夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち 1
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「あたしは──河野くんが考えてるような人が、本当の生徒会長に近いと思うな」

───小牧愛佳、三月八日、

自らが引いた横棒の結末を予言して。

答えは最初から、そこにあった。

 

 

 

 

夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち

≪Little Sweet Ladies Sleeping Heavenly Under the Shades of Midsummer Cherries≫

 

 

 

 

prologue:赤色透かす桜の木陰

≪When Cherry Trees Bloom with Orange≫

 

ほのかな赤色が、とにかく綺麗だった。

それに見惚れてたってことだけは、

今でもはっきりと覚えている。

 

「河野さん、あれ──」

夕暮れの光を受けて、純白だった満開の桜が静かに赤く染まっていた。太陽は今日最後の仕事として、川の流れも、遠くの橋も、空に掛かる薄い雲も優しく照らし、穏やかな夕暮れを演出していた。

河原の桜並木、赤色透かす桜の木陰。

先輩が俺のために見せてくれた景色。

「その──私、山とか海とか好きで、だからこういうところを歩くのも好きで、だからもしかしたら河野さんも──」

けれど、そんな愛でるべき春の夕暮れも、その時の自分の眼にはほとんど映っていなかった。先輩の気遣いに感謝の言葉を口にしながらも、かろうじて覚えているのは、世界を包んでいた白と赤のコントラストぐらいのもの。

そう、咲き誇る花に散らされた柔らかな光が染め上げたのか、俯き加減にそんな台詞を紡ぐ久寿川先輩の白い横顔もほのかに赤く染まっていて──とにかく、綺麗だったのだ。

「あ、あの」

先輩のくれた風流を解さぬ無粋者、先輩だけに見とれていた自分を誤魔化すように、俺は慌てて視線を頭上の桜に向け、焦ったような声をあげる。

「す、少し歩きましょうか」

目を合わせることなんてできなくて。

でも、気遣ってくれたことが嬉しくて。

俺はそこまで言ってから、様子を窺うように先輩の方に視線を戻す。一方の先輩はそんな俺の突然の台詞に少しびっくりしてたようだけど、すぐに微笑んで頷いてくれた。……俺が朝から意識しまくりのその笑顔が、ますます俺の心を無限ループに追い込んでいく。

 

そもそもこの場所に来たこと自体、俺がこの日一日中、先輩のコトを意識しすぎた結果である。 

屋上で泣いていた女の子と、副長と畏怖される生徒会長のあまりの違い。その涙を見てしまった俺が、扉の内側の本当の久寿川先輩を知りたいと願ったあの日から、終業式までの二週間。

先輩の想い出を取り戻そうとがむしゃらに突っ走った日々にはそんなことを考える余裕もなかったのに、いざこうして落ち着いて、しかも同じ春休みの日々を(半ば強引に)送らせてもらえるようになると、改めて先輩が本当に、本当に綺麗なんだってコトに意識が向いてしまう。

おかげで俺は朝から、どう考えてもかなりの挙動不審野郎である。先輩の一挙一動に過剰に誘惑されまくりなのだ。なのに、

(ふふ、おかしな河野さん──)

そんな俺を見て、さらに微笑んでくれちゃう先輩がそこにいる。

意識再開、まさに無限天国。

それにしても、今まで見られなかった本当の笑顔、先輩の優しさが透けてくるようなその表情がこんなにも可愛いだなんて、その、すごく反則だと思う。

さておき。しかし先輩は、そんな俺のぎこちなさを慣れない生徒会の仕事を手伝わせてるせいだとでも思ったらしい。そりゃそうだ、俺がこんな不純な気持ちを抱いてるだなんて、久寿川先輩の綺麗な心が予想するはずもない。

(一緒に──帰りましょうか)

だから最初にそう声を掛けられた時は、単にせめて手伝いのお礼という感じで、途中まで見送ってくれるだけかと思っていた。

……もちろん、ここまでの途上だけでも十分に大変だったのだけど。

(私と帰るの──イヤなの?)

先輩は当然女の子で、つまり俺は女の子と一緒に帰るんだ、と気づいた時点でツーストライク。しかもいつもみたいに先輩の後ろじゃなく、隣を歩くというだけで俺の精神は一杯一杯。

しかもそれ以上の気配りなんて一ミリもできないくせに、先輩が髪をかき上げる小さな仕草から、二人が切る空気が運んでくるかすかな匂い、風に揺れる襟の衣擦れの音に至るまで、真横の「女の子」の存在に全神経が集中してしまうのだ。我ながら浅ましいったらありゃしない。

でもこの春休みの数日間、このみにもタマ姉にも感じたことのないこの感情に、正直戸惑いを覚えてたのも確かだった。

 

──こんなにも明白だった、その感情に。

 

ともあれ、先輩はそんな俺を気遣ってか、単に一緒に帰るだけではなく、こうして先輩お気に入りの場所に連れてきてくれたのだ。

先輩とさらに長い時間を過ごせるとあれば俺に否応などあるはずもなく、俺たちは夕暮れ時の河辺をゆっくりと歩いてゆく。

 

 

時折、水面を抜ける風が桜の花びらを舞い散らせ、茜色の雪が視界で踊る。

見慣れた場所で出会う意外にも幻想的な光景に、上がりっぱなしだった俺もようやく先輩一人だけから、先輩と俺を包む世界へと意識を広げられた。

その途端、この穏やかな時間を二人で共有してるという事実が、ふっと頭の中に染み込んでくる。それは先輩一人を見つめていた時よりも穏やかな気持ちのはずなのに、胸の高鳴りは不思議と増していった。

「ほんとに綺麗、ですね」

月並みで、短いけれど、それで十分と思える台詞を俺は口にする。こうして歩いている間、先輩との間に言葉は少なかったけれど、いつかの水族館の帰り道とは違い、それでも十分に先輩と心が通っている気がしてたのだ。

そんな気負ってない口調が先輩をほっとさせたらしい。自分のお気に入りが俺の目にどう映るか、かなり気になっていたようだ。

「うん、本当に──」

まるでバレンタインのチョコの感想を緊張しながら待つ、ラブコメ少女漫画の主人公みたいな───

(ら、ラブって違うぞ先輩がそんなその)

脳裏に湧いた単語に一人で勝手に焦る俺。

でも後から思えば、あながち間違いでもなかったかも、という気持ちは正直あったはずだ。二人で並んで校門を出たときから、久寿川先輩はほんの少し俯いて、気のせいではないぐらい頬を赤く染めていた。

もちろんその表情は、見せる予定だった桜の風景を俺が気に入るか、緊張してたってだけかもしれない。誰かと何かを共有するってこと自体に慣れてない先輩なら、その可能性は十分ある。

でも──別の可能性も考えてたはずなのだ。

あるいは人付き合いを避け続けてきた先輩もまた、一人の「男の子」と帰るという事実を少しは意識してくれてたのかもしれない、なんて想像を。

 

 

ともあれ、こうして桜の下を歩き始めてからはようやくお互いの奇妙な硬さも取れ、俺たちは生徒会室でもあまりできていなかった、のんびりとした会話を楽しめていた。

「普通の桜や夜桜もいいけど、夕方の桜って不思議な感じがするでしょう? 私、こういうのってすごく落ち着くから──」

ウミウシを語る時のえへーっとした笑顔ともまた違う、先輩の優しい心象風景がそのまま表れたような表情で、先輩は俺の感想に応えを返す。

こうやって自分の事を積極的に喋る先輩は珍しい。いや、水族館のクラゲ語りを思い出せば、本当はこっちが自然な先輩の姿なんだろう。

「ほら、この辺りは車道からも遠いから、葉擦れの音まで丁寧に聞こえてくるの。それがなんだか、自分の街じゃない道を歩いてるみたいで──」

自分の内側を見せず、人嫌いとすら呼ばれる久寿川先輩──そんな彼女の本当の姿をもっとみんなにも知って欲しいと思いつつ、今のところその自然な言葉を聞けるのが自分とまーりゃん先輩だけ、という事実は密かに嬉しかったりもする。

ま、決して冷たい人じゃないって事は、先日全校生徒の前で劇的に証明してしまったのだけど。

……冷静に考えると、ちょっと劇的過ぎたというか、先輩の想いをあそこまで曝け出してよかったのだろうか、という気がしなくもない。

「河野さんも気に入ってくれて本当に良かったわ」

そんな先輩の再び安堵するような声で、俺の頭も思考から現実へと引き戻る。

「俺も先輩の好きなコトがまた一つ分かって、なんだかちょっと嬉しいです」

照れ隠しの笑いと共に、でも不思議と自然にするりとこぼれ出た、それは素直な俺の気持ちだった。

先輩の不思議で可愛らしい面は色々分かってきたけれど、こういう自然が好きって話は、ようやく見つけた綺麗な先輩らしい(?)趣味だったし。

一方の先輩も、

「もう──バカね、そんなこと」

なんて言いつつも、素直に顔を赤らめて、そして誤解を恐れず言えば、ちょっと嬉しそうだった。

 

──だから、そんなことすら見えてたはずなのに。

 

先輩は再び樹上を眺め上げると、何かを思いついたかのように俺に意識を向けた。そのまま言葉を続けようとしたみたいなんだけど、急にまた少し俯いて、顔どころか指先まで真っ赤にして口篭もる。

「それでね、その、河野さんもこういうの好きだったら──もし、もし良かったら、なんだけど」

何処かで聞いた台詞、この既視感──そうだ、終業式翌日の駅前で、俺を水族館に誘おうとした時のあの仕草とそっくりなんだ。

ってことは。

精一杯何か言葉を紡ごうとして歩みを止めた先輩の前に俺は回りこみ、俯き加減の先輩に向けて全力で笑顔を作る。先輩が驚いたように俺と目を合わせた瞬間に、多分先輩が言おうとしてたであろう言葉を引き取った。

「あ、こういうトコはどんどん教えてください。ここも葉桜の頃なんかも気持ちよさそうですし、またちょくちょく誘って欲しいなー、なんて、その」

……外したか。外したのか。違ったのか。

何処か苦しそうだった先輩に助け舟を出したい一心で思わず先回りをしてしまったけど、そう口にした瞬間に自分の思い上がりが恥ずかしくなってくる。柄にもない事をするもんじゃない。大体先輩が俺を誘うとかそんな大それた事を俺は何を───

でも。

久寿川先輩は俺のその台詞に、満開の桜そのものの笑顔をほころばせて即答した。

「ええ、もちろん──河野さん、こんなに色々頑張ってくれてるんだし」

また一つ、胸が高鳴る。

自分の発想が間違ってなかった、なんてことはどうでもいい。先輩のその表情が、いや先輩が俺を認めてくれてるってこと、先輩の方からこれからも同じ時間を共有したいと伝えてくれたことが、何よりも嬉しかった。

俺もまた、赤色の桜に当てられたかのように。

自分から言った言葉を肯定されただけなのに、きっと俺の顔はさっきの先輩以上に真っ赤になってたと思う。俺の中にはまた、あの不思議な感情が湧いてきていたのだから。

 

 

──今こうして振り返れば、あの春休みの日々は、こんなにも明白なことだらけだったんだ。

先輩が俺だけに向けてくれてた笑顔。

自分の好きな世界を、俺なんかと共有したいと言ってくれた意味だとか。人付き合いが苦手なはずの先輩が、あの頃は驚くほど自身の内面を見せてくれてたってことだとか。

(人に好かれるのに怯えてたさーりゃんがさ)

手作り弁当で先輩を困らせてしまった日、まーりゃん先輩は電話でそう言った。

(たかりゃんが近くにいるの許してるって意味──わかってる?)

婉曲さの欠片もない、ストレートな答えそのもの。いくら俺たちをよく見ているまーりゃん先輩とは言え、第三者が見てすら明らかなその理由。

なのに俺は、その意味を理解できなかった。理解しなかった。いや、考えること自体を拒絶してたのかもしれない。

自分が先輩を意識しまくっていた事実。

そもそも自分は何故あんなにも必死に、終業式に向けて駆けずり回ったのか。なんで春休みにまで彼女を手伝いたいと思ったのか。

桜並木や、お弁当や、オオサンショウウオに、どうしてあんなに胸が高鳴ったのか。

そんなこと、誰が考えたって明白だった。

──俺自身の先輩への想いが、とっくに憧れなんてレベルを超えてたってこと。応援だとか、見守るなんて綺麗事は全部言い訳で、先輩に疑いようのない恋心を抱いてたってこと。

 

なのに、俺はただただ怖くて───

これを恋愛感情と認めたら、恋愛感情だとバレてしまったら、せっかく手に入れた先輩の隣という居場所を、失ってしまうような気がしていて───

 

久寿川先輩を、信じることができなかった。

 

その赦されざる罪のカタチが、今ここにある。

 

 

 

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1: 愚者の末路

an Obvious Conclusion

 

逃げた。自分、河野貴明は全力で逃げ出した。

 

もう何が何だか全然わからなくなって、とにかく走って逃げた。途中何度もすっ転んで、その度に両手で地べたを這いまわって、つんのめったまま起き上がって、走って、転んで、息なんてとっくにしてるんだかしてないんだか分かんなくなって、肺が痛いんだか胸が痛いんだか何処が痛いんだかそんなの分からない、車に轢かれそうになって慌てて飛びのいて、走って走って走って転がるように、

 

とにかく、逃げた。

家へ。自分の家へ。

帰ろう。帰るんだ。帰ればいい。

 

嘘だって。何もかも嘘だって。こんなの絶対悪い冗談で、帰ったら先輩から電話があって、布団を被って眠って明日になればこのみやタマ姉や雄二が悪戯っぽい顔で笑ってて全部嘘でまーりゃん先輩が俺を小突いて先輩が苦笑いしてて貴明はウブだなあとかみんな笑ってて全部嘘であんなことは、

 

バカだなあ、たかりゃん。

そんなこと、あるわけないじゃん。

 

「ああああああああああああ────────!」

 

すっ転んだ。立ち上がれなくて叫んだ。

もう何が起きてるのかさっぱり分からなかった。

数分前、たった数分前、駅前から走り去る久寿川先輩の後姿を見ていた辺りから、今日何があって何が起きて誰が悪くて何をどうしたらいいのか、何もかもがぐちゃぐちゃの真っ黒な塊になって頭の中を埋め尽くした。この僅か数時間に起きたことが何も信じられなくて、俺は何も間違ったことなんてしてないのにどうしてこんなに苦しくて───

 

 

だから、そもそも何が起きたのか。

生徒会の先輩が俺を遊びに誘ってくれた。

すごく綺麗で優しい人で、でも何処か儚い感じがして守ってあげたくなる人で、何故かナマコとかクラゲが大好きで、だから俺は水族館に行こうって提案して、二人で海の生き物を眺めて帰りにいつもみたいにヤックで食事して、それから。

 

気が付いたら、俺たちはホテルの部屋にいて、

先輩がベッドの上で胸をはだけてた。

分からなかった。何もかもが。

 

今日は事の始めから、何かが致命的にずれていた。

水族館に行こうという言葉も行動も何処か空回りして、二人の距離は絶対にゼロにはならず、すぐに誰か他人に割り込まれてしまうような、そんな微妙な時間が続いていた。話す言葉も全然噛み合わないまますれ違い、ただ疲労だけが溜まっていく、そんな一日だったのだ。

どうしてそうなってしまったのか。

いつからそうなってしまったのか。

その疑問にはまるで答えが見つからないまま、先輩は何かに縋るように、それ以外の行動など思いつかないとでも言うように、抱いて欲しいという意思だけを俺に伝えてきたのだった。

その結果が、これだった。

「今日の先輩、ムチャクチャだよ──」

先輩の身体から必死で目を逸らせて、はだけかかった服を引き戻して、俺はその全てを否定した。

違うよ先輩。俺はそんな獣じゃない。

俺はただ綺麗で壊れやすい先輩のそばにいるんだって。

先輩を守ってあげるためにここにいるんだって。

「こんな形、おかしいよ、おかしいよ──」

そんな泣き声をあげながら、俺は心の中で普段から常に掲げている気持ちを理由として並べたてていた。

しかし、いつもなら自分を納得させられているはずのそれらの理由は、その時だけはどれ一つとして信じられなかった。何かが嘘だと、何かが違うのだと自分でも気づいていたけれど、それ以外の理由なんてないはずだし、だから他に言い訳なんて思いつくはずもない。

だから、たとえ信じられなくても俺はその思考に縋りつき──先輩の手を引いて、二人で無言で部屋を出た。

 

こうして、今日という日は終わった。

理解はまるで追い付かないけれど、何もしてなかったのに勝手に軋み始めていた俺と先輩の関係が、今日この日、遂に訳のわからない理由で致命的に壊れてしまったことだけは確かだった。

 

いつもの駅前に戻ったとき、いつか見た夕暮れの赤い光の中で、けれど先輩はかつての冷たい日々を思わせる、諦観にも似た笑みを浮かべていた。

「ごめんなさい、変なことをして。今日の私、何処かおかしかったから──」

本当にそうだろうか。

あれは変なことだったんだろうか。

心の何処かでそんな声がした。変なのは誰だったのか、どうして先輩はそんなことをしたのか。きちんと考えれば分かるはずだと、どこかに置いてきた俺自身の心が声を上げかける。

「河野さん──私たち、まだ──」

だが先輩の絞り出す様なその声に、俺は心の声を振り払って顔を上げた。

そこに、先輩の今にも泣き出しそうな顔だけを見出した。凍りついたその笑顔は必死で何か言葉を紡ごうとしているけれど、俺はそこに何の手助けもできずに立ち竦んでいた。

何か言ってあげなきゃ、何か答えなきゃと思った時には、もう先輩は走り出していたのだ。

俺も走らなきゃ、追いかけなきゃ、何か声を掛けきゃいけないんだと必死で頭を回そうとしても、不意に思考を切断された脳味噌は真っ黒に染まっていて、欠片も動きはしなかった。

走り去る先輩の後姿を眺めながら、自分は先輩を傷つけたんだ、という思考だけが、やけにクリアに脳裏に焼きついてゆく。その瞬間、苦しいという気持ちと、怖いという感情以外は、漉し取られたように消え去った。

 

だから、逃げた。

俺は弾かれるように、踵を返して逃げ出したのだ。

 

本来、走り出すべき方向は逆のはずだった。

でも、もう何も分からなかった。ただひたすらに怖かった。全てが嘘だと誰かに言って欲しかった。何処かへ、自分の家へと逃げていけば、何かがどうにかなると思いたかった。

しかし一方で、真っ黒な混乱の中でもやけにクリアな思考回路の一部分、先輩を傷つけたという焼印が、そんな都合のいい事があるわけないんだと殊更に主張していた。

逃げてどうする、逃げてどうなる。

でも今の自分に、逃げる以外の何ができるのか───

 

 

壁に手をついて辛うじて立ち上がる。

叫び続けていた喉はひりひりと痛み、目と鼻からは止め処もなく液体が零れだしてゆく。締め付けるような吐き気が突き上げ、しかし嘔吐くばかりで涎以外は何も出ない。身を捩る苦しさだけが残る。

夕日が一瞬瞳を刺し、汗と涙で沁みた目を砂のついた手で思わず拭った。必然、目元も頬も、頭の中と同じ泥にまみれていく。……近所の人が見たら、何事かと思う格好だっただろう。

 

「──タカ坊?」

 

それは、この人だって例外ではなかった。

手をついていた壁は向坂家のもの。薄汚れた男が奇妙な叫び声をあげていれば、この人が出てこないわけがない。

「タマ、姉……」

見慣れた姉貴分の顔が視界に入った瞬間、逃げろという衝動は、助けてという叫びに切り替わった。

助けて、助けて、助けてよ───!

でも、口を開けても声はでない。と言っても、別に喋れないほど喉が掠れていたわけではない。

さっきから俺の思考を司る焼印が、自分にそんな資格はないと、あの人に致死量の傷を負わせた人間が誰かに縋るなんて許さないと、意識を縛り付けていただけだ。

だが、俺の心はあまりに弱く、そんな枷ですら呆れるほど脆かった。そんなもの、タマ姉の温かい腕の中では、つまらない虚勢に過ぎなかったのだ。

 

「何か──あったのね」

 

運命の歯車が一つ、違う音を立てて廻り出す。

 

 

 

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2: 春色の残照

the Afterglow of Innocent Days

 

しばらくの間、時計の針の刻みと、飲み物をすする音だけがリビングを支配した。

「さて、と。少しは落ち着いたかしら?」

タマ姉に取っては勝手知ったる他人の家。

斜向かいに座った彼女の差し出してくれたミルクたっぷりのインスタントコーヒーを飲みながら、俺は自宅のソファーに埋もれていた。なんでタマ姉にどれが俺のマグか分かるんだ、なんて事を考えながら。

 

 

あの後、タマ姉は俺を抱きかかえるように家まで運び込むと、動く気力もなかった俺のあちこち汚れた服を強引に脱がし、そのまま俺を風呂場へと放りこんだのだった。

それでも死んだように突っ立ってた俺だけど、下着まで脱がして欲しいの?というタマ姉の台詞でようやく意識を取り戻し、慌てて彼女を脱衣所から追い出した。

(ま、とりあえず身体を洗うこと。貧すれば鈍するじゃないけど、そんな格好じゃまともな思考なんてできないんだから)

タマ姉のその言葉どおり、頭上から熱めのお湯を打たせていると、少しずつではあっても人間らしい感覚が戻ってくる。

裏を返せば、さっきまでの俺は人間ではなかったということだ。そりゃそうだろう、ヒトが理性ある存在だとするならば、時に四つん這いでも走り続け、手や顔が汚れても気にしない状態は、人ではなく獣と呼ぶのが相応しい。

(俺はそんな獣じゃない──!)

不意に、小一時間前の記憶が蘇る。

ケダモノって何だ。理性ってなんだ。

胃から強烈な吐き気が込み上げ、膝が情けないほど震え始め、思わず床にへたり込みそうになる。

──それを、目の前の大鏡に手をついて食い止めた。

そんな真似をすることで、自分が傷ついた振りをしているような、何かとんでもない偽善をすることになるような気がしたからだ。

ふと視線を上げれば、曇った鏡の一部が俺の手で拭われ、自分の顔がくっきりと映っている。例え思考が戻っても、その表情はまるで死人だった。そんな表情ですら、傷ついたのは自分だという嫌らしい主張のように見えて、思わず鏡を殴りつけたくなる。

もちろん一瞬後の鏡の中には、怒りに任せてすらそんなこともできない、情けない自分が黙ってシャワーに打たれて立っていた。

「──やめよう、こういうのは」

俺はそう口に出して呟くと、手早く身体を流し終え、極力何も考えないようにして風呂場を出た。全身をタオルで拭い、籠に置かれていた自分の新しいシャツを着込んでいく。

(まったく、クローゼットの中まで把握済みか)

俺はタマ姉の配慮に感謝しつつも、相変わらずの踏み込みっぷりに苦笑する。そして、苦笑なんて表情を浮かべられた自分に驚いた。

人間なんて、所詮そんなもの。そう考えると、少しだけ気分が楽になる。それだって偽善かもしれないけど、動かなければ始まらない。とりあえず俺はタマ姉の待つリビングへと足を向けた。

 

 

俺がソファーに埋まるように座り、熱いコーヒーを啜っている間、タマ姉は何も言わなかったし、何も聞かなかった。ただ向かいのソファーに座り、穏やかな眼差しで俺を見ているだけだった。

たったそれだけのことで、俺は思わず泣きそうになる。何かすごく久しぶりに、他人の温もりを感じた気がしていた。

例え何故かは分からなくても、先輩をあれだけ傷つけて、しかも背を向けて逃げ出した自分が、のうのうと温もりなどを感じているのがどれ程おこがましいことか、それは分かってるつもりだった。

でも、それでも。

疲れきった心に差し伸べられたタマ姉の手は、抗いがたいほど温かかったのだ。

(手を差し伸べて、指先だけでも触れてあげて)

俺はその連想で何かを思い出しかける。疲れた心、触れてあげる指先。それは───

ダメだ。また頭の中が真っ黒になる。

俺は頭を振って、コーヒーに口を付け直す。今はとにかく、まともな思考力を取り戻すことを優先しよう──そう考えて、俺は深く溜め息をついた。

それが一種の合図になったのか。タマ姉は少しだけ居住まいを正すと、ゆっくりと、まるで俺を脅かすまいとしているかのように口を開いた。

「さて、と。少しは落ち着いたかしら?」

俺の心は未だ平静には程遠かったけど、とりあえずタマ姉の心配を解けるぐらいにはなっているつもりだった。

「うん、何とかそれなりには」

俺もそうして口を開きながら、マグカップをテーブルに置いて少し身を乗り出した。

「……ごめん、タマ姉。あんなみっともないトコ見せて、こんな迷惑掛けちゃって」

いくら何でも、温もりが嬉しかったなんて台詞を言うわけにはいかない。それでも、今こうして感じているタマ姉への感謝を、紋切り型の台詞ででもいいから伝えておきたかった。

「だから、その……ありがとう」

少し口篭もりながらもそう伝えると、タマ姉は笑って手を振った。

「そんなこと気にしないの。誰だって他人に頼るべき時はあるんだから。それに」

タマ姉はそこで一度言葉を区切り、僅かに目を伏せた後で台詞を続けた。

「それに、他ならぬタカ坊のことだもの。あんな顔のあなたを見たのは初めて……だったから」

初めて、という部分でかすかに言い淀んだように聞こえたのは気のせいだろうか。

「あんな状態のタカ坊を見つけたらね、例え理由が何であれ、とりあえず正気に戻してあげるのがお姉さんの役目ってとこかしら」

少し曇ってしまった表情を誤魔化すように、最後はちょっと茶化した感じでタマ姉は言葉を結ぶ。

聞き慣れた声。見慣れた笑顔。

その当たり前の日常が俺の思考を温め、融かしていく。平和な日々。ずっと続けばいいと思っていた毎日の姿。それが今タマ姉の姿をして目の前にあって、こうして俺を優しく包んでくれて───

 

(そんな、愚にもつかないこと)

 

え──?

不意に脳裏に浮かんだ台詞。

紛れもない、目の前にいるタマ姉の声。

そうだ、僅か数日前、先輩と雄二の関係をぐるぐる思い悩んでた時に、タマ姉は何て言った?

(何もない毎日なんて、タカ坊自身が望んだものを勝手に理想化して、みんなそうだと思い込んでる)

違う。これは嘘だ。タマ姉がそんなことを言うはずがない。タマ姉だってこの変わらない日々が、

(久寿川さんがかわいそう)

おかしい。頭の中のタマ姉の声が止まらない。違うのに。こんなの嘘なのに。違う。だってそうじゃないか、タマ姉はこうやって俺の前にいてくれて這いつくばって逃げてた俺を助けてくれて温かい腕で包んでくれて───

例え理由が何であれ≪、、、、、、、、、≫。

タマ姉が俺を助けてくれたのは、俺が河野貴明だったから。

ただ、それだけのこと──?

「で、タカ坊」

顔を上げる。

さっきまでの笑みなど欠片もない眼差しで、タマ姉が真っ直ぐに俺を見据えていた。

 

「──久寿川さんを見捨てたのね」

 

なんで、タマ姉が。

 

 

 

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Interlude: エンカウントT

Another Gear Shift: A Major Change

 

久寿川ささらは、踵を返して逃げ出した。

 

もう彼女には、世界を理解する術など残されてはいなかった。分からなかった。自分が何をすべきだったのか、自分が何をしてしまったのか、何故自分のすることはいつだって巧くいかないのか、どうして自分は誰からも愛されないのか。

(変よね、あんなこと言うなんて、バカみたい)

逃げている。何もかもから逃げている。

自分のしたことから、自分を拒絶した人から、自分のした事を否定して、本当の絶望を認めたくなくて、絶望がカタチになるのが怖くて、その先を考える事がただひたすらに怖くて、とにかく何処かへ消えてしまいたくて───

(河野さん、私たち、まだ──)

 

だから、久寿川ささらは逃げたのだ。

とにかく逃げたかった。

自分が帰れる場所へ。帰りたい場所へ。

それ以上のことなんて何も考えられなかった。

こんなの嘘だって言って欲しかった。またまーりゃん先輩の悪い冗談で、河野さんも先輩には逆らえなくて本当にごめんって謝ってくれて、今日の事なんて向坂さんも柚原さんも誰も覚えてなくて学校に戻ればまた河野さんが部屋にいて笑ってくれて声を掛けてくれて指先だけでも触れてくれて、

 

今日の先輩、おかしいよ。ムチャクチャだよ。

 

「いやああああああああああ────────!」

 

ささらは自らの胸元をきつく握り締めた。ガラスの破片を呼吸しているような、物理的としか思えない痛みが胸の中をずたずたに切り裂いていく。

激痛の中で、あらゆる疑問、何もかもが溶け合う思考の渦が、ある一点に真っ黒に収斂されてゆく。この世界の苦しさも、生きる辛さも、頑張ったことの全てが報われない人生も──その全てが、たった一つの冷酷な言葉に結実し、彼女を打ちのめす。

自分は、河野さんに愛されないのだ。

頑張ったつもりだった。向坂さんに戦って欲しいと言われ、馬鹿な自分はその気になって河野さんを誘ったりして、迷惑だったに違いないのに、また今日もいつもみたいに振り回して、どうしたらいいかなんて分からなくて、そんなこと誰にも聞けなくて、ただ触れて欲しい一心でおかしな事をしでかして、河野さんに軽蔑されて───

もう、走る気力も残っていなかった。

久寿川ささらは俯いたまま、足元まで滴り落ちる涙を拭う事すらできずに、ただ目の前の地面へと足をひたすらに運び続けてゆく。

 

ふと、涼しげな風が彼女の頬を撫でる。

その違和感に顔を上げてみると、彼女は今ちょうど橋を渡ろうとしているところだった。それは学校への途上にあり、当然、駅前から自分の家とは正反対の方向である。

ささらは思わず、哀しい笑いを浮かべてしまう。

人間にも、帰巣本能に似た行動があるという。と言っても単純に、毎日飽きるほど繰り返している通勤・通学路であれば、半ば意識せずとも自然と足が動き、正しい道を歩いて帰るという程度のものだ。

しかし今、彼女の足は学校へと向いていた。自分の家が決して安らぎの場ではないことを、無意識下の行動が証明してしまったのだ。

 

逃げ出したい、帰りたいと願いはしたけれど。

一体何処へ帰ればいいというのか。

 

帰れる場所なんて、もう何処にもない。唯一自ら閉じこもっていた生徒会室ですら、河野貴明が扉を開き、そしてそのまま扉を開け放ったまま、彼女の元からはいなくなってしまうのだ。

(私、何処へ行けばいいの───)

彼女は橋の上で立ち止まり、川辺に咲く桜の風景を眺めていた。花弁の多くは既に散ってはいるものの、新緑を混ぜ込んだ葉桜はなお鮮やかに、夕暮れの光と風にゆっくりとなびいていた。

 

この桜並木を、彼と一緒に歩いた日があった。

今と同じ夕暮れ時、今とは正反対の幸せな心。

(俺も先輩の好きなコトが分かって嬉しいです)

どうして彼は、あんなことを言ったのか。

(葉桜の頃なんかも誘って欲しいな、なんて)

優しい言葉の記憶の眩さが、ますます彼女を打ちのめしていく。葉桜の頃という文字通りのその季節、舞い上がりそうな言葉を聞いたその場所を、今こうして疲れきった心で独り、歩いていく現実が。

彼女はその思いに耐え切れなくなり、桜並木から川の水面へと視線を移した。夕日に染まった赤い流れは、まるで自分の胸から流れ出た血の川のよう。

心に走る激痛、もはや現実の傷としか思えないこの胸の痛みを、いっそ本当に現実としてしまえばいいのではないか。この血の流れの中に溺れれば、もう何も考えなくてよくなるのでは───

吸い込まれそうなその考えを、彼女は彼女を支え続けた偽りの鎧で否定する。そんな事をすれば、生徒会に迷惑が掛かる。河野さんを、向坂さんを、まーりゃん先輩を、きっと色々困らせる。だから、自分は血の川ではなく、泥の川を独りで生きていくべきなのだと、そんな連想が彼女の中で湧いてゆく。

 

もうやめましょう。

そろそろ帰らないとママが心配するから。明日からはまた何事も無かった日々を演じなければ。

───ささらはいつものように思考の連鎖を振り払い、踵を返して元来た道を帰ろうとして、

 

「───あれ、久寿川せんぱい?」

 

ふわりと舞う桜のような声で呼び止められた。

心臓が強く鼓動を打つ。この声は。

自分には持てない声。自分とは違う特別な人。

「柚原、さん?」

ささらが振り返ったそこには、柚原このみが心配そうな表情で彼女を見つめていた。その温かみのある存在が、逆に彼女の心に鈍い痛みをもたらした。

 

新たな歯車が新たな音を立て、連鎖する。

 

 

 

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3: 二人の告解

an Interactive Confession

 

平穏だった毎日の欠片が、まだそこにはあったはずだった。壊れそうな世界から逃げ出して、やっと帰ってこれたと思っていた。

冷たい眼差しが、その幻想をあっさり打ち砕く。

 

「──久寿川さんを見捨てたのね」

 

なんで、タマ姉が。

思考が再びぐちゃぐちゃに乱れていく。視界がぐわんぐわんと回っている。自分の顔が強張り、引きつり、歪んでいくのがわかる。汗が噴き出る一方で、身体の芯が恐ろしいぐらい冷えていく。

俺は、何か答えようとした。ついさっきと同じように答えようとした。でもついさっきと同じように、舌の根が凍りついたように動かない。

「……ストップ。私はただ、何があったのか確認しただけよ。今はそれ以上でもそれ以下でもない。だから少し落ち着きなさい」

タマ姉はあくまで冷静な声で、そんな俺のパニックを堰き止めた。ある意味、俺をあざ笑うようなその口調は、しかし情けないほど的確に俺を落ち着けてしまったのだ。

「タマ姉、見てた、んだ」

おかげでようやく滑り出た俺の言葉を、しかしタマ姉は即座に否定した。

「何をどう勘違いしてるかは知らないけど、私は午後帰ってからずっと家にいたわ。タカ坊が今日何処で何をしてきたにせよ、私は何も見てはいない」

淡々とタマ姉は事実を口にする。その口ぶりからして、それが真実であろうことは理解できた。

「私にあるのは三つだけよ」

タマ姉はそう言って、軽く握った拳からそのすらりとした指を一本ずつ広げてゆく。

「一つ、昨日の状況から見て、久寿川さんがタカ坊を今日何処かに誘ったんだろうという推測」

昨日の状況──確か先輩が俺とタマ姉の関係を言い触らしたとかで、二人で言い争っていた話だろう。仕方ないとか、卑怯とか、気持ちがどうとか──

「二つ、あのコの想いの強さから見て、久寿川さんはきちんと戦ってみせたんだろうという確信」

あの時、タマ姉は先輩に何を言ってたのか。

 

(なにもしないうちから諦めないで)

(私のためというなら、ちゃんと戦って)

 

想いって何だ。諦めるって何だ。違う、分かってたはずだ。頭が破裂しそうで、二人の会話なんて分からない振りをしてたけど、本当は俺だって気づいてたはずなんだ。

回る。思考が当て所もなく彷徨う。でもタマ姉はそんな俺の混乱を知ってか知らずか、冷静な、冷酷とすら取れる声のままで、三つ目の指を開く。

「三つ──なのに今、タカ坊がそんな酷い顔をしてここにいるという事実」

頭の後ろに鈍い衝撃が走った。来るだろうと分かりきっていた台詞なのに、その言葉に心臓を鷲掴みされた。血に濡れた包丁を、おまえの凶器だろうと突きつけられた。状況証拠が揃っていく。違う。そんなんじゃない。じゃあ何だ。嘘だ。俺が悪いんじゃない。違うんだタマ姉。それは違うんだ──

「ここまでくれば、考えられる結論なんて一つぐらいしかないじゃない。違うかしら」

タマ姉の告発は止まらない。

三つの指を突きつけて、目の前の女性は冷酷に宣告した。

「そう──今日タカ坊が何処で何をしてきたにせよ、結果としてあなたが久寿川さんを拒絶してきた、という以外にはありえないのよ」

息ができなかった。時間が止まっていた。

俺が拒絶した? 先輩を見捨てた?

違うんだ。俺は先輩を守ってるんだ。先輩は繊細で壊れやすい女の子だから俺はそんな先輩を壊さないように大切に守って見守って応援して──

ホテルの時と同じだった。自分に向かって並べ立てる言い訳の全てが空回っている。でも、それでもそんなことを認めるわけにはいかなくて、俺の口からは否定の言葉がこぼれ出た。

「違う──」

何が違うのか、頭も心も何もかもが絡み合い、思考なんて欠片も機能していないけれど、とにかく否定しなきゃという思いだけが溢れてゆく。

気が付けば俺は叫んでいた。

「違うんだ! 俺はただ先輩を守りたくて!」

けれど、そんな自分の中ですら根拠の薄い叫びが、あのタマ姉を相手に通じるはずもない。タマ姉は俺の大声にも一切動じることなく軽く眉を上げ、静かに疑問の形をした現実を返してきた。

 

「ふうん、じゃ、タカ坊は具体的に彼女を何からどうやって守ってるの?」

「それは──」

 

虚勢は三秒も持たなかった。

「守るって何? 久寿川さん、何処か悪の組織にでも追われてるの? いじめでも受けてるとか?」

違う、そんなんじゃない、でもみんな先輩のこと誤解して、冷酷だの独裁者だの好き放題言ってたじゃないか──

「──確かにちょっと聞いてみたけど、前期はあまりいい噂はなかったみたいね。でも、タカ坊がやってのけた事も聞いてるわ」

そうだ。だからみんなに知って欲しかったんだ。先輩はそんな人じゃない、本当はすごく優しい人なんだって。それで俺はあれだけ走り回って──

「そのおかげか知らないけど、少なくとも私がこっちに来てからの二週間、生徒会長の悪い噂なんて一向に聞こえてこないし、副長って二つ名も今や好意的に使われてる。三月に久寿川さんの引いた予算だって今は十分公正に評価されてるわ」

ドクン、と心臓のリズムが乱れる。

「それは──それって──」

タマ姉が再び淡々と指摘する「事実」に、何故か俺の心は暗くざわめいていた。それらは全て俺が目指していた嬉しいはずの事実なのに、正反対のどす黒い気持ちが心に流れ込んでくる。

「第一あれ以来、久寿川さんって密かにファンクラブすらあるみたいじゃない。それに女の子にだって慕われてるの、タカ坊も見たでしょう?」

いや、その黒い感情は多分ずっと俺の心にあった。始業式の日に、雄二の態度が一変してたのを知ったときから湧いていた黒い感情──何を今更、と。今まで何もしなかったくせに。俺が何とかしたのに、おまえらが何を今更。

俺が、俺が、俺が──

「それに彼女と同じクラスになってみたけど──あのコ、確かにちょっと浮いてないとは言わないけど、別に孤立はしてないわ。むしろあの終業式を見て、今までが水臭かった、みたいな扱いを受けてるのよ」

でも、今こうして第三者のタマ姉が並べている数々の『嬉しいはずの変化』は、俺自身も認めている事実なんだ。だからこそそこに反発するし、独占欲のような感情を抱いてしまうのだから。

だったら、俺が守ろうとしてたのは、何だ。

「だから──それは、俺は──」

言葉が出ない。足元が崩れていく。先輩を守るんだと、先輩のために存在するんだと、そう自分を鎧っていた概念が、自分でもとっくに分かっていた事実を指摘されただけで、脆くも崩れていく。

そして、俺は沈黙した。

先輩を守るという想いが嘘だったとしたら。

(どこでも触れて──)

「────!」

久寿川先輩の白い裸身が克明に脳裏に蘇る。

違う。そんなんじゃない。先輩の指とか、先輩の髪の匂いとか、服の上から想像してた通りの肩とか、汚れ一つない胸とか、太ももの奥に今にも見えそうな下着とか、顔が熱くなって、股間がどくどく脈打ってて、でもそれだけじゃなくて、胸が締め付けられて、思わず手を伸ばしそうになって───

あの時、その全てを否定するために、伸ばした手で先輩の服をつかみ、全てを閉じた。穢れた気持ちを、邪な想いを断つために。

(穢れてた、のか?)

あの時、最後に感じた感情は。胸が苦しくて、でも決して嫌なだけの感覚ではなくて。そもそもあれが穢れだというなら、あの場所に誘った先輩も穢れてるのか、そんなわけはない、だとすれば。

もどかしかった。何かが見えそうだった。

でもそれ以上に、恐怖の方が先行した。何か暗い淵を覗き込んでるような、それ以上考えると転げ落ちそうな感覚が襲ってきて、俺は思考を止めた。

 

時計の針の音が嫌に耳についた。

窓の外はすっかり暗くなっていて、リビングの蛍光灯の光が鈍く映りこんでいた。

完全に俯き黙ってしまった俺をしばらく眺めていたタマ姉は、ほんの少しだけ表情を緩め、沈黙と時計の音を打ち消した。

「変な話ね。久寿川さんをほっといた方が罪悪感を感じるなら分かるけど、そういう変化を引き起こしたタカ坊の方が黙っちゃうなんて」

タマ姉はそう言うとおもむろに立ち上がり、一歩俺の方へと近づいた。

「タマ姉──?」

そのままの位置で俺を見下ろしながら、タマ姉は手を伸ばして一度だけ俺の頭を軽くはたく。優しく撫でているような、少し怒って叩いたような、どちらとも取れる仕草だった。

「タカ坊、間違えてはダメよ。私が今言った変化をもたらしたのが、タカ坊だったのは紛れもない事実。あなたは確かに、久寿川さんを一度救ったのよ」

間違えるって、だって俺は、そんなこと──

「だから、タカ坊が久寿川さんを守りたかったこと、そして実際に守ったこと──それは誰も否定なんてできないし、あなた自身が誇ってもいいことなの。私も、自分の弟分がそういう行動を取れる人になってたと知って、実際ちょっと誇らしかったもの」

少しだけいつもの得意げな表情を垣間見せて、でも何処か寂しそうに、タマ姉はそう言った。そのまま何かを振り払うように軽く目蓋を閉じ、

「問題は、貴方にそれに対する誇りがないことね」

再び表情を硬くして目を開き、言い放った。

その断言するような口調に、俺はようやく反発を覚える。そもそも俺は誇れるような人間じゃない。なのに、タマ姉は何でそんなことを言うのだろう。

「さっきも言ったでしょう、あのコ、あれだけみんなに評価されてる。なのに昨日も聞いた通り、自分には人望すらないと思い込んだままなのよ」

ふと話の鉾先が変わり、俺は毒気を抜かれて思わず考えた。

──それは確かにそうだ。先輩はあんなに優秀で、あんなに綺麗で、俺から見れば先輩以上の人なんていないってのに、先輩は相変わらず常に自分を責めてばかりいた。

 

「タカ坊は、なんでだと思う?」

「え? 何でって、そんなこと」

 

急に質問を振られ、俺は慌てて考えを巡らす。

先輩がすぐ自分を責めてしまうところは何度も見てきた。でも何故、という事まで考えたことは一度もなかった。せいぜい、俺がふがいないから、俺なんて責めるに値しないから、全部先輩が自分で引き取っちゃうんだと思ってた程度。でも、先輩のその態度は決して俺に対してだけではなかったし。

だから、そんなこと分かるわけ──

「そんなこと、何?」

一秒もなかったと思う。

でも、タマ姉はその一瞬の逡巡すら許さず、更に俺に詰め寄ってきた。

「分からない──多分そうなんでしょうね。でもねタカ坊、一番久寿川さんの近くにいて、一番久寿川さんを見てきたのがあなたなのよ。それがそんなにあっさり『分からない』なんて言えるものなのかしら、それとも」

そう一気に言い続けるタマ姉の両目を見て、俺は即座に理解した。

数年のブランクなんて関係ない。──手こそ上げず、声こそ荒げず、しかしそこには明確に、本気の怒りが満ちているということに。

 

「考える前に諦めてた、としたら」

「な、」

 

まるで心を読まれてるかのようだった。

「そ、そんなことない!」

告発劇の再現だった。俺は追い詰められた殺人者のように、必死の弁解を試みる。

 

「考えなかった訳じゃない。先輩の気持ちを考えて、考え抜いたからこそ、まーりゃん先輩の卒業式に漕ぎ着けたんだ。それは誇ってもいいって、たった今タマ姉自身が言ったじゃないか!」

「そうね、でも私が言ってるのは、その後の話よ」

「───っ!」

「話を逸らさないでね。久寿川さんにとって世界が一変してから今日に至るまで、久寿川さんの気持ち、一度でも考えたことがあるの? あのコが何を考えてるのか、真剣に悩んだことがある?」

「それは、───」

 

始業式。いつの間にか副会長に擬され、拒絶した。

先輩がどう考えてたか? それは知らない。

次の日。タマ姉たちを生徒会に引き込んだ。

先輩がどう考えてたか? それは知らない。

生徒会発足記念で食事会をやった。先輩も結構みんなと打ち解けてるように見えた。

先輩がどう考えてたか? それは知らない。

クッキーを食べたいと言ってくれた。タマ姉に頼むほうがいいんじゃないかと提案した。先輩の考えは知らない。先輩を応援してるだけというタマ姉との台詞を聞かれたあと、先輩はとても悲しそうだった。先輩の考えは知らない。雄二から先輩は元気がなさそうだと聞いた。何故だったのかは知らない。先輩は俺が勘違いさせてると言った。大きな謎が残ったまま、先輩の考えは知らない。

 

タマ姉と先輩が言い争った。先輩は泣いてた。

でもどうして泣いてたか、それは知らない。

 

先輩が抱いて欲しいと縋るように伝えてきた。

 

「───あ、」

でも、先輩が何を考えてたかは、

(私──副会長を探すわ)

どの話も、多分こうだろうという想像はあって、

(私の勘違いだったから)

でもそれは、俺の願望以上の根拠なんてなくて、

(触っていいの、河野さんなら)

だって先輩が求めてるものを本気で考えたら、

(河野さん、私たち、まだ──)

それはあまりに明白で、だから俺は怖くて、

「生徒会室で初めて出会った私にすら、諦めという形ではあったけど、彼女の気持ちは行動を伴った形で明らかに分かったの。それが当のタカ坊に伝わってないなんて、信じるほうが無理。あなただってとっくに考えて、そして悟ってたはずよ」

タマ姉が開けてしまう。蓋を開けてしまう。

やめてよタマ姉。怖いんだ、怖いんだよ!

 

「──久寿川ささらは、河野貴明のコトが好き。

こんな当たり前のこと、なんで私が言うんだか」

 

違う。そんなワケない。認めない。

だってそれを認めてしまったら、だって今日俺は、

(どこでも触れて──)

先輩が考えてたかもしれないことを、先輩が一生懸命頑張ったことを、先輩が、無理して、自分の身体で訴えようとしていたことを、

(今日の先輩、おかしいよ。ムチャクチャだよ)

「──────あ、」

理解できないと罵って、先輩がおかしいんだと否定して、もう知らないと拒絶したことに───

 

「うわああああああああああ────────!」

 

逃げた。またしても逃げた。

先輩を傷つけたという、今日の思考の中でも唯一明確だった部分が、更におぞましい重さの罪となって発熱し、脳髄を侵してゆく。

「違う! 違うんだ!」

リビングから転げるように飛び出す。

這いつくばって階段を駆け上がる。

自分の部屋へ、自分の部屋へ、逃げろ、逃げるんだ、逃がしてよ、逃げさせてよ、だって先輩を守るはずの俺が、そんな、そんな───!

「ちょっ、タカ坊!? 待ちなさい!」

肩で叩き破るように自室のドアを開ける。

ドアノブを掴んだまま急反転し、すぐさま振り返ってドアを閉めようとしたその鼻先に、二階にまで追いついてきたタマ姉が全力で投げた何かがすっ飛んでくる。

「な、うわっ!」

避けようとして仰け反って、またしても無様に転んだ。尻餅をつく。顔を上げれば部屋に向かってくるタマ姉が視界に入り、俺は両手両足でそのまま後ずさる。醜いゴキブリのように、慌てて引っくり返って四つん這いで部屋の奥まで逃げ、でも立ち上がる暇などなく再び床に尻をつけ、辛うじてベッドの縁に背中を押し付ける。

そこで、タマ姉に追いつかれた。

タマ姉は慌てず部屋の灯りをつけると、俺の足元へゆっくりと歩みを進めてくる。

俺は荒い息をつきながらタマ姉を見上げた。

仁王立ちで俺を見下ろすその表情は、蛍光灯の白い灯りに照らされ、まるで能面のようだった。

大きく息をつく。ちらりとベッドサイドの大鏡を見る。無様な男が床にへたり込んでいる。入口方面を見た。思わず笑ってしまいそうになる。落ちていたのはタマ姉の履いていたスリッパだった。俺みたいなゴキブリには相応しい。

大きく息をつく。再びタマ姉を見上げると、もう俺は視線を外せなくなった。文字通り、蛇の前の蛙のように。蛙。先輩の頭の上で鳴いていた蛙。蛙が好きでサンショウウオが好きでレッドリストで黄昏れる可愛い先輩。たった一月前の夢みたいな、いや本当に夢だったとすら思える、今はあまりに遠すぎる光景が脳裏に浮かぶ。

 

 

沈黙の時間は一分程だったろう。

多分、タマ姉は俺が少しでも落ち着くのを待ってたのだろう。タマ姉は表情をほとんど作らず、睨みつけるでもなく、しかし俺の顔からは一切目を離さずに、やがておもむろに口を開いた。

「もう一度言うけど、私は事実と、それから推測の確認をしているだけよ。そんなに怖がらなくてもいいと思うけど──それとも、何か逃げたくなる理由でもあったのかしら」

理由ならある。もうこれ以上認めたくないだけだった。俺が先輩を傷つけたことはもう十分わかったから、これ以上傷を開かないで欲しかった。

──でも、そんな独善をタマ姉に言うわけにはいかない。俺はただ、鸚鵡返しに言葉を返した。

「事実とか……推測とか……そんなの、俺には」

「そう? 今日タカ坊と久寿川さんに何かあったのはタカ坊自身が事実と認めたようなものだし。ああ、久寿川さんがタカ坊を好きだってのは、もう誰にとってもほぼ事実だけど一応推測かしら」

認められない現実を再び耳にして、俺はもはや脊髄で反論を口にした。

「違うよ、俺と先輩はそんな関係じゃ」

途端、タマ姉の顔に疲れたような表情が嘆息と共に浮かぶ。それは呆れ顔と言ってもよかった。

「あなたと先輩? タカ坊、この期に及んで何の権利があって久寿川さんの代弁なんかしているの? さっきから先輩の気持ちが分からない、考えてないって顔ばっかりしてるのに」

図星だった。俺と先輩なんて一人称複数形、俺なんかが気安く使っていいもののはずがない。

タマ姉はあっという間にまた俯いてしまった俺を見て、もう一度太い溜め息をつく。そして俺の反論が止まったことを確認するかのような僅かな間を置いて、タマ姉は一気に俺がたじろぐほどの真剣な表情に切り替えた。

 

「二つ、聞かせて欲しいの」

 

俺はまじまじとタマ姉の顔を見返した。それは今日どころか、タマ姉と付き合ってきた中でも初めて見る眼差しだった。

「何度も聞く話じゃないし、そもそも私が聞くべき話かもわからない。でも、私はタカ坊の友人として真剣に聞くの。一度しか聞かないから、そのつもりで答えて。答えたくないなら、何も答えないで。誤魔化しや言い訳は一切要らないわ」

その言葉には、普段にも増した凄みがあった。

今の俺でなくても、肯く以外のことなどできなかっただろう。俺は静かにタマ姉の質問を待った。

「一つ目。久寿川さんがあなたを好きだってこと、もう今日までに気づいてたのか、今も分からないのか、それを教えて頂戴」

強引に問い詰められていたのなら、四の五の言って誤魔化しただろう。でもタマ姉の瞳は凄みと共に、真剣そのものの光を湛えていた。例え俺が最低の男に成り下がっていたとしても、この信頼だけは、最後まで裏切れないモノだった。

「──気づいてたよ。自分自身だって誤魔化してたけど、何処かの時点ではちゃんと気づいてた」

胸に、頭に、強烈な痛みが走る。

これを認めるということは、先輩を拒絶したと認めるに等しい。だが、それこそがタマ姉の狙いなのだろう。俺は黙って、二つ目の質問を待った。

俺の明確な回答と沈黙に満足したのか、タマ姉は躊躇うことなく問いを発する。

「二つ目。久寿川さんのこと、好き?」

これもまた、もしタマ姉が照れてたり、笑ってたりすれば、到底答えられた訳がない。でもやっぱり、タマ姉の表情に一切の曇りはなかった。ならば、俺も曇りなく答えるべきだろう。

「好きだよ。誰よりも、久寿川先輩が好きだ」

そこに気負いはなかった。何故なら、その事実は別段今の大勢に影響しないことを、俺はとっくに知っていたからだ。

むしろタマ姉のほうが、俺の率直な回答を意外に思ったのかもしれない。ともあれ、タマ姉はようやく瞳の色を和らげると、独りごつように呟いた。

「そっか。やっぱりそうなんだ」

タマ姉の顔全体に色味が戻っていく。やがて三度溜め息をつくと、タマ姉は当然と言わんばかりにもう一つ質問を続けてきた。

 

「──タカ坊、だったらあなたたちは両想いってコトでしょう? ならどうして今日、久寿川さんを拒んだりして来たのかしら」

「タマ姉、それ三つ目の質問だよ」

「茶化さないで。二つ終わったからっていきなり誤魔化すような男なの、タカ坊は」

 

そう言いつつもタマ姉は若干今までの圧力を緩め、僅かながら普段の茶化し具合に近い感じで何気なく切り返してくる。でもそれは俺にとって、前二つと等しく真実に繋がる質問だった。

「多分、そうだと思う」

不意を衝かれたように、タマ姉の表情に空白と疑問が生まれる。俺はそんなタマ姉から少し目を逸らし、三つ目の回答を紡ぎ出す。

「だってそうだよ、俺はそういう奴なんだ。さっきもタマ姉に誇りがないって言われたけど、そんなのあるわけないよ。終業式の時だって、俺は自分勝手に動いただけだった」

淡々と、壊れた機械のように、俺はタマ姉が切開した傷から溜め込んだ膿を吐き出していく。

「そうだよ、俺は先輩が好きだった。屋上で泣いてるのを見たときから、きっと一目惚れしてたと思う。だから、ただ先輩の笑顔が見たい一心で、みんなを振り回しただけなんだ。誇りなんて、持てない」

笑ってたと思う。泣いてたと思う。もう認めるしかないんだ。俺がどんなに価値のない男かを。

「先輩が俺に好意をもってくれてるのも分かってた。でも俺は自分勝手で、不器用で、女の子の事なんて何にも分からなくて、先輩の気持ちなんて全然考えられなくて、それなのにみんなが先輩を認めだしたら、何を今更ってムカついたりして、雄二が先輩の隣を歩くだけで、先輩は俺のものじゃないのに嫉妬までして、だから」

この時、俺は顔を上げるべきだった。

いや、顔を上げなかったからこそ、自分がどんな馬鹿な台詞を垂れ流していたのか、全てを流しきってから気づくことができたのだけど。

「俺じゃ相応しくないんだ。俺は先輩と付き合う資格なんてないんだ。先輩は俺なんかと一緒にいたら傷つくだけなんだ。今日、それが何よりも分かったから、だからもう───」

言い終えることはできなかった。

不意に喉が詰まった。身体が浮いていく。

やがてタマ姉と目が合った時、俺はようやく自分が胸倉を掴まれ、引きずり上げられたことに気がついた。上昇は止まらない。タマ姉の右腕に凄まじい力が込められている。掴まれたシャツがぎちぎちと音を立てる。踵が浮いて爪先立ちになる。でもそんなことより何より、

──恐怖した。さっき見た怒りなんて物の数じゃなかった。大きく開いた竜の顎の前で、その咆哮に叩き潰される一秒前。その視線だけで、俺は多分三度ぐらい死んだと思う。

「相応しく、ない──?」

静かな声。それは導火線を伝う静かな炎だ。

「相応しくない、ですって──」

分からなかった。混乱した。死を目前にしたパニックみたいなものだった。俺が何を、タマ姉は何を怒ってるのか、当然それを考える暇などなく、

「誰が」

 

──向坂環は怒号した。

 

「いったい誰がそれを決めると思ってるのよ!」

誰が? 誰がって何だ? 考える間もなくタマ姉はさらに俺の胸倉を締め上げる。

「相応しいとか、相応しくないとか、そんなの誰が決めるのよ。タカ坊? 私たち? どっかに恋人認定機関でもあるって言うの? そんなの──そんなもの、久寿川さん以外の誰が決められるって言うのよ!」

先輩が、決めること──?

「資格がない? 資格って何よ。タカ坊も気づいてたって言ったじゃない、久寿川さんは、あのコはタカ坊を選んだのよ? それを資格がないって言い切るってことはね、あのコが馬鹿で、人を見る目が全然なくて、タカ坊の下手糞な上っ面の取繕いを全部信じちゃって、乙女みたいな幻想であなたを選んだって言ってるのと同じなのよ?」

馬鹿な、そんなコト、でも、確かに───

タマ姉の咆哮は止まらない。

 

「タカ坊──あなた久寿川さんをそんなに見下せるほど偉い男なの? あのコの決めたことを馬鹿にできるほどの詐欺師なの?」

「違う、そんなんじゃない、俺はただ、ただ先輩には俺なんかより相応しい人がいるはずだって」

「何が違うのよ! タカ坊は誰よりも知ってるはずじゃない! 久寿川さんはね、誰かを好きになることを、あんなにも恐れてる人なのよ? その彼女が誰かを求める心を、不器用でも必死で考えてタカ坊に伸ばした手を、全部、何もかも彼女の勘違いだって否定してるんじゃない!」

 

否定。拒絶。そうだ、それは確かに俺が今日、先輩に叩きつけた仕打ちそのものだ。でもそれは、今日に限った話じゃないってことなのか──

「相応しくない、求めてない、見守りたい、もっと他に誰かがいるはず──そんなもの、例え言い訳じゃなかったとしても、全部タカ坊の中の『過程』に過ぎないのよ。過程や理由がどうであれ、他人には、久寿川さんには、それはたった一つの『結論』としてしか伝えられないのよ」

タマ姉が確かめるように一瞬言葉を止める。

たった一つの結論。先輩から見た俺。それはどういうことなのか、いや違う、そんなこと、とっくに分かってたはずなんだ。

「『僕はあなたとは付き合えません』」

「───っ!」

息が詰まる。それは、先輩に向けるにはあまりに冷たい拒絶の言葉。でも──俺は分かってたはずなんだ。俺が先輩を守ると称するたびに先輩が傷つき続けてたのが何よりの証なのに、俺はそれを見ない振りをし続けて──

「どんな綺麗事で飾っても、想いを伝える側からすれば否定は否定でしかないのよ。タカ坊が並べ立ててる言い訳なんて、ごめんなさいとか、お友達でいましょうとか、定番のつまんない振り文句と何も変わらない──ううん、そんなのよりずっと残酷な言葉じゃない!」

ふと、胸元に小さく水が撥ねた。

俺は泣いてるのか。違う。これは俺じゃない。

「誇りがない? 相応しくない? どうしてそんなことが言えるのよ。あなたに誇りを認めたのに、あなたを相応しいと認めたのに、どうしてその気持ちをあっさり否定できるのよ───」

タマ姉が泣いていた。

ぎゅっと目をつむり、胸倉を掴んでいた手は緩んで俺の胸を叩く位置に降りている。まるで自分のことを訴えているような、そんな悲痛な涙声だった。

頭がずきずきと痛み、脳に刻み込まれた罪が更に熱を上げて俺を責めたてる。先輩を拒むことで先輩を傷つけてたのは、単に俺が目を背けてただけの現実だ。でもその根っこは、俺が単純に考えてたよりも更にタチの悪い代物だったのだ。

ようやく理解した。

俺が拒んだのは、俺が裏切ったのは、単なる恋愛感情だけじゃない。

 

俺は先輩の信頼そのものを、裏切ったんだ。

 

先輩にはもっと相応しい人がいる、俺なんかに先輩の相手は務まらない──そんな声は、一体いつから俺の中にあったのか。先学期も春休みも、あの頃の俺は、「俺が先輩を」という気概や、「先輩には俺しか」という少し自惚れた自負で一杯だったはずなのに。その想いだけで、駆け回ってきたはずなのに。

だが俺は、雄二辺りに冷やかされるのが嫌だという幼稚な理由で、そして自分が成し遂げたことを副会長という目に見える形にするのが怖くて、あの日、あの瞬間から、逃げ出してしまったんだ。

 

でも。じゃあ、俺は何がそんなに怖いんだ。

そして俺は、初めて見るタマ姉の涙を───

(違う。俺はこの涙を、何処かで)

「タカ坊が一人の女の子を救える人になってたから。久寿川さんが、それをきちんと認めてくれてたから、だから──私は、それなら諦められると思ったのに───」

タマ姉はそう言って、今や俺の胸に半ば縋りつくようにして泣いていた。軽い混乱が俺を襲う。何故タマ姉が、先輩だけじゃなくて、それって。

(それなら、諦められるって)

これと似たような事が、いつか何処かであった気がする。涙の表情。心の何処かで蓋が開く。震えが来る。蓋をしていた恐怖。恐怖って何だ。

今日、先輩に呼び出されて駅前にいたときの既視感と漠然とした怖さ。服をはだけた先輩を見たときに湧いた狂おしい感情をさらに上から押さえつけた、暗い淵の底のような塊。走り去る先輩を見たときの真っ黒な混乱。今こうして見る涙に感じる恐れ。

この感情は何なんだ。俺は何で逃げたんだ。さっきの理由はそれだけだったのか。

蓋が開く。やめてよタマ姉。やめようよ。

 

「でも、それでも───怖いんだ」

「───タカ坊?」

 

歯の根が合わない。身体が震える。でもさっきまでの溢れるような混乱はない。俺はただ心を埋め行く怖れをそのまま言葉にして、目の前のヒトに素直に打ち明ける。

「怖いんだ、タマ姉」

この素直さは多分、妙なプライドとか、恥ずかしさとか、多分そういうのをタマ姉の涙が押し流してしまったからだろう。

「俺はそれでも、女の子が怖いんだ」

その告白に、タマ姉は凍りついた。俺が苦手意識を持ってたことぐらいは知ってるはずだけど、怖いとまで言うのが意外だったんだろうか。

「どうしようもなく壊れやすくて、触っちゃいけないガラス細工みたいで、大切なことは何も教えてくれなくて、なのに傷ついて、傷つけて、それで自分がすごく嫌になって───」

ああ、多分こういうのを告解って言うんだろう。口にしてどうなるものでもない。それでも誰かに聞いて欲しい。そんな心の澱を語ってゆく。

「なんでこんなに臆病なんだろう。俺だって先輩を傷つけたくなんて、裏切りたくなんてなかったのに。突っ走ってた時は忘れてられたのに、先輩に信じてもらえることは凄く嬉しかったのに。タマ姉の言うとおり、終業式に漕ぎ着けたときはきっと自分が誇らしかったのに」

ついさっきと同じ、壊れた機械のように紡ぎ出される俺の言葉に、タマ姉は何も言わなかった。ただ泣いていた目を開いて、静かに俯いた俺を見つめていた。

「なのにいざ落ち着いてみたら、先輩が女の子だって事がどんどん意識に入ってきて、俺には絶対分からない事がたくさんあるはずだって思えてきて、それでいつか先輩を傷つけちゃうことがどんどん怖くなって───」

心底寒い。心が冷え、身体が震える。

俺はうずくまりそうになる自分を抑えながら、宛てのない告解を続けていく。

「俺、ほんと大馬鹿だよ。結局逃げ出すことで、逆にそれこそ粉々になるほど先輩を傷つけたのに。何で、何で俺は───」

でも、それを言い終えることはできなかった。

気が付けば、タマ姉の両腕が俺の顔をその胸に押し付け、それ以上の言葉を封じていた。いつものからかうような抱きつき方ではなく、抱擁という言葉に相応しい優しさだった。

「ううん、もういいの、タカ坊」

温かい涙がほんの少し零れ落ち、抱きしめられた俺に降りかかる。

「ごめんね、タカ坊、ごめんなさい───」

何でタマ姉が謝るのか。俺の告解で、どうしてタマ姉が涙を浮かべてるのか。でも、それが何となく俺に関わることだと、決してさっきまでの怒号を謝ってる訳ではないのだと、俺は漠然と悟っていた。

 

 

「私も、人のことなんて言えないわね」

タマ姉が遠い目をして呟いた。

ようやくタマ姉が少し落ち着いてきた辺りで、俺たちは並んでベッドに腰掛けた。この部屋とタマ姉の組み合わせは別に珍しくもないけれど、この状況で改めて隣り合うと、やっぱり少し面映い。

「タカ坊が女の子のこと苦手だって話、このみや雄二から一応聞いてはいたの。もちろん雄二は半ば笑い話の一つとしてだけど、このみはちょっと心配してたところもあったみたい。流石、タカ坊アンテナでは私以上ね」

元々俺やこのみたちの間では、俺が女の子が苦手という話は、例えば雄二が危ないメイド好き、というのと同レベルの雑談ネタだった。一方のタマ姉は先月まで九条院にいたわけで、それを噂話として聞いてたことに不思議はない。

でも、心配事ってどういう意味だろう。

「それもそんな最近の話じゃないわ。このみから聞いたのはあのコが中学に入った頃だから、もう三年も前ね。──そう、その頃から、私はずっとその話が気になってた」

タマ姉の述懐に、俺はますますわからなくなる。

確かに「女の子が苦手」という事自体、異性を意識しだす中学頃により顕在化したのは確かだし、その頃雄二には特にからかわれたものだ。でも、それをこのみが心配してたって?

「あのコはちゃんと見てたのよ。ほら、興味の裏返しの気恥ずかしさとか、男女で考え方が変わってくる矢先で女の子が理解できずに苛立つとか、そういうコトなら良くある話でしょ。でもタカ坊の場合、何処か本気で怯えてるところがあったって。それも女の子に怯えてるんじゃなくて、女の子に何かをすることにとても臆病だって──多分このみへの態度にも、僅かではあってもそういう要素が入り始めてたんじゃないかしら。それが切っ掛けで、あのコはあなたの変化に敏感に気づいたんだと思う」

「う、このみには──そんなこと、ないつもりだったんだけどな──」

でもそう指摘されると、確かにその通りだ。俺が時折感じる苦手意識は、厳密には女の子よりも女の子に対する自分に向けられていた。その、決して女の子は嫌いじゃなかったし。

遠くを見たまま、半ば独り言のように語っていたタマ姉は、そこまで来ると目元に辛そうな色を浮かべ、広がっていた意識を近くに引き寄せるような感じで後を続けた。

「このみには、原因までは思いつかなかったみたいだけどね。でも、私にはなんとなく分かってた。もしかして、もしかしたらそうなんじゃないかって。ずっと、胸を刺される思いだった」

え? タマ姉には、分かってた──?

「今日タカ坊を連れてきた時、確か私言ったと思う。あんな顔のタカ坊を見たのは初めてだ、って」

今日。さっき。もう随分前のことのようにも思えるけど、──確かに、タマ姉はそう言っていた。その時、何故か少し言い淀んでたことも思い出す。

 

「本当はね、前に見た顔とそっくりだった。

あの時、最後に見たタカ坊の顔とそっくりだったの」

 

最後? 最後のとき───?

それって、タマ姉が九条院に行く前か。最後に会ったのはいつだっけ。いや、重要なのは最後に何があったかだ。あの時、あの時確かタマ姉は、

「九条院に行ってからも、ずっとその意味を考えてたわ。苦しくて、恥ずかしくて、耐えられずに逃げ出して──少しだけ、一度だけ振り返った時、タカ坊がしていた凄く哀しそうな顔の意味を」

苦しくて、逃げ出して。

それを見てたら、なんだか哀しくなってきて。

この記憶は、確か───

(そうだ、俺はあの日、タマ姉に)

──あの日、俺はタマ姉に告白されたんだ。タマ姉が九条院に転校する前日、初めて見る真っ赤な顔で呼び出されて。

でもその記憶を、俺は今日まで忘れていた。忘れようとしていた。どうして、俺は。

「もし振られただけだったら、あんなに苦しくはなかったのよ。でも最後にあれを見てしまったことで、私はむしろタカ坊に何かをしてしまったと悟ったの。それが一番辛くて、考えてた」

辛かったから、苦しかったから、哀しい記憶を箱に入れて蓋をして、忘れようと、忘れようと──

俺は、何がそんなに辛かったのか。記憶の蓋が更に開きかける。

分かってる。そうだ、俺が苦しかったのは、怖かったのは───

「最初はね、無理に告白した事で純粋にあなたを傷つけたんだと思ってた。好きでもない相手に無理やり好きだって言わされて、嫌な気持ちにさせたんだろうって。そう、単純に思ってたわ。もちろん、それでも十分辛かったけど」

ああ、それは少しだけ今の俺と似ている。もちろん、タマ姉の方が遥かに真っ直ぐに、自分のしたことと向き合ってはいるけれど。

「いつかその事を謝ろうと思いながら、でもタカ坊に会う勇気が持てないまま、もう忘れてしまおうとも考えたりして、そのまま何年かが過ぎて──」

──違った。タマ姉だってそんなに強いわけじゃないんだ。俺はまた、タマ姉は俺より真っ直ぐに、だなんて勝手な思い込みをするところだった。

でも、タマ姉の今の辛そうな表情は、決してその勇気のなさに対してのものではなかった。むしろこれから口にすることへの恐れが、その表情を形作っているように見えたのだ。

「──その頃、このみからタカ坊の話を聞いたのよ。その時に、女の子に触れることに臆病って事と、ずっと記憶に残ってたタカ坊の表情が重なったその瞬間に、一つの仮説ができてしまったの。それは、そこまで悩み続けてた想像よりも、ずっと──私にも、タカ坊にも、ずっと残酷なものだった」

心臓が強く脈打つ。タマ姉が立てた仮説、それはまさか。違うよタマ姉、あれは俺が悪かったんだ。不用意な言葉で、俺がタマ姉を傷つけたんだ。

(タマ姉、そういう冗談、やめようよ)

そうだ。俺はあの時も否定した。タマ姉の想いが冗談だって切り捨てた。相手の気持ちを考えもせず、だから悪いのは俺で、タマ姉はそんな、でもあれからやっぱり怖いんだ、怖いのは何故、だってそうじゃないか、俺が何かを言うことで、俺が──

「タカ坊は、ただ自身が傷ついたことであんな顔をしてたんじゃなかったとしたら」

だって、俺が女の子に触れてしまうと、

「タカ坊は、私を傷つけたことに傷ついて、哀しんでくれてたんだとしたら」

俺は、女の子を傷つけてしまうから。

「───そんな、タマ姉」

あの時、タマ姉を泣かせてしまったから。自分を好きと言ってくれた人を、壊してしまったから。あんなのもう嫌だったから。怖かったから。自分が誰かを、大切な人を壊してしまうのが怖いから、

「私、なんて事を───」

蓋が開く。蓋が開いてしまう。ぐるぐると思考が回る。そんなんじゃない、タマ姉は悪くないと思いながらも、あの日に見たタマ姉の泣き顔が、強く強く脳裏にこびりついて───

ふと気が付けば、タマ姉は再びうっすらと涙を浮かべている。しかし一方で、その表情には何処か晴れやかさを感じさせる面もあった。

「私、怖かったわ。それまでの後悔の何倍も怖かった。タカ坊は優しすぎるから。その優しさにタカ坊自身が深く傷ついて、その原因が自分だったかと思うと、怖くて涙が出そうだった」

告解。そうか、これはタマ姉の告解なんだ。もはや言ってどうなるものでもない。それでも誰かに聞いて欲しい、そんな罪の告白だ。

「しかも救いがたいことに、私、それを思いついたとき──嬉しかったのよ。タカ坊は私を気遣ってくれてたって。私の事を想ってくれてたって。身勝手な、暝い喜び──そんな自分に気がついて、私は自分をさらに呪ったわ」

タマ姉は深く、大きく息をつく。

「もちろん、これは私の思い込みかもしれないって、そんな考えすら湧いてきて、もう何を信じていいかも分からなくなってたの。だから、これ以上は自分で確かめるしかなかった。──それが、私が九条院を辞めてこっちに戻ってきた一番の理由。大学に進んでしまえば、もう引返すことはできなかったから。今年が最後の機会だった」

気まぐれな理由じゃないことは想像がついていた。でも俺自身が理由だったなんて──いやこれだって、タマ姉を良く見てたら分かったはずなんだ。

タマ姉は俺のほうに向き直り、まるで何かを諦めたかのような寂しい笑顔を浮かべた。さっきの怒りとはまた違う、初めて見る表情だ。

「でも私、自分の弱さを甘く見てたのね。実際にタカ坊と再会して、その嬉しさで確かめるって方をおざなりにして。もう臆病さは優しさに昇華してるから大丈夫、久寿川さんの話もあったから、もうタカ坊は大丈夫なんだって、自分が見たいように現実を歪めてしまったのよ──」

人は見たいようにしか物事を見ない。自分に都合のいい現実を信じきり、上辺の想いだけで他人と付き合い、そして裏切られたと嘆いてみせる──そんな教条めいた台詞が、異様なほどの現実感をもって浮かんできた。

俺も、タマ姉も、誰もが───

「あんなに色々考えてたのに。色々学んで、求めたのに。自分の何がいけなかったのか。自己満足でする告白が、どれほど相手の重荷になるか。人の想いって何なのか──私は学んだつもりで、何も変われていなかったのかもしれない、でも」

タマ姉は右手で俺の頬に優しく触れた。

抱きしめはしなかった。あたかも、もう自分にはその権利がないのだというように。

「私が全部悪いとは言わない。それはあなたを侮辱することになるから。でも、あなたが感じている恐怖を作ってしまったのは、紛れもなく私なの。それを認めたところで、タカ坊が負った傷が治るわけでもないけれど」

頬に感じる指先が震えている。抱きしめたい。抱きしめられない。そんな思いがタマ姉の中を駆け巡っているようだった。

「でも、もう傷つけることを恐れないで。女の子だって、そんなに脆いものじゃない。──ううん、人と人が付き合うときに、男も女も関係ない。ただお互いの責任で、お互いの触れ合う深さを決めてくしかないの。そして相手を傷つけたのなら──その傷に向かい合い、償っていけばいいだけなのよ」

傷つけることを、恐れない──?

「ほら、あの時の女の子ならもう大丈夫。タカ坊の優しさで、こんなにも慰められて、笑えるようになってるんだから。タカ坊はもう十分、私の傷を癒してくれたんだから───」

タマ姉はそう言って両手を胸に当て、精一杯の笑顔を無理にでも繕ってみせる。零れ落ちる涙など、存在しない振りをして。

ああそうか。これがタマ姉の、傷つけたことへの向き合い方なんだ。傷つけた、傷つけたと嘆いているよりも、傷つけた相手の元へと戻ることを、タマ姉はとっくに選択してたんだ。例え、途中で少し遠回りしてたとしても──やっぱりこの人は、俺じゃ敵わない最強の姉貴分だった。

なら、応えないと。分からない、やっぱり女の子は怖いし、先輩にはどう向き合ったらいいかなんてまだ分からないけど、でも今はこのタマ姉の作ってくれた笑顔に、応えなくては。

「タマ姉───」

俺はタマ姉の両手をそっと解かせると、そのままゆっくりと抱き締める。いつも抱き締められてた時の両腕は力強かったけど、こうして抱き締めたときのタマ姉の肩は、思ってたよりずっと細かった。

タマ姉が驚いたように目を見開く。俺はタマ姉が何かを言う前に、小さく感謝の言葉を重ねていく。

「今日二度目になるけど、本当にありがとう、タマ姉。あんなにみっともないコト聞かせて、こんなに色々心配してもらえて」

タマ姉の肩から力が抜ける。驚くのをやめて、少しだけ俺に体重を預けてくれる。

「まだ分かんない事だらけだけど、またきっと馬鹿な事を言うと思うけど、でも、タマ姉の感じてくれた誇りは、もう裏切らないように頑張るから」

タマ姉は何も言わない。肩が震えている。熱い呼気が胸元に掛かる。でもきっと、俺はそれに何もしてはいけないのだろう。

「あと、遅くなったけど──あの時、タマ姉を傷つけたこと、今からでも謝りたい。タマ姉の気持ちを考えられなくて、本当に、ごめん」

お互いに見つめあい、そしてお互いに小さく笑う。まだこれで傷が癒えたわけではないけれど、俺たちはゆっくりと互いの身体を離し──

 

こうして、今宵の告解は終わりを告げた。

 

「ああでも多分、あの頃、俺も本当はタマ姉の事好きだったと思うけどさ───」

もちろん、宣言して即『馬鹿な事』を言ってのけるタカ坊には呆れたと、後日タマ姉は笑って俺をどつき倒してくれたのだった。

 

 

 

「送ってかなくて大丈夫?」

玄関先に降りてきたのが午後十時。いくら近所でも一緒に出ようかと思ったけど、

「誰の心配してるのよ。そんな暇があったら、これからのことを考えておきなさい」

と、タマ姉は笑って取り合わなかった。

トントンと、タマ姉が靴を履きながら爪先で床を打つ音が静かな玄関に響き渡る。その音で、タマ姉が帰るんだ、という妙な現実感が引き起こされた。

──この先は一人だ。今日の僅かな時間で、タマ姉には沢山のことに気づかされ、色んなことを教えられたけど、それでもこの先の現実は俺一人で向き合わなければいけないんだ。

タマ姉がくれたのは銀の弾丸などではなく、ただ「自分で考えろ」と彫られた黒い石版なのだから。

と、タマ姉がくるりとこちらを振り返る。一瞬何か口にすべきか迷ったようだけど、すぐ話すことに決めたらしい。まるでいつもの別れ際の他愛のない、ちょっとした未練で綴るお喋りのように。

 

「最後に一つだけ。タカ坊、さっきリビングでした質問のこと、覚えてる?」

「──聞かれたことがありすぎて、どの質問か言ってくれないとさっぱりなんだけど」

 

この台詞に俺たちはお互い苦笑し、そしてタマ姉の側はその笑みを先に消して疑問を再掲した。

 

「どうして久寿川さんが未だに自分を、自分が積み上げてきた物を認められないのか」

「あ──」

 

(自分には人望すらないと思い込んだままなのよ)

怒涛の話の流れの中で、その答え自体については触れないままだった。

何もかも一人で抱え込み、そして成果を出してしまうというのに、一方で自分には何もないと言い張り、いつだって自らを責め続ける先輩。

まーりゃん先輩と触れ合えたはずの終業式以降ですら、なお常に何かを諦めているような、そんな空気が付きまとっていた。

「こればかりはね。こういうのって今までの生き方とかで決まることだし、久寿川さんは色々他にも複雑な事情をもってそうだから──」

でも、何か言えることがある。タマ姉のそんな口ぶりに、俺は黙って先を促した。

「だから、本当の事は私にだってわからないし、これが全てだなんてもちろん思ってない。でもね、自分だったらどうだろうって考えると、一つ言えることがあるのよ」

タマ姉はそう言って、一歩俺の方へと近づいた。

「久寿川さんは、きっと真っ先にタカ坊に認めて欲しかったのよ。事の張本人が認めてくれないなら、周りにいくら評価されたって信じられるものじゃないでしょう。私なら、そう思うわ」

これもまた、分かりきっていたことだった。目を背け続けてきたことだった。

「認めて欲しい──自分を変えてくれたその人に。

自分が恋をしている、その男性に」

まーりゃん先輩が言っていた、触れてあげてというその言葉。それは久寿川先輩にとって、認めてもらうのと同義だったんだろう。ほら、こんなにも気づくチャンスはあったのに。

「忘れないで。私はこれからもタカ坊と、タカ坊に付けてしまった傷と向き合ってくわ。最初はタカ坊に振られたら九条院に帰ろうかなんて思ってたけど、もう私も逃げないから、だから」

真っ直ぐに俺を見つめてタマ姉が言葉を紡ぐ。

それはきっと、タマ姉にとっては別離の言葉でもあったのだろう。

「貴方も、自分が付けてしまった傷は、自分で償いに行ってあげて。それが、今の私の望みだから」

自分の想いに別れを告げ、俺の旅路を祈ってくれる。

まったくこの人らしい、別れの言葉だった。

そうしてタマ姉は颯爽と踵を返し、昂然と背筋を伸ばしてこの家を後にする。

「じゃあね、貴明。また、学校で」

 

タカ坊、という耳慣れた呼び名を最後に消して。

扉が閉まる。

そして俺たち二人は、独りになった。

 

説明
ささらを中心に、このみ、タマ姉、雄二を巻き込んで、本編とは少し違った運命の流れを語るシリアス小説。「ホテルの拒絶」から物語を分岐し、ヒロイン3人、そして貴明の心を本編よりも深く切開し、真の解決を目指します。

本編の安直な解決に納得のいかなかった貴方に。恋に怯える全ての人に。
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