黄金の翼と銀の空 三章 |
三章 黒の仔猫、金の番犬
「ここが、アイリの街か……」
門を抜けて目の前に開けた景色は、色彩豊かなサルビアの街に比べると、赤茶けたレンガの色ばかりが目立つどこか寂しげなものだった。だけど、この街こそがこの国、第二の古都ダードリー。中央、および北部の政治の中心地であり、商業も活発な街だ。
「フレドは初めてなの?」
「噂には聞いていたけど、自分の目で見るのは初めてだね。サルビアもすごい街だと思っていたけど、もう五割は大きいし、栄えているね」
更に驚くことがあるとすれば、この近辺は戦時中、敵軍の攻撃を受けていたはずなのに、この街の家々は実に立派で、もう何百年も前からそこに建っていたかのように堂々としている。破壊された箇所の修繕は終わっていて、元通りの生活が再開されているのだろう。もしかすると、ロイ達の尽力があったのかもしれない。
足元を見ても、石畳は一つとして欠けることなく敷き詰められていて、ところどころは不自然に白かったり、逆に黒ずんでいたりする。劣化や破壊があっても、常に新しくし続けて景観を守って来たのだろう。古くから続く都市独特の厳しさは、この辺りに根っこがあるのだろうか。
「フレドのトコと比べると、広いのになんか窮屈な感じがしちゃうよね。やっぱり、城壁が高いからかな」
「そうかもね。でも、こういう古風な街も僕は好きだな」
サルビアも決して歴史の浅い街ではないけど、何度かの改修の中で壁は低くなり、都市というよりは“巨大な町”あるいは“立派な村”のような自由さが重視されて来た。商人に過剰な課税は求められず、近隣の農村との関係も良好で、何よりも街の外に出たらすぐに畑があるところから、いかに“都市らしい都市”ではないのかがわかる。
僕はそんな街のあり方に慣れていたけど、多くの街を仕事で回るアイリはもしかすると、毎日その異質さを感じていたのだろうか。
「じゃあ、まずはあたしの家に案内するね。ちっちゃいんだけど、郵便局のすぐ側だから都合が良いんだよー」
「うん、お願い。楽しみだな、どんな家に住んでるんだろう」
「期待するほどじゃないよ。全然。……けど、そうだなー、初めて女の子の家に上がっちゃうフレドには、刺激が強過ぎるかな?」
「ど、どんな家に住んでいるのさ」
慣れない馬に数時間揺られて(アイリの乗る馬に同乗させてもらった。馬の苦手な僕が、どうやってここまで来たのかは、あまり詳しくは述べたくない)、僕はアイリの住む街、ダードリーへとやって来た。
なぜこんな遠いところまでやって来たのかと言えば、その目的はただ一つしかない。一度はサルビアで別な仕事を見つけて働こうとしていた僕だけど、どうせ竜観光の仕事が出来ないのであれば、サルビアの街に住むことにこだわる必要もない。それよりも新たな職と、アイリと共に暮らすことを求めて、しばらくは彼女の街に住むことにしたのだった。
持って来たものはお金と最低限の荷物だけで、後は全て置いて来てしまった。飛竜、そして翼獣レッグについては、かつての友人に手紙を送り、一時的にでも良いから面倒を見てくれないか、と頼んだところ快諾してくれて、既に彼の住む町への移動が始まっている。空を飛ぶ飛竜は目立ち、件の賊に撃墜される恐れがあるが、彼等だって馬ほどではないにしても、地上を速く走ることが出来る。全く仕事がないという訳でもないので、彼のなんらかの商売に役立ってくれるだろう。
そして、身軽な身になった僕は、飛竜にも翼獣にも頼らず、体一つで出来る仕事を探すつもりだ。そういった職歴がなく、要領も決してよくない僕が、一体何をすることが出来るのかはわからないけど……根気とやる気だけはあるつもりなので、なんとかして職を見つけるしかない。
過剰なほどに整然とした街並みを歩き、目の前には一際鮮やかな赤い屋根の建物が現れた。あれこそが、中央郵便局。中央と付くのは、この国の首都はやや南部に位置しており、そこにも郵便局の本部があって、それを南部と呼んでいる。南部と区別するための中央の名前という訳だ。
ちなみに、何も郵便局は二つしかないのではなく、まだ分局はいくつもある。だけど、郵便屋の多くは中央か南部に直属で勤務していて、その配達ルート上にある分局からも郵便物を回収、配達を行うことになっている。なお、サルビアにその分局はない。基本的に都市ではなく、中程度の規模の町に作られているようだ。
「立派な建物だね。それに、あれは馬小屋か。十……いや、二十頭は繋げられるようになっているね」
馬、あるいは飛竜を用いて配達をするという都合上、郵便局は街の東の最奥に位置していた。そのまま馬や竜に乗って門を出て、配達に行くという寸法なのだろう。
「すごいでしょ。まだ街の外にも馬小屋はあるんだよ。……で、あたしの家はこっち。この辺りは郵便局の仲間ばっかりなんだ。ほとんど男の人だけどね」
郵便局のすぐ側の路地を曲がると、そこは一種の住宅街だった。お店屋さんは皆無で、小さな住宅が軒を連ねている。その内の一軒、アイリの家は僕が見てもすぐにわかった。他の家が男性のものということで、特に装飾の類がない中、彼女の家だけが軒先に可愛らしい花の鉢植えを飾っていて、一目見て女性的だとわかる外観をしていたからだ。
「ここだね、アイリの家は」
「大正解。どうぞ、入ってて。あたしは馬を繋いでくるから。あっ、荷物下ろしてね」
「うん。と言っても、鞄一つ分だけだけど」
この街に運び込んで来た荷物は、大佐の訃報の手紙と、輸送部隊の制帽。その他にはアイリからもらい続けて来た手紙。後は数冊の本だけだ。結局、大佐の葬儀についての手紙はなく、続報もなかった。もしかすると……いや、残念ながらきっと、ロイが話したようにそれを届けるはずの郵便屋は、事件に巻き込まれてしまったのだろう。手紙が届かなかったことは悲しいけど、おそらく生きてはいまいと思われる郵便屋の人のことが悔やまれてならない。
これもまた部隊時代の丈夫な鞄を背負い、初めて入るアイリの家へとお邪魔する。中はおそらく規格があるのだろう、特徴のない板張りで、広さは僕の家とほとんど変わらないが、ほんの少しだけそれよりもスペースにゆとりはある。僕の家にはないものとして、立派な書棚と書机が目立っていて、部屋の区切りはないけど彼女の書斎なのだろう。何本かのペンとインク壺。後はナイフに何冊もの詩集と、まるで文学者の家のようだ。
窓の縁には鉢植えがまたあって、テーブルの上にも赤い花が活けてある。ここはサルビアに比べると緑が極端に少ないので、こうして植物を意識的に生活の中へと取り入れているのだろう。
「……アイリ、遅いな」
一通り部屋を見てしまい、まさか彼女の読みかけの本を読ませてもらう訳にもいかないので、椅子に腰かけてただじっと待つ。そうしている内に僕の関心は、テーブル上に放り投げるように置かれていた封筒へと移っていた。表面を向いていて、その送り主は見えないし、宛先も表には書かれていない。郵便配達を介さずに、手渡しか何かでアイリに送られた手紙か、彼女が書いて、これから宛先を書く、というところで投げ出された手紙なのだろう。
まさか封筒を開ける訳にはいかなくても、手に取り、アイリ宛の手紙であるのなら、その送り主を知りたいところではある。だけど、どうしてそこまで僕が出来るのだろうか。
確かに僕は彼女とお付き合いさせてもらっている。結婚も出来るものならばしたい、とは両者の総意だ。でも、彼女のプライベートの全てを知ってもよい間柄ではないはずだ。アイリにだって、僕に知られたくないことの一つや二つは持っているはずだし、それは僕も変わらない。ならば、この手紙は……。
早くアイリが戻り、封筒を目の前で開封してくれれば良いのに。そう願えば願うほど、彼女の帰りは遅く感じられる。そうして十分過ぎるほどやきもきした後、遂にドアが開いた。
「いやー、お待たせー。ちょっと郵便局の人と話しててね。馬さえ乗れれば、一人でも働き手が増えてくれたら助かるのに、って残念そうにしてたよ」
「おかえり。本当、なんかごめんね。僕もアイリの仕事を手伝えれば良いんだけど」
「仕方ないよ。あっ、ちなみに仕分けとかは人が足りてるからね。配達の仕事、人気ないんだよね。疲れる割に、局勤めとほとんどお給料変わらないし、そもそも郵便局自体がそうお給料良い仕事じゃないしで。あっ、それからその手紙、あたしからフレドに宛てたのだよ。読んでおいて」
「えっ、う、うん」
拍子抜けする返答をもらって、慌てて封筒を手に取る。裏にも何も書いていない。……確かに、今までもアイリからの手紙は真っ白な封筒に、薄いピンク色の便せんを入れて書かれていた。その色は開封前から、封筒を透けて見えている。だけど、説明なしはさすがに酷いんじゃないか、と軽くむっとしていると、アイリは想像通り、とばかりに微笑んだ。
「ごめんね、フレド。でもさ、一度こういうの試してみたかったんだ」
「……どういうこと?」
「フレドがテーブルの上の封筒に、どういう反応をするかな、って。想像通り、フレドは我慢強いし、優しいね。安心しちゃった」
「もう、そんなテストだったんだ。……じゃあさ、アイリは同じ状況になったら、どうすると思う?」
「多分、一秒で飛びかかるかな。で、ためらいもなく封筒を開けて見ると思う」
「アイリは、そうだよね……」
不思議なことだけど、決して僕とアイリは似た者同士ではないのだと思う。それなのに上手く行っているのは、互いに足りていないところを補完し合っているからなのだろうか。たまにアイリが、僕がいなかったらどうなるのだろう、と心配になるけれど。多分それは、僕が気付いていないだけで、僕自身にも同じことが言えるのだろうけども。
「それで、フレドの寝床はね、とりあえずハンモックで良いかな。荷物を吊るすために買ったんだけど、本とか積むのにはなんか使いづらいから、全然使ってないんだ」
「へぇ、よくそんなの持ってたね。……と言うか、置き場所に困るぐらい本買ってるんだ」
「えへへー。読まなくなった本でも売るのはなんか嫌だし、すごい溜まっちゃうんだよね。……さすがにフレドを床に雑魚寝させる訳にもいかないし、せっかくだからあるものは使おうと思って。あっ、あたしのベッドで一緒に寝る?それでもいいよ」
「アイリ」
「ふふー」
笑顔のアイリは、どこまで本気なのだろうか。……もしも僕が一緒に寝ようと言ったら、割と本当にそれで良いと言いそうで怖い。相手はなんと言ってもアイリなんだし、まるっきりそのつもりのないことは言わないはずだ。
「――えーと、それで、ハンモックで良いよ。他は何か決めておくことあるっけ」
「んー、そんなところかな。後、合鍵は作ってもらっておくね。まあ、ほとんどあたしは外行ってるし、締め出しくらうことはないと思うけどね」
「そっか。配達が馬に乗ったから、前よりも家にいる時間は減っているんだね」
「せっかく念願の同棲なのに、なんかヤだよね」
仕方がないこととはいえ、こうなってしまったことを嘆かずにはいられない。そもそもこういう事情がなければ、僕が彼女の街に来ることもなかったんだけども、ついつい多くを望んでしまうのは、終戦を目の前で見て来たからなのだろうか。戦が終われば、なんでも思い通りになる世の中が来るのだと、子どものように固く信じていた。
「じゃ、ざっくりと街を案内するね。きちんと回ってたら時間がいくらあっても足りないけど、オススメのご飯屋とか、服のお店とか、そういうのを中心で」
「うん、お願いするよ……って、ちょっと!アイリ!?」
「ど、どうしたの?いきなり大きな声出して」
「ちょっ、そ、それは僕の台詞だよっ」
アイリは今、僕に街を案内してくれると言った。それは当たり前のことだ。僕はこの街が初めてだし、アイリはあまり街に密着した仕事をしていないとはいえ、長くここに住んでいるので、当然ながら土地勘がある。だけど、そう言いながらアイリはいきなり服のボタンを外し、なんなら僕の目の前で服を脱ごうとしていたのだ!
「あっ、あー。ごめんごめん、フレドは男の人だから、さすがに女の子のこういうだらしないトコは見たくないよね。いや、二時過ぎにはもう出ないといけないからね。もう一時だし、制服に着替えてから案内しようと思って」
「そ、そういうこと……。居候させておいてもらってアレだけど、僕のことも考えてね……」
慌てて後ろを向き、その間に着替えてもらう。そう言えば、壁には彼女の制服がかかっていたな。ああやってすぐに着替えられるようにしているのか。今日は僕のために朝の仕事を休んでもらったので、まだ袖の通していない服は新品のように奇麗だった。
しかし、姿は見えなくても、アイリが服を脱ぎ、ズボン(乗馬をするので、僕に会う日とはいえスカートではなかった)を脱ぐ衣擦れの音がする。それから長袖のブラウスを着て、上からブレザーを羽織って……一つ一つの音が聞こえて来て、なぜだかそれだけなのにドキドキしてしまった。
「もう終わったよー」
「うん、じゃあ行こうか」
振り返るとそこには、制帽を手に持ったいつもの郵便屋としてのアイリが立っている。暗い深緑色の服は体を引き締めて見せていて、軍服を見慣れていた僕にしてみれば、こういう服の方が親しみ深く、魅力的に見えるのかもしれない。まあ、女性の軍人は皆無に近かったので、戦地で女性軍人にときめいていた、なんてことはないのだけど。
「本屋なんかは教えなくて良いよね?フレドってあんまり本読んでるイメージないし」
「そうだね。それ以外で適当におまかせするよ」
「はーい。なんか堅苦しく見えるかもしれないけど、お店の人は親切で優しいんだよ。そんなに長くいないかもだけど、どんどん仲良くしてあげてね」
その言葉を聞いて、ふと、僕達は最終的にどの街に住むのだろう、と考えてしまった。
今の感じでは、僕の街の方が住みよいし、レッグ達を再び世話をしてあげるなら、都合が良いと思う。でも、それじゃアイリは仕事を辞める必要性が出て来てしまうだろう。だけど、彼女は今の仕事を大変だと言いつつも、やりがいがあって本当に楽しいと語っている。それをやめろと言うなんて、僕には無理だ。
では、この街に?飛竜乗りとしての僕を捨てて、再び空を見上げるだけの日々に戻るのか。……それも、なんともやりきれない気持ちだ。空が恋しいというのもあるし、やはり僕には果たしたい責任というものがある。人のよき隣人であるべきだった飛竜達を、戦いの渦中、その深みへと突き落としてしまった者の一人としては。
自然に僕の手を取って笑うアイリに微笑み返し、だけど僕はまだ未来への不安を拭いきれないでいた。
「それでね、ここはお気に入りの喫茶店なんだー。コーヒーを飲みながらフレドへの手紙を書いたりもしてたんだよ」
「へ、へぇ。なんか恥ずかしいな」
「マスターがね、まるで魔法使いみたいな白髪のお爺さんで、老後をゆっくり楽しむために開いてるんだ。だから、商売っ気なくてあんまり儲かってないんだけど、人が少ないからこそ、のんびり出来るんだよね。そういうお店だから誰かに覗かれたりしてないし、大丈夫だよ」
「そっか。アイリが好きになるだけあって、素敵なお店みたいだね。……ウェイターの募集とかはないよね、さすがに」
「えー、どうかな。あのマスターならお願いしたらオーケーしてくれそうだけど、本当に全然儲かってないみたいだからねぇ。お給料は期待出来ないと思うよ」
なら、僕の分の給料を多少なりとも払わせてしまうのも忍びない。僕が入ることでお店を流行らせられる気もしないし、あまり流行っていないからこその良さがある店なのだろう。楽して仕事を得ることなんて出来ないな。
「でも、また今度、一緒にお茶しようね。コーヒーも紅茶も、すっごく美味しいんだよ。後、娘さんが作ってるケーキも美味しくてねー」
ふむ、それは聞き捨てならない情報だ。最近は中々食べられていなかったけど、甘党としては美味しいケーキはいただいておきたい。夕方まで営業しているのであれば、仕事帰りに入ることが出来れば最上だろう、などと考えながら、アイリに導かれるがままに次のお店へと向かおうとすると、視界の端にある子どもが映り込んだ。
大都市ということもあってか、あまり出歩いている子どもは見られない。日中、子どもの多くは学校か、家庭教師によって教育を受けているのだろう。子ども自体が珍しくはあるが、特にその子には見覚えがあったので注視してしまった。
「アイリ、あの子……」
「ん?あ、あー、いつぞやの衝突少年だ。あれ、この街の子だったのかな」
「変だよね。てっきりサルビアでも会って、ここでも会って……。あの日まで全く見覚えのない子だったから、旅行者かな、と思ったんだけど、本当にここの子じゃないの?」
まるで僕達について来ているようだ、なんて思ったのは考え過ぎだろうか。だけど、なぜか僕にとってあの少年は、すごく不吉な存在であるかのように感じられてしまった。
「うーん、確証は持てないなぁ。あたし、本当に配達で外に出てばっかりで、街の中を色々見て回ることって少ないから。狭い街じゃないから、仮に見たことあっても忘れちゃってるかもしれないしね」
「そっか……。まあいいや。不思議なこともあるものだね」
いつしか少年の姿は消えている。まるで悪魔の化身であるかのように訝しんでしまったけど、不吉な予感の大半は杞憂で、彼もまたその一つなのだろう。そう自分を納得させて、明るい気持ちへと切り替える。
「けど、アイリと僕の仕事は本当に真逆のものだね。アイリはもうこの街に住んで五年以上でしょ?なのに、仕事が街に密着したものじゃないから、意外なほどここのことを知らない。対して僕は……」
「街中を飛び回って荷物を運んだり、観光のために街の上空をゆっくりと何回も飛んだりしてるんだから、もう知らないことなんてなんにもなさそうだよね。この街の人に手紙を届けるのは、局勤めの人だし、下手したらあたし、変なところ入っていったら迷っちゃうかも」
「だから、アイリもサルビアの方がよく知っているかもしれないね。仕事で歩き回ってるし、僕とも何度も歩いてるんだから」
「なんか不思議だねー。それにね、フレドが知らない色々な街のこともいっぱい知ってるよ。同じ国で、それぞれの街が大きく離れている訳でもないのに、建物とか産業とかに特色が出るんだよね。後、人にも。移民の多いところだったりすると、言葉が通じないから大変だもん」
「楽しそうだね……。また空を飛べるようになったら、アイリと同じ仕事も良いかもしれないな」
「いいねー。それか、フレドとなら、さすらいの旅人とかでもいいよ。マルスとレッグに乗って、その日暮らしの旅をするの。んで、世界一周して帰って来て、あのマスターみたいに喫茶店でも開いてさー」
「ははっ、夢がある話だね。でも、そういうのも良いかもしれないね。むしろ、僕が望んでいたのはそういうことなのかも」
僕が空の道へと進んだのは、とにかく人が絶対に自分のものに出来ないその空間を、飛竜の助けを借りながらではあっても制覇してみたい、という少年らしい挑戦心があって、後から人には出来ないことをして、役に立ちたい、というのがついて来たのだろう。そして、世界を巡る旅に出るというのは、割と本気で望んでいたことの一つだ。
なんなら、明日すぐにこの国を出て、どこまでも飛んでいくことだって出来る。空には危険が絶えないけど、何か大きな荷物を運んでいない身軽な状態なら、僕とアイリは決して落ちるような事態に陥らないだろう。
空想に頭を働かせるのは楽しく、いつまでも続けていないほど魅力的だけど、僕にもアイリにも、やりたいことは他にたくさんある。それになによりも、アイリが望む通りの立派な結婚式をして、神前できちんと夫婦の契りを交わしたいというのが第一の希望だ。その達成のためにも、まだ空へ飛び出す訳にはいかない。
「そういやアイリ、時間は大丈夫?」
「えっ。う、うーん、もうあんまり余裕はないかな。出るのが遅れちゃっても、帰るのが遅くなるだけだけどねー」
「最近は物騒なんだから、それは危ないよ。後は僕が一人で適当に見て回っているからさ、アイリは仕事に行っててよ」
「そう?まだきちんと案内出来てないのに、なんか悪いなぁ」
「途中になっちゃうことより、夜遅くまでアイリが帰れなくて、心配して待っている方が辛いんだから。僕を安心させるためと思って、ね?」
「もー、そういう風に言われちゃったら、仕方ないなぁ。じゃっ、今日も元気で行って来ます!」
「うん、いってらっしゃい。くれぐれも気を付けてね」
「大丈夫、大丈夫ー。あっ、一人で街を探検するのも良いけど、迷子にならないでね?あたしだって迎えに行けるかわからないんだから」
「気を付けるよ。まあ、僕はアイリよりも方向感覚は良い方だから、大丈夫と思うけど」
「むっ。あたしが方向音痴って言いたいの?失礼しちゃうなぁ」
「はは、じゃ、また夜にね」
頬を膨らませてしまったアイリを、苦笑しながら強引に送り出す。笑顔の彼女はもちろん最高だけど、こういう表情も好きだ。そのためにわざと意地悪を言ってしまうのは、ちょっと酷過ぎただろうか。
気になるところを回った後、僕はこれからの我が家となるアイリの家に戻って来た。
初めての時は胸がいっぱいだったのか、気付かなかったけれど、軒先の花の香りが思った以上に強くて、それだけでも彼女の家を識別出来そうだ。合鍵の完成にもうしばらくかかる以上、実は鍵を締めずに出てしまっていたけど大丈夫だろうか。お金は二人が持ち歩いている分の他には、銀行に預けている分しかないのだけど。
一応、アイリから貴重品を入れたタンスの場所は聞いている。確認のために引き出しを開けてみると、ちょっと意外なことに本物の宝石――青色だからサファイア辺りだろうか。それのはめられた煌びやかなペンダントと、やはり高級そうな金製の万年筆が入っていた。
想像してみるに、ペンダントはアイリのお母さん、万年筆はお父さんからの、一人暮らしをする娘への餞別の品だろうか。ペンダントはともかく、使ってこその物である万年筆を使っていないのは、微妙に貧乏性なところのある彼女らしい。それとも、普通のインクを付けて書くペンが好きなのだろうか。書机には、羽ペンと鉄芯のペンの両方が備えられている。
「他には何もないんだ……。なんか、アイリらしい」
本と食べ物にだけお金を使って、後は全て貯金に回す。だからこそ彼女の宝物とは、家族からもらった高価な品と、それに込められた気持ちだけなのだろう。……いつか僕も、この引き出しにしまってもらえるようなプレゼントを彼女にしないと。いや、それは結婚指輪になるのかな。
本人がいないのに、アイリのことばかり考えている自分のことを笑って、それから彼女の手紙を手に取った。
いつもの調子ならこの中には、僕を照れさせるような内容が満載のはずだ。そんな手紙を読み解くというのは、中々に勇気と気力がいる。大きく深呼吸をし、窓を開いて外の風を取り入れてから、静かにその文面に目を通し始めた。
“フレドがあたしと一緒に暮らしてくれる、と言ってくれた日の夜から、この手紙を書き始めました。きっと書き上がるのに時間がかかる手紙になると思うので、始めにそのことを書いておきます。
今日、フレドが郵便配達のついでのように、あたしに家に行ってもいいか、と聞いてくれた時、あたしの心臓は正直、止まってしまいそうでした。それほどにドキドキして、嬉しくて、少しの間、呆然としてしまったのはそれが原因です。
色々な事情もあって、だからこそ実現したことだとはわかっているのですが、今のあたしとしては何よりも嬉しさが勝っていて、他のことは書けそうにありません。いつもは色々と趣向を凝らしてるのに、子どもみたいな表現しか出来なくてごめんね。でも、なんだかんだでこれが“あたしらしさ”みたいなものだと思うから、自分でも恥ずかしくなっちゃうぐらい、嬉しいって書いちゃうね。
フレドもきっとそうだと思うのですが、あたしはいわゆる“遠距離恋愛”であるこの関係を、寂しいと思ったことは一度もありませんでした。確かに住んでいる街は遠く離れているし、あたしはフレドの街を見ているのに、フレドはあたしの街を知らない、そのことはちょっとだけ気になったけど、日に必ず二回も会えるのだから、遠距離であることは全然意識しませんでした。
でも、いつか一緒の家で住むことが出来ればな、と考えていたので、それが叶って今のあたしは自分の力だけで飛び上がってしまいそうです。
この手紙はフレドに届けるのではなく、家に置いておいて読んでもらうつもりなので、きっとこれをフレドが読んでいる頃には街に着いていることと思うのですが、この街はどうでしょうか。それから、あたしはきちんと街を案内出来たでしょうか。出来るだけ練習して、フレドに楽しみながら街を回ってもらいたいと思うのですが、柄にもなく緊張して、時間オーバーとかしてそうで、ちょっとだけ心配です。
それから、これは直接も言っていると思うのですが、毎日帰るのは大体七時過ぎぐらいになります。ただ、一時間ぐらいずれ込むこともしょっちゅうなので、心配しないであまりに帰るのが遅いようなら、ご飯は一人で食べておいてください。夜ご飯のお店ぐらいは紹介出来ていると思うのですが、もしもまだなら、適当なお店でどうぞ。割とどの店も遅くまで開いているし、味も悪くはないと思います。ただ、値段がネックな店が多いと思うので、そこは諦めてね。
では、あんまりに長過ぎると読むのが大変になるので、この辺りでやめておきます。最後にもう一度、フレドと一緒の生活が出来て本当に嬉しいです。ありがとう、それから、これからもよろしくお願いします。
あたしの大好きなフレドへ
あなたも当然、大好きなアイリより”
――想像以上だった。
今までは数々の変化球、魔球が駆使されて来たが、ここに来てド直球。それもとんでもない剛速球をもらって、僕は一撃でやられてしまったような心地だった。
アイリは僕よりもずっと愛情表現が露骨で、積極的で、その愛情の深さはよくわかっていたつもりだ。それなのに、この手紙に込められた愛の深いことは、今更僕が下手な解説を加える必要もなく明らかで、ピンク色の便せんも、いつものより色濃く感じられてしまう。もしかすると、僕の頬の色の投影なのかもしれない。
……ああ、それにしても、アイリは本当に素直で一途で、なんて可愛らしいのだろう。自分の彼女の自慢なんて変かもしれないけど、彼女ほどの女性は、果たしてどれだけ世界にいるのだろうか。誰にも比較しろとは言われていないのに、ついついノロケてしまう。
“アイリが帰ったら、思い切り労ってあげよう”そう決意して、椅子へと深く腰かけ直す。この手紙は何度だって読み返したいけど、今すぐにまた目を通してしまったら、今から徒歩でアイリを追いかけて行ってしまいそうな代物だ。大げさなのはわかっていても、一生の宝物にしたいと考えてしまう。
とりあえず、封筒の中へと手紙を戻そうとしたところ、もう一枚、真っ白な別の便せんが封筒の中に入っていることに気付いた。もしかすると、間違って入れてしまったのだろうか。いや、でも僕に宛てたものなのかもしれない。一応、開けて確認してみるとそれは、なんとアイリが自身の両親に宛てたものだった。
内容はつまり、結婚式を開くので、是非来てくれ、という旨の招待状で、もちろん日付のところは空白になってある。
「アイリ、気が早いよ……」
しかもこの招待状を、間違って僕への手紙に同封してしまうなんて。偶然にしても皮肉過ぎる……と考えて、もしや、と考えた。これは暗に、アイリが結婚の催促をしているのか?つまり、これは入れ間違いを装ったわざとのこと。僕にプレッシャーを与え、必死でお金を貯めさせようとする……。
あり得そうで、でも、今の僕なら笑って許してしまえることだ。むしろ、そんなことをされなくとも、いち早く彼女に男子としての責任を果たさなければ、という気がして来ていた。
よし、明日からとは言わず、今日から仕事を探してみよう。今日出来ることを明日に延ばすな、とは部隊の教えの一つだった。つまりは快速輸送の教訓なのだけど。
一念発起してドアを開けると、陽は早くも暮れようとしていた。時計を確認してみると、もう六時。さすがに、飲食店以外はもう閉まっているか、閉店前で慌ただしくしている時だろう。そして、飲食店は夕食時に向けて忙しくなっている。こんな時間に客でもない人間が訪れて、仕事はないか、と聞いたとしても、その時点で断られてしまうのがオチだろう。時は金なり、少し観光が過ぎてしまったようだ。
残念に思いながら家の中にすごすごと引き返し、今度は椅子ではなく、僕の寝床となるハンモックへと横になってみた。実はこういうものを使用するのは初めてのことで、少し憧れていたところがあって、機会に恵まれて嬉しかったりする。
どうも頼りなさげに見える、ただの網を吊るしただけの寝床だけど、これが中々どうして面白くて、独特の布団は異なった体の沈み込んでいく感覚が、なんとも癖になる。夏場はこれだけで十分だし、仮にが来たとしても、毛布を用意すれば十分夜を明かすことの出来る、快適な寝床だ。
とりあえず、これで睡眠についても心配はない。アイリの家での生活は、物理的にも恵まれていることがわかって、一安心だ。後の心配事は仕事ぐらいしかない。ただ、これだけは雇い主がいないとどうしようもないので、なるようになることを願うしかない。一日も早く決まって、毎日アイリの帰りを待つだけの生活、なんてことを一日でも早く脱却出来れば良いのだけど。
ハンモックをわざと揺らしながら、漠然と未来に思いを馳せていると、自然と意識は飛び、安らかな眠りが訪れた。思ってもみれば、今朝はあまりよく眠れなかった。やっと緊張も解け、幸福感に包まれてまどろんで行ったことになる。
心地よい眠りの時間を妨害し、途切れさせたのはドアをノックする音だった。
アイリであれば、鍵を開けて入って来れるはずなので、お客さんだろうか。危うくハンモックから転げ落ちそうになりながら、慌てて降りてドアを開けてみる。寝ぼけているせいか、ドア越しに誰か聞くのを忘れてしまった。強盗の類だったらどうしよう。開けてから考えたけど、実際に外に立っていたのは――なんとなく見覚えのある、しかし、厳密には初めて会うような気のするブロンドの女性だった。
「え、えっと、あなたは……?初めて会う人、ですよね。アイリの友人の方ですか?」
「いえ。たまたま通りかかった者です。ただ、この人が……」
そう言うと女性は、外にいるもう一人を僕の前へと歩み出させた。誰かと思えばそれは、夜の暗闇に同化する黒の髪の女性。アイリだった。
「フレドぉ!よかった……あたし、助かったんだよね。家に帰れたんだよね……?」
「アイリ、どうしたの?まさか、仕事の途中で――」
「悪漢に追われていました。巧みに馬を操り、なんとか逃げ切ろうとしていたのですが、この街の東の辺りは昨日、強い雨が降っていました。そのために道がぬかるんでいて、馬の足が取られ、落馬をしてしまったのです。そこに男が迫って来たのですが、なんとか私が追い付き、蹴散らすことが出来ました。そして、彼女を送って来たのですが、馬は骨折をしてしまい、長距離を歩かせる訳にはいきませんでしたので、主人に預けています」
「そうですか……。本当に、本当にありがとうございます。アイリを救ってくれて」
まさか、本当に彼女が賊に追われただなんて。そして、その窮地を見ず知らずの女性が救ってくれるとは。天に神がいるならば、最上の感謝をしなければならない。だけど、その前にこの人自身に頭を下げるのが先だ。
「当然のことをしたまでです。アイリさん、もう大丈夫ですね?」
「うん……。ありがとう、ございます。あたし、もうフレドに会えないんじゃないか、って思ってた……」
僕に抱きつき、体を震わせているアイリは、目から幾筋もの涙を流している。とにかく強い恐怖と、なんとか帰ることの出来た安堵感から流しているのだろう。僕に出来ることは、その頭を可能な限り優しく撫で、背中もさすってあげることぐらいだ。
「私は、自分の村へと戻ります。馬は治療が終わり次第、この街へと返しますから、ご安心ください」
「あの、せめてお名前と、どこに住んでいるか、教えていただけませんか。きちんとお礼にお伺いしたいですし」
「わざわざお礼を頂くほどのことではありません。むしろ、私は既に十分過ぎるほど与えられている身の上。これ以上、何かを与えられては申し訳が立ちません」
「は、はぁ……?」
女性は、僕と会話をしているようで、どこか根本的なところで“ズレ”があるようだった。彼女は何かを隠しているのだろうか。それでも、アイリを助けてもらえたのは本当なのだから、是非ともお礼はしたいのだけど、本人がこうも断るのではどうしようもないか。
「今夜はこちらに泊まっていかれるのですよね?せめて、宿代だけでも出させてください」
「いいえ、このまま戻ります。それよりも、どうか彼女の傍にいてあげてください。大変なことがあって、今にも心が砕けてしまいそうなのを、私は感じていました。傷ついた心を癒してあげられるのは、恋人であるあなただけですから」
「……わかりました。ありがとうございます」
アイリの震えは、まだ止まらない。その悪漢とは一体、どんなに恐ろしい人間だったのだろう。まさか、いきなり彼女に武器を向けたのか?それとも、いきなり乱暴をしようとしたのか。アイリの服は、転んだ時に付いたのであろう汚れの他には、特に乱れたり破れたりしたところはない。どうやら彼女が体に直接の被害を受けなかったということは、まだ救いだった
「それでは。どうかお気を付けて」
女性はあっという間に、夜の闇へと消えてしまった。金髪は闇の中でも目立つはずなのに、まるで幻のような人物と思った。彼女の正体も気がかりではあるけれど、正直なところ、他人のことよりもアイリのことがただ心配だ。
家の中へと上げ、ベッドか椅子か迷ったけど、とりあえずは椅子に座らせる。まずは上着を脱がせてあげて、慣れない手つきでブラウスのボタンも上からいくつか外し、楽な格好にさせてあげた。
「アイリ、落ち着いて。今夜は僕が一緒に寝る。何があっても、君のことを守るから」
白い――血の気が引いている――手を強く、僕のぬくもりを与えるように握る。それから、生命の灯火が消えてしまったように、弱々しく活気のなくなってしまった瞳を覗き込んだ。大好きな琥珀の瞳が、こんなにも寂しげだなんて。怒りと、限りない同情の心が湧いて来た。
「フレド……。あたし、あたしっ…………」
「うん。怖かったね。だけど、もう大丈夫。僕がいるから」
体を抱き寄せ、頬を寄せ合う。どれだけ彼女と体を密着させても、まだ足りない気がした。
「どうしよっ……。あたし、外に出るのが怖くなっちゃった…………。あたしが、皆の手紙を運ばないといけないのに……」
「仕方がないよ。仕事も大事だけど、アイリの心はもっと大事だ。しばらく仕事を休んでも大丈夫。きっと、局の人もわかってくれる。わからなかったから、僕がなんとしてもわからせてあげるよ。アイリは頑張って仕事をして、ものすごく怖い目に遭ったのに、こうして街に帰って来れたんだ、って」
僕の腕の中にいるアイリは、まるで小さな少女のようなほど、矮小に感じられた。恐怖が。今ではきっと、仕事が完遂出来なかったことによる、社会への恐怖が、その体を縮み上がらせてしまっているのだろう。彼女は職務に対してもあまりに純粋で、責任感が強過ぎた。彼女の持つ美しい心は、心ない人の起こす事件に、あまりにも弱い。
「アイリ。もう寝ようか。手を繋いで、一緒に寝よう。大丈夫、怖くないから」
「フレド……。あたし」
「うん。……うん」
体を抱き上げ、ベッドへと寝かせる。華奢な彼女の体は、羽よりも軽く、弱々しいみたいだった。
「……フレド、キス、して」
「うん…………」
今まで、中々彼女のその求めに応じたことはなかった。もちろん、僕等の関係でキスをしないのは不自然だ。全くの初めてではないけど、ほんの数える程度。その数少ないキス経験が、もう一度分増えることになった。
震える薄い唇に、僕の顔をぐっと近づける。不安のために震える体の振動が、唇を通して僕にも伝わる。冬の海中に投げ出されたかのように、こんなにも細かく、激しく震えるなんて。なんて。なんて彼女は可哀想なんだ。
そして、なんでよりにもよって彼女が。誰よりも純粋な、誰よりも愛されるべき彼女が、暴漢の被害者にならなければならないのか。世の不条理に怒りを覚えながら、だけどそれを彼女に悟られないように僕は、その頭をしつこいほどに撫でた。いくら撫でても、彼女を慰めるのには足りないように感じたからだ。
それでも、彼女が眠るとそれをやめ、代わりに体を抱いて、僕もまた意識を手放した。今夜の出来事が全て、ハンモックで眠る僕の見た悪夢なら良いのに。ふとそう考えたが、彼女の体の感触は本物だ。この悲劇は現実のものなのだと、何よりも生々しく、僕の体が教えていた。
翌朝、僕が起き出すのは早かった。
アイリがいつも起きている時間よりも早く起きて、家の鍵ごと彼女のカバンを拝借して、きちんと鍵を締めてから家を出る。まさか、昨日の今日のことで戸締りを怠ろうとは思えなかった。
本来ならば、昨夜の内に局への報告を済ませるのが道理なのだけど、僕に抱かれて安心しきった表情で眠るアイリから離れることなんて出来なかった。だから、早番の局員がぎりぎり出勤して来ているのであろう時刻に局を訪れる。彼女の身に起こったことと、昨日の配達を完遂出来なかったことを報告するために。
当然、アイリの家族でも、郵便関係者でもない僕が訪れたことに、局の人は驚いた。だけどきちんと説明をすると、まだ若い――僕と同年代の職員はアイリに同情してくれて、局長に話を通してくれると約束してくれた。もしかするとアイリの家に伺うかもしれないから、そのことにも留意してくれ、と事務的な連絡も受け、局を出る。
夏だからこそ空には太陽が見えるけど、冬場ならまだ外は暗いことだろう。飛竜を得る以前のアイリは、こんな時間から働いていたんだな。その仕事の大変さが改めてよくわかった。
もしかすると彼女が起きているかもしれない。僕がいないと不安になってしまうことだろう。慌てて家に戻ると、彼女はまだ安らかな寝息を立てていた。いつもなら起きているはずの時刻だ。……やはり、彼女の受けた傷は深い。
睡眠の邪魔にならない程度に優しく、眠るその手を握る。何度と数えることが出来ないほど握って来た手だけど、毎回のように思う。なんて柔らかく繊細で、今にも壊れてしまいそうな手なのだろう。こんなにも弱々しい体躯の彼女が、昨晩は大の男でも恐れるような事件に遭ってしまった。僕は一体、どれだけの愛を注げば、彼女を慰めてあげられるのだろう。
悪い夢を見せられてしまっているのだろうか。汗で前髪を濡らし、いつもは生気溢れる黒の髪も、今はその一本一本が力なくベッドの上に広がっている寝姿を見て、僕も涙を浮かべてしまっていた。
まさか彼女の目覚めを泣き顔で迎える訳にもいかない。必死で涙を拭うと、ぱっ、とアイリの瞳が開かれた。琥珀色の目は、すぐに僕を見つけて笑顔になる。それが見れて安心するのと同時に、力いっぱいとは言えないその顔には、やはりまだまだは運があった。
「フレド、おはよ」
「うん。アイリ、おはよう」
まもなく彼女は上体を持ち上げ、制服のまま眠ってしまったことに、はっとして慌てて襟元を正す。そんなことをしても、もうブラウスにはシワがびっしりで、きちんと洗って干さないとどうしようもない。
「んーーっ。えへへ、もう元気だよ。昨日はいっぱい心配かけてごめんね」
「いいんだよ、そんなの」
大きな伸びの後、立ち上がろうとするアイリに手を貸そうとすると、大丈夫だから、とやんわり断られてしまった。まあ、病人じゃないんだからそれも当然か。それに、アイリは過剰に自分が女の子扱いされるのが苦手なので、もう今日はあまり世話を焼かない方が彼女も気が楽かもしれない。
「じゃ、すぐにお仕事行くね。上着を羽織ったらシワも隠せるよね、うん」
「アイリ。もう七時だよ。今朝、僕から昨日のことと、しばらく休みをもらうことも話しておいたから、ゆっくり休んで」
「あっ、そうなんだ……。寝坊だけはしないのがあたしの自慢だったんだけどな」
「無理をしなくてもいいよ。僕がいるから」
彼女を後ろから抱きすくめてしまいたかった。だけど、彼女は一人で、明るく強く立とうとしている。言葉だけに留めておかないといけない。
「ありがとね、フレド」
「……うん。すぐにご飯の用意をするよ。食欲はある?」
「もっちろん。むしろ、昨日食べてないから、もうペコペコだよー」
お腹を撫でながら、本当にひもじそうにするアイリを見ると、僕にも笑みが浮かんで来た。アイリは、決して無理をしている訳ではない。すぐにまたいつものように元気な彼女に戻ってくれる。僕がいつまでも辛気臭い顔だったら、逆に心配をさせてしまうな。
パンを取り出しながら、僕も心機一転。はらぺこのアイリのため、気合を入れた朝食を作ることを決意した。あくまで、自分が出来る範囲で。
途中、アイリの指導を受けてしまうという情けない結果ながら、なんとかそこそこ食べられるご飯を用意して、食べた後。まだ時間は八時前で、街はやっと起き出した頃だろう。外に繰り出す必要性も感じなかったので、僕とアイリは向かい合わせになって座ったまま、のんびりとした時間を過ごした。
互いに積極的に話すことはなく、まだ寝起きでぽややん、とした頭で今日も暑いな、なんていうどうでも良いことを考える。アイリにしてみれば、こんな時間に家で休んでいるのは異常なことなのだろう。少しだけ違和感があるようで、ちょっとそわそわしているのがわかる。
「フレド、あたしね」
「うん」
「フレドと一緒に、飛びたいな。それぞれが別々に飛ぶんじゃなくて、レッグのふかふかの背中に二人で乗って飛ぶの」
「それは、魅力的なことだね。結婚式の日にそうするのなんてどう?」
「今、飛びたいな」
「…………アイリ」
彼女はその表情を大きく変化させてはいない。本当にただの雑談の中で飛び出したかのような話題だ。
だけど僕は、これは絶対に叶えなければならない望みだと思った。あるいは彼女は、僕が落馬の経験から乗馬に苦手意識を持つようになったのと同じように、もう陸を走るのが嫌になってしまったのではないか。そして、僕が飛竜に乗ることを望んだように、再び空へと想いを馳せている。
空に道はなく、法はなく、どこまでも自由だからだ。相棒の翼が空気を動かすことが出来る限り、どこまでだって行ける。本当は、空戦でもしようとしない限り、僕の技術ならたとえ対空攻撃を受けたとしても、全て避けきって見せる自信はある。今にでもレッグを引き取り、空に出ることも不可能なことじゃない。
「じゃあ、行こうか。空へ」
「いいの?」
「今日すぐに、は無理だけど。そうだな、二日もあれば、レッグを返してもらえる。一度、この街を離れて、好きなところまで行ってみようか。お金はまあ、手持ちでしばらくはなんとかなるよ」
「……ありがとう、すっごく嬉しい」
今日初めての、陰りのない笑顔であったかのように見えた。
起きてご飯も食べて、少し落ち着いて。やっと彼女は本当の自分の気持ちを口にしたようだ。まだまだ彼女は弱っている。そんな時、空が好きな彼女なら、やっぱり空へと帰るのを望むんだ。
そうと決まれば、僕は彼女の机とペンを借りて、すぐに友人宛の手紙を記した。この街からはそこまで遠くないので、明日の夕方には着く。そうしたら明後日にはレッグとの再会が果たせて、夕方には優雅な空の旅、という寸法だ。
「お昼からは、街に出ようか。それで、例の喫茶店でお茶でもしよう。ケーキも食べてさ」
「いいねー。全然思ってなかったのに、すぐに一緒に行けることになっちゃったね。ちょっと嬉しいかも」
けらけら、といたずらっ子のように笑う。その姿がまるで仔猫のようで、彼女の魅力の一切が、ここに集約しているかのようにすら思えた。
お昼ご飯はアイリが作ってくれようとしたけど、よくよく考えてみれば、二人分の食事を作るためには材料が不足してしまっていた。昨日、僕が気を利かせて食材を買い足しておけば良かったのだけど、あまり自炊をしないからそういう発想には至らなかった。
そこでお昼から街へと繰り出し、アイリの案内のままに食事を済ませる。
手紙で彼女自身が心配していたように、彼女の街案内は昨日の分だけでは不足していたようで、それも絡めた昼食を食べるお店探し、そして食後の腹ごなしのための散策中、アイリは笑顔を絶やさなかった。こういう形になってしまったけど、僕との時間が増えて嬉しいのだろう。僕も、彼女と一緒にいようと思うのには多少の使命感もあるけど、恋人として離れがたいという気持ちも強い。
「どうかな、フレドはこの街、気に入ってくれた?」
「もちろん。正直、最初の頃は都会独特の閉塞感があって、苦手かな、と思ったけど、実際に歩いて回るとサルビアとそう変わらないね。むしろ観光客の多いサルビアに比べると静かで、住むのには丁度良いのかも、って思うぐらいだ」
「じゃあ、こっちに住んじゃう?」
「そうしようかな。竜観光も、業務内容を少し変えて、近隣の街々を飛び回る、というものにしても良いかも。長時間の飛行になるから、料金設定なんかは見直さないといけないけど」
「今までのが安過ぎたしねー。普通、荷運びにしても人運びにしても、チップみたいな値段でしちゃいけない大仕事だよ」
「わかっているつもりなんだけどね。何か物を売ったり、僕自身が大汗をかいて仕事をしていたりする訳じゃないのに、大金を取るのは気が引けちゃって」
「フレドはお人好しだなぁ」
「う、うーん、そうなのかも」
郵便配達という、国営の大事な仕事をしているアイリは、意外にも労働力の大切さというものをきちんと理解していて、仕事と向き合う姿勢はシビアなのかもしれない。それに比べて、僕の仕事と、お金儲けに対する無頓着さと来たら……戦争に関係する、ある意味で浮世離れした仕事をしていたせいだろうか。
「ところでさ、フレド」
「うん?」
次に口を開いた時のアイリは、少し声音が異なっていた。どうしたのか少し心配になったけど、少なくとも悲しそうな表情をしていなかったので、ひとまず安心する。
「あたしも、どこかで人が良過ぎたのかな。フレドは実際に兵隊さんと交流があって、だからあたしも戦争が確かにあったんだ、ということは実感としてあるつもりだった。でも、人と人ってそんなに簡単に、憎み合って、悪意をぶつかり合わせることが出来るのかな、って疑問だった。もちろん、この人は苦手だな、とかいうのはあるんだけど、そういうのを飛び越して、人を殺したり、人として扱わなかったり。そういうのは絶対にないんだ、って自分に言い聞かせてたのかもしれない」
「……アイリ。だけど、僕はその考えは決しておかしなものではないと思うよ。他人を食い物にしようと考える人の方が、ずっとイレギュラーな存在なんだ。他の人は皆、自分と同じ人のことを愛しながら暮らしている。街というものが、正にそうして機能しているんだよ。誰かが勝手をしたら、あっという間に連鎖して駄目になってしまう」
「そう、だよね。だけどあたし、まだまだ世間知らず過ぎたんだな、って思った。色んなところを飛び回って、それだけでなんとなく世界の全部まで知った気でいたの。本当は田舎の農家の娘で、生まれた時から街にいる人なんかとは、知っている世界の広さも深さも、まるで違うのにね」
アイリは、街中の人の雑踏に視線を送りながら、実際にはそれではなく、世界そのものを見ようとしているように思えた。
彼女が明るく素直なのは、良い意味で無知だったからだ。だけど、今度のことは彼女の知る世界に、一つの問題提起を与えることとなった。もしかするとこの問題意識は、彼女の笑顔をこれから何度も曇らせてしまうかもしれない。そう思うと、本当にどうして彼女が……。と憤りを感じるのと同時に、この気付きが彼女の成熟に貢献をするのなら、少し前向きに捉えてみようとも思う。
少女はいつまでも少女のままではいられない。僕も、ロマンと夢だけを追いかける少年であり続けていてはいけない。結婚のことを本格的に視野に入れ始めたこの時期に起きた悲しい事件は、しかしながら僕達を試し、大人にしてくれる試練なのかもしれない。
「フレド。さっきはわがまま言っちゃってごめんね。けど、本当にちょっとだけ。ほんの数日で良いから、本当に飛ばせてくれないから。そしたら、すぐにまた仕事に戻るよ。やっぱりあたしは、郵便屋の仕事が好きだから」
「アイリ…………」
それでも彼女は、気丈で前向きだ。
「わかった。くれぐれも、無理はしないでね」
僕にはないものをたくさん抱えている彼女に対し、僕が出来るのはその背中を見守り、必要とあらばそれを優しく押してあげることだ。決してもう傷つく姿を見たくないから、やめてくれ、と止めはしない。彼女はそれを望まないだろうから。
「ありがと。さて、じゃあ、喫茶店に行きますか。フレド、何のケーキが食べたい?」
「どんなのがあるの?僕は甘いものならなんでも好きだから、アイリの好きなのでいいよ」
「えー、じゃあ、どうしよっかな。普通のケーキも良いんだけど、あたしはタルト、特に今の時期なら、チェリーのが好きなんだ。ものすっごく甘いんだけど、大丈夫?」
「シロップ漬けにしたチェリーは好きだから、多分大丈夫だと思うよ。子どもの頃も、部隊時代もよく食べてたな」
かつてはおやつとして、時として必要な栄養が不足しがちな部隊にいた頃は、貴重な糖分源として、支給品の缶詰を喜んで食べていたものだ。同僚は、強烈に甘いチェリーを好んで食べる僕を不思議がっていたけど、僕にしてみれば甘過ぎて食べられない、という現象が起こる方が不思議で、甘さを苦に感じたことなんて一度もない。
生来、僕が甘党だったのがその原因なのだろうけど、この人とは少し違う味覚は、女性と付き合うようになってから役立つようになった。つまり、他の男性が付き合い切れない甘いお菓子を食べることに、僕はいつまでだってついて行ける。アイリも他の多くの女性と同じく、甘いクリームや砂糖の塊のようなお菓子は大好きで、自作もすると言う。ただ、残念ながら飛竜、あるいは馬による運搬という関係上、崩れやすいケーキ類は持って来れないので、もらえてクッキーが関の山だった。
一緒の生活を送るようになった今、彼女のお菓子作りの腕を振るってもらえるかと思うと、たまらなく楽しみだ。その前に、まずは彼女の好きなお店に向かい、そこの主人のご令嬢(とはいえ、察するに中年の女性だろうか)のお菓子作りの腕を見させてもらおう。アイリが好きだと言うのだから、当然ながらその品質はお墨付きだと言える。
もうなんとなく、道順は覚えて来ている。アイリと仲良く肩を並べて、自信満々に道を行き、次々と角を曲がっていく。この街は大小の道が、チェスボードのマス目のように整然と交差している。地図さえ頭に入れてしまえば、非常にわかりやすい作りだ。
そうではなくても、大きな道を歩けばある程度のお店は全て見つかるし、小さな道に入っていくための曲がり角には、その道のお店の案内板が出ている。街全体が商店街のような作りのサルビアに比べると、ある意味でこちらの方がわかりやすい作りかもしれない。あちらは店のテーマカラーを屋根の色にしているので、上空から見るとすごくわかりやすいのだけど。
件の喫茶店の立地条件は、儲かっていないという割には良い方で、大通りからある小さな道。第七番通りに入って行ったすぐのところにある。落ち着いた喫茶店で静かにお茶をしたい、という時に便利の良いお店だ。
どことなく懐かしい気がする店構えを、改めてきちんと見直す。建物自体はそう古くはない、お店のために新しい家を借りたのだろうか。
「こうして見ると、立派なお店だね」
「マスター、結構お金持ちだったからね」
過去形なのは、このお店の購入と、大した収入のない生活の中で若かりし日に稼いだ財産を切り崩し、人並み程度に貧乏をするようになってしまったからだろう。
店主像を想像し、中がどうなっているのか、楽しみに思う気持ちを膨らませたところで、さて、入ろうか、とドアノブに手をかけようとすると、女性の声が聞こえた。他の人の目もあるということを考慮してか、決して大きな声ではないのに、不思議な張りがあって凛としたその肉声は、どこまでだって届く気がする。少なくとも、僕にはよく聞こえた。
「フレドさん、ですよね」
声のした方を振り向く。大通りで僕の姿を見つけたのだろうか。彼女はすぐに駆け寄って来て、僕の顔を確認して満足げに頷いた。
「あなたは……」
「フレドの友達?」
気を利かせて場所を開け、僕の後ろに回り込んだアイリが耳打ちする。それに頷き、僕は人間違いをするような失礼がないように、もう一度女性の姿を確認した。。
美しいプラチナブロンドの髪は、僕の記憶の中のそれよりも長く伸びている。だけど瞳の色は相変わらず美しい翡翠色で、背丈の高さは際立ち、今となっては僕よりも高くなっているかもしれないほどだ。顔に関しては、美女の要素を持っているというのに、引き締まった独特の、険しさと優雅さとを兼ね備えた眼光は、彼女がアイリのような街の女性ではないことを物語っている。
実は昨夜の僕は、アイリを救ってくれた女性こそが彼女かもしれない、と考えた。だけど、それは誤りだった。あの人も確かにブロンドの髪を持っていたけど、その佇まいは常人のそれで、軍人のそれとは根本的に違っていた。
「リンジーさん。お久しぶりです。……よく、ご無事で。大佐が亡くなられたという手紙は受け取りました。本当に心から、お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます。私のことも覚えていてくださって、光栄です。やはり、父の訃報の後、続報は届いていませんでしたか。父の葬儀の案内状を私の名義で送り、私が難を逃れたということを伝えようとしたのですが」
「はい。リンジーさんもご存知とは思いますが、配達員が飛竜狩りの賊の手にかかってしまったのでしょう。残念なことです」
てっきり大佐と共に亡くなっていたと思っていたリンジーさんが、こうして生きていたことには驚きがあった。だけど、驚くよりも先によく若い彼女が生き残ってくれた、と胸を撫で下ろす気持ちの方が強い。
結局、婚約話は頓挫してしまっていたけれど、一応の婚約者が無事だったという面でも喜びがある。
「我々の力が足りなかったばかりに、申し訳が立たないことです。……しかし、この街に来られていたとは、嬉しい誤算でした。確か、サルビアの街にお住まいのはずでしたよね。私は、明日のお昼にそこに着くため、今日はここで休もうとしていたところだったのですが」
「あ、ああ……。住所を変えたという手紙は、当然受け取れませんでしたよね。実はしばらく、この街に身を置くことにしたんです。僕は飛竜を使う仕事に就いていたので、今は一時的にそれをやめ、この大きな街でなんとか仕事を見つけようと思って」
アイリが彼女だということは隠していたいと思った。そのことを話すにはまず、リンジーさんとの関係をきちんと解消しておいた方が良い、と思ったからだ。
「そうだったのですか。無駄足にならずに済み、ますます幸運なことです。――時に、そちらの方はお付き合いをされている方でしょうか。ごきょうだいがいるとは聞いていなかったはずですが」
「え、ええ……」
「気を遣われなくても大丈夫ですよ。そもそも、今のあなたは軍と何の関係も持たれていないのですから、私のことは年齢相応の少女として扱われてください。その方が、私も気が楽で助かります」
「そ、そうなんだ。えっと、彼女はアイリ。アイリ、この子がリンジーさん、今は海軍の……」
「中尉になりました。陸で海での階級を語るのも、おかしな話ですが」
「へー、あたしはアイリ、よろしくね。えっと、軍人さんにも握手とかしてもらって良いのかな?」
「はい。普通に海軍でも挨拶の一つとして、握手は日常的にされていますよ」
「そうなんだ。てっきり、敬礼ばっかりだと思ってたー」
誰とでもすぐに打ち解けるのはアイリの才能で、少し気分が沈んでいる今でも健在のようだ。見た目ではリンジーさんの方が年上みたいだけど、早くもお姉さんのように振る舞い始めている。
「リンジーさん。今は軍も忙しいだろうに、わざわざ僕に会いに来てくれるということは――何か、大事な話があるんだよね」
「はい。あまり喫茶店でするような話でもないと思いますので、申し訳ありませんが、あちらの広場にご一緒願えませんでしょうか。もしもよろしければ、アイリさんも」
「えっ、あたしも?良いの?」
「私は、父が信頼したフレドさんのことを信じ、尊敬しています。そして、その方の大切な人のこともまた、私は信用しますから」
「そ、そっか。……ふぇー、信用されちゃったよー」
リンジーさんの、いかにも軍人らしい喋り方にアイリは驚き、面食らっているようだけど、僕としてはわかりやすくて逆に接しやすいくらいだ。彼女ほど、典型的な軍人というのもそういたものではない。
それより、やはり気になるのは彼女が持って来た話だ。ものによっては、アイリのことで沈んでいるところに追い打ちをかけるような内容かもしれない。そう考えると緊張するけど、まさか聞かない訳にもいかないので、通りの奥。ベンチがいくつかあり、後は木と芝生が申し訳程度に生えているだけの小公園へと歩いていく。
背の高い、白い海軍服の彼女を追いかけていると、なぜだかふと、彼女のお父上につれられて歩いているかのような錯覚がした。
まだ亡くなった大佐よりもずっと年若く、階級も士官の中では下から数えた方が早いのに、もう立派な提督の風格があるものだな、と思うと、生意気ながら安心することが出来た。
「こうして内陸の街を訪れるのは久し振りですので、潮を含んだ風が吹かないのがなんとも不思議に感じます。フレドさんは戦後、上々の暮らしをされていたそうですが、何か変わりはありませんか」
ベンチに腰かけたリンジーさんは、この時期によく吹く南からの暖かい風に髪を遊ばせた。驚くことの一つは、彼女も言ったように海の上や臨海部では潮風が吹き、髪などは痛みやすいというのに、その金髪は一つも荒れた様子がない。それだけ手入れがしっかりとしているのだろう。士官だから艦橋からあまり外に出ない、ということだけを理由にすることは出来ないと思う。
「うん。仕事を休業したり、引っ越したり、と生活環境の変化はあったけど、僕自身は大きな病気や事件に遭わず、元気にやっていたよ。ただ本当、今の物騒な情勢はあまりにも気がかりだけど」
恐らくは陸軍の管轄である昨日のことを、わざわざ彼女に教えることはないだろう。どの道、嫌みになってしまう。彼女もまた、賊が原因でお父上を亡くしているというのに。
僕はリンジーさんから人、一人分を空けたぐらいの距離のところに座り、アイリは僕の隣に座った。四人がけのベンチはほぼ満杯の状態だ。
「――私や、私の父が戦いの渦中から抜け出せないのは、宿命なのでしょうから嘆きはしません。ですが、ひとまずはあなたが無事で何よりです。父の葬儀に来られなかったのは、郵便の方の事故だとは思っていましたが、あなたの側にあの数日の間に問題が起きた、という可能性も十分に考えられましたから」
「ありがとう。でも、僕の方でも何か手紙を書いておくべきだったね。心配させてしまってごめんなさい」
「いえ。便りがないのは元気な証拠、という言葉もあります。こうして出会えたのですから、今はこの再会を悦ばせてもらいましょう」
どことなく距離を感じるこの会話を、アイリはどんな風に聞いているのだろう。僕とリンジーさんは確かに、一時は婚約者として戦時中にも関わらず会って、食事をする機会も一度だけあった。今思えば不謹慎かもしれないけど、戦に勝った今では時効というものだろう。……それに、大佐ときちんとお話しした最後の機会でもあった。
そういうことは確かにあったけども、婚約というある種の枷が実質的にはなくなり、有力軍人の令嬢で自身も海軍士官の女性と、元輸送部隊の平隊員で、現在はなんと無職の男とでは、自然な会話が出来る方が不自然だ。言葉を崩してはいるけど僕には遠慮があるし、リンジーさんもどこか距離を測りかねている様子があった。
「今日は、どんな用件で?リンジーさんが直接会いに来てくれたのはすごく嬉しいけど、まさかこうして会うだけ、ということはないんだよね」
「はい。さすがに、今の時期に海軍士官が私用で港を離れる訳にもいきませんから。あなたに直接お伺いしたいことがあり、出来るならば父の葬儀のついでにお聞きするつもりでした」
リンジーさんは珍しく軽口と共に少しだけ笑みを見せて、軍人からの詰問という重苦しい状況を、少しだけ柔らかな場にしようとしてくれた。それに、“ついで”という言葉を使ったことからも、いきなり僕に再び部隊に戻れ、などという重大な話をしようとはしていないことがわかる。
「お伺いしたいことは、解隊後の輸送部隊の部隊員の現住所を出来るだけ多くと、彼等の使用していた飛竜の所在についてです。フレドさんや、他の数名の方とは今でも手紙のやりとりがありますが、多くは無事でおられるかすらわかっていませんので。また、飛竜についても同様です。終戦当初、あれだけ大きな生物を維持する余力は陸海軍共になく、なし崩し的にそれぞれの部隊員が引き取って行ってしまうことになりましたから、その確認がしたいのです」
「なるほど。やっぱり、撃墜事件の関係で」
「はい。可能な限り、軍の方で飛竜の保護と、飛竜乗りの安全の確保をするという方針になりましたから。三年が経過して今更ですが、撒いた種をなんとか回収することが出来れば、と」
またしても、アイリがどういう風にこの言葉を聞いたのかが気になった。一般の人からしてみれば、あまりにも虫のいい話には聞こえはしないだろうか。常に事後対応ばかりで、その癖に自分達の責任を主張する。軍隊とはしょせん、こういうものなのか、と。
僕だって今となってはそういう目で軍隊を見れない訳ではない。だけど、僕はやはりその関係者で、戦後の軍が何をして今までの三年を生きていたのかを知っているし、典型的な縦社会である軍では、現場にいなければわからない諸々のことが上方に伝わるのに、異常なほどの時間がかかってしまうのもよく知っている。
陸軍の話だが、前線の哨戒部隊の報告が本隊に伝わり、更にそれが司令部にまで伝達されるのにひと月以上の時間がかかり、前線では無援護で敵大隊と戦うことになってしまった、という話をロイから聞いたことがある。当然、小さな部隊はほぼ壊滅という憂き目を見た。
それに、たとえ上層部がどういうものであったとしても、リンジーさんは知り合いだからとはいえ、直接僕に情報提供を求めて来た。彼女が生半可な気持ちではなく、真摯にこの新たな決定に従って仕事をしようとしているのがわかる。リンジーさんを批判する気持ちは、欠片も湧いては来なかった。
「わかった。じゃあ、僕の知っている情報を全部書き出しておくよ。しばらく時間をもらっても良いかな?どの道、今日はこの街に泊まるんだよね」
「そのつもりです。今夜一晩をかけて、ゆっくりと書いていただければ大丈夫ですので。……それでは、お引止めしてしまって申し訳ありませんでした。宿は中央通りの南に面した白獅子亭に取ってあります。明日のお昼頃までに訪れていただければ幸いです」
「うん、じゃあ。久し振りに会えてよかったです。お仕事は大変だと思いますが、応援しています」
最後は敬語に戻って、かつてのように別れることにした。さすがにアイリよりは硬い、それでも女性らしく繊細な手を握らせてもらって、頭を下げて礼をする。大佐ならば更に、あのたくましい体で僕のことを軽くハグしたものだから、全身の骨が軋みそうだったけど、その習慣までリンジーさんに引き継がれることはなかったようだ。もし彼女が大佐の行動の全てを踏襲していたら、さすがのアイリも笑顔では済ませてくれなかっただろう。
そういうことがなかった以上、彼女とは何の憂いもなく気持ちよく別れることが出来る。そう思っていた矢先だった。今までじっと聞き役に徹していたアイリが、遂にその沈黙を破った。鋭さを秘めた言葉を用いて。
「待って」
決して大きな声ではない。それなのに、彼女の声を聞き慣れた僕ですら、ぎくりとさせられてしまう響きの強さを持っていた。
「リンジーちゃん、申し訳ないけど、あなたをこのまま帰す訳にはいかないよ。言っておかないといけないことがあるから」
立ち上がった彼女は、僕の前を横切ってリンジーさんへと肉迫する。その剣幕はすさまじい、の一言であり、彼女が冗談なんかでリンジーさんを引き留めたのではないとわかる。
考えてもみれば、当然の話だった。戦時中、そして戦争が起きていない期間も、軍隊は国のお金の何割かを用いて、その装備や衣食住をまかなっている。貧民の救済や、街の整備なんかに振り分けられても良いはずのお金にも関わらず。
そうするからには、軍隊は確実に国民の生活を武力で守らなければならない。先の戦争では、戦略上やむをえない被害はあったが、軍はおおよそその義務を全うすることが出来た。ただし、戦後になってみれば、その役目が完全であったかと問われれば、疑問符を浮かべざるを得ない。何人かの民間人は亡くなり、それ以外の人も飛竜を用いた仕事が出来なくなり、アイリに至っては陸路を使用していたのに、強盗の被害を受けた。
アイリが怒りを抱き、リンジーさんを捉まえるのも物の道理だ。僕のよく知る人同士がいがみ合うのを見るのは気分がよくないけど、アイリが怒るのであれば、それを止める権利は僕にないとも思った。
「なんでしょうか」
しかし、さすがにリンジーさんもあの大佐の血を体に宿した海軍中尉だ。全く恐れる様子もなく、またアイリを刺激しようとする訳でもなく、平然と彼女を受け止めようとしている。
「あたしはね、フレドの彼女なの。しかも、結婚も約束し合ってる」
「はい。お二人の様子を見れば、おのずとわかりました」
舌戦は、ひとまず緩やかに始まった。アイリが僕と交際しているということを明らかにしたのは、かつての騎士がした「名乗り」のようなものだろうか。
「なら、わかるでしょ?あたしの関心ごとがなんなのか」
「と、言いますと」
「むっ、お国の方特有の、はぐらかす作戦?」
「いいえ。本当に私にはよくわからないのですが」
「あーもう!どうしてフレドもあなたも、こんなにニブいかなぁ!だからね、あたしは後から出来たとはいえ、フレドの彼女なの。相思相愛なの。でも、あなたはあたしとフレドが知り合う前に婚約してたんでしょ?じゃあなんか、まるであたしが泥棒猫みたいじゃない。だから、はっきりとさせておいてもらいたいの」
大きくアイリが空気を吸い込む。
……しかし、そうか。アイリは過ぎたことをネチネチ言うような人じゃない。そんな“どうでもいいこと”より、自分にとっての最大の問題を明らかにして欲しいと望んでいる。彼女にしてみれば重大なことなのだから、あくまで本気で。
「将来的にでも、フレドと結婚する気があるの?もしそうなら、あたしは仕方がないから、手を引いても良いよ。離れ離れになっていた隙を突くなんて、フェアじゃないことなんだもん。そんな方法でフレドを奪った女なんて思われたくないし。
けど、リンジーちゃんに結婚するようなつもりがないなら、あたしは明日にでもフレドと結婚させてもらうから。だってあたし、フレドが好きで仕方がないんだもん。初めて意識した男の人で、昨日も、今日も、あたしのために出来ることをなんでもしてくれた。そんな、最高の恋人だから」
今は平日の昼間。しかも奥まったところにある人気のない公園。アイリの言葉を聞いていたのは僕とリンジーさんだけのはずだけど、僕は顔が熱くなっていくのを止めることは出来なかった。リンジーさんもまた、呆気に取られている。果たして、今まで軍人として生きていた彼女が、ここまで熱烈な言葉を聞いたことはあったのだろうか。いや、考えるまでもなくそんなことはないはずだ。いくら海軍の海上生活が、自然と家族のような雰囲気を作り出すものであったとしても、男性ばかりの海軍の中で、こういう言葉が公然と語られることはないだろうから。
「わ、私は、その」
あのリンジーさんが、うろたえている。ここに彼女の部下や、もっと言えばお父上がいなくてよかった、と我がことのように思えてしまった。まさか彼女のこういう一面を目撃することになってしまったなんて。軽い……いや、かなり重いショックだ。
「フレドさんのことは、友人の一人として親しくさせてもらおう、とは思っています。ですが、婚約は父がほとんど独断で決めたもので、父も今はおりませんし、その拘束力は消えているものだと考えます」
必死に平静を取り繕おうとする彼女は、しかし、まるで優柔不断な伝令のようにしどろもどろ、玉虫色の発言をしようとしてしまっている。そして、そんな言葉でアイリが満足するはずもない。
「じゃあつまり、フレドとは結婚しないの?」
「け、結婚、ですか。まだ私は、そういう大人なことには、頭が回らなくて……」
「将来的にするつもりはあるってこと?」
「未来は不確定であり、全ては神のみぞ知ることですから、今の私にはなんとも。ただ、その、えっと……」
「どっちなのかはっきりして!結婚したいんなら、それでも良いから」
――かの大佐は、奥さんにだけは頭が上がらなかったと聞く。その理由は、ある名家から嫁いで来たその人が、異常なまでに頭の切れる人で、理屈では大佐が相手にならなかったことと、とにかく気が強かったからだ、と一人の海兵が噂していた。
アイリは筋道立てて相手を論破するような力は不足しているかもしれないが、パッションと押しの強さ、そして主として同性に向けられる気の強さは本物で、女性との交流が少なかったと思われるリンジーさんには、驚異以外の何ものでもなかったことだろう。
「アイリ、も、もういいよね。リンジーさんは仕事に集中しているし、本当にまだ十八になったところで、結婚云々の話は早いんだ。……でも、リンジーさん。僕とアイリが結婚したとしたら、祝福をしてくれますか?」
少しずるい聞き方のような気はした。でも、どこか亡き父親への遠慮があって、はっきりとは婚約をなしにする、とは言えない彼女には、遠まわしに言ってもらう方が良いと思った。アイリに任せていたら、その体を揺さぶってでも「吐かせて」しまいそうな勢いだったし。
「はい。きっと、お祝いをさせてもらいます」
「ありがとう。……アイリ、これで良いよね」
「ま、まあね。もしフレドと結婚したいです、なんて言っても、許すつもりなかったけどっ」
「さっきと言っていることが違うじゃないか。嫉妬深いなぁ、意外と」
本人が言ったようにこれが初めての恋愛で、とにかく一途な彼女なので、無理もないけれど。
「えーと、じゃあ、そういうことで。でもリンジーさん、僕達がもう一両日の間にも結婚するとか、そういうことはないからね」
まだアイリは少しむすーっとしているけど、僕の方で話を進めて、今度こそリンジーさんと別れることとなった。
大佐の亡くなったショックは、元気な姿でいるその忘れ形見と出会えたことで、かなり薄れて来た。あの人の精神を引き継ぎ、新しい時代を担っていく偉大な提督……その卵がこうして生きていてくれている。そう思うと未来は安泰に思えて、ほっ、と溜め息が出る気がした。
「ほら、アイリも。もう良いでしょ」
「うん……。なんかごめんね、じゃあ、また」
「ありがとうございました。どうかお二人が仲睦まじく、幸せでいられますようにお祈りさせてもらいます」
「むっ、何それ、嫌み?」
「ち、違いますっ。……フレドさん、私、そこまでアイリさんに嫌われるようなことをしてしまいました?」
「え、ええ。そ、そんなことはないよ」
……別れる時になっても、アイリはリンジーさんへの嫉妬、あるいは対抗意識を払拭しきれず、リンジーさんは怯えたような困り顔になってしまった。でも、彼女のこんな姿は歳相応の素の少女のものに見える。いつも軍人として肩肘張っているのだから、年上の女性にいびられ、萎縮してしまうこの体験は、案外彼女にとっても良い気分転換になったのかもしれない。
いや、思わずして彼女をびっくりさせてしまった身としては、そうとでも考えないと申し訳なさで倒れてしまいそうだ。
「アイリ。そんなにリンジーさんのことが気に入らなかったの?」
白い軍服の影が消えてから、きちんとアイリに聞いておく。本気で彼女に説教をしたくはなかったけど、触れないでいる訳にもいかない。
「だって……フレドがこのままあの子に取られそうで、怖かったんだもん。あたしよりずっと奇麗だし、頭いいし、人生勝ち組って感じだし、婚約だってあるし…………。本当、怖かったんだから」
「……そっか。ごめんね、心配させちゃって」
どうせ誰も見ていない、これぐらいは良いだろう。そう思って彼女を抱き寄せ、その頭の上にぽん、ぽん、と手を置いた。
昨夜の事件から完全に立ち直れていない彼女は、まだまだ心が不安定なはずだ。そこに古い婚約者の登場という体験は、決して看過することの出来ない重大な出来事に思えてしまったのだろう。多少ヒステリックになって、問い詰めてしまうのもわかる。
「いいの。でもあたし、やっぱり酷いことしちゃったよね。嫌な、女だよね……」
「大丈夫だよ。失敗を認めて、きちんと反省することが出来るのなら。明日、彼女の宿へ一緒に行こう。一日挟めば、素直に謝れるでしょ?」
「うん……。たぶん」
「じゃあ、それでいいよ。リンジーさんもきっとわかってくれる」
アイリの声は少しこもっていて、泣いてしまっているようだった。もしかすると、泣き顔を僕以外に見られまいという、虚勢で暴走してしまっていたのかもしれない。そうだとしたら……。
不器用でいじらしい彼女を、僕はより強い力で抱きしめていた。途中、もう小さな子どもは学校が終わったのだろうか。一瞬だけその元気な声が聞こえた気がしたけど、すぐに遠ざかっていった。
見られてしまった、な。
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僕主人公というのも、レアいと思います。これもまた初期以来かな | ||
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黄金の翼と銀の空 | ||
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