夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち 2 |
「もう、あんな苦しい想いしたくなかったの。だから私、好きになりたかったの。
がんばって、人のこと、好きになりたかったの――」
───久寿川ささら、四月七日。
それは暗雲を切り開く一瞬の雲間。
空の高みから水面までを覗かせる、ただ一度の言葉だった。
この機会ですら、彼にとっては致命的な誤解の一端でしかなかったけれど。
5: 彼女の主張
A Beloved Girl, A Belonged Girl
赤い光が、橋の上の世界を満たしていた。
西日が真っ直ぐに川面を渡ってくるこの橋は、春の間は河原の桜を眼下に従え、川と共に赤く染まった光の奔流をまるで堰き止めているかのよう。
このみは、通学路にあるこの橋が好きだった。
幼い頃から遊び慣れた河原であり、季節の移ろいを感じられる眺めであり、そして毎朝幼馴染と他愛の無いお喋りに高じる橋の上。沢山の想い出がこの場所には詰まっている。
だからこそ、へたり気味のゲンジ丸には少々遠いこの場所が、時折その散歩コースに選ばれるのだ。もっともゲンジ丸の側にしてみれば、ここまでくれば川辺に下りて一休みできる、救いの橋に見えてるのかもしれないけれど。
今日も橋を渡って桜並木へと向かっていたこのみは、その見慣れた橋の中程にぽつんと佇んでいる先客の姿に気が付いた。
赤い光の中に、黒くまとめられた服装が独り影を落としている。その先客は欄干に軽く手を付き、桜と川面の流れに見入っていた。
何処か儚げなその人影、絵になる眺めと言っても良いはずのその光景に、何故かこのみは肌寒いものを感じてしまっていた。
まるで、赤い血の色に魅入られてるような。
(ってわたし、何考えてるんだろ)
脳裏に湧いた不吉な感覚を振り払うように、彼女はいつの間にか止まってしまっていた足を再び橋の対岸へと向ける。一瞬遅れてゲンジ丸の爪音がそれに続き、何気ない散歩が再開されようとしたその時、その人影が不意に欄干に背を向けた。
振り向きざま、夕焼けの光が物憂げな横顔を照らし出す。相手はこのみに気づいた風もなく、俯き加減のまま光に背を向け、再び影の中にその表情を落としていた。
でも、それは間違いなく。
「──あれ、久寿川せんぱい?」
見慣れない黒の可愛い私服に一瞬戸惑ったけれど、夕暮れの風にたなびいたその髪は確かに久寿川先輩のものだった。
「柚原、さん?」
ささらはこのみの呼び掛けに何故か一瞬身体を強張らせ、僅かな間を置いた後に面を上げた。
互いの視界が重なり合い、ようやくお互いの顔が認識されあう。その瞬間、このみの中に先刻感じた薄ら寒い感覚が再び蘇った。
「先輩──どうしたんですか!?」
このみが思わず叫んだのも無理はない。
彼女がささらに見出したのは、まるで死人のような顔だった。常に物憂げで、美人なのにいつも何処か悲しそうな顔をしている久寿川先輩。だが今このみの前にあるのは、そんな物憂げなどという域を超えた、今にも手首を切りそうな脆さだった。
だが、このみの心配そうなその表情に、ささらは僅かの間、却って表情を暗くする。
(柚原さん──河野さんの妹のような──)
柚原このみ。河野貴明の幼馴染にして、今も常に単なる後輩以上の存在として彼の近くに在り続ける女の子。長い時間を彼と共に過ごしたおかげか、それとも彼女生来の属性の賜物か、ささらが恐る恐るとしか触れられない貴明の機微に、このみは易々と踏み込んで見せている。
──今浮かんでいるこのみの表情は、純粋に相手を気遣ってのモノだろう。相手に好かれようとか、相手がどう考えてるとか、自分の表情が何か誤解を生まないか、嫌われるんじゃないか──ささらの心に常に湧き起こるそんな感情は、今のこのみには微塵も浮かんでいないに違いない。
(私は──私には作れない顔──)
今のささらにとって、その表情は眩すぎた。
私もこんな風に自然に他人に感情を伝えられていれば。あんな風に河野さんの傍にいられたら。こんな風に柔らかな声と優しい雰囲気で、あんな風に皆に愛されて、そして、
彼女のように、河野さんの特別でいられたら。
(違う、私、そんな)
自分の心配をしてくれる後輩にすらそんな後ろ暗い感情を抱いてしまう自分自身に気づき、彼女は更に自らを呪ってゆく。
されど、逡巡は刹那。
「どうしたって──ううん、別に何でもないの」
ささらはさらりと答えを返す。
深淵の底を覗き込んだ思考を瞬時に断ち切り、彼女はいつものように笑顔を取り繕った。すっかり手馴れた行為。四月以来、殊更に冷たい表情を返す必要性は感じなくなっていたが、それでもその笑顔が仮面であることに変わりは無い。関係を拒絶する硬い声も、相変わらず変えられないままだった。
「もうちょうど帰るところだったから。また来週学校でね、柚原さん───」
流石に胸の痛みを隠し切るのは難しかったが、ささらはある程度自分の仮面に満足し、そう一方的に言い残して踵を返そうとした。だが、
「なんでもないわけ、ないでありますよ」
一方的な台詞は、そうして遮られた。
このみの強い口調に、ささらは思わず返しかけた足を止めていた。再び二人の視線が交錯する。
さっきまでの心配そうな顔に、真剣と呼ぶべき眼差しが加わっていた。もし彼女を良く知る者であれば、これが彼女の母親譲りの一途で頑固な決断力の発露だと気づいただろう。
だが、ささらはこのみの性格にさして詳しいわけでもない。自分の拒絶が通じず、却って一歩踏み込まれた状況に、彼女はかすかに苛立ちを覚えながらも繕いを重ねる言葉を返した。
「どうしたの柚原さん? 別に私はあなたに心配されるようなことは何も──」
「だって先輩、そんなに泣いてるのに」
即座に切り返された台詞に、ささらは思わず片手を目元に当てた。既に涙の跡は消えている。もしかして目元が若干赤く腫れてるかもしれないけど、でもそれは少し寝不足だからで、泣き顔を消すのは得意なはずで、第一泣いてたとは限らないのにどうして彼女はそんなに断言できるのか───
そこまで心の中で呟いたところで、ささらはこのみの言葉の端に込められた意味に気がついた。
(泣いてる? 泣いてた、じゃなくて?)
ささらの目が僅かに見開かれる。
それを何かのサインと受け取ったのか、このみは続けて自分が見たままの相手を言葉に換えて表現する。
「先輩、泣いてないけど、泣いてます」
真っ直ぐにささらを見据えて言葉を紡ぐ。
「うまく言えないけど、久寿川先輩、すごく辛そうで、いっぱい泣いてて──」
それは最初の呼び掛けから変わらぬ、彼女を一心に案じての声だった。
「なのに──それなのに、それで何でもないなんて絶対違うでありますよ──」
甘く見ていた──ささらはこのみの言葉に、そんな思いを抱いていた。いや、ついさっきも考えたはずだった。このみが貴明の機微を読み当てるのは、決して幼馴染ゆえの長い付き合いがあるからだけではない。彼女が人をよく見ているからだ、と。
(でも、それだけじゃない──)
だが一方で、その観察眼が僅か二週間ばかりの付き合いしかないささらに及んだ理由の底には、他ならぬ貴明がいるのだろう。このみの視線がいつも彼に注がれていることぐらいは気づいているし、そしてこの二週間、ささらはその傍にほぼ常に在り続けたのだから。
誤魔化しの通じなかった苛立ち、踏み込まれたことへの反発、他ならぬ貴明の「特別」に心配される複雑さ。その全てが織り交じり、ささらは珍しく語気を強めてこのみに言い放ってしまった。
「だったら何? そんなこと、柚原さんには関係のないことでしょう!?」
副長が白鞘を払い白刃を抜く。半年前の学園生徒であれば、飛び退って平伏しかねない台詞だ。
だが、このみはそこに真っ向から切り結んだ。
「関係ありますっ!」
二人の感情と感情がぶつかり合う。
そう、今のささらの口調は冷たい副長の言葉を思わせこそすれ、その実、作り物ではない直情からの叫びである。感情からの攻撃であれば、同じく感情によって迎え撃たれるは道理だろう。
「先輩は──久寿川先輩は生徒会の大事な友達だし、それに──タカくんの大切な人です! その人がそんな顔してて、関係ないとか思えるわけないです!」
貴明先輩と言い繕うことすら忘れ、このみは全力で叫び返す。
一方ささらは、そこに貴明の名前が含まれていたことで更に感情を昂ぶらせかける。
だがその時、通りかかった自転車の少女が驚いたようにこちらをちらりと振り返り去ってゆく。ゲンジ丸が思い出したかのように一声ヲフと吠え、二人に今自分たちがいる場所を意識させた。
「え、えっと──久寿川せんぱい、その」
二人はお互いに赤面しつつ、次の言葉を模索する。
「その──柚原さん、でもやっぱり──」
一時の熱が覚めたところで、ここまでの気まずいやり取りが取り消せるわけでもない。二人は沈みゆく夕日の中でしばし立ち尽くしていた。
「久寿川先輩、一つだけ」
意を決したように、このみが沈黙を破る。
「あの、タカくん──貴明先輩の事、ですよね」
再び登場した彼の名前に、ささらは今日の忌まわしい記憶が呼び覚まされ、抑え込んだと思っていた激痛が胸の中を今一度駆け巡る。
だが今のささらに、先刻のように有無を言わさず逃げ出す気力は残っていない。それに、このみが何を自分に伝えようとしてるのか、興味が無いと言えば嘘になる。例え全てが壊れてしまったとはいえ、それがか細い糸でも構わない、貴明と繋がる何かを彼女の心は捜し求めていたのである。
「──少し、歩きましょうか」
彼女は答える代わりにそう告げると、桜並木ではない駅側の河原へと足を向けた。
今や遥か遠い昔に思え、実現に至っては夢に等しい貴明との約束──葉桜の下を共に歩くという儚き夢を、思い出さぬよう、そして、汚さぬように。
河原の堤防の上を、二つの人影が歩いてゆく。
艶やかな黒に身を包んだ少女。
ふわりとした白を纏った少女。
春から夏への入れ替わりを感じさせる長めの夕暮れも流石に行き足を速め、太陽は最後の朱色をますます色濃く辺りに投げかけている。
このみはゲンジ丸をいつもの木陰に結わえ付け、ささらと二人だけで歩き出していた。元より、お互いそうそう長話ができる状況でもない。ちょっとだけ待っててね、というこのみの声に、ゲンジ丸は大きな欠伸一つで二人を追い払った。
──そして、沈んだ時間が流れてゆく。
ひとたび感情を落ち着けてしまうと、お互いなかなか次のきっかけになる一言が出てこない。先月のささらと貴明が桜並木で感じた心地よい沈黙とは正反対の気まずさが漂っている。
それでも、河辺を撫でる風と優しい風景に助けられ、二人の緊張は少しずつ夕日に紛れていった。
やがて、このみが意を決して口火を切る。
「その、昨日タマおね──環先輩と久寿川先輩の話を聞いちゃって、ちょっと意外だったんです。タカくん、あ、えと、貴明先輩と久寿川先輩のこと」
幼馴染二人の名前をわたわたと言い直すこのみにささらは弱々しい笑みを返し、普段通りで構わないと軽く告げた。
「それにそんなにかしこまらなくていいわ。その方がお互い楽に話せるでしょう?」
実際には、年上にも関わらず敬語めいた余所余所しさを漂わせているのはささらの方なのだが、このみはその言葉に素直に感謝し、ホッとしたように会話を再開した。
「タカくんと久寿川先輩、すごく仲よさそうだったから。来週の歓迎会の話も二人で決めてきてたし、あ、生徒会にわたしたちが初めて呼ばれた日の夜も、タカくんが帰りに駅の方に戻ったのって──久寿川せんぱいのトコだったんだよね」
途端に言葉が丸くなるこのみにささらは少し苦笑しながらも、意外さと既知感の半々で疑問を返す。
「え、どうして私の所って」
別に鎌をかけたという意識もなかったこのみだが、それでもやっぱり、と納得の表情で彼女は答えた。
「あの日のタカくん、先輩とわたしたちの引き合わせでくるくる回ってて、あんまり先輩とゆっくりお話してなかったみたいだったから。だから、きっとタカくんなら行ってあげたんだろうな、って」
華やいだ語り口は、まるで幼馴染を自慢するかのように。それはさっきから繰り返しささらの心を刺しているこのみの貴明観察日誌であり、相手の呼吸を理解している「特別」な存在ならではの台詞だ。
「そう、だから、えと」
しかしそこまで来ると、流れる様だったこのみの言葉が急に立ち止まる。頬を仄赤く染めて、彼女はごにょごにょと呟くように続けた。
「先輩とタカくんは、その、もう付きあ──」
ささらは彼女の言わんとしている事を察し、ほんの一瞬同じく顔を赤らめる。そして今日という現実によってその一瞬の夢想を即座に粉々に打ち壊し、砕けた鋭い破片を吸い込んだかのように固く胸元を右手で握り締めた。
「──んだと思ってたから、昨日の生徒会、それでちょっとびっくりしちゃって」
ささらの表情を伺うように、このみは最後の部分だけは語調を戻して口にした。
一方のささらは、相変わらず感情の波を諦観という飲み慣れた麻薬ですぐに鎮め、静かな微笑すら浮かべて反論する。
「そんなことないわ」と、彼女は以前貴明本人にもぶつけた言葉を再び口にした。
「河野さんは誰にでも優しいだけよ。柚原さんにも、環さんにも、ほら、委員の──小牧さんの書庫の話も聞いてるし、ルーマニアの留学生さんの面倒も見てくれたみたいだし」
だから、自分が特別になれるなんて思うこと自体が間違いだったのだ。私一人が浮いている。私だけが、馬鹿みたいに舞い上がってる。向坂さんと柚原さんという現実を見て理解したはずなのに、今日もまた彼の優しさに縋って無様な真似をして───
そんな悔悟と痛みを寂しい笑いに乗せて、彼女は自身を説得しながら言葉を紡ぐ。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか。ささらにとっては意外にも、このみの反応は彼女のそれに同調した。
「あはは──ちょっとそれ分かるかも」
と、このみは思わず苦笑いを浮かべていた。
「タカくん、誰にでも優しいよね──」
それはここに来てささらが初めて耳にする、このみの少し寂しげな、独白めいた呟きだった。
その響きに、ささらは何処か引っ掛かりを覚えていた。自分の感じていたこのみ像や、貴明への認識に対するかすかな違和感。自分の発想に、何か致命的な誤りがあるのではという根拠の無い予感。
(誰にでも──柚原さんが、それは──)
だがその発想自体、手を伸ばして掴もうとする前に宙へと抜け去ってしまう。痛みに耐え続けた精神は磨耗し、思考の歯車は空を切るばかりだ。
ささらはそのもどかしさを追うように、誤魔化すように、深く意識しないままこのみの呟きに自分の心情を被せ、声にした。
「そう、だから私が少し勘違いしてただけなの」
このみは思わず顔を上げる。
この言葉の意味の理解を敢えて拒んでいた貴明とは違い、最近のささらを見ていた者にとって、それは明確な意思の表明だった。たとえ「勘違い」と裏返しの表現ではあっても、それはささらが信じたかったもの、彼女が欲しかった想い、その告白だったのだから。
「河野さんは優しいから、そしてあの時私が河野さんに涙を、弱いところを、本当は学校中に嫌われてるってところも、全部見せてしまったから」
それが一連のまーりゃん先輩卒業騒動の話だということは、それを人伝にしか聞いていないこのみにも分かった。
かつて、貴明が夕闇の学校で必死で写真の欠片を探していた姿を思い出す。時に驚くほど他人の為に全力を尽くせる、優しさの底にある芯の強さ。
(その優しさに乗せて、想いが届く日を夢見てた)
ささらの告白を聞いたこのみの脳裏に、そんなフレーズが浮かび上がる。
タカくんは優しいから、わたしにいっぱい優しくしてくれるから、その優しさを辿っていけば、いつかは想いが届くと信じて───
(なんだ、そうだったんだ)
環に勝るとも劣らない綺麗な女性。高い知性と怜悧な空気を纏った孤高の少女。先月の卒業式騒動を噂には聞いていても、生徒会に入って意外な面を見ていても、それでもこのみからすれば何処か仰ぎ見る存在だった久寿川ささら。
(先輩みたいな人なら、タカくんとか恋とか簡単にうまくいっちゃうと思ってたけど)
しかしそのささらも、貴明への想いという点においては、このみや環と等しく不器用だった。彼の優しさに甘え、縋ってしまい、その心地よさから一歩を踏み出す勇気が持てない自分たちと、等しく。
(よく考えてみれば、あのタマお姉ちゃんだって苦労してるぐらいだし)
環は敬愛する姉貴分ではあったが、同時に自分の強力な恋敵であることを、このみは十分に認識していた。環が九条院から戻ってきた理由もすぐに分かったし、そもそも二人はお互い、自分の持ち味でどちらが先に貴明を振り向かせられるか、暗黙の内に競っているような面もあったのだ。
しかし、とは言え。
(むー、でもちょっと、ずるいなあ)
ささらの想いを前にして、未だ無垢な心を留める彼女の中にも、もやもやとした感情が湧いてくる。
それはそうだろう。写真探しの時も、春休みの冒頭でも、貴明の真剣さをこのみは目の当たりにしていた。環が幼い頃に果敢な連撃で彼女自身の不在の間も残った橋頭堡を築き、このみが兄妹同然の長い時間を掛けて入り込んでいった貴明の中に、僅かひと月で一足飛びに踏み込んだのがささらなのだ。
それだけですら悔しいのに、更に最後の一歩で躊躇してしまうなんて、強者が圧倒的優位を弄んでるようにも思えてしまう。
(だからって、あっさりタカくんを取られちゃうのも嫌だけど、でも──)
でも。実際のところ、事実上三月頃からこのみの目の前で一つの恋が成立しようとしていた訳だが、だからと言ってこのみの中にそれを押し止めようという気持ちはまったく存在していなかった。
もちろん、長く培われたこのみの貴明への想いは本物である。しかしそれが明確に恋かどうかの自覚はなかったし、また貴明自身が幸せであればそれでいい、という想いも誰よりも強かった。
それに、別の考えならばあったのだ。
それはこのみ自身にとっても漠然とした思いであり、明確に意識していたわけではない。だが、もし自分が思い切って踏み込んでいく前、自分が貴明と同じ学校に通って対等な勝負ができるようになる前に、貴明に別の好きな人ができてしまったら、その時は言い訳を作って踏み込めなかった自分のせいなのだから、相手を祝福してあげるべきと彼女は思っていたのだ。
──この発想自体、一種の言い訳、逃げ道ではある。だが常に幼馴染三人を上に見上げ、一学年後に生まれてしまったというハンディの中で想いを育ててきたこのみにとって、それは無意識の作り出した精神的安全弁でもあったのだ。
ともあれ、ささらと貴明の関係はちょうどこのみが自ら引いた容認の境界線ギリギリに浮かんでいるのだ。応援すべきか、抵抗すべきか、単純ならざる思いを抱いてしまうのも無理もない。
(でも──それでも、タカくんが幸せなのが一番大切だよ、やっぱり)
そもそも事の起こりから、貴明とささらの間、特に貴明の側に起こっていた変化を目の当たりにしていたこのみである。だからこそ、この時の彼女はささらの否定に対し、更なる反論を口にした。
「うーん、でもそれは違うと思うな」
何処か遠くを見つめた雰囲気は残したまま。
そんな言葉を紡いで反論するこのみにささらは思わず足を止め、相手の顔をまじまじと覗き込む。
何が違うのか。どれが違うというのか。桜色の彼女にしては珍しい寂しげな空気は何を意味しているのか。先程自分が感じたもどかしさの尻尾を再び見つけたささらは、黙ってこのみに先を促した。
「っと、タカくんが女の子苦手なのって──」
知ってるかなと伺うように、ちらりとこのみがささらに上目遣いを向ける。ささらは黙って小さく頷き、そのまま話を続けさせた。
「うん、それでね、確かにタカくんは特に困ってる人に優しいけど──その、特に女の子が困ってる時にはいっぱい助けてくれるんだけど」
そこまではささらと同じ認識だ。だが、
「でも、多分その苦手意識があるからだと思うけど、助けてくれたら終わり、ってトコもあるんだ」
と、このみは意外な評を口にしていた。助けたら終わり──それは捉えようによっては『冷たい』と貴明を非難しているようにも聞こえる。
ささらはこのみの真意がつかめず思い悩む。
(終わり──それって、やっぱり河野さんは──)
それは貴明の自分に対する態度のことなのか。やはり彼は自分の弱さを助けてくれただけで、もういなくなってしまうのか。
「その後は、それ以上は、踏み込まないようにしてるっていうか。あの、別に冷たいとかそんなんじゃないんだけど、タカくんは」
ささらの表情にそんな思考が表れていたのか、このみは慌てて弁解を付け加えつつ、それでも彼女なりの認識を精一杯説明しようとする。
「タマお姉ちゃんは昔のタカくんを知ってるし、わたしはずっと隣に住んでたから、流石にあんまり苦手とかは思わないでくれてるけど──それでも時々、ちょっと寂しいなって感じることがあるよ」
あはは、と小さく笑っては見せるものの、このみの表情には少しどころではない影が浮かんでいる。
その寂しげなこのみを見た瞬間、
(寂しい──? 嘘、じゃあそれは)
鈍っていたささらの思考の中で、一つのピースがカチリとはまる。彼女が先刻、誰にでも優しいという件で感じた違和感。このみの表情の意味。
(柚原さんも──向坂さんも、同じだというの?)
そう。もし彼が本当に誰にでも優しいというのなら、このみや環ですら『誰にでも』の範疇に過ぎなくなってしまうということ。
常に彼のそばにいて、いつだって楽しそうに笑ってて、その自然さが羨ましかった幼馴染の二人ですら、ささらが思っているような、本当の意味での貴明の『特別』にはなり得ないというのか。
だったら、自分の『勘違い』は何なのだろう。
それは本当に勘違いだったのか。
貴明は自分だけを見てくれないのではなく、誰を見ることもない存在≪、、、、、、、、、、、≫なだけではないのか───
ぐらり、とささらの身体が揺れる。危ない、と彼女の深層意識が囁きかける。傷つきやすい彼女の心を護ってきた意識が、それ以上考えるなと警告する。
信じたい心と、信じられない気持ちの衝突は、今の傷つき弱ったささらには劇薬になりかねない。自分だけではないのだ、という安心感を覚えても良いはずなのに、彼女たちですら、という絶望感だけがささらの心に入り込んで来てしまう。
ささらは傾きかけた視界をかろうじて立て直し、縋るような思いでこのみを見つめ返していた。
そんなささらの視線をどう受け取ったのか。
このみは記憶を手繰るように、言葉を紡ぐ。
「実はね、このみも一緒だったんだ。タカくんが先輩の写真の片割れを探してたとき」
虚ろになりかけたささらの意識が、再び揺すられる。
それこそは、全ての始まりだった。彼女の手から零れ落ちた一切れの想い出が、彼女の世界を何もかも変えてしまった──あるいは、変えてくれたと思い込んでいた、この出会いの全ての出発点だった。
いずれにせよ、彼女はその始まりに立ち合わせていたというのか───
「あの時のタカくん、本当に必死だった」
このみの口から語られるのは、あの頃のささらからは見えなかった貴明の舞台裏だ。
「その時は何を探してるのか知らなかったけど、タカくんは一人で中庭中を、暗くなってからもずっと探してたんだと思う。聞いたらもう十日以上前に無くしたものだって。そんなの、絶対見つかるわけないのに──」
ささらが小さく息を呑む。
彼女はてっきり、あの屋上から写真が千切れ飛んだ直後にでも、貴明が先に片割れの方を見つけていたのだと思っていた。そこにまーりゃん先輩の姿を見ていたからこそ、彼はその後自分に近づき、あの卒業式を演出してくれたのだろうと考えていた。
「たまたま、わたしがゲンジ丸を連れてたタカくんを迎えに行ってたから──それで、何とか写真は探せたんだけど」
だが、そうではなかった。
彼は何ら拠るところも無しに、ささらの涙の為に奔走していたのだ。そしてまーりゃん先輩との確執を目の当たりにしたその後から、その解決の為に絶望的な捜索にあたっていたのだった。
「本当に、本当に真剣だった。写真を見つけたとき、タカくん泣いてたもの」
(そんな、河野さん──)
ささらの反応を見て、今の言葉がささらにとって新たな事実だった事を確認すると、このみはここぞとばかりに思いの丈をささらにぶつけた。
「後からまーりゃん先輩の話とか、卒業式の話とかを聞いて思ったんだ。優しいだけじゃ、お節介なだけじゃ、あんなことできないよねって」
それは、このみにすれば辛い言葉のはずだった。
だが、既に起きた事実は変えられない。始まってしまった想いは、幸せを追い求める道は還せない。このみは直感的にそれを悟っているからこそ、今こうして自分の想い人を他人の方へと押してゆく。
「それにね、いつものタカくんなら、まーりゃん先輩の卒業式で『お役目』は終わりだったと思う」
終わり、というキーワードが再び登場し、ささらは今しがた感じた疑問を思い出す。
「それはさっきの──助けてくれたらそこまで、っていう話の事?」
ささらが問いかけ、このみがこくんと頷く。お互い、話の輪がつながった事を確かめ合った。
「タカくんは女の子っていうより、その、多分だけど、女の子に接する自分自身に臆病なんだと思う」
これは、このみと環の間でも何度か触れられた話題だった。大抵は冗談に紛れた雑談の一つとして登場するだけだったが、一度だけ環が悲痛な声を返した事があり、原因は分からないにせよ、このみはこの指摘がある程度的を射たものであることを、彼女ならではの直感で確信していた。
「だから、絶対自分からは踏み込まないし──実際ね、春休みの最初にタカくん、先輩を傷つけたってすっごく落ち込んでたんだ」
忘れもしない、水族館の翌日の出来事。
そうだ、あの時ささらも気づいたはずだった。
彼は本質的に自分に似ているところがある。互いに相手を傷つけたと思い込み、そして何より相手を傷つけた自分が嫌で、落ち込んでしまうのだ。
結局その後、彼には手を差し伸べられる一方の日々が続き、その認識自体は何となく忘れかけてしまっていたけれど。
「でもあの日、タカくんは先輩にちゃんと電話で謝るって宣言して、多分その通りにしたんだよね」
その彼の背中を押したのがこのみ自身であることに、彼女は敢えて触れずにおいた。しかしここまで話が来れば、ささらも盲目ではない。この時もまたこのみの存在が何かの切っ掛けになったであろうことを、ささらは漠然と悟っていた。
「だって今になって思えば、あの後の春休み、ずっとタカくんが何処かにお出掛けしてたのって、久寿川せんぱいのトコだったんでしょ?」
このみは吹っ切れたかのように、純粋に彼の行動を誇らしげに語る。
「ええ、確かにそうだけど──」
ささらは特に否定する事もなく頷いたが、その純真さがまた、ささらの中に鈍い痛みを引き起こす。
「うん、それでわたし気づいたんだ。これって今までのタカくんと違うな、って」
今までと違う貴明。
ここに来て、それは違う、というこのみの最初の台詞が思い起こされる。勘違いではない。何が勘違いではないのか。何が違うのか。それは───
「終業式が終わって、そのあと何かがあって、踏み込んで、傷ついて、怖かったはずなのに。でもタカくんは、先輩のところに行ったんだよ」
それは訴えるような瞳だった。
分かって欲しい、気づいて欲しい。自分の長年の幼馴染が、久寿川ささらに何を想っていたのかを。
常に貴明に注がれていたこのみの眼差し。彼を深く深く理解した瞳。
そして昨日の環と同じ、誰かの幸せを願っての訴えるような言葉。
──ささらは、ここで確信した。
(同じなのね、柚原さんも、向坂さんも)
二人とも、貴明の幸せを心から願っている。
二人とも、貴明のことを本当に想っている。
それに引きかえ、自分ときたら。
「タカくんはこの一ヶ月、先輩を幸せにしようって、それだけで頑張ってきたんだよ」
沈み込んでいくささらの内心とは裏腹に、このみは必死の思いで貴明の想いを代弁し続ける。
「嘘じゃないよ、このみは、タカくんをずっと見てたから──だから分かるんだよ。タカくんてそういうこと慣れてないから、色々失敗もしたかもしれないけど、でも、それでも──」
先程ささらから零れた勘違いという言葉と同じく、このみも無意識のうちに想いの告白に等しい言葉、等しい感情を込めた勢いで、ささらへと気持ちをぶつけている。
だが、一方のささらは。
(分かってるの──そんなこと、分かってる)
むしろ今のこのみの熱弁によって、この一ヶ月の自分がどれだけ貴明に迷惑を掛けてきたか、彼がどれだけ自分を心配してくれていたか、どれだけ彼の想いを踏みにじってきたか、そして、
どれだけ自分が彼に相応しくないか。
それが、心底理解できた。
「──だから、勘違いなんて嘘だよ。誰にでも優しいなんて、そんなの違うよ。先輩は、タマお姉ちゃんやわたしじゃ届かなかった、タカくん自身を動かすってことができたんだから、だから」
(ありがとう。でも、だからこそ)
「タカくんは、久寿川先輩の事が本当に──」
そこまで一気にまくし立てるこのみの唇に、ささらは押し止めるようにそっと冷たい指先を当てた。
「す──はうぁ!?」
口元に不意に感じた違和感に、このみの言葉も思わず急停止する。大きく目を見開き、文字通り驚きによってこのみは口をつぐんだ。
「柚原さん──良く見てるのね、河野さんのこと」
ささらから静かな声が流れ出す。
それは今日、いや二人が生徒会で出会って以来初めて、ささらからこのみ自身について向けられた言葉だった。
(え、なんで、どうしてわたしのことが)
このみは急に断ち切られた思考と、突然向けられた自分への言葉に、混乱したまま相手を見つめ返す。だがその相手から続けられた台詞は、更に彼女の混乱を煽るものだった。
「貴女も好きなのね、河野さんのことが」
も、という表現。ささらにとって、それは単純にここまでの二人の会話で生まれた認識を追認するものでしかない。むしろそれを口にすることで、お互いの認識を胃の腑に落とす効果を狙っていた。
「え? あ、えと、その──それは」
しかし、純粋に貴明の心情を代弁する思いでいたこのみにとって、その言葉は彼女の舌を一時封じるには十分だった。
ここまで振るってきた言葉の端々が、このみの貴明への想いを吐露するものであったこと──それ自体は半ば自覚していたことであり驚きはないのだが、何故それを敢えてささらの側が口にしたのか、その困惑が混乱に拍車を掛けていた。
そして、再びこのみは見た。
この夕刻、最初にささらを見つけたときに感じた吉くない予感。今にも街並みの向こうに消えようとしている赤い光がささらの顔に深く陰影を刻み、その笑みを浮かべた面はまるで死者のようだった。
このみの沈黙を質問への肯定と受け取り、ささらは得心の上で自らの言葉を紡ぎ出す。堰を切ったかの如く、今度はささらの側から昏い言葉が溢れ出す。
「柚原さんの言うとおりよ。私は確かに、河野さんに救われたんだわ」
ささらはゆるく目蓋を閉じ、懐かしむかのように、しかし淡々と自分に起きた事を語ってゆく。
「そう、本当に河野さんは優しい人ね。柚原さんが誇りに思うのも良く分かる。こんな私の為に、私が思っていた以上に、頑張ってくれてたのね」
固く閉ざされていたささらの心の扉。それを抉じ開けたのが朝霧麻亜子であり、その隙間に手を差し入れたのが河野貴明だった。その二人の行為は、ささらにとって不可解ですらあった。
「そんな、誇りだなんて、タカくんは別に」
一方、自分の想い人を誉められているのに、このみはそこに嬉しさの欠片も感じることはできなかった。その優しさを受けた自分自身を卑下するような、そんな言葉に軽い反発すら覚えていた。
その反発を肯定するかのように。
ささらはこのみの主張に向けて、更なる反論の引き鉄を引いていた。
「でも、だからと言って、私が貴女たちより特別だということにはならないわ」
撃鉄が落ちる。副長の白刃ではなく久寿川ささら自身の弾丸であるが故に、それはこのみの反撃を簡単には許さない硝煙の臭いを伴っていた。
二人の少女の間にあった空気が決定的に変化する。
ささらは無意識のうちに環を含めた複数形を使いつつ、これまでのこのみの必死の主張を、そして昨日の環の言葉をも、真っ向から否定してみせたのだ。
「河野さんが助けてくれたのに、あんなに一生懸命頑張ってくれて、まーりゃん先輩ときちんと向き合わせてくれたのに、それでも私は相変わらず河野さんに迷惑を掛けてばかりだった」
終業式の翌日。このみが話に持ち出した、水族館での出来事がささらの脳裏に蘇る。
「まともなお礼一つ満足に言えなくて、河野さんを嫌な気持ちにさせて──河野さんは電話をくれたけど、私は布団を被って耳を塞いで寝ていただけ」
貴明の行動をも、自分を責める刃に変えて。
「さっきの写真の話だってそうよ。私があれを破いたりしなければ、私が手を離したりしなければ」
このみが貴明の為に、ささらに向けて並べ上げたカードが次々とひっくり返され、このみの方へと向けなおされる。あるいは──そのカードの切っ先が擬されているのは、ささら本人の胸元なのかもしれなかった。
「私は変わらなかった。あれだけの事を河野さんはしてくれたのに、私はダメなコのままだった。そんな私を──そう、河野さんは優しいから、そんな私をきっと放っておけなかったのね」
ささらが浮かべているのは単なる自嘲とも違う、諦観にも似た笑みだった。
「もちろん、私はそれにとても感謝してる。本当に嬉しかった。他の誰かに心からありがとうって思えたの、初めてだったかもしれないわ」
終業式の日、まーりゃん先輩と三人で抱き合いながら写真を撮ったこと。
貴明と二人で食事をしたこと。春休みの生徒会室に流れた穏やかな時間。桜並木を一緒に歩いたこと。手作りのお弁当を作ってくれたこと。それが食べられなくて迷惑を掛けたこと───
そこまで追憶に思いを巡らせていたささらに、ふと思い出される別の何かがあった。
(あの時何か、そう、私は確か)
何故自分は、彼を前日に止めなかったのか。人の手の作ったお弁当なんて食べられない事が分かっていたのに、あの時は、それでも───
(私──になりたかったの。頑張って、人のこと)
狂おしい想い。思い出すだけで痛みを伴う記憶。
ささらは小さくかぶりを振った。
また何かもどかしさを感じたけど、何かを思い出せそうな気がしたけど、今はその時ではない。今の自分の心に、そんな余力はないはずだ。
ささらは現在に意識を戻し、再び目の前のこのみを見据えて告解を続けた。
「でもそれを河野さんの側から見れば、やっぱり放っておけないバカなコがいたというだけ。終業式の日で終わらなかったのは、まだ私を助け切れてないと思ってくれてただけかもしれないわ」
淡々と告げられた記憶の独演がこのみの主張にまで到達した時、このみはようやく我に返って反論を試みる。
「それは違うよ! タカくんはそんな、哀れみみたいな感情で動く人じゃない! だって──そんな放っとけないとか、普通そんなことで元々作れなかったお弁当とかわざわざ作ったりしないし!」
このみは先程にも増して必死で叫ぶ。
説得力が無い事はこのみも分かっていた。相手の好意を自嘲で受け止めてしまう彼女に、好意の多寡で納得させることなど出来ないのだと。
だがそれでも、何かを口にしなければ、この場にいない貴明の代わりに何かを言っておかなければ、自分を含めた何か大切なものまで嘘にされてしまうような、そんな恐怖がこのみに湧いていたのだ。
一方のささらには、このみの言葉によって別の感情が湧いている。
(やっぱり──これも、なのね)
写真のときも、お弁当のときも。ささらと貴明の関係、その節目節目に、常に柚原このみの影があるということ。彼を本当に理解している者。彼のそばに常にあり、その心を支えている存在。そんな女性に彼女もなりたかったが───
(そんなこと、私が見ていい夢じゃなかった)
嫉妬、諦観、夢、絶望───
幾多の感情が渦巻いて、ささらの心を黒く固く閉ざして行く。今日この日、貴明に背を向けて走り出したあの時の痛みと、自分はいつだって人に愛されないという長年の思い。恨みとも呼べそうなその感情を誤魔化す先を、ささらは必死に追い求めた。
(そうよ、私だって河野さんの幸せを)
貴明を想う二人の幼馴染の心を自分も追うのだと言わんばかりに、貴明の幸せを自分は願っているのだという言い訳を必死で構築する。
「河野さんの心が、貴女には良く分かるのね」
このみがハッとして表情を改める。
それは皮肉か、本音か、嫉妬か、羨望か。
いずれにせよ、今自分が貴明の想いを代弁することが、全て反撃のカードとなって自分に返って来ることにこのみはようやく気が付いた──が、もはやそれは手遅れでもあったのだ。
「相手の心にも踏み込んで、そしてお互いの心を理解しあえてる、そんな関係を作れてるのは」
違う、違うの、そんなんじゃない、それは確かにそうだけど、タカくんが好きなのは、好きだからこそ分からない事も、理解しているから踏み込めない領域も、嘘じゃない、久寿川先輩、待って、違う───
焦るばかりで声が出ない──そんなこのみの絶望を余所に、ささらは決定的な宣言を解き放つ。
「それはやっぱり、柚原さんや向坂さんなのよ」
それはこのみの想いからすれば、歓迎すべき宣言なのかもしれない。だがそれがこのみにとってもささらにとっても致命的な過ちであることは、もはや自分の心に確かめるまでもない。
何故なら。
「私みたいなコじゃダメなの。私じゃ河野さんを疲れさせて、怖がらせて、傷つけてしまうから」
何故なら、そう告解を続けるささらは明らかに、再び泣いていたのだから。全てを諦めているのなら、流れるはずの無い見えない涙が、目の前の綺麗な先輩を覆いつくしていたのだから。
「向坂さんと話してるとき、河野さんの目にも言葉にも、彼女への強い信頼が浮かんでいるわ。多少の言い争いでは揺るぎもしない信頼が」
息を呑み、無言で立ち尽くすこのみの前で、ささらの歪んだ懺悔が続いてゆく。
「柚原さんと話してるとき、河野さんはとても優しい表情をしているわ。何かをしてあげてるって訳でもないのに、雰囲気そのものが優しいの」
光と影。太陽は既に沈み、最後の春の残照の中で、白に身を包んだ少女と、黒を纏った少女は、いつしか互いに血を流し続けていた。
そこに涙は無く、叫び声もないけれど。
ささらは貴明を想い、このみはささらをも想い、お互い最善と思った言葉を交わしていたはずなのに、二人の心はずたずたに傷付きあい、流れる血の痛みに立ち竦んでいたのだ。
「バカね、私──困ってるとか、助けなきゃとか、そういう次元ではない存在が河野さんにはもういたんだって、生徒会に柚原さんたちが来た日から、ううん、河野さんに副会長を断られた日から分かってたはずなのに。私、バカみたいに期待して──」
このみには理解できなかった。
何故。どうして。手を伸ばせば届くところに、自分を想ってくれる人がいるのに。他者ではなく、他ならぬ自分を見てくれる人なのに。
それはある種、善き人に囲まれ、悪意に囲まれることなく、他者の愛を感じながら幸せに育ってきたこのみには、到底理解できない考えなのだった。
無邪気に想いを信じられるほど、ささらは人の愛を知らなかった。渇望だけがそこにはあった。いつだって、自分が愛したいと願った人は、自分を顧みることなく去って行ってしまうのだ。
「ごめんなさい、先輩なのに変なことばかり」
ささらが再び寂しげに笑う。
ささらが話を終わらせようとしていること、このみの目の前で、何かが閉ざされようとしていることが、その表情から伝わってくる。
「先輩──」
「確かに彼には、柚原さんたちですら踏み込めない何かがあるのかもしれないけど」
(違うよ、それ、本当は同じだよ──)
このみは確かに貴明のことを理解しているけれど、逆にささらにしか踏み込めなかった領域もあったのだと、既にこのみは気づいてるのに。
「それでも、誰よりもあの人に近しい存在」
今やそれこそがささらだということに、どうしてこの人は気づいてくれないのか。
「だからね、柚原さんのおかげで私安心したの」
ささらがゆっくりと手を伸ばす。このみを安心させるように、その嘘だらけの言葉がそうすることで真実に変わるとでも思っているかのように、その冷たい指先がこのみの頬をそっと撫でていた。
「河野さん、きっと私のことでいっぱい傷付いてると思うから、今度は貴女が救ってあげて」
呆然としているこのみをそのままに、ささらは踵を返して河原の道を外れ、街の中へと帰ってゆく。
「久寿川せんぱい──諦めちゃうの?」
このみの口からようやく小さな呟きが漏れる。彼女はその自分の声を耳にして初めて、今宵の会話が終わってしまった事を認識した。
「ダメ、だよ───」
だが、固まった足は未だ動かず。ただ自由になるのは、今宵使い果たされてしまった声のみだった。
「そんなに簡単に諦めちゃダメだよ───!」
このみはささらの背中に向かって力一杯叫ぶ。
だが、ささらが振り返ることはなく。
春の太陽は未だ夏には及ばず、その最後の残照も闇に追われ、地平線の向こうへと消えていった。
6: 小さな跳躍
One Small Step for the Neighbors
「昨日、久寿川先輩とお話してきたんだ」
タマ姉に後押しされ、独り悩んでいた日曜の午後。
そこに突然訪れたこのみの口から飛び出してきた台詞は、まさに青天の霹靂だった。俺の思考は一瞬、空白に満たされてしまう。
(このみが、先輩と──?)
幼馴染の少女と、自分が傷つけた先輩の接点は咄嗟には思いつかない。偶然なのか、意図的なのか。
もちろんこの期に及んで、ただの茶飲み話をしてきたなんて考えはない。昨日の話ということは、このみはあの直後、あんな状態の久寿川先輩と会ってきたってことになるのだから。
「このみ、えっとだな──」
とりあえず、何があったのかは聞きださねば。
この場でこのみを促すか、一度部屋に上がらせるべきか、俺はそんな事を悩みながらともあれ口火を切ろうとする。
しかしこのみは一見平然と、普段通りの口調で普段通りの会話を返してきた。
「タカくん、明日の歓迎会の問題、考えた?」
「──へ?」
さっきの俺が不安と気まずさで展開した明日のイベント話を、このみが引き継ぐように口にした。
「何を何処に隠すとか決まってないと、賞品のお買い物もできないよ、タカくん」
「あ、ああ──いやそれはそうなんだけど」
何だ、どういうことだ。昨日久寿川先輩と話してきたことって、単に明日の宝探しの打ち合わせだったのか。確かに先輩は真面目だしこのみはイベント好きだし、二人が出会えばあんな状態でも運営の話でも始めてしまうのかも──って、
(この大馬鹿野郎、そんなわけないだろ!)
あんな状態。そう、あんなに傷付いて走り去っていった先輩が、いくらなんでもそんな話をこのみとするわけがない。今しがた見たこのみの表情は、そんなくだらない事を俺に告げる為のものじゃない。
いい加減に日常の残滓に縋るのは辞めろ。
今自分が立っているのは現世の鉄火場と知れ。
俺は自分にそう活を入れると、つい先程のこのみを真似るように、妹分の瞳を静かに見据えた。
「このみ、そうじゃないだろ」
努めて冷静な声で、しかし真剣さが伝わるように、俺はいつもよりゆっくりとした口調をこのみに向けた。
「久寿川先輩と、何話してきたんだ。何か俺に言いたい事があって、ウチに来たんじゃないのか」
長くなる話ならここじゃ何だから、とりあえず中に上がってくか──そう切り出し始めた俺の目の前で、このみはゆっくりと顔を綻ばせた。
「えへへっ、よかった──」
う、一体何なんだ、何が良かったんだ。
さっきからころころ変わるこのみの態度に俺は反応しきれず戸惑うばかりだったが、その答えはすぐに、このみの口からもたらされた。
「久寿川先輩の名前を出してもタカくんが反応しなかったら、ホントにどうしようかと思ってたんだ」
「え──?」
咄嗟に答えを返せない俺の前で、このみは心底安心した声で呟いた。
「やっぱりタカくん、ちゃんと先輩のコト考えてたんだね。うん、よかった──ホッとしたよ──」
「ってこのみ、おまえ」
それはつまり、このみは俺と先輩の間に何かがあったことをちゃんと認識した上で、更に俺を試したってことなのか。
(このみってそんなことする奴だったっけ──)
一瞬そう意外に思いかけた俺だが、このみと馴染みの薄い久寿川先輩というキーワードを外し、普段のこのみとして考えてみれば、すぐに思い当たることだった。
ああ、確かにするじゃないか、このみは。
このみはいつだって、俺の反応をしっかりと窺っている。俺が何を考え、何を悩み、何を求めているのか、こいつは驚くほど俺のことを良く見てる。
普段の会話でだって、結構巧く鎌を掛けられたり、言葉の取り回しでいつの間にかアイスを奢らされる羽目になったり、タマ姉とシンクロして強力な包囲網を作ってみせたりと、何も考えてないようで、いや実際考えじゃなくて直感の結果かもしれないけど、このみは俺に対する間合いの取り方、詰め方が本当に巧いんだ。
まったく、流石は幼馴染。
(おまえなあ、いくら幼馴染だからって、『ただの幼馴染』にそんな芸当できると思ってんのか?)
え──?
ふと、何処かで聞いたはずの台詞が頭の中で木霊する。この声は雄二だったか、いつかあいつとそんな雑談を交わした記憶があるようなないような、
(ま、先輩ラブ男にゃ関係ない話かもな)
ちょっと待て、何でそこで先輩の話が、
(フシ穴のような目ね)
何だこの記憶。タマ姉まで何を言い出すんだよ。
大体フシ穴って、俺が何が見えてないと───
(タカ坊、私のこと──好き?)
──あ。
見えてなかったものなら、あったじゃないか。
昨日の夜、自分が目を背けてきた事実を、散々突きつけられたばかりじゃないか。
俺は改めてこのみに目を向ける。
少し緊張気味だけど、ほわっとした笑顔を浮かべているこのみ。いつも俺の周りにまとわりついてて、雄二に貴明エンサイクロペディアなんてからかわれるぐらい俺のことを良く覚えてて、俺が凹んでる時には鋭く気づいて慰めてくれる、そんな大切な───
(ちょ、大切ってなんだよ大切って)
「んぅ? タカくん、どうしたの?」
昨晩思い出したタマ姉の想い。俺を見守り続けてくれた人。そしてタマ姉に教わった大切な事、見たものを見たまま歪めずに理解するってことをこのみにも当てはめるなら───
「むうーっ、タカくんってばー」
このみの感情をそんな風に捉えるなんて、俺、先輩のことで弱ってるんだろうか。それとも、これはやっぱり単なる勘違いではないんだろうか。
(──とりあえず、心には留めておこう)
今まで見えてなかったものが見えてくるのは、素直に嬉しい事だと捉えておこう。逆に言えば、今までの俺が如何に物事にフィルタを掛けてしまっていたかの表れなんだけど。
「あ、ああ悪い。このみから先輩の事を言われるのって、やっぱちょっと意外だったからさ」
と、俺はしばし無言で見つめてしまったこのみにまずは一言謝っておく。
「──で、さ。俺と先輩の話だろ?」
最初のこのみの台詞と同じく単刀直入に切り出してみたのだが、逆にこのみは少し驚いたらしい。このみはちょっと目を見開くと、
「うん、そうだけど──タカくん、なんか」
変わった気がする、そんなこのみの疑問符に俺は少々逡巡したが、この相手に隠し事をしても仕方がないと思い直し、正直に昨日のことを答えた。
「あーその、実は昨日の夜な、タマ姉に散々説教されたんだ、色々と」
説教という単語に、このみは開いていた瞳を更に大きく開く。しかし、それはすぐに納得した表情に変わっていった。
「ああ、あれやっぱりタマお姉ちゃんだったんだ」
「やっぱり?」
「うん、昨日の夜、タカくんちの玄関先でなんか声がしてたから。結構遅い時間だったし、何だろうって覗いてみたときにはもう誰もいなかったけど」
タマ姉の最後の台詞は扉を開ける前だし、声も小さかったし、それに玄関先で喋った記憶はなかったけど──ま、なるほど。
「でも──そっか、タマお姉ちゃんが──」
このみが不思議なほどの感慨を込めて呟く。
そういえば、このみとタマ姉の間には強力なネットワークが存在している。もしかしたら昨日の話も伝わってるかもしれないと思ったけど、どうやらそれはないようだ。
だが、きっと普段から俺の話題は二人の間でよく出ていたのだろう。今のこのみの呟きは、タマ姉から俺に為されたであろう説教の中身に対する信頼の表れだったのかもしれない。
それを裏付けるように、このみが口を開く。
「多分だけど──わたしが言いたかったこと、ほとんどタマお姉ちゃんが言ってくれたと思う」
このみは靴を脱ぐ素振りも見せず、下から俺を真っ直ぐに見上げていた。それは何処か意図的に、このみと俺との間に見えない境界線を引こうとしているかのようにも見えた。
「でも──一つだけ、このみにも確認させて」
彼女の真剣な表情、そしてその口調は、昨晩のタマ姉にそっくりだった。そしてそこから滑り出てくる質問も、恐らくは同じものなのだろう。
「タカくん、久寿川せんぱいのこと、好き?」
(ああ、やっぱりな)
昨日のタマ姉と同じく、照れ隠しの笑いを浮かべたり、茶化しを入れたりしない、一切の曇りの無い眼差しと言葉がそこにはあった。
ならば俺の答えも本来、昨晩と同一でしかありえないはずだ。でも昨晩とは違い、俺の心には若干の揺らぎが含まれていた。
昨日のあの時点では、俺はまだタマ姉の想いには気づいていなかった。一方今日この瞬間の俺の中には、ついさっきこのみについて心に留め置いた仮説が既に存在していたのだから。
だが、それでも。
「ああ、好きだよ。俺は、久寿川先輩のこと」
俺からの答えは、これ以外にはありえない。
たとえ目の前の少女がこの俺に想いを寄せているとしても、その上で彼女はこの場所に立ち、俺の意志を確かめているんだ。ならば──俺もその覚悟に堂々と応えるべきなんだ。
「やっぱり──そっか。そうだよね」
そんな俺の回答を聞いて、このみは安心したような、寂しいような、やっぱり昨日のタマ姉にも似た表情を浮かべていた。
ただタマ姉と違うのは、その後ろに小さな、ほとんど聞き取れない呟きがついていたこと。このみは間違ってなかったとかなんとか──。
だがそれを聞き返す間もなく、このみは準備ができたとばかりに話を移してしまったため、その呟きが何だったのかは分からずじまいだった。
「昨日、久寿川先輩とは偶然だったんだけど」
このみは少し俯き加減に話を切り出した。
「その、先輩なんだかいっぱい泣いてて、きっとタカくんの事だろうと思ったから、それで──」
多分このみとしては、別に意図的に詮索したわけではない、と前置きしておきたいのだろう。
だが俺の意識は、その泣いてたという単語一つに向いていた。分かっていたこと、今朝も考えたことだとはいえ、改めて実際に久寿川先輩を見てきた人間の口からそれを聞かされ、また鋭い悲しみが入り込んでくる。
しかし更にこのみの次の言葉を聞いて、昨日その場にあったであろう涙は、決して久寿川先輩一人のものではなかったことに気が付いた。
「わたし先輩と二人で話すの初めてで、ちゃんと伝えたかった事も上手く言えなくて、先輩の言ってたコトもちゃんと分かってないかもしれなくて」
このみは滅多に見ない硬い表情を浮かべ、その声にはやはり珍しく、後悔の色が滲んでいる。
「あ、あのね、だからこのみは、もしかして──わたし、もしかしたら、すごく余計なコトをしたのかもしれなくて──」
その震える声を聞くだけで、理解できた。
きっとこのみは俺たちを心配する心一つで久寿川先輩に踏み込んでゆき、そして彼女もまた、俺やまーりゃん先輩がかつて突き当たった先輩の強固な壁にぶつかってしまったのだろう。
特に傷付いている時の先輩は、壁というより針鼠となって苛烈なまでに他人を拒絶する。他人による正面からの拒絶を今まであまり経験してこなかったこのみには、相当酷な体験だったに違いない。
「タカくん、ごめんね──ごめんなさい──」
このみは両の手を強く握り締め、俯いたままでそんな言葉を繰り返していた。
(俺が──俺が不甲斐ないせいで、このみにまで)
痛烈な後悔の念が脳髄に昇ってくる。俺はせめてもの思いで、このみの頭にそっと手を伸ばした。
「いや、いいんだよ、このみ」
ぽふっ、といつものように彼女の髪を撫でる。
「このみが昨日、先輩と何を話してきたのかは分からないけどさ」
下を見ていたこのみの意識が自分の髪に、俺の手のひらに、そして俺の方へと向けられるのを確かめながら、俺は悔悟と感謝の言葉を彼女に捧げた。
「俺や先輩の事、気遣ってくれたんだよな」
このみがふっと面を上げる。
その揺れる瞳は、まるで泣き虫だった頃のこのみが戻ってきたかのようだった。
「それにこのみ、昔から俺のこと良く分かってるし、人の考えを引き出すのも巧かったし。昨日の先輩に何かを言えるとしたら──多分、このみが一番適任だったんだと思うよ」
それは決して相手を落ち着かせるためのお世辞などではなく、俺の本音でもあった。
タマ姉はあの性格でどうしても対決姿勢になってしまうだろうし、雄二もあれで結構人の心を読むのは巧いのだけど、正直今の久寿川先輩に対しては役者が違う。まーりゃん先輩なら分からないけど──あの人だったら多分、むしろ今頃俺を殴りに来ているはずだ。
「だから──きっと先輩にも、このみの思いは何かしら伝わってるはずだよ。大体、昨日先輩をあんな風にしたのは俺なんだ。このみが責任を感じる必要なんて、全然ないんだからな」
我ながら、こんな慰めの台詞がするりと出てくるのは不思議だった。これは俺の嘘偽りない気持ちではあるけれど、と同時にそれを素直に言葉に表せるようになったのは、タマ姉が俺のガードをぶち壊してくれたおかげなのかもしれない。
「うん──タカくん、ありがと──」
もちろん、そんな俺の言葉ぐらいで完全に納得したわけではないだろうけど、それでもこのみは俺の返答を受け入れ、しばらくの間俺の手がその髪を梳くがままにさせてくれていた。
実際には、ほんの二、三秒だっただろうか。
このみは最後に一寸目を閉じると、ようやく落ち着いたかのように顔を再び上げきった。俺はそれに促されるようにこのみの頭から手を下ろす。
そして、俺たちは再び静かに対峙した。
揺れていたこのみの瞳は落ち着きを取り戻し、再び来訪時の決意を秘めた色を湛えている。
「昨日先輩と話した事──その全部をタカくんに説明するのは難しいし、それに全部を伝えちゃうのは多分──ちょっと反則だと思うから」
このみはそう言うと一度言葉を区切り、俺の方をじっと見つめてきた。今の反応を伺うようでもあり、と言ってもこのルールは曲げないからという無言の主張を伝えるようでもある眼差しだ。
その点、俺に否応はない。俺は黙ってこのみの次の言葉を待った。
「だからね、これは──多分感想なんだと思う」
「感想、か──」
それは単なるメッセンジャーを務めるのではなく、あくまで自分の意思を反映させた言葉を使うというこのみの予告だった。
「このみは、タマお姉ちゃんみたいに頭良くないし、久寿川先輩のこともまだ全然知らないけど」
一瞬の瞑目。今の言葉を懐かしむような、次の言葉へ力を溜めるような僅かな間だ。
「でも、わたしは幼馴染だから──タカくんのこと何でも知ってるから。タカくんのしてきた事、それを一番近くで見てこれたから」
やがてそう続けたこのみに、少し得意げで少し寂しげな、儚いとも呼べる笑みが浮かんでいた。
それは今日まで天真爛漫な笑顔を見せてきた彼女が不意に少し大人になってしまったような、何処か俺の側にも寂しさをもたらす笑みだった。
このみはその空気を纏ったまま、一息に彼女自身の宣言を言いくだす。
「先輩から聞いてきたことと、タカくんがこうしたいって思ってること、二つを合わせて──このみが思ったことを、言うね」
そして、再び一時の間。このみ自身、今の言葉が自分の中に落ちていくのを確かめているようだ。
「──なんかさ、このみ」
その間を利用し、俺は素直な感想を口にする。
「このみ、変わった気がする」
いつまでも子供じゃない、子供ではいられない。
少年は三日で変わるというけれど、少女は時に一日で成長する──今この場には、そんな雰囲気が漂っていた。
「あはは、それさっきこのみがタカくんに言ったのと同じだね」
俺たちはお互い小さく笑いを噛み合わせる。
それで少し空気が和んだのか、このみはこれまでの緊張をかすかに緩め、そして彼女の「感想」をゆっくりと語り出した。
「タカくんがどう感じてるかはこのみにも分からないけど、昨日先輩と話してて気づいたの」
このみは少しずつ昨日の記憶を手繰り、今日の言葉を紡ぎ出す。
「タカくんが先輩にしてあげた事、先輩に見せたかったもの、それからタカくんの優しいトコ──そういう大切なこと、ちゃんと全部先輩に伝わってるよ。そこはこのみにも分かったんだ」
いきなり意外な台詞だった。
確かに、終業式のように確実に結実した行動結果もあるから全てが全てとは言わないけど、基本的に俺が先輩にしてあげたこと、そのほとんどが空回りに近いものだと思っていた。
巧く先輩と噛み合える場所を探せずに、それでも必死で取り縋ろうとする、それがこの一ヶ月の俺の行動だったと言ってもいいのだから。
「なあ待てよ、そんなのが全部伝わってるなら今頃こんな苦労はないと思うけど──」
俺はその辺りをこのみに反論しようとしたが、このみは俺の台詞に応える代わりとして、決定的な一言を口にした。
「でも、一番大切なことだけが、伝わってない」
俺は愕然としてこのみを見る。
一番大切なこと。俺が先輩に伝えられる、伝えられたはずのものの中でも一番最高の何か。
「このみ、それは──」
「それが無いと、他の全部が伝わってても、先輩の心の中にまでは届かないんだ」
伝わっても、届かない。
言われてみれば、それは確かに俺から先輩への感情そのものだ。
何故届かない、何故分かってもらえない──今だったら、タマ姉に、このみに諭された今なら、その理由の根源が怖れと共に見えてくる。
そうだ、今朝も考えたはずだ。それは単なる恋愛感情、想いの伝達だけの話ではない。先輩の傷に、どうすれば向き合えるのか。
「先輩は──久寿川先輩は」
このみが一際真剣な目つきで俺に訴えかける。
「一番大切なことだけが、信じられないんだよ」
──そうだった。
好きだという想い、大切という気持ち、それら全ての要となる、『信頼』という一番大切な感情。この自分はそれを裏切ってしまったのだと、昨日タマ姉に気づかされていた。
だから先輩は、信じる事が、信じられない。
「先輩は、勘違いだって言ってた」
ああ、それは久寿川先輩の口癖だ。
相手の想いを信じられないから、信じるに値する何かを俺が伝えられなかったから、先輩はいつだってそれを自分一人のせいにしようとして、全てを勘違いしたことにしてしまう。
「このみにも、それはちょっと分かるかも」
と、このみから意外な第二撃が撃ち込まれる。
「タカくんのこと誰よりも信じたいのに、信じて進もうとすると一歩逃げられちゃう」
「う、このみにもそう思われてたか──」
時折タマ姉や雄二に指摘される、俺の八方美人的な面。それが公平感を装うだけの、本質的に他者を拒絶する発想であることは、今までの久寿川先輩を見ていれば鏡のように分かっていたはずだ。
(って、ああ、そうか──)
そうだよ。俺と先輩は、そんなところでも似た者同士だったんだ。今思い出してみれば、あの水族館の次の日の電話で、お互い同じような感情を抱いてたって笑ったじゃないか。
一方、俺のそんな今更の台詞に、このみは好意的な呆れと共に苦笑していた。
「ほら、タカくん色んな人に優しいから──だから肝心なコトが伝わってないと、何をしてくれても全部ただの親切に思えてきちゃうんだと思う」
誰にでも優しいのと、誰にでも冷たいのは、本質的に同じ事なんだ。先輩の底にある想いが見えていなければ、単純に先輩が人嫌いなんだと捉えてしまうように──その裏返しが、俺という存在だったのかもしれない。
「正直言うとね、このみには、どうしたらいいかとかは全然分からないんだ──」
今度は少し戸惑うように、何処かはにかむように、このみは昨日の対話に自分の感情を織り込んだ、彼女なりの答えを口にしていく。
「わたしは──もしこのみだったら、自分が好きな人が自分を好きって言ってくれたら、絶対それだけで幸せになれるはずなんだけど」
好き、という言葉に俺は思わず一瞬赤くなる。
それは別にこのみのことを意識してしまうというより、もはや俺や久寿川先輩ではある意味素直には使えない、好きという言葉を躊躇うことなく言ってのける彼女が少し眩しいのかもしれない。
──いや、躊躇ってないわけでもないか。
良く見ていれば、このみもその言葉の瞬間だけは僅かではあるが目が泳ぐ。まるで『自分が好きな人』を誰か明確に思い浮かべているかのように──
(こ、こんな時に何考えてるんだ俺)
無意識の内に、自分自身に一瞬言い訳が走る。
しかし、一時感情を話の外に揺らしてしまった俺とは異なり、このみにとってこの一連の台詞は、明確にある一点へと繋がる話のようだった。
「でも一番大切なこと、それをタカくんが今先輩に伝えようとしても、多分──」
その真剣な声、硬さを伴った想いに、俺の意識も一気に今この場に収斂した。
「先輩はそれでも、信じてくれないと思う──」
──突き刺さった。自分を恥じた。
今朝方、俺は何を考えていた?
もし今告白すれば、先輩が頷いてくれるかもしれないだって?
冗談じゃない。今の今まで、この俺こそが、先輩の想いを信じてこなかった方だと言うのに。相手を否定し続けた今になって、自分だったらあっさり信じてもらえると夢想するだなんて、それこそ吐き気のする甘さだ。
(認めて欲しい、自分を変えてくれたその人に)
昨日のタマ姉の台詞が蘇る。
(触れてあげて。それがあのコの望みだから)
まーりゃん先輩から渡された久寿川先輩からの信頼の証を、認めぬ事で全て拒んできた自分。
本当にそんな自分でいいのか、自分にその資格があるのか、昨晩散々タマ姉に言われたはずの自己認識が、ここに来て再び頭の中を巡り始める。だが、その時。
「幸せになるしかないよ、タカくん」
このみが真っ直ぐに、俺にそれを伝えていた。
それは先輩の印象でも昨日までの話でもない、他ならぬ俺自身へと送られる、このみからの言葉だった。
「それでも想いを伝えるしか、ないんだよ」
「俺が、幸せに? 俺の、想いを──?」
まるで俺の迷いを見透かしたかのように。
どうしたらいいかは分からないと言っていたこのみは、しかし彼女自身の哲学により、今の俺にできる唯一のことを看破していた。
「今までの気持ちが嘘じゃなかったってこと。タカくんが本当は何を信じてたのかってこと」
吼えるように、泣くように。
「たとえ先輩が信じてくれなくても、先輩が何か誤解してるとしても、それでもそれを頑張って伝えないと」
このみは、俺の幼馴染は、俺の一番近くにいて、もしかしたら俺を一番想ってくれているかもしれない少女は、懸命に何かを伝えようとしていた。
「今日までの毎日が、タカくんと先輩の両方の気持ちが」
そのこのみの言葉に、俺は思わず息を呑む。
「全部──全部、嘘になっちゃうんだよ──!」
無かったことにしましょう、という先輩の声。
あの日屋上で見た涙も。
あの駆けずり回った日々も。
桜並木の下で、確かに通じ合った気持ちも。
ドキドキしたことも、泣いたことも、全部が全部、嘘になってしまうということ。
──このみの声で、目が覚めた。
自分自身のことでもないのに、このみはこんなに一生懸命、俺に何かを伝えようとしている。
だが翻って、この俺はこれだけ懸命に先輩に想いを伝えようとしたのだろうか。あの終業式のために奔走した時のように、開かない扉をこの腕が折れるまで叩き続けてみたのだろうか。
否。俺は逃げていただけ。待っていただけ。
ああ、いいじゃないか。たとえ先輩に俺が相応しくなくても、それは先輩自身が決めること。今の俺にできるのは、拒絶されてでも想いを伝えることじゃないか。たとえ先輩が信じてくれなくても、俺の側は先輩を信じ続けることじゃないか。
先輩が、俺を、先輩自身を、信じられるように。
(まずは、動いてみるしかない──)
そんな思いを固めながら、俺は俺の背中を強く押してくれるこのみを見つめていた。
「──タカくん、今日まで一杯頑張ってたよね」
その台詞で思い出す。そういえば写真の時も、水族館の後も、このみにはとっくに助けられていたんだな。
「先輩もそれは嬉しかったって、そう言ってくれてたから──それが全部嘘になっちゃったら──」
そして、このみは不意に押し黙った。
そのまま軽く俯き、自分の言葉を反芻している。
「このみ、どうした──?」
思わずそう声を掛けてみたが、
「そう、だよね」
声を掛けるまでもなく、何かに思い至ったかのように、何かを決断したかのように、このみは俺の方へと意識を向けなおした。
「わたしも──嘘にしたくないよ」
(───あ)
そうか、そういうことか。
曖昧な事を残さないために。これからそれぞれの想いが何処へ往こうとも、自分の歩いてきた道を確かめておくために。
「だから──ちゃんと言っておくね」
ならば俺も、このみだけに決断の責を負わせておくわけにはいかない。
「──ああ。俺もちゃんと、聞いておくよ」
そんな俺の台詞にこのみは一瞬真っ赤になり、そしてすぐに納得したかのように微笑むと、
「わたしずっと、タカくんのことが好きだった」
──踏み込んだ。
この場を通じて何となくは伝わっていた想い、そして何となく伝わったという雰囲気のまま今日という日を終えることもできた彼女は、敢えて更に一歩、俺のほうに踏み込んできた。
勘付いていた事とはいえ、十年来の幼馴染の告白は俺の中に様々な感情の渦を引き起こす。だがその中に、何故今なんだというような後ろ向きの考えは無かった。むしろ強烈に、今がその時だったのだという納得が心の中に居座っていた。
「──そっか。このみが俺を、か」
「このみがタカくんを、だよ」
何処か間の抜けた、でも何処か俺たちらしい言葉の応酬。だがそこに続いたのは、またしてもこのみによる不意打ちだった。
「きっとタマお姉ちゃんも昨日、同じことをタカくんに言ったんだよね」
な、確かにその通りなのだが、何故。
「──うん、言われた。でも、どうしてそれを」
「だってタカくんをそんな急に変えられるの、タマお姉ちゃんの告白ぐらいしか考えられないもん」
(タカくん、なんか変わった気がする)
恐るべき洞察力、女の勘、以心伝心ネットワーク。
もうあの瞬間から、このみには分かっていたことだったのか。だからこそ、自分の想いを隠すつもりが全然なかったのか。
「てか、そんなに変わったかな、俺」
「うん、とっても」
即答(一秒)。なんかこのみの方が妙に余裕があるのは気のせいだろうか。何だか弱いなあ、男。
「そうじゃなきゃ、ちゃんと聞いとくよ、なんて言ってくれなかったよ、タカくんは」
このみは笑ってそう口にする。
「でも変わったって、なんか変な意味じゃなくて」
そのまま少し慌てたように真面目な口調に戻り、手馴れた貴明分析を開陳した。
「このみが好きなタカくんのいい所、それをタカくん自身が認めてくれた、っていう感じがするんだ」
(自分自身が、認める──?)
「今までそういうことを言うと、タカくんは必ずわたしも、タカくん自身も誤魔化すようにしてた気がするから」
参った。こいつは本当に俺を良く見てる。
変な話、自惚れた話だけど、俺は自分を認めてしまうことで、誰かが自分を好きになるのがずっと怖かった気がする。それはきっと昨夜タマ姉に指摘された、俺の女性恐怖症の根源と同じ話なのだろう。
だがそれとは別に、俺はこのみの台詞に俺の話とはまた違うもの、その先へと進む着想を感じていた。
(自分を認めなければ、できないこと──)
俺の鏡像存在。自分自身を認められないもう一人の人、久寿川先輩。
(何故久寿川さんが未だに自分を、自分が積み上げてきたものを認められないのか)
あの時のタマ姉の台詞。だが今考えると、俺が先輩を認めれば済む話でもないような気がする。
そこに、先輩の心を解く鍵があるような──しかし、ともあれ。
「──このみ、ありがとな」
「えっ?」
俺の不意の感謝の言葉に、ようやく逆にこのみが驚いてくれる。
「昨日タマ姉にも言われたけど、俺、今まで本当に色んなことを見ないようにしてたから。きっとこのみにも、どっかで寂しい思いをさせてたことがあるんだと思う。ごめん、それから──ありがとう」
自然と滑り出る言葉は、このみの告白に対する俺なりの心の整理の結果だった。
いや、本当はまだ到底整理なんてできちゃいないのだけど、それでもこのみの覚悟に応える為に、今言える事だけでも言っておきたかったのだ。
「俺──正直言うと、嬉しいんだと思う」
このみが手を口に当てて息を呑む。
「いや、嬉しい。マジで嬉しい。でも、嬉しいから、このみの想ってる事がやっと分かったから──」
言わなくてはいけないことがある。
どうしてこんな事態になるまで、俺たちはすぐ傍にある幸せに気づけないのか。探し物はいつだって、自分の足元にあったのに。
「だから、俺──それでも、俺は──」
俺は必死で言葉を探す。さっきまで滑らかに回っていた舌が嘘のよう。どんな言葉を選んでも、きっとこのみを傷つける。そんな恐れが先行して、伝えるべき気持ちが口から出てこない。
そんな俺を見ていたこのみは再び小さく笑い、
「──タカくん」
そっとその指を、俺の唇に当てていた。
衣擦れの音と共に、ふっと甘いこのみの匂いが鼻腔をくすぐる。後から思えば、それは久寿川先輩の仕草を意図的に真似たものだったのだろう。
「さっき言いかけたよね、今までのコトを嘘にしちゃダメだって。それは先輩としかできないことだから──今のタカくんは、きっと先輩としか幸せになれないんだよ」
このみはそう言って、俺の言葉を押し止めた。
「わたしも、タマお姉ちゃんも、タカくんが幸せになってくれないと、幸せになれないから」
全てを無かった事にはできないから、道を還すことは誰にもできないから。このみはその事を、他の誰よりも早く理解していたのだろう。
「だからタカくんは、絶対諦めちゃダメだよ」
それは昨日のタマ姉ともまた違う、このみ自身の想いを込めた、俺を送り出す言葉だった。
「自分が一番幸せになれる道を、絶対に」
自分の幸せを追うことで他のみんなも幸せにする、そんな夢みたいなことを、しかしこのみは心の底から信じている。そして彼女の言葉は、俺もそれを信じてみようと思わせてくれたのだ。
「分かった。このみが言うなら、間違いない」
俺はそう宣言し、幼馴染の決意に自分を誓う。
このみはそのまま一歩後ずさり、精一杯の笑顔を浮かべて敬礼の真似事をする。俺も自分の誓いを確かめるように、軽く額に指を当てて答礼した。
「何があっても、このみはタカくんの味方だから。
このみはずっと──タカくんと一緒だよ」
その言葉は、最後であっても別離にあらず。
このみは踵を返し、俺はそれを見送り、
互いに背中を預けたままの一歩を踏み出した。
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「夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち」シリーズ第2章。 |
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