世界の色 |
「君には、人がこう見えてるの?」
初めてそう聞かれたのは確か幼稚園のお絵かきの時だったな、
と黒瀬拓海は思い返していた。
年中から年長に上がって、最初の授業だったはずだ。
その時担任だった若い女の先生が
「仲良くなるために隣のお友達の似顔絵を描きましょう」と笑顔で手を叩く。
絵を描くのは好きだった。
当時は拓海が絵を描く度に、両親がどこか不思議そうな顔をしながらも
「上手ね」だの「芸術的だな」と言って頭を撫で、
笑顔で、褒めてくれていた。
だからこそ、拓海はいつものように、配られた無地の画用紙を机に敷くと、
隣に居た女子を手にしたクレヨンで見たままに書きなぐっていった。
ざらざらとした線が形を作る。丸を描き、その中に顔のパーツをはめ込んでいく。
幼稚な線の集合体が、徐々に、徐々に人物に変化していく。
それが、拓海には心地よく、次第に周りが気にならない程に集中していった。
どれだけ経っていたのだろう。
あと少し、彼女のもっとも特徴的な大きな瞳を入れれば、完成する。
そう思った時だった。一瞬、集中が途切れたからだろうか、
不意に、頭上から「ちょっと!聞いてるの!」と鋭く甲高い声が落ちてくる。
何かと思い辺りを見回す。
拓海が似顔絵を描いていた女子がぐずっている。上を見る。
担任の先生が、拓海こそが世界の悪の権化とでも言わんばかりの顔をして、睨みつけていた。
「拓海君。私、お友達の似顔絵を描いてって言ったのよ? それなのに、これは何?お友達を傷つけて、何が楽しいの」
「えっ?」
言われて、何か自分は変な物でも描いたのだろうか、
と拓海は先ほどまで向き合っていた世界を見返す。
真っ白な画用紙の中央に、
肌色で紙の半分程の大きさの円が目を入れる部分を除いてべったりと塗られている。
その円の上半分は黒でジグザグと縦に線を入れ、
左右からは丁度肌色の円の下辺りまで黒い毛束が伸びている。
円と毛束の付け根には白い猫の顔が二つ付いた髪飾りが申し訳程度にくっついていた。
そして肌色の、顔から下には三角形で水色の園児服、
紺色のプリッツスカートと続き、更にマッチ棒の様な手足が生えている。
見返しても、ここまで何も可笑しな物は無い筈だ。確かにまだ瞳は入れていない。が、それはこれから入れるのだし、何よりそこまで怒られる事だろうか?
「まさか、分からないなんて言わないわよね?」
拓海がずぶ濡れになった猫の様な顔でうんうん唸っていたからだろうか。
目の前の女子を撫でて泣き止ませていた先生がいぶかしむ様な声を出す。
拓海はこくり、と小さく頷いた。
すると彼女は途端に「信じられない!」とヒステリックに叫んで、
泣いていた女子の机を叩く。
その音に驚いたのか折角泣き止み始めていた女子が再び泣き叫ぶ。
泣いたり、いぶかしがったり、怒ったり、感情に忠実なんだな、
と拓海はぼんやりと的外れな事を考えた。
「先生、疲れない?」
「そんな事どうでも良いの!」
「でも、泣いちゃってるよ」
「誰がよ!」
「その、女の子」
「誰のせいだと思ってるの!」
先生のせいじゃないかな。そう言いかけた言葉を飲み込む。
変わりに「何が、駄目なのか分からないよ」と口を突き出した。
「何がって」彼女は顔を顰める。
「人の肌を黒で塗って、髪も緑、服も真っ赤、スカートはピンク。
こんな気持ち悪い配色良く出来たわね?それに、この空白の部分」
とん、と爪先の整えられた中指で拓海の絵の、これから瞳を入れる予定の場所を静かに弾く。
拓海はあれだけ怒っていた彼女が激しく叩きつけなかった事にも驚いたが、
それよりも自分の使った筈の色と彼女の言う色が大きく食い違っている事に戸惑う。
黒?緑?赤?ピンク?一体、何の冗談だ。
「先生、僕、そんな色、使ってないよ」
詰まりながらも、必死に言葉を紡ぐ。
しかし、先生は拓海の言葉など聴いてないかの様に
「ここ、目が入る……のよね?」と確認してくる。
「なんで顔の殆どが目なの?口は?鼻は?なんで、無いの。
しかも……なんで、一つしかないの……?」
「え?」
拓海は泣いていた女子を見る。
顔の真ん中にある顔全体を覆うたった一つの潤んだ大きな瞳。
そこには、絵に描いた通り瞳以外は存在しない。
いや、正確には口もあるのだが、如何せん小さすぎて殆ど見えないので、
描いてない事をここまで攻められるとは思えない。
何も、可笑しな所は無い筈だ。
なら何が問題なんだ?拓海が首を傾げていると「まさか」と先生が口を開く。「まさか、分からないの……?」
ぬらぬらと照かる、縦に割れた唇が芋虫の様にうねる。
良くある光景だというのに何故だか気持ち悪いと、そう、感じた。
拓海は、自分の感覚が、存在が、見てきたものが全て崩れるような、そんな錯覚を覚える。
きっと、この先の言葉を聞いてはいけない。
本能的に耳を塞ぐ。吐き気がする。こみ上げる酸味に、何度もえづく。視界が滲む。
しかし、そんな拓海の様子には気付いていないのか先生は顔面の亀裂をこじ開ける。
それが、喋る為の動作なんだと気付いたのは
「きみは」と言葉が発せられたのを確認してからだった。
その言葉は、耳を塞いでいる筈なのに、嫌味なほど鮮明に拓海の鼓膜を震わせる。全身に力が入る。
逃げ出そう、そう考えもしたが、何故だか足に力が入らない。
怯えているのだ、と思った時には、もう、手遅れだった。
「君には、人がこう見えてるの?」
ぐらり、と拓海の世界が揺れる。
先生の表情が驚愕に染まる。周りの園児達は理解できない、といった顔をしていた。
あ、倒れてるんだ。思うと同時に、拓海は耳を塞いだまま体を床に叩きつけていた。
「拓海くん?どうかしたの?」
女性の心配するような声で、拓海は思い出の世界から現実へと引き戻される。
まだ先ほどの体験を引きずっているのか、
やれ走るぞ、全力疾走だ。と全身に血液を送るため心臓が強く主張している。
それに伴い呼吸も浅く、速い物になっていた。 拓海は、額に汗が滲むのを感じた。気持ちの悪い脂汗だ。
それをみた彼女が、「大丈夫?今日はもう止めようか?」と背中をさすってくれる。
柔らかな掌の感覚が上下に行ったり来たりすると、じんわりと背中が温かくなる。
ただ、それだけだというのに安心感からか、心臓が少しずつ緩やかになる。
不意に、消毒液の匂いが鼻腔をくすぐった。余裕が出たからだろう。
その匂いをこれでもか、といわんばかりに鼻から思い切り吸い込み、
ゆっくりと口から吐き出す。
軽い眩暈と共に、世界が揺れる。
拓海はこの病院らしい匂いが好きだった。妙に、心が安らぐ。
何故これ程落ち着くのか断言は出来なかったが、一つ、心当たりがあった。 自分の世界と他人の見る世界の違い。
今の拓海にとってはすでにどうでも良い事ではあるが、
初めてそれを知った時には、それこそ世界が終わった様な感覚に陥っていた。
周りからおかしな目で見られる。両親からは虚言癖を疑われる。
それはそれで確かに辛い物があったが、何よりも拓海が苦痛に思っていたのは、
もしかしたら色や見た目だけでなく、例えば匂いや感覚等、
自分の見聞きしてきた物全てが誤りだったのでは?という耐え難い不安だった。
そんな中、七歳になるかならないかの年だ。色々な方面から調べてみよう、
と訪れたのが病院だった。
虚言を疑っていた両親は最初、精神科に行こうとしていたが結果、行った先は脳外科だった。拓海が「まずは頭を調べるべきだ。パイナップルみたいに、輪切りにしよう」
と顔を真っ赤にさせて頑なに主張した為だった。
なぜなら、拓海としては見える世界が違うだけで他は何も異常はないと思っていたし、
なにより真っ先に心配するのは頭の方だ、と思っていたからだ。
もしかすると、以前違うクラスの園児に
「おかしいのは目じゃなくて頭だろ?」とからかわれたのが原因かもしれない。
簡単な問診を受け、CTを撮る。
そこで、拓海は原因を知った。
脳の視覚連合野、と呼ばれる部分に陰性だが二ミリ程の腫瘍が見つかったのだ。
生まれつき、らしい。
それにより拓海の脳は色を正確に処理できず、
誤作動を起こして違う色として認識してしまう、と説明された。 その時、拓海はそれを切除することも出来る、と治療を勧められたが、断った。
それでもなお医師と両親は説得を試みていたが、拓海としてはたかが誤作動。
しかも、今まで気付かなかったレベルの
正確な誤作動ならば経験でカバーできると信じていたし、
何より、今まで自分が生きてきた愛すべき日常を手放したくは無かった。
故に、なんといわれても拓海は拒絶し続けた。
結果、拓海は月二回、定期検診を受ける事になった。
腫瘍が陰性から陽性に変わる可能性がある事と、
人の顔まで変わって見える原因が不明だったからだ。
そこまで考えて、もしかしたら、と拓海は呟く。
もしかしたら、全てが解決したとは言えないが、
少なくとも視覚以外には問題が無かったと判明した場所。自分の一番不安だった部分が消えた場所。
それがあるから、僕は病院の匂いが好きなのかも知れない。
眩暈は、無くなった。
「……拓海くん、落ち着いた?」
何度か深呼吸を繰り返した後、彼女……ゆかり先生は、拓海の顔を不安げに覗き込んでくる。
明るい茶色に染められた肩までのショートボブが、
ゆかり先生の顔の傾きに合わせて流れ落ちる。
「あっと……すみません。もう、大丈夫です。……で、なんの話でしたっけ?」
落ち着きを取り戻したからか、
息と息がぶつかりそうな程近くにある彼女の顔に急に照れ臭さくなり、
拓海は思わず背をのけぞらせる。
そうしてから、心配してくれたのに避けるような行動をとってしまった事に気まずさを覚え、誤魔化すように少しばかり顎を引いて頭を掻いた。
しかし彼女は気にする風でもなく「えっと」といい、
白ウサギの写真が入れられた分厚いフォトフレームの置かれた診察机の上から、
B5サイズのスケッチブックを拾い上げる。
「この、さっき拓海くんが描いてくれた私の絵なんだけれど」
「あぁ、そうだ。思い出した。えぇ、そう、見えますよ。
自分で言うのもなんですけど、結構良く描けてる方だと思います」
言って、拓海は彼女が眺めているスケッチブックの絵を思い出す。
拓海の見ている世界を、他人が体感する為に十二色の色鉛筆で写したものだ。
あまり時間をかけたものでは無いが、色や顔の配置なんかは正確なはずだ。
「それ、自分で言っちゃうの?……でも、そっかぁ…… 拓海くんにはこう見えてるのかぁ……なんでだろうねぇ?」
と、ゆかり先生は苦笑しながら間延びした声で言う。
それを受けて、拓海は反射的にそんな事言われても、と言おうとしたが、
これはゆかり先生が彼女自身に向けて問いかけているのだと気付き、言葉を飲み込む。
直後、案の定先生は何度も繰り返し「なんでだろー?」と音程や言い方を変えながら、
回転椅子でくるくると遊んでいる。その様子は、まるで子供のようで、
十五歳の自分よりも十は年上であるはずの彼女の方がずっと幼く思え、
思わず噴出してしまった。
途端、彼女は拓海のいる方向でぴたりと止まり「どうかしたの?」と拓海に尋ねてくる。
笑いが、こみ上げてくる。「先生、患者の前で何でだろうを連呼しないでくださいよ。不安になるじゃないですか」
「拓海くんは治す気ないんだから平気でしょ?それよりも……
うん。ちょっとパニックになりやすいみたいだけれど、
他はスキャンも、会話も問題ないね。
なのに、こう見えるっていうのは、やっぱり色と同じ場所が原因なのかなぁ?」
と間延びした声で言って、スケッチブックを見ながら先生は自分の顔を撫で回す。
「色は良いとして……んー、そっかぁ……
おでこに一つ、右頬骨に一つ、左頬に一つ……私、口が三つもあるのかぁ……」
「というよりも、先生は基本的には口だけですね。
たまに、目が浮かんできたりしますけど、それだけです」 立ち上がり、先生を見下ろす形になってから拓海は似顔絵の顔の中心よりも上、
髪の生え際との中間を指差す。
彼女はそれをみると、差された指から肩、そして拓海の顔と順に視線を動かし、
少しの間の後、桜色の、薄く小さい唇を三つ同時に不満気に突き出す。
何故彼女がそんな表情をするのか分からず、
拓海は今の説明では理解されなかったのかともう一度説明方法を探す為頭を働かせるが、
彼女は視線を拓海の指先に戻しまた自分の顔を、今度は人差し指でゆっくりとなぞっている。
気になって、先生、と拓海が呼びかけようと口を開くと同時に、
彼女は「口だけって言うと、口出しするだけの人みたいで嫌だなぁ」と恨めしそうな声を出す。「まさか、そんな事でむくれてたんですか」
「だって、口だけの女だなんて思われてるのって、悔しいじゃない」
頬を膨らませながら拓海を見る。
「意味が違うじゃないですか」
「違うけど、傍から聞いたら違くないでしょ?」
「それは、そうかも知れないですけれど……」
「どうせなら、目の位置に口があれば目は口ほどに物言う女、になったのに。
……あ、でもそれだと拓海くん目線じゃ分からないか。
なら、私は眉間の間に目があるみたいだし、これからは眉目麗しい女性、
って思って欲しいなぁ」
肩をすぼめながら冗談めかす彼女に、
拓海もそれと分かるように「あ、確かに綺麗ですしね」と返す。
すると「もう!」と彼女は顔を赤くして俯いた。可愛い。拓海は、心の中で呟く。
「もう……私は、良いけれど、あんまり大人をからかっちゃ駄目よ?」
先生は、じんわりと目を浮かび上がらせると、拓海を恥ずかしそうに見上げる。
直後「あ、そうだ」と何かを思い出したかの様に頭を上げると「拓海くんは」と言葉を切る。
眼は、消えている。
「拓海くんは……私の事、どう思う?」
「えっ?」
何を急に、とも言えず固まる。質問の意図が、まるで見えない。
答えに詰まる拓海を見て、
どう解釈したかは分からないが彼女は「変な意味じゃないんだけれど」慌てて付け加える。
「信用してる、とか、好きだな、みたいな……私、拓海くんにどう思われてるのかなって
ちょっと気になっちゃって……変、かな」 首を傾け、回転椅子に座ったまま一歩、近づいてくる。
動きに合わせて、卵のような輪郭に沿ってさらり、と薄く茶色に染められた髪が流れる。
形の良い唇を不安そうに堅く結び、小さく震わせている。
気が付くと、いつの間にか拓海のワイシャツの裾を静かに、弱々しく握っていた。
後ろに、一歩下がるだけで外れてしまいそうなその手を
何故だか外してしまってはいけない気がして、
拓海は、一歩も動けずに立ち尽くす。
「拓海くん……?ねぇ、聞かせて?好きか、嫌いかだけでもいいの。お願い」
縋るような、声だった。
「ど、ちらかといえば」声を、絞り出す。
「好き、です」
「……本当?」念を、押される。
何故、彼女はこんなにも必死なのだろう。何故、自分はこんなにも動揺しているのだろう。
……動揺?僕は、動揺してたのか、と今更ながら拓海は気付く。
途端に、心臓が高鳴る。
「本当、に、どちらかと言えば、です、けれど」言葉に詰まり、
一息に言葉に出来ず、細切れにして並べる。
「そう!よかったぁ……!」彼女は途端に手を離し、両手を顔の前で合わせ、喜ぶ。
さっきのは一体なんだったのだろう?思考が、纏まらない。彼女は、続ける。
「ねぇ、拓海くん。一度でも、私と……他の人と同じ景色を見たいと思った事って、ある?」
「お、同じ?」
「うん。拓海くんとは違う、一般的な景色。どう?見てる世界を、変えたいって」
不自然に切られた言葉にも、拓海は一度だけならば、と首だけで肯定を示す。しかし彼女は「頷くだけじゃ、駄目。言葉で、直接伝えて?」
ゆっくりと、拓海の右手を彼女の両手で包み込む。
顔が、目の前にある。いつの間にか立ち上がっていたらしい。
彼女の後方に、後ずさる椅子が見えた。
「さぁ、拓海くん?」拓海の首に、細い腕がまとわり付く。
消毒液の匂いとは別の、蜜柑のような甘い香りがうっすらと漂う。
「大きな声で、答えて」吐息交じりの囁きが、耳を撫でた。
喉が、渇く。喉を、上下に動かすと、拓海の中でゴクリ、と音が反響する。
ゆっくりと、干からびる口を開く。
「思い」拓海の中で、これで良いのか?と声がする。
これで、正しいのか?「ました」思考よりも、口が動いていた。
普段なら、冷静な状態なら決して口にはしなかった言葉。「思いました」声に、出していた。本当に?自身に問いかける。返事は、無い。
「よくできました」
瞬間、首筋に鋭い痛みを感じる。「え?」と思うと同時に、体の中に何かが注ぎ込まれる。
世界が揺れる。体から、力が抜ける。
あ、また倒れてる。
拓海は、唖然とする園児の群れと、にやつく三つの口を見た。
まぶしい。最初に、そう思った。腕で顔を覆う。
耳元で、柔らかな布同士の擦れる音がした。影を作りながらゆっくりと眼を開く。
そこは、黄色で染められた部屋だった。
なんとなく病室に似た物を感じたが、
少なくとも拓海の知る中で黄色い病室など見た事はなかった。
首を動かし、周りを確認する。
どうやら自分のいる場所はベッドらしかったが、黄色で統一され、落ち着かない。左手にはパイプ椅子が置かれ、
その上には拓海の学生鞄に良く似た赤い鞄が乱雑に置かれている。
拓海は、ぼんやりとした頭で「色違いなんてあったのか」僕のは青いのに。と呟く。
右手には黄色のカーテンが敷かれていて確認できないが、
部屋の作りからするとベッドか扉があるのだろう。
良く見ると、人影が蠢いていた。二人分の影が、宥め合う様にして並んでいる。
「誰か……いるの……?」声が、掠れていた。
多量の空気と共に吐き出された言葉は、小さく聞き取りにくい物だったハズだが、
人影達はぐん、と背丈を上げ、小さくなる。
それが、座っていた影が立ち上がりこちらに近づいているのだ、と認識すると同時に、
カーテンが勢い良く開かれた。 その瞬間、拓海は体温が急激に下がったように錯覚した。
目の前には人間に良く似た形をしたナニかだった。
片方はピンクのコートらしき物を羽織り、もう片方は白衣に似た黄色い布を纏っている。
全体的には人間に良く似ていたが、問題は顔だった。
二つ同じ高さに並んだ眼、その上に、同じように並んだ毛、
その間を割って入るようにして生えている鼻、その下に生えている唇。
パーツはどれも人間と酷似していたが、見た事のない配置をしていた。
更にありえない事に、それらは二体とも殆ど同じ配置をしていた。
拓海の知る人間ならば、似た配置やパーツをしていても個数や色、特徴が違ったが、
ここまで同じ顔を見るのは初めてだった。 「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。未知に対する恐怖だった。
ピンクが、口を開く。
「ダイジョウブ?」や「ヨカッタ」等と鳴いていたが、
何故だかそれの声は拓海の母に良く似ていた。疑問が、頭を駆け巡る。
「オハヨウ、拓海クン。気分ハ、ドウ?」黄色が、話しかけてくる。
ゆかり先生の声に、酷く似ている。気持ちが、悪い。
「なん、だよ……なんだよ、お前たちは……なんなんだよ!」精一杯の、虚勢だった。
叫ぶと同時に、頭が割れるかのようにズキズキと痛む。吐き気がする。
「ソノ様子ダト、世界ガ違ッテイルノネ?」頭を抑える。何かが、巻かれている。
「おめでとう。手術は成功よ、拓海くん。」
「しゅ……じゅつ……?」 頭に巻かれた包帯を抑えながら、拓海は考える。手術って、なんの。
「腫瘍の摘出手術よ。よかったわ、成功して。これで貴方も、普通の人ね」
拓海の思考を読んだかの様に答える、黄色。
ねばつく不安感が、足元からじわじわと拓海を覆い始める。
「普通の……ヒト?」
「だって、貴方言ったでしょう?
私と、他の人と同じ世界が見たいって。覚えてない?」
勿論、覚えている。
ついさっき、自分がゆかり先生と交わした会話だ。忘れる訳がない。しかし
「なんで……お前がそれを……」
お前だなんて、とピンクが言ったような気がするが、そんな事はどうでも良かった。
今までの流れから、一つの可能性も見えている。
それでも、拓海はそれを認めたくなかった。認める訳には、いかなかった。拓海は、吐き気を抑えながら黄色を見据える。
黄色はにんまりと笑うと、それがさも当然であるかの様に、宣言した。
「私が、ゆかりよ?拓海くん」
「嘘だ」思わず、呟く。
「本当よ。私が、手術したの」
「なんで」言葉が、文章にならない。
「拓海くんが、望んだから」
「そんなこと、望んでない」あの世界を愛していたのだから。
「記憶が混濁してるのね?」
これが証拠よ、と黄色が取り出したのは診察室にあった物そっくりの、
黄色いうさぎの写真が入れられたフォトフレームだった。
「これ、ボイスレコーダーになってるの。言ったでしょう?」
「言ってない」胸が、苦しい。
「これも忘れちゃったのね?仕方ないわ、大手術の後だものね」黄色が大げさに残念がる。「嘘だ」
「嘘じゃないんだってば。ほら、聞いて?」
見てる世界を変えたいって?……思います。
切り取られた、その言葉だけが、流れた。
思い返せば、不自然だったのだ。
急に、自分をどう思うかと聞いてきた事も。
拓海のような子供に好意があるかの様に振舞ったのも。
世界を変えたいか等と聞いてきた事も。
頷くだけでなく、大きな声で言えと言って来た事も。
全てが、あの音声の為。
「手術で記憶の混濁した子供」を作り上げる為の、布石だったのだ。
動揺させ、自分の求める答えを出すような質問の仕方をし、必要な言葉を機械に入れる。
ただ、それだけの。
それを認識した途端、拓海の可能性が確信に変わる。
僕は、だまされていたのだ、と。 遠くで、母が「これで、この子も普通の子になりました」だの
「有難う御座います……約束のお金は、必ず」等と言っているのが聞こえた。
そうか、先生は金の為に、僕を騙したのか。
母は、普通の子供が、欲しかったのか。
どこにも、僕の意思なんて、無い。
拓海は、見知った、馴れない世界を駆け出す。
背中から、自分を呼ぶ声がした気がした。
世界は、拓海の知っている世界とはまるで違った。
水色だった患者服は真っ赤に染まり、人間の肌は夜の様に黒く、
眼と思われる位置だけが黄色く光っている。
看護師たちの白衣も、原色に近い黄色をしていて、眼が痛む。
思わず外をみる。
太陽が照っているが空は夕暮れ色、植物の緑は紫に染まり、風にゆれていた。気持ち悪い。吐き気がする。
額を、暖かいものが伝う。頭の傷が開いたのかも知れない。
それでも、拓海は止まることはしなかった。
当ては無い。ただ、愛おしい元の世界に戻りたかった。
ただ、人の居ない場所に行きたかった。
それだけの為に、拓海はがむしゃらに、流れる悲鳴の波の中を走り続ける。
人の居ない方へ、人の居ない方へと走ったからだろうか。
拓海はいつの間にか、屋上に出ていた。人間は、誰もいなかった。
拓海は、静かに鍵をかける。
これで、暫くは誰も屋上に出てこれないハズだ。ひとまず、乱れた呼吸を整える。
空は、相変わらず赤い。
一歩、扉から離れる。
次の瞬間。幾人かの足音と怒号が聞こえ、ドアノブが、がちゃがちゃと悲鳴を上げた。思ったよりも、早いな。口の中で小さく呟く。
このままだと、この扉も長くないだろう。
確か、あの病院は七階立てで、
屋上の鍵があるのは五階のナースステーションだったはずだ。
行って、戻ってくる時間を考える。稼げる時間は精々五分程度だろう。
それで、十分だった。
深く、息を吸う。
空との境界線である金網を、よじ登る。
血が足りないのか、何度も気を失いそうになるが、まだだ、と踏みとどまる。
拓海は、知っていた。意識の世界から、現実へと戻る時の、条件。
幼稚園の悪夢から逃れた時も、初めて病院に来た時の事も、
この、気持ちの悪い世界に迷い込んだ時も。
拓海は、必ず宙に浮かんでいた。
崩れ落ちる瞬間に感じる浮遊感。着地して体を地面に叩きつける瞬間。
これこそが、現実と意識の世界を分けるのだと、確信していた。
これらの衝撃が強ければ強いほど、幸せな世界にたどり着ける。
拓海は、堅く信じていた。
右手を伸ばす。きしり、と金網が軋む。
そういえば、と左足をかけながら思い返す。
腫瘍を取られて、人間の顔も変わったという事は、
やはりそれが拓海の世界の大元だったのだろう。
だが何故、あんなにも変形して見えていたのだろうか?
今、自分のいる世界と、今まで見てきた世界。どちらが、正しい世界なのだろう。
金網を、跨ぐ。突風に吹かれ、体が飛ばされそうになるが、耐える。
落ちるんじゃない。浮くんだ。体を、空側へと移動させる。落ちないように、ゆっくりと金網を降りていく。
正しさは、きっと、誰にも証明出来ないのだろう。
金網の向こう側で、扉が開くのが見える。
それは本来、誰も気付かないことかもしれない。
例えば。幼稚園の担任のように、同級生達のように、両親のように、先生のように、誰も。
真っ黒な影が、眼を見開いている。
しかし、拓海は気付いてしまった。
自分の見ていた世界は、こんなにも脆く、儚いのだと。
影達がゆっくりと、駆け寄ってくる。
今の拓海を突き動かすのは、たった一つの、不確かな確信。
右足が、コンクリートを踏みつける。
この世界は、僕の世界じゃない。
影が、境界線の向こう側でひしめき合っている。重心を、後ろに傾ける。
母親の声が、聞こえた気がした。体が宙に投げ出される。空は、まだ赤い。
世界が逆さまになる。屋上が、遠ざかる。
思っていたよりも、そのスピードは遅い。
結局の所、と拓海は考える。
頭から流れ出した血液が、重力に逆らい額を流れる。
僕の見ていた人って、結局なんであぁ見えたんだろう。流れた血液が眼に入る。
痛みを感じ、思わず眼を閉じ、すぐに開ける。
そこには、拓海の見知った、青い空が、目の前に広がっていた。
重力に負け、腰を地面に向けて体がくの字に折り曲がる。
「あ」帰って、来たんだ。
拓海の口元は、自然と緩んでいた。
と同時に、体を貫く衝撃が拓海を襲う。
腰から始まり、跳ねるようにして頭、足と痛みが走り、遅れてぐしゃり、とスイカが潰れたような音が脳内に響く。
地面に着地したのだ、と理解した時には頭の後ろ半分を失い、脳漿を飛び散らせていた。
腰骨や背骨、大腿骨も砕けたのか筋肉を、脂肪を、皮膚を突き破り、
所々白い物が空を刺している。
もしかしたら内臓も貫通しているかもしれない。
が、不思議と痛みは無かった。
空が、青い。
薄れる意識の中、思う。
今まで僕の見ていた人達の顔は、その人の心の顔だったのでは?
口だけの人間は嘘ばかりで、目玉だけの人間は注目されたかったのかも知れない。
「あ、でも」心の中で、言い返す。
眼は口ほどに物を言う、なんていうし、真実を話してる時に眼が出てきたのかも?
世界が、滲み出す。体温が抜け落ちたかのように、寒い。そんな中で、背中だけが、じんわりと温かく、抜け出た体温を感じる。
人の心。それが眼の真実だとしたら……先生の、あの言葉。
恥ずかしそうに「私はいいけれど、大人をからかっちゃ駄目よ?」と言った言葉。
あれは、本心だったのかも知れない。もし、そうだとしたら……
ちょっと、嬉しい、かも
きっと、そうに違いない。そうだと、良いな。
心の中で呟き、拓海は満足そうに眼を細めると、大きく息を吐き出した。
一陣の風が吹く。虹彩が滲み、瞳孔は力なく広がる。瞳からは光が消えた。
鼓動が、徐々に弱まり、活動を放棄する。
どこからか、騒ぎを聞きつけた人々が拓海を囲む。
恐れと、嫌悪、好奇心が作る歪な円と喧騒の中。誰もその事に気付く者は居なかったが、
ただ一人。拓海だけが、幸せそうに微笑んでいた。
光を無くし血に染まった瞳には、澄み渡るような青空と雲だけが、穏やに時を刻んでいる。
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