ゆなゆな(1):Introduction |
若かりし 肌も皺みぬ
黒かりし 髪も白けぬ
ゆなゆなは息さへ絶えて
後つひに 命死にける
第一章 新しい世界の私
○兆し
視察団を乗せたバスは、大谷町ジャンクションから見滝原縦貫道に入り、多々良木インターチェンジから一般道に降りた。乗客の多くは、なぜ見滝原インターチェンジまで行ってしまわないのか、不思議に思っていたのだが、両端に歩道がある以外はまるで高速道路のような県道を二〇分ぐらい走ったところでその理由が理解できた。バスガイドの説明が続く。
「皆様ご存じの通り、都市計画特区見滝原市が設立してからすでに一〇年が過ぎ、計画も建築実験期間を終了、維持計画期間を開始しました。見滝原市は行政区の八割が特区法成立後に計画、建築されたものですが、皆様がいま左手にごらんになっている町並みがその残り二割に当たる地区です。特区法成立以前には見滝原町と呼ばれていたこの地区は、現在は元見滝原と呼ばれています。しかし、皆様ごらんになってわかるとおり、高規格な道路も通っていますし、きちんと区画も整理されています。これは、元見滝原地区が、再整備計画実験区間であり、ほかの何もないところから建築された区画と同じように都市構築の知見を得るために使われているからです。それでもこの地区はほかの地区に比べて、元々の街の特徴が大きく残っている場所があり、その一つが地名の由来となった羽衣滝、もう一つが、皆様の左手に見えてきた旧家の町並みです」
彼女はもう何回説明したのかわからないその口上を、よどみなく終え、いったんマイクを下ろした。そのころにバスは大きな公園を越え、大邸宅の並ぶ区画にさしかかっていた。
「もう、朝っぱらから車の通りが多いなあ」
呉キリカは花壇の花に水をやりながらぼやいていた。
「なんでこんな道路の近くに屋敷作ったんだろうね、全く」
彼女はどうしても口に出てしまう自分の気持ちを誰かに聞かせるつもりはなかったのだが、実はすぐ後ろにそのぼやきに答える人物がいた。
「建物を作ったときは、近くに道路はなかったと聞いていますよ。今朝はとても素敵な青空ね」
白いゆったりとした、リゾートドレスのようなワンピースを着た館の主はそう返事をした。キリカはその声を聞いて、一瞬泣きそうな複雑な表情を見せたけれど、思い直して、彼女の名前を呼びながら、少年のような屈託のない笑顔を作って振り向いた。
「おはよう。キリカ、今日は何曜日かしら?」
視線の先、まるで普段通りに挨拶した彼女に、キリカもごく普通に、日常会話として答えた。
「水曜日。織莉子、ずいぶんお寝坊さんだったね」
織莉子が黙想に入ったのは先週だったか先々週だったか。彼女は何日ぐらい経っているかを知りたかったに違いない。けれど、キリカはあえてそのまま曜日を答えた。涙がでそうに嬉しいのを我慢して、つとめて普通に返答した。織莉子はその姿がかわいらしく感じて、ゆっくりと微笑んだ。
往時には何十人もの使用人を抱え、昼夜客でにぎわったこの美国の館も、今は住み込みの執事以下使用人数名、パートタイムの者が十数人いるだけ。しかも使用人の労力はほぼ建物の維持に使われている状況だった。そもそも正当な住人は一人、同居人を入れても二人なのだから、それ自体が不思議なことではなかったけれど、建物のうち、生活に使われている部分を考えれば、屋敷を引き払い、もっと中心部に住まいを持った方が家計と言う単位で見れば効率的であったのだろう。
彼女の父母がまだ生きていた頃、館の住人が少しだけ多かったあの頃でも、すでにその状況はお案じではあった。けれど、当主はこの館を引き払うつもりはなかった。それは長年この地に雇用をもたらしてきた、一つの経済圏の残照ではあったけれど、より個人的なノスタルジーに基づくものでもあったのかもしれない。
現当主、弱冠一五歳の美国織莉子も、やはり同じように館は引き払わなかったが、それはもっと実用的な理由からだった。彼女、そして彼女の同居人の秘密。見滝原の白き魔法少女と黒き魔法少女が、最小限の協力者とともに自由に活動して行くには、こういった浮き世離れした環境はとても都合がよかった。
久しぶりに顔を合わせた二人がガゼボまで歩いてくると、そこには執事の安永がお茶を用意して待っていた。
「お嬢様はいつも唐突にお目覚めになりますので――」
織莉子の椅子に続いて、キリカの椅子を引きながら彼が言う。七代続く執事の家系としてはちょっと行儀の悪い物言いだが、織莉子にはあえてそれをする安永の心遣いがうれしかった。一礼してワゴンに戻る安永の顔を見たキリカは、彼が歳に似合わない悪戯な笑みを浮かべたのを見て、もう、楽しみでしょうがなくなった。
「――焼き菓子はお店のものしか用意できませんでした」
彼がテーブルにおいたティースタンドには、キュウリとハムのサンドウィッチ、彫刻のように飾られたカッティングフルーツ、そして、織莉子の大好きな宮本堂のマドレーヌが並んでいる。彼が主人の目覚めを知ってから、コックに菓子を作らせる時間がないので買いに走らせた、という主張の根拠を覆す限定販売品。彼も自分と同じように織莉子が好きなのだといつものようにキリカは感心した。
「ごめんなさいね、安永。この次はお菓子が焼ける時間に目を覚ますようにします」
「はい。そうしていただけるとコックも喜びます」
そのコックだって、勤務時間をはずれているはずのこの時間に、手の掛かるカッティングフルーツを用意しているんだから、本当は十分に喜んでいるに違いないのだ。
そもそも旧家と言えど、社交界の存在しないこの現代に、いくら浮き世離れした暮らしをしているとはいえ、毎日毎日アフタヌーンティーをしているわけもない。この小さなお茶会は、目覚めたばかりの織莉子がその日の夕食を無理して取らなくてもよいように用意される、リハビリを兼ねた軽食なのだから、開催時刻すら決まっているわけではないのだ。だから本気になれば、少しだけ時間を遅らせてコックに焼き菓子を用意させることぐらい問題なくできる。織莉子もそれがわかっているから、楽しそうにその話に乗っかっている。キリカはそんな家族のようで家族ではない美国家の人間関係が好きだった。
お茶以外の食器が下げられた後、キリカはにこにこしながら、
「久しぶりに織莉子の作ったパンケーキを食べたくなっちゃった」
と、言ってみた。織莉子は隣に控える安永を見た。安永は微笑んで、うなずくと、
「用意させましょう。明日のご予定を後でお聞かせください」
と答えた。
「ありがとう、安永」
静かに微笑んだ後、再びキリカを見た織莉子は、それまでの優雅な仕草を突然崩して、ウィンクをすると、キリカにOKサインをして見せた。
自分のモノマネをされて、キリカは怒ったフリをした。
その夜、テラスで風に当たりながら、キリカは織莉子とゆっくりと時間が流れるのを楽しんでいた。二人はどうでもいいような世話話を続けている。けれどキリカは、先ほどから織莉子の笑顔が、本当の笑顔ではなくて愛想笑いに変わったことに気がついてはいた。気がついてはいたけれど、その理由を確認するのが怖くて、気がつかないフリをしていた。織莉子は何かのタイミングを待っているようにも見えた。
「織莉子、来週の日曜日は前に約束した遊園地に行こうよ。ボクずっとずっと楽しみにしてたよ」
努めて変わらないように話し続けるキリカに織莉子は少し息を吸って、ちょっとだけ大きな声で話しかけた。
「キリカ――」
「だめだ!何も言わないで!」
キリカは織莉子に飛びついて抱き寄せ、彼女の言葉を制止した。キリカの首に光る、星砂の封印されたチョーカーが額に当たった。
「大事にしてくれてるね」
織莉子の言葉には答えず、キリカは肩を揺らしている。
「あなたがここにいるように、私はそこにもいるから。いつでも一緒だから。ね」
チョーカーを左手でなでた後、織莉子は優しくキリカを引き離した。チョーカーと同じ意匠、自分の胸元に光るネックレスの、色の違う星砂をいとおしげに見つめながら、
「ここにあなたがいるように、私もそこにいるから。いつも一緒にいるから」
と言うと背伸びをしてキリカの頭をなでた。キリカは泣いていた。
しばらくの間幼子のように泣いたキリカは、一歩下がってさっと体を回すと、まるで手品師のように表情を変え、涙の跡を残したまま満面の笑顔を作った。
「うん。ボクはいつでも織莉子が何を考えているかわかるし、織莉子もボクが何を見たのかわかるしね。いつも二人は一緒にいるんだよね」
織莉子は笑顔のまま涙を流した。本当の気持ちが伝えなくてもわかってしまうことがこんなにもつらいとは、キリカと出会う前には知らなかった。
普段、姉のように振る舞っていられるのはキリカが天真爛漫に振る舞ってくれているおかげ。本当は普通に一緒にいたい。心だけではなくて体も一緒にいたい。彼女が素直に感情を表してくれなければ、私がそれを慰める役目をもらえなければ、きっとこんなにもつらい暮らしは続けられなかった。そう思うと織莉子は涙を流さずにはいられなかった。涙をそっと隠しながら、照れ隠しに微笑んで聞いた。
「怒るかな、安永」
「安永さんは怒ったりはしないよ。もし怒ったらボクがちゃんと謝っておくから」
「そうね。ありがとうキリカ。どっちが慰めてるのかわからなくなっちゃったな」
普段のような気品のある口調ではなく、本当に年齢相当の、友達と話すような口調で話るのは、自分の一部と言っていいほどいとおしい彼女の前だけだろう。でもそれをキリカも喜んでくれる。
「おやすみ織莉子。でも次に起きたときには、遊園地。約束だよ」
「うん」
「それと、パンケーキも」
「うん」
キリカはニッと少年のように笑った後、王子のように優しく織莉子の左手をとってひざまずくと彼女の指輪にキスをした。立ち上がり、彼女を横抱きして天蓋の奥へ運び入れた。
寝室の扉を、織莉子が起きないようにゆっくりと閉じたキリカは、そこに初老の執事が立っていた事には驚かなかった。
「お嬢様はまたお休みなのですね」
キリカは無言でうなずいた。
「キリカ様。お嬢様のこと、どうかよろしくお願いいたします。もはや我々ではお嬢様はお守りできませぬので」
「いいえ、安永さん。あなた方が結界をお守りいただけるから、ボクも安心して出かけられます。黙想に入ると無防備になりますから」
「今回も長い間お休みなのでしょうか?」
「ボクにもわかりません。世界が大きく変わりつつあると言っていました」
「織莉子様が、すべてを休んで黙想に専念されると言うことは、よっぽどの事なのでございましょう。凡人には想像することさえかないません」
「織莉子の望みは、今ボクたちがこうして生きている世界を、この世界を守ることなんです。ボクはそのためにここにいるんです」
「キリカ様もどうか無理をなさらないでくださいませ。何かあったらこの爺がかなしみますゆえ」
まるで自分が仕える者に対する様な口調で心配してくれる安永の気持ちがキリカにはうれしかった。かつて誰にも、家族にさえも愛されなかった自分が、今まさにこのような気持ちになれるのは、織莉子と美国家に仕える人々のおかげだった。キリカは安心してもらおうと、自信たっぷりの口調で答えた。
「大丈夫ですよ、安永さん。あなたが悲しむことは絶対にありません」
だって、ボクがいなくなるのなら。円環の理に導かれてしまったのなら。あなたはボクのことを忘れてしまうのですから。それが希望を求め契約をした魔法少女の定めですから。音にせず、相手にわからないようにそう言ったキリカは深く礼をして、自分の寝室に戻っていった。
何か長い夢を見ていたような気がする。
でも、夢なんて起きてしまえばすぐ忘れる、そう言うものだと思っていた。
人生の大半をこんな風な部屋で、私は夢を見て、窓の外を眺めて過ごした。
だから夢は見慣れている。
空を飛ぶ夢、だれかと冒険する夢、キスする夢。
そして、魔法少女になる夢。
そのどれもが非現実的で、どれ一つとっても叶いそうになくて、
だから一様に現実的で……。
もう私は現実と空想の区別も付かないのではと、そんな風に思っていた。
だから。
今日もまた同じように夜が明けて、真っ白い壁に何かを思い浮かべる、
そんな今までと同じ日々がやってくるんだと思っていた。
ここを出る事が決まっていたとしても、それが事実なのかどうかも実感できずに。
ただカレンダーに付ける印がだんだん運命の日に近づいているのだけを見て。
何かが変わるのかな、
でもきっと変わらないんだろうな、
私は、そんな風に思っていた。
あの日までは。
○引っ越ししました
私は、今まで一四年生きてきた中で、一番という位に遠くの町に行こうとしています。それまで暮らしていた病院をでて、療養所以外の場所に、しかも一人で出かけます。ずっとあこがれていた一人暮らしを、自分一人の力で生きていく暮らしを、始めるために私は旅にでたのです。
特急列車の専用改札を通るのも初めてだったので、ものすごく緊張しました。それぐらいにすべてが初めての経験でした。ほんの一時間ぐらい前の出来事が、自分にはすごい昔に起こった事のように感じています。それぐらいに見るもの聞くものがすべて、知識では知ってはいるけれど、本当に体験するのは初めてのことばかりだったのです。
これから向かうところは見滝原市。都市計画特区見滝原市。私と同い年ぐらいのその新しい街が、私の新しい世界です。
この一時間、ずっと車窓を眺めていました。住み慣れた街、と言っても私はずっと同じ窓からの景色しか知りません。病院から見える高層ビル、療養所から見える森の景色が、私の古い世界のすべてでした。だから飛ぶように流れていく景色は、もう既に映画を見ているようで、そこに本当に存在しているのかさえ私にはわかりません。
でも、私は知っています。私の古い箱庭が本当に小さな小さな世界だったことを知っています。だから、こうして、自分の二つの足で降り立った、見滝原の街が、本当にそこに存在して、ふれて、嗅いで、聞いて、見て。それらがみんな、頭の中で想像していた、これまでの世界とは全く違って、ずっと消え去ることのない、本当の本物の世界だって思うと、とてもうれしい気分になったのです。
だって、私はいままで、何も一人ではできない存在でしたから。この列車から自分の足で降り立つまでは、何も一人ではできなかったのです。
実際、この列車――普通ならこの距離では乗らない特急の座席を私の両親がわざわざ予約したのも、きっと私が普通の列車に乗って移動できるのか心配だったからに違いありません。
実際出発前に席を探して座席まで鞄を運んでくれたのはパパでしたし、席に座っても膝掛けをかけたり、飲み物を用意したりとママが世話を焼いてくれて、発車のベルが鳴る直前まで、列車の中で見送りをしてくれたのも、心配で心配でしょうがなかったんだろうなとわかっています。
だから、まだまだ空席の多いこの列車が二つ目の停車駅に止まるとアナウンスがあったとき、網棚の上、小さいキャリーバッグを自分でおろしたのが、本当に意味で私が自分一人でやった、最初の行動だったのかもしれません。
私はデッキにキャリーバッグをなれない手つきで運んでいき、ドアの先にホームが見えてくるのを待っていました。さすがにこの駅で降りる人はまだいないらしく、デッキには私しかいませんでした。列車が到着し、その衝撃で体がよろめいてしまいました。だからなんだか慌ててしまって、転がしたキャリーバッグがホームと車両の間にはまってしまって困ってしまい、それを親切なおじさんが持ち上げてくれました。なんとかホームに降りられたとき、人が一杯並んでいるホームからは次々と人が乗り込んでいて、先頭に並んでいた親切なおじさんにはお礼も言ず、鈍くさい私には、窓から覗いてもおじさんが見つけられなくて、少しへこみました。
けれど、それでもその瞬間が。知り合いのいないこの新しい世界で、新しい私に変われたときだったのです。だから、おじさんには申し訳ないのですが、私はどんどん先に進みたくて、列車が駅をでるのも見送らずに歩き始めてしまいました。
まず、ホーム上でエレベーターを探して改札へ向かいます。実はキャリーバッグの中身はほとんど何も入っていないのですが、ママは手持ちのバッグで移動して、疲れてしまうのを心配して、少しでも楽に移動できるこのバッグにしたようです。私は実はそれぐらいの人間です。
そんな私でも、初めて買ってもらったフリルの一杯ついたジャンパースカートをきて、昔の鞄風に装飾されたキャリーバッグを引っ張っている姿は、自慢の長い髪とも合っていてとても似合っていると思います。パパはせっかくだからピンクとかそういう明るい色のものを着せたかったようです。でも絶対それは似合わないので、黒に近いネイビーブルーにしてもらいました。共布のショートジャケットもかわいくてお気に入りです。
人生で初めて、改札を抜けて外へでたので、自動改札機から切符が出てこなくて少しまごまごしましたが、なんとかそのまま駅舎をでることができました。
目の前は広場になっていました。右端にタクシープール、左端にバスターミナル。乗ってきた鉄道の駅とは反対側のはしにはLRTの停留所。私は今までの人生の中で、駅前がこんなに広々としているところにきたことがなくて、新鮮に感じました。ゆっくり目を閉じて息を吸い、それをゆっくり吐いてから、もう一度目を開けます。相変わらず目の前に存在するその街は、すべてが新しく、輝いていました。この街が私と同じ年に生まれたなんて――十数年前は何も無いただの田圃だったなんて。とても信じられなくて、私には魔法の国のように感じられました。
鞄からママの書いてくれたメモを取り出して、慎重に行き先を確認します。少し迷いましたが、なんとか目的のLRTに乗れました。少し盛り上がった停留所のプラットホームはほとんど隙間も段差もなく車両に接していて、さっきまで乗ってきた特急もこうなっていれば苦労しなかったのになと思いました。お財布の中から、あらかじめ持たせてもらっていた交通系ICカードと取り出して、乗り込みます。座席は特急とは違って、車両の両側に張り付いていて、真ん中が広くなっていました。車両にはほとんどだれも乗っていませんでした。私はドア付近の座席に座って、目の前に鞄をおきました。軽快なチャイムが鳴って、車両はゆっくりと動き出しました。鞄が列車に取り残される様に動いてしまったので、あわてて押さえました。
LRTは先程の特急とは違い、長くても五駅ぐらいで皆さん乗っては降りていきます。けれど私は終点までいくので、ずいぶん長い間乗ったままでした。終点につくと私は運転手さんにお礼を言って降りました。
降りたところはまるで中世ヨーロッパのような建物の並ぶ、石畳の緩やかな坂に囲まれた、不思議な雰囲気の街でした。デザインの割にはどこも新しく、私は自分がテーマパークにいるようだと思いました。
坂をちょっとあがったところに、手持ちのメモにかかれた番地がありました。建物名もメモと同じでした。ここだ。私はそう思ったのですが、それでも、メモと銘板を三回も見比べて、あと少し勇気がでません。迷いながら石造りの洋館に似た集合住宅に一歩近づいたとき、木製のドアは私の予想に反して左右に開きました。玄関の前室はデザインこそクラシカルだったものの、整然と郵便受け、宅配ボックスが並ぶ、近代的な作りでした。
インターフォンに名前を告げると、優しそうなおばさんが迎えに来てくれました。管理人さんでした。その場で施設の簡単な説明を受けた後、いよいよ私のお部屋に入ることができました。
そこでもいくつか説明をしてくれて、でもわからなくなったら遠慮なく呼んでねと優しい言葉をかけてくれた、住み込みの管理人さんにお辞儀をして見送って、私は私の部屋に一人になりました。
3LDKの一部屋にはいろいろな荷物が既に山済みになっていました。もう一つの部屋には真新しい白いベッドに厚手の毛布が敷かれて、まだ木のにおいが残っている机と空の本棚と一緒に私を迎えてくれました。私は、今日からここが私の部屋なんだ。そう思うとなんだか楽しい気分になってきました。
山積みの段ボールの中から、「衣類一」と書かれた箱を探して手元に持ってきます。ふたをあけ、一番上に入っているお気に入りの黒猫パジャマを取り出します。さいごにいた病院ではレンタルのパジャマを着ていてから、自分のパジャマを着るのも久しぶりです。
お風呂の後、黒猫パジャマに着替えて、今日着ていた服を自分の部屋のウォークインクローゼットにかけただけで、もうこの部屋は私だけのものになったんだなと感じて、うれしくなりました。
転校まであと二日。土日は制服を取りに行ったり、付近のお店を探したり、いろいろやることがあります。退院祝いにもらった目覚ましをセットして、ベッドに入ったとき、いつもと天井の様子が違うのを実際に見て、私は本当に退院したんだな。そう思ってうれしくなりました。
ゆっくりと目を閉じて、眠ろうとしたとき。私は大事なことを忘れていることに気がつきました。
再び段ボール部屋の中から「その他四」と書かれた箱を探して、中から小さな板を取り出して、玄関に取り付けました。
〈暁美ほむら〉
そう書かれた札を掲げた瞬間。それは私が毎日帰るべき場所がこの家になった瞬間でした。
○迷子の子猫
暁美ほむらは後悔していた。
小さな児童公園。休日とはいえ、昼前だからなのか、だれもそこにはいなかった。おそらく倒れても不思議はない様な荒い息を吐きながら、とにかく入り口から一番近いベンチに座った。
朝、自宅前の坂を上って、朝食用のミルクを買ってきたとき、思えば予兆はあった。でも少し息苦しいのは登りなれない坂のせいだと思っていたし、大好きなグラノーラに買ってきた牛乳をたっぷりかけているときにはもう既に楽しい気分の方が上回っていた。
だからLRTの停留所で路線図を見て、実はふた駅ほど予定とは逆方向に進んで地下鉄に乗れば、ママにもらったメモよりも、ずっと早くつけることに気がついて、あっさり予定を変更してしまっても、まだその決断の重大さに気がついてはいなかった。
長いエスカレーターを上がり終えたときに初めて、言いようもない不安を感じたほむらは、その不安を引きずったまま出口前の道の案内地図を見たとき、路線図から受ける印象以上に、地下鉄の駅はお店から離れていることを知った。実はLRTの停留所はお店の近くにあるのだが、もはやその停留所へさえどのように行けばわからない状態だった。土地勘のない場所で行き先を探すことがこんなにも困難だなんて。ほむらはそれを初めて知った。もはや自分が今どちらを向いていているのかさえわからない。改札をでてエスカレーターに乗る前に通り過ぎた付近の地図をもっとしっかり見てくるべきだったと後悔した。
幸い見滝原は計画都市だけあって、他の街路図を見つけること自体は難しくなかった。でも、逆に町並みが整いすぎていて、今自分が進んでいる道が本当に覚えたその道なのか、それとも一つ向こうの別の道なのか、それすらもわからずに、不安がどんどん膨らんでいった。
そして、そのとき発作が起こった。
それは、今まで経験したことのある、心臓の病気の症状とは全然違っていた。息が荒くなり、いやな汗が噴き出してくる。世界が回り始め、いったんは立てなくなってしゃがみ込むほどだった。それでも持ち直し、ふらふらと歩いてたどり着いたもう一つの街路図の前で、もうこらえられなくなって再びしゃがみ込んだ。回復するまでの間そのまま待っていたのだけれど、しばらく待っても症状はぜんぜんよくはならなかった。そのまま道に寝転がりたいのを我慢して歩き出す。けれども、少し進んでは座り、もう少し進んでは座りこむ事しかできなかった。ほむらは、座っては立ち、立っては座りしながら、なんとかこの児童公園にたどり着いたのだった。ほむらを襲ったのは急性パニック障害だった。新しい生活への不安を彼女は知覚することさえできずに、自分自身が思っていたよりもほむらはずっとストレスを貯めこんでいた。
もう絶えられずに、ほむらは入り口付近のベンチにドスンと座った勢いそのままに横に倒れ込んだ。背もたれのないベンチに斜めに倒れているのにも気がつく余裕もなく、ハート型のポーチがベンチからはみ出して地面に落ちてしまったのにも気がつかない。ほむらはただただ荒く息を吐いていた。苦しくて目を開けていられなかった。
しばらくして息が落ち着いてきて、初めてほむらは自分がすごく不安を感じていることに気がついた。心臓の発作――ある意味なれていて、対処法がわかっているあの症状とは違う初めての体験。鼓動は早くなっていたけれど、いつものように心臓がぎゅうっと締め付けられる様ではぜんぜんなくて、むしろ少し走った後のようにただ早く脈打っている。息が荒くなって、ものすごく緊張したときのようにおなかが痛い。それでいて、「このまま死んじゃうのかもしれない」「もうここで体が動かなくなるかもしれない」「ここはどこなのかわからない」「家に帰れないんじゃないか」いろいろな不安が次々と心に押し寄せてきて、その度にまた息が荒くなっておなかが痛くなった。全身から冷たい汗も噴き出していてなんだか体中が冷えてしまったようにも感じた。
そんなことがしばらく続いたとき、ほむらの頭に、やっぱり退院して一人暮らしなんて無理だったんだと、そんなあきらめの気持ちが忍び寄ってきたとき、突然左頬にザラッとしたものが触った。それは小さいものだったけれど、ゆっくりと頬をなでてくれていた。なでられる度にほむらの心は落ち着いていき、息も静かになっていった。ほむらは目を開けて視線を左に向けた。何か黒い毛の固まりのようなものが見えた。ゆっくりと体を起こす。そこには黒い子猫がいた。事態が理解できずにぼんやりと見つめているほむらに子猫は、にゃーんと短く挨拶をした。
ほむらはいったん座り直して、子猫を呼んだ。不思議なことに素直に従った子猫は、ほむらの膝の上に丸まって香箱を組んだ。ほむらがその体をゆっくりとなでても不思議なことに子猫はいやがらず、そのままなされるがままにされていた。なでればなでるほど、ほむらの心は落ち着いていくのが自分でもわかった。やっと戻ってこられた。何故かほむらはそう思った。
しばらくほむらは子猫の体温を膝に感じながら、その姿を眺めていた。全身黒いのに背中の三カ所に星座のように白い毛が生えている。何かほくろみたいだなとほむらは思った。
「君は、なんて名前なのかな?なーんて。聞いても答えられるわけ無いよね」
優しい声で語りかける。子猫はにゃーと返事をした。
ほむらは笑っていた。けれど目からは涙がこぼれ落ちた。
それは不安がぶり返してきたからではなく、結局自分一人では何もできないのだと思い知らされたから。ほむらは自分が情けなくて悔しくて感じていた。
昨日はもう自分一人で何でもやっていけるような気がしていた。無理を言って一人暮らしをさせてもらえたことが誇らしかった。
けれど、それはきちんとできるように準備されていただけのことだった。
実際に自分一人で世界に飛び出てみると自分がいかに何もできないかを知った。一大決心をして、無理を言って、今ここにいるのに。
悔しかった。ここで泣く事すら悔しかったから、絶対に泣きたくないと思っていた。でもいくら笑顔を作っても涙の粒はめがねのレンズに模様をつけていた。相変わらず子猫は膝の上でくつろいでくれていた。いま自分の味方はこのこだけのような気がしていた。
「ちょっと風が出てきたわね」
突然となりから声をかけられたので、ほむらは驚いて頭を上げた。振り向くと、巻き髪を二つ結びした女性が隣に座ってこちらを見てる。めがねに丸く模様を描いていた涙が一斉に流れ落ちた。
「どうしたの?」
優しい質問にどう答えていいのか。ほむらは思わず首を軽く横に振っただけで、すぐに視線を子猫に戻してしまった。
「かわいいね。あなたのうちの子?」
「……いいえ。さっき出会いました」
ためらいながら答えた。子猫も同意するようにみゃぅと短く答えた。
「きれいな声ね」
「はい」
ほむらは返事をして子猫を見た。本物の猫に触るのはほとんど初めてのほむらに、優しくつきあってくれたこの猫の声。なんだか安心させてくれる声。私もそんな存在だったらよかったのに。人に迷惑をかけなければ生きていけないこの生活が変えられればどれだけよかったか。そう思って少し寂しげに答えたほむらに、女性は少しくすっとした後、
「あら、あなたの声が、よ」
と、優しく訂正した。彼女の自然にするりと聞こえてくる声。そしてその予想外の内容に、今まで一度も言われたことがないその言葉に、ほむらは女性の方に振り向きつつ、驚きのあまり立ち上がってしまった。膝の上の子猫が一回転して着地する。足の上の温もりが突然消えたことに気がついたほむらは、あわてて足元を見ると、子猫はそのまま、駆け出そうとしているところだった。
だめっ!ほむらはそう叫んで児童公園の出口から外に追いかけた。自分でも何故そんなに早く走れるのか不思議なぐらいの速度は出せていたけれど、子猫に追いつけるはずもない。けれどそんなことは考えもせずに入り口を走り抜けたほむらが見たのは、道路の真ん中で、何かをにらんで座っている子猫だった。思わずジャンプして覆い被さった。よかった。ほむらがそう思ったとき、激しくクラクションが鳴った。子猫は迫ってきたワゴン車に立ちすくんでいたのだ。ほぼ倒れ込んだのに等しい姿勢のほむらはもう動けない。ほむらは思わず目を閉じた。
「その猫をちゃんと抱えていてね」
耳元から聞こえたその声に従って、子猫を自分に抱き寄せた。女性はほむらを軽々と抱き起こすと、大きく跳躍し、弧を描いて公園の植え込みに自分をしたにして倒れ込んだ。公園をはるかにすぎてワゴン車が止まり、中からスーツを着た男性駆け寄ってきてほむら達の無事を確認した。女性は立ち上がってほむらを歩道に座らせると、男性に事情を説明し、全員無事なこと、何かあったら連絡できるように連絡先を交換しておくことを提案した。男性は、少し落ち着いたのか、ちょっと厳しめな声でほむらにお小言を言うと、車に戻っていった。ほむら自身は、何がおきたのかもわからず子猫を胸に抱きながら呆然とただ男性のお小言に無意識にうなずいていただけだった。
「大丈夫?」
女性が聞いた声でほむらは我に返った。子猫はほむらの抱く力が弱くなると、胸からするっと抜け、駆けだした。そして振り返って、お辞儀をするように頭を下げるとにゃーごと長く泣いて、それからはためらわずに走り去った。腕の中の感覚に合わせて視線を動かしていったほむらに、あの子はちゃんとお礼を言って帰って行ったね、と女性は優しく言った。
○優しい先輩
ウェイトレスがほむらの向かいにティーカップとプランジャーポットをおいて一礼をして去った。ほむらは向かいの女性が難しい顔をしてすぐにポットの弁を押さえ、まだあまり色の付いていない紅茶をカップに注ぎ、ミルクを多めに入れてぐるぐるとかき混ぜている様を上目遣いで見つめたまま、緊張でふるえた声でありがとうございます。と言った。女性は微笑み返した。
「名前をまだちゃんと言ってなかったね」
右手でほむらの目の前におかれたコーヒーを勧めながら女性は言った。ほむらがコーヒーを一口飲むのを待って、彼女は
「私は巴マミ。よろしくね」
と言った。ほむらは緊張してまた変な汗が出始めていた。また具合が悪くなったらどうしよう。その不安を隠しながら、ぎこちない笑顔を作って暁美ほむらですと名乗り、変な名前です。と添えた。マミは名前に添えたコメントにはふれず、
「暁美さんの好みには合わないかもしれないけど、糖分をいっぱいとった方が落ち着くと思うから、お砂糖、多めに入れよう?ね?」
と言った。ほむらは少し驚き、あわててシュガーポットに手をかけた。
「つらそうに見ますか?」
「普通に緊張しているのとどっちかなって思ったけれど、さっきベンチで寝ていたわけだし、もしかしたらって思ったの」
普段入れない砂糖なので勝手がわからず、多めと言われたのもあって十杯近くシュガーの入ったコーヒーに口を付けた瞬間、何とも言えない表情をしたほむらを見て、マミはくすくすと笑った。そしてちょっといれすぎちゃったねと優しく言った。ほむらは、何故か楽しくなって、はい、と微笑みながら答えた。
「制服を取りに行く途中だったんです」
あんなところでどうしたの?そう聞いたマミだったが、どうして寝ていたのかを聞いたつもりだったのでほむらの答えを聞いて、少し考えてから聞き直した。
「転校生?」
「はい」
ほむらはうれしそうに言った。
「あの付近に制服を扱っているお店があったかしら」
マミはほむらに質問するわけではなく、自分が思い出す為に言った。
ほむらはポシェットからメモを取り出し、制服店の住所と名前をマミに示した。
「んー、でもここ、中学制服のお店よね?」
「はい。見滝原中学年に編入します」
「あら?私と同じ学校なの?」
「え?」
「え?」
お互いに驚いて目を見開いた。しばらく沈黙が続いたあと、どちらからともなくクスクス笑い始めた。笑い声が落ち着き始めた頃、お互いに質問をする。
「……私、小学生に見えるのでしょうか?」
「その、お姫様みたいな服だったから……でもね、最近の小学生は発育がいいなって思ってはいたのよ」
「巴さん、きれいな格好をしていたし、しっかりしてらっしゃったからてっきり大学生ぐらいかと――」
「え?大学生はいくら何でもおかしいでしょう?高校生ぐらいに見られたことは今までもたまにはあったけど」
「すみません。私あまり人と付き合いなれてなくて……大恩人なのにすみません」
少し怒ったフリをしてマミが答えると、ほむらはそれを真に受けて恐縮しながら何度も何度も頭を下げた。マミはあわてて冗談だからと言いながら、暁美さんも困って黙り込まないぐらいには心を開いてくれているのかな?と思って少しうれしくなった。
ほむらが落ち着いてきて、表情が軟らかくなったので、マミは紅茶にほとんど口を付けないまま、伝票を持ってレジに行った。精算をすませてほむらを呼び寄せると二人でお店を出た。お財布を出して金額を尋ねようとしたほむらの口に人差し指をたててふさいだマミは
「ここのお店、いまいちだったね」
と言ってウィンクをした。
「はい。もう無謀な行動をしたらだめよ」
マミは、ほむらが財布をしまうまで持ってあげていた紙袋を渡しながら言った。
「本当にありがとうございました」
制服の入った紙袋を両手で受け取って、そのままほむらは深々とお辞儀をした。
頭を下げている間、ああ、これでお別れなんだな。という思いが湧いてきてきて、少し泣きそうになった。頭を上げたとき右目からすこし涙がこぼれ落ちた。
何だろう。自分はこんなにも感情が動く人間だったのだろうか?
今までは、白い部屋で暮らしていたときは、基本的にはその日会えた看護師さんには翌日も会える。来週も来月も来年もずっとずっと会える。
でも、きっと巴マミさんとはこれで会えなくなるのだと思う。二人の関係は、道を教わった人、と教えた人。それ以上のものではなかった。たとえここまで楽しくおしゃべりをして、いろいろなことを教わったとしても、基本的には道ですれ違った人なのだ。
でも、だとして、それは自分と看護師さんとの間の関係と何か大きく変わるのだろうか。彼らは親切だけど、それはお仕事だからなのであって、お友達ではない。個人的な感情はそれぞれにあるけれど、私も結局は患者の一人なのだと言うことはよく知っていた。
ほむらはこの涙の意味を考えてみた。心細くて文字通り死にそうだった自分を助けてくれた人だから?それもあるのかもしれない。でもきっと、彼女は、ほむら自身が自分の気持ちで行動した結果、初めて知り合った人だという事が一番違うのではないか。そう思った。必然的ではない出会い。だからこそこんなにも別れがたいのではないか。ほむらはそう思った。
もちろん、学年はちがえど、同じ学校の生徒だから顔を合わせることもあるかもしれない。けれど、そのときはお互いに関連のない人だ。もしかしたら覚えていてくれて、会釈はしてくれるかもしれないけれど、してくれないかもしれない。きっとそれぐらいの縁の人だ。
そう思うとなんだかとてつもなく悲しくなってきて、ほむらはついに泣き出してしまった。
「何?何?どうしたの?」
マミは突然迷子の様に泣き始めたほむらに驚いて聞く。
「だって、巴さんとはもう会えないから……」
泣き声で最後は聞き取れない。マミはその反応に驚いた。のだが、決心を決めるとほむらの頭をゆっくりとなでながら、
「ほら、もう泣かないで。お姉さんがおいしいものを奢ってあげるから。ね?迷子のお嬢ちゃん」
そう言ってほむらの右手から紙袋を取り上げて、手をつなぐと、そのまま歩き出した。ほむらは、私、迷子じゃありませんと反論しながらも、まだ泣きやめずに手を引かれるまま歩き出した。
その後、マミはほむらをつれて付近のお店を回った。街は、店は、ほむらが想像していたよりきらびやかで驚きに満ちていた。ずっとマミが手を引いてくれていたからか、その日、ほむらは再び不安にかられることもなく、ずっと楽しい気分でいられた。
だいぶ日が落ちてきた頃、マミはほむらをとっておきのお店に誘った。そこは商業地帯からちょっとはずれた戸建て住宅の真ん中で、規格に沿って作られたユニット住宅の林の中で、ひときわ目立つ三角屋根の小さなお店だった。外見に合った少し古風なデザインのドアには「Cafe la Rondo」という大きめのプレートがかかり、その下に控えめに「OPEN」と書かれた札が下がっていた。
「こんにちは」
マミが先導してドアを引く。心地よいチャイムの音と一緒に優しそうな女性の声が聞こえてきた。
「あら、いらっしゃい。今日はお連れさんがいるのね」
「はい。奥の席、いいですか?」
「マミちゃんだけ、特別だからね」
「はい、ありがとうございます」
そんな会話。マミがとっておきのお店と言うだけあって、お互いに気心が知れているのかな、そうほむらは思った。女性は二人を連れて店の奥に進むと、予約席と書かれたプレートをどけて、丁寧にお辞儀をしてカウンターに戻っていった。マミはほむらに四人席の奥を勧めた。ほむらはうなずいて座った。マミはほむらから荷物を受け取り、彼女の目の前の席に置くと、ほむらの予想に反して左隣に座った。
「え?え?」
「うふふ、この方が仲良くなれるから」
そう言ってほむらの左手を握った。ほむらはなんだか恥ずかしくなってうつむいた。いつもの発作とも、今日初めて体験した発作とも違う、新しく感じるドキドキに自分でもちょっと驚いた。
「あら、仲良しさんね。ご注文はいつものでよろしいですか?」
水の入ったグラスをそれぞれの前に置きながら女性が言った。マミは、はい、二つお願いします。と言った。
女性は伝票に注文を書き込み、一礼してまたカウンターに戻っていった。
「あの人は、店長さんなの」
「あ、そうなんですか」
まだ、自分の鼓動が耳に響くのを隠して、ほむらはできるだけ普通に答えようとした。けれども自分でもわかるぐらいに頬が紅潮するのは止められなかった。マミは握った右手を絡ませてきたので、自然に視線が自分の前に置かれたグラスに落ちていってしまった。マミの瞳が一瞬鋭くなったことには全く気がつかず、ほむらは少しうらがえり気味の声で聞いた。
「あ、あの。私、変ですか?」
左手を引いて、マミから手を離す。
「どうして?」
そう聞き返したマミにほむらは、自分は幼い頃から病院と療養所を言ったり来たりしていたこと、街に出かけるのもほとんど初めてなこと、同年代の女の子と一緒に行動する事が今まであまりなかったこと、それどころかだから友達らしい友達が全くいないこと、そんな自分の身の上話を一気に口にした。そして、顔色をうかがうようにマミの方を向いて、
「私、だから、普通の女の子になりたくて。だから――」
「暁美さん」
ほむらの言葉を遮るように、けれども、優しく話しかけたマミは、ほむらに携帯を持っているかを尋ねた。ほむらがはいと答え、ハート型のポシェットからそれを取り出して見せると、マミは右手をさっと差し出した。ジェスチャーの意味を理解したほむらが素直にそれに従って携帯を渡す。マミはなれた手つきで少し操作をした後、マミは自分の携帯を取り出した。ほむらの携帯はデフォルトの着信音を数回ならした後に持ち主に返ってきた。
「それが私の連絡先。これでお友達になれたね」
にっこり微笑むマミの顔を見て、ほむらは驚きから戻ってきた。今日何度目かの涙が頬を伝った。マミは、うなずきながら、それでもすこししかるような表情になって、きちんとロックを設定しておかないと、落としたときに大変だよ?と言った。ほむらは、はい、気をつけますと言いつつ、電話番号だけが表示されたタッチパネルをそのまま大事そうに抱きしめた。
マミの注文した「いつものもの」が届いた。レモンフレーバーのフロマージュと紅茶。紅茶は決して高級なものではなかったけれど、普段飲みには充分なおいしさで、かわいいパッチワークのティーコージーに包まれて華やかにテーブルを飾っている。フロマージュはシンプルでこくのある味で、病院はもとより療養所でも食べたことのない味だった。
ケーキを食べ終わり、お茶が二杯目のミルクティーに進んだ頃、ほむらはマミに教わりながら、携帯のタッチパネルを操ってマミの電話番号とメールアドレスを電話帳に登録した。両親が引っ越しをするときに必要な連絡先を登録してはいたけれど、本当に自分が出会った友達と言える人を登録するのは初めてだったので、ほむらは楽しくなって、タッチパネルを左右に動かして何度も登録内容を見ていた。
その後も二人はいろいろな話をした。ほむらはあまり話が上手じゃないし、おもしろいエピソードとかを持っているわけじゃなかったけれど、今何を考えているかとか、今何をやりたいかとか、そういう話をいっぱいできた。マミは時々話題を提供しつつ、ほむらの話を楽しそうに聞いていた。
そうして、紅茶を一通り飲み終わった頃、マミが聞いた。
「暁美さんは、まだ時間があるかしら?もしよければ、このまま一緒に買い物にいかない?」
ほむらはその言葉を聞いて喜んだ、満面の笑みで是非お願いします、と答えた。
会計の時、ほむらは女性店長に話しかけられた。「Cafe la Rondo」は本来はお昼と夕方の食事時間がメインの営業だったのだが、オーナー兼店長の趣味でそれ以外の時間は喫茶店として営業しているという話を聞いて、ほむらはこのお店はしっかり覚えておこうと心に決めた。またきます。そう笑顔で告げるほむらに、是非来てね、名前を覚えておくからと店長も微笑み返した。
「すっかり日が暮れてしまったわね」
あれから二人でいろいろな店をウィンドウショッピングした。ほむら用のもっとカジュアルな服とか、部屋着とかも買った。結局紙袋はマミの両手をふさいで、ほむら自身が持っている、制服の入った大きな袋と併せて三つになった。
「ここです」
ほむらは寂しい気持ちを隠せない声で、自分のマンションを指さした。
「荷物、部屋まで持って行こうか?」
そう優しく言うマミに、ほむらはゆっくりと首を振って、中に入ればエレベーターのすぐ近くの部屋ですから、と言って両手を差し出した。マミは一つずつ荷物を渡した。ほむらが少しよろめくと心配そうに手をさしのべたけれど、ほむらは少しめがねをずらしたままで満面の笑みを浮かべて、大丈夫ですと言った。
ほむらはお辞儀をしていったんエントランスに向かったけれど、不意に振り向いて、大きな声で聞いた。
「また会えますよね?」
「ええ、友達ですもの」
そう答えてくれたマミにもう一度深くお辞儀をして、エントランスに入る。エレベーターを出て、急いで部屋に入ると、玄関にざっくりと荷物をおいて、窓から顔を出した。マミはやはりこちらを見ていてくれた。手を振ると振り返してくれる。笑みが止まらないままのほむらは、マミが歩いてLRTの停留所の方に向かったのを確認して、玄関に荷物を取りに戻った。
ほむらがポシェットからセキュリティーカードを出してエントランスを開け、そのままカードをくわえ、荷物を持ち直して中に入ってくのを確認して、マミは表情を戻した。
「あなたはどう思う?」
そこには誰もいないはずなのにマミは確かに話しかけていた。
『ひとまず、僕たちは彼女を知らないけれど、彼女が魔法少女のたぐいであることは事実だね』
「そうね。不可視処理されているようだけど、確かに指輪はしていたわ」
『不可視処理、と言うより本人が全く意識していないようだね』
「そこも疑問点ね。あと、極端に感情の起伏が激しいのは何故なのかしら」
『それについては、魔法少女として一般的な傾向でもあるけど、むしろ彼女の話した生い立ちを考えると、今日以前に他人との接触があまりなかったことが原因なんじゃないかな』
「彼女の話、そのまま信じてもいいのかしら」
そこまで話したマミは、マンションの窓からほむらが顔を見せたのを見つけ、会話を中断して笑顔を作ると、彼女に合わせて手を振り返した。そしてLRTの停留所に向かって歩き出しながら、会話を続けた。
「どう、信じていいと思う?」
『僕たちは嘘をついているときの感情反応を検知できなかった』
「嘘はついてないと?」
『より正確には本人が嘘と認識していないと観測されたっていうだけ。人間の持つ感情の本質を僕たちは理解ができないから、そもそもその質問は僕たち向きではないね』
「んー。謎が多いのよね、あの子」
『観測される事象から想定される魔力量を遙かに凌駕する魔力がありながら、本人が生命の危機に瀕していても発露しないことかい?』
「そもそもあの状況で自分の命を危険にさらす行動をするかしら。もし仮に彼女が魔法少女で、私の力量も感じていたとしたら?」
『彼女の行動が、確信的デモンストレーションだとでも言いたそうだね、巴マミ』
「それもわからないのよね。だって私が助ける保証はないわけでしょう?私のことをよく知っているわけじゃないのだから」
『その件については、むしろ君が暁美ほむらを実際に助けた事実の方が僕たちには驚きだ。そのまま見殺しにしておけば今こうして悩む必要がそもそも無い』
「――あなたに聞いても無駄か。もう少し観察するしかないのかな」
『それに関しては同意見だね。もしくは有識者に相談するか』
「佐倉さんに?」
『そうだね、佐倉杏子あたりは視点を変える意味でも適任だ』
LRTの停留所には秋桜花女学院の制服を着た生徒が一人、マミが歩いてくるのとは反対を向いて本を読んでいた。マミは深く考え事をしていたためか、自分とほぼ同時に停留所に着いた車両に、先客には全く気がつかずに乗り込んだ。乗り込む直前に、そうね、考えておくわ、と独り言のようにつぶやいたが今までのように声は答えなかった。
ドアが閉まり、乗り込まなかった停留所の先客は、読んでいた本を閉じ、去っていく車両に改めて体を向けて、巴マミとつぶやいた。彼女の首には星砂の入ったチョーカーが光っていた。
説明 | ||
見滝原市へ転入してきた暁美ほむらは、不思議な雰囲気を持つ少女、巴マミと出会う。 新たなる世界の片隅にを全面リライト、映画「永遠の物語」と「叛逆の物語」をつなぐエピソードの第一巻。 【コミックマーケット85 1日目にて頒布予定作品より1巻目冒頭部分をを公開します】 続きは頒布物での公開のみになります。ご了承ください。 ※リライト前の作品( http://www.tinami.com/view/521881 )と公開範囲を合わせました。どれぐらいリライトされているかの参考にしていただければと思います。本文表紙込み266pageになる予定です。 |
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