未完成 ベルN |
どうにも納得がいきません。私があの人と出会ったのは偶然のそのまた偶然。何も己の運命を瓦解させるがために自ら契機を仕組むことがありましょうか。いいえ、無いはずです。その点に気づかない彼らは全く持ってトンチンカンと言う他ありません。
そもそも私が彼に淡い恋心を抱くはずがないのです。愛すべき幼き時代において既に、私は恋をしていたのですから。その思い人は決して過去の人ではありません。今でも毎日と言っても良いくらい交流を深めている幼馴染の男の子なのです。
(大変なことになっちゃった…)
なんとはなしに吐いた溜息にも自然と重々しい声音が響き渡り、私の心に一粒の黒いインクを落としました。
時は四月九日に遡ります。
私は心浮き立つ思いを胸に森を眺めていました。その日は祝うべき高校入学式という大イベントを携えた日だったのです。
パリッとした新品の制服を身につけて高校に向かおうと森の中へと進んで行きます。
よくよく考えてみれば、一人で森の中で鳥のさえずりや木々のざわめきに耳を傾けて心を癒している場合では無かったとすぐに分かったはず。その時点で既に、式が始まるまで20分程度しかありませんでしたから。しかし私は一向に気づかなかったのです。森の醸し出す包容力に言葉通り包容されてしまったのか、それとも私の性質によるものか。足が地につかぬほど浮かれていた私は特に何も考えずに、ただただその森へと踏み出して行きました。
無論、道標も地図の当てもなかったのですから、私が迷い子になるまでそう時間はかかりませんでした。それまでは自分の曖昧な感覚を頼りにして進んでいましたが、二進も三進も木が生い茂るばかりで、今いる場所が何処なのか分からないのです。私は少しだけ焦りました。
そうこうしているうちに、キャベツ色の髪をなびかせて、切り株の上に座り込んで何やらブツブツつぶやいている人を見つけました。これも何かのご縁、私はその人に助けてもらおうと思いました。
「すみません、迷ってしまったのですが、道を教えてくれませんか?」
私が声をかけながらそろそろと近づいても、その人は顔をあげませんでした。未だに手元を見つめてブツブツつぶやいているのです。私はもう一度大きな声で助けを求めました。
「すみません、道を教えてください!」
漸く私の声に気づいたようで、こちらに振り向きました。
その人は所謂イケメンと定義されるべき綺麗な顔立ちをしておりましたが、私は人の顔に頓着しない質だったのであまり気にかかりませんでした。むしろその顔にはあからさまな嫌悪が張り付いていたので、私は数歩後ずさる他ありません。
「キミは文字が読めないのかい」
鹿威しに流れる水のように、そろりとキャベツさんは言いました。
「日本語なら読めますが…」
「日本語も用意していたはずだよ。まさか気づかなかったわけでは無いよね?」
「なんのことですか?」
「看板だよ。人間は無駄なことには執着するのに大事なことには目もくれないんだね。困った生き物だ」
その人は憤然として呟きました。
「看板なんて見かけなかったような……」
「そんなはずはないよ」
私は来た道を戻ってみました。どうして気づかなかったのでしょう、キャベツさんがいらっしゃった切り株から十メートルほど離れた場所に、看板が十つほど立てかけてありました。それには様々な言語でびっしりと文字が書かれています。
「わあ…いろんな言葉で書かれてますねえ」
私は感心してキャベツさんを見上げましたが、彼は苦々しい顔で「日本語も書いてあるだろう」と言いました。
じーっと見つめていくうちに、二つ目の看板の九列目に、丁寧な豆粒ほどの文字で『立ち入るべからず』と書いてあるのを見つけました。
「立ち入るべからず」私が反復すると、キャベツさんは頷きました。
「誰人もこの森の深奥地に立ち入ってはいけない。帰りたまえ」
「それって誰が決めたんです?」
「ボクだよ。何か問題でも?」
「いえいえ、そんなことは」
「折角トモダチとお話していたのに……波動関数、照らし出す数式。理解してもらえるまであともう少しだったのに!」
……なんだか不思議な人です。
トモダチとは誰のことでしょうか。周りを見る限り、この人以外の人間は見当たりません。
「トモダチとは、どなたですか?」
「キミに理解できるものか」
その瞳に、ほんの少しの翳りが出来たのを私は見逃しませんでした。
もしかして、この人は小人の妖精や小さな幻が見える人なのかもしれません。その事を他言すると、小人の妖精や小さな幻は泡となり霞となり、やがて跡形もなく消えてしまうのです。その経験を何度も繰り返したこの人は、人の目に触れぬよう森の奥地に潜むことを思いついたのです。そのために、如何なる言語圏の人も立ち居ることが無いよう、一人で十つもの看板を拵えたのです。ああ、なんということでしょう!私が来たせいで、この人はトモダチを無くす瀬戸際に居るのです。不機嫌になるのもわけはありません。私はその人の手をがしっと掴みました。
「……!ちょっと、」
「心配しなくても大丈夫です!私がここに来たことはなかったことにしてください!」
……嗚呼、かなしかな。私はちっとも気づいていなかったのです。この瞬間、第三者の邪な視線が私たちに注がれていたことを。
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