釣瓶白刃砕き |
釣瓶白刃砕き
町の娘が数人の男に言い寄られていた。町娘が抵抗すると、業を煮やしたのか男たちは娘を乱暴に手を引き始めた。男たちは帯刀しており、町の人たちは助けにも入れず、無理やり連れて行かれる娘を遠巻きに見ているだけだった。そこに、一つの影が飛び込んでいき、一瞬の間に男たちをなぎ倒した。影の正体は流れ者の剣士だった。左目に傷の付いた、鋭い目つきの美男の剣士で、腰には二振りの刀を差していた。
「待て、貴様よくもやってくれたな! 止まれ、こっちを向け!」
娘に言い寄っていた連中の仲間が剣士に向かって怒鳴る。この男だけたまたま別行動を取っていて場を離れていたのだ。
既にその手には刀が抜かれており、それを見た野次馬達がざわざわと騒ぎ始めた。
「ぶっ殺してやる、刀を抜け!」
男が刀で剣士の背中を指した。今まで無視していた剣士だったが、これ以上は無理だと悟ったのか、面倒くさそうに振り向いた。
「何だ貴様、さっきの奴らの仲間か? 生憎だが、俺は先を急いでる」
「黙れ、卑怯者! 後ろから仲間を切りやがって、この俺が成敗してくれる!」
「何だか誤解している様だが、あれは貴様の仲間が……」
「問答無用!」
男は聞く耳も持たずに、刀を振り下ろした。剣士はひらりとそれを避けると、自分も刀を抜いて構えた。
「えい!」
男と剣士が風の様な速さで交差すると、剣士の顔が歪み、肩から僅かに血がにじみ出す。勝機とばかりに男は怒涛の攻撃を仕掛け、剣士の方はそれらを何とか受け流した。
「どうした、その程度か!」
男は休めることなく攻撃を続ける。このままでは剣士が追いつめられると、野次馬達が思ったその時、不思議な事が起こった。攻撃を仕掛けていた男の手が止まったのだ。男の顔は異常に青ざめており、そのまま崩れる様に膝をついた。
「貴様、一体、何を……?」
男はそのままうつぶせに地面に倒れた。剣士は男が事切れたのを確認すると、刀を鞘におさめた。
「四ツ谷流『籠釣瓶』」
剣士は一言そう呟くと、何事もなかったかのように再び歩き始めた。剣士が去った後、野次馬達はある事に気付いた。倒れた男の周りの土が真っ赤に染まっていたのだ。おそらく倒れた男の血で染まったのだろうが、するとあの剣士は何時、男を切りつけたのだろうか。剣士は攻撃を防ぐので精一杯だったはずであり、事実、野次馬は誰一人として剣士から攻撃したのを見ていないのだ。この事件があった後、町では暫くこの不思議な剣士の話で持ちきりとなった。
?
それから数日後、峠の茶屋にあの剣士の姿があった。茶屋には他の客はなく、剣士が一人でくつろいでいると、道の向こうから小さな影が歩いてくるのが見えた。どうやら子供の様だが、同行者もなく一人だけのようで、剣士は何となくその子供が気になった。子供は茶屋の前まで来ると、剣士の隣に座った。
「坊主、お前一人か?」
「うん、そうだよ」
剣士が何気なく尋ねると、子供は人懐っこく頷いた。子供に気付いた店員と同じようなやり取りをした後、子供はお茶を頼み、美味しそうにそれを飲みほした。
「若いその身で旅とはお蔭参りか? それとも、生き分かれた肉親でも捜してるのか?」
「うん、ちょいと人を探しててね。おじさんは?」
「ははは、この俺がおじさんか。俺も似たようなものさ」
お蔭参りとは、村や集落から選ばれた代表者が江戸の伊勢神社に参拝に行く行事で、代表者は村や集落からの支援を旅の資金として江戸まで旅をする。この時、選ばれる代表者は老人から子供まで制限は殆どなく、時には集団で参拝する事もある。このお蔭参りを通して、地方の人々は江戸の情報を得ていたとされている。
それから少しの間、剣士と子供が親しげに話している所に店の主人が割って入った。主人が言うには、この辺りは隠れ座頭という子供をさらう妖怪が出るので、ここで一泊した方が良いとの事だった。何故ならば、ここから近い町でも着くのは真夜中になるほど距離があるし、何より子をさらう妖怪ならこの子供は格好の獲物である。
だが、そんな店員の好意を子供はあっさりと断ってしまった。どうしても先を急がなければならないと店員と問答を繰り返していたが、剣士が一つの提案をした。
「ならば俺がこの坊主と一緒に行けばいい。妖怪が出たら俺がおっぱらってやるからよ。」
店員は少し考え込んでいたが、それならいいと渋々承諾した。
「ところで坊主、お前名前は何て言う?」
「おいらは三吉だよ。おじさんは?」
「俺は四ツ谷岩之助だ」
二人は心配する店員に銭を払い終え、一緒に道を歩き出した。
?
数時間経ち、既に陽が落ちていた。二人は森に入っており、月の光も届かない森の中は酷く不気味だった。森の中を行く二人の足取りは速く、急いで森を出ようとする。こうした森の中では妖怪だけではなく、山賊や獣が出てくる危険性もあり、それが急ぐ原因の一つでもあった。
だが、急がなければならないこの状況で、突然二人は同時に足を止めた。
「坊主、気をつけろ。何かいる」
二人が足を止めたのは、自分たち以外に何者かの気配を感じたからだ。岩之助は刀に手を掛け、三吉は岩之助と背中合わせになり、剣士の背後に気を配った。
「坊主、やっぱりお前ただ者じゃないな。その気の張り方、動き、とてもただの子供の物とは思えない」
岩之助は背中合わせの三吉に聞こえる様に囁く。岩之助が三吉に興味を持ったのは、初めて会ったとき、三吉がただの子供ではないと感じたからだ。常人には分からないが、三吉は常に周囲に気を配っており、そんな三吉の正体を知りたくなったのだ。しかし、三吉は何も答えず、ただ黙って辺りを警戒していた。
「お前の正体は後で聞くとして、今の状況の方が大切だな。向こうも姿を現した様だぞ」
岩之助と三吉を取り囲むように、黒装束に身をまとった四人の人間が立っていた。黒装束で顔は判別できないが、体格と雰囲気で全員男のようだ。
「貴様ら何者だ。山賊の類か、あるいは噂の物の怪か?」
岩之助は構えたまま黒装束達に尋ねると、黒装束の内の一人が一歩前に出てきた。どうやら、この男が黒装束たちの頭らしい。
「その餓鬼をよこせ。そうすれば命だけは助けてやる」
「断る。と、言ったら?」
「ならば死ね」
黒装束の頭が手を上げると、他の黒装束たちが一斉に岩之助たちに向かって、手裏剣を投げつけた。それを見抜いた岩之助は、刀を抜いてすばやく弾いた。手裏剣は背後からも飛んできたが、それらは三吉によって弾き落とされた。
「こいつら忍びか。逃げろ坊主! ここは俺が食いとめる!」
岩之助は正面の黒装束に向かって駈け出した。黒装束が向かってきた岩之助から逃げるため横に跳ぶと、そこにわずかな隙間が出来る。三吉はそこから黒装束の包囲網を抜け出し、そのまま森の中へ消えていった。
「お前たち二人はそいつの相手をしろ。お前は俺と一緒に三吉を追え!」
岩之助によって包囲網が崩されたが、黒装束の頭はすぐに次の指示を出した。三吉を追おうとする黒装束達に向かって、岩之助が横薙ぎに刀を振るう。だが、黒装束は高く跳び、そのまま岩之助を飛び越えると三吉を追い始めた。岩之助も追おうとするが、残った二人が投げた手裏剣で阻止されてしまい、二人の黒装束が三吉を追いかけた。岩之助は追う事を一時諦め、残った二人の黒装束を倒す事に決める。この二人の黒装束を早く倒さなければ、三吉を追う事は不可能と判断したのだ。
黒装束二人と岩之助は互いに睨み合った。睨み合ったと言っても、ほんの数秒から数十秒だったのだが、彼らにとっては何分、何時間もの長さに感じられた。そして、先に動いたのは黒装束達の方だった。二人の黒装束は一人が手裏剣を投げると、残ったもう一人が忍者刀を手にし、岩之助に向かって駈け出して来た。このままでは手裏剣を先に弾いても、もう一人の忍者刀の餌食になるし、忍者刀を防いだとしても逆に今度は手裏剣の餌食になってしまう。一瞬の合間にそれを判断した岩之助は、腰に携えたもう一本の刀に手を伸ばした。
「ぐわ!」
忍者刀を持った黒装束が地面に倒れ、その後に岩之助は飛んできた手裏剣を刀で弾き落とした。
何が起こったのかと言うと、まず岩之助は腰に携えてあった刀を掴み、それを忍者刀を持った黒装束に向かって投げつけたのだ。普通ならば、二刀流で手裏剣を弾き、残ったもう一本の刀で忍者刀の攻撃を防ぐのであろうが、相手を倒す事を第一に考えた岩之助は刀を投げる事で相手の虚を突き、見事黒装束の一人を倒す事が出来たのである。
残った黒装束は何故、仲間が倒れたのか理解できず茫然としていたが、岩之助が風の様な速さで迫って来た事に気付くと、急いで忍者刀を取り出した。
「だっ!」
岩之助の振った刀は、忍者刀で防ごうとした黒装束を刀ごと両断した。
忍者刀は普通の刀より短く細く作られて軽量化が施されており、相手の攻撃をそのまま受けると簡単に折れてしまうほど繊細な造りとなっている。なので、本来は受け流さなければならないのだが、黒装束は受け流す事が間に合わず、折られてしまったのだろう。
こうして二人の黒装束をたおした岩之助は、三吉の後を追うために森の中を駈け出した。
岩之助が三吉を逃がし、二人の黒装束を倒すまで、ほんの数分しかかかっていなかったが、三吉の姿も、それを追う黒装束の姿も見つからなかった。所々に黒装束の物らしい手裏剣が刺さっており、それを目印に森の中を走っていた。
岩之助の息が切れかかったその時、森の中に金属音が響き渡る。音を頼りにその方へ走ると、黒装束達と地面に倒れた三吉を発見する。
「あっ、坊主!」
三吉はぴくりとも動かず、うつぶせに倒れている。よく見ると、右肩に手裏剣が刺さっており、手には折れた忍者刀を持っていた。おそらく、さっきの金属音は三吉の持っていた刀が折れた音だったのだろう。
「貴様、俺の部下を倒して来たのか。馬鹿な奴らよ。忍びが剣士ごときに遅れをとるとはな」
黒装束の頭はそう言いながら、岩之助に向かって構える。
「お前はそこの餓鬼を連れて行け。手裏剣のしびれ薬で動けないだろうが、油断はするなよ。俺はこいつを倒してから行く」
黒装束の頭は部下にそう言いつつ、懐から何かを取り出した。それは、十手の様な形をした二又の武器だが、先端が鋭くなっている不思議な形を武器だった。おそらく刺突系の武器らしいが、それだけでない不気味な何かを感じた。
頭の指示通りに部下の黒装束は三吉を担ぐと、森の中へ消えていった。岩之助は今すぐにでも後を追いたかったが、二対一の状況で部下を倒してきた自分に対して、一対一で向かって来る。黒装束の頭の底知れぬ不気味さに、手出しが出来なかった。
「だっ」
頭が十手型の武器を岩之助に向かって突き出した。岩之助は刀でそれを防ぐが、先端が僅かに左頬を掠り、そこから血が吹き出る。 少しの間、鍔競り合いの様な形で睨み合いが続いていたが、頭はさらに同じ武器を取り出し、岩之助の右脇腹に向かって突き出す。岩之助は一瞬早く気付いて後ろに飛び退いたが、その攻撃は突くと言うより抉ると言った方が正しく、まともに受ければひとたまりもないだろう。
岩之助は剣を振りかざし、頭に向かって飛びかかる。このままでは長期戦でじわじわと追いつめられると考えた岩之助は、攻めに回る事で急いで勝負を決めようとしたが、これが相手の戦略だったと思い知らされることとなった。
岩之助は刀を振り下ろしたが、頭はそれを十手の様な武器で挟み込み、思い切り捻ると、岩之助の刀は大きな音を立てて根元から折れてしまった。
「あっ!」
そのままバランスを崩した岩之助に向かって、頭はもう一方の武器を突き出す。とっさに体を後ろに傾けた岩之助だったが、頭の武器は岩之助の胸を抉っていた。
「ははは、どうだ。黒巾鬼様の白刃砕きの味は!」
黒装束の頭、黒巾鬼の持つこの十手の様な武器は、白刃砕きと言う黒巾鬼自らが考案した武器である。尖った先端部分を相手に向かって突く刺突系の武器だが、この武器の本分は相手の刀や槍を折るためであり、忍者刀ぐらいならば、そのまま挟み込んで捻る事で簡単に折る事ができる恐ろしい武器なのだ。この白刃砕きででは何故、忍者刀よりも丈夫な岩之助の太刀を簡単に折れたかと言うと、岩之助が刀を振り下ろした力を逆に利用し、その力と反対の方向に捻る事で、てこの原理が働き、最小の力で岩之助の刀を折ったのだ。三吉もこの白刃砕きで刀を折られた後、手裏剣を受けてしまったのだろう。
折れた刀を手にしたまま、岩之助は膝をつく。携帯していた小刀は急ぐあまり、部下の戦いで使った時にそのまま置いてきてしまっている。胸の傷は致命傷ではないが、刀は折れ、傷も受けた岩之助の敗北は明らかだった。
「ふはは、王手だな。一剣士の分際で忍びに関わろうとするから悪いのだ。このまま嬲り殺しにしてやろう」
そう言って黒巾鬼は岩之助に近付くが、何気なく自身が抉った岩之助の胸に視線を移すと、ある事実に気付いた。
「なっ! 貴様、女だったのか!」
抉られた際に岩之助は衣服ごと引き裂かれ、さらしに巻かれた胸が見えたが、そのさらしの上から僅かに見える、女性にしかないはずの膨みを黒巾鬼は見つけたのだ。
岩之助は何も言わず黙っていたが、屈辱感をあらわにしたその瞳が、全てを物語っていた。それに対し、黒巾鬼は下卑た目つきで岩之助を見ながら、ぺろりと舌舐めずりをした。
「こいつは驚いたが、思いがけない幸運だ。貴様に殺された部下の分も合わせて、存分に楽しませて貰うぞ」
黒巾鬼が白刃砕きを構える。岩之助も折れた刀で抵抗しようとしたその時、二人の間に大きな黒い物が落ちてきた。驚いた黒巾鬼は後ろに飛び退いたが、黒い物の正体を見てさらに驚愕した。落ちてきた黒い物は、先ほど三吉を担いで行った自分の部下だったのだ。
「忍法『釣瓶落とし』ってね。本当は当てるつもりだったんだが、まだまだ修行が足りなかったかな」
場にそぐわぬ呑気な声が聞こえ、二人が声のした方へ顔を向けると、連れ去られたはずの三吉が木の上に腰かけていた。
「何故、貴様がここにいる! いや、それよりも、手裏剣の痺れ薬で動けないはず…」
三吉は木から飛び降りると、くるりと回転して地面に着地する。三吉がいた飛び降りた位置は、ちょうど岩之助と三吉で黒巾鬼を挟む形となっている。
「奥歯に解毒薬を仕込んでいたのさ。もっとも、岩之助さんがお前の相手をしてくれなかったら、動けないと油断してるとはいえ、二人も相手をするのは危険だっただろうけどね」
三吉の話を聞いて、黒巾鬼は歯を噛みしめた。追いつめたのにも関わらず、この女剣士の相手をしていたがために、三吉に出し抜かれ、逆に自分が追いつめられる結果となってしまったのだ。
三吉は黒巾鬼の部下に連れて行かれた後、奥歯に仕込んだ解毒薬で体の自由を取り戻し、完全に動けないと油断していた部下を倒した。相手は三吉を担いでいたため、どんな術だろうと簡単にかける事が出来る。そうして部下を倒した後、逆に部下を担いで戻り、忍法釣瓶落としで岩之助の危機を救ったのだ。
ここで忍法釣瓶落としについて説明しよう。釣瓶落としとは、大木の下を通ると突如木の上から降ってくる、人の生首の姿をした妖怪である。その妖怪と同じ名前をしたこの忍法は、所謂罠の名前であり、本来は丸太や岩などを木の上に吊るし、その下を通った人の頭を砕く恐るべき忍法なのだ。忍者はこうした罠や毒の作り方にも精通しており、それらの事も忍法としていたのだろう。
三吉はこの術が失敗したと言っていたが、子供でありながら、気付かれない内に大の大人を担いで木の上まで登った事は、驚愕するべき事だろう。
「さあ、形勢逆転だ。観念しろ。」
黒巾鬼は交互に前後を振り向く。前には三吉、後ろには胸に傷を負っているが、三吉が無事な事を知り完全に戦意を取り戻した岩之助。一人は満身創痍とはいえ、二対一の不利な状況である。暫くの間、沈黙が続いていたが、黒巾鬼の哄笑が沈黙を破った。
「ははははは! 形勢逆転だと? 馬鹿め、俺は追われ続ける運命の貴様と違う。どんな結果になろうと、最後に勝てばそれでいいのだ!」
黒巾鬼は後ろへ振り返ると、岩之助に向かって駈け出した。
「邪魔だ、どけぇ!」
向かって来る黒巾鬼に対し、岩之助が折れた刀を振る。しかし、黒巾鬼は岩之助の頭上を飛び越え、木から木へ飛び移って逃げていく。
「今回は退く。だが、既に貴様らの情報は得た。次に会った時が貴様の最期となるのだ!」
忍者にとって、相手に情報を知られる事は死を意味する。もし、相手に自分の忍法が知られれば、その情報を元に多くの敵に、その忍法の対処法を考えられたり、逆に利用される危険性があるからだ。なので、忍者は例え仲間同士でも己の術を見せたりしない。
「待て、坊主。」
黒巾鬼を追おうとする三吉を、岩之助が呼び止める。
「でもあいつを倒さなきゃ! そうしないとおいらだけじゃなく、あんたも殺されちゃうよ!」
慌てる三吉に対し、岩之助は不思議なくらい冷静で、近くの木に寄りかかると傷の手当てをし始めた。
「既にあいつは仕留めた。」
?
「どうやら逃げ切ったようだ。」
黒巾鬼は木から木へと軽やかに飛び移り、後ろを振り返ると、三吉たちが追って来ていない事を確認した。たとえ忍び同士でも、完全に逃げ切った忍びを探し出す事は、砂漠に落とした一本の針を探すくらいに難しい事なのだ。
それに、追ってきたとしても、傷を負った岩之助では不可能だろうし、三吉が来たとしても、己の実力の方が上であると分かっている。それでも黒巾鬼が逃げたのは、部下もおり、あれほど有利だった状況から、二対一という不利な状況に追い込まれた、己の判断の甘さがためだった。だからこそ確実に、三吉たちを殺すため、仲間や武器を集める準備をする必要があったのだ。
「それにしても何だ、この肌寒さは…」
三吉たちが追ってこない事に安心していたが、自分の体に変化がある事に気付いた。あれほど身体を動かしたのに熱いどころか、寒気を感じたのだ。
「頭痛がする…吐き気もだ…行逢神にでも当てられたか?」
呼吸をしてもどんどん息苦しくなってゆき、体から力が抜けていった。そのまま黒巾鬼は立っていることもままならず、木の上で膝をついてしまった。
「おかしいぞ、まさか毒でも盛られたのか? だが、そんなようには見えなかったはず…」
ふと、自分の脇腹に手をやると、黒装束が濡れている事に気付いた。黒巾鬼はその手を見て、己の血でべったりと濡れている事に驚愕した。脇腹からは大量の血が漏れ出ており、血の量から致命傷である事が分かる。
「馬鹿な! これほどの傷を何時の間に…」
黒巾鬼はある事を思い出す。それは三吉たちから逃げる時、岩之助が振った刀の事だった。
「まさか、あの時か! そんな…痛みなぞ、全く感じなかった、の、に…」
血を流し過ぎた黒巾鬼は、ついには木の上から墜落し、そのまま事切れてしまった。
?
「四ツ谷流籠釣瓶。痛みを感じぬその傷は、徐々に相手の命を奪っていく。今頃、あいつはもう死んでいるだろう。」
傷の手当てを終えた岩之助は、歩けるほどに回復していた。
四ツ谷流籠釣瓶。それは、相手に痛みを感じさせないほど素早く、精密な刀さばきで相手を切りつける技であり、相手が気付いた時には、受けた傷は既に手遅れとなっているのだ。
「そんな凄い技を持っているなんて、おじさんは、いやお姉さんは凄い人なんだね。」
「そりゃあこっちの台詞だ。ただ者じゃあないと思っていたが、坊主が忍者だったなんてな。」
三吉は岩之助の技量にひどく感心していた。事実、あれほどの傷を受けていながら精妙な技を放ったのだから、その技量は確かな物だろう。逃げた黒巾鬼を追わなかったのも、岩之助の腕を信じたからだ。それに、黒巾鬼の物らしい血が点々と続いていたのも、理由の一つとなっている。
「いったい何で抜け忍になったんだ? また何時追手が来るのも分からないのに…」
岩之助が訪ねても三吉は理由を話す事はなかった。その顔はただ忍びとして生きる事が嫌になったのではなく、もっと別の深いわけがありそうだったが、岩之助もそれ以上詮索する事はなかった。暫く無言で歩いた二人は夜が明けるころに森を抜けた。
「森も抜けたし、次の町までもう少しだ。どうだ、坊主。お前さえよければもう少し一緒に俺といないか? 俺はお前が気にいったからな。」
「ありがとう岩之助さん。でも、これ以上おいらに関わると岩之助さんも追手に狙われる事になる。だから、おいらはまた一人で旅を続ける事にするよ。」
岩之助は三吉がどのような人生を歩んでいくのか見てみたかったが、自分にも目的がある事を思い出し諦めるしかなかった。
「それは残念だ。だが坊主、もしまた会う様な事があったら、お前の話を聞かせてくれ。俺とお前との約束だ。」
単なる口約束だが、これには意味があった。命を狙われる抜け忍である三吉に、また会いたいと言う事は決して死んではならないという意味が含まれていた。三吉はその意味を理解すると、屈託のない笑みを浮かべ、生きてまた会う事を岩之助と約束した。
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四ツ谷流という流派は、四ツ谷伊右衛門という剣士によって創められた剣法である。四ツ谷流はしなやかな柳が、風に舞う様に緩やかな太刀筋をしており、攻めより守りに重点を置いた異色の剣法である。
その四ツ谷流の奥義の一つである籠釣瓶は、最初の一撃で全てを決め、得意な守りに持ち込ませるための技なのだ。伊右衛門は自身が編み出した奥義の中で、この籠釣瓶を最も得意としており、この技を当時の将軍に披露し、道場を創める許可を得た。
だが、伊右衛門は道場を創めてから数年後、訪れた道場破りとの決闘で命を落としたのだ。伊右衛門は男子に恵まれず、お岩と言う名の幼い娘が一人いるだけだった。妻はお岩を出産した後、体力が戻らずそのまま帰らぬ人となっている。道場主も死んで、弟子もまだ未熟な者ばかりだった四ツ谷流は急速に廃れ、唯一残ったお岩も、親類に引き取られ行方不明となり、これで四ツ谷流は完全に途絶えたかに見えた。
四ツ谷流が忘れ去られて数年後、廃れたはずの四ツ谷流を扱う剣士が突如現れ始めた。岩之助と名乗るその剣士は、開祖の四ツ谷伊右衛門が得意としていた籠釣瓶をも体得しており、四ツ谷流を己の物にしていた。その正体は消息不明となっていた伊右衛門の一人娘お岩であり、廃れた四ツ谷流の復興と父の仇打ちのために修行を積んでいたのだ。彼女は自分が女性であった事で、四ツ谷流が廃れてしまったと考えているため、男装して正体を隠し、左目に傷を付け女であることを捨て、岩之助と名乗る様になったのだ。
時折、困っている人間を見ると手助けしてしまうのは、四ツ谷流が廃れていくのをただ見ているだけしか出来なかった、かつての自分を思い出すからなのであろう。ある時には暴漢に襲われている女性を助けたり、ある時には力で物を言わせる悪徳剣士を打ち負かす事で、岩之助と四ツ谷流の名は知れ渡っていった。
だが、岩之助の旅はまだ終わらない。父の仇を討つまで、あてもなく旅を続けるのだ。風に舞う柳の葉のように。
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少年忍者物の続きのような物。不思議な剣法を扱う剣士の話 | ||
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