LOVELY HOME COMPLEX -姉妹愛-
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少し聞き苦しくなる話だが、以前クラスの男子数人が、こんな事を話題にして小声で盛り上がっていたのを聞いた事がある。私は最近買った携帯端末へと目を落としながら、何となく聞き耳を立てて、その会話を密かに聞いていたのだ。趣味悪く、盗み聞きである。

それは、とある地方の小学校で起こったらしい、ある事例に関する話。

ある日の放課後、六年生まで完全に下校する、小学生からすれば、もう友達と遊ぶのも切り上げて帰り出すような夕方のこと。

巡回作業に当たって板一人の教諭が、誰もいない教室、それも三年生の教室内で、二人の男子生徒と女子生徒が、まんまメロドラマの一場面のように、半裸姿で睦まじく絡み合っているのを発見したらしい。

詳細は不明らしいけど、想像力に自信ありげな男子が言うに、恐らくは男の子の方が、机の上へと女の子を押し倒す形だったのだろう、とのこと。あの男子は本当に馬鹿だと思う。

何の事はない。……いや、ある。まだ年端も行かない小学3年生の男女同士が、人目を忍んで、あろうことか学校の教室という公的な場で性の快楽に没頭していた訳だ。世間目線で見れば勿論、そして私の目線から見ても、問題は有り在り。現場も押さえられ、議論の余地など端から抹消されるレベルである。

しかも、それ以上に問題だったのは、当時の両者の体位だったという。

正直、男子達の話にも不明瞭な点が多く、これが全て事実と決め付けるのは些か早計と言えるのだが。

……二人は、挿入にまで及んでいたらしい。

当然ながら、その二人も、露見した場合には学校側も自分達を擁護出来ない範疇に墓穴を掘るだろう事は理解していたらしく、世間になるべく真実を伝えない形にするため、その後に二人は自主退学。

学籍は二人分が速やかに抹消され、後には、このような不穏当な噂だけが残った、と。

さて、この私も運動会が近付いてくる事にワクワク感を持たなくなって早数年、その話は、無邪気さを失い掛けていた私に、久々に素直な”驚き”という感覚を味わわせてくれた話となった。

表出したリアクションを取った訳ではないけれど、それは言ってみれば、性の早熟という、週刊誌とかでも少なからず取り上げられているテーマを有り体に証明していたのだ。

情報の流動化が顕著になり始めた二十一世紀の始め頃を皮切りとして、今日の子どもの性に対する観念、それと接し方は、結構な月日の流れた現在でも未だ奔放化の一途を辿り続け、寧ろ更に加速している。

恐らく、TV画面の向こう側で論述している専門家が予測する速度を、遥かに越えてだ。

……うちの妹に限って、そんな事は、なんて安易に決め付けるべきではなかった。ああ、だがもう遅い。

まあ、仮に気付いていた所で何が出来たのか、と問われても、甚だ返答に詰まる事となるが、それでも。

それでも、私の後悔は一向に止まる所を知らない。

私の妹が、小学四年生の彼女が、まさか、まさか、まさか。

あんな事を、言い出すだなんて……。

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県内の公立高校に進学して、まず地味に興味を煽られたのは、部活動の入退部に関して。

それが、中学校に比べて、大きく寛容に扱われる事であった。

私のいた中学校では、四月の中頃からの仮入部期間を経て、五月初頭の本入部期間を過ぎれば、それ以降は実質的に入部不可能。退部に関しては、その限りでなかったが、途中から転入してきたとか、大病を患って仕方なくとかでもない限り、余程の理由も無しに部活動への入部は許されていなかったものだ。

一度でも集団に籍を置けば、後の三年は必ず全うしなければならない。

さながら生徒達に課せられた義務のような形で、そのように定められていた。

しかし高校。ひとまずは私の通う高校を例に挙げさせてもらうが、ここでは年中のいつでも、入部届と書かれた小さな紙に必要事項を記入し、生徒会室前の段ボール箱に投函すれば、然るべき簡単な手続きの後に直ちに入部完了、退部に関しても同じ。……という事になるらしい。実に簡単で私好みだ。

と、ここまで話しておきながら何だが、中学校の頃に、少し部活動で失敗してから部活動に関わらない事にしている私には、これは余り関連性の無い話である。しかし、私に進学というものを実感させるには十分な例示となったのである。入学式の時も、まだ第一志望の高校に合格した実感が湧かなかったものだし。

「ばいばい、麗司くん」

「麗司くん、さいならー」

放課後。

私に手を振りつつ、教室を出ていく女子生徒達へ適当に手を振り返し、私は何となしに外の景色を見遣る。

まだユニホームに着替えていない制服姿の野球部の男子達が、グラウンドを横切り野球専用グラウンドへ向かっていく姿が見えた。そしてそれを私よりも高い位置から見下ろす空は、仄かに秋寒の感を孕み始め、何処か鈍い灰色を湛える。しかし澄み渡るような印象を私に抱かせ、雨の心配は薄いように思われた。

私も、別に居残って片付けなければならない用事は持たされていないので、先程の女子生徒と同じように荷物を纏め帰るしか通る道は無い。いつもと同じように、仲の良い誰かと連れ立つでもなく一人で帰路を急ぐ。私の日常的なスタンダードは、専らそれであった。

そんな帰宅部期待の星こと、私はナギセ・レイジ。

穏やかに凪いだ浅瀬と書いて凪瀬、麗しさを司ると書いて麗司。

全国の同名者に申し訳無いとは思うが、実にナルシストな名前である。

聞いて驚かないでもらいたいのは、私の性別が男子などではなく、先程から私、わたしと連呼している通り、正真正銘、生物学的に言わなくても本物の女子である、ということ。

学校や病院で名前を呼ばれる度に頬が赤熱する、男子のような名前と昔から散々に冷やかされて、随分と涙を消費させられた名前ではあるが、私の名前は凪瀬麗司(♀)。渾名は男子風に”麗司くん”。

比較的長い髪と制服のスカートを靡かせ、学生鞄を友に学校という小さな社会へ身を投じる。

そんな、今年で十六歳の現役女子高生だ。

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首都圏在住なら誰もが知る、あの電車で二駅分を東京方面へ向かえば、そこが実家の最寄り駅。

駅付近の大きな駐輪場から新品の自転車を走らせ、暫く先に建つ煙草屋を通り過ぎる。

邸宅の庭から吠え掛かる、威勢だけならシベリアン級の豆柴に軽く挨拶を送り、その先に待ち構えるのは、まるで刃物で切ったように鋭い傾斜でそびえ立つ、言い換えれば切り立つ、丘の上へと続く急斜面。

人はこの坂道を……、……別に異名なんて付いていなかった事に今気付いた。

で、荒い息を吐きつつ、完全に荷物と化した自転車を必死に押し、そして坂を上り切った場所にあるのが、我らが凪瀬家の両親、私、小学生の妹の計四人家族が住まう一戸建てである。

……幼稚園以前から坂を上り下りしているおかげで、まあマラソン大会で苦労しない程度の力は付いたが、近所に買い物へ行くのにもプチ登山を行う羽目になる。これだけは本当にどうにかならないものか。

いつも通り、心の中だけの悪態を吐き、私は新品自転車を父親の趣味丸出しのロードスターが納車されたガレージに仕舞い込み、込み上げて破裂しそうな心労を抑えて、遂に玄関から帰宅を完了した。

「ただいまー」

ベーシックな帰りの挨拶を小声で言いつつ、私は玄関先に揃えられた、小さな薄桃色の運動靴を認める。

どうやら、前述した私の小学生の妹は既に帰ってきているようだった。

妹は、帰ってくると決まって籠り切りになる。何をしているのか見た事はないが、きっと勉強しているか、最近買ってきていた漫画でも読んでいると考えるのが妥当だろう。前者なら姉として誇らしいものだ。

当の姉はリビングで午後のドラマ視聴に勤しむ訳だが。

私の最近の日課は、丁度下校した頃に始まる往年の名作時代劇、水戸黄門を見る事だ。

主に例の坂道のせいで、家に着く頃には番組の始まる三分前になってしまうものだから、制服を着替える暇もない。皺になるから着替えろと注意されてはいるが、私としては、オープニングに流される渋い美声の一節たりとも、聞き逃したくはない。あれが抜けると、水戸黄門は水戸黄門ではなくなる。ただの水戸だ。

本日も開始時刻に間に合った事を自分の脚力に感謝し、私はリビングへ直行。鞄を食卓の椅子に放り出し、四人掛けソファに一人で陣取ると、ソファ前の机に都合良く置かれていたリモコンのボタンを押し……。

「この紋所が目に入らぬか!!」

画面一杯に映し出された印籠、その紋所が、目に入った。……へ、は!?

「此方に在す御方を何方と心得る! 畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公に在らせられるぞ!!」

私は、真夏の砂漠に雪が降ったような困惑を抱かずにいられない。

言うまでもなく、こうして印籠がデカデカと登場するのは番組の後半も後半、大詰めの大立ち回りの後に来るのがお約束であり、まだオープニングも始まっていないのに、何故、どうして……?

そういう変則的な演出の回と割り切れば簡単なのだが、それならこの土下座する一団内に流れる敗北感、やり切りました感は如何に説明すればいいのか。明らかに終了ムードとしか考えが及ばないのだが。

「では、助さん、角さん、参りましょうか」

そうこうしている内に、番組のエンディングを告げるオープニングテーマのアレンジ音楽が流れ始める。

これでは流石に楽観視が叶わなくなり、私は一旦ソファを立つ。

そして、やっと食卓上に見つけた本日の朝刊、そのテレビ欄を見てみてみるが。

「……ミスしたなぁ」

湧いた懸念は当たっていた。本日の水戸黄門は、放送時間がいつもより一時間近く繰り上がっていたのだ。多分、今日のゴールデン枠に放送するらしい、芸人が馬鹿騒ぎする四時間スペシャル番組のために。

何という事だ。これでは水戸が水の一画目分にもなっていないではないか。

時間を詳しく確認しない私の側にも非はあるだろうが、いっそのこと放送自体を中止にしてくれた方が、見逃がす事もないし、幾分かマシだったろうと思う。何だ、この口から奇妙な塊が漏れ出ていく感覚は。

「他は、……ニュースだけか」

一応、テレビ欄のめぼしい箇所を全て確認してみたが、この後に私の爛れた心情を癒すような番組は皆無。ニュース番組で暇潰しが出来るほど子どもを放棄してもいないので、何もする事が無くなってしまった。

新聞を元の場所に戻し、再びソファの柔らかさに身を預けた私は、何とも形容の出来ない虚脱感に囚われ、どころか、それに身を任せるように重くなった瞼を閉じ、粘り気を帯びた思考の流れから解放される。

要するに、このまま寝る事にした。

制服を着替えていないが、そんな事は些事だ。いや、アイロンをする母親からしたら大事かもしれないが、私に糸を絡めて放さない蜘蛛は、母へと苦労を掛ける事に抱く申し訳無さを凌駕する強敵。

奴の巣から無事に脱出するには、奴の注意が逸れるのを眠りながら待つのだ。果報を待つように。

まあ、現実で虫が蜘蛛の巣に捕らわれたら、例え蜘蛛が外出していたって逃げられないけどね。

と、いうわけで。

「おやすみー……」

ブレザーを脱いで、履いていた黒のハイソックスもソファ前の机に放り出し、その場で私は寝た。

下校疲れと番組を見逃した虚脱感が同時に襲来してくれたので、意識が遠のくまで時間は要らなかった。

この時、内容は全く覚えていないけれど、私は何故だかとても悲しい夢を見た気がした。

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……何だ、この感覚は。

先程まで私に絡み付いていた、あの虚脱感とも違う、妙なものを感じる。

身体がむず痒いような、寒気を感じるような……。いけない気分に支配された、変な。

パチリ、感覚を明晰に認識し、私は電源を入れたみたくスムーズに瞼を開いた。

で、その光景を目の当たりにした。

どうしてか、私の着ていた制服、そのワイシャツの前面ボタンが全開になっていて。

何故か、スカートは下着が丸出しになる形で、不自然過ぎる捲れ上がり方で捲れているし。

挙句の果てに、私の小学四年生の妹が。

私の丸出しになった胸を、ブラジャーの上から撫でるみたく触って、凝視して、耳まで赤面しているし。

「……あ、んた……」

「え…、あっ……!?」

私が起きた事に気付いた妹は、弾かれたように私の顔を見て、固まった。

え、あ、じゃあねぇだろ、おいおい。……おいおい!!

「ちょ、ッ!? あんた、なにして、ッ……!?」

「あっ……!」

そのテレビで見る衝撃映像Best3よりも、よっぽど衝撃な映像に、まどろみから一気に覚醒させられた私は、訳も分からないまま思わず妹を突き飛ばしてしまっていた。……やべ、力加減が間に合わなかったかも。

「あ、だ、大丈夫?」

泣かせたか、と思い妹の様子を窺ってみると、尻餅をつかせてはしまったが、どうやら怪我はないらしい。というか、名残惜しそうに私の……待てや、どうして”まだ触りたかったのに”みたいな目で見ている。

主に私の胸を。あと捲れ上がったスカートの中身を。

この眉尻を下げ、右目の端に涙の玉を浮かばせている彼女は、私の妹。

名前は凪瀬爽依(サエ)。私より六つ下の小学四年生。

私が虐めを受けた件の反省を活かして、爽依という実に女の子らしい名前を付けられている。

年齢相応に無邪気で、年齢相応に生意気な所もあり、総合的に見れば名前通りに女の子らしく、可愛い。

その凪瀬爽依さんが、何という事か。……誤魔化しようがない事態だぞ、これは。

よりによって実の姉である私の寝込みを襲い、半裸にして、胸まで撫で回して……。

嘘であってほしいと切に思うが、こうしてワイシャツの前が開帳されて、他者に捲られたとしか思えない捲れ方をしたスカートからして、……うわぁ、どうしよう。これ、どう見たってそういうあれだよね。

ちらり、壁に掛かった時計を横目で確認すると、午後五時過ぎ。幸いにも、まだ両親は帰らない時間だ。

再び妹の様子を見てみると、先程の名残惜しげな雰囲気は既に消え、瞳には私に対する怯えの色。

怒られる、洒落にならないくらい。とでも思っているのだろう。

まあ、小学四年生とはいえ、そろそろ”友達より先の人間関係”の存在を意識し始めてもいい時期だ。

……それでも、手を出したのは血を分けた姉。自分のした行為のまずさくらいは理解しているだろう。

いい、いいのだ。誰でも過ちは犯す。今回は、それが妹の人生を左右するような事にならないように出来る程度の過ちだった。それを、積極的に幸運だとポジティブに考えるべきだ。よかったね、よかったよ、と。

いや、怒っているよ、これでも。……でも、子どものした事だし。

自分と違う胸の膨らみに興味が出ました。

大人の身体(私もまだ子どもだけど、妹から見て)がどうなっているのか、興味が出ました。

そんな所だろう、妹の心中は。

性の詳しい輪郭も把握してない時期は、そういうのが何か堪らなく甘美に見えるよね。それ分かるよ。

「とりあえず、……いいよ、深くは聞かないでおく」

だから私は、俯いてしまった妹を、言葉を掛け、宥めておく事にした。

仮にも姉として、言うべきと思う事はしっかり言うけどね。

「あんたぐらいになると、そろそろこういうのに興味が出ても不思議はないから。……でも、こういう事は金輪際、やらないと約束しな。これ、あと少し行けば問題になるんだからね」

「…………」

小さく鼻を鳴らした爽依を尻目に、私はワイシャツのボタンを留め直し、………恐らくは爽依に捲られたプリーツスカートも直して、震えて縮こまる小さな妹を軽く睨んだ。

もっと怒られると思っているのか、爽依は立ち上がろうとはしない。

この件は終わりにするから、もう立てばいいのに。……自分の行為を今更に重く見たのか?

なら、最初からこんな事やらなければよかったのに。学校の成績は良いくせに、馬鹿な妹だね。

「ほら立ちな。……お父さん達にも言わないし、もう怒ってないから、……ほらほら」

仕方がないので、頭の一つでも撫でて茶化してやろうかと、爽依のサラサラの髪に右手を延ばす。

そこで。

「やだ……」

「……あ?」

俯き、目を伏せた妹の、小刻みに震える唇から、何かが聞こえた。

「……何と?」

「いやだ、……またやりたい。これで終わりなんて嫌だ……」

「…………」

驚いた。呆気に取られてしまった。

運動会が迫ってくる事にワクワクしなくなり、クリスマスを高揚した気分で過ごせなくなり、早数年。

一体、ここまで額に異物が刺さったような感覚を感じたのは、いつ以来だ。

私の額に突き立てられた異物は、その刃に塗られた毒を私の脳に流し込み、私から何かを奪っていく。

妹の姿しか目に入らなくなり、その妹、爽依に対して、灰色で汚い感情が湧き上がって……。

「あ――、あ、もう」

殴った。……頭を撫でようとしていた手で。

そう気付いたのは、私が爽依の頬に平手を打って、その小さな身体が床に転がってからだ。遅ぇよ。

右手を振り切った姿勢で、こちらを呆然と見てくる爽依の姿を見る。

殴られた左頬を押さえた姿勢で床に転がる爽依の瞳からは、今の一瞬で出せたのかと驚く程に多量の涙が伝っている。……何だかんだで、生まれて初めてだった。ふざけた感情無しで妹を殴るのは。

やっちまった、という後悔の念と、自分の立場を弁えない妹の、軽はずみな物言いに対する怒りの念が混在した、紫と黒の混合色のような感情は、自分でも吐き気を感じた。うえぇ気持ち悪い。

はぁ、と、極めて簡素な方法で、その気持ち悪い感情を口から排出し、私は全ての気持ちを包み隠さず額を押さえる仕草を取った。

真正面から、拒否された。

なんてこった。なんてこった。

元から、世辞にも従順とは言い難い性格ではあったが、それほど意地を張り通す子でもなかったのに。

「いい加減にしてよ……」

言うと、爽依はびくりと肩を跳ねさせ、そのまま後ずさりしようとした。

そんな妹の小動物のような情けない姿に憐憫すら感じ始め、私は余りのやるせなさに頭痛すら覚える。

額の異物の毒は、既に解毒されているのに、どうしてだろうね? ホント。

「何なの一体。どうしたの、あんた。そこまでして意地張る必要が、何処にあるの……」

もう私は理解する事に疲れ始めていた。

通学路で体力を無駄にしたし、水戸黄門は見逃がすし、……果てにはこれで。

全部が他言語にでも聞こえてきそうだ。本来なら水戸黄門視聴後の高揚した気分のまま課題を片付けて、時間が余れば晩御飯まで本でも読んでいる筈だったのに。どうして今日という日はこうなのさ。

「だって、……そ、の……、…き、…だから……」

また妹が何か言うし……。

どうやら、さっきの一人言同然の私の問い掛けに律儀にも答えたらしいが、声が小さ過ぎて聞こえん。

言う気ならはっきりと言わんかい。

「聞こえない、何だよ?」

事態が、決定的な方に動いたのはそこからだった。

きっと、私は生涯、その妹の言葉を聞き直した事を後悔する。

未来永劫、結婚して子どもが生まれて、孫に振り回される事を喜びに生きるようになってからも。

きっと、死ぬ間際の瞬間まで。

「……え」

突然、爽依は立ち上がったかと思うと、急に私の両手首を抑えるように掴み、自分を見下ろす私の瞳を。

……なにこれ、真剣を具現化したような真剣な眼差しで射抜いてきた。

どういう状況だ。自分より六つも年下の小学四年生に動きを封じられ、見つめられている。しかも妹に。

何か爽依も、彼女の中の何かを繋いでいた線が切れたように、据わった目をしている。

一体これから何をする気だ、妹よ。姉はお前の気が全く分からんぞ。

「だ、から……、す……き、です……。あなたの、こ、事が」

「……んぅ?」

瞬間、キッと、眼光に強固な意志を燃やす光を宿した爽依は、遂に決定的な事を捲し立てた。

「大好きなの! 姉ちゃんのコトが! 一人の、……お、女の人として!!」

そうして世界が、少し止まった。

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好き。

言われた事を額縁……失礼、額面通りに受け取ると、妹は私の事が好きらしい。

妹の凪瀬爽依は、姉である私こと、凪瀬麗司が好き、と。……それも、一人の女の人として。

……ふむ。

…………。

ただいまより、第一回、凪瀬家に於ける家族会議(両親不在)を開廷しぅ、……失礼、開廷する。

「座りな」

「うん……」

とりあえず、爽依の身柄をニ階の私の部屋に連行し、そこで色々と話し合う事になった。

私が勉強机の椅子に座り、爽依を勉強机の反対側のベッドに座らせる。

私が高い目線からベッドに座る爽依を見下ろすような形である。

……さて、かなり気まずいが、そんな事を気にしている場合ではない。

年長者として、妹の気持ちに大きく関わっているかもしれない存在として、これは聞いておきたい。

「まずは、……許すつもりでいたけど、ああ言われちゃ聞くしかない。……あんた、これまでに今日みたいな事を何回やっているの」

「え……」

「私の寝ている間に服脱がして、胸触って、スカートも捲って。ああいう事を、前にもやったとか……」

「ないよ!!」

破裂したような声に、思わず私は、というか爽依も、目を見開いてしまった。何であんたまで驚くの。

大声を出した事を恥じるように、いや、ようにじゃなくて恥じているのだろうけど、爽依は私から下に目を逸らし、「あ、その……」と指同士を絡めつつ、詰まった喉を絞り出すように言い直した。次のように。

「実際には、……今日が初めて、です」

「そうか……」

それに安心した、と言っては変だろうか。実際に一度やっちゃっている訳だし。

触られていた、……んだよねぇ、あれは。

胸を、触られていた。……思い出すと、まあ複雑な気持ちに苛まれるわ、苛まれるわ。

女子同士でふざけ合って触られた事すらなかった私には、それどころか人の肌に触った経験すらも薄めな私にとり、あの一事は濃過ぎる経験だよ、本当に。濃さで言うと練乳とグラニュー糖を合わせたくらい。

「うーん……」

言葉に詰まってしまう。

私の妹は凪瀬爽依、小学四年生。

同年代の女の子達の間でも小柄で、164センチある私の鳩尾より少し上くらいの背丈しかない。

私と似て癖の無い髪は、背中くらい長さのある私に対して肩程度。それを普段は結ばずに垂らしている。

私に対しては、年相応の生意気な妹として、たまに足が出たりしながら接していたけど、根は良い子。

好きな動物は猫、あとモルモット。好きな芸能人、イモトアヤコ。趣味は少女漫画。……至って普通の妹だ。

そんな子が、一体いつから私を好きだなんて……。

もしかして、変な本の影響を受けたりしているだけではないのか?

第一、好きになるにしたって、私と妹は無論ながらニ親等の血縁関係、しかも同性だよ。

「あんた、私が好きって、……それ意味分かって言ってんの?」

「うん……」

爽依は頷いた。

「じゃあ、分かった上で、と?」

「……ぅ」

ベッドの上の爽依は、余計に顔を赤くして俯いた。

どうしよう、実物を見た訳ではないけれど、完全に恋する乙女ってやつに見えるよ、これ。

回答経験など殆ど無い問題を、しかし用意された解答解説を横に置いて解くような容易さで、妹の思考が読み解けてしまう。……一言で言って、マジだ。この子。

仮に書物の影響を受けただけでここまで、とかだったら、もう私には追い付けない領域だ。

いかがわしい本を覗いて洗脳される小学四年生の図を思い浮かべて、自己嫌悪に陥っていると。

「……その、昔は、違ったけど」

お、爽依が自分から口を開いた。どうやら話す気になったらしい。

いいよ、聞かせてもらおうじゃない。

問題内容が内容だけど、相手は妹だ。無下にはしないから、自分で話してほしかった。

「あのね、……ね、姉ちゃんは、綺麗、だし……」

うんうん。

「たまに大人っぽくて、カッコいい所もあるし……」

うんうん、……ん?

「たまに怖いけど、優しくて、あったかくて、……一緒にいられると嬉しくなる……」

おい、おい?

ちょっと待て、何だ、どうして私を誉める会が始まっているの。私が聞きたいのはそうではなくて。

ってか、これ本当に小学四年生の子どもが言った言葉か?

余りに大人び過ぎではありませんかね。私が四年生の頃なんて、外ではしゃぎ回るしかなかったが。

そりゃ、好きな男子の話で盛り上がる事はあったけど、爽依の言うような……えぇと生々しさ全開の人に向けた愛情を語りなんて、これっぽっちもしなかった。……ように思う。

もっと夢見がちな、今からすれば馬鹿らしいメルヘンチックな”恋バナ”しか、当時はした記憶がない。

……んもぅ、最近の小学生は早熟過ぎるよぅ。

「だから、昔は違ったのに……好きに……」

「なったと?」

爽依は静かに頷いた。

「そう、なんだ……」

何と言うか、これは、真意を知らなければ、嬉しさしか感じられない事だ。

妹から見ると、私は綺麗で、たまの怖さを埋めるほどに優しく、あったかく、一緒にいると嬉しくなる。

最後のやつは少しグレー気味だが、言葉の表面上だけ掴むなら、それは私が姉として完璧、という事。

姉として、妹からそこまで賞賛される。そこに悪い気を催すような要素など見当たらない。

しかし、それらが全て恋愛感情から発せられた言葉だとすると、……一気に言葉が黒化しちゃったよ。

妹から見て、私は恋愛感情を覚える程に魅力的な容姿を持ち、その優しさに狂おしい感情を抱かせられて、側にいると、好きな人と一緒にいられるという意味で、嬉しくなる。こんな感じだろうか。

もう、疑いようが目に見えて薄くなってしまった。

その事実は容赦なく私に牙を突き立て、喰い千切って捕食しようと私を振り回す。

「いけないと思って、いっぱい悩んだけど、……こんなの、どうにも出来ないよ……」

「…………」

「好きです……。あなたが、一人の女の人として……。私と付き合って下さい!」

ベッドから立ち上がり、勉強机の椅子に座る私の両手を握ってくる小さな手。

立ち上がった事で、椅子に座った私と、丁度同じ高さになった目線で見つめる濡れた瞳。

その大きな黒い瞳の端に浮かぶ涙は、……まあ、演技じゃ作れないよね。

認めるしかない。爽依は、れっきとした近親で、しかも同性の私に恋している。悲しいが、間違いなく。

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翌日の朝、私は家を出て、登校する振りをして学校を休む事にした。

当たり前だ。あんな事があって、その翌日にすぐ勉学に励める、生憎そんな出来た人格は有していない。

といっても、両親が仕事に出るのは午後になってからなので、それまで然るべき場所で、しかも、なるべく知り合いの目には入らないような所を選んで時間潰しに勤しまなければならない。

そういう訳なので、私は学校の最寄り駅より一つ前の駅で下車した。

こういう時、スイカの定期券を買っておくと(親の金だが)、指定駅まで行くのに金が掛からなくて得した気分だよね、仮に親にばれたら小遣い無しじゃ済まない事態になるだろうけれど。

で、向かうのは、下車した駅の西口のロータリーの先にある繁華街から、歩いて少し行った所に建っている、私が会員登録している、県内でもそこを含め三ヶ所しかない射撃センターである。

その名の通り、月額四千円を払えば幾らでも実銃での射撃を楽しめるというもので、私の専らの趣味だ。

私の一ヶ月の小遣いは一万円なので、それを差し引いても余裕。ウハウハである。

好きな動物、なし。好きな芸能人、名前忘れた。趣味、射撃と時代劇。……時代劇を除いて不健全この上ない女子高生に見えるだろうが、しかし、別に射撃は人が思うほど不健全なものではないと断言したい。

ゲームセンターとかバッティングセンターと性質は同じで、中には当然悪い人もいるにはいるけど、皆がフレンドリーになれるし、銃は奥が深く、語り合えば何処までも長く語り合える。

そういう大会に出て更に交流の幅を広げ、時には海外の人と友人になる事だってあるのだ。

最近もオリンピックで少し嫌な事件があって、それを受けて銃を昔のように規制する意見も沢山あるが、それでも私は、両親には内緒だけど、「撃セン」を楽しい場所として感じる事が出来る事を幸せに思う。

女子高生らしくない趣味だとかは、クラスメイトから散々言われたので、何も言わないでほしい。

「すいません、三時間を一人で」

「ああ、はいはい」

入口から入ってすぐの所にある受付窓口(一応防弾ガラス)で身分証を出す。

制服姿なので、受付のおばさんの眉がピクリと動いたが、幸いにも追及はしてこなかった。

「はい、登録銃はコルト、ベレッタの全部でニ挺ね」

「ありがとうございます。間違いありません」

「何かあったら、レーン脇の非常ボタンでお呼びください」

自分の専用銃として登録した銃器のロッカーのカードキーを渡されれば、後は空いている射撃レーンへと入るだけでいい。カードキーをレーン脇の機械へと通せば、地下に立体駐車場みたく格納された登録銃の入った金属製の箱が自動で上がってきて、私のレーンに来る。無駄にハイテクな仕組みだが、全ては犯罪の防止のため。仮にレーン外へ銃を持ちだしたりすると、センター内の防弾シャッターが全て下り、速やかに警察が大挙して押し掛けてくる事になっている。……噂では、他の撃センで、去年あったらしい。

大して理由は無いけど、いつも決まって入る十ニ番レーンの金属の防弾扉を押し開け、ポリカーボネート製の透明な天井に透けた太陽光が照らす、射撃レーンに入る。

流石に午前なだけあって、他に銃声の鳴り響くレーンはない。殆ど貸し切りみたいな状態だった。

「奇妙なもんだ」

いつもなら、見栄張りなおじさんが放つ大口径マグナム弾の轟音も、スポーティなお姉さんが抱えている、彼女の外見にそぐわない古風な狙撃銃の金属的な銃声も、生活音のように普通に聞こえるのに。

静かな撃センというのは、不思議で、奇妙で、若者が軽はずみに言う程度に”風情”みたいなものがあった。

「分からない人には他言語だろうねぇ」

自分の嫌に詩人な脳味噌に痒さを覚え、そそくさとレーン横のパネルで的の距離を設定し、既に地下からレーンに上がって来ていた自分の登録銃、金属製の箱へ綺麗に収納されていた二つの拳銃の内一つ。薄い茶色(TAN)のアメリカ製拳銃を手に取り、件の金属製の箱に拳銃と同梱された弾倉、五つの内の一つを、銃のグリップ部分下部分にある弾倉挿入口から装填した。

サービスで弾薬は予め弾倉に込められているので、わざわざパチパチと弾薬を弾倉に詰める必要もなく、弾薬で満載になった弾倉を銃に装填すれば、すぐに撃てるという訳だ。

弾薬のお代わり、ラーメンで言う替玉からは、自分でやらなきゃ駄目なのだけど。

で、同じく同梱されていた自分専用の耳当てを頭に装着する。

「さ、て、と……」

うーん、と、射撃前に軽く身体を延ばし、緊張を和らげる。

そして、オートマチック拳銃に於ける射撃前の儀式的動作、銃上部のスライドを引き、薬室に初弾を装填。

両手持ちした拳銃を身体の前に持ち上げ、両肩と銃とで二等辺三角形に近い形を作り、右脚は左脚よりも後方、反動に耐える姿勢にする。銃の照星、照門、自分の視線が一直線に重なるよう構えれば、準備完了。

レーン上にある四つの的の内、肩慣らしも込めて、最も近距離の一つを狙う。

以前、撃センに興味を持ったクラスメイト数人に私の射撃姿を見せた所、麗司くん怖いよ、と言われた。

多分、拳銃を構え、的に照準を絞る今の私は、そんなきつい目をしているのだろう。

「……!!」

タアン……!

ここだ、という瞬間、その引き金に掛けた人差し指へ一気に力を入れ、第一弾を発射する。

一瞬、ほんの刹那だけ、視界を埋めた閃光。腕から伝わり、上半身を震わせる射撃の反動。

耳当ての影響で緩和されているけど、大きな、乾いた銃の声がレーンに響き、後退した銃のスライドから、硝煙を纏う.45口径弾の薬莢が吐き出され、床に落ちて高い金属音を鳴らす。

銃口から飛んだ弾丸は、一応は的に命中していた。

しかし。

「……」

タアン……! 第ニ射。

「…………」

タアン……! 第三射。

タアン、第四。

第五、第六。

タアン……! 弾切れ。

弾切れと同時、拳銃のスライドストップ機能が発動し、スライド部分を後退したまま保持する。

「……うーむ」

発砲した全七発の弾丸は、結果的に言えば全て命中した。

別に凄い事ではない。的は近い距離に設定しておいたし、そもそも的自体が大きいのだ。集中して狙えば、例え経験ゼロの初心者でも、外す方が難しいだろう。

だが、……私としては、余り得心のいく射撃成果とは世辞にも述べられない出来だ。

いつもより集弾率は悪く、着弾箇所が散らばり過ぎ。照準速度も遅いし。

一体、どうした私。何か悪いものでも口にしたのか。もしかして、遂に幼馴染の宮本君に恋でもしたか。

……なんて事は言わない。原因は言わずもがな、昨日のあれだろう。

「恋、ね……」

拳銃の弾倉排出ボタンを押し、弾薬を撃ち尽くして空になった弾倉を引き抜き、横のテーブルに置く。

弾倉を抜かれ、スライドも後退したままの拳銃を右手に、私は左手で額を押さえた。昨日と同じように。

……今頃、爽依は小学校でどうしているのだろう。

私に、……姉であり、自分と同じ女性である凪瀬麗司に、女として好きだと、妹の爽依は言った。

昨日の所は、結局うやむやに終わったけど、その深刻な問題は何一つ解決していないのだ。

両親には、……勿論ながら言っていない。

生んでもらった身で失礼だとは思うが、うちの両親は、……何処の両親でも大抵はそうだろうが、うちのは他と比べても格別に、そういう少数派には理解が無い。

二人とも、それなりに良い家で生まれた身なので、施された教育もお堅いものだったらしい。

私は結構、好き放題な性格に育っているが、それなりに他人よりも常識は弁えているつもりだし(だったら学校サボるなよ)、まあまあ真っ当な人間に育て上げてくれた両親には感謝している。

今の公立高校に塾にも通わず受かったのも、両親の力が大きく関与していたしさ。

でも、両親も人の子なだけあり、彼らが幼い頃に入れ込まれたお堅い教育には、少数を無下に排斥するな、という寛大な精神を説く内容は含まれていなかったらしい。

流石に自分の娘に、そんな扱いはしないだろうが、……非常に言いにくい事だが、以前テレビで知的障害を持つ人物を歌手として舞台に立たせる番組が放映された際、苦虫を十匹くらい噛み潰した表情の父親が、速攻でチャンネル変えたからね。母親に関してもあるけど、ここではもう言いたくない。

「言えない、よねぇ」

拳銃に新しい弾倉を差し込み、スライドストップを解除、再び初弾を薬室に送り込む。

そうして、誰にともなく呟く。

爽依は、私なんかより遥かに将来の可能性を内包しているのだ。

小学生のテストとはいえ、毎回のように百点を連発。体育でも、図工でも、人並み以上の成績を残す。

あと、歌も上手い。

小学生の恒例行事である全国統一学力検査テストでも、県内上位に食い込む実力を有しているのだ。

以上の理由で親からの信頼も厚いのに、……姉に恋して、しかも同性愛とか、しかも小学四年生で、とか。

「言えない、よねぇ」

タアン……!!

先程と同じ事を言って、再び第一弾を、今度は中距離に設定した二つ目の的に当てる。

やはり射撃精度は、いつもより目に見えて落ちていた。

「何が言えないの?」

と、虚しさを感じ始めた私の耳に、耳当て越しなので少し音量が足りない声が聞こえた。

「あ、美郷……」

「まいどっす。……珍しぃじゃん麗司、今は皆が学校で居眠りしている時間だけど」

「不良のあんたが言うな。あと、せめて勉強と言わんかい。」

防弾ガラスで隔てられた、隣の十一番レーン。そこには射撃仲間で同い年の美郷が入ってきていた。

私とは違う高校を着た、茶色掛かったセミロングの女子高生。名字は知らんけど、こいつは美郷。

私がこの撃センに通い始める、その少し前に通い始めたらしく、安直に言えば、ここでの私の先輩だ。

普通に可愛い系、というか道を歩けばニ、三人くらいは二度見しそうな容姿を持つ美少女なのに、不良だ。

今の私は訳あって学校をサボっているが、美郷はサボりなんて朝食の後に昼食が来るほどに当たり前。

本人に聞いた所によると、一年間の全授業数を数えて”最低出席表”なるものを個人的に作っているらしく、そんなものに貴重な労力を割いてまで最大限に学校をサボるための努力を怠らないという。

まさしく中身と容器が、哺乳瓶に紹興酒くらい間違っているだろうと叫びたくなる奴だ。

何故か、会ったらいつも北陸風の挨拶(まいど)をしてくるし、こいつもこいつで、かなり少数派だろう。

まあ、私の名前の事をイジらない辺りは好感が持てるからいいけど。

「で、何が言えないのかな?」

「何だよ、藪から棒に」

「誤魔化すなよ、しっかり聞こえたからね」

「…………あぁ」

聞かれていたのか、今の。

一瞬だけ、何を言われたのか分からなかったぞ。

「何かあった?」

「…………」

私は答えに詰まった。

しかし、なるほど、と美郷は呟き、彼女のカードキーを機器に通して登録銃を呼び出す作業を始める。

ええい、何が”なるほど”だ、なにが。

そんな表情に出ているのだろうか、と、私は携帯の鏡機能で自分の顔を確認するが、……何の変哲も無い。

じゃあどうやって分かった、の”どう”の部分は全く分からないね。

美郷は、そんな私を防弾ガラス越しに面白そうに眺め。

「ねえねえ、麗司さん」

「はいはい、美郷さん」

なにこれ。

「麗司さ、この前、私にジュース奢ってくれたじゃん?」

ぴきり、と、私のこめかみから異音が鳴った。……気がした。

「……ああ、射撃勝負の戦利品の味は美味かっただろうね」

とりあえず揚げ足を取ってみると、ゴホンと、美郷はわざとらしい咳払いをなさった。

「つ、つまり、私は麗司に、恩があるわけだ。ジュースを奢ってもらったという」

「だから勝負の……」

「うるせえ、喋るな」

「…………」

………………………。

「何があったかは知らないけどさ、話すだけでも良いものは良いと思うよ?」

「…………」

「話してみなよ。隣に友人がいるのに、ずっと射撃に集中っていうのも、それはつまらないだろ」

「…………」

美郷も金属の箱から国産の小口径ボルトアクションライフルを取り出し、にやりと笑みを作った。

どうしよう、誰にも悟られない気でいたのに、早くも悟られてしまった。

……でも、一方で、悟られたのが美郷で良かったとも思っている。

ところで、もう口開いていい?

「もう話してもよし」

「うん、ありがとう。それであのジュースは……」

「分かった、悪かった。あの後、切らしてたファブリーズが買えなくなって慌てたよね。もう許して」

許した。

で、美郷。こいつの良い所は、友達ではあるけど、下手な干渉はしない事にあると思う。

フレンドリーな性格を装ってはいるけど、基本的に他人には無関心なのが丸見えだし。

無闇に言いふらせば、争いの中心に立つ可能性があるし、美郷って良い意味で適当だからね。

聞くだけなら大した労力は要らないから、楽になるまで話せ、と言いたいのだろう。

学校をサボるためには何でもやる姿勢なのに、何て気持ちの良い適当な奴だ。実に私好みの友人だね。

これがうちのクラスの頭スカスカ熱血友情馬鹿、あの七瀬葉月だったら、それこそ根掘り葉掘り聞かれて悲惨な事になっていたかもしれないよ。クラス中に喧伝は免れなかっただろうね。

ああいう適当さは、私に限らず誰もが嫌いだろう。あいつの言葉は一々空っぽで、何も入っていないのだ。

……結局、話す事にした。

「実は、昨日さ」

私たち以外には、きっと誰もいない撃セン。

ボルトアクションライフルに弾薬を込め、長距離に設定した的を撃ちながら美郷が聞き、私は一度射撃を中断して、その美郷に昨日あった事を頭から尻まで話し尽くす。

そうして、美郷が最終弾を装填するため、ライフルのボルトハンドルを引き切った所で、私の話は終わる。

「こりゃ、びっくりだ」

美郷はボルトハンドルを再び押し込み、ライフルの薬室に最後の弾薬を装填する。

そしてライフルを極めて姿勢良く構え、的の照準に入った。

「やっぱり、驚いた?」

「そりゃもう。妹ちゃんって、結構な優良生徒なんでしょ? 両親に言わなかったのは賢明と賞賛したい」

「ど、どうも」

賞賛されてしまった。

賞賛、今の私には嫌な言葉に聞こえるなぁ、どうしてか。

万事に反応の薄い流石の美郷でも、この話は深刻と判断したらしい。

当たり前だ。彼女にも兄がいるらしいので、それで例えると、彼からして妹である美郷が”兄ちゃん大好き。……一人の男の人として”となる。

兄ちゃん困惑必至だ。……それが果たして軽率にしていい話かっていう。

言ったら本当に撃たれそうなので言わないけれどさ。

「で、小学生とは思えない言動のギャップに萌えちゃって、妹に恋しちゃったかも。という訳ね」

こいつにシリアスを求めた私を殴れ。

「ちょっと待ってろ、今すぐ隣行って貴様を撃ってやる」

「冗談。銃持ってレーン出たらシャッター下りるぞー」

美郷の構えるボルトアクションライフル、S-Trackが鋭い銃声を上げ、発射されたライフル弾が、私のより遠くに設定された的を正確に衝突し、その衝撃音をレーン側にまで伝えた。

負けじ魂が湧き、私も拳銃を構え、次は四発連続で四つ全ての的に命中させてやろうとする。

と、そこで美郷が。

「じゃあ、爽依ちゃんとそういう関係になる気はないのか」

タアン……! 手元が狂わされ、私の拳銃から飛び出した弾丸は、的の端すれすれに着弾した。

危なぁ! 的が大きいから初心者でも滅多にないけど、的外に当てたら良い顔されないんだぞ、これ!

「……ッ、当たり前。良い悪い以前に法律が許さないでしょ。インセストという言葉はそのためにある……。いい加減、ふざけないで」

「ごめんよ。……でも、そらそうだ。しかも同性で、加えてまだ小学四年生。……問題しか無いでしょ」

分かっているなら、聞くなよ。

四発連続どころか、最初からミスしたじゃないか。

美郷はライフルから最後の薬莢を排莢させ、自分の射撃成果に満足の笑みを浮かべた。むかつく。

「へへん、全弾命中。デルタフォースでもやっていけると自負する」

「的の大きさからして外す方が難しいでしょ。……あと、世界の警察なめんな」

美郷のしょうもない冗談に付き合いつつ、昨日の爽依の必死な表情を思い出す。

この前、テレビで放送していた”どうぶつ奇想天外復刻スペシャル”で、画面に映るライオンの赤ちゃんに悶絶したり、トマト残して母親に叱られて涙目になったりしていた、あの妹と同一人物とは思えないほど、爽依は女の子の顔をしていた。言い方が下品だけど、……その、欲しそうな感じだったから。

……妹に慕われるのは、それだけなら嫌われたりするよりも当然良いと思う。

でも、あの時、妹に両手首を握られて迫られた時、私の中身を占めるのは嬉しさよりも悲しさだった。

あんな、普段の爽依のそれとは似ても似つかない、涙で濡れ渡った瞳で私を見つめる爽依が、……きっと、私への想いを抑えられず、私の寝込みを襲うような行為に及んだ妹が。

……まだ小学生なのに、どうしてそんな事にと、訳が分からなくなって、思わず叫ぶ所だった。

それでも。

私が義務教育一年目の時、爽依が生まれて。それからの十年間、喧嘩もしたけど、それでも血を分けた姉妹として、同じ食卓を囲んで一緒に生きてきた、ただ一人の妹。私は凪瀬麗司、彼女は凪瀬爽依なのだ。

世間の理解は得られず、私も妹と恋仲になる気は起こせない。……妹の願いを叶える事は、出来ない。

「でも、さ。あそこまで慕ってくれる妹の気持ち。あれは、私の見た限りは本物だった、間違いなく。それを、……歯牙にも掛けず切るのは忍びないとか、思っちゃったりして」

タアン……!

構え、ほぼ上の空で放った弾丸は、嫌味ったらしく、的のド中央に吸い寄せられるように命中した。

一方、ライフルに新しく五発の弾丸を装填しながら、美郷はおかしそうに笑った。

「ははは、麗司ってホントに良い姉ちゃんだよね」

「妹が言うに、一緒にいると嬉しくなるらしいよ」

言っておくが、決して惚気ではない。

「……うん、決めたよ」

私は使っていた拳銃を一旦置き、件の金属の箱に収められていた、もう一つの拳銃を取り出した。

マットシルバーの鈍い輝きを放つ、流麗なシルエットを持ったイタリア製拳銃は、私が今まで撃っていたアメリカ製の物より若干ながら軽いが、弾倉に入る弾薬の数は、先程の物の倍以上、十五発だ。

「帰ったら、とりあえず私なりに言い聞かせる」

「……間違っても、血迷うなよ?」

「ちゃんと断るよ。でも……、妹の気持ちを全て切り裂く気も毛頭無い」

その拳銃の専用弾薬が詰められた、こちらもマットシルバーの弾倉を差し込み、私は薄く笑う。

ガシャコッ、と、その輝くスライドを引き、これも同じように初段装填。

「へえ、意気込みだけは十二分だな」

「伊達に十年も姉はやっていないから」

「ふぅん……」

両手持ちした拳銃を持ち上げ、ボルトアクションライフルを抱え直し。

私と美郷、同時に構え、拳銃とライフルのアイアンサイトを覗き込み……。

「私は素敵だと思うよ。身内のために親身になれるっていうの」

「そりゃ、本当に親身の間柄だからねぇ。……どうした美郷」

「いいや?」

気のせいか、狙いつつ横目で一瞬見た美郷の表情は少し暗い気がした。美郷が暗いのはいつもの事だが。

「でもさ、……私が言えた事じゃないけど、学校をサボるのはいけない事だ」

「うん」

これまでで一番、深く頷いてやった。

本当に、それを言える立場じゃないよ。あんたの場合。

「麗司は今日、私と同じように汚れた。……これ以上、私みたいにはなるなよ」

「……私を山と思いやがれ」

パアン……! ズタァン……!

静かな午前の撃センに、制服姿の女子高生二人が単調な音色を作り出し、無音を彩る。

弾丸が的に直撃する金属的な衝撃音が、二つ、ほぼ同時に反響した。

ありがとう、美郷。

こうして話す機会をくれたおかげで、少し妹との事について、思い出す事が出来た。

 

 

ニ時間後、何故かサボる気が失せた私は、薬局に寄り、午後から家に帰る気でいたので持ってきていなかったファブリーズを近所の薬局で購入、硝煙臭まみれの制服に大量噴霧し、とぼとぼと学校へ向かった。

家に帰れば内緒の買い置き分があるけど、それだと、その後に学校に行ってまた帰ってくる事になる。

あの切り立つような坂を一日にニ回も上る気には、流石になれなかった。

-7ページ-

周囲のクラスメイトから、やたら制服から芳香が漂うのを訝しがる視線を向け続けられつつ、勉強した。

やたら先生の話が長く感じる、その帰りのホームルームが終われば、校内から即刻離脱。

道中、電車内で貧乏揺すりを抑えられず、吠え掛かる豆柴も構わず、件の坂をわっせっせと上り、帰宅。

そうして、自宅の玄関前に立ったよ、凪瀬の麗司。十六歳の女子高生。

「水戸黄門、今日は延期じゃないよね……」

結果的に今日の水戸黄門も諦める事になってしまうが、それも致し方ない。

生じてしまった問題に決着を着けるためだと、そう思えば軽いものだった。

「……待っていろよ、妹」

スカートの右ポケットから家の鍵を取り出し、玄関扉の鍵穴に差し込み、回す……。

戦いの場への道が、静かに開いた。

世に一人の人間として生まれ、それから十六年を過ごした私の家。その玄関は、水戸黄門の放送開始時間に焦りながら帰ってきた昨日は何でもなかったのに、周囲から威圧感を放たれているかのような、この私を何処かで監視している誰かが存在しているような、落ち着いて冷静に考えてみれば馬鹿らしさ丸出しなのに、何故か笑い飛ばす事の出来ない恐怖を、私に感じさせた。

妹の運動靴は、……ある。既に妹は帰ってきている。

ただいま、という挨拶の言葉も忘れ、そんな必要性は無いのに玄関の扉を無音で閉じ、靴を脱ぐ。

「…………、いないね、うん」

気配で妹が一階にいない事を確認、私は台所へと向かい、冷蔵庫から秘蔵のコンビニコーヒーのボトルを取り出し、それを気合注入という漫画みたいなノリのつもりで一気に傾け、盛大に噎せた。しまらねぇ。

げほ、吐き出しそうになったけど、制服に噴霧したファブリーズを上書きするのもあれだったので何とか踏み止まり、口腔内と喉に溜まっていた茶色い苦みを無理矢理に嚥下した。ごっくん。

「……よしっ」

今の噎せる音で、きっと私が帰宅している事もばれてしまたっただろうし、これ以上もたもたしていても、段々と余計に気まずい空気になっていくだけだ。気合は入れたし、ニ階へけじめを着けにいくとしよう。

「平和を欲するなら、戦争に備えよ……」

さて、戦いの始まりだ。

-8ページ-

「あれ」

鞄を置くために一旦自室を訪れると、早くも完全に予測範囲の外にあった出来事が発生した。

妹が、爽依が、私のベッドの上に、昨日妹を自室へ連れ込んだ時と同じように座っていたのだ。

あまり言いたくないが、……その頬を仄かに赤くして。

「……おか、えり」

「うん、ただいま。……で、何故ここにいるか」

「姉ちゃん、来てくれないと思ったから……」

「お生憎、荷物置いたら行く気満々だったよ」

突然の事に少しだけ戸惑いはしたが、理由を聞いたら一気に脱力した。

どうやら、決着を着けたいのは妹も同じだったようだ。

当たり前だ、爽依だって心中では分かり切っているだろう。本件をあまり長引かせていると、互いに段々と話し辛くなって、最終的には、心に黒い霧のような病巣を残す結果に至ってしまうという事くらい。

そろそろ認識を改める必要がある。爽依は、もう一人の女の子として自立し始める年頃なのだ。

「…………」

鞄を勉強机横のフックに掛け、ブレザーも脱いで椅子の背もたれに掛け、自分自身もそこに座る。

爽依はベッドに腰掛け、私は椅子に座り、互いに対面する。

昨日と同じ配置に何を読んだか、爽依はまた俯いて縮こまった。

しかし、時折こちらを窺うようにチラチラ視線を寄越しており、……その視線に含まれる熱を感じた私は、再び突き付けられた”自分は実の妹から一人の女として見られています”という現実に挫けそうになるも、そのピサの斜塔状態な精神を必死に立て直しながら、姉として感じる意味で最愛の妹と向き合う。

向き合い、じっと見詰めていると、意外にも数秒と掛からない内に爽依は口を開いた。

「ごめん、なさい」

「? ……何だよ?」

いきなり謝られた。……何でさ。

それが全く理解出来なかった私は、爽依に、突然の謝罪の理由が把握出来んので、その謝罪の主部を申せ。という表情を表してみると、流石は私の妹、的確に私の表情を読み取ったらしく。

「えぇと、ごめんなさい……。昨日の、その、……おむね……」

「…………あぁ」

ああ、そういえば。

昨日の、あの寝込みを襲われた件については、妹は謝っていなかったのだった。

当の被害者である私は”いいよ、許す”という旨を述べたつもりなのだが、妹は私に殴られた方の精神的な衝撃が大き過ぎて、私がまだ自分に対して怒っている、と思い込んでいると考えるのが妥当か。

あれ、これに関しては私の責任じゃないか?

つか、私も妹を殴った件については、謝罪がまだだったような……。

……うわぁ。

うわぁ、しまらねぇぇ。

「……まあ、私も急に殴って、悪かったよ。大丈夫だった? ほっぺ」

「う、うん」

大丈夫だよ、と、腫れてはいなかった左頬を見せられ、とりあえず私は安堵の息を漏らした。

どうも私は、自分では冷静な性格のつもりなのだが、急に処理し切れない事態に見舞われると思わず手が出る傾向にあるらしい。これはいけないな、もう反省して早いとこ直しておいた方が賢明だろうね。

将来、主に人間関係で失敗しないようにするためにも。

しっかし、無駄にモチモチしているね、こいつの頬。羨ましいくらいだよ。

……話題が逸れた、直ちに軌道修正します。

人差し指で頬を掻き、言い辛いのを何とか隅に追い遣り、切り出す。

「それでさ、……その、昨日の事だけど。あんたが私の事を、ってやつ」

「ッ!!」

予想通り、大袈裟までに肩を跳ねさせる爽依。

しかし、その仕草に挫けず、まず言わなければならない事を少しずつ埋めていく事とする。

謝罪の次は、妹に感謝を伝える。

「ありがと、ほんとに」

「え……?」

唐突に浴びせられた、私の知る限りでは最も感謝を体現した言葉に、爽依は意味が分からないとばかりに、困惑色の目で私を見てきた。で、ばっちり私と視線が衝突して再び俯いている。そういうのいいから。

「姉ちゃん、正直言うと嬉しかったよ。……優しいとか、綺麗とか、一緒にいると嬉しいとかさ。あんたに、そんな風に思われているとか考えもしなかったし。あんたの姉としちゃ、あれは目にきたよ」

椅子を回転させ、妹に背を向ける。

言っていて猛烈に恥ずかしくなり、というか顔面が有り得ない程に熱くなってきたから、きっと今までの妹に負けず劣らず赤熱状態と化した自分の顔を、爽依には見られたくなかったのだ。

そういうのいいから、私こそ。そういうのは漫画でやれし。

「……だから、嬉しかった。ありがと」

「う、うん」

温泉のように湧き上がる羞恥心で、最後だけ冷めた口調になってしまったが、背を向ける間際にちらりと見た妹は従順に頷いていた。……今も視線を感じるな、後ろの妹から送られてくる視線を。凄く。

完全に机へと向かってしまったので確認は不可能となったが、……きっと、私が見ていないのを良い事に、熱っぽさ丸見せの目を露にしているに違いない。自惚れではなく、本当に爽依は私を愛しているのだし。

だけど、どうしても。

これから私は、そんな妹に、彼女の抱いてきた気持ちを砕き去る言葉を言わなければならない。

どれだけ世間的には歪んでいても、汚らわしく見えても、ああ、それでも。

妹は、爽依は、彼女自身の持つ綺麗で一途な気持ちを以て、姉である私を愛してくれた。

私を綺麗だと言ってくれた。

大人っぽくて、カッコいいと言ってくれた。

一緒にいると嬉しくなると言ってくれた。

……好きだと、言ってくれた。

「爽依」

決意は、固めた。……悩みも、断ち切った。……後は、私なりのけじめを、妹に示すだけだ。

私は勢いよく椅子から立ち上がり、顔の紅潮が治まっている事を切に願いつつ、爽依を振り返る。

「あ……!」

有無を言わせず、ベッドに腰掛けた爽依に歩み寄り、彼女が短く声を上げてしまったのも構わず、その細過ぎる両肩を掴み、私なりに急造した真剣な表情というやつで、怯え気味の大きな瞳を覗き込ませてもらう。

「あんたの気は分かった」

「ね、姉ちゃん……?」

「あんたは、私の事が好きで、私に恋人として付き合ってほしくて。……痛いくらい、よく分かった」

意識していないのに、爽依の肩を掴む両手に、力が入りそうになった。

これは、……そうだ、私も緊張している事の表れでしかない。

「だから私は、あんたの気持ちに答える。心して聞けよ」

見ていて痛ましい程、爽依は顔全体を真紅色に染め上げ、私に至近距離から見詰められる瞳が揺れる。

掴む両肩も、妙に熱を帯びているし、もうこれ身体中が茹で上がっているのではないだろうか。

「悩んだ。自分で言うのもあれだけど、かなり悩んだ。多分、あんたが知ったとしたら笑われそうなくらい、年上として情けないくらい。……あんたと生きてきた十六年間で、きっと一番……。その上で……」

言う、言うぞ。

これが私の誠心誠意、苦手な因数分解の数倍でも、きっと収まらないほどに苦しい難題に悩んだ末、友人に相談してまで導きだした、私が思う私自身の気持ち。正面を向いてあんたと向き合える、私の言葉だ。

「……悪いけど、あんたの気持ちは受け取れない。……私は、あんたと恋仲にはなれない」

「……あ」

爽依の半開きの唇から、声ともつかない無機質な音声が漏れ、虚空に消えた。

「あ、……あ……ぁ」

自分の手を離れ、遠くへ流れていってしまう何かへ向けるが如く、私の目を見ながら、音は漏れ、消える。

やがて、その瞳の焦点は段々ずれ始め、不規則に眼球は揺れ動き、掴む肩からも力が抜けていく。

言った。……言ってしまった。

爽依、……人生で初めての恋かは分からないが、それは、他でもない私の手で、無残に砕け散ったのだ。

これ以上は酷だとは分かっているけど、それでも私は、続ける。

 

ここで仮に、あんたと姉妹の一線を越えたとしても、きっと二人とも幸せにはなれない。断言して。

 

私も、実妹と恋人同士になる気にはなれないし、何より周囲も、……特に両親は許してくれないよね。

 

ニ者以上が関わっている以上、誰にも露見しない秘密は、無いの。黙っていた所で、いつかは、ばれちゃう。……そうなれば、引き裂かれるよ。あんたや、まして私の話なんか耳を傾けられる事もなく、ね。

 

あんたは、私にも、大切だから。……そんな辛い思いさせるのは、……絶対に嫌だ。

 

だから、……あんたとは付き合えない。

 

ぼろり、と、雫が流れ出す。

「ぅ……ッ、……ぁ」

漏れ出る、無残に擦り切れた嗚咽。

私から逸らされない瞳から、透明な雫が、ぼろり、ぼろりと、零れ、零れ。

頬に道を作るように、雫は伝い落ち、顎近くまで伝った所で、肌を離れて下へ落ち、太ももを濡らした。

“実妹と恋人同士に〜”の辺りから既に危うかったのだが、爽依の涙腺は、遂に壊れてしまったようだ。

幼い爽依を襲ったのは、きっと、彼女より六歳上の私も未だ味わった事の無い、今まで積み上げてきた想いを正面から拒絶された、その失恋の痛み。それを刻まれた爽依は、ぼろぼろと涙を流し、泣いていた。

どんな痛みか、程度は知る由もないが、妹の調子を見るに、それが涙に値する事は理解が簡単に出来た。

「…………」

少し、罪悪感は覚えたが、爽依の気持ちに対する私の答えは伝え切った。

私はスカートのポケットから、新品の白いハンカチを取り出し、爽依の頬を伝う涙を、拭ってやった。

「目は擦るな。バイ菌が入るよ」

という意味も込めて、私は爽依の両肩を掴む姿勢をやめ、今度はベッド下の床に座り込んで、爽依の両手を柔らかく包むように握り、ベッドに座る爽依を見下ろす体勢から見上げる体勢へ移行する。

先程とは打って変わり、私の目は、自分でも分かるくらいに、優しさを内包したものだろう。

その眼差しの変化に、若干の戸惑いのようなものを爽依は覚えたようだが、……まだ、続きがあるのだ。

私の名前と同じくらい誤解しないでもらいたいのは、決して爽依に、これ以上に悲しませるような言葉を浴びせようという訳ではない。

爽依は、私の妹だ。

その爽依に、私は、爽依が大切で仕方ないから、意味は違えども、好きで仕方ないから。

だから、少しだけ、恋愛の有する所の意味はないけど、……少しだけ、爽依の願いを叶えようと思う。

同時に、凪瀬麗司。やっと気付いた私自身の愚かだった部分も、それも改めようと、そう思う。

「爽依」

「…………」

思えば最近は、ずっと水戸黄門とかに夢中で、それが終われば課題やって、晩御飯まで惰眠を貪って。

あまり、爽依には構ってやっていなかった。

一緒にゲームしたり、自室ではしゃいだり、昔はそれが日常だったのに、……悪い事をした。

そもそも前までは、私が帰ってくると、決まって妹はリビングで私の帰りを待っていた。

姉ちゃん、ゲームしよ! と、リビングから元気な声が聞こえて。

私は凝った肩を誤魔化しつつ、それに乗って。

でも、妹の相手は楽しく、何となく釣られて笑いが込み上げてしまう。あの確かな楽しさを感じた時間。

それがいつしか、私の興味は他に逸れて。……自分だけの休息に閉じ籠るようになった。

爽依はニ階の自室で、どんな想いで毎日を過ごしていたのか。

私は、最低だ。最低の、姉だ。

撃センの時、それを美郷のおかげで思い出せたから、これから爽依に償いをしなければならない。

だから、言う。

「あんたの望み。恋仲になるのは、叶えられないけど、……でもさ、今まで以上に仲の良い姉妹くらいなら、あんたの姉として、なってあげたいと思う。いや、なるから」

「え……」

いま、何を言ったの。

解釈するなら、そんな例えが最も適当か。そういう表情をして、また私の瞳と向き合った。

時間の立つに連れ、呑み込み切れなかった私の言葉が段々と浸透したか、爽依の赤くなった目が見開かれ、ついでに見開かれた瞳が、また潤みを纏い始めた。忙しいな、妹よ。

愛の告白の受け入れとは、全く違う所で、ずっと待ち望んでいた言葉がもたらされた。

更に、勝手に都合よく解釈するなら、今の爽依の表情はそういった感じである。

「私、気付いたからさ。あんたが掛け替えないって、やっと気付いたから。……掛け替えのない妹を、無下に扱って、寂しい思いさせて、それに気付いたから。……だから……また、一緒にゲームしようぜ」

「………ねえ、ちゃん」

……やっと、爽依の表情に、色が戻ってくれた。

私の握る爽依の手が、徐々に力を帯びて、私の大きな手を握り返してくる。

再び、きっと今度は先程と対極の意味を持つ雫が、爽依の双眸を濡らし、外へと零れ出す。

そして、さっき爽依がしたみたく、私はちゃんと謝るのだ。

「遅れてごめん、寂しくさせて、ごめん。……最低の姉だよ、私は」

「姉ちゃん……、寂しかったよ……!」

そして、爽依は決壊した。

迸り、意思の壁など突き破って、想いを全開放したように、爽依は床に座り込む私に飛び込んできた。

(いてぇ……!)

余りの勢いを殺し切れず、飛び込んできた爽依を抱えて後ろに転げてしまう。

尾骨を打つ事の痛さを、何だかんだ今日初めて知った。おのれ猿人時代の忘れ形見が。

まあ、その痛さを表に出すのも台無しなので、年長者として必死に我慢するけどね。

これまで妹を放ってきた報いとでも、受け止めておくとしよう。しかと受けました。

「姉ちゃん、姉ちゃん……!」

「…………」

昨日は苦い思い出の象徴だった私の胸に、今度は姉妹の小さな仲直りの象徴として、妹の顔が埋まる。

背中に回された手をワイシャツ越しに感じつつ、私は爽依と姉妹として再び交われた喜びを謳歌する。

爽依は、私を姉ちゃんと呼んでくれる。こんな私を、慕ってくれる。

信頼をその小さな身体に乗せて、……浴びせ倒しみたいなのは置いておいて、私に全て預けてくれる。

それだけの事が、何という事か、こんなにも嬉しく、誇らしいのだ。

「私、姉ちゃんの妹で、本当によかった……」

「……うん」

「ありがと、私のために、いっぱい考えてくれて。……嬉しい」

「……うん、うん」

「ほ、本当は、怖かったの。……あんなこと急に言って。……き、嫌われちゃうって……」

「そんな訳、ないよ」

長く、長く、自分達が時間の奥に溶け込んでしまうと思うくらいに、抱き締め合った。

互いの存在を確かめるように、大切な人が自分の腕の中にいると、自分に言い聞かせ、理解させるように。

床に転がったままなのもあれなので、立ち上がってからも、しかし抱擁の態勢は解ける気配を見せず。

この状況で、この例えは少し不謹慎と思ったが、それこそ恋人同士みたいに、姉妹で抱き合っていた。

気付けば、時刻は昨日のあの時と同じ、午後五時過ぎ。

当時は色々と一杯一杯で、それを意に介せる領域が心に残っていなかったが、窓から差し込み、私達二人を暖かく包むような夕日の輝きが、これでもかという程に綺麗で、……えも言われぬ感覚に、思わず私までも泣きそうになってしまった。油断して。

「姉ちゃん、……私、まだ姉ちゃんの事は、一人の女の人として好き」

「……ああ」

それに関しては、もう私から言う事は無い。

私はもう、妹と恋仲になるという要求を完全に断った。

その事では泣かせてはしまったけど、私は後悔などしていないし、それどころか爽依が密かに抱えてきた、私に対しての寂しさ。同時に私の不甲斐無さを清算……出来たと思うから。

「でも、姉ちゃんが言うなら、私も諦める。……普通の妹になろうと、思います」

「そうか……」

爽依も、どんな答えだろうが受ける所存で、告白をしたのだろうから、今度こそ、本件は終了だ。

でも、しかし、爽依の言葉は、そこで終わらなかった。

「でも、今だけでいいから……!」

「お、おい!?」

瞬間、私の身体が、ぐらりと横に倒され、小さな爽依と抱き合ったまま、ベッド上に倒れ込んでいた。

私は何も力を入れていない。故に言うまでもなく、爽依の方が私ごとベッドに倒れ込んだのだ。

「おい……! あんたいい加減に……!」

「違うの……」

せっかく姉妹に戻れたのに、まだ未練がましく……、と激昂しかけるが、何やら爽依の様子がおかしい。

やがて爽依は、家には、私達の他に誰もいないのに関わらず、爽依は私だけにしか聞こえないような声量で、言い替えれば、蚊の鳴くような声で、こう言った。……それを聞いた途端、私は思わず脱力した。

「お願い、このままずっと、……ぎゅって、してて……」

「……お安い御用で……」

再び張り詰め掛けた空気は、一気に弛緩して解け去る。

可愛い妹を再び自分の胸元に受け入れ、その細い身体を、苦しがらない程度に強く、抱き締める。

爽依の背中に左腕を回し、後ろ髪を右手で梳くのが丁度良いかもしれない。そうしよう。

結局、また制服が皺になってしまいそうだけど、……まあ、母親にアイロンの仕方を教わる良い機会だ。

「姉ちゃん……大好き」

私の背中に手を回す妹は、好きな相手に抱き締められる、その歓喜に身を震わせ、くぐもった声を出す。

私は、そんな妹の凪瀬爽依に、恋愛感情とは少し違う、でも、狂おしさならきっと負けない愛しさを正直に感じて、堪らず私は、自分の顔を妹の耳元に寄せ、下記の言葉を彼女の耳元で囁いてやる。

爽依の顔が、きっと夕日の輝きが見せた錯覚ではなく、先程にも増して真っ赤になった。

「爽依」

今だけで、なんて言うな、妹よ。……まあ、このくらいなら、あんたが嫌がるまで何度でもやっていいさ。

あんたは、私の妹で、すごく可愛くて、大切な子。……いつでも何処でも、私はあんたの味方だから。

「私も……、大好き」

私と血を分けた、その妹は、……なるほど、可愛くて、あったかくて、一緒にいて嬉しくなるかもね。

 

おしまい

-9ページ-

あとがき

 

撃センでは射撃後の作法として、受付から清掃器具を借りて、自分で銃を掃除しなければならない。

これを面倒がってやらない人ほど、急に落ちた射撃精度に文句を垂れて、不良品だの何だのと騒ぐ。

どの業界でも、そういう人の処理係の人は大変だよ。肩を優しく叩いて、慰労して差し上げたいね。

ところで、両親に内緒で撃センに通う、もしくは通おうとしている、そこの君。

服に染み付いた硝煙の臭いにだけは留意しようね。撃センの後は消臭を忘れないように♪

以上、富岳製戯でした。

 

 

爽依、初めて間近に感じた想い人からは消臭剤の匂いがしたっていう。

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