囚われ、絡めとられて、不自由するのである。
人生の目標とはこういった自分の心が映し出す世界から脱出することなのかもしれない。
上のことは忘れてほしい。
今わからなくてもいつか分かる。
その時には納得できるから。
その悲しいときを心待ちにしてほしい。
そのために心の物置に雑然と放置してくれさえすればいい。
皮肉なことにAはSに何かしようなんてこれっぽっちも思っていなかった。
ただ、可哀想な人だとしか思っていなかった。
人は邪悪なものではあるけれど、その醜さを人に見せないように努力し、少しでもマシになろうとする性質があることを知らないSに同情していた。
君が見ている僕は君なのだと助言しようと何度か思い至ったがどの度にSを傷つけたくないから諦めていた。
説得とはハラスメントであり、暴力的である。
話してわかるという発想は、相手は自分と同等の理解力と知識を前提とする。
そのため、今のSにそれをするのは酷だと判断していた。
後になって、Sのような虚栄心の塊は自分の無知さに気づき、懊悩するのが明白だったから。
そもそも、AはSのことなどどうでもよかった。
太陽のように凄まじい存在と認識していたが、カーテンを閉めればいい。
そういうとるに足らない存在。
どちらかというと少しだけうっとおしい存在。
こういう物言いはどこか冷たい気がするが、事実とは大切にされるが決して美しいものでも良いものでもない。
ましてや、優しいものでもない。
それは往々にしてこの上なく醜悪で残酷だ。
だから、真、善、美とはそれぞれが徳足り得るのだ。
全てに関心を持つだけの処理能力を人は有していない。
逆説的なのかもしれないが、大切な人に愛情を注げるのはそのためだ。
その愛情の程度に応じてそれ以外には無関心になってしまう。
みんなの友達は誰の友達でもないとはこういう人のさまをよく示している。
AはMが語る芸術がすべてだった。
自身の内部に宿った独自性を外へと吐き出す芸術という営みに希望を見出していた。
自分にしかできないという芸術家の勘違い気味な優越感に微笑ましさと羨望の念を抱いていた。
Yは秀才であった。
Aが出会った中で図抜けて優秀な人間ではなかったが、AがMの聞き役であった中学まではもっとも知的な人間であった。
知的であっためにAともMとも話ができた。
ただ知性があることは必ずしもその人間が高潔であることを意味しない。
寧ろ、極めて政治的な人間であることが多い。
Yもまたその例外ではなかった。
そういったところをAは嫌悪していた。
Sのように無関心でもなく、Mのように好奇心を満たしてくれる存在でもなく、
AははっきりとSを嫌悪していた。
現状に疑問を抱かず、その場面に価値判断をしないでただ適応するだけ。
こういった性質が稀有なものであることは確かである。
Aはそれを評価はしていた。
ただし、「善とは何か?」ではなく「自分の利益は何か?」を常に問う類の人間だけがこの世に溢れ返ってしまったら、地獄も穢れに塗れ、詰り、結果として死人がこの世に舞い戻ってきてしまうかもしれない。
これは勿論生き地獄の比喩であるが、こういう比喩が不思議と現実味を帯びてしまうのは恐るべきことである。
いや、現実味を帯びているという表現は生ぬるいのかもしれない。
実際はもうこの世は地獄の釜が逆流し、その穢れで充満しているのかもしれない。
ただ、その惨状に私たちは気付かないふりをしているだけかもしれない。
二十四回目の春にMとYは結婚した。
Aはその日に自殺した。
SはAに解放されたと喜んだ。
その後運悪く刺された。
犯人は誰でも良かったと言っていた。
誰もがSを同情するだろうが、実は彼は幸せになれたのかもしれない。
最大の悩みである自分から解放されたのだから。
説明 | ||
前回取り上げられなかった メインキャラを掘りさげております。 相変わらず、脱線気味ですが、このカオスっぷりをお楽しみください |
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コメント | ||
生き地獄の比喩はおもろかったです 些末な部分が気になり報告しておくと、1つ目は(「政治的の舞台のここが醍醐味」における「政治的の」?)で、2つ目は(「AははっきりとSを嫌悪していた。」S→Y?)でございました。ではでは。(wz) | ||
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