ある狂人の日常"3"
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 歯を磨こうとしていた。理由はない。いやまあ虫歯になりたくないとか、口臭を気にしてとかまあいろいろあるといえばあるけど、それはあくまで慣習的ななんかアレであって、別に歯を磨く事が至上の幸福だから歯を磨いてるわけじゃない。ところで、アレを歯ブラシに見立ててアレするのを歯磨きプレイっていうらしいけれど、実際の歯磨きにそってアレをしたら、絶対犬歯とか門歯が痛いと思うんだけど。特に私とか結構犬歯とがってる感じの小悪魔系女子だし。嘘だけど。だって小悪魔だったらちっちゃい羽とか触覚とかしっぽとか生えてないとならないだろうけど、私にはそんなもんないし。まあそんな事はどうでもいい。

 歯ブラシを適当に濡らし、歯磨き粉を出そうとした。ポンッと、まるで迫撃砲みたいな可愛い音で、歯磨き粉の塊が吹っ飛んでいく。そして、鳥のフンみたいな感じで、洗面台に落ちた。ミントの香りがする歯磨き粉だったから、辺りにミントの香りが漂う。チューブはもういくら揉んでもひゅーひゅー言うだけだ。瀕死らしい。はやく救急車を呼んであげないと。いやそれよりもAEDを持ってこないと。いやここは人工呼吸か。そんな事よりこの人は一体なんて名前なんだろう。あ、よく考えたら思いっきりでかでかと名前書いてある。で、私はいつまでこういう茶番を繰り広げてなきゃならないんだろう。別に繰り広げる必要はないんだけど、こうでもしてないと、殺意で胸がいっぱいになって仕方がなかった。泣きそうだった。鏡をふとみたら、何ともいえない泣きそうな顔をしているのが見える。まあ泣きそうっていって、本当に泣いてる人はあんまり見たことないけど。本当に泣く人は泣きそうとか以前に普通に泣いてるし。いやまあいいや。

 ふと洗面台をざっと見たけれど、歯磨き粉の予備はおいてない。困った。これじゃあ歯磨きができない。私は宗教上の理由で、歯磨き粉を使わないと歯を磨くことができない。困る。ところで歯磨きプレイって、アレで歯を、主に前側をアレするんだと認識してるんだけど、あんなもんで磨いて綺麗になるんだろうか。確かに、アレで歯を磨いてればたまに歯磨き粉が噴出したりするけど。でもアレ歯磨き粉ってより潤滑剤よね。確かに粉っぽい何かは入ってるけど。で、私はいつまで歯磨きプレイについて熱い考察をしなければならないんだろう。あと歯磨き粉を使わないと歯を磨けないって、一体どんな宗教なんだろうね。自分で言ってて正直訳がわからない。それなら洗口液みたいな感じに分類されるアレ、で口を濯げばいいだけな気がするんだけど、どうなんだろうね。まあいいや。

 しょうがないので、歯磨き粉を買いにでる事にする。お札をいくらかコートのポケットにつっこみ、適当にコートを羽織って、家を出た。まあ家といっても、二階建てで二棟が東西横並びに建っているアパートの、東側の棟の真ん中近くの貸部屋に住んでいるだけだから、自分の家とは言えない。ナンセンスなギャグ。

 階段を下り、駐車場を楽しそうに横断して、通りにでる。別に楽しいことは一つもないけど。外を歩くだけで楽しいとか、人生楽しんでて羨ましいなあ、と思う。いやでもアレか、ずっと外に出たことない子とか、外を歩くだけでも楽しかったりするのか。なるほど、世の中っていうのは奥が深い。私の紙のように薄い人生とは大違い。

 なんか悲鳴が聞こえたので、そっちを向く。私の家の目の前には線路が通っていて、んで駅がすぐ近くにあるんだけど、そっちの方向。

「人殺しよー!」

 おばちゃんどんだけ絶叫してるの。近所中の人が見てるよ。普段恥ずかしいことをしないようにしなさいっていってそうな感じのおばちゃんなのに、本人が一番恥ずかしいことをしている矛盾。で、一つ言えるのはたぶんこのおばちゃんは被害者じゃない。被害者がこんな元気に叫べるとか、人殺しでもなんでもないし。

 で、その肝心の人殺しは、ニット帽を目深に被り、マスクにサングラス、いかにも安そうなジャンパーに、下はジーンズで、スニーカー履き。何も持ってないけど、手はなんか赤黒いまだら模様がついてる軍手をつけてる。なるほど、確かにあんなショッキングな模様つきの手袋とか、そりゃあ人殺しと勘違いされるわけだ。全く人騒がせね。で、その人殺しはタクシーの運ちゃんとか、近所の人に見られながら、住宅街の方へと走り去っていく。ちょうど私の目の前を横切っていった。行動まで本格的ね。通り魔ごっこって案外楽しそうかもしれない。私も今度やってみようかな。やっぱいいや。疲れるのは嫌だし。

 現場にいって、ケチャップぶっかけられた人を見に行くのもいいかな、って思ったけど、やっぱりもうちょっと面白そうな方を見に行くに限る。たまには運動したい気持ちもあったし、私は人殺しごっこのお兄さんを追いかける事にした。

 

 人殺しごっこのお兄さんは、割と近くの空き地で息切れをしてた。色の付いた袋に軍手を押し込み、密封してる最中だった。よっぽど疲れてるのか、私が真ん前から堂々歩いてきてるのに、全然気づかなかった。真正面近くに立ったところで、ようやく気づいたらしい。はっとして顔を上げ、私をみる。

 六畳間みたいな狭さの空き地で、人殺しごっこのお兄さんと対峙する。ところで今気づいたんだけど、この人殺しごっこには致命的な問題が存在する。協力者が二人、必要なことだ。殺される役の人と、それを発見して叫ぶ役の人。だってまず、誰か殺されないといけないし、それを発見してもらわないと、殺される役の人が服汚れるリスクを背負うだけの汚れ役になっちゃう。私だったら、そんな風になるってわかってたら絶対に殺される役なんてやらないし、多くの人だってそうだと思う。全く、こんな事に気付かないなんて私は馬鹿だ。私はぼっちだから、絶対人殺しごっこできないじゃないか。

 なんかお腹痛い。思いっきり素でよそ見してた。見たら、なんかお腹に刺さってる。

「お前が……お前が悪いんだ……俺を追いかけてくるから……」

 なんかぼそぼそ聞こえる。人殺しごっこの人か。なんか典型的キモオタって感じな喋り方ね、これ。っていうかちょっと、本当に痛いんだけど。よくよく見てみたら、果物ナイフか何かが刺さってる。いかにもな使用済み感あふれる持ち手。たぶんついた量が量だからだろうけど、茶色い。いやもしかしたらうんこかもしれない。汚い。持ち手にうんこがついてるってことは、つまり、うん。でも果物ナイフの持ち手なんて、入れたらいろいろ危ないと思うんだけど。抜く時大変よね、絶対。まあどうでもいいか。わかっているのは、たぶんごっこ遊びをしてる人じゃない気がする。これ。

 ぼそぼそと呟いたキモオタ系元人殺しごっこのお兄さん、長いから人殺しでいいや。人殺しは、私を突き飛ばして転ばして、こけつまろびつ走り去っていった。まあ、あの調子じゃあ捕まるのは時間の問題だろう。

 それはさておき、どうしようね。ちょっと果物ナイフが刺さってて痛いんだけど。幸い刺さってるからまだ出血はひどくないけど、抜いたらたぶん血がどろどろどっとあふれ出してくる気がする。とりあえず暗い場所にいこう。幸い、建物と建物の間にひっそりとある屋外の六畳間だから、建物の影には困らない。いい感じに暗いところまで歩いたところで、私は『暗闇』になった。ポロリもあるよ。果物ナイフの。ナイフが足元に落ちたのを見て、少し時間をおいてから、私は光の下に歩み出した。

 別に何か変な事をしたわけじゃない。ちょっと『実体を無くして、ナイフを抜いた』だけだ。だって仮にあのついてるのがうんこだったらすごい嫌だし。たぶん血だろうけど。でもケツにつっこんで出血したっていう説もありうる。やっぱり触りたくない。というかお尻から出血するのって、地味に危ないと思うんだけど。まあいいや。一度『自分を曖昧にしたおかげで、傷を消して体を再構成』できたし。でも出ちゃった血はそのままだから、もしかしたらふらっと来るかも。私、小学校の校長先生のお話を聞くと、毎回毎回倒れてたし。校長先生は貧血を呼び寄せるのか。校長先生ってかなり危険な人物よね、そう考えると。自分の愛する生徒たちに負担を強いなければならないという二律背反と常に戦わなければならないのだろうか。可哀想に。で、いつまで私はどうでもいい事を考えてなきゃならないんだろう。大体、私は小学校に通った覚えがない。

 足元に落ちてる果物ナイフをどうしようか、少し迷った。で、考えるのも面倒だったし、そのまま放置して、私は六畳間を去った。

 あ、そうか、コートと服とシャツに穴あいてる。可愛いチューリップのアップリケでもつけようか。でもなんかアレ。というか、私裁縫とかできないや。でも買い換えるのも面倒だし、それに大して目立たないからいいかこのままで。シャツはさすがに血でも汚れてるし、捨てるだろうけど。

 

 さて、元来た道を戻って、白黒パンダに赤色灯を乗せた車と、紺色の制服を着たおじさん方がなんやかんやしている横を通って、私はコンビニへとたどり着いた。思えば長い旅だった気がする。コンビニまで、走れば二分くらいでたどり着く程度の距離なんだけど、なんかすごく長く感じられた気がする。何でだろうね。確か、歯磨き粉を買うためだけに外に出てきたんだと思うんだけど。

 真っ直ぐコンビニに入って、そういう衛生用品がおいてある棚に真っ直ぐ向かって、んで歯磨き粉を適当に一個取る。で、真っ直ぐレジに持って行って、ちゃっちゃと会計をすませる。丸見えな散らかり放題のバックヤードで、おばちゃん店員達が世間話しているのが聞こえる。

「……ねえ、またストーカーか何かかしらねえ」

「別れ話を持ち出した途端、刺されたらしいからどうだろうねえ」

 へー、そういう設定だったんだ、アレ。今多いし、旬な設定なのかもね。また警察がたたかれるんだろうな、とか思う。そしてまた警察の偉い人が、寂しくてよく輝く頭を下げる事になるんだろうなあ、と思うと、なんだか気の毒になってきた。まあ、そもそも私テレビ持ってないから、そういう光景見れないんだけど。

 テープを貼ってもらった歯磨き粉をコートのポケットに突っ込み、私は家へと歩き始める。紺色の制服を着たおじさん達が、にわかに活気づいてるのが見える。なんか、無線が聞こえるけど、何を言ってるのかまでは聞き取れない。まあたぶん、犯人が捕まったんだろうな、と思う。お仕事ご苦労様です。せっせと私はアパートに歩いていく。

 東棟の真ん中の階段を上り、すぐ左の私の部屋の鍵を開け、中に入る。鍵を閉めて、靴を脱ぎ、てってってーと歩いていく。で、洗面台に、買ってきた歯磨き粉を取り出して、表面のビニールを取り去る。で、歯ブラシを取り出して、少し濡らし、歯磨き粉を乗せた。

 しゃっしゃっしゃ、と楽しくなりながら、歯磨きをする。いやー楽しい。特に歯磨きをしようとしたのに、歯磨き粉がどっか飛んでいって磨けなかったフラストレーションもあって、さらに楽しい。楽しくて、つい二十分くらい歯を磨き続けてしまうくらい。でもさすがに二十分も歯磨きを続けてたら、口が疲れてきた。ちゃっちゃと口を濯いで、歯ブラシもささっと洗う。

 しかし疲れた。なんか知らないけど、コンビニまで歩いただけなのにすごい疲れた。あと寒い。たぶん貧血系統の悪寒。そうでなくても今日は寒いし。コートを脱ぎ捨てると、私はそのまま、布団の中に潜り込んだ。頭までしっかり掛け布団に埋もれて、ぐっすりと眠ることにした。でもこれ、絶対途中で息苦しくて起きるんだよね。まあ、そのときはそのときで顔を出せばいいか。とかなんとかアホな事をしているうちに、私はぐっすりと眠り始めてたっぽい。っぽいっていうのは、後で起きたから、そう推測したっていうお話。

説明
数日前、歯磨きをしようとして起こった事をモチーフに一つ。
そろそろ良い感じに戦う系等のを書きたいのですが、どうにも戦う物って難しいですね。
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