フィクションダイブ
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1.

「ライトノベルの世界へ行ける装置を発明した」

 田中にそう言われ、五十嵐は思わず飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。

「な、何だって?」

 喫茶店中の奇異な視線を集めながらも、茫然とした表情で五十嵐は言う。

「だから、ライトノベルの世界へ行ける装置を発明したと言っている」

 田中は、自身の腹に付着したコーヒーの飛沫をハンカチで拭いながら、もう一度言った。

「う、嘘だろう?」

「嘘じゃない。まぁ正確には、小説の世界へ行ける装置だが」

「た、確かにお前は四六時中妙な研究をしているが」

「そう、四六時中研究に没頭したからこそ、おれは発明する事が出来た。“フィクションダイブ試作型”をな」

 ハンカチを白衣のポケットにしまいながら、平然と田中は言った。

「ふぃ、何だって?」

「フィクションダイブ試作型だ」

「何だそれは?」

「件の装置の名称だ。虚構に潜る。そのまんまの意味さ」

「あぁ、そう……」

 もう一滴もコーヒーが入っていないカップをかき混ぜながら、五十嵐はじっと田中の表情を見た。真剣そのものだ。嘘を言っているようには見えない。

「……で、そんな情報をどうしておれに? もっと行くべき場所があるだろ。ほら、研究所だとか、特許庁だとか」

「単刀直入に言えば、お前にモニターをやって欲しいんだ」

 じっと五十嵐の目を見据え、田中は言った。

「モニター?」

「要は試験使用だな。おれも研究所に持っていきたいのは山々なんだが、どうせならより完璧な状態にしておきたい。そこで、お前にフィクションダイブを試験的に使って欲しいんだ。形にするまではおれ一人でも何とかなったが、やはり細かいバグは客観的な視点が無いと潰せないからな」

「ふむ、なるほど」

 ――これはうまい話が回ってきたもんだ。根暗なこいつとの交流を保った甲斐があったぜ。

 曖昧に頷きながら、五十嵐は腹の中でガッツポーズをした。

 いわゆるオタクであり、現実世界に不満しか持っていない人間でもある彼は、前々から虚構の世界へ逃げ込みたいと本心から思っていたし、また何度もそれを公言していた。

「どうだ? お前はライトノベルとかが大好きだろう。それに、報酬も出世払いで保証する。この技術ならば、おれの成功はほぼ確実だ。きっと、それなりの額を提示できるだろう。……悪い話ではないと思うが?」

 田中は、改めて五十嵐の目を見つめた。

 無論、五十嵐の答えは報酬が何だろうと既に決まっていた。むしろ、フィクションダイブを使用できること自体が報酬のようなものだ。

「わかった、引き受けよう」

 そして二人はガッチリと握手を交わした。

 

 早々に会計を済ませると、二人はフィクションダイブがある田中のアパートへと向かった。

 ――何だこりゃ……。

 五十嵐は田中の部屋へ入った途端、思わず周囲を見渡した。

 彼の部屋は、一言で言えば凄惨だった。様々な用途不明の機械が積み重なって窓を塞いでいるため、真昼なのに薄暗く、ろくに掃除もしていないのか、呼吸が困難なほどに埃が空間を支配している。また、床には分厚い本があちこちに散らばっていて、少し気を抜けば足を取られてしまいそうだった。

 茫然自失状態の五十嵐を尻目に、田中は壁のスイッチを押し、電灯を付けた。薄暗い部屋が一転、眩しいほどの光と煙のような靄に支配される。それは、この場にある埃の量がいかに凄まじいかを如実に表していた。

 ――まさに変人の部屋だ。

 そう思いながら、五十嵐はハンカチを口元に当てた。このような部屋でまともに息を吸い続ければ、あっという間に悪い病気を患うに違いない。

「これが、フィクションダイブ試作型だ」

 田中は角に置かれた一つの機械を指さした。大きめのフルタワー型パソコンといった外観で、背後からは数本の電極らしきケーブルが伸びている。

「思ったより、地味なデザインだな」

 もっと大がかりな、SF映画に出てくる巨大端末のような物を想像していた五十嵐は、少しだけ拍子抜けした。

「デザインなんかどうでもいいだろう。おれの領分じゃない。それより、早速始めるぞ。まずはこの作品からだ」

 そう言って、田中は戸棚から一つの文庫本を取り出した。タイトルは、“とある学園の恋物語”とある。

「おぉ」

 思わず、五十嵐は声を漏らした。

 “とある学園の恋物語”は、少年少女の恋愛を描いた学園ラブコメライトノベルだ。古い作品だが、プロット、文章、挿絵と、どれをとっても一級品で、希代の名作としてオタクたちに語り継がれており、また昨今の美少女ブームの旗手とも言われている。

「“ある恋”の世界に入れるのかぁ」

 感極まったのか、五十嵐はブルブルと体を震わせた。彼がオタクの道に走ったのは、この作品の影響が大いにある。

「妙な誤作動が起こらなければな。さて、さっさと進めるぞ。お前はあっちの椅子に座ってくれ」

「おう」

 五十嵐は、田中に指示された通り背もたれ椅子に座った。当然埃まみれだったが、今はそんなことを気にかけるよりも、早く“とある学園の恋物語”の世界へ行きたいという気持ちの方が勝っていた。

 田中はその様子を確認すると、フィクションダイブから伸びた五本の電極を、それぞれシールのような物で五十嵐の頭部に取り付けた。

「これで準備万端だ」

「たったこれだけでもう良いのか?」

「そうだ。人間が外部から受けた情報は、全て最終的に脳の前頭葉に行き着き処理される。これはつまり、脳に直接情報を送り込むだけでも、十分五感は作用するということだ。今取り付けた電極は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に対応していてな。これによって脳を刺激することで、それぞれの感覚器官が実際に刺激を受けたのと同じように、脳を錯覚させることが出来る。

 で、脳に与える情報はフィクションダイブによって制御されるから、結果、お前は小説の世界を実際に目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で触れ、体中で体感することが出来るんだ。いわゆる、人工感覚技術の延長だな」

「すまんがよく意味がわからない」

「まぁ、要はその電極を頭に付けるだけで虚構の世界へ行けるってことだ。本来は網膜や蝸牛に電極を埋め込まなければならないんだが、そんな面倒な事をせずに済むようおれが独自の技術を開発した」

「そ、そうか」

 何から何まで無茶苦茶な奴だと五十嵐は思ったが、自分に理解不能な分野について深く考えても不毛なだけだとすぐに思い直し、とりあえず納得したフリをしておいた。

「じゃあ、お前は目を瞑ってそこに座っていてくれ。あとはこっちで操作する」

「あぁ」

 頷いて、田中に指定されたアーロンチェアに座り、五十嵐は瞼を閉じた。

 しばらくして、田中がキーボードとマウスを操作する音が聞こえてくる。その音を聞いている内に、真っ暗だった視界の中へ次第に虹色の渦が混ざり始め、更には重低音と悲鳴のような高音の混ざった耳鳴りが五十嵐を襲った。渦は二個四個八個と無限大に増殖していき、耳鳴りは徐々に大きくなって彼の脳髄を激しく揺らす。

 あまりに非現実的かつ終末的なありさまに、五十嵐は段々と恐怖を覚え始めたが、次の瞬間その感情は泡となって消え失せた。

 彼の意識が途切れたのである。

 

 涼しげな風が淡く流れ、草の香りが五十嵐の鼻孔をくすぐった。毒々しい排気ガスや、人間の生活臭の混ざっていない、純粋な草の香り。それは、彼が初めて嗅いだ種類の匂いだった。

 耳には、風が木々や草を揺らす音や、ウグイスのさえずりが不規則なリズムで伝わってくる。あとは自分の呼吸音以外、何も聞こえない。自動車の暴力的な騒音や、工場の稼働音、人々の会話、そういった物からは全て切り離されている。聞こえてくるのは、春の朝の声だけだ。

 ――ここは、いったい?

 大自然の息吹を全身に感じながら、五十嵐は閉ざされた瞼を開けようとした。しかし、どういう訳か開かない。それどころか、体中が五十嵐の命令に刃向かい、指一本動かすことができなかった。まるで、金縛りを受けたようだ。

 ――どうなっているんだ?

 五十嵐が頭の中で疑問符を乱舞させていると、遠くから草を踏む音が微かに聞こえた。その音は徐々に大きくなってゆく。誰かが、彼の元へと近づいているのだ。何が何やら理解できず、五十嵐は正体不明の者への警戒心を募らせるほかなかった。

 足音が、近くで止まる。五十嵐は生唾を飲み込む……はずだったが、たったそれだけの動作も不可能だった。とにかく、肉体と精神が合致しない。心はこれだけ緊張しているというのに、体は冷や汗の一滴すら流していなかった。

 そのとき、五十嵐の瞼がようやく開いた、いや、何者かの力により強引に開かれた。白い光が網膜に突き刺さる。彼は最初、それを正体不明の人物によるものだと思った。しかし、それは思い違いであった。何故なら、誰も彼の瞼に触れていないのだ。

 ――何が起きている?

 五十嵐は、自分の体を乗っ取っている奇妙な存在を理解しようと、必死に頭を回した。……しかし、その思考は眼前の真っ白な光へ鈍感になるにつれ、頭の中から吹き飛ばされた。

 何故なら、彼の目の前に広がる光景は、“絵”だった。

 仰向けに寝ているのか、正面には白と青が混ざった鮮やかな空が見える。ただしそれは、今まで親しんでいた世界の色とほど遠い。現実世界の空と違い、極めて単調な色数の空が視界一杯に広がっているのだ。つまるところ、世界全てがアニメの絵としてデフォルメされている。

 ――これは、もしかして“ある恋”の世界に来たってことなのか。

 目の前の異常事態を認識することで、ようやく五十嵐はそのことに感づいた。

 ――そうだ、思い出したぞ。“ある恋”のプロローグは、主人公が平原で寝ている中、幼馴染みのヒロインが起こしに来るシーンから始まるんだった。ここは、その平原に違いない。何故なら、“ある恋”の舞台は田舎の山奥の学校だ。空気が澄んでいて車の音ひとつ聞こえないこの場所は、その世界観に合致している。となると、おれは主人公の“宇須瀬(うずせ)純人”に憑依しているということなのか。そして、さっきの足音の主は、ヒロインの“日下部琴美”か。

 五十嵐がそう推測すると、彼の体は自動的に起き上がった。宇須瀬純人に憑依していることを理解した今、もうそのことに疑問は抱かない。精神と五感が存在しても、彼の肉体を操作するのは宇須瀬純人というキャラクター、いや、この世界の物語を作り出した作者なのだ。

 視界の先に、日下部琴美の姿があった。可愛らしいセーラー服を着ている。瞳が異常に大きく、髪は藍色という現実世界ではビジュアル系ロックバンドぐらいしかしていないような色だ。しかし、全てがアニメ絵となっているこの世界では、不思議と違和感がない。むしろ、ショート気味のヘアスタイルとよく似合い、愛らしさを演出しているようにすら見える。

「もう、純ちゃん遅刻しちゃうよ?」

 日下部琴美は言った。その声が、日下部琴美役はこのキャスティングしかないと、五十嵐が日頃妄想していた声優のものだったので、彼は驚いた。“とある学園の恋物語”は、原作者の強い要望からアニメ化していないはずだった。

「うるせぇなぁ……」

 強制的に、五十嵐は台詞を喋らされた。右手が無理矢理に動かされ、後頭部を掻く。顔面が突然妙な具合に歪んだ。恐らく、あくび顔だ。

 ――これは、何とも居心地が悪いな。

 俺は寝ぼけ眼で辺りを見回す。

 ――ん?

 視界一杯に原っぱと青空が広がっていた。ウグイスも合唱している。

 ――何かおかしいぞ?

「なんだ、まだ朝じゃないか」

 不快感たっぷりに俺は言った。

「まだって……純くんまさか前みたいに夜までここで寝てるつもりだったの!? 学校遅刻しちゃうよ〜!」

 いつも通り、琴美が騒ぎ出す。

 ――し、思考が……。

「はっ! 学校なんて一度や二度無断欠席しても問題ないだろ。むしろ、箔が付くってもんよ」

「何の箔さ!?」

 ――乗っ取られる……。

「わかったわかった。お前がいたら、ゆっくり眠ることもできねぇ」

 盛大にため息を吐き出しながら、俺は大儀そうに立ち上がった。

 ――待て……。

「寝てちゃ駄目なんだってば!」

 俺は琴美のお節介を華麗に流しながら、学校へ向かって歩き始めた。

 ――俺は琴美のお節介を華麗に流しながら、学校へ向かって歩き始めた。

 

(原稿用紙六百枚ほど省略)

 

「琴美……」

「純ちゃん……」

 ――俺と琴美は、淡い光の中で静かに口づけをかわした。

 

2.

 五十嵐が瞼を開けると、そこは田中の部屋だった。長い時間眠った時のように、体中を異常な倦怠感が支配している。

「戻ってきたか」

 田中の声が聞こえる。

「え、ここはいったい……?」

 茫然自失状態で五十嵐は周囲を見回した。とりあえず、自分が椅子に座っていて、頭に何か付いているのは理解できる。しかし、その経緯がよく思い出せない。そもそも、周囲の景色が異常だ。

 ――おれは、琴美とキスをしていたはずだ。

「ふむ。その様子だと現実世界に対して違和感を持っているようだな。なるほど、アニメーション世界に長時間いると、そんな副作用が出てくるのか。良い実験結果が取れたよ。ご苦労さん」

 フィクションダイブ。その単語を聞くことによって、ようやく五十嵐は今までいた世界が虚構で、今いる世界が現実なのだと認識した。

 ――しかし、これは、何というリアリティだ。いつの間にかおれは、あっちの世界こそが現実なのだと思いこんでいたじゃないか。自分の名前すら忘れていた。“ある恋”の世界にいる間、おれは宇須瀬純人という人間なのだと、何の疑問も抱かずにいたじゃないか。

 五十嵐は、フィクションダイブが予想以上に高性能だったことに歓喜した。主人公の追体験しかできないという点には不満がある。しかし、これだけの臨場感が得られるのならば、その程度の欠点など取るに足らない。いや、そもそも考え方を変えれば欠点ですらない。何故なら、主人公というのは大抵の物語において最も美味しいポジションなのだから。

 次はどのような物語の世界に入ろうか。早速、五十嵐の頭はそのような思考で埋め尽くされた。

「さて、疲れたろう。待ってろ、今アイスコーヒーでも入れてやる。何せ、十時間も向こうの世界へ行っていたのだからな。外はすっかり真っ暗だ」

 田中は、無造作に積まれた機材の間を縫って、台所へと向かった。

「十時間だと!?」

 五十嵐は驚倒して叫んだ。予想以上に長時間だったからではなく、その逆だ。作品内での体感時間と比べて、実際の経過時間があまりにも短すぎるのだ。

「まぁ、そんなものだろう。あの頁数なら。今までのフィクションダイブの実験結果と比較して、長くも短くもない。大体平均値と同じ程度だ」

 冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーをカップへ入れながら、田中は言った。

「そうじゃない。おれが“ある恋”の世界で過ごした時間は、作中と同じ一ヶ月ほどだったはずだ」

「何だ、そんなことか」

「そんなこととは何だ。何がどうなっているのかさっぱりだ。あれはタイムマシンの機能も持っているのか?」

 五十嵐が言うと、田中は苦笑した。

「タイムマシンなんて出来ていたら、おれは今頃さっさと未来へ飛んでるよ」

「じゃあ、いったいどういうことなんだ」

「事実は極めて単純だ。フィクションダイブが、全ての文章をお前の脳で再生し終えるまで、十時間必要だったというだけだ。ほら、コーヒーだ」

 五十嵐は、田中からアイスコーヒーを受け取る。カップが埃でかなり汚れていたが、五十嵐は気付かなかった。

「しかし、それじゃあおれの体感時間の説明がつかない」

「だったら聞くが、お前は向こうでの一日一日の細かい出来事を覚えているのか? 覚えてるのは主要な、物語に関わるエピソードだけで、その他のどうでもいい日常は覚えていないんじゃないか? 体感した気になっているだけで」

「そう言えば、そうだな……。だけどそれは現実でも同じだろう。どうでもいい日常はすぐに忘れる」

「つまりはそれが答えだ。おれたちが取るに足らない、何も起こらなかった一日をすぐに忘れるように、フィクションダイブ内でも、文脈の中に隠された真の日常はあっという間に過ぎる。これは文脈の中というのがポイントでな。文章力の拙い小説だと、場面場面の切り替えが余韻もなく一瞬で行われ、頭がひどく混乱する。お前が一ヶ月も経過したと思っているのは、“とある学園の恋物語”の文章がそれだけしっかりしていたということだろう」

「ふ〜ん。じゃあ、フィクションダイブはおれたちが読書している時に浮かべるイメージを、より具体的に再生しているだけなのか」

「そんなところだ。だから、オタクであるお前の場合アニメーションとして再生された。おれの場合は実写だったんだが、主に口調に違和感がありすぎて、最後まで地獄だったぞ」

「何だ、お前もやったのか。まぁそりゃ、アニメの演出を実写にそのまま持ってきても、出来上がるのは悪臭塗れの異物だけさ。最近は、それを理解していない作品もたまに見るが。しかし仕組みがわかってくると、このフィクションダイブというのも大したことなく思えてくるな」

「いや、そうでもないぞ? まだまだ未知の機能は……。と、いや、まぁ、そんなことはお前には関係ないか。ところで、そのコーヒーは口に合うかな?」

「ん? まぁ、少し苦いが美味いぜ」

 何かをごまかされたように感じながらも、五十嵐は言った。

「すまんな。我が家のコーヒーはかなり濃いブラックなんだ」

「ブラックは特に苦手じゃないはずなんだが……。ん、ちょっと眠くなってきたぞ」

「まぁ、フィクションダイブをあれだけ継続使用すれば、結構体力を消耗する。今夜はここに泊まっていけ」

「あぁ、悪いな……」

 そう言うやいなや、五十嵐は椅子に座ったまま深い眠りについた。

 

「実験体は確保できました。もう、こっちへ来ても大丈夫ですよ」

 五十嵐が眠ってしばらく経った後、田中は携帯電話に向かって言った。

「えぇ、えぇ。はい。それじゃあ、お願いします」

 丁寧に言い終えると、田中は通話を切った。

 ――あの睡眠薬、予想以上に効いたな。

 頭に電極を付けたまま、椅子に座ってだらしなく眠りこける五十嵐を見て、田中は思った。彼は、粉々に砕いた睡眠薬の錠剤を、五十嵐に渡したコーヒーの中へ密かに混ぜていたのだ。

 ――しかし、何という単純な男なのだろう。脳に関わる機械を使用することに、大抵の人間は拒否反応を示すと思うのだが、こいつの場合はどうだ。喜んでおれの依頼を引き受けた節がある。そこまで虚構の世界へ行きたいのか。しかしまぁ、その単純な性格のおかげで、簡単に実験体を手に入れることができたのは素直に喜ぶべきか。何しろ、これからする実験は、危険か安全かもわからない、全くの未知数な物だからな。こうやって、半ば無理矢理に確保する以外、実験体は得られなかっただろう。

 その機能は、つい数日前に実装された。

 フィクションダイブは、既に完成された物語の情報を脳に送るのが、主な機能だ。ならば、未完成の物語を読み込ませるとどうなるか。その実験の結果は極めて単純で、書かれた部分まで読み進めると、そこで強制的に終了するという面白みのないものだった。しかし田中の好奇心はまだ終わらない。これから彼が実験を試みる機能は、その飽くなき探求心の果てに実装されたのだ。

 三十分ほどして、チャイムの音が鳴る。

 ――ようやく来たか。

 田中は、ため息をついてから玄関のドアを開けた。

「やぁ、遅くなって悪いね」

 そこには、体中にもれなく脂肪を付けた、狸のような中年男が立っていた。

「いえいえ、問題ないです神崎先生」

 会釈すると、田中は神崎という名の中年を室内へ入れた。

「何だこの汚らしい部屋は」

 埃と機材まみれの部屋を見回し、神崎は唖然とする。

「いやはや、どうも面倒くさがり屋な性分でして」

 ――脂で光った貴様の顔面よりはマシだろう。

 田中は、神崎を心の中で罵倒した。利用するために口調こそは丁寧だが、彼はこの中年男のことをこれっぽっちも尊敬していない。むしろ、知能の未熟な人間として完全に見下していた。

「それより、早速始めましょう」

「うむ。既に構想は練り終えてある。いつでも書き始められるぞ。わっはっはっは」

 神崎は唾を飛ばして豪快に笑った。彼は、ライトノベル作家の一人で、田中の実験を手伝うために、今回ここへ来たのである。

「えぇ、期待しております。パソコンはあちらにあるのを使って下さい。既にフィクションダイブと接続しておりますので」

「うむ。……ん、あそこにおるのが実験体か。あっさり捕まるだけあって、間抜けなツラをしているなぁ。わははははは」

「そうですね」

 ――貴様の馬鹿面っぷりも負けていないがな。

 なかなか作業を始めない神崎に、だんだん田中は苛立ちを感じ始めていた。

「いやはやしかし、このような実験の手伝いを出来るとは、光栄だぞ田中くん。君は人を見る眼がある。私の本の価値がわからない大衆と、君のような天才はやはり違うのだなぁ。がっはっはっはっは」

「えぇ、まぁ、以前より先生の作品は注目していたので」

 ――誰が貴様の本など読むか。そもそもこんな俗物に実験を依頼したのだって、おれの人脈の薄さと実験内容の怪しさから、貴様のようなロクに売れない暇な作家しか捕まらなかったからだ。

「先生そろそろ実験の方を」

 ――さっさと書き始めろこの脂豚め。

「そうだな。無駄話をしていては、大切なアイディアが消えてしまう」

 ようやく、神崎はパソコンデスクの前に座った。

「しかし、こんな所で執筆をしてどうするんだ? 余所で書いてきた原稿を渡すだけじゃ駄目なのか?」

「実験のためです」

 ――あらかじめ実験内容を伝えておいただろうに。

 舌打ちする衝動を堪え、田中は改めて実験について説明を始めた。難しい学術用語がどんどん飛び出し、神崎の右耳へ入り左耳から虚空へ消えてゆく。

「全く訳がわからん」

 眠たそうに目を擦りながら、神崎は言った。

「要するにですね」

 ――まぁ、こんなアホ狸に理解できたら、おれはとっくに仕事を失っているか。

 田中は苛立つ心を無理矢理に抑える。

「リアルタイムで執筆される物語のテキスト情報を、フィクションダイブで実験体の脳へ送ったらどうなるか。私はそれが観測したいのです」

 

3.

 五十嵐が目を覚ますと、周囲はアニメ絵にデフォルメされた平原だった。

 ――あれ? またフィクションダイブを使ったんだったか? しかし、そんな記憶はないぞ。

 不思議に思いながら起き上がったところで、彼は驚いた。体が、自分の意志で動くのだ。体全体の一挙一動に何の制限もかからない。

 ならばここは現実世界か? そう思っても、周囲の景色の異常さからしてそれはありえない。本物の草や風の香りがしながらも、目に入る映像がアニメの絵なのだ。それは、ここが現実世界でないことの絶対的な証だった。

 五十嵐は呆然としながらも辺りを見渡した。よく見れば、ただの平原と思っていた周囲の景色も何処かおかしい。五十嵐がいる場所はごく普通の平原なのだが、それは半径十メートルほどで終わっていて、その先は畑が円周状に地平線彼方まで続いている。また、空は虹色に染まっており、そこからは白い光を放つ玉のようなものが、雪の如く降り注いでいた。“とある学園の恋物語”のプロローグで見た平原とは、見た目だけでなく雰囲気も全然に違う。

 ――ここはいったい、何処なのだ。何の作品の世界なのだ。

 記憶をいくら探っても、このような不思議な場所が出てくる作品は思い出せない。あるいは知らない作品なだけなのか。いずれにせよ、五十嵐は自分がこの世界にいる理由が全くわからなかった。

 その時、前方へと続く畑の中に淡く影が見えた。影はだんだんと大きくなり、おぼろげにシルエットが人型へ変移してゆく。何者かが、五十嵐の元へと近づいているのだ。彼は一応警戒したが、ここがどういう世界なのか聞くチャンスだとも思った。

 しかし、数分後にその思考は明後日の方向へと投げ出された。人影の主は見覚えのない美しい少女だった。そして彼女は、何故か裸だった。衣服らしき物は何も纏っていない。

 ――お、おいおい……。

 目の前に裸の少女がいるというシチュエーションが初めてな五十嵐は、驚倒してまともに彼女を見ることもできず、目線をそらす。会話する意志など当然消え失せていた。

 そんな五十嵐を見て、少女は訝しむ。そして、口を開いた。

「あんた何をやってるの? もしかして、まだ神の虚構世界にいると勘違いしてる? だったら安心なさい、もう元の世界に戻ってるわよ。まぁ、この平原にいるってことは、すぐにまた虚構世界へ行かないといけないけど。お互い大変よね、人気のある属性持ちは」

 五十嵐は、彼女の言っていることが理解できなかった。

 ――あいつはいったい何を言っているんだ? 元の世界? ここが? ふざけているのか。

 そんなことを思っている五十嵐を尻目に、少女は更に言葉を続けた。

「最近は何故か神々の間で美少女地区が流行ってるから、私もキツイのよね。まぁ、そのおかげで種子がいっぱい貰えるのだから文句は言えないけど。そういえば、あんたはどういう属性持ってるの? 見たところ、普通の男にしか見えないけど」

 少女は五十嵐の体をジロジロと見回した。それにつられて、思わず五十嵐も自分の体を見回す。彼はまたしても驚いた。自分も全裸だったのだ。

 ――え、ちょ、ちょっと待った。

 慌てて胯間を少女の目から両手で隠す。そんな五十嵐の様子を、再度少女は訝しんだ。

「だから、何で恥ずかしがるのよ」

「当たり前だろ!」

 ようやく五十嵐は言葉を発した。少女は絶句する。

「当たり前って……あんた頭どうにかしちゃったの? 恥ずかしがる必要があるのは、衣服の文化がある虚構世界だけでしょう。私たちはいつもここでは裸が普通じゃない」

 五十嵐の頭はますます混乱した。

 ――おれは登場人物がみんな裸族の世界に来てしまったのか? しかし、そんな作品は聞いたことがない。だいたいこいつは日本人の顔をしているじゃないか。

「おい、ここはいったいどういう世界なんだ」

「どういう世界って……。あ、もしかしてあんた記憶を失ったクチ? たまにあるのよねぇ、過激な世界へ行った作物がショックで記憶を失うのって」

「はぁ?」

「わかったわかった。だったら私が少し説明してあげるわ」

「……あ、あぁ、頼む」

 話の内容は意味不明だったが、この世界について知るチャンスだと思い、五十嵐は頷いた。

「ここはね、神々にはキャラクター畑と呼ばれているわ。私たちの故郷であり、子孫が生まれる場所でもある」

「キャラクター……畑?」

「そう。神々はね、この畑の作物、つまり私たちを使って虚構世界を作り上げるの」

 そこまで言われて、ようやく五十嵐はこの世界が何なのか理解した。

 ――つまりは、ここは何かの物語の世界じゃない。あらゆる物語の基礎となる、登場人物が作られる場所なのか。彼女の言う神々は物語の作者で、虚構世界は物語の世界を示すのだろう。しかし、どうしてそんな所へおれは来てしまったのか。

 いくら考えても、その答えは出なかった。

「私はあの先にある美少女地区出身なの」

 そう言って、少女はさきほど自分が歩いてきた方角を指さした。

「名前はツンデレ美少女ナンバー72と言うわ」

「ツンデレ美少女ナンバー72?」

「そう、ツンデレの属性を主にした七十二番目の美少女畑の作物だから、ツンデレ美少女ナンバー72。他にもツインテールの副属性を持っていてね、何だか最近この組み合わせが流行ってるみたいで、しょっちゅう神々に使われて大変よ」

 確かに彼女の髪型はツインテールで、言われてみれば色んな作品でそういうツンデレ少女を見るなと五十嵐は思った。しかし疑問点はある。彼女のような顔をした登場人物の絵は、見たことがないのだ。

「お、何か思い出してきたぞ。そうだ、おれも色々な虚構世界へ行った。そこで様々な美少女畑の作物も見てきた。しかし、君のような作物は見覚えがないのだが」

 五十嵐は微妙に嘘をついて情報を引き出すことにした。自分が彼女の言う神々がいる世界出身の人間だということは、伏せておいた。逆にこちらが色々と聞かれるハメになりそうだったからだ。

 ツンデレ美少女ナンバー72はため息をついた。

「肝心のところは覚えていないのね。そりゃ、見たことないのは当たり前でしょう。顔なんて、神々の手で微妙に変えられるし、更に一つの虚構世界ごとに違う衣装を着させられれば外見は全くの別物になるわ。何でか知らないけど、神は自分以外の神が既に使用した作物を物凄く嫌っていてね。でもここで採れる作物の量なんて限られているから、苦肉の策として大抵の神はそういう小細工をするの。まぁ根本の属性は変わっていないから、誰でもよく見れば中身は同じだとわかっちゃうんだけどね」

「しかし、それだと君みたいな人気の属性持ちは大変じゃないか? あっちこっちの虚構世界で使われるんだろう?」

「そう。とても私一人の体じゃもたないわ。だからこそ、あの種子が重要になってくるの」

 言って、彼女は空を指さした。相変わらず白い光を纏った玉が絶え間なく降り注いでる。

「あの玉が、種子?」

「えぇ。種子はね、神々の世界で称えられた属性の畑へ降ってきて、その作物を繁栄させる力を持ってるの。そうすれば、私と同じ属性を持った作物が大量に実るから、私一人であっちこっちへ行く必要は無くなるわけ。それに、大量に実った作物は当然人一倍畑の中で目立つから、その属性は神に使われやすくなって、ますます栄えていく。私たちは、そういう風にこれまで子孫を残してきたの。そしてそれこそが私たちの生きる意味よ」

「なるほど。しかしそうなると、一番最初はどうなるんだ?」

「一番最初?」

「ほら、初代のことだよ。君の言うことが本当なら、属性の一番最初の作物はどうやって実るんだ」

「あぁ、ナンバー0のことね。滅多にないことなんだけど、それは天才と呼ばれる神によって特別に作られるわ。大抵は目立つことなく他の属性の作物に埋もれちゃんだけど、上手く栄えれば、物珍しさか、まだ広まっていないうちに独占したいのか知らないけど、見栄っ張りな神々がどんどん拾っていって、一大属性になる。まぁ、もう十分栄えたツンデレ属性の畑の者としては、そういうのは厄介な存在だわ。下手をすれば、せっかく築き上げた繁栄が地に落ちちゃうし」

 ツンデレ美少女ナンバー72は苦笑した。

 その時、二人のそばに一人の少女が現れた。彼女は可愛らしく二人へ挨拶をした。

「ヤンデレ美少女ナンバー21ね。最近目立ってきた、中々に強い属性よ」

 ツンデレ美少女ナンバー72は、五十嵐に解説をした。それから次々に少女が五十嵐たちの元へ現れ始め、一人一人彼女は紹介していく。

「高飛車美少女ナンバー65よ。虚構世界ではお嬢様やお姫様ばっかやってるわ。

 あれはドジッコ美少女ナンバー59よ。メイドみたいな従者をやるのが多いみたい。

 世話焼き美少女ナンバー80だわ。幼馴染みといえばこの作物と言われるくらい、神々に好かれているわね」

 このような感じで少女はどんどんと増えてゆく。結果、五十嵐の周りにはツンデレ美少女ナンバー71を含め、八人の少女が集まった。

「何だか多いわね。この神はいったい何を作るつもりなのかしら」

 五十嵐への説明に疲れたのか、ツンデレ美少女ナンバー71は若干息切れしながら言った。

 少女がまた一人やってくる。五十嵐は、その少女の姿を見て若干血の気が引いた。ぽっちゃりと言うには無理のある体型。つり上がった目尻。異様に大きな丸鼻。見るからに汚い髪。頬から伸びたよくわからない一本の長い毛。と、醜いという言葉以外に表現できないような容姿なのだ。

「彼女はツンデレ美少女ナンバー85ね」

 ツンデレ美少女ナンバー71が説明する。それを聞いて、五十嵐は呆然とした。

「美……少女? というか、あれもツンデレなのか」

「そう、私と同じ畑の出身者よ。でも見ての通り、神々の小細工じゃ修正できないほど見た目が悪いから、虚構世界でもロクな役目が貰えなくてね。そのせいでストレスでもためたのか、最近ますます容姿が悪くなってるわ」

 彼女の声色には明らかに嘲笑が混じっていた。五十嵐は、虚構世界のキャラクターたちも色々と大変なのだなと思った。

 その時、五十嵐と少女たちを突然眩い光が覆った。

「この光が来たということは、これでようやく役者は揃ったってことね」

 ツンデレ美少女ナンバー71は言った。

「え? ちょ、ちょっと待て、それじゃあおれも作物として使われるのか?」

 大いに慌てながら五十嵐は言った。

「何言ってんの? あんたも作物なのだから当然でしょう」

「い、いや、何というかそれは」

 ――ふざけるな。おれは現実世界の人間だぞ。どうしてこんなことに巻き込まれなければいけない。

 強くそう思ったが、光はどんどんと強くなる一方だ。神はもはや五十嵐を作物のひとつとしか見ていない。

「安心なさい。悪神じゃない限り、またここへ戻ってこられるから」

 そうツンデレ美少女ナンバー71が言った途端、五十嵐の意識は眩い光によって潰された。

 

 ――参ったな。これでは何が何やらわからない。

 モニタの画面を見ながら、田中は思った。そこには本来、フィクションダイブ使用者の見ている光景が映し出されるはずなのだが、神崎が執筆を始めてからずっと砂嵐が舞っていた。機材に目立った異常はない。なのに、まるで何者かがそれを見ることを阻んでいるかのように、モニタの画面は荒れていた。

「よし、キャラクター設定は書けたぞ! いよいよ本文執筆だ!」

 神崎の声が部屋中にこだまする。

 ――わかったからとっとと書きやがれ。

 心の中で罵倒しながら、田中はもう一度機材のチェックを始めた。

 

4.

 気付けば五十嵐は見知らぬ住宅街を走っていた。さっきまでと違い、体の自由は完全に奪われている。恐らく、虚構世界に入ったのだろう。もちろん、目に入る物体は全てアニメ絵になっていた。

 ――これは、結局作物として使われたということか。まぁ良い、あの平原に集ったメンツからして、この物語は恐らくハーレムものだろう。適当に楽しむとしよう。あの、ツンデレ美少女なんたらが言ったように、ここへずっと閉じこめられる訳じゃないだろうしな。

 五十嵐は、気楽に考えることにした。

 しばらく走り、道の角を曲がったところで、何者かとぶつかり、そのまま五十嵐の体はアスファルトに倒された。

 ――このパターンは……。おいおい、いくら何でもベタ過ぎやしないか。

 そう思いながらも、五十嵐の心は無意識に躍っていた。いくら化石的な展開でも、このようにフィクションダイブで体験するのは初めてだったからだ。

 しかし、その一種の期待感は、ぶつかった相手が視界へ入ることによって、打ち砕かれた。何故なら、五十嵐の目の前で倒れているセーラー服を着た少女が、あの醜くてしかたがないツンデレ美少女ナンバー85だったからである。

「いった〜い、気をつけてよね」

 彼女は、醜悪な顔面を更に歪ませ、甲高い猫なで声をこぼしながら立ち上がった。

 ――これは……。

 嫌な予感が五十嵐の脳裏にかすめる。何故なら、このような劇的な形で主人公と最初に出会う少女は、大抵の物語においてメインヒロインだと決まっているからだ。つまりは、目前にいるこの女とも思えない少女と五十嵐がくっつく確率が、この時点で跳ね上がってしまった。

「そっちこそ気をつけろよ!」

 紋切り型の台詞を叫びながら、五十嵐の体が自動的に立ち上がる。

「ぶつかってきたのはそっちでしょ! あ……」

 ツンデレ美少女ナンバー85の脂塗れの頬が、薄く桜色に染まった。まるで出来の悪い桜まんじゅうのようだと、五十嵐は思った。

「あ、あんた私のパンツ、み、見たでしょ?」

 彼女の言葉を聞き、五十嵐の中で怒りの炎が吹き上げた。同時に、言いようのない気持ち悪さもこみ上げてくる。

 ――誰がお前の臭そうなパンツを見るか。

「み、見てねーよ。俺は急いでるから、じゃあな」

 五十嵐の体は、そのような捨て台詞を吐き、再び走り出した。自身の発した言葉の中に、嫌悪のニュアンスが含まれていなかったため、彼はぞっとした。

 ――おいおい、どうやらこの主人公はあいつの醜さに気付いていないようだぞ。これはどういうことだ。やはり、あのブスがメインヒロインなのか?

 走らされながら、彼は暗澹たる思いを抱かざるを得なかった。

 その後舞台となる学校の教室で、転校生としてやってきたツンデレ美少女ナンバー85と五十嵐が再会し、これまた紋切り型のやり取りが交わされたのは言うまでもない。

 

「そう言えば先生、今回はどのような作品を書かれるのですか?」

 田中は、執筆に没頭している神崎に聞いた。機材チェックをいくらしても例の砂嵐が直らず、気晴らしでもしようと考えたのである。

「まぁ、あれだ、私もそろそろベテラン作家だろう?」

 待ってましたと言わんばかりに神崎が嬉々として語り始める。

「えぇ、もう四十路ですしね」

 確かに年齢だけ見れば十分ベテランだ、と思いながら田中は頷いた。

「そこでね、今時の若いヤツの書くつまらん作品に、渇を入れてやろうと思ってね」

「ほうほう」

 ――貴様の意見をまともに聞く作家などいないだろう。

「ま、いわゆるアンチテーゼものをやろうと思っているんだよ」

「具体的にはどのような?」

「最近、大して優れてもいない主人公を、何故か美少女が好きになる作品ばかりだろう?」

「えぇ」

 ――アルバイトで生活費を稼ぐのに手一杯で、最近の作品はロクに読んでいない癖によく言う。

「私はこの風潮はイカンと思うのだよ。何故なら、純情な青少年が、特に努力をしないでも美少女と恋人になれると誤解してしまう恐れがある」

「なるほど」

 ――安心しろ。大抵の青少年は、貴様のような馬鹿ではない。

「そこで私は、何の特徴もない男と不細工な女をくっつける作品を書き、彼らの目を覚まさせようとしたいと思ったんだ。何も努力をしないと、このような醜い女としか付き合えないぞとね。そのため、ストーリー自体は学園モノの王道だが、ヒロインの醜さをこれでもかと描写している。そして、友人は美少女ばかりでありながら、最終的には不細工な女とくっついてしまうんだ。ま、そこに一種の風刺要素が含まれている訳だよ」

「ははぁ」

 田中は感心した素振りを精一杯に見せた。

 ――無名に近い作家が他の作品の風刺などやっても、大して意味がないだろうに。

「実に面白そうですね。期待して完成を待たせていただきます。それでは、私も少しやることがあるので」

 形だけの賞賛を送ると、田中は再び機材チェックに戻った。

 ――どうしようもない馬鹿を観察するのは、やはり良い気晴らしになるな。

 キーボードをガチャガチャ鳴らして執筆を再開した神崎の姿を見て、彼は思った。

 

 神崎が作った虚構世界内で、当然ながら五十嵐は散々な目に遭っていた。あの、醜いツンデレ美少女ナンバー85相手に、数々のラブコメ的王道シチュエーションを味わわされたのだ。大ざっぱに例を挙げれば、体が勝手に更衣室へ向かい吐き気を催すような下着姿を見せられるわ、何の嫌がらせか他のクラスメイトから二人で下校するようセッティングされるわ、大して美味くもない弁当を食わされるわ、どうでもいい買い物に付き合わされるわ、一緒にピクニックに行かされるわ、相合い傘に入れられるわ、間接キスを強要されるわ、手を握られるわ、抱きつかれるわ、惚れられるわと、不細工相手にはどれもこれも不愉快極まりないものばかりで、特に彼女が時折見せるツンデレ的な態度に、五十嵐は何度本気で殺意を抱いたか覚えていない。醜女(しこめ)のツンデレほど腹立たしいものはないのだ。

 しかし、五十嵐がどれほど彼女に拒否反応を抱いても、神崎によって現在進行形で書かれている物語に沿って彼の体は動くため、迫り来る数々の恐怖から逃げることはできない。フィクションダイブに秘められた恐ろしさの一つが、ここにあった。

 ――おれは、何て嫌な作品の世界へ来てしまったんだ。こんな物語、きっととんでもなく捻くれた作家が書いたに違いない。しかし“ある恋”の世界へ行ったときはすぐに思考が乗っ取られたのに、どうして今回はいつまでたってもそれが起きないのだ。故障でもしたのか。せめて物語の主人公に同化されれば、今現在の発狂しかねない苦痛からは逃れられるのに。

 そこまで考えて、五十嵐はすぐにあることを思い出した。田中が“とある学園の恋物語”の世界へ行った感想だ。彼は五十嵐と違って実写バージョンの世界へ行き、口調に違和感があって最後まで地獄だったと言った。そこから推測するに、物語自体に拒否反応を持っていると、最後まで意識を保ったままなのだ。これは、つまらない本を読むとき、いまいち内容に没頭できないのと同じ原理だろう。

 ――何てこった。ということはつまり、物語が終わるまでおれはこの苦痛から逃れられないのか。勘弁してくれ。こういうラブコメでは大抵、クライマックスにキスシーンがあるじゃないか。あのブスと意識を保ったままキスをしろというのか。嫌だ嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。

「あんた災難ね」

 その時、突然少女の声が五十嵐の頭の中に響いた。聞き覚えがある。ツンデレ美少女ナンバー71の声だ。

「え、これは、どういうことだ? 君、動けるのか?」

「動けはしないけど、こうやって声を送ることはできるわ。というか、あんたも今やったじゃない。どういう原理か知らないけど、神様が休憩してる時はこういうことができるの」

「休憩……そういえば、確かにさっきからおれの動作が描写されていない。って、この物語は今リアルタイムで作られてるのか?」

「はぁ?」

「あ、いや、何でもない」

 ――そりゃそうか。キャラクター畑から直接ここへ来たんだもんな。そうなると、現実世界がどうなってるのかわからなくなってきたぞ。田中は何をやっているんだ。

 五十嵐の頭は混乱した。もう何度混乱したかわからない。

「にしても、今回の神は最悪ね。この私を差し置いて、あんなブスを目立たせるなんて、いったい何を考えているのかしら。さっき他の子たちとも話してきたけど、みんなカンカンよ」

「え、何で君らが怒るんだ。君らはみんな気の良い友達役じゃないか。おれみたいに実害は被っていないだろ」

「それがあるのよ。この虚構世界が神々の世界で称えられてみなさい。他のみんなは、あのブスに種子を奪われることに対してプライドが許さないだろうし、私の畑だって、称えられた作物のイメージに近い作物が実るように種子はできているから、ブスだらけになる。私は嫌よ、自分の畑があんなブスに乗っ取られるの」

「いやいや、さすがに神々の世界の人たちだって、こんなトチ狂った虚構世界は称えないだろう」

「何でそんなことが言い切れるの? 神々の世界の住民は物凄く気まぐれなのよ? 今までだって、調子に乗っていた属性が他の属性に種子を奪われて、あっという間に廃れることなんて、何度も起こっているわ」

「そういうものなのか」

 いまいち五十嵐は実感が無かった。しかし、もしキャラクター畑という物が、神話の作られていた時代から存在していたのなら、彼女の言うことも嘘ではないのかもしれない。時代によってどんな登場人物が好かれたかは、全然に違う。もしかしたら、記録として残っていないだけで、醜い女の物語が流行った時代があったかもしれないのだ。

 ――でもやはり、さすがに現代になってあのブスは受け入れられないのではないか。

「でね、私たちさっき話し合ったんだけど、切り札を使おうと思っているの」

「切り札?」

「そう。具体的に言えば、私たちが自発的に動いて、神に逆らうの。そうして、このおかしな虚構世界を正当な物へ修正するのよ」

「そんなことができるのか」

「えぇ。神の考えに真っ向から逆らうように使うのは、滅多にないことなんだけどね。今回はあのブス以外、満場一致で逆らいたがっているから特別よ」

「だけど、いったいどうやるんだ? おれはこれまで散々あのブスから逃げようと思っていたが、結局は一度も自由に体を動かすことができなかった」

「神に逆らう時はね、休憩が終わった直後を狙うの。これまた原理はよくわからないんだけど、私たちの経験によって培わされた、確かな戦術よ」

「休憩、というと今か」

 ――要するに、作家が執筆を再開後、この世界へ完全に没入する前に構想がねじ曲がるよう仕向けるのだな。

「そう。この休憩が終わった後、私たちは神の意向、つまりあのブスが持て囃されている状況に、真っ向から逆らう」

「逆らうと言っても、どうすりゃ良いんだ」

「自分の思い通りに体が動くよう、ひたすら念じるの。神に対して、ふざけるな、私たちはこんな事をするために生まれたキャラクターじゃない、という恨みも込めてね」

「なるほどわかった、やってみよう」

 五十嵐は了承した。

 それからしばらくして、世界の描写が始まった。それと同時に、ツンデレ美少女ナンバー85以外の全員が、必死にこの物語が修正されるよう念じ始めるのだった。

 そして……それは成功した。全ての登場人物たちが、急にツンデレ美少女ナンバー85を罵倒し始めたのである。

 ――やったぞ。これでやっとあの地獄から抜けられる。

 五十嵐は心底歓喜した。

 しかし、次の瞬間彼の視界は暗黒に支配され、この虚構世界に存在したあらゆる作物たちは、何も存在しない無間地獄へと叩き落とされた。

 不幸な事に彼らは逆らう神を間違えた。この虚構世界を作っていたのは、紛れもない悪神だったのだ。

 

「むうぅ……」

 田中の部屋に、神崎のうなり声が響き渡った。

「どうしたのです」

 その声に反応して、田中が言う。

 ――まさか、また休憩させてくれと言うんじゃないだろうな。

「えぇい! こんな駄作は没だ!」

 急に神崎は濁声で叫び、マウスを乱暴に操作すると、原稿のファイルを跡形もなく削除してしまった。

「あ! 何をするんだ」

 さすがの田中も、この突然の行動に驚倒する。何せ、五十嵐の頭には電極を取り付けたままなのだ。そんな状態で乱暴に接続が絶たれれば、下手をすれば彼の脳に甚大なダメージが与えられる。まだロクなデータも取れていない状態でそんな事になるのは、田中としては絶対に避けたいことだった。

「うるさい! 執筆を再開したらキャラが勝手に訳のわからない方向へ動き始めたんだ! これじゃあ、元の構想通り物語を作れやしない! だから没にした! それだけの事だ!」

「やかましい! 貴様の作品の出来などどうでもいい!」

 田中は遂にキレた。神崎の襟首を掴み、凄まじい力で締め上げる。

「何だと!? く、苦しい……」

「貴様ぁ、おれの実験体に何てことを!」

「が、やめろ!」

 神崎は百キロを超える自身の体重を利用し、田中を振り払った。神崎と比べて体重が圧倒的に軽い田中は、あっけなく手を放し、床へ倒れ込んだ。

「く、ぜぇぜぇ、なんだ、ぜぇぜぇ、お前のようなマッド・サイエンティストの手伝いなど、ぜぇぜぇ、誰がしてやるか!」

 激しく呼吸を乱しながら、精一杯に捨て台詞を残すと、神崎は逃げるように田中の部屋から出て行った。

 その様子を唖然とした顔で見つめてから、しばらくして田中はよろよろとその場に立ち上がった。

 ――何て作家だ! あんなひどい作家に頼むくらいなら、いっそその辺の同人作家にでも頼む方が何倍も良かったじゃないか! クソ! あそこまであいつがアホだとは予想外だった!

 神崎への憎悪と、自身の行動の軽率さに対する後悔が彼の心を満たす。

 どうしようもない苛立ちを感じながら、念のため五十嵐の状態をフィクションダイブで確認した。これの電極には、安全のため使用者の脳波などを調べる機能も実装されているのだ。

 ――やはり、駄目か。

 がっくりと、田中は肩を落とした。生きてはいる。しかし、脳波の測定結果が、植物状態にある人間のそれとほぼ同じだった。恐らく、脳がショックに耐えきれなかったのだろう。このような状態では、もう実験体として使えない。

 田中は、椅子に座ってずっと眠りこけている五十嵐へと近づいた。何事も無かったかのように、その表情は安らかだ。しかし、もう彼は以前の彼ではない。

 ――五十嵐。

 五十嵐の顔を、田中はのぞき込んだ。

 ――お前はいったい、神崎が執筆中に何を見たんだ。何もなかったなどありえない。フィクションダイブは、確かに何らかの情報をお前の脳へ送っていた。だから、お前は何かを見たはずなんだ。教えてくれ。お前はいったい何を目撃した。

 彼は五十嵐に向かって強く念じたが、その答えがわかる日は、永久に来なかった。

 

 

 しかし、彼は知ってもいた。神崎も知っていたし、五十嵐も最初から全て知っていた。何故ならば、田中は“冷酷な発明家ナンバー57”として、神崎は“売れない作家ナンバー69”として、五十嵐は“無個性主人公ナンバー141”として、私がこの虚構世界を構築するにあたってそれぞれキャラクター畑から収穫した作物だからだ。

 役目を終えた作物たちはキャラクター畑へ帰還し、再び収穫される日を待つのみである。

 

 

 

説明
 ある日、発明家である田中はライトノベルの世界へ行ける装置『フィクションダイブ』を発明する。彼の友人五十嵐は、この装置の試験使用を依頼されるが……。
 メタフィクション要素を含んだ、短編コメディ小説です。
 長さ:四百字詰め原稿用紙約50枚程度。
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