今年最後の神頼み
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その一

 

 桜山湖自然公園の正面口から、弘太が使った駅と反対方向に、大人の足で一〇分程歩いたところに小さな神社がある。名を桜部神社と言い、土地の古い者は「アラヤマさん」と呼ぶ。その通称の由来は詳らかではないが、昔の地名だとか、御祭神からだとか言われている。

 一年中鬱蒼とした森に囲まれ、境内は昼間ですら薄暗い。鳥居も少々奥まった所にあり、注意して見なければ、通りからは神社があることに気付かないだろう。最も大勢の観光客が訪れる花見の時期でさえ、参拝はおろか、境内に足を踏み入れる者すら極めて稀であった。

 誰か来たにしても、お社に一瞥をくれた後、ぐるりと周囲を見渡し「桜がない所に間違って入ってしまった」と言わんばかりに足早に立ち去るのが関の山である。

 そんな神社の高欄に腰掛け、少女はぶらぶらと足を遊ばせていた。朽ちているわけではないが、相応に古びた高欄は、下手をすればボキリと折れそうな程である。だが、不思議ときしむ音すら出さず、ただ静かに少女の体を受け止めていた。

 しばらくするとそれに飽きたのか、少女は眠そうな目を本殿に向けてから一度、大きな深呼吸とノビをしてから地面へ飛び降りた。そのまま真っ直ぐに鳥居をくぐって通りまで歩を進め、左右を見渡したがどうやら目当ての者は見あたらなかったらしい。踵を返し再び鳥居をくぐると、そのまま社殿の前に据えてある賽銭箱まで進み、

「おーい、神様、おるか」

と声を掛けた。

 少女はしばらくそのまま立っていたが、返事がないと見るや五段ばかりの木の階段をするするとのぼり、閉まっている格子戸をまったく開けることなく――まるで桜花が僅かな隙間から、風に乗って入り込むが如く――するりと拝殿へ上がり込んだ。あまり光の当たらない拝殿はジメジメとしており、少しカビ臭い。少女は無遠慮に観音開きの御扉をノックし、

「おーい、居るのであろう? まだ営業時間内だと思うのだが」

と再び声を掛けると、ようやく奥から返事が返ってきた。

「誰じゃ、わしの眠りを妨げる者は……と、何じゃ。糸桜か。もう散ってしまったかと思ったわい」

「あと一日ほどはおるぞ。まァ、もう人に見られるほどの力は残っておらんがの。しかし、真っ昼間からいい御身分だのう。終業時間にはまだ早かろう」

「わしのところは年中無休の二十四時間営業じゃ。替えの従業員もおらぬから、休みは適宜とることになっておる」

「とは言え、詣る者が一番来そうな時間帯に眠りこけておったのでは適宜とは言えまい」

「ちゃんとした参拝者であるなら即座に起きるわい。手水で心身を清めれば水音が、賽銭を納めれば木箱が鳴り、叶(かねの)緒(お)を振れば鈴が鳴り、柏手を打てば乾いた音が邪を祓う。その音を聞けば、どんなに深く眠っていようとすぐに心の声に耳を傾けようぞ。それが何じゃ、お前は泥棒のように音もなく入り込みよって」

「うーん、ちゃんとした、のう」

 少女は周囲を見渡し、呆れたように言った。

「それには先ずちゃんとした設備を作って貰わんと。水もなく苔むした手水鉢に、みすみす賽銭ドロにくれてやるような穴あきのオンボロ賽銭箱、手垢まみれの叶緒に至っては逆に穢れそうで触る気すらおきんわい」

「何を言うか、こやつ。落雷にでも遭ってその背丈を減らしてみるか」

「いやいや、今の戯れ言は私、桜花のみのもの。幹には関係のないことに御座りますれば落雷は平にご容赦を。神罰は私、花のみにあてて下さいまし。伏してお願い申し上げまする」

 少女は目を伏せると、スカートの両脇をついと摘み、足をクロスさせて軽く膝を折った。

「何じゃ、その西洋式の挨拶みたいなものは……この場合は古式ゆかしく土・下・座であろう。まったく、昔はもっと可愛かったのに、年々根性と性格が悪くなって来ているのではないか」

「"かぁてしー"という。なかなか優雅であろう?」

 少女は反省の色をみせるでもなく、からからと笑った。

「まあ、開店休業状態の今では信仰の力も足りんで、雷も落とせぬが……秋祭りの直後であれば、あるいは」

 と、真剣味を帯びた声で扉の奥の主が言うので、さすがに少女も焦りを見せた。正月ですら参拝者のまばらなこの神社にとって、秋祭りは唯一と言っていい、人出がある行事である。あくまで比較的お詣りに来る、と言ったレベルの話だが、確かにあのくらいの賑わいの後であれば雷を落とすくらいはできるかも知れぬ。何しろ、主の力の源は人々の信仰であり、言わば充電が完了した直後のようなものなのだから。

「いやいやいや、戯れ言、戯れ言。近頃は本当に信仰というものが足りませぬ」

「ふぉふぉふぉ、まあこちらも戯れ言じゃ。近頃で一番の信仰を集めた出来事と言ったら戦後の、お前の大手術じゃしの。里人にとって、お前は可愛い桜の花よ。雷なんぞ落としたら恨まれてしまうわい」

「ははは……。この土地に縁のある古もの同士、一心同体のようなものなれば、持ちつ持たれつということでの。そのためにも頑張って花を咲かして参拝者を呼んでおるのだから」

「そのわりには、わしの所に全然客が回ってこんぞ。それに、今は盛りの過ぎたお前ではなくて、ソメイヨシノ目当ての客が多いんじゃないのかの?」

 そう扉の奥の主が言うと少女はたちまち不機嫌になり、ぷくりと頬を膨らまして腕を組み、御扉に背を向けて胡座(あぐら)をかいた。

「数も違うし、近頃は見る目がない者が多いからの! 参拝者がないのは花も無く、こんな辛気くさい杜(もり)だからであろう。少し伐って日を入れて、枝垂れ桜でも植えて下され。そうすれば少しは神気が漂うのではないかの」

「ふぉふぉ、では今度、総代にでも知恵を授けてみるか。うまく感じ取ってくれればいいんじゃが。ところで、そのソメイヨシノの件は片付いたのかの」

「ああ、その件なら昨日片がついた」

 少女は、朝飯前だとばかりに、淡泊に返した。

「ふぅむ。その様子では、だいぶん苦労したようじゃのう」

「……む。まァ去年だいぶん力を使ったからの。ちと豪勢にやりすぎたかもしれん。今年、うまく私の元まで来てくれんかったら失敗するところだった」

 桜たちの力が最も及ぶのは、やはりその木の下である。少女は去年その霊力を使いすぎたが為に、今年は自分の力が及ぶ範囲が狭くなっていた。弘太が来た時、すぐに桜たちの世界へ引っ張り込まなかったのは、何も意地悪をしていたわけではないのである。その後のやり取りは、ほんの少しばかりの悪戯心から、意地悪をしたと言えなくもなかったが。

「と、いうことは、桜どもは今年もうまく籠絡完了、ということじゃな」

「人聞きの悪い……別に、今年の件程度は無視しても良かったのだが、先代の遺言みたいなものだったからの。無碍に断るのも大人げないと思うて、協力したまでよ」

 少女は上を向いたが特に視点を合わせるでもなく、こつん、とそのまま後頭部を御扉にあてて――少し、寂しそうな目をした。

 実際、今回の件はそれほど特殊な例というわけではなかった。傷心の子供に桜があれこれ話しかけた事などは、この桜山に限っても枚挙に暇がない。いつもと違ったのは、弘太が「子供」から、半歩ばかり足を出した年齢だったということ。二回も会ったこと。そして、戦後六〇年あまりを共にしたソメイヨシノの、最後の懸案だった、という事だ。そういう意味で言えば何十年に一度の事、とも言えた。

「ちょいと捻くれているのはお前の良くない所じゃが、何だかんだ世話焼きするのは美徳じゃのう」

「まったく、私もそう思う」

 ふははは、と、ふたりは笑い合った。人が花に見とれてこちら側へ迷い込むことは、子供の頃にはよくあることで、時には花から誘い込むこともある。人はすぐにその記憶を失うが、心のどこかでは覚えていて、大人になって桜を見ると再びその時の「感情」のみが思い起こされるのだ。だから、桜たちはよく人と話す。長期的視点に立ったリピーター獲得活動なのだと、少女は熱っぽく語った。

「だから、大なり小なり取りこぼさん様にせんと。見てみい、ソメイヨシノどもは一代限りの筈があんなに人を、それこそ籠絡しまくって今では全国を埋め尽くすようではないか。あんなに可愛い顔して恐ろしいことだ。私どころか、神様もうかうかはしておられんかも知れんぞ」

「そうか、では桜に倣って美男美女にでも化けて勧誘活動でもするかのう。しかし、そうするには先ず信仰の力が……」

「相変わらず頼りにならんの。お……! そうだそうだ、忘れておった」

 少女は背中を御扉から離し、くるりと向き直った。ようやく本来の目的をい思い出したらしい。まったく神様が余計な話ばかりするから、とさらに余計な前置きをして本題を切り出した。

「頼りにならんと言えば、頼りにならん所にわざわざ足を運んだ物好きがおるらしい」

「……何の話だかわからぬ」

「とぼけるでない。先月の頭くらいに樋口さんだか、新渡戸さんだかを持ってきた者がおるであろう」

「やらんぞ」

 間髪入れずに扉の奥の主は答えた。

「別にそんな、なけなしの賽銭を横取りしようなどという非道な行為に及ぼうとしているわけではない」

 少女が耳にした話はこうである。先月の頭に見かけない顔の、若い男がやってきて、神社にお詣りをした。別にそれだけなら特筆すべき事は何も無いのだが、わざわざ五千円札をのし袋に包んで、賽銭箱に惜しげもなく入れた。

 滅多に賽銭の上がらない神社にとって、これは大事件である。しかもその中には「祈・商売繁盛、カフェ桜山湖」とメモが入っていたと言うのだ。その真偽を確かめたい、と少女は言った。

「……地獄耳じゃの。確かに来たが、何故気にする」

「ふふ、桜の情報網を舐めるでないぞ」

 この時期、桜は風に乗ってどこまでも飛んで行く。桜木一本もないこの境内にも、どこからともなく舞ってきた花びらが落ちていた。得意げな笑みを浮かべながら少女は続ける。

「こんなオンボロ神社に商売繁盛とは気が知れぬ、と思っての」

 「カフェ桜山湖」とは、この神社からさらに先に行ったところの、長いあいだ空き家だった住宅を改築してできた喫茶店である。正確に言うなら、喫茶店となる筈のところ、である。二ヶ月ほど前からしばらくリフォームをしていたが、つい先日ようやく看板が掛かっただけで、まだ営業はしていない。

「ふぉふぉ、まあ自分で言うのもなんじゃが、専門はイボ取りと疫病除けで商売繁盛は苦手分野じゃからのう。でもまあよかろう。地元の神に挨拶に来るのは感心なことじゃ」

 分かってないな、と言わんばかりに少女はち、ち、ち、と指をふった。

「桜山と言えば、その名の由来となった私に先ず挨拶をすべきであろう。それが何だ、私を無視して貧乏イボ神様に商売繁盛祈願とは」

 極めて不満げに少女が言うと、奥の主はそれこそ分かっていない、と返した。

「お前よりずっと古くからの、土地の守り神であるわしの所に来るのは至極真っ当、道理にかなっておる」

「そんな事を言うて……確かに私より先にはおった様だが、実のところ、私とあまり変わらないのではないか?」

 少女が記憶を持った時点で、確かに社は存在していた。最初はそれこそ今、オオシダレザクラの根元にあるような小さな祠だったが、何度かの建て替えと移転を経て今の鎮座地、姿になった。かと言って、それ以上明確に歴史を遡れるかと言えば答えは否だ。実際の創建は不詳なのである。

「いやいや、一説によるとわしは鎮座より一千年ほどじゃからの」

「それは下駄を履かせすぎではないか。実のところはどうなのだ?」

「……昔すぎて忘れたわい。ふぉふぉふぉ」

「都合が悪くなるといつもすぐに忘れおって……」

 毒づきながらも何だかんだと気の合うふたりは、しばらく世間話に興じていたが、少女はやはり開店しない喫茶店のことが気になるらしい。本筋から右に左に逸れていた話題をもう一度真ん中に据え直そうと口を開く。

「しかし、もう四月の頭だぞ。当初は三月下旬開店予定だったらしいが、このままでは桜は全て散ってしまう。一番の稼ぎ時に開店しないで大丈夫なのかの」

「なんじゃ、心配なら素直にそう言えばよいものを」

「別に心配している訳ではない。桜山の名前を付けておいて、いきなり潰れるなどと縁起の悪いことをされてはかなわんと思ったまでよ。それに、神様も嫌であろう? 商売繁盛を頼みに来たのに、いきなり潰れられては」

「確かに、あそこにお詣りに行ったら潰れた、なんて言われてはかなわんのぅ」

「そう、そこなのだ!」

 少女はビシリと指摘する。せっかく桜山の名を冠するならば見事咲いてこそ、と言うわけだ。形はどうであれ結局のところ、少女は桜山の新しい仲間となる、喫茶店の主を心配しているのだった。

 だが、まもなく自分は散ってしまう、と少女は焦っていた。

 人に対して影響力があるのは、言うまでもなく幹よりも花である。オオシダレザクラほどの大木にもなれば、それだけで見る者を圧倒する迫力も持つが、幹を見て「美しい、素晴らしい」と感嘆するのはどちらかと言えばマニアの類だ。大抵の者は「すごいな」の一言でさらっと流して次に行ってしまう。葉桜についても同じ事が言えよう。

「だから、幹さんにゃ悪いが私でないと駄目なのだ」

 そう少女が言うと、

「花は散りすぎ、葉桜未満のお前で、どれだけ影響を与えられるかのぅ」

と、残酷で容赦ないツッコミを奥の主が入れた。少女はますます不機嫌になり、クドクドと愚痴とも説教ともつかない話を始めたが、やがて諦めたのか、疲れたのか、床に「あ〜あ」と大の字になって寝転び、話すのをやめた。

 

 と、その時。

 境内の静寂が破られた。桜に次いで今日二組目の来訪である。楽しげに話しながらやってくる、若い男女の二人組は、この神さび過ぎた境内には異質な存在であった。二人は賽銭箱の前に来ると幾らか小銭を投げ入れ、拝み始めた。

 少女はその二人組を観察する。女の方はこざっぱりとした格好で、艶やかな黒髪、いかにも真面目そうな容姿、年の頃は二十の半ばくらいか。翻って、男の方はどうだろう。無精ヒゲに耳が半ば隠れるくらいの髪、だらしなく胸元の開いたシャツ。

 軽佻浮薄を絵に描いたような男。当世風に言うなら所謂チャラ男だな……こやつらは何が楽しくてこんな所で拝んでいるのか、と少女が思った矢先である。

「糸桜よ、この男がお前の待っていた男だぞ」

 そう奥の主が言うので、少女は耳を疑った。

「え? ……こんなチャラ男がか?」

 わざわざオンボロ神社にまで来て、それなりの金額を奉納するのだから、生真面目な男なのだと思い込んでいた。だが、実際はさにあらず。明らかに落胆する少女を見て奥の主は言った。

「見た目だけで判断してはならぬぞ。ほれ、見てみい。あの真面目な拝みっぷりを」

 手の合わせ方は自己流全開で、お世辞にも良い拝み方とは言えなかったが、異様な力の入り方から確かに真剣味は伝わる。見た目に反して以外と真面目な者なのかも知れなかった。

「それで、どうなのだ?」

 少女は訪ねた。

「どう、とは何じゃ?」

「ほれ、あの二人、何をお願いしておるのだ」

 拝んでいる者の心、願い。それが分かるのは、拝まれている対象、奥の主だけである。少女は奥の主に、それを教えろ、と言っているのだった。

「う〜ん、どうしようかのう。最近は個人情報保護がうるさいんじゃが……」

「漏らしたとて誰も罰さぬわ! 意地悪ぅせんで早う言え!」

 少女はきぃきぃと騒ぎながら御扉を叩いた。かすかに木がきしむ音が漏れる。

「分かった分かった。変な音が出たら訝しむじゃろう」

 では、と一拍おいて、十分に勿体を付けてから、奥の主は少女に告げた。

 男の名は「健」、女の名は「良子」。喫茶店のリフォームが、業者の予定が狂ったせいで一ヶ月ほど遅れてしまったこと。だが、ようやく工事が完了し、来週には開店できそうなこと。その際には商売がうまく行きますように、と。

「そして……ほう、どうやらこの足で桜山の、とある桜を見に行くらしい」

「……!?」

 少女の目が輝く。

「何でも、一番立派な桜だそうだ。良子はまだ見たことがないらしいが……健はその桜を見て、ここに店を構える決心をしたらしい」

「……な、なるほど」

「……なんじゃ、挨拶に来ないどころか、お前にベタ惚れでここまで来たのではないか。覚えとらんのか」

 少女は目線を脇へ逸らし、口笛を吹いた。――全っ然覚えとらん。

「ボケが始まったかいの」

「……仕方ないであろう! 私は人気者の桜なのだ! 毎年何万人という者が訪れるのに一々覚えてはいられん!」

 少女は開き直った。開き直るしかなかった。そして、少しだけ恥じた。

「お。拝み終わって出て行くぞ。早う持ち場へ戻った方が良いのではないか。幹だけでは駄目なのじゃろう?」

「む、確かにこんなカビ臭い所にいつまでいても仕方がない。ではの」

 少女は頬を紅潮させながら、いそいそと出て行く。

 あれだけを見れば、まるで人間の乙女のようなんじゃが、と奥の主はつぶやいた。

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その二

 

 少女はいつものようには風に乗らず、健と良子の足下を一緒に歩いた。自然と足取りにスキップが混じる。くるくると、つむじ風に舞う桜花のように前を行き、後ろを行った。

 少女はいつになく上機嫌であった。何万人と観光客が訪れ感嘆はしてくれても、わざわざ地元に来て商売や定住してくれるというのは、そうあることではない。それどころか、桜山湖周辺の人口は減って来ているのだから尚更である。

 今時感心な若者よ。先程までチャラ男扱いだったことも忘れて、少女は男を褒め称えた。これは、何としても商売を成功させてやらねばならぬ。

 

 やがて、二人とひとりはオオシダレザクラの下に着いた。

「残念だなぁ、満開の時を君に見せたかったのに」

 そう健に言われて、少女は奥の主の言葉を思い出した。

 ――神様の言ったとおり、私は今、花は散りすぎ、葉桜未満の半端桜でしかないのか。

 桜にしてみれば花びらは大半が散り、萼と生え始めの葉が混じっている今は、最も中途半端な時期であった。不本意だ、と少女は思った。せめて、もう少し早いか遅いかすればもっと美しい姿だったものを。今は言ってみれば、羽の生え替わり途中の、ハゲ鳩のようなものだ。

 だが、良子は特に残念がるでもなく、落胆するでもなく「ううん、いいじゃない」と言った。

「だってケンちゃん、来年もここでお店、続けるんでしょ? だったら来年見られるから、楽しみに取っておく」

 健よ、良い娘を得たな。少女は思わず目が潤む。では、最低でも来春までは、いや、そんな志の低いことでどうする。十年でも二十年でも続けさせてやろうではないか、と少女は意気込んだ。

 桜が取り持つ商売繁盛。それは大きく分けて二つの方法がある。

 一つはいつもと同じ。華やかに、美しく咲くことである。花が咲けば観光客が訪れ、地元に多少なりとも金は落ちる。広場での花見客やバスツアー客は、少し外れにある喫茶店に立ち寄ることは殆ど無く、その恩恵に与ることは無いであろう。だが、ハイキングがてら桜山湖を一周する者も花の時期は多い。そういった観光客には、あの位置の喫茶店は格好の憩いの場や休憩所となろう。

 もう一つは知恵を授ける事である。熱心に祈る者に対してちょいと念じると、稀にこちらの考えがストンと伝わることがある。少女の経験で言えば、相手の祈る思いが強ければ強いほど伝わりやすい。断片的、感覚的に伝わるので、人はそれを「閃き」と感じることが多いようだ。

 健と良子は先ほど神社で拝んだのと同じように、根元の祠に向かって祈り始める。

 形はともかく気持ちは十分に合格点だろう。贔屓目か、神社での祈りより、こちらでの祈りの方が真剣なように少女は感じた。

 よし、これくらい気持ちが入っていれば何かしら伝わるであろう。少女も真剣に念じ返す。

「……うわっ!」

 健が素っ頓狂な叫び声を上げたので、良子は祈りを中断された。

「な、なに? どうしたの?」

「今! なんか飛んできた! レシピが!」

「……え? え?」

 桜たちの時々開いている、例の新商品開発会議。いくら作っても、それだけでは意味を成さない。だからこの様にして、人に伝えて形にしているのだった。それは設計図であったり、アイデアであったり、今回のようにレシピであったりする。

 上手く伝わったようだな、と少女は一安心した。これは我々の自信作。弘太の奴にはその良さが分からなかったようだが、コーヒーの専門家であるならきっとその素晴らしさが理解できよう、と。

「良子ちゃん、今拝んでいたら閃いたんだよ!」

 それは桜山に相応しい、桜をふんだんに使用したコーヒー。

「さくらマウンテン! これ、きっとこの桜が教えてくれたんだよ! 早速帰って試そう」

 喜び勇んで帰る健と、困惑、気圧され気味についていく良子を見送りながら、少女はカフェ桜山湖の商売繁盛を確信した。

 

 だがしかし。次の日のほぼ同じ時間帯。かの二人組はまたオオシダレザクラの前にいた。

「……なんか、独創的すぎる味だったよね、良子ちゃん」

「……レシピ、聞き間違えたんじゃない? もう一回拝もうよ」

 新開発の自信作は、どうやら専門家にも不評のようであった。少女は祠の上で足を組みながら、不機嫌そうにじろりと二人を睨む。気に入らないから別の知恵をよこせ、というのも失礼ではないか。そう思うのだった。

 とは言え、悪気は無いのだろうし、またこんなに真剣に頼ってくれているものをそのまま帰すわけにもいかない。

 不本意だが、弘太考案のウインナーコーヒーを授けるしかない。喫茶店向きの新開発品は、ここ最近はそれしかないのだから。そう思って、少女は健に向い念じようとした。だが、やはり自信作をけちょんけちょんに言われて、そのまま引き下がるのは少しシャクであった。だから、せめてもの抵抗で、健ではなく良子に授けることにした。

「……あ、私、今閃いた!」

「え? 良子ちゃんにも? やっぱりここの桜の声なのかな!」

「二人して桜の声が聞けるなんて、私たち、凄いかも」

「やっぱり俺達、最高に波長が合うね〜」

「ね〜」

 なんであろう、これは。良子の方はもう少し真面目な印象だったが……割れ鍋に綴じ蓋という奴か。二人ともに、こんなに軽い調子で大丈夫なのか。

 ……来年、会えないかも知れぬな。少女は、カフェ桜山湖の商売繁盛を確信できなかった。

 

 後の話だが、さくらウインナーコーヒーは店の名物に、せっかくだからと試しに出したさくらマウンテンは別の意味で店の名物となった。

 健の明るい性格とそれなりの料理の腕と、桜をモチーフにした可愛らしい小物をセンス良く用意する良子の相性は、喫茶店経営には確かに良かったらしい。大繁盛はしなかったがそこそこの人気店となって、桜山湖で奮闘を続ける事になるなるのだが――それはまた別の物語。

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その三

 

「まァ、これで今年の懸案は一応片付いた」

 社殿の中で、事の顛末を奥の主に話し終えた少女は、うーん、とノビをして肩をグルグルと回した。肩の荷が下りた、という意味であった。

「何はともあれ、平和な悩みでいい事じゃ」

「うむ、何はともあれ、平和が一番だ」

 そう言うと、少女は拝殿の壁に掛けてあるB5判ほどの額縁に手をふれた。それは、紙質も内容も、あまり上等とは言えない木版画で、「櫻山湖ノ圖」とタイトルが入っていた。堤防に桜並木があるなど、今の風景とは様子が異なる。その絵を少女は愛おしそうに、もう一度、撫でた。

 そして、ゆっくりと正面に向き直ると、極めて神妙な顔をしながら――正座――二度の御辞儀――二拍手、と流れるような作法で拝礼し、柏手(かしわで)の凛とした反響音が静まった頃

「来年も、どうか綺麗に咲けますように」

と言った。

「ウム、いつもながら美しい作法じゃ。その前に賽銭が上がれば完璧であったがのう」

「はっは。花なれば、浮き世の銭は持ち合わせておりゃせん。お許しくだされ。ではそろそろ」

「ん、もう行くか。ではまた来年の」

「また来年」

 もう、何百年と繰り返してきた、桜花と神との季節の挨拶。

 咲くことが、幸せな記憶が積もることに繋がる――そう信じて、桜は咲き続ける。

 花が散り終えた枝には新緑の若葉が力強く茂り、ゆらり、ゆらりと春風にそよいでいた。

 

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拙作『桜の子』後日談
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