黄泉姫夢幻V |
血がつながってたって妹じゃないヤツにお兄ちゃんは渡せないんだかンね!
前回まで
俺が突如として眼前に現れた『鬼』に命を狙われ、危機一髪という時、俺の前にやって来て危機を救ってくれた少女、根本夜見子は、俺が幼い頃死に別れた妹・洋子の記憶と魂を半分受け継いだ『血のつながらない実の妹』だと言った。
にわかには信じられないながらも、素直に懐いてくる夜見子に惹かれる俺だったが、俺の幼なじみであるカメちゃんこと亀井三千代は、夜見子を死んだ少女の魂と生きた少女の肉体と魂とを人工的に合一した『霊的改造体』・黄泉姫と呼び、彼女が所属する結社のためと称し、夜見子を狙った。
その争いの最中、負傷した俺を救うため二人は協力、ライバル心は持ちつつもかろうじて和解、カメちゃんも所属結社を脱退することを決意した。
やがて、夜見子は俺の街にある中学校に進学し、そこで沢村明音という友人も出来、俺のクラスメイト、紅・エリサベタ・光紗らも交え賑やかながらも平和な日々が始まるかと思った直後、死んだはずの妹・洋子の姿……肉体を持った((非―人間|ノン・ヒューマン))の魔術師・リリスが現れ、紅を拐い、夜見子を狙う。だが、闘いの末、リリスを退けたかと思ったその時、リリスを背後から襲い、首筋から彼女の生き血を啜ったのは、拐われ、意識を失っていたはずの紅光紗であった……。
リリスが。俺の死んだ妹・洋子の身体を持った少女が。背後から俺のクラスメイトの少女に襲われ、首筋に牙を突きたてられ、血を啜られている。
その異常な光景を見た瞬間、俺の血が沸騰した。
「洋子ッ!」
俺は突如として覚醒し、リリスを背後から襲った紅・エリサベタ・光紗の両腕に捕えられた彼女、リリス―洋子の身体を奪い取る。洋子の首筋から血が糸を引きながら僅かに飛び散り、俺の頬に当たる。
洋子の身体を奪われた紅は、虚ろな目に紅い光をたたえて俺の方を眺めている。だが、獲物(?)を奪われたにしては思いのほか反応が薄い。口の端から洋子の血が糸を引いているが、それをぬぐおうともしないで立ち尽くす紅。
一体、彼女に何が起きたというのだろうか。『リリス』のせいかと一瞬思ったが、それにしてはリリス自身が襲われたこと、襲われた際のリリスの驚愕の表情からも、少なくともかりにリリスが『原因』であったとしても彼女の『意図』ではない可能性が高いだろう。
「兄……さん」
リリス……洋子が焦点の合わない目で俺を見上げ、かすれた声で呼ぶ。俺は自分の心が大きくぐらり、と揺れるのを自覚する。
ダメだ。どうしても俺はこの子を見捨てられない……。例え身体は洋子でも、魂は洋子ではないと判っているはずなのに。
「紅……さん、一体どうしちゃったっていうのョ……」
夜見子がふらふらと身を揺らす紅を心配げに伺う。そのどこにも焦点を結んでいない瞳が、夜見子を捉える。その瞬間。
ごうっ、と凄まじい勢いで紅の身体が夜見子目がけて弾かれるように跳ぶ。
「きゃああっ!?」
「夜見子っ!」
俺は、咄嗟ながら可能な限り洋子の身体を乱暴にしないよう床に置き、突然のことに身をすくませる夜見子を引き寄せる。間一髪で紅の身体は一瞬前まで夜見子がいた空間をそのまま通り過ぎた。そのまま床に散らばった机や椅子をものともせず弾き飛ばしながら着地すると、再びふらり、と立ち上がる。
「三千代! 退がれ、ノワを前面に立てるんやー!」
「は、はい!」
明音が慌ててカメちゃんに指示を出す。カメちゃんもすぐにそれに従い、ノワを前に出し、転がっている机を身体の前に置いて軽く身を隠す。ノワも机の上でカメちゃんを守るように身構えて毛を逆立てている。
「無事か?」
俺は自分の両腕のなかにちんまりすっぽりと収まっている夜見子に問いかける。
「う、うん、だいじょぶョお兄ちゃん」
不安げな目で俺を見上げる夜見子。大丈夫だ、と声をかける代わりにその小さな身体をぎゅっ、と抱きしめてやる。
「あ……」
夜見子が頬を赤く染めて俺の上衣をきゅっと掴む。その仕種が俺に愛おしさとともにこの子を守りたいという気持ちを急速に増大させる。そして、だからこそ俺はより冷静さを保つことを意識する。
「今、目くらましするでー、いち、にい、さんー」
明音の呼びかけに俺は夜見子と洋子の二人をかかえ、三、の掛け声とともに教室の外へ飛び出した。
同時に、ぼん、と白い蒸気が室内に立ち込める。果たして、もう一方の出入り口から、明音とノワに襟首を銜えられたカメちゃんが飛び出してくる。
「さっきの氷の蔦を一気に蒸発させたんやー。ともかく一時的に目ぇ逸らさせるくらいは出来るやろー」
「……そうだな」
厄介なのは、このまま逃げるっていう選択肢は実質存在しないってコトだ。このまま紅を放置していくことなど出来るわけがない。だが、例えば夜見子やカメちゃんを逃がす、という選択肢なら別だ。俺は、ちらりと明音に目配せをすると、夜見子に語りかける。
「おまえはカメちゃんと一緒によ……リリスを連れてここから離れるんだ。今のリリスなら危険は無いだろう」
だが、夜見子は強い視線で俺を見つめてかぶりを振った。
「ううん、あたしァ逃げないわョ。お兄ちゃんはあたしを逃がしたいんだろーけど、あたしだって紅さんのこたァ助けてあげたいんだかンね」
「だが……」
「わ、わたしも夜見子さんと同じです。それに、リリスさんのことも心配なのは判りますけど、今はここで彼女の知識もおそらく必要になると思います」
カメちゃんも少し離れたところからそう答えて来る。
「まぁここんトコはお兄さんの負けっちゅーこっちゃなー。ふたりともここ一番では結構ガンコやから諦めたほうがええでー」
……どうやら明音の言う通りらしい。言い争いをしてるヒマがあったら、この場で夜見子たちを守りながら対策を練った方がよさそうだ。それに、恐らくこの状況の原因ではあるのだろう洋子、この場合はやはりリリスと呼ぶべきだろうか―の知識はたしかに必要かもしれない。
「……にいさん」
「気がついたか、具合はどうだ? 苦しくないか?」
俺の夜見子とは逆の傍らからか細い声でリリスの声がした。俺はつとめて冷静にリリスに声をかけた。
「お兄ちゃんてばなんでそいつンことそんなに心配そうなのョ……」
……どうやら冷静ぶるのは失敗していたようだ……。まあそれはともかくとして。
「洋子、おまえは紅になにかしたのか? あれがどういうことなのか判るか?」
とリリスに尋ねる。
「……わかりません。本当にわからないんです。たしかに……普通のひとより強い力を感じるひとではあったんですが……」
リリスは弱々しくそう答える。どうやら嘘ではなさそうだ。全く、ルーマニアの貴族の遠縁が吸血鬼みたいなコトになるとかそれなんて……それなんて……いやまさか? 冗談だろ?
「ともかく、どうにかして紅を元に戻してやらなくちゃいけない。洋子、おまえにも協力してもらうぞ」
俺は、あれやこれやの雑念を振り払いリリスにそうあえて強い調子で言った。
「はい……兄さん」
リリスはまだダメージから抜け切れていないのだろう、顔を赤くしながら弱々しい声で、それでもはっきりと俺の言葉にうなずいた。
「あ、あたしだってお兄ちゃんの力になりたいんだかンね!」
夜見子が慌てたような声で言う。判ってるって。
「ああ、頼りにしてるぞ」
そう言いながら夜見子の頭を軽く撫でてやる。
「ふにゃあ……」
ったく、本当に可愛いなもう! ……っていってる間にも紅が廊下にふらふらと出て来た。ぼうっとした視線の焦点が俺たちの方に合ってくる……。
ばァん、と床が物凄い反発音を立てる。その音に相応しい勢いて紅の身体が俺たちの方へ跳びかかって来る。流石にあらかじめ読めていただけに夜見子を引き倒しつつ避ける。
「きゃっ」
俺の胸に抱き寄せられた夜見子が小さく声を上げる。
紅の身体は数瞬前に俺たちがいた位置に着地し、今度はそのまま身を翻し、そのままの勢いで俺たちの方へと反転する。
「……ッ!」
これまで見せなかった動きに驚かされるがどうにかそれも回避し、頭の上を過ぎる紅の身体を下から見上げる。一瞬白いなにかが見えた気もするがそれは措く。
「……普通の意味で意識があるようには思えないが、一応学習能力らしきものはあるようだ」
俺は紅の様子を観察しつつ夜見子と洋子の身体を引き寄せる。
「明音、さっきみたいに紅の動きを止められないか?」
リリスの黒犬獣を凍結させたあの術なら、と思って明音に問いかける。
「動き激しいからちょい難しいかもやけど、やってみるでー」
「わかった、頼む」
ともかくもこれで対策のカードが一枚。あとは……まず紅の意識を呼び覚ませないか試してみよう。それから先は臨機応変(行き当たりばったり)ってトコだな。
「紅!」
俺は大声で紅に呼び掛ける。はたして、紅の肩がびくっ、と一瞬反応する。ふらふらとゆらめいていた紅が俺の方へと視線を合わせて来る。この視線が俺にぴったりと合った瞬間、紅の身体が跳びかかってくるはずだ。
「聞こえるか、紅!」
その寸前を見計らうように、俺はもう一度紅に呼び掛ける。紅がふたたび俺の声に反応し、視線が拡散する。どうやら、完全に意識を失ったわけではない。このまま呼びかけることで、彼女の意識を呼び戻せる可能性もあるかもしれない。俺はさっきまで以上に声に熱を込めて呼んだ。
「紅! 聞こえたなら目を覚ませ、紅!」
「紅さん、正気に戻って!」
「くれない……さん!」
夜見子とカメちゃんも俺に続いて呼びかける。明音は真剣な顔でさっきのように氷のナイフを廊下の要所要所に投げている。そこから氷の蔦を伸ばして紅を絡め取るのだろう。
俺たちが明音に出来るフォローは可能な限り紅を動かさないことだ。リリスは黙って俺の傍らで上着を握りしめている。
「う、うァあアあああ……」
宙を見上げる紅の咽喉からそんなうめき声が洩れ出て来る。苦しそうな声。だが、紅を正気に戻そうとするなら、これが恐らくその端緒になるはずだ。俺たちはなおも紅に呼びかけ続ける。
「……っ、今やー!」
念を凝らし続けていた明音の口から彼女なりに気合いの入った声が響く。それとともに、廊下に撒かれた氷のナイフから紅に向かって蜘蛛の巣のように氷が伸びてゆく。それは、まさに一瞬にして紅の足元へと到達し、彼女の全身に絡みつく。
だが、あくまで彼女の動きを止めるのが目的であるため、凍結するのではなく、網のように絡み、巻きつくような形を取っている。
「流石に身体を凍結させるわけにはあかんから、長いことは持たへんでー、お兄さん、夜見ちゃん、はよ彼女を正気に戻したってーなー!」
「……わかった!」
俺は紅のもとへと駆けより、彼女の顔を両手で挟むように掴むと、至近から呼びかける。
「紅! 目を覚ませ、正気にもどれ、俺だ!」
「う、うう……」
紅の顔が苦しげにゆがみ、紅い目から涙がこぼれ出す。もうひと押しだ……!
身をよじる紅に巻き付いた氷の網が軋み、ぱらぱらと氷片が落ちる。俺は彼女の顔を挟んだ両手に力を込める。
「紅!」
ひときわ大きく身をよじらせた紅が、俺の手を頭を振って顔から振り払い、口の前に来た右手に牙を突き立てた。
「……っ!」
「お兄ちゃん!」
「兄……さん!」
俺の傍らの夜見子とリリスが思わず声を上げる。
「く……紅さん、正気に戻って! お兄ちゃんのコト傷つけるなんて紅さんだって望んでないはずョ! 目ェ覚まして、覚ませってのョ!」
夜見子の声が高くなる。見ると、夜見子の瞳にも涙が光っていた。
「こ……これ以上お兄ちゃんを傷つけたりしたら、傷つけたりしたら……」
「許さない……っていうのかしら?」
ぽつり、とリリスが夜見子の言葉の続きをなんとなし、という感じに予想して、他意もなく誰に聞かせるというわけでもない感じで口にする。だが。
「あとで本当に傷つくのはアンタなんだかンね、紅さん!」
「……!」
違った。そうではなかった。夜見子が涙でくしゃくしゃになった顔で血を吐くように叫んだ言葉は、それだった。
「あ、アあ……あ……」
うめき声とともに、俺の右手が紅の口から解放された。紅の瞳の紅が次第に薄らいでくる。もうひと押しだ!
「も、もう限界近いでー……」
紅の身体を縛る氷を保持するため、念を凝らし続けてくれていた明音が警告を発する。もう少しだ、頼む。
みし、みし、と氷の網が限界を告げる音が響き始める。
「紅! 俺たちのところへ戻ってこい!」
「紅さん!」
「くれないさん!」
「折角……お前とちょっとは親しくなれてきたと思ったのに、こんなことで終わりになるなんて認められッかよ! 紅!」
「……ッ!」
紅の瞳が、その瞬間、紅い光を喪い、いつもの琥珀の瞳を取り戻した。
「あ……私……」
「も、もう、限界……やー」
同じ瞬間、明音が力尽きる。それとともに、紅の身体を巻いていた氷の網が粉々に砕け散った。
……紅の着ていた、制服と……その他もろもろの、衣服すべてと、ともに。
「え……って、きゃアああああッ!?」
「って、どわァあああッ!?」
むにゅん。
勢い余って俺の身体を押し倒す形になった紅の身体。その、その……。
彼女の身体のなかで、最もやわらかいのではないかと思われる部位が、俺の、顔に、押し付けられて、いたので、あった……。
「む、むぐ、むぐー!」
「っ、見るなみるな見ないでー!」
そう言いながら俺を目隠しするつもりか、自分の胸に俺の顔を思いっきり押しつけるように頭を抱きしめる紅。
……なにこの状況。
「って、ナニお兄ちゃんの顔にその、その、そのそれを押し付けてンのョ!」
「あ、あわわあのあの着るものきるもの……」
「おー、役得やなーお兄さんー」
他の三人もそれぞれに三者三様の反応を……三人?
どーにか紅から離れ、周囲を見回す。紅はカメちゃんの持ってきた(恐らくは壊れたロッカーから持ち出してきたのだろう)体操着で胸を隠している。
夜見子は、真っ赤な顔で俺の視点から紅の身体を隠すように両手を広げている。
そして……廊下の向こう、わずかな明かりで照らされた範囲と夜の闇に沈んでいるところとの丁度境界の位置に、リリスは佇んでいた。
「兄さん……」
「洋子……」
「今日のところは、わたしの負けにしておきます。けれど、いつか、かならず黄泉姫を始末して、わたしが兄さんを奪ってみせますわ……」
「……っ、フザケんじゃねーわョ! ンなコト絶対させねーンだかンね!」
「……さよなら、兄さん。今夜のところは……」
夜見子の声を背に聞きながら、リリスはそれだけを言い残し、振り返るや闇に溶けた。
「消えよった……なー……」
明音に言われるまでもなく、俺たちはこの場からリリスの存在が完全に消えたことを感じていた。
YOMIKO
「いやースマンかったなー。けど、直接身体を凍結させるワケにゃあかんかってんー、服の方を凍らせるしかあらへんかったんやー。カンベンなー」
明音がさすがに済まなさそうに紅さんに手を合わす。まァ……確かに身体を凍らせるワケにはいかないし、あの状況ではあれしか無かったのは間違いないと思う。紅さんもその辺は判ってくれてるみたいで、顔を赤くしながらも明音の謝罪を受け入れていた。
てゆーか、それ以前に紅さんがどー考えても吸血鬼としか思えないような状態になってたり、明音がま、まほーつかい? 魔術師? だったりとかあたしらの周囲不本意ながらあたしも含めてマトモな人間いねーのかョみたいな感じになっちゃってンのは一体何なンかしらネ。いやマジで。
「ところで、こんな状況でこんなことを訊くのもどうかとは思うんだが、夕方、あのとき何があったのかは……覚えているのか?」
そうお兄ちゃんんが訊く。
「え、ええ……夕方、私がおサイフ取りに戻ったときよね。あのとき、あの白い髪の子が私の目の前に現れて……たしか、気が付いたら目の前にいて、私の目の前に手をかざした途端、なにがなんだかわからなくなって、それからのことは全然……」
「そうか……覚えてないんだったらその方が」
と、お兄ちゃんがそこまで言ったのを遮るように紅さんは続けた。
「でも、私が……あの白い髪の子の血を吸ったところからは、ぜんぶ覚えてるわ」
「……ッ!」
とつぜんの告白に、あたしたち全員が動揺する。
「お前……自分がどうなったのか、知って……?」
「……うん、私の家系……ルーマニアの方のね。私自身マトモに信じてたわけじゃないけど、そっちの方、いわゆる吸血鬼の血筋だとかなんだって。以前、両親に教えられたことがあって……でも、今じゃすっかり薄くなって全然普通の人と変わらないって言われてたのに」
紅さんは、うつむきながらそう語り始めた。
「そっかー……恐らくは、やけどー、リリスの奴に((生気|プラーナ))を吸われたことで、その失われたプラーナを取り戻すために眠っとったそっちの方の血が活性化し、蘇った、っちゅーことなんかなー。リリスみたいな『オーラ体吸血鬼』にしても、同じよーに別の『オーラ体吸血鬼』に吸われて欠乏した分を補給するため無意識的にオーラ体吸血行為を行う例もあるしなー」
そう明音が言う。お兄ちゃんも頷いて、明音の意見に賛成してるって態度で示してる。
「それでも、今現在あったこと自体は覚えてはいるけど、ああなってたときは、ほとんどまともな意識じゃなかったのは確かよ。夢の中……悪夢の中みたいな感じだった……自分の身体が自分の意識から切り離されて、本能だけで動いてるみたいっていうのか」
紅さんはそう言ってぶるっ、と身体を震わせた。
「でも……言葉が」
そう言葉を継ぐ。
「みんなの、言葉が。あんたの」
そうお兄ちゃんの顔を見上げて頬を染める。
「夜見子ちゃんの、みんなの声が」
次いで、あたしたちを見まわす。
「聞こえたの。私のことを呼んでくれるたびに、私の心になにか、引っかけられてくるものっていうか、投げかけられてくる手掛かりっていうのか、そんな風なものが届いて。夢の中から浮かび上がるための力を、手掛かりを。自分の意志で動かせない身体を何とかして動かしたいと思う気持ちを」
ぽつり、ぽつりと彼女は語る。
「うん。そのなかで、いちばん強く響いてきたのが、夜見子ちゃん、あなたの言葉だったわ」
「ぴ?」
紅さんは、そうあたしの顔を見て、そう言って微笑んだ。とても、綺麗な笑顔で。
「だから、ありがとう、夜見子ちゃん。ありがとう、みんな」
「えっと、その、あの……」
恋敵だと思ってた紅さんに面と向かってそんなコト言われちゃって、思わずしどろもどろになっちゃうあたし。
「あんなになっちゃった私を、最後まであきらめないでいてくれて、本当にありがとう」
そう言った紅さんの笑顔は、本当に眩しかった。
「あ……ウン、あたしもネ……前に、間違いをしちゃって、それで、お兄ちゃんのコト傷つけちゃって……あのときのコトは、いまでも、ううん、きっと一生忘れられない。あたしの、過ち……。だから、大切な人を傷つけちゃったりしたら、それは、そのコトは、きっと同じくらいの深さで自分自身も傷つけるわ。そんな思いは……そんな思いする人は……見たくなかったから」
あたしは、あの冬のコトを思い出しながら、その思いを紅さんに伝えた。
「……ふぁ」
そう言い終えたとき、あたしと紅さんの話をずっと黙って聞いていたお兄ちゃんが、あたしの傍に来て、そっと頭に手を乗せ、軽く引き寄せてくれた。そのまま、かるくぽんぽん、と手のひらで撫でるようにたたく。
そう、あたしはあのとき自分の過ちで、お兄ちゃんを傷つけた。
下手をすると……いや、そうじゃない。本当なら、と言うべきだ。そう、本当なら、あのときあたしたちは、お兄ちゃんを永遠に喪っていた。いまこうしてお兄ちゃんが無事でいて、こうしてあたしが傍にいるのを許してくれていることそのものが、奇跡みたいなものなんだってあたしは絶対に忘れない。忘れちゃいけない。
もし、あたしの言葉が紅さんに届いたっていうなら、そのときの痛みを、その一端くらいは伝えることが出来たからなんだろうと思う。
BROTHER
そんなこんなで翌日。
竜巻にでも襲われたかのような惨状となった教室については、もう今さら俺たちにどーにかできるワケもなく、とにかく例えば凍りついて砕け散った紅の制服の破片だの、残しておいたらマズいであろうモノだけを回収し、そのまま退散することにした。
もうあとはひたすらしらばっくれるしか無いだろう。
で。結論から言えば、もうなにしろあの状態である。とりあえず登校はしたものの、行ってみたら校門に〈KEEPOUT〉のテープが張ってあり、警官や先生たちやらがあわただしく駆け回り、とりあえず今日は休校、明日以降は追って連絡する、とのことだった。
当面のところ、俺たちがこの状況に関わっているとかそういうことはバレてはいない様子ではあったので、紅が来ていないかどうか見回してみる。
流石にあれだけのことがあった後だけに、来ていなくても不思議は無いと思ったが、人ごみの中に彼女の姿を見つけることが出来た。
俺は、彼女が休校の知らせを聞き、集団から離れたところを見計らい、さりげなく離れて彼女を追った。付かず離れずくらいの距離をとり、ある程度学校から離れたあたりで、ある程度距離を保ったままで軽く声をかける。
「よお、おはよう」
「……あ」
俺の方を振り向いた紅が、少し慌てたように顔を赤く染める。まァ昨晩のアレを思い出すと俺の方も顔が熱くなりそうなので仕方がない。
「その……体調とかはどうだ?」
「あ、うん。悪くない……っていうか、むしろ無駄に絶好調というか……日が出たら少し落ちついたけどね」
「つーか、日光とかは平気なのか……?」
「ん、まあね。元々多少お肌が日焼けに弱かったくらいのことはあったんだけど、今も夜に比べれば多少調子が落ちてるのがハッキリしてる程度よ。悪いってわけじゃなく、夜が絶好調過ぎるだけね。吸血鬼の血とか言ったってそんなに濃いわけじゃないし、日常生活に支障があるほどじゃないわ。まあ……あとは、ちょっとだけ八重歯が伸びちゃったってトコ……かな?」
そう言って紅は口の端に指を引っかけて、にー、と伸ばす。
なるほど、紅の八重歯が、やや目立つかな、程度に伸びている……ようだ。つーても、流石に以前の紅の八重歯の長さまでは知らないからなー。それでも、普通よりはやや目立つかな、といった程度の長さはある。だが、異常というほどでも決してない。
このくらいなら、紅の容姿の方向性から見ても、今までのカンペキさをちょっと崩すことで、むしろちょっとした愛嬌を手に入れたとさえ言っていいくらいかも知れないな、と思った。
「そうか。それじゃ、これから学校に来られなくなるなんてことは無いんだな、良かった」
俺は、そう素直な感想を口にした。途端。
「え……よ、良かった? 私がちゃんと学校来れるのが……?」
なんて言いながらさっき以上に顔を赤くしたのだった。
MISA
……っひゃあああああ、な、なんてコトいうのよコイツってばー!
うう、顔が赤くなるの止められないよお。
そりゃ、たしかに昨晩言ったように、いちばん心に響いたのは夜見子ちゃんの言葉だったけど、それだってまず大前提として、コイツへの気持ちがまずあったからこそなわけだし、それに、コイツの言ってくれた言葉だって、どうしようもないくらい嬉しくて胸に響いたのは間違いないのだ。
「ん……でも、私のこと、怖くなったり、気持ち悪くなったりとか……しなかったの?」
それでも、ついそんなことを訊いてしまう。
だけど、彼の言葉は私の予想を……なんて言うか、スッ飛ばすようなものだった。
「……なにが?」
「え……な、なにがって、その、私がき、吸血鬼になっちゃって……あんな風に人を襲っちゃって……それに、今だって決して普通に戻ったりしたわけじゃぜんぜんなくて……」
こう今の状況を改めて口にすると、なんで私こんな風に無事でいられて、当たり前に彼と話していられるんだろうって不思議にさえ思えて来る。けど、彼は平然とこんな風に言うのだ。
「べつに、お前がお前じゃなくなったわけじゃないだろ?」
「今はそうだけど……でも、あのときは私が私じゃなくなっちゃってたわ。それに……今は平気だけど、もしかしたらまた血を吸いたくなってしまうかも……」
「それってのは、必ずそうなるものなのか? それとも、あのときだけ突発的にそうなったのか?」
「……わかんない。うちの家系でも、その辺のとこは個人差があって……そもそもそうなった例自体多いわけでもないし。だから、ひょっとしたら、またあんな風に自分を見失ったりしちゃうかも……」
「でも、今はお前だ。それに、あのときだって俺たちの言葉はちゃんと届いていただろ」
どうしてこうも平然と、当たり前みたいに……ていうか、私の方がおかしなこと言ってるみたいに言うんだろうコイツは。
うん、まあ判ってるのよ。コイツは別に私を特別に見てるわけじゃないって。でも、それでも、それなのに、今まで私のことを特別だって言ってくれた誰よりも、私のことをきちんと見てくれて、受け容れてくれてる。そう感じる。
でも、それでも、あのときだけは、少しくらいは私のことを特別に思ってくれてたのかな。〈誰がああなってたとしても〉じゃなくて、〈私だから〉あんな風に必死になってくれたって思ってもいいのかな。
あー、参ったなあ……こりゃヤバいわ。うん、こりゃヤバいパターンよね。
ま、でもしょうがないか。そうよね、惚れちゃったらしょうがないわよね、うん。
だいたい、この先何年何十年生きるかわかんないけど、こんな男もう二度と出会える気はしないわよね。私がご先祖からの吸血鬼の血に囚われて、理性を失った〈怪物〉になっちゃったときでさえ、あんな風に真っ直ぐ私を助けようとしてくれて、今だって全く気にした様子すらない。
いったい他の誰が、こんな実質怪物同然になった私を、そのことを知っていてなお、変わらず受け容れて接してくれるだろう。
それに、どうせ、彼がいなかったら……あのままだったら私っていう人間はあのとき終わっていたんだもの。そう考えれば、この先なにがあったって、コイツと一緒にさえいられればもうそれ以外はどうってことないわ。たとえ……結果、想いが通じることがなくたって。
そんな風に思いながら、私は自然と自分のなかにひとつの覚悟が生まれているのを自覚していた。
そして、私は彼の腕をとる。夜見子ちゃんらがいない今くらい、コイツのこと一人占めしたっていいわよね?
「……お、おい」
と、いつもとちょっと違う、慌てたような彼の声。
「なによ腕くらい、いいじゃない」
「……っ、そうじゃなく……」
焦ったように私から急に顔をそむける。でも、彼の耳や頬は真っ赤に染まっていて……。
「……あ」
当たっていた。その、むにって。それに気づいた私は慌てて手を離そうとしたが、ふと思い直す。てゆーか、これって、私のこと、意識してくれてる……?
「……やっぱり、気になる?」
「な、ならないワケないだろ、いいから離れろって」
そっか……やっぱ気になるんだ。気にしてくれてるんだ。
「お……思い出させるなっての」
そう言われて、私はあっ、と気付き真っ赤になる。そーいや、見られちゃったんだっけね、私……。でも、そっか、私のこと、そういう風に意識してくれてるんだ。なら。
「……えい」
私は、今しがた決めた覚悟をもういちど決め直し、逆により一層押しつける。
「えい? 今えいって言わなかったか?」
「言ったわよ?」
「なに考えてんだよお前は? あた、あた、当たって……!」
ここで私は、あの伝説のキメ台詞を会心のドヤ顔で口にする。
「あ て て ん の よ」
「〜〜〜〜!!」
こっちを振り向いた彼の顔全体がさらに真っ赤に染まる。
「って、お前、まだ学校からそんな離れて無いのに、誰かに見られたらどーすんだ!」
「うーん、そんなことになったら、噂になっちゃうかしらね?」
「そう、そうだろ! そんなことになったら、お前も困るだろ!」
そんなことを言われてもねー。ふふん、覚悟を決めた女をナメちゃダメよ?
「困らないわ」
「……え?」
今度こそ彼の表情が大きく変わる。今までとは違った意味での驚きの表情に。
「困らない」
もう一度、ハッキリと言う。
「紅……」
「あなたのことが好きだから、噂になっても困らないって言ったのよ」
YOMIKO
「あれ、たくろー、アンタもここの学校来てたン?」
「お、おう。根本もここだったのか」
あの翌日。生気吸い取られたり夜中に戦ったりとまァ色々忙しくたって、朝が来ればよーしゃなく学校へは行かないとなんない。まーしょーがないわネ。
で、午前中の授業はけっこーキツかったもののどーにか居眠りとかはしないで済み、お昼を済ませたあと気分転換と新しい学校に慣れるのを兼ねて、校舎内をぶらついていたとき、あたしは見知った顔を見つけたのだった。
たしか小五ンときから同じクラスだった大岩卓郎だった。男子の中じゃ割と仲はいい方だったと思う。つーてもまァこの前のバレンタインの時ジャマしてくれちゃったせーで、あたしン中ではたくろーの株はダイボーラクしてンなァ言うまでもない。
とはいえ、割と小学校とは離れたトコの中学来たこともあって、小学校ンときの見知った顔見るのは初めてだっただけに、ちったァ嬉しかったのもまァ確か。
てなワケで、まァ小学校ンときと同じ気楽さで声をかけたっつーワケね。
「それにしてもたくろー、ここって前の小学校とずいぶん離れてンけど、なんでまた?」
「いや、そりゃこっちのセリフだ。俺はここのサッカー部が目的で来たんだけど」
あァ、そーいやここって結構サッカーに限らず運動部強かったんだっけ? なるほど、たくろーが来たがるワケだァね。
「まァ、あたしはお兄ちゃんと一緒にいたいからいちばん近いココ来たんだけどネ」
すると、たくろーはなんだか苦々しげに言った。
「……また『お兄ちゃん』かよ……しかしンなことよく平然と言うよなお前」
そしてたくろーはおっきなため息をひとつついた。なんかおかしなコト言ったかなあたし?
「やほー夜見ちゃーん」
と、そんなときトートツに現れやがったンは言うまでもなく沢村明音。ホントこいつが何考えてンのかはさっぱり判らねー。
「とァったった!」
で、現れるなり後ろッからデカい身体と乳をぶっつけて来やがったせいで、あたしは危うくすっ転ぶかと思ったのだった。
「コラ明音ー! いきなりビックリすンじゃねーのョ!」
あたしのどなりつけにもカエルのツラにナントカでへーぜんとしてやがるァねこのオンナ。
「で、でけー……」
たくろーのヤツがつい口をついたみたいに言う。まァ気持ちは判るけどネ。具体的にドコがでけーのかについてはまァ不問にしといてやるけど。だいたいこのオンナ、たくろーより身長からしてでけーし。
「んー、誰やんー?」
と、明音が尋ねる。
「お、俺は……」
「小学校ンとき一緒のクラスだったたくろー……大岩卓郎ってヤツよ。まァ、中学来てから知った顔見ンなー初めてだったし、ワリとホッとしたかナ。だから、あんたの顔見たとき、ちょっと嬉しかったわョ」
とりあえず、説明がてら素直に思ったコト伝えてやる。
「う、嬉し……? そ、そうかぁ?」
「ん? なにニヤけてンのョ?」
「んー、ははーん……」
明音がなにやら気付いたみたいな顔でにんまりと笑う。
「まー、どっちにしたとこでー、夜見ちゃんはウチのもんやけどなー」
そう言いながら、あたしに背後から抱きついてくるデカバカ女。
「うぉあッ、何しやがンのョ!」
じたばたと暴れるが、離しャしねーョこのバカ。つーかドコ触ってやがンのョ!
「えい、この、セクハラ女みょーなトコ手ェ伸ばしてンじゃねーっつーの……ひゃん!」
あたしと明音の絡み見てたたくろーの顔がみるみる真っ赤になってゆく。
「あ、コラ、たくろーも何見てやがンのョ!」
「わ、わ、悪い!」
慌てて明後日の方に顔を向けるたくろー。
「あんたも! いつまでさわってンのョ!」
どーにか抜けだしたあたしはじゃんぷして明音ののーてんにちょっぷ。
「くはァーっ」
大仰なアクションで花鼻血噴いてひっくり返る明音。
「ところでサたくろー、あんたクラスはどこなン? あたしはA組だけど」
「ああ、俺はE組」
「そっか、教室もけっこー離れてたっけかね。そりゃ今まで気付かなかったワケだァよ」
「そ、そうだな。根本もここ来てるとは思わなかったから俺も驚いた」
「ま、同じ小学校のヨシミっつーやつでひとつヨロシク頼むァね」
あたしはひょいと右手を挙げる。
「ああ、お、俺の方もな」
そう言ってたくろーはあたしの挙げた右手と右手を軽くぱちんと叩き合わせる。小学校ンときはお昼休みのサッカーとかでいつもやってたヤツだ。なのに、何故かたくろーのヤツってば合わせた右手に勢いがない。それに顔も赤くしてるし。なんだろ?
「はっはっはーたくろークンとやら、夜見ちゃんのこたー諦めたほうがええでー、なにしろウチと夜見ちゃんは中学に来てからまいにち百合の花咲くお花畑でいちゃいちゃちゅっちゅする仲やねんからなー」
「してねーわョ」
「そんなワケやからー、ウチと夜見ちゃんの間に割り込もうなんて思わへんほうがええでー」
「話聞けよバカネ」
「……って、ワケわかんねぇよ! それにテメーの言ってること無茶苦茶腹立つな! 外野で『そんな風に思っていた時期が俺にもありました』なんてドヤ顔で解説されるくらい!」
「なにョそれ?」
「はっはっはー、今のとれんどはしれっとした顔で『わけがわからないよ』やねんなー?」
「……いや、アンタの言ってっコトが一番わけわかんねーから」
なにこの会話。
BROTHER
で、今日も今日とて夜見子たちと合流。今日は紅にカメちゃん、明音たちもいるので総勢五人の大所帯だ。何にせよ昨日の件についてはなるべく早いうちに話し合っておかなくてはならない。休校になった高校組の俺たちはいちど帰ってからの出直しだ。とはいえ表で話をするにはその内容も人数的にもあまり適しているとは言えないだろう。第一、誰一人とっても目を惹くような美少女四人連れて街をぞろぞろ歩くとか世間体的にもどうかと思わざるを得ないし。
つーことで、俺の下宿に来てもらうことになったのだった。
「あ、こんにちは大家さん。ちょっとお客さんが来てますんで少しばかり騒がしくなるかもしれませんが」
俺の下宿の大家さん……長い髪を無造作に括って赤いアンダーリムの眼鏡をかけたた二十代なかばくらいの女性だが、下宿の家主であり、俺の遠縁の親戚。そして、もう一つ、俺の〈雇い主〉でもある。まァそのつてでこうして古いながらもある程度マトモな部屋に、比較的安い家賃で住まわせて貰ってるワケだが。
余談だが、眼鏡をアンダーリムのものに替えたのはつい最近。それまではフレームレスをかけていた。理由を聞いたら「流行ってるそうじゃないか」とにやりと嗤って言っていた。何処で流行ってるのかはなんか本能的に問わない方がいいような気がした。
「んー、ああ、別にかまわんよ。ただしあんまりドタバタはすんじゃないぞ。なにせ古い建物だからな」
「あはは、判ってますって」
「こんにちは」
カメちゃんはときどき来てるのでまァお馴染みに近い。
「は、はじめまして」
紅は当然初めてなので少々緊張気味だ。
「あ……こんにちは」
夜見子も実は上がるのは初めてなのでちょっと緊張した面持ちで挨拶する。
「お、例の妹ちゃんも来てるのか」
そう言って夜見子の頭を撫でてくれる。
「ふぁ……えへへ」
夜見子も案外まんざらではなさそうだ。
「ちゃーすー、はじめまし……て!?」
こちらは相変わらずの傍若無人……かと思いきや、後ろから顔を出し、大家さんの顔を見たとたん明音の顔が強張る。
「んんー? なんだ、お前ソロール・ウンディーネじゃねーか。今度はどんな悪さしに来たんだ、あー?」
そう言って大家さんはひどく人の悪そうな顔でにたりと笑った。って、ソロール・ウンディーネって明音を((魔術名|マジカル・モットー))で呼ぶってことは……。
「はっはっは、はじめましてたぁまた他人行儀だな? 散々可愛がってやったってのに」
「は、はぁー……」
大家さんはにやにやと笑いながら明音の肩に手を回し、ぽんぽんと叩く。
「ううー、勘弁しといてくれ……いや、くださいー、別にワルいことしに来たわけやあらへんねんでー、信用してくださいなー」
明音が大柄な身体を目いっぱい縮こませて大家さんにぺこぺこする。なんだかこの二人の関係ってやつが見えて来たような気がするな……。
「ううー、なんでウチがお兄さんにみょーな苦手意識感じてたんか、なんかちょいとだけ判ったよーな気がするでー……」
俺の部屋へ行く階段を上っていたとき、横にいた明音がぽつり、と呟いていた。
「まあとりあえず座ってくれ」
ちゃぶ台の周りに座布団を四枚出し、俺は机の前の椅子を引っ張り出した。こんな大勢の客を迎えるような準備なんて考えても居なかったのだから、みんなを見下ろす形になってしまうがご容赦願いたい、というトコロだ。大体部屋自体五人も入るには相当狭いし、座布団だっていちど戻って大家さんから二枚借りて来たのだからして。
自分で座る前に帰宅前に買ってきた1.5リットルペットボトルのコーラを紙コップに注いで出す。あとはお皿にこちらは偶々買ってあった海苔煎餅を開ける。うーん、今後のコト考えるともうちょい人上げる時の準備とかしておいた方がいいかもなァ。
そうして、みんなが座ったところで俺も椅子に腰かける。ちゃぶ台の周りも四人で限度なのでホントご容赦くださいいやマジで。
「で、なんの話から始めるのかしら?」
紅がそう切り出した。まァ確かに話すべきことは少なくないからなあ。
「やっぱ、あのリリスってヤツのコトからじゃない?」
夜見子が挙げた手を振りながら言う。
「そうだな、そのあたりが順当か」
「で、あの子って一体なんなのかしら? どうも私がいちばん事情を知らないんじゃないかと思うんだけど……」
紅が言う。なにしろずっと攫われてて意識が無かったんだから当然のところだろう。とはいうものの、果たして紅にどこまで話していいものか、ということだ。リリスのことをきちんと話すなら、どうしても夜見子の真実にも触れないわけにはいかなくなる。俺は、ちらりと夜見子と視線を合わせる。
「アイツは……元々はあたしの半分の身体だった奴ョ」
と、夜見子は自分からいきなりの核心より話し始めた。
「……って、え? 夜見子ちゃんの半分ってなに?」
あー、でもほら紅困ってるし。とはいえ、これは夜見子からの〈全部話して大丈夫〉っていう答えだと言っていい。判り易く解説するのは俺の役目だ。
「俺にはむかし……俺が小学生になる前に死んだ妹がいたんだ。名前を洋子っていった」
「……え?」
夜見子に続けて話し始めた俺の言葉に紅が振り返る。
「夜見子は、その洋子の心と記憶を半分だけ受け継いでいる。とある組織……魔術結社に人工的に合一処理をされたらしい。血縁や戸籍はまったく関係ないが、それでも、俺は今の夜見子を大事な妹だと思ってる」
夜見子が、俺の言葉に頬を染めながらこくこくと頷いている。くぅ、可愛い奴め……。
「な、なるほど……だからアンタと全然関係なさそうなのに〈血のつながって無い妹〉なわけなのね……」
にわかには信じがたいことだろうが、自分自身の血のこと、昨晩の出来事などもあって、ある程度は紅にはこのことを受け入れられる素地は出来ていたようだ。戸惑いながらも、この件を事実として受け入れてくれたようだ。
「それで、あのリリスは……」
俺は拳をぐっ、と握りしめて言う。
「俺の妹、洋子が……その遺体が奪われて、他の何物かの魂をその身体に入れられて蘇生させられた……奴なんだ」
「……っ!?」
紅がショックを受けたようにその腰を浮かしかける。
「そんなことって……本当にありうるの?」
「ザンネンだけど……ホントよ。なにしろ元々の自分の身体のコトだもん。間違えるワケないわ」
夜見子が言う。
「そ、それで、夜見子ちゃんがそうなったのはなんとか結社のせいだとか言ってたけど、リリスの方は誰がそうしたとか判ってるの?」
「そうだな……当事者は違うって言ってるけどな?」
そう言って俺は明音の方を見やる。
「いやだから信じてくれへんやろかーマジでー」
明音が俺の視線に慌てて言う。
「って、当事者ぁ?」
また紅が素っ頓狂とさえ言いたい声をあげる。
「ぎっくぅー!」
「……もうトボけても無駄ですよ、マイスター」
慌てる明音にカメちゃんがしれっと言う。
「ま、まいすたあ?」
「……はい。私たち……私はもう脱退していますが、このマイスター……ソロール・ウンディーネこと沢村明音がマイスターを務める魔術結社……といいましても、詳細は脱退した今でも沈黙を守らざるを得ない部分なんですが、〈上位結社〉の人材育成のためのスクール・ロッジ日本支部である〈高天原ロッジ〉の団員です」
すらすらと説明するカメちゃん。
「もちろん、スクール・ロッジであるウチらに霊的合一やなんて高度が技法が使える奴なんてまずおらへんよってー、夜見ちゃんをそうしたんは、上位結社のそのまた内陣の達人さんらやけどなー」
「そう、そんなコトが出来る連中なんてのは世界中探してもまずそうそういないワケだ」
「つまり、そう疑われるっつーンはしょーがないっつーコトよネ?」
「どちらにせよ、私たちが参入する前のことです。実際に関わっていない以上、そうではないと断言することも出来ないと思います」
「ちょ、三千代ー! おまえまでそないなコト言いよるんかー?」
流石に慌てる明音。
「……この前のことで結社を盲信できなくなっただけです。明確にそうだと考えているわけじゃありません」
意外ときっぱり言い切るなカメちゃん。
「そうだな。明音がそうだと信じていることは認めてもいいだろうが、それが事実かどうかはまた別のことだ。もちろん、安易にそうだと思い込むことも危険だ。判らないことは判らないと認めて、必要な事実がわかるまで棚上げにしておくのが正しい態度だろう」
「ううー」
「うううー」
明音が頭をかかえて呻き、紅の方も話についてくるのがだんだん大変になってきたようにこれまた呻く。
紅は、しばらくうんうんと唸っていたが、やがて頭をかるく振って気を取り直したように言う。
「……うん、どうにか状況は整理したわ。ともかく、要はそういう繋がりになってたワケね」
「まあそういうことだ。いままで詳しく話せなかった事情は察してくれると助かる」
「……そうね。そもそも正直に話してくれたとこで、昨日までの私じゃ信じるための下地も出来てなかったでしょうし」
「ああ」
「だから、そのことはしょうがないし気にしません。でも!」
急に強い調子になる紅。どうしたんだ?
「どうして、私だけ〈紅〉なんて苗字呼びなのかしら?」
「……は?」
「……私も〈カメちゃん〉て苗字由来ですけど……」
「でも、三千代さんの呼ばれ方ってなんかすごく親しそうじゃない」
カメちゃんの反論に、ぷくーと頬をふくらませる紅。どうしていきなりこんなコトに?
「だいたい!」
立ち上がるや、俺にずびし、と指をつきつける紅。
「お、おう」
「さっき私が一世一代の告白したってのにどーしてそんな平然としてるのよ貴方!」
「こ、告白ぅ!?」
「し、したん……ですか?」
「おおー、ひゅーひゅーやるやんなーみさちゃんなー」
「ンなこと言われたってな……」
んなロ、俺がどんだけ苦労して平静を装ってると思ってんだどちくしょーめ。それにだな。
「ったって、そもそも、一年ときからお前どんだけ俺に突っかかって来てたと思ってんだ」
それはそれはもうとても自分に好意を抱いてくれてるとか思えるよーなレベルじゃ無かったでしたよええそれはもう。
「……え、そんなにひどかったの私?」
流石に若干勢いが削がれる紅。俺はそれに応えて大きく頷く。
「そりゃ冬あたりから多少友好的にはなってきてたし、俺だって反目してたクラスメイトと関係修復できるならそれに越したことは無いとも思ってたが、いきなり、その……好きとか言われてはいそうですかと言えるような関係じゃなかっただろ俺たち」
「そ……そう、なのかしら」
かなりしょぼんとしながら言葉もしどろもどろになってくる紅。そんな態度されるとだんだんこっちも罪悪感感じて来るな……。
「まあ……俺もあんまり女の子の気持ちとかよく判る方じゃないんで、気付いてやれなかった部分もあるんだろうけどな……」
「あー、ううん、思い返してみたら私もたしかに相当アレだったかも」
紅がさっきまでの勢いが嘘のようにしぼんでいた。
「まあ、そういうことで、正直まだよく判らないとしか言えないんだ。悪いな。それでも、お前のこと嫌ってるとかそういうことだけは絶対に無い。これだけは言えるから。今はこれで勘弁してくれないか、紅」
「ううん、私もそんな性急に答えが欲しかったわけじゃないから」
と、ある程度落ちついてくれたようだ。
「でも!」
む?
「その……やっぱり、この中で私だけ苗字だけで〈紅〉なんて呼ばれるのはやっぱり納得いかないわよ」
「そう言われてもだな……」
「答えをくれなんて言わないけど、せめて、もう少し呼び方を考えてくれたってバチは当たらないと思わない?」
「せやなーお兄さん、コクハクまでしてくれた女の子を無碍に扱うなんざー男の風上にも置けへんでー?」
「むー……」
「っ……」
ニヤつきながら混ぜっ返す明音に、複雑そうな顔で僅かな声を上げるだけの夜見子とカメちゃん。
「それじゃ、どう呼べばいいんだ?」
「〈光紗〉でいいじゃない」
そうさらっとおっしゃって下さる紅さん。いや年下ならともかく、同級生のクラスメイトの女の子をいきなり名前呼び捨てとか言われてもなー。第一学校でいきなり俺の呼び方が〈紅〉から〈光紗〉に変わってたら色々対外的にシャレにならんコトになりそーだし。
クラスどころか校内でお前のファンの男がどんだけいると思ってんだ紅よ。とはいえ、呼び方考えてほしいっていうのもまあ判らないでもない。なんだかんだで好きって言ってくれた女の子に悪いのは確かだ。
「……わかった、少し考えさせてくれ」
俺は、いままで使ったことのない脳の部位をフル稼働させて考え始めるのだった。
「ハイ時間切れー。それじゃこれから私のことは光紗って呼ぶコト。決定ね」
「ちょ! おま、早過ぎだろ! 考え始めたと思ったら時間切れってどんだけだっつーの!」
「……だって、光紗って呼んでほしいんだもん」
ずがん、と俺の頭を横からブン殴られたかのような衝撃。
少しもじもじしながら上目づかいでそう言った紅はそれほどまでに可愛かったのだ。
……っ、今、俺、紅のこと〈可愛い〉っていったか?
「……わ、わかった。み……みみみ、みさ」
どうにか恥ずかしさを越えて紅……光紗の名を呼んだとき、光紗の顔がぱあっ、と耀いたのだった。
「うん、よろしい! それじゃちゃんと学校でもそう呼んでよね?」
「……努力する」
「ちょぉーっと待てってーのョ!」
……さっきから横でぐぬぬ……となんか色々とこらえていたらしい夜見子がついに限界に達したようですよ。
YOMIKO
「てゆーか! どーしてこーゆー話になってンのョ!」
あたしは流石にツッコミを入れずにはいられなかった。いくらなんでもそろそろ堪忍袋の緒も切れよーってもんでしょ。本来あたしらなんの話をしに集まったってのョ、ったくもー。
「あ、あははははー」
「……いや悪い。場の流れとゆーかだな……」
「ったく、あたしだってこれでもツッコむのそーとー我慢したンだかんネ?」
「……ゴモットモです」
「ほら、とっとと話元に戻すわョ」
ぴと。
「……そうですね、って夜見子さんこそなにやってるんですか!?」
「なにってお兄ちゃんにくっついてンのョ」
「よ、よよ夜見子ちゃん!? つーかあんたも! なすがままにくっつかれてるんじゃないわよ!」
「あ、いや、だってなあ」
そう言われたお兄ちゃんが椅子に腰かけた自分の左腕にひざ立ちになって抱きついてるあたしを見る。あたしは、さらに強く彼の腕をぎゅっと抱きしめる。渡すもんか、と。
「でも、そうしがみつかれてると落ちついて話せないからな、な?」
お兄ちゃんはそう言ってあたしの頭を撫でてくれた。いつものお兄ちゃんの慈しんでくれるような丁寧でやわらかな撫で方。ふにゃあ……。
ふだんよりたっぷり五割増しくらいに撫でてくれていい感じに頭の中がとろけてきたあたりで、お兄ちゃんはあたしに抱きしめられた腕を抜き、自分も椅子から降りて、床にへにょっとぺたんこ座りになったあたしの横の床に座る。あああうう……。
「うう……このシスコンめぇ……やっと私のターンが回ってきたと思ったのにぃー……」
紅さんが口とがらせてなんか言ってるけど頭がとろけててちゃんと入ってこない。だが。
「……へにょへにょ夜見ちゃん可愛いでーはぁはぁ」
などとゆーヘンタイじみたセリフに冷水ぶっかけられたみたいに意識が覚醒する。
「……つーかさ……あんたそれガチで言ってたの……?」
「んーもちろんやでーあー夜見ちゃん可愛ええーぺろぺろしたいやんなー」
でへへと緩みまくった顔で明音がヘンタイ発言をダダ漏れにする。うーん、コイツとの付き合い方考え直した方がいいような気がしてきたわ……。
まァそれはともかく。
つーわけで本題に戻るわョ本題に。
「えっと……なんの話までしたんだっけ?」
「そうですね……リリスのこと、夜見子さんのこと、私のいた〈結社〉のこと、といったところでしょうか?」
「そーネ、あとなんか話すべきことってある?」
「私としてはあと知りたいことっていったらみんなの個人的関係くらいなものだけど……」
「そんな大層な関係とかはないんじゃないか? ややこしいのは夜見子と俺の関係くらいで、カメちゃんは幼なじみみたいなもので、明音は俺から見れば夜見子の友達ってくらいで」
「うーん、そういうコトでもないんだケドなー……まあいいわ。それじゃあとは私のことくらいかしら?」
紅さんが居住まいを直して言う。
「み……光紗、そんな無理に話す必要はないからな?」
とお兄ちゃんが気遣うように言葉をかける。
「うん、でもみんなも話してくれたし、私としても、これからのこと考えれば知っておいてもらいたいし」
名前呼んでもらって嬉しそうな顔しながら紅さんは言った。
「そうか、それじゃ頼む」
そろそろ西日の差し始めた室内でお兄ちゃんがそう言った次の刹那。
がらり、と窓があく。
白い絹糸のようなさらさらの髪。
漂白されたような白い、真っ白な肌。
血で紅をさしたような唇。
白ウサギのような赤い瞳。
「はぁい、兄さん」
あっけらかんとした作り物めいた笑顔で。
時間の止まったようなその瞬間に。
リリスが。あたし、夜見子の半分の元の身体を持った女が。
窓枠に足を組んで腰かけていた。
「……っ!」
「リリス!」
「洋子!?」
突然のリリスの出現に室内が騒然とする。
「昨日の今日たーまたずいぶんとせっかちなコトやなーリリス」
「うふふ、さすがに思いもしなかったでしょ?」
「そうだな、認めるよ。油断した」
リリスは、組んだ足の膝の上に立て肘して頬を右手で支えている。余裕しゃくしゃく、って感じだ。ムカつくァねコンチクショ。
「んしょ」
そう言いながら窓枠から立ち上がり、ドアの方へと移動する。逃げ道を塞ぐつもりかしら?
「さあ、今なら全員まとめてお掃除完了できるわよ。あ、兄さんが私のモノになってくれるっていうなら、見逃しで差し上げてもいいですよ?」
そう白い頬に少し紅をさして言いやがる。
「ナニ言ってやがンのョこのテメー!」
「……昨晩から思ってましたけど、貴女ちょっと言葉づかいが乱暴すぎません、黄泉姫?」
リリスが眉をひそめる。余計なお世話ョ。
「まあいいでしょ、どうせその乱暴な言葉を聞くのもこれっきり……」
そう言いながら((短剣|ダガー))を取りだし、左手に持って宙にさかさまの星……お兄ちゃんに教わった((逆五芒星|ブラックスター))ってやつを描く。それとともに、室内ががたがたと振動をはじめ……。
「うるせーぞお前ら!」
おもむろにリリスの背後のドアが開き、大家さんがリリスの脳天にゲンコを落とす。
「きゃん!?」
それとともに、振動もぴたりと止まる。
「な、なにをなさるんです……の……」
涙目で背後を振り仰いだリリスの顔がぴしり、と凍りつく。
大家さんの顔ときたらそれはもうおっかないコトこの上なく……。
「……なあ、たしかあんまりドタバタはすんなよって言ったよなあ?」
「……YES、確かに伺いました」
お兄ちゃんが如何なる反論も諦めた顔と口調で右手を挙げてそう答えた。
「そういう訳だ。騒ぐんなら外でやれ。わかったな」
「な、なななんで私がそんなことを聞かなくちゃ」
ビビりまくりながらもどうにか反論を試みるリリス。
「外でやれ。もう三度目は言わん。わかったな?」
「ひぃぅん……わかりました……」
ガチ涙目になってリリスは折れた。態度だけでなくいろいろ折られたみたいであった。
そんなわけで、敵味方呉越同舟状態で近所の公園へと向かうあたしたち。なにこのシュールすぎる状況。
「な……なんですのあの方……」
「俺の遠縁の親戚で家主で雇い主だ。〈お前〉の葬式のときだって来てくれたんだぞ。その頃は中学生くらいだったそうだが。まァお前じゃ逆立ちしても歯もたたんだろうな」
「は、はぁ……」
「だから、うちに直接乗り込んでくるのは避けた方が賢明だな。次は容赦してくんねーぞあの人」
「……ウチからもそうおすすめしとくでー」
明音がぶるっ、と震えて顔に縦線のっけて言う。
「……そします……」
なにこの間の抜けた会話。でもそっか……あのひとあたし(の半分、洋子側)のお葬式来てくれてたんだ。こんどお礼言っといた方がいいのかな?
で、この辺である程度広い空間っつーたらここになンのかナ、冬にあたしとカメ子がヤり合った公園だった。そこにたどり着くなり、リリスがたたた、とあたしらから距離を取り、腕を組んで言い放つ。
「……ふっ、今夜はこの前のようには参りませんわ、黄泉姫、貴女を始末して私こそ真の黄泉姫で兄さんの妹だと証明されるときです」
「……はァ」
「な、なんですその気の抜けた返事は!」
「いや、だってねェ」
今さら過ぎると言いますか……。仕切り直しにしたって無理があるでしょーが。
「つーかな、あの人が俺らを外に追い出したってことは、自分らでなんとかしろってことで、つまり俺たちでどーにか出来るって思われてるってコトでもあるんだよ」
「……なんですかそれ、私を甘くみてるんですか?」
お兄ちゃんの言葉にリリスがさすがにムッとして言う。
「いや、そんなつもりはない。少なくとも〈簡単にできる〉とは思わないし、第一……自分らで何とかできずに逃げ帰ったあとのあの人の方がよっぽど怖ぇっての」
そう言ってお兄ちゃんはため息のひとつ吐く。
「……つまり、死に物狂いででもなんとかしろ、ってコトやねー……おっかないやんなー」
明音が目の前のリリスより大家さんにマジモンの恐怖を感じつつガクブル状態でお兄ちゃんの言葉を捕捉した。どうやら、なんか知らんけど明音はお兄ちゃんについで大家さんのコトをよく知っているらしい。
「とゆーわけでだな……つまり俺らはお前に背水の陣で臨んでると思ってもらいたい」
「同じくです」
そう言いながらカメ子も髪を解く。頭にネコミミがはねたと思うや、ぴょんとノワが飛び出してくる。
「……ほぇ?」
リリスが間の抜けた声を出す。
「つまりやなー、油断すっと痛い目ェ見るのはあんたってことやー、リリスッ!」
明音が普段の間延び声を急に引き締め、リリスに向かって跳ぶ。
「……ッ!」
間一髪で逃れるリリスだが、白い髪が数本切られて宙を舞い、薄闇に溶ける。
「そもそも、ウチかてアンタとの腐れ縁はこんくらいにしときたいと思ってたトコや」
明音の……普段は柔らかい光をたたえた細いたれ目が、きっ、とつり上がっている。細い目に宿る鋭い光が、昨晩以上の本気であることを雄弁に物語っている。
その両手からは、氷の刃が冷たく光を放っていた。手刀の形にした両手の肘から手先までのそれぞれ約十数センチ先までを細長い半月型の氷の刃が覆っている。彼女の目と同じ冷たい輝きを放ちながら。
「ふふ、貴女のそんな目、はじめて見ましたわ。楽しませてもらえそうですね」
リリスがお兄ちゃんの部屋でいちど取りだした短剣をもういちど取りだし直し、刃先に赤い舌を這わせる。鋼の表面がぬらりと輝きを増す。すでに辺りは暗くなって点灯をはじめた街灯の光を反射してるってだけじゃない。刃それ自体が発光している。
その短剣の先端で、さっきのように宙に逆五芒星を描く。切っ先が宙に光の軌跡を描き、その光がそのまま空間に刻み込まれたように光の図形を描く。図形を描き切ると、その光の逆五芒星を短剣の切っ先で引っかけるように弄ぶ。そして、刃先でくるくると回転させると、おもむろにしゃっ、しゃっと数度短剣を振るう。
「……ふっ、ふっ、ふっ!」
明音がリリスが短剣を振るった数だけ両腕を振る。かしゃん、かしゃん、かしゃん、と同じ数だけの音が二人の間で鳴る。
明音の腕に生成された氷の刃が飛び、リリスの五芒星と喰いあって砕けたのだ。
一瞬の攻防の直後には、すでに明音の両腕には再び氷の刃、リリスの短剣の先にはやはり五芒星が生み出され、次の攻防を待っている。二人は、じりじりと間合いを計りながら自分に有利な位置を模索している。あたしたちも、ただ眺めているだけじゃなく、カメ子はノワをいつでも放てるように、あたしも体内に周囲の気を僅かずつながら集め、炎のエレメントに変換してゆく。お兄ちゃんも油断なく身構えている。だが、そんな中たった一人だけ普段と変わらない様子でいたのが……。
「ふーん、そうか、貴女がリリスで洋子ちゃんなわけね。ちゃんと私が私のときははじめまして、かな?」
この状況にそぐわないのんびりした様子で彼女は言った。
「紅さん?」
「なんですの?」
「折角だから、さっき中断された話の続きでもしようかなって思うのよねー」
紅さんがそう言いながら前に出る。
「くれ……光紗?」
「紅さん?」
「それと、貴女にはお礼ってやつをしとかないとね……」
紅さんは、何気ない様子で周囲を見渡すと、ジャングルジムの方へとのんびりした様子で歩いてゆき、組み合わさった鉄棒の縦になっているトコの、肩よりやや下あたりを握る。
「私のコトを、こんな風にしてくれちゃったお礼を……ね」
ごっ……めき。
そんな音を立て、ジャングルジムがまるごと土台から引き抜かれた。
もちろん、土台はコンクリートで固めてあるから、全体はひしゃげ、土台の部分もコンクリートの塊が大きくくっついたままで。それを、紅さんは、まるで運動会の一等賞の旗でも持ち上げるかのようにやってのけた。見た感じ、大して力を入れたようにさえ見えない。眉ひとつ動かさずに。
「な……っ」
声もなく立ちすくむリリス。
「ほら」
そう、さながら小さい子にゴムまりでも放るように、彼女は手にしたジャングルジムを投げた。
「……っ、きゃああっ」
慌てて避けたリリスが一瞬前までいた場所に、ジャングルジムはずん、と重たい音を立てて落ちた。ごろ、ごろ、と土煙と砂利をはね上げてすこし転がり、止まる。
「なんか、私、夜になると……日が落ちると、無駄に絶好調になっちゃうのね」
そう暢気とさえ言えそうな声で言う紅さんの瞳は、血のような、紅玉のような赤に染まり、耀いていた。
「吸血鬼の血……ってやつか? それにしたってコレは……」
お兄ちゃんが呆れたように言う。
ホントにトンデモないわよネ。どんだけの怪力だっつーのョ。ホラー映画の吸血鬼だって割と怪力だったりとかァすっけど、ここまでのトンデモパワーはそうそう無いでしょ。
「ま、どういう力が目覚めるのかとか、どの程度の力が目覚めるのかとかは個人個人バラバラらしいわよ私んとこの家系って。ほとんどは目覚めさえしないけど、一旦目覚めたら、幅はせまいけど、単能力なら純血にも負けないくらいになるコトが多いんだって……さ!」
最後の掛け声とともに、紅さんは転がっていたジャングルジムを蹴っ飛ばした。
ただでさえひしゃげていたジャングルジムが、コンクリート片をまき散らしながら、さらに変形してリリスを襲う。
「きゃああっ!」
リリスが頭をかかえてしゃがみ込む。その頭上を鉄塊に近くなったジャングルジムが飛んでゆく。ごろん、ごろ、ごろ、と地面に落ちて、土をえぐりながら転がり、止まる。ウン、これァ怖い。ハタから見てるだけでも怖い。アレが自分に向かってくるとか考えたりするともっと怖い。
「でも、こんな怪力とか、女の子としちゃーあんまり嬉しい能力とは言えないわよ……ね?」
そう言って紅さんは苦笑する。
「で、どーしたら一件落着になるのかしらね? リリスちゃんがごめんなさいして私らにもう手を出さないって約束してくれればいいのかしら?」
紅さんがそう言いながら今度はシーソーの傍に行き、取っ手に手をかけるや、べきっ、という音とともに長いシーソーの板が高々と持ちあがる。
「……ひっ」
リリスが身をすくめる。
「うーん、これじゃまるで、ちっちゃい子をいじめてるみたいじゃないの」
紅さんはそう言いつつも手を緩める気配はなく、シーソーの板を軽々と振りまわす。その様子はさながらヘリコプターのローターを思わせる。
「止めない……の?」
あたしはお兄ちゃんの方をちらっと見て問いかける。昨晩のコト考えると、〈洋子〉の身体を傷つけられることを止めたがるんじゃないかと思ったからだ。だけど。
「いや、これで追いつめられるのならとことんやるべきだ。光紗は正しい」
そう、もう逆らう気力なんて一片も残っていなさそうなリリスを全く油断なく見据えながらお兄ちゃんは言った。あたしは、その真剣な顔とリリスをきょろきょろと見比べる。いったいなにがお兄ちゃんをここまで警戒させるんだろう。
見ると、明音も両手の刃をしまうどころかむしろ伸ばして身構えてるし、カメ子でさえ、ノワを肩にのっけながら油断してる様子は一切ない。あたしは、あわててリリスを見る。きっとあたしには見えてない、気付けてないなにかがあれにはあるんだ。気付かなきゃいけない。気付けなきゃいけない。この先お兄ちゃんと共に歩んでいくつもりなら。
……おかしい。確かにおかしかった。あそこにいるのは、昨日のリリスじゃない。もしかしたら、お兄ちゃんや明音に見えているものとは違うかもしれない。でも、お兄ちゃんたちが意識させてくれなければきっと気付けなかった。
「あれ、リリスじゃないァね」
あたしは、注意を目の前のリリスから、その周囲へと転じさせて言った。
「……やっぱりそうか?」
「……うん。パッと見そっくりだけど、アレ違うわ」
「夜見子がそう言ってくれるなら間違いないだろう。だが……」
それなら本物はドコにいるのか、そもそもアレは何なのか。
「……まずアレを潰さないことには始まらんか……?」
アレ。洋子の姿をしたリリスの……たぶん偽物。それを、〈潰す〉って彼はあっさりと言った。あたしの背筋を冷たいものが走る。
「光紗にさせるのはさすがに酷だろうな。明音!」
お兄ちゃんは明音に一声飛ばす。
「ほいきたお兄さん」
明音もまた、そう気軽に応え、両手の氷刃をわずかな時間差を置いて二本とも投擲する。
「え?」
そんな魔の抜けたような声をあげ、リリスの首に深ぶかと氷刃が二本とも突き刺さる。高く噴き上がる鮮血……という光景をあたしは想像し、顔を覆いそうになる。が。
ぐらり、と半ば切断されたリリスの首が肩から転げ落ち、皮一枚でぶら下がる凄惨な光景。だが、血は一滴も流れない。切断面から見えるのは、赤黒い……空間だった。
目の前で起きた光景に呆然としているのは紅さんも同じだ。振りかざしたシーソーの板を頭上に差し上げたままリリス(偽物)を見つめている。
「光紗! 左ななめ上に投げろ!」
お兄ちゃんが鋭い声で具体的な指示を飛ばす。ハッとした紅さんがなかば喪神の状態のままその指示に従い、シーソーを投げる。
「きゃん」
そんな妙に可愛らしい声がしたかと思うと、シーソーの板はそのまま声の位置の空中にとどまり、その端には……リリスが立っていた。今度こそ、本物の。
「……兄さんたら、私の姿をした傀儡を平気で壊しちゃうなんて酷いです」
そう言って、リリス……本物の、は頬をふくらませた。
地面では、リリスの姿をした傀儡がくたくた……と中身を抜かれた風船ようにくずれ、そのまま原型もとどめず塵と化した。
「よくおわかりになりましたのね」
そう言いながら、リリスがシーソーに乗ったまますうっ、と地面に降りて来る。
「すり替わったのは公園に着いたときか? 明音に切られた髪が空中で消滅してたぜ」
「ああ、なるほど……それは不注意でしたわ」
あ……そうだったのか、と思い当たる。髪数本のこと、闇にまぎれて見えなくなってたと気にも留めて無かったのに。
「あとは夜見子に確認してもらったからな。間違える心配は全く無かった」
ひぃあう……信頼してもらってるなァ嬉しいけど、それであそこまでヤっちゃうのネ。
あたしはちょっと背中を冷や汗が一筋流れるのを感じる。
「それに、オーラがぜんぜん違いましたもの」
カメ子がさらりと言う。
「第一やな、お前があんな可愛らしくあられもない悲鳴上げるよなタマかっつーの」
と明音。こん中ではリリスとの関係はいちばん長いだけによく性格を掴んでるってコトかしらネ。
つまり、みんなそれぞれ自分なりの方法でリリスが偽物だってちゃんと見抜いてたワケだ。みんなスゴいな……。
「ふぇ……?」
紅さんだけは困ったようにあたしらとリリスを交互に見てるけどまァしゃあない。彼女はマジ昨日まで普通の女の子だったんだもん、気付かなくたって当たり前。あたしの方こそお兄ちゃんに示唆されるまで気付かなかったんだから反省しないと。
「ンしょ」
と声をあげて地上三十センチくらいまできたシーソーからぴょんと降りるリリス。
「さてと、仕切り直し……ここから本番ってやつか?」
お兄ちゃんの声が冷たく響く。もし自分に向けられたら心までえぐられそうな鋭い視線。
「そうですわね」
その視線を平然と受け流すリリス。左手で短剣を弄んでいる。
「さあ、参りますわ」
そう言ってさっきの偽物のように宙に逆五芒星を描き、短剣の先で投擲する。が、さっきと違うのは、ひとつだけだった五芒星が投げると同時に無数……とまではいかないが多分数十個にまで分裂し、四方八方からあたしたちを襲ったことだ。
「……っ!」
「きゃあっ!」
「ふゃあん!」
あたし、紅さん、カメ子は思わず声をあげてしまうが、お兄ちゃんはポケットから昨晩使った〈サマエル〉のタリスマンを取り出し、あたしたちを庇うように前に立つ。明音も両手に氷のナイフを生成し、襲い来る五芒星を迎撃する。
明音の落としきれなかった分は、お兄ちゃんのタリスマンから発せられる卵の殻のような光のドームに弾かれるか、ノワが落としてくれた。
「悪いが、俺のタリスマンはこれでパワー切れだ」
そう言ってお兄ちゃんはタリスマンをポケットにしまう。
「ううん、ありがとうお兄ちゃん」
「ふふっ、さすがにこれくらいは凌いでくれないとつまりませんわね」
リリスはそう言うとぱっと後ろに跳び退り、今度はひときわ大きな逆五芒星を描く。
「シリウスよ……大地の霊よ……」
そう呪句を振動させるリリス。その呪句がしだいに人の言葉としての形を失っていき、獣の唸り声のような、人の声とさえ言えない音になってゆく。あとでお兄ちゃんから聞いたところによると、ああいう人の声では発音できない……し難い獣の唸りのような呪文を〈ゴーティ〉といって、最も効力の高い呪文の形なんだそうだ。
やがて、それに重なるようにぐるる……となにかが唸るような音が聞こえたかと思うや、逆五芒星の中心から、突然黒い犬の頭部が飛び出してきた。それも昨日のヤツよりふたまわり以上は大きい。がうっ、と大きく吠える。
「さあ、くろちゃん、あなたの本気を見せておあげなさい」
リリスが短剣を指揮するように操ると、逆五芒星が大きく拡大し、地面と平行になって下に降りてゆく。その五芒星が地面に達し、弾けて消えたとき、そこには巨大な……リリスの肩くらいの高さまであるような巨大な黒犬獣が立っていた。
「今夜は一頭かいな」
明音が軽口をたたくが、その口調は決して軽くない。あたしにさえ判る。あいつは昨晩、教室内で出した二頭を合わせたよりよっぽど手ごわいって。
「さすがに昨日は屋内でしたからね、あんまり大きいのは出せませんでしたし」
ふふ、と笑ってリリスは言った。
「……ひ」
紅さんが眼前に現れた黒犬獣を見て震えている。さっきまでの勢いがウソのように両腕で肩を抱き、膝をがくがく言わせている。ホント、言っとくけど彼女がこんなんなってたからって無理はないんだかンね?
あたしだって初めてだったら同じような状態になってると思うもん。冬にお兄ちゃん助けたときはあれ必死だったから。自分からそこへ行ったワケでもあるし。
「大丈夫だ光紗、どうということはないから」
そう言いながらお兄ちゃんが紅さんの前に彼女を庇うように立つ。彼の髪が微風に揺れて右側頭部の傷痕が覗く。それを見るたびあたしの胸がうずく。決して癒えることがないうずき。
あたしは、覚悟を決め直してリリスに向き直った。
「私の欲しいのは兄さんと黄泉姫の命だけですからね、他の方々は立ち去られても追ったりしませんよ?」
そんなコト言いやがるリリス。だが。
「さっきも言うたやろ、あんたとの腐れ縁とっとと断ち切りたいってな」
「お兄さまは渡しませんから。私にとっても大切な方ですもの」
明音もカメ子も一歩も引こうとはしない。ちょっと見直したァよアンタら。
「私……だって」
後ろからの声。
「私……だって、決めたんだから。コイツにずっとついてくって、追っかけてやるって!」
自分を鼓舞するように声を高くする紅さん。
「光紗……」
「だから、私だって、逃げるもんですか!」
振り向くと、まだ震えこそ止まっていないものの、その名の通り紅に瞳を燃やして、真っ直ぐに彼女はリリスと黒犬獣を睨み据えていた。
「まァ……あたしはどーせ最初からテメーとァ決着付けなきゃいけないワケだしね」
こんなン見せられちゃあたしだって肚も据わろうってモンよ。ウン。
そうしてみんながリリスに向かって一歩を詰めようとしたそのとき。
「く、罠か?」
明音が叫ぶ。
「きゃああっ!?」
ついでカメ子が悲鳴をあげる。
「……ふ、引っかかってくれましたわね。しかも、ソロール・ウンディーネがかかってくれるとは僥倖ですわ」
見ると、明音とカメ子、それにノワの身体に、なにか蔦のような……形をした黒い影が絡みついている。黒いノワの身体に巻き付いてるのが判るのは、そこだけノワの身体の綺麗なつやつやした光沢が帯状に失われてるからだ。
「ち……不覚やった。ちょいとばかり解除には手間取りそうやな」
「ううー……きついです……」
「にゃー!」
ふたりと一匹がリリスの罠から抜け出そうと苦闘している中、リリスがあたしらの方へと向き直る。
「黄泉姫……私の、洋子の魂を貴女から奪えば、私は……」
ん? ナニ言ってやがンのかしらネこいつァ。
「今さらあたしから洋子の魂奪えるわきゃねーっつーのョ? ナニふざけたコト言ってンの」
「おだまりなさい、黄泉姫。本来の洋子の身体である私にこそ洋子の魂は入るべきですわ」
ンなコト言われたたってねェ。
「洋子はあたしにお兄ちゃんの記憶をくれた。夜見子はあたしにもういちどお兄ちゃんと出会える身体をくれたわ。洋子も夜見子もどっちもあたしョ。ふたりでひとり。今ここにいるこのあたしが、ふたりの心がひとつになっていままで生きて来たあたしが根本夜見子なのョ」
そう言ってあたしは両手を交差させて手のひらをリリスに向ける。
あたしの心はふたりでひとつ。もうどうやったって離れられない、離れない。夜見子も、洋子も、ううん、どっちがどっちかなんてもう考えたって判らない。今さら無理やり洋子の魂を分離されたとしたって、あたしがアンタの魂となんか一緒になってやるワケねーっつーのョ。そして、ふたりの心をここまで一つにしてくれたたったひとつの大切なモノ……。
「お兄ちゃん」
「夜見子?」
「アイツになんて、渡さないかんネ」
「ああ、もちろんだ。俺も、お前を傷つけさせやしないから」
……!
その言葉を聞いた途端。心が。魂が。大きく揺さぶられる。なにかがあたしの中で膨れ上がって来る。もう何があったって怖いものなんてなんにもない。あたしのそばにお兄ちゃんがいてくれる。それだけであたしは無敵になれる。
あたしはリリスに向かって一歩を踏み出す。とともに、あたしの身体から、全身から熱が、炎が。爆発的に発せられる。でも、暴走じゃない。炎の先まであたしの神経が通ってるかのように自在だ。まるで何も身につけていないかのように身体が軽く動かせる。
「な……にが?」
リリスがたじろいで半歩退く。
「だりゃー、シスターグレネード!」
あたしはダッシュしてリリスにひっさつパンチをお見舞いする。リアルに炎のパワーをまとったパンチだァよ。とっくり味わいやがれっつーの!
「……っ、くろちゃん!」
リリスは咄嗟に黒犬獣を盾にするが、あたしのパンチの直撃に黒犬獣の頭がばァんとはじける。あたしの腕力自体はフツーの女のコのものだけど、インパクトの瞬間に炎のエレメントを爆発的に放出してるのだ。ちょっとしたバクダン並のパワーはあるんだかンねコレ。
……ちなみに小学校の頃クラスの男どもにブチくらわしたンは普通のパンチだから念のため。
頭部に衝撃を喰らった黒犬獣がぐらり、とよろめく。だが、巨体なだけにそこまでだった。
「ち……流石にガンジョーだァね」
「くろちゃん、貴方は私の分身相手にいい気になってくださったあの吸血女をいたぶっておあげなさい、私は黄泉姫を相手します」
それを聞いた黒犬獣はノータイムで紅さんの方へと跳ぶ。間にあったすべり台がほとんど粉砕されてけし飛ぶ。なんてパワーョ……。
勢いにまかせて紅さんを轢き潰そうとした黒犬獣だったが、お兄ちゃんが間一髪で引き倒して難を逃れる。黒犬獣はその先の立ち木を一本また粉砕して止まる。そうしてゆっくりと向き直り、今度は逃さないとばかりじっくりと狙いを定めているのがわかる。
「あ……あぁ」
たとえどんなに怖いと思っていても決して逃げようとはせず、震える膝に力を込めようとする紅さんだけれど、あの恐ろしい巨大な……鼻づらが立ったあたしの顔よりさらに上……つまり、紅さんの顔とさえ同じくらいの高さにあるほど巨大な黒犬獣、両目を地獄のような炎の色に揺らめかせ、口からは硫黄の臭いを発して炎の舌を出した怪物に迫られて身はすくみ、動きをとることが出来ないでいた。
さっき紅さんが引っこ抜いたり蹴飛ばしたりしたあのジャングルジムの残骸も、行く手を遮ったとみるや前肢でめきっ、と叩き潰す。
「怯むな、光紗! 奴よりお前の方がずっと強い!」
お兄ちゃんが引き倒されたまま座り込んだ紅さんの前に彼女を庇うように立ち、叫ぶ。
黒犬獣がお兄ちゃんの目の前に迫る。
「この……! はやくお兄ちゃんのトコへ行かないと……」
「私にだって意地ってものがあるんです、そう簡単には参りませんわ」
あたしの前にリリスが立ちはだかり、お兄ちゃんを助けにいくことを邪魔する。
「紅さん!」
いまお兄ちゃんを助けられるのは彼女しかいない。あたしは、いまだ立ち上がることのできない彼女に呼び掛ける。
「奴は、黒犬獣は伝承によれば直線しか走れない。だから奴が走り出したら思い切り横に跳ぶんだ」
お兄ちゃんが紅さんにそう声をかけて腕をとる。
「う、うん……」
彼女は膝を震わせながら、どうにか足に力を込めようとする。
「今だ!」
お兄ちゃんがそう合図して紅さんと跳ぶのと、黒犬獣がお兄ちゃんたちに襲いかかるのはほぼ同時だった。
間一髪。轟然と黒い暴風のように黒犬獣はお兄ちゃんたちが一瞬前までいた空間を襲い、勢いのまま今度はブランコに激突して鉄柱を針金みたいにあっさりとひしゃげさせる。
多分、お兄ちゃんは奴が足のバネをたわめて襲いかかる瞬間を見定めてるんだろうけど、奴のスピードが速すぎて、タイミング合わせるのはすごくシビアになってる。紅さんを連れてとなると何度も成功させられるもんじゃない。
はやく、あたしが行くか明音たちが罠から抜けるか……紅さん自身が立ち直るかしないといつかは……。
「兄さんの方ばかり気にしてるヒマはありませんわよ」
リリスが五芒星を飛ばしてくる。
「ふん!」
あたしは、身にまとった炎をマントのように広げて防ぐが、なかなかヤツの方に踏み込めない。それに、いくら今までにないくらい炎を自在に操れるようになったったって、無尽蔵に力が出せるワケじゃない。
「紅さん! わすれないで、あのときの言葉! 今ァあんたがお兄ちゃんを護るしかなくて、もしあんたが出来なかったら、一生後悔しながら生きることになンのョ!」
せめて、言葉を、想いを、彼女に伝えることだけが今のあたしに出来ること。今は、目の前のリリスをどーにかすることに全力を尽くさないと。でも、あたしは見た。紅さんからリリスに視線を移す直前。たしかに彼女の瞳に怯えていたそれまでと違う光が宿るのを。
あたしは、彼女を信じてリリスだけを真っ直ぐに見据えた。
MISA
私の耳に夜見子ちゃんの言葉が届けられる。そして、彼女は自らの役目を見定めたようにリリスに正面から向き直る。
それは、つまり私が彼のことを任されたということ。恋敵である私に、彼女が誰よりも、何よりも大切にしている人のことを、この、たった今まで怯えてなにも出来なかったこの私を信じて、任せてくれたということ。私だって、その重さが判らないほどバカじゃない。
彼は、どんなに覚悟の据わっていて、優れた判断力と決断力で私を今まで護ってくれていたとはいえ、その身体は普通の人のものだ。私みたいに吸血鬼の血を引いていて、人間離れした力を持っていたりなんてことはない、普通の人だ。あの黒犬獣みたいな怪物に、その腕で太刀打ちできるわけは無い。
情けない、と思う。決意したのに。決めたのに。まだ覚悟が気持ちに追いついていなかったのだ。私は、両足に、今度こそゆるぎない気持ちと覚悟を込め直し、立ち上がる。
彼は言ってくれていた。お前の方が強いって。彼も信じてくれていた。こんなに情けない私のことを。だから、今から。たった今から私は情けなく無くならなくちゃいけない。
私は、今なお私を庇って黒犬獣の狙いをじりじりと伺っている彼を、逆に庇うように前に出る。
「光紗……!」
彼が私の顔を見る。そして、真剣なまなざしで頷いてくれる。
その隙をつくように、黒犬獣が大きく跳んだ。私と彼に向って、一直線に突進してくる。でも、もう恐れない。怖くないんじゃなく、怖がっていてなお、それを乗り越えるのだ。
「うゎあああああーッ!」
私は、大きく叫びながら、大きく顎を開いた黒犬獣の下顎を、真横から右の拳で振りぬくように打ち抜いた。
絶叫があがる。私でも、彼でもなく。遠くに、なにかが落ちる音がする。見るまでも無い。私の拳で吹っ飛んだ黒犬獣の下顎が、地面に叩きつけられたその音だ。
下顎を失った黒犬獣が、声にならない声を上げて苦悶にのたうち回る。私は、その頭がふたたび丁度いい高さまで振り下ろされたのを狙い、返す刀で左拳を奴の側頭部に叩きつける。
ぱきゃっ。そんな音がして、私の拳が奴の頭蓋をブチ抜いた。分厚い頭蓋を砕き、柔らかい脳髄に拳がずぶずぶと沈んでいく嫌な感触。だが、私はそんなことは意に介さず拳を振り抜いた。拳がそのまま頭蓋の反対側を裏側から粉砕し、その中身を地面と空中へとブチ撒ける。
黒犬獣は、全身を幾度か痙攣させた後、ずん、と地響きをたてて崩れ落ちた。そして、そのまま塵と化して風に吹き散らされていった。
「くろちゃん!?」
遠くでだれかの声がする。私は、なかば喪神しながらそれを聞いた。
YOMIKO
「っと、よそ見してンじゃねーわョ!」
黒犬獣が倒されたことに動揺するリリス。紅さんはあたしの信頼にこたえてくれた。だったらあたしだってカッコわるいトコは見せらンないわョね。あたしは、炎の蔦を両手から伸ばし、リリスの周囲をぐるぐると囲む。昨晩ヤツをブッ飛ばしてやったのと同じように。昨日ンときよりさらに速いスピードでさらに分厚く炎を巻いてやる。
「これであんたもちったァ懲りんのョ、ばァん!」
リリスに向けて、右手をピストル型にして撃つように、炎の繭を内向き爆破する。だが。
「ふ……二度も同じ手が……通用する……と?」
自らの周りに黒い光の卵のような防護壁を張り、リリスはあたしの爆発を防いでいた。
そこであたしはにやりと笑う。
「思ってねーわョ、ばーか」
あたしは、間髪いれず、左手でばァん、と左手から出した方の炎を爆破させる。
「な、きゃああああーッ!」
防護壁が砕け散り、今度こそ、リリスはあたしの炎の爆発に全身を叩きつけられる。
「今日は逃がさねーわョオラ!」
今のでさすがに霊的エネルギーはほとんど底をついたものの、リリスをとっ捕まえるくらいは出来る。あたしは、リリスの方へと駆け寄ろうとするが……。
「おぅわっとォ?」
ざくざくざく、とあたしの周囲に白木の杭が数本打ちこまれる。あたしは思わずたたらを踏んで立ち止まらざるを得なくなる。
「退きなさい、リリス。貴女はまだ完調ではないでしょう」
そんな言葉とともに、長いフード付きのローブをまとったやや小柄な人物が忽然と現れる。
「でも……」
「退きなさい。私の治癒とて短時間では限界があります」
「っ……」
「いいですね……うぁっ!?」
と言葉の途中で悲鳴を上げる謎の人物。それというのも……。
「やっぱりな。あれだけのダメージをくらったリリスが、一晩で自力だけで回復できるワケがないと思ってたぜ」
あたしたちの誰も意識しないうちに、お兄ちゃんがいつのまにかそいつの背後に回り込み、腕を後ろにねじり上げていたのだった。
「……私がいるのを、見抜いていた……?」
そいつは、ほとんど出て来るなり背後にお兄ちゃんが忍び寄っていたことに驚愕する。
「が……っ」
一切の遅滞も躊躇もなくお兄ちゃんがそいつを殴り倒す。地面に倒れ伏すそいつのフードがはがれ、長い髪がこぼれる。
殴られた頬を赤く腫らしてお兄ちゃんを見上げ、睨みつけるそいつの顔は、女だった。それも、明音やカメ子とそんなに変わらない感じ……つまり、せいぜい高校生になるかならないかくらいの。
栗色の長い髪を真っ直ぐ伸ばし、両おさげにしてる。きつい目でお兄ちゃんを見ているが、そうでなければ案外優しそうで、綺麗な顔立ちをしてるような気はする。
「なんだ、女か?」
そう言いつつお兄ちゃんはそいつを引き起こし、ためらうことなくもう一度殴り倒した。
さすがお兄ちゃん容赦ないァね。優しいだけの男には出来ないことを平然とやってのける。そこにしびれる憧れる! マジで!
「女の顔を殴るなんて……ずいぶん礼儀ってものを知らないみたいね」
上半身を起こし、そう言う女にお兄ちゃんは嘲るように言い放つ。
「はァ? 俺たちゃ今なにやってる? 命のやりとりしてンだぜ。お前らは俺たちを殺そうとしてンのに、俺にァお前が女だから殴るなだァ? 舐めてンじゃねェってんだボケが」
そう言って彼は底冷えがするようなせせら笑いを浮かべる。まァ道理ってやつョね。女がその正論に言葉を失い黙り込む。あたしも、そういう自分の弱みを盾にするよーなンは大嫌い。
「そもそも……手前ェが洋子の生命を弄んだ奴等の仲間だとしたら……手前ェこそ生きて帰れると思うんじゃねェぜ」
お兄ちゃんの身体から凄まじい殺気が放射される。直接向けられてるわけじゃないあたしでさえ怖くなるほどの。
「スピリトゥム・セラフィム・デ・サマエル・オルディネ……」
その女を見下ろしながら、お兄ちゃんがさっきパワー切れだと言ってポケットにしまったタリスマンを取り出し、聖句を振動させる。
「え……なんで……?」
リリスがタリスマンがいまだパワーを発揮していることに動揺する。
「なんだ、真に受けたか? 敵が目の前にいてわざわざ『パワー切れ』なんて正直に言うと思った方がマヌケなんだよ」
お兄ちゃんの手の中でタリスマンが真紅の輝きを放つ。
「……ふん!」
彼はさらに女を引き起こし、タリスマンを握りこんだ右こぶしを女の横隔膜のあたりに叩き込む。インパクトの瞬間、紅い光がフラッシュのように輝く。
「かは……ッ」
「太陽神経叢に霊的ダメージを叩き込んでやった。当分霊的中枢は役に立たねェぜ」
「こ……怖ぇやんなー、ありゃ効くでー……」
明音が素に戻ってガクブルしながら呟く。
女はさらに容赦なく追いうちをかけようとするお兄ちゃんの手を必死で振り払うと、リリスの方へと転がってゆく。
「だ、大丈夫ですか?」
リリスが自らのダメージをおして女を気遣うように駆けより、しゃがんで肩に手をかける。
「おのれ……この屈辱は……ッ!?」
そう捨て台詞を最後まで言うヒマさえなく、すぐ横に着弾したあたしの炎弾の爆発で吹っ飛ばされるふたり。
「きゃああああーっ」
「ち……外しちゃったァよ」
こーゆー飛び道具的なワザははじめて使うだけに直撃は外しちゃったけど、そこそこのダメージはあったかナ? まァよくあるあんまし面白みはないワザだけどネ。
「な、何故? 力は使いきっていたはず……なのに」
リリスがあたしらの方を見て目を見開く。お兄ちゃんがあたしの左手を取り、あたしは右手のひらをリリスと女に向けている。ふふん、お兄ちゃんが最後のタリスマンのパワーをあたしに与えてくれたのョ。
「もう一撃くらいなら……行けッかな?」
あたしはもう一撃の炎弾を撃ち出すべく、念を凝らす。だが。
「跳びます、姉さん!」
リリスが必死な声でそう叫ぶと、ブラックライトの柱がふたりの周りを囲むように立ち、一瞬で細くなるや、ふたりとともに消えていた。
「今度こそ……逃げたか?」
「最後の力を振り絞ってテレポートしたみたいやなー」
あたしたちは、それでもすぐには油断せず周囲の気配を窺い、完全にヤツらの気配が消えたことを確認して、はじめて息をついた。それとともに、あたしの身体を覆っていた炎も四散し、消える。
明音とカメ子も、自分たちを縛っていた罠が消滅し、あたしらのトコへと駆け寄ってくる。と。
「む、むはー! 夜見ちゃんハァハァ……」
「……って夜見子、服! 服!」
「へ……? って、きゃああっ!?」
あたしは、自分の姿を改めて見て思わず悲鳴をあげてしゃがみこむ。そりゃ、どーりで〈何も身につけていない〉よーに感じるワケよ!
つまり……つまり……着てたモンぜんぶ炎に焼かれて、ホントーに首から下ナニも身につけてないっつーの!
「うう……またお兄ちゃんに見られちゃったよォ……」
わずかな救いは他に男のヒトがいなかったコトかしらネ……ヘンタイ女はいるけど。あと、熱と炎が出てたンは首から下だけだったみたいで、ちっちゃい頃おばーちゃんの買ってくれた大切なカチューシャは無事だったコトくらいかしら。
ちなみに、あンだけ激しい闘いがあったつーのに公園の外に騒ぎが洩れてないのは、リリスが邪魔の入らないようにか戦闘開始とともに結界を張ったからだって。便利だな結界。まァそのおかげでお兄ちゃん以外の男にみ、見られたりしないで済んだワケだけど。うう。
「あの女、リリスに〈姉さん〉って呼ばれてたァよね?」
恥ずかしさにもじもじしつつも、リリスが逃げるとき言ったあまりに聞き捨てならない言葉についての疑問を口にする。
「そうだな……どういう意味なのか。少なくとも俺の方には心当たりは無いしな。明音はなにか知っているか?」
「うんにゃー。ウチの知る限り、リリスのヤツぁー一匹狼やったでー。けど、ありゃー魔術師としての実力はともかく、実戦にはてんでシロウトさんやなー」
「そうだな、俺も同意見だ」
言いながらお兄ちゃんが自分の上着を脱いで、肩にかけてくれた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
あったかい。えへへ。
「ったく、やれやれよ。私も自分が化物になっちゃった気持ちだったけど、何のことは無い、アイツの方がよっぽど化物じみてるじゃない……」
お兄ちゃんの上着を肩にかけてもらって少し落ちついたトコで紅さんがぽつり、と言う。
む? たしかに、お兄ちゃんてば高校生の男の人とは思えないくらい危機に臨んで冷静で、敵に対して怖いくらいに容赦ないけど……。
「……ナニ、お兄ちゃんが化物じみてよーがそれがどーかしたっての?」
「あー、うん。夜見子ちゃんはそう言うと思ったわ。でもさ、〈化物同士〉ってコトで私とお似合い……だったりとか思ったりしない?」
にへら、としながら紅さんは言う。
「ぐぬ……そー来やがったか……」
コクハクしたと思ったらずいぶん積極的になってきたァね紅さん……。
「べつにお兄さまはお兄さまですし」
しれっとしてカメ子まで言う。意外と動じないのョねコイツも……。
「なぁなぁお兄さんどないな気分やー、かぁいい女のコらが自分を取りあっとる気分はー」
にやにやしながら明音のヤツがお兄ちゃんに絡んでくる。
「ンなこと言われてもだなー」
「おー困っとる困っとるー、さっきまであんだけカッコよかったんになー」
「……慣れてないんだよこーゆーのは」
ため息をつきながらお兄ちゃんは言う。
「……オカルト絡みの荒事は慣れてるってワケなんやなー……」
「そっちの方はそちらさんもよくご存じのようだが?」
お兄ちゃんがジト目で明音を見る。
「うへェ、それは堪忍してぇなー」
へらへらと笑いながら明音がお兄ちゃんの追求をかわす。
「まぁまぁ、それより、時間も遅くなってきたし、折角なんだからこれから私と……その、食事でも……どぉ?」
なんて紅さん。
「ちょ、ちょ、なんでそーなんのョ?」
「そうです。だったらうちにお夕飯食べに来てください、母もお兄さまならいつだって大歓迎ですよ?」
「って、カメ子もナニ言ってやがンのョ!」
「まあ、夜見子ちゃんは……」
「そうですね、夜見子さんは……」
「……な、なにョ?」
「その格好じゃ、いったん帰るしかありませんものねー」
「ねー」
んな! そ、そりゃー裸だし……お店だって誰かのお宅だって行くワケにゃいかねーけどサ……。
「ってわけで、夜見子ちゃんは明音さんに送ってもらってくださいね?」
「らじゃー! さぁさぁ夜見ちゃんウチといいトコ……やなくてお家に帰ろうやねんなー」
「ハァハァ言いながらなに抜かしてンのョ! こんな格好でアンタと一緒の方がヨケー身の危険だっつーの!」
「そ、そないなことあらへんでー夜見ちゃん、さ、さ、ウチとー」
「いや、夜見子は俺が送ってくって」
あたしらのやりとりを呆れたように見ていたお兄ちゃんがそう助け舟を出してくれる。
「そ、そーよネお兄ちゃん!」
「な、それじゃ三千代さん、貴女が夜見子さんを……」
「うー、言いだしっぺの紅さんが送ってさしあげてくださいよぉ……」
「ってー! なに言ってやがんのョ!」
あたしは、今度ァ押しつけ合いに走りやがったふたりに思い切り両手をぶんぶん振りまわしてコーギする。
「あ」
「れ」
「ちょ!」
……え? なんか肩からするりと……。
「よ、夜見子前! か、隠し……!」
お兄ちゃんが片手で顔を覆いながら慌てる。あたしは、ついー、と視線を自分の身体におろし……。
「ぴゃああああああーん!」
自分がまたも丸裸になってるのに気付き、錯乱して泣きながらお兄ちゃんへと飛びつき、抱きついてしまったのだった。
「ぴゃあああー、お兄ちゃーん!」
「ちょ、夜見子胸! か、顔に! は、離れ……!」
「夜見子ちゃん、落ちついて、落ちついて! ああもうアンタも! ぺったんこの方がいいっての? 私だったらもっと……ええいこうなったら一度も二度も同じコト!」
「って、紅さんも血迷わないでくださいってばー! なに脱ごうとしてるんですかー!」
「はっはっはーお兄さんも大変やなー」
「そこ! 落ちついてノンキそうに見てンじゃねー!」
「ぴゃわぁーん!」
わぁーん、もうなんでこんなコトになっちゃうのョ!
おわれ
……全くどうなってるってンだろうねェ。これが噂に聞く『モテ期』とかいうヤツなのか?
もうなにがどうなってるんだか。いや、彼女たちが自分みたいなヤツに好意を向けてくれること自体はありがたいことだとは思うんだがね。それでも、恋愛対象として見るべき女の子なんてな一人いれば充分だろ。たとえば夜見子一人いてくれさえすれ……ば……じゃねェ! じゃねェだろ俺! どんなに可愛くたって愛しくたって夜見子は妹だろ妹! ナニ考えてんだ!
「……どうかされたんですか?」
俺が思わず血迷ったこと考えて頭を抱えてるところを見て、隣のクラスの同じ図書委員の子が心配そうに声をかけて来る。
「あー、いや何でもないなんでもない」
俺は、あはは、と笑って手を振る。
「……はあ、それじゃお疲れ様です」
「ああ、おつかれー」
そういって今日の仕事を終えて彼女は帰って行った。
夜見子のことで頭を一杯にしていた俺は、彼女の片頬がなにかで打ち付けられたようにうっすらと赤く染まっていたことを深く意識することはなかった。
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