夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち 2_2
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7: 二人の戦い

Intercept, Engage, and Fox-4

 

明けて、月曜日。新入生歓迎会は何事も無く執り行われた。

 

俺と久寿川先輩の発案だった宝探し。

とっさの思いつきとは言え、新入生に学内に馴染んでもらうという実に真っ当な名目も立ち、新生徒会の滑り出し、お披露目となるイベントとしては申し分のないプランだった。

急な計画ゆえの準備不足が気になったけど、久寿川先輩が相変わらずの優秀さで実務面を整え、そして今日の運用を事実上取り仕切っているまーりゃん先輩のゲスト参加によってイベントは順調に進行した。先輩を補佐するタマ姉も強力な実務家だし、このみはまーりゃん先輩の行動力に後れを取ることなく、本来新入生側ながらきっちりと各種運営をこなしていた。

そして、俺は。俺と雄二は黙々と、タマ姉たちの振る作業をこなしていた。

──誰も、何も言わなかった。

「皆さんがこの学び舎に一日でも早く馴染んでいただけるよう──」

久寿川先輩は少し顔色が悪いように見えるものの、いつものように冷静の仮面を被り、状況をそつなくこなしている。無論、俺に対しては無言のままだったけど。

「器物損壊はもちろん、個人のプライバシーエリアの捜索も厳禁です。とは言え、それ以外は基本的に──」

「えと、まず最初の東側スタート組のひとはこっちへお願いしまーす」

タマ姉もこのみも、週末の会話をまったく匂わせない、普段通りの顔で動いていた。それは彼女らから俺への指示の時でも変わらず、そこに却って二人の強い気遣いが感じられた。

「新入生諸君! この任務を終えるまで貴様らはウジ虫だ! この学園で最下層のオナペットだ!」

まーりゃん先輩ですら、今日は徹底してイベントの旗振り役を務めていた。そのぶっとび振りに変わりはないのだが、いつものように俺や久寿川先輩をいじる気配は微塵もない。

「あたしの使命は愛する学園の害虫を──あいたーっ、タマちゃん冗談、冗談だってっ!」

ただ一度ずつ、久寿川先輩に向けた心配そうな眼差しと、そして俺に向けた睨むような、焚きつけるような沈黙によって、まーりゃん先輩がこの事態を何かしら悟っていることだけは理解できた。

正直、まーりゃん先輩に週末のことが知られていれば、俺はてっきり体育館裏にでも呼び出されてぶん殴られると思っていたので、この対応に拍子抜けだったのは確かだ。だがむしろこうして明らかな黙殺で接せられるのは、彼女から先輩を託された人間としては殴られるよりも強烈に堪えていた。

「ほれ貴明、二時から校舎西の誘導係頼むぜ」

そしてあの雄二ですら、今日は淡々と作業をこなしている。久寿川先輩への接近、それを煽るように、自らを鼓舞するように報告してくるのがここ数日の常だったのに、今日はそんな素振りは微塵も見せていない。男衆に回ってくる力仕事等俺との共同作業でも、俺とは平然を装った口調のままで仕事を片付けている。

 

本当に、何事も無かったかのように。

だがそれは、決壊寸前の堤防そのものだった。

 

唯一、タマ姉とこのみの無言の応援でかろうじて保たれている危うい均衡。その二人の協力も、一刻も早い俺自身の手による事態の解決を期待してのものだろう。俺に受身に回っている余裕はない。

 

 

かくして、新入生歓迎会はそれなりの盛り上がりの内に幕を閉じた。参加者は獲得した賞品や、久寿川先輩やタマ姉への憧れ、まーりゃん先輩への愛すべき怨嗟の声を抱え、三々五々散っていく。

体力的に辛そうな久寿川先輩は生徒会室で報告書等の書類作業に専念してもらい、俺たちは部屋への出入りを繰り返しながら後片付けを進めていた。

そんな片付けも終わる頃。

「ああタカ坊、職員室前の誘導ボードが未回収だったわ。悪いんだけど片付けといてもらえるかしら」

生徒会室で最後の取りまとめの最中に、ふとタマ姉が思い出したかのように俺に声を掛けた。

「え、ああわかった。取ってくるよ──」

そう返事をしてタマ姉の方を向いた時、ほんの刹那の間、タマ姉、そしてこのみと目が合った。二人は瞳だけで小さく頷いている。

──勝負所、か。

俺もまた一瞬の視線だけで二人に合図を返し、先程から書類に目を落としたまま顔も上げない先輩を背に、一階の職員室に向けて部屋を出た。

 

人気のない校舎。廊下に差し込む西日の中を、俺は急ぐでもなく歩いてゆく。生徒会の仕事を始めて以来慣れたはずの時間帯なのに、今なお何処か非現実的な空間だ。

(静かだな──耳が、痛い──)

先輩との対決へと繋がる無音の世界に、俺は鼓膜が痺れるような緊張を感じていた。

 

模造紙で作った案内板を捨てに行き、たっぷり十分以上は掛けて生徒会室に戻ってくると、予想通りそこには久寿川先輩だけが残っていた。

扉を開け、閉める。

妙に喉がひりつく。太股の辺りに引きつるような感覚が湧く。俺は唾を飲み込み、震えそうになる膝に活を入れ、俺は部屋の中へと歩みを進めた。

夕陽に赤く染まった生徒会室。先輩は相変わらず顔を上げず、扉の音すら聞こえなかったかのように、書類仕事に没頭している。

「──先輩、戻りました」

俺が声を掛けて始めて、先輩はゆっくりと顔を上げた。書類に目を落としたままそっけなく帰されるのではと一瞬思っていただけに、それだけの仕草で俺は安堵しそうになる。

(先輩と向き合う前に、それだけで満足してどうするんだ河野貴明──)

タマ姉に誓い、このみに背中を押され、俺は今先輩の前に立っている。二人の想いを、覚悟を、裏切るわけには行かない。

何より、先輩の傷を、放ってはおけないんだ。

「先輩、あの」

意を決して俺は先輩に声を掛けなおしたが、

「向坂さんたちなら先に帰ったわ。私は先生方への報告書をまとめておくから、河野さんも先に帰っていいわ。今日はお疲れ様」

と、完璧なる日常の仮面が返って来る。

──いや、それは完璧すぎた。

夕陽に照らされた先輩の顔には、無表情でも感情的でもない、普段通りという言葉を殊更に具現化したような表情が浮かんでいる。まだ無表情であった方が、あるいはいつもの無理した笑顔であった方が、先輩らしい反応と言えたかもしれない。

だが俺が今この瞬間の先輩から感じ取ったのは、何かそれ以上の無機質な壁だった。傷付いているだろう、頑なになっているだろう、そんな全ての予想を上回る、決意とすら呼べる雰囲気を先輩は湛えていたのだ。

覚悟を決めていてすら、怯む。

何かまだ自分が思い至っていない先輩の心情がそこにあるのではないか。自分がつけてしまった傷が先輩の何かを決定的に変えてしまったのではないか。

(くそっ、まだ何も始めてないのに──)

変わったといっても、変わりきれない。あの暗い淵の底のような感情が、自分の傍らでぽっかりと口を開けている。硫酸に満ちたガラス細工を手の甲に乗せて運んでいるような、女の子に対する恐怖感が再び俺を支配しようとする。

それを、振り払うように。俺はまず、声によって肺に固まった空気を押し出した。

「先輩──ダメです、そんなの」

ひとたび声によって恐怖を打ち払うと、俺はそのまま真っ向から切り結ぶ方向へとひと思いに駆け出した。

日常とはおよそ懸け離れた俺のいきなりの台詞に、先輩も流石に書類から手を放し、意識をこちらに集中してくる。

 

「河野さん、突然一体何を──?」

「突然なんかじゃないです!」

 

俺は叫ぶように声を出す事で、更に緊張を消し飛ばし、加速する。

「俺、今まで先輩の気持ちとか全然考えられなくて、挙句に先輩に酷い事をして──そんな一昨日の今日で何も無かった風にするなんて、絶対ダメです!」

その言葉は何処かこのみにも似て。

俺は婉曲なんて芸当を踏む余裕も無く、いきなり核心から話を切り出していた。

「久寿川先輩、俺──全力で謝りたいんです」

机の先輩と正対したまま、俺はまるで応援団員のように深々と、儀式ばった勢いで腰を折る。

「本当に──すみませんでした!」

床に落ちる机と先輩の影に目を落とし、頭を下へ落としたまま謝罪する俺に、先輩は慌てたように声を掛けてくる。

「やめて、河野さん──そんな事されても、困るだけだわ。せめて顔を上げて、普通に話をして──」

初弾命中。鉄の仮面に僅かな手掛かりを得る。話の糸口。先輩の扉を叩き続ける最初の一歩だ。

「第一、貴方が謝る事なんてなにもない──」

だが、仮面を引き剥がすには至らない。先輩の扉は強く、固く、部厚い。でも大丈夫、これからだ。

俺はひとまず先輩と会話が成立し始めたのを確認すると、ようやく身体を起こして先輩の顔に正面から視線を戻した。その視線の先の先輩は、怒りなのか、悲しみなのか、その肩と瞳が僅かに戦慄いていた。

「何もないなんて、違いますよ」

俺はまず、最初の切り出しと似た台詞で応える。

「一昨日の事も、それだけじゃなくて、今学期になってからの全てのことも。俺、先輩に謝らなきゃいけないことで一杯なんです」

ただし、口調は穏やかに。先輩に一言で斬り捨てられないように、真摯な思いを込めてゆっくりとその言葉を紡ぎ出す。

「俺、馬鹿だから、臆病だったから、何一つ気づけなかった──いや、気づいてたのに、それを認めるのが怖かったんです」

そこまで言って、先輩のほうをちらりと伺う。

先輩は諦めたかのように、黙って俺の告解を聞いていた。そこにどんな感情が生まれているのか、そもそも感情を起こせているのか、その気配が見えずに立ち竦みたくなる気持ちを押さえつけ、俺は幼馴染二人に気づかされた罪を、想いを伝えていく。

「春休みが終わって、先輩に副会長のことを持ち出された時、本当は誇らしかったはずなのに」

全てのボタンの掛け違いは、あの日、あの瞬間から始まっていたんだ。俺は真っ直ぐに、余罪の全てをすっ飛ばし、俺自身の原罪を告解した。

「あの日、俺は裏切ったんです。先輩は俺を信じてくれてたのに。先輩の信頼が、本当は嬉しかったはずなのに──子供みたいに、自分の想いを周りに認められるのが怖くて、逃げ出したんです」

あれは公私混同、なんて綺麗事じゃなかった。

雄二にちょっとからかわれたから。まーりゃん先輩にちょっと煽られたから。それだけのことで、俺はむきになって想いを否定してしまったのだ。

 

「その後も──本質的には同じです」

「同じ──?」

 

ここに来て初めて、久寿川先輩の口から確かめるような呟きが漏れる。俺はそこに勇気を得て、更に先輩へと言葉を伸ばしてゆく。

「先輩が俺を信じてくれるたびに、俺はそこから逃げてました。クッキーのこととか、宝探しを思いついた後も、先輩は──俺は先輩の考えてたこと、なんとなくこうだろうって勝手に分かったつもりになってて、先輩の本当の気持ちを、確かめようともしないで──」

一揃い罪を吐き出し、俺はもう一つ、今度は先輩へと届けるための想いを紡ぎ出す。

「幽霊騒動の時、その、先輩ともはぐれちゃったり色々──あったけど、それでも俺の手を取ってくれたこと、本当に嬉しかったんです」

忘れていた誇り。そこにあったはずの想い。

「河野さん、あれは、その──」

あの日の記憶が蘇ったのか、先輩は不意に無表情だった顔を少し赤らめて、何かを反論しようとする。

だが俺はそれを敢えて遮り、そして敢えて畳み掛けるように、先輩との想い出を繰り返した。

「生徒会にみんなを引き込んだ日、あの時も最後に先輩を見つけて、感謝してるって言ってくれたこと、一緒にアイスを食べて笑った事──」

その日だけじゃない。春休みの間、あんなにも先輩と笑いあえてた事、先輩と過ごせた優しい時間を、先輩にも思い出して欲しかったのだ。

ふと目を向ければ、先輩は僅かに、ほんの少しではあるけれど、表情を緩めているように見えた。

何かを思い起こしているような久寿川先輩のその雰囲気に、俺はここを勝負所と捉え、宣言の為の転換の言葉を切り出した。

「ホントに情けない話ですけど、あれから俺、実はタマ姉やこのみに色々指摘されて、説教されて──本当は自分一人でだって見えてたはずのことに、でもそれでやっと気づけたんです」

 

そして、それは致命的な読み違いだった。

しかもその上に、あの二人の名前を出すという更なる致命傷を重ねてしまっていた。

 

「本当に今更で、虫が良すぎるのはわかってます」

後から思えば、この時の俺は自分自身の告解に半ば酔っていたのかもしれない。

「でも、もう一度俺を信じてはくれませんか」

信じて欲しいという想いが、一番大切な想いが、そう簡単に伝わるはずが無いなんてこと、昨日このみとも語り合っていたはずなのに。

「俺、今度こそ先輩の信頼に応えたいんです」

先輩のもう一つの傷、先輩自身をに触れるのを忘れたまま、俺は気軽に過ぎる足取りで先輩の方へと踏み込んでゆく。

これも後から思えば。ここまでの先輩の沈黙に乗せて運んできた自分の言葉は、一昨日のこのみとまったく同じ轍を踏み、まったく同じ迎撃ラインの直上を通過していたということに、俺はまだ気づいていなかったのだ。

「俺は──俺は、先輩の事が──」

かくして、俺は。

 

「──やめて。もういいの、河野さん」

 

先輩の強固な心の壁に、それ以上の進入を正面から阻まれていた。

「え──? いや、その、もういい、って──」

混乱が俺を襲う。先輩に再度反論すべきところなのに、どう頑張っても声が出ない。

俺の声が素直には届かない事なんて、予想していたはずなのに。ただ一度のアプローチで先輩の心に近づけるはずがないなんて、三月の時点で分かっていたはずなのに、俺はただ一度の拒絶によって、その舌を止められてしまっていた。

「違うのよ、河野さん」

固まってしまった俺を前に、先輩は優しく微笑みすらして、言葉柔らかに、されど硬く凍りついた心と共に、俺をゆっくりと諭し始めた。

 

「私も勘違いしてたけど、河野さんの方もやっぱり勘違いしてただけ」

「勘違い──? 俺が、一体何を──」

 

普段であれば先輩自身に向けられる、勘違いという名の自己解決。だがこの瞬間、その言葉は俺を形容する存在として、先輩自身の血に塗れたその切っ先を俺の心に向けていた。

「河野さんは、本当に優しいから」

その台詞に、俺は愕然とした。それは昨日、このみの口からも聞いた俺への言葉だ。誰にでも優しいと称される河野貴明の救い難い属性───

「だから、貴方はこんな私を放って置けなかっただけなの。その事を──貴方は何か別の感情と勘違いしてただけなの」

この時の俺は、ここでようやく気がついた。これは、このみが先輩の前に拒絶されたのとまったく同じパターンを踏んでいるのではないかと。

一ヶ月前にまーりゃん先輩の卒業が決まったときに先輩が見せた、あの嵐のような拒絶が再現されているのではないかと───

「そんな──俺は、勘違いなんて──」

そんな恐れから何とか言い繕うとする俺を、彼女は頭を振って再び拒絶する。

「だから、もういいの。河野さんは悪くない」

先輩はそう言うと、しばし瞑目するように言葉を止め──そして、あの時の拒絶から更に一歩進んだ自己認識を展開した。

「むしろね、私はとっても感謝してるの」

(ああ、そんな、これは──)

「貴方が見せてくれた優しさ、気遣い。それは本当に嬉しいものだったから。初めてだったから」

何故。どうして。もしそれが認識できているのなら、どうして俺の想いは───

(他の全部が伝わっても、心の中までは届かない)

──ああこのみ、そういうことなのか。

俺は敗北感と共に、このみが教えてくれていた鍵を今更思い出す。

これはあの一ヶ月前の拒絶とは違う。今の久寿川先輩は、なまじ俺の心を思い遣りという形である程度認識してしまっているのだ。それ故に、全部が嘘と否定していた硬い心のあの時よりも、今の先輩はある意味柔らかに、それ以上の想いを否定できてしまうのだ。

「先輩──それだけじゃダメなんですか。俺は先輩が好きだから、だから先輩が一人で泣いてるのとか我慢できなくて──」

遂に口にした、好きと言う言葉。

だが、その言葉が僅か数日前になら持っていたであろう重みは、今や完全に失われている。久寿川先輩はその言葉を意に介することすらなく、決定的な否定の一打を撃ち放った。

 

「ううん、だって考えてみて河野さん。もし貴方が私にそんな感情を抱いてるとしたら──貴方はこの数日間、本当に幸せだったのかしら?」

「な──それは──」

 

ま、待ってよ先輩。確かにこの数日間、俺は重く沈みこんだように悩んでた。目を背けているとタマ姉に指摘され、雄二の一挙一動に嫉妬し、それでも直視する勇気がもてなくて、疲れ果てた態度を先輩に向けていたのは確かだけど。

でもそれは、全ては先輩を想ってのこと。

「違うよ先輩、だってそれは──」

しかし、その想いを俺は巧く言葉にできない。想いを伝え続けなければいけないはずなのに、好きと言えば勘違いと返ってきそうな、そんな徒労感にも似た絶望感が俺の舌を縛り上げている。

「私だって、河野さんの事を色々見ていたわ」

自分の中にも俺への想いが少なからずあることを告白しながら、それでも先輩は想いを否定する。

「河野さんは明らかに──向坂さんや、柚原さんといる時の方が幸せそうだもの」

それはもはや揺るぎない、先輩にとっての確固たる事実のようだった。その現実を元に、彼女は好きという言葉を再定義する。

「好きという感情が、お互いのの幸せを追い求めるものだとしたら──その幸せに一番近くにいるのは、貴方を傷つけてしまう私じゃない」

俺はハッとして先輩を見つめなおす。

傷つけるということ。傷つけることへの恐れ。それは俺がずっと先輩に対して抱いていた、拒絶されるかもしれないという感情の裏返しである。

──ならば、俺と同じように、その気持ちには出口があるはずなんだ。俺を傷つけることなんて、先輩が怖がる必要はないはずなんだ。

それを、何とかして伝えられたら───

「私はもういいの。私は貴方を傷つけて、苦しませてしまうのに、河野さんはそんな私にも、もう十分過ぎるほどの幸せをくれたわ」

目の前の先輩はそういって笑ってみせる。

だが、俺の目だってもう節穴じゃない。その笑顔の面に無数の見えない涙が流れていることぐらい、今の俺にはちゃんと分かってるのに。

「大丈夫。河野さんに教えてもらった大切なこと、ちゃんと理解してるから。この一ヶ月の事、私はもう無かったことにはしない。ずっと──何処へ行こうとも、ずっと忘れないわ」

(え──?)

その涙に反論しようとした瞬間、今日先輩と対峙した時に、最初に感じた雰囲気を思い出した。完璧すぎた表情。何処か決意にも似た無機質の壁。

(忘れない──何処へ行こうと──)

それはどう考えても、ただの拒絶の言葉じゃない。

「だから河野さんも、私なんかに遠慮しないで、貴方自身の幸せを探しに行って。私にはもう、そんな時間はないのだから」

──息が詰まった。

ちょっと待ってよ。先輩は何を言ってるんだ。時間、もうない、何処へ行こうとも、それは。

「ど、どういう意味ですか、先輩」

かろうじて声を絞り出す。何か決定的な扉が、目の前で閉ざされるのを感じたが故に。強張った手を必死で伸ばして、その隙間に指を差し込もうとする。

だが、しかし。

 

「私ね──転校する事になったの」

 

扉が、閉ざされた。そんな、馬鹿な。

 

「前から話はあったんだけど──昨日、急に決まったことなのよ」

昨日の今日。それは偶然の一致なのか。偶然にしては出来すぎている。だってついこの間まで、全然そんな素振りもなかったじゃないか。俺と先輩の関係が壊れそうになるこの瞬間を、狙い済ましたかのようにそんな話が出るなんて───

「先輩、転校って、一体何処へ」

こんなことで終わるのか。これで終わるのか。

──嫌だ。そんなの嫌だ。ここまで頑張ったのに。ここまで何とかして先輩の心を解き明かそうとしてきたのに。たとえ先輩が何処に行こうと、俺は追いかけてだって先輩を───

そんな必死の思いで俺は先輩に追い縋ったが、そこに帰ってきたのは更なる絶望の言葉だった。

「アメリカよ。母とニューヨークに渡るの」

思わず腰が抜けた。膝が砕けそうになる。

ニューヨーク。それは高校生の俺にとって、事実上地の果てに等しい。どう足掻いても追いすがれなどしない、先輩との永劫の距離の断絶を意味していた。

「嘘だ──久寿川先輩、そんなの嘘だよ──」

まともな言葉が出てこない。

まともな思考が回らない。

これが、今日の先輩が見せていた決意の根源だったのか。これがあるからこそ、先輩は自分の感情の追求を止め、全てを否定できたのか。

先輩はそんな俺を一瞬悲しい目で見つめると、すぐに首を横に振って感情を散らす。

「本当の事よ。もうどうしようもないの」

その台詞を境に、久寿川先輩は事務的な口調に切り替えて話を続けた。

「詳しい事は明日みんなの前で話すつもりだったわ。生徒会の引継ぎなんかもあるし、それから会長の後任は向坂さんにお願いするつもりよ」

虚ろに響く機械的な言葉。そんなことは今の俺にはどうでもよかった。タマ姉やこのみまで巻き込んで、これまで俺は初めて積み上げてきた想いが、あらゆる出来事が、全て瓦解してなかったことになってしまう。その瀬戸際にあるという事実、瀬戸際の先にある免れ得ない現実に、心が麻痺したかのように活動を停止しかけていた。

「──河野さん。今日はもう帰って」

不意に響いた先輩の冷たい声で俺は我に返り、先輩に何とか言葉を繋ごうとする。

「先輩、待ってよ、何とか──」

だが次の瞬間、先輩は声を荒げて立ち上がる。

「いいから──いいからもう帰って!」

(あ───)

俺はゆっくりと後ずさる。先輩から顔を背ける事で、先輩が消えてしまうとでも言うかのように。

今一瞬、声を荒げた先輩の中に垣間見たその全てを、脳味噌の一つ一つの細胞に刻み込んでいくかのように。

(今の、声は───)

先輩は再び書類の方へと顔を伏せ、俺を振り払うように目を逸らした。それを契機に、俺もそろそろと扉の方へ振り返り歩いていく。

上履きの音がやけに大きく響く。

生徒会室のドアを開け、そして最後に、俺は先輩の方へと向き直った。久寿川先輩は立ち上がったまま、俯いたまま、赤い光の中で彫像のように立ち尽くしている。

俺はその姿を見届けると、なんとか動かない舌を総動員し、最後の挨拶を形にする。

 

「先輩──また、明日」

 

その平凡な挨拶がこれほど空疎に響いたのは、

人生で初めての経験だった。

 

 

 

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8: 最後の選択

the Final Showdown

 

──では、最後の選択をしよう。

 

気が付いた時、俺は薄暗い天井を眺めていた。

夢の中で、俺は先輩と歩いていた気がする。

河原の桜並木。赤色透かす桜の木陰。

満開の桜が舞い散る中、先輩の頬に映ったほのかな赤色がとにかく綺麗で、それに見惚れてたことだけは、はっきりと覚えている。

目が覚めれば、見慣れた天井。

このみと幾度と無く、一緒に眺めた天井。

僅か二日前の夜、タマ姉を見上げた天井。

この部屋で俺は己の罪を知り、タマ姉の想いを知り、先輩への気持ちを思い悩んだ。

この家で俺はこのみの想いを知り、先輩の絶望を知り、これからの事を思い悩んだ。

それも所詮、泡沫≪うたかた≫の夢だったというのか。

あれからどうやって帰宅したか、俺の記憶はさっぱり抜け落ちている。生徒会室の扉を閉めた後、俺の心は完全に磨耗し切ってしまったらしい。

(今は──もう、夜中か──)

おぼろげな記憶から、自分が帰宅してベッドに倒れ伏したこと、今日の出来事、これまでの全てを思い悩み続けているうちに、いつの間にか眠ってしまったことを引きずり出す。

「久寿川先輩──アメリカなんて、遠すぎる──」

暗い部屋で俺は独りごつ。

もう駄目。もう無理だ。そんな冷たい声がじわりと心の中に忍び込んでくる。

(このみ、タマ姉──俺は、どうすれば──)

何を何処で、どう間違えたのか。

何処かで違う選択肢を選んでいれば、こんなことにはならなかったのだろうか。

確かに、委員長のくじ引きで卒業式当番になり、たまたま聞こえた屋上の扉の音に誘われ先輩を目撃したところまで、俺の手に選択肢はなく、それは偶然の連続に過ぎなかった。

だが、それ以降に起きた事は全て、俺の意思による選択の結果だ。その何処かに間違いがあったのか、そんな埒もない考えが湧いてきてしまう。

卒業式のあの日。終業式までの時間。

まーりゃん先輩と先輩の関係を知った時。

必死の思いで、終業式に向けて駆け抜けた。

(そうして手に入れたのが、先輩との日々だった)

春休み。最初はどん底から始まったように思えたけど、蓋を開けてみれば、俺は生まれて初めて一人の女の子と心地よい緊張の中で時間を過ごした。

夢のような時間。一緒に歩いた桜並木。

恋。今思えば、それは疑いようのない恋心だった。

笑顔。今思えば、それは明白なまでに俺だけに向けられていた先輩の想い。お互いに不器用だったけど、何とか互いの想いを渡し合おうと、二人の距離をゆっくりと縮めていった日々だった。

 

そして──新学期。裏切りの原罪。

その赦されざる罪のカタチが、今この薄暗い部屋で絶望を抱く、この俺自身なのだろうか。これはあの日に犯した罪の、必然の結果なのだろうか。

(あの時、先輩の想いを受け止められていたら)

いや、後に先輩の側から踏み出してくれた一歩を自分可愛さで拒絶した俺に、そんな仮定を弄ぶ権利はない。私的に生徒会を動かした後ろめたさも、信頼関係を友人に揶揄されたという反発も、全部後付けの理由でしかなかったのに。

掛け違えたボタン。歪んだ積み木。

あの時まで明確に見えてたものから眼を逸らして、でっち上げの理由ばかりを積み重ねてきた。

(ああ、だから、そうなんだ)

そう。恋なら、もう終わっている。

正確に言えば、そんなものはとっくに終わってた。この結末は、久寿川先輩の信頼を拒絶したあの時から、既に決まっていたことなのだろう。

 

(まーりゃん先輩みたいにひとりでいかないで)

 

固く閉ざした扉の中に強引に踏み込んだ俺を、少しずつでも認めてくれた先輩。人の匂いを拒絶する身体を抑えつけてまで、自分という存在を受け入れてくれた彼女は、そう俺に願った。

でも、俺は今ここにいる。

そのヒトを裏切って、まーりゃん先輩との約束を破り捨て、タマ姉を傷つけて、このみを悲しませて、それでもようやく立ち上がったと思った時には、全てが終わってしまっていたなんて。

そもそもの始め、先輩がどうして俺を受け入れてくれたのか、それは今もわからない。心を閉ざし、扉を閉ざし、副長と畏怖されてきた彼女が零したたった一滴の涙を、たまたま俺の手が受け止めてしまっただけかもしれない。

だが、その想いがなんであれ。

その涙は、彼女を救いたいと俺に願わせ、周りにどう思われようとも、彼女と新しい道を歩みたいと思わせたのは確かだったのだ。

故に。その日々は楽しかった。

頑張ったことには意味がある。受け入れてくれたからには意味がある。誰もが拒絶された中で、それでもあの人の幸せを願った結果、その扉にほんの少しだけ、信頼という隙間が空いたのだ。

なのに、俺はその空間を恐れ、拒絶した。

(貴方に誇りを認めたのに、貴方を相応しいと認めたのに、どうしてその気持ちをあっさり否定できるのよ───)

ああタマ姉、俺はひどい男だった。

自分を認めない事が、自分を低く見る事が、美徳か何かだとすっかり勘違いしたまま、俺はこれまでの人生を歩んできたんだ。

(一番大切なことだけが伝わってない。それがないと、他の全部が伝わってても、先輩の心の中までは届かないんだ)

このみ、俺は冷たい奴だった。

誰にでも優しくすることで、誰からも嫌われない事だけを望み、それが一番公平な事なんだと思い込んで、俺はこうして生きてきたんだ。

今こうしてうずくまっているのが俺だけであれば、その全ては俺が今まで十年以上積み重ねてきた、その罪のカタチだと受け入れられたのだろう。俺一人がここで罪を背負い、泥水を胃にぶち込んだまま生きていけば、それで済んだはずなんだ。

でも、そうじゃない。

先輩がいる。このみがいる。タマ姉がいる。

 

(貴方も、自分がつけてしまった傷は、自分で償いに行ってあげて。それが、今の私の望みだから)

ずっと昔につけた小さな傷を、ずっと心に留めてきた女性がいた。その十字架を否定しようとした俺を、俺と同じぐらい傷まみれの両腕で否定した。

 

(今までのコトを嘘にしちゃダメだよ。それは、先輩としかできないことだから)

ずっと同じ時間を過ごし、俺に手を伸ばすことだけで笑顔を続けてきた女の子がいた。言葉に詰まった俺を、その子は優しい願いだけで受け止めた。

 

(だから私、好きになりたかったの。がんばって人のこと、好きになりたかったの)

他人を拒絶して、それでも想いを求めていた女性がいた。強引に踏み込んだ俺を受け入れて、拒絶する身体を押さえてまで戦ってくれた。

なのに俺は。何故俺は。だから、俺は。

戦いたかった。立ち上がってみた。前非を悔いて、想いに詫びて、なんとか先輩の下へと辿り着こうと足掻いてみた。だが、その結果は敢えなきデッドエンド。

──もう、いいじゃないか。

タマ姉だって、このみだって、ここまでやったならきっと赦してくれる。どう足掻いても、先輩はいなくなってしまうんだ。なら、もうここでやめてもいいじゃないか。

 

──でも、あれは何だったのか。

 

その時、今日最後の去り際に見た先輩の顔を思い出す──あの僅かな一瞬、思わず声を荒げた先輩は、最後に本物の涙を一滴零していたことを。

その意味は何なのか、その抑え切れなかった感情を、見過ごしてもいいのだろうか。

(だからタカくんは、絶対諦めちゃダメだよ──)

諦めてはならないのは何だったか。そう、このみは俺を何と言って送り出したのか。

 

──これが、最後の選択だ。俺は、

 

 

 

1.先輩を諦めない。

2.このみの最後の言葉を思い出す。

3.恋の終わりを、受け入れた。

 

 

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「夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち」シリーズ第2章第2部。
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