凪あす むっつりイケメン紡くんと団地妻ちーちゃん高校編 |
凪あす むっつりイケメン紡くんと団地妻ちーちゃん高校編
主な登場人物紹介
紡くん:本名は木原紡。イケメン高校生。女子生徒から大人気。むっつりだけど心の中では色んなことを考えている。ちーちゃんのことが好き。でも、色々あって言えない言わない言ってたまるか。女心にはだいぶ疎い。
ちーちゃん:本名は比良平ちさき。団地妻っぽい色気を漂わせる美少女グラマー高校生。本当は紡くんのことが好きだけど色々あって自分の気持ちを閉じ込めている。紡くんと一つ屋根の下で暮らしている。
さゆちゃん:小学生のドリコン少女。好きな男の子が海の中で眠ってしまったので女一人で生きていくことを決意して勉学に励む秀才。紡くんに女に関する蘊蓄を授ける師匠。
美海(みうな)ちゃん:さゆちゃんの友達の小学生のドリコン少女。好きな男の子が海の中で眠ってしまったけど戻ってくるのを健気に待っている。紡くんと似た立場で気が合う。
狭山くん:紡くんたちのクラスメート。ちーちゃんに団地妻というあだ名を付けた張本人。以来、何故か不幸な目によく遭遇するようになった。
第1話 紡くんとちーちゃんと日常
「どうすればちさきに俺の想いを伝えられるんだ?」
イケメン高校1年生紡くんは教室の自分の席で今日もまた休み時間に悩んでいます。
2年前から一つ屋根の下で暮らすようになったちーちゃんに恋しているのです。
告白したいと常日頃から思っていますが、ちーちゃんとの関係が気まずくなっても困るので言い出せずにいます。男心はシャイで繊細なんです。
そんな紡くんの視線の先には学校1番の美少女と名高いちーちゃんがいます。
綺麗な顔に見入っていますが、超高校級の称号を冠する大きな胸にもつい目がいってしまいます。
紡くんはむっつりさんでもありました。健全な男子高校生ですから勘弁してあげてください。
さて、そのちーちゃんは姿が見えなくなるほど大勢の男子生徒たちに取り囲まれていました。
美少女でスタイルも性格も良いちーちゃんは当然のことながら男子から大人気です。ちーちゃんの関心を惹こうと男子たちがひっきりなしに話し掛けてきます。
「やっぱ、ちさきって団地妻的な色気がムンムンに漂ってるよなあ。クラスの他の女どもとは大違いだ」
ちーちゃんの中学時代からの友達である狭山くんがヘラヘラ話し掛けてきます。ちーちゃんにとっては一生ただのお友達です。フラグなんて最初から存在しません。
「やーね、狭山くん。団地妻ってなによ。私は今年高校に入学したばっかりなんだからね」
ちーちゃんはちょっと迷惑そうに狭山くんの意見に返答します。おばさんっぽい響きを感じるのでちーちゃん的には団地妻はNGです。お肌ピチピチプルプルの16歳ですから。
「狭山……ちさきと楽しそうに喋りやがって……」
でも、その様子は紡くんにはとても楽しそうなものに見えたのです。
紡くんはむっつりでなかなか上手に喋ることができませんでした。
ちーちゃんとも会話を弾ませた記憶がほとんどありません。阿吽の呼吸で言葉を発せずとも分かり合える仲なのですが、紡くん的には小粋なトークが羨ましいお年頃です。
「どうすれば、いい? どうすれば俺はちさきの恋人になれるんだ?」
告白に失敗してちーちゃんが家を出るなんて展開になっては大変です。でも、うかうかしていたら彼女を誰か他の男に盗られてしまいかねません。紡くんの悩みは尽きません。
「狭山は……海に流す」
狭山くんの処分は決定事項なので全く悩みません。紡くんは海が大好きです。
でも、ちーちゃんへどう気持ちを伝えれば良いのかはとても難しい問題です。紡くんは思わず頭を抱えて悩んでしまいます。
「紡くん、大丈夫?」
「悩みがあるのなら相談に乗ろうか?」
すると紡くんの周りに大勢の女子生徒が押し寄せてきました。
「紡くんの悩みなら何でも聞くよ」
「ちょっと! 抜け駆けしないでよ。木原くんの悩みは私が解決するの!」
学校一のイケメンで大人びた雰囲気を持つ紡くんは女子から大人気です。ギラギラした野獣のような瞳が、いえ、キラキラした乙女の瞳が紡くんを包囲します。
「いや、俺は別に悩んではない……」
突如周囲を埋め尽くした女子の壁に紡くんは当惑しています。
紡くんは女心に疎いので、何故自分が取り囲まれているのかよく分かっていません。
男子生徒たちが紡くんを激しい嫉妬の視線で睨んでいます。けれど、その原因も欠片も理解していません。
ちーちゃんも冷たい深海の底よりも凍てつく瞳で紡くんを見ています。しかし、その理由も全く理解していません。紡くんは女の子の気持ちに超が付く鈍感さんだったのです。
そして紡くんを取り囲んでいる女の子たちは相互にアプローチと牽制を始めました。
「紡くん。良かったら、放課後うちに寄っていかない? いいアロマがあるんだ。リラックスできるよ」
「なに、介抱するフリして紡くんを家に誘ってんのよ、エロ女っ!」
「今日、両親帰って来ないんだ。だから、何の遠慮も要らなくて私の部屋で木原くんの相談に乗ってあげられるよ」
「アンタ直球過ぎよっ!」
遂に女子生徒同士で掴み合っての乱闘が発生し始めました。教室内は大混乱です。
「何なんだ、一体?」
そしてこの期に及んで紡くんは何故争いが起きているのかまるで理解していません。まるでラノベの鈍感主人公です。
女の子たちの拳が炸裂し、男子生徒が盾にされてサンドバックになる阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されています。
後1分で次の授業の先生が到着してしまうというのに大変です。
そんな時でした。ちーちゃんが立ち上がって紡くんの元へと近寄っていったのは。そして彼女は少し大きめの声で紡くんに意見したのです。
「紡ぅ。今朝、洗濯物の中にパンツが入ってなかったけど、ちゃんと出しておいてよね」
教室は一瞬にして静まり返りました。静寂がちーちゃんと紡くんを包み込みます。
「ああ、すまない」
紡くんは小さく頭を下げました。
「それから、明日の紡の洗濯当番の時は、私の下着も一緒に洗ってよね。うちには洗濯機を何度も回すような経済的な余裕はないんだから」
「ああ、分かった」
教室内にいた男子も女子も一瞬にして床に崩れ落ちました。戦いは終わったのです。
「後、今日は放課後に一緒にサヤマートに寄ってもらうからね。特売なの」
「分かった」
「頼りにしてるからね、荷物持ちくん」
「ああ」
ちーちゃんは紡くんの肩をポンっと叩くと鼻歌を交えながら自分の席へと戻って行きました。
「どうすればちさきに俺の気持ちが伝えられるのか……全然分からない」
紡くんは相変わらず悩んでいます。
「気持ちを伝えるも何ももう十分バカップルじゃねえか」
狭山くんの呟きに教室の全ての生徒が首を縦に振って頷いたのでした。
今日もいつも通りのクラス風景でした。
了
第2話 紡くんとちーちゃんとデート
「フ〜。どうすれば、ちさきに想いを伝えられるんだ?」
紡くんは今日も教室の片隅で空を見上げながら悩んでいます。
イケメンが思い悩む様は絵になります。格好良すぎて女の子が引き寄せられてしまうのも無理もないのでした。
「ねえ、木原くん」
さり気なく、けれど確実に紡くんの視線を遮りながら少女は話を切り出しました。
「何?」
青空に替わって視界に入り込んできたクラスメイトに首を傾げながら紡くんは尋ねます。
「木原くんは明日の日曜日、何か用事ある?」
期待しながら紡くんの顔を覗き込む女の子。
「いや、特にないけど」
紡くんは女の子の話の意図が分からず困りながら返答しました。
「じゃあさ、あたしと一緒に街まで買い物に付き合ってくれないかな?」
「…………えっと、何故?」
ここまで露骨に誘われても紡くんは女の子の意図と想いを把握しません。
「………………紡っ」
右方から突き刺さるちーちゃんの視線にビクッと身体を震わすだけです。
ちーちゃんの冷たい視線は紡くんをデートに誘った女の子にも向けられています。
でも、その子はめげませんでした。女は度胸なのです。
「実はね、比良平さんに似合いそうな初夏モノの服があってさ。プレゼントしてあげたら喜ぶんじゃないかと思って」
ちーちゃんを餌に紡くんを釣りに来ました。スゴい根性です。ちーちゃんの顔が引き攣り体が小刻みに震えています。
「なにっ!? ちさきに似合いそうな服っ!?」
ファッションにはまるで門外漢な紡くんは驚くほどアッサリと釣られてしまいました。
「じゃあ、明日午前10時に駅前集合でいいかな?」
「ああ、分かった」
コクコクと何度も首を縦に振ってデートを請け負ってしまう紡くん。
「………………紡の、ばかっ」
紡くんはちーちゃんに服をプレゼントして喜ばれる場面を想像するのに夢中です。そのため現実の彼女が膨れっ面を全開にしているのに気が付きませんでした。
授業が全部終わって下校となりました。紡くんもちーちゃんも部活動には所属していません。だから2人は一緒に帰るのが普通です。
「うん? ちさき?」
ですが、今日に限ってはちーちゃんの姿がどこにも見えませんでした。
「ちさきならもう先に帰って行ったぞ〜」
ちーちゃんに振られて一緒に帰れなかった狭山くんが紡くんの質問に答えました。
「先に帰った?」
彼女から何も聞かされていない紡くんは大きく首を捻りながら帰りました。
紡くんの心のわだかまりは家に帰っても解けませんでした。
「ただいま」
家に辿り着いて挨拶を述べてもちーちゃんから返事はありませんでした。
「今日の夕飯……何故俺のおかずは梅干しが1つだけなんだ?」
「今月は家計が苦しいんだから仕方ないでしょ」
夕飯では明らかな差が付けられてしまいました。ちーちゃんはおかず山盛りです。しかもおかわりエンドレス状態です。ちーちゃんが怒っているのは明白でした。でも、紡くんにはちーちゃんが怒っている理由がよく理解できません。
「女はよく分からない」
自分がクラスメイトの女の子とデートすることになったからだとは考えが至りません。
それがまたちーちゃんには腹立たしいのでした。
「う〜。紡のばかぁ〜」
お風呂上がりのちーちゃんは悪女となることを決意しました。
「梅酒を飲んでやるんだからぁ!」
ちーちゃんは紡のおじいちゃんが作っている梅酒の保管場所を知っています。それを飲んでしまおうと考えたのです。未成年の飲酒は禁止されています。それを知りつつ破ろうというのだから今のちーちゃんは悪女に他なりませんでした。
ちーちゃんは台所に入って棚を漁り始めます。でも、途中で大きな音を立ててしまい紡くんを呼び寄せてしまいました。
「それ、梅酒だぞ」
紡くんはちーちゃんが手に取っている瓶のラベルに素早く反応しました。
「い〜でしょ。私だってたまには羽目を外したい時だってあるのよ」
ちーちゃんはふて腐れた表情で紡くんから目を逸します。
「お前の飲酒を見過ごすわけにはいかない」
紡くんはちーちゃんから梅酒の瓶を取り上げてしまいます。
「なによ、紡のケチンボ!」
「何と言われようと駄目なものは駄目だ」
紡くん、教育ママの如き鉄の意志でちーちゃんの要求を拒みます。要求が通らないと悟ったちーちゃんは不服そうな表情で紡くんを見上げました。
「なによ。紡は明日可愛い子とお出掛けだってのに。私は楽しいことなんか何もないもん」
「分かった。ちさきが嫌がるなら出掛けるのを止めにする」
「えっ?」
紡くんの決断にちーちゃんの方が驚いてしまいました。
「断りの電話を入れてくる」
紡くんは回れ右するとスタスタと電話の方へと歩いて行ってしまいました。
「紡……っ」
ちーちゃんは、紡のデート相手の子に悪いと思いながらも、胸の奥では安堵感でいっぱいになったのでした。
翌日、ちーちゃんは紡くんを連れてサヤマートまで一緒に買い物に出掛けました。
「今日は何の特売なんだ?」
「さあ?」
紡くんはちーちゃんの心の内を何も理解していませんでした。
それでもちーちゃんは笑って紡くんに荷物持ちをさせたのでした。
了
第3話 紡くんとドリコンとガム
「俺にはちさきの気持ちが分からない。頼む教えてくれ。さゆ……いや、ラブ師匠」
夏真っ盛り。今日も今日とてちーちゃんの乙女心が理解できない紡くんは悩んでいます。
けれど、独りで幾ら悩んでも埒が明きません。そこで紡くんは女心の達人に相談してみることにしたのです。
「女に泣きつくのは情けないけど、あたしに頼ってくるとは見どころあるじゃない」
紡くんに師匠と呼ばれたランドセル少女は背筋を大きくふんぞり返しました。ツインテールがパタパタ揺れています。
「さゆ。あんまり調子に乗っちゃ駄目だよ」
短かった髪をロングヘアへと移行中の女の子が呆れ顔でツインテール少女を見ています。
「頼む。俺に力を貸してくれさゆ、美海」
紡くんは2人のまだ幼い少女に向かって深々と頭を下げました。
「繊細な乙女心は乙女であるあたしたちにしか分からないからね。この乙女マスターにどんと任せてよ」
ツインテールのさゆちゃんはドンと胸を叩いて自信タップリに言いました。
「ちさきさんには幸せになって欲しいからわたしも頑張る」
普段は口数少ない美海ちゃんも力強く頷きました。
「それでどうすればちさきにもっと近付けるんだ?」
高校生の紡くんは小学生のさゆちゃんに真剣に、溢れんばかりに熱く尋ねます。ちょっとシュールな光景ですが、本人は至って真面目です。
紡くんがクラスメイトや同世代の女の子に相談しようとすると決まってちーちゃんがとても不機嫌になります。ホッペがパンパンに膨らんで食事にスゴく影響が出ます。
だから紡くんが相談できる女の子は小学生のさゆちゃんと美海ちゃんだけでした。何故ちーちゃんが不機嫌になるのか紡くんには分かっていませんが。それが紡くんですが。
「まず、アンタは大きな思い違いをしている所から話を始めないと駄目ね」
「思い違い?」
さゆちゃんの指摘に紡くんは首を捻ります。
「そうよ。女はね、別に男を必要としてはいないの。ひとりで生きていく覚悟を女は誰しも胸に抱いているものなのよっ!」
初恋の男の子が海の中で眠りに就いて以来、ひとりで生きていくことを心に決めて勉学に勤しんでいるさゆちゃんは大声を張り上げました。
「そっ、そうだったのか……」
愕然とする紡くん。男子高校生が考える女の子像が崩れて大ショックです。
「女がみんな、漫画やドラマのキャラみたいに恋愛のことばっかり考えている恋愛脳だと思ったら大間違いなんだから!」
「……恋愛脳で悪かったわね」
ドヤ顔のさゆちゃんと、そんなさゆちゃんに不服顔を向ける美海ちゃん。美海ちゃんは海で眠りに就いている初恋の男の子のことを今でも一途に想い続けています。
「ちさきさんだって仕事と結婚しようと思っているはずなんだから」
「そっ、そうだったのか……」
愕然とする紡くん。さゆちゃんの言葉を鵜呑みにしています。
「アンタが仕事よりも魅力的な男にならない限り、ちさきさんが振り向くことは絶対にないわ」
「仕事よりも魅力的な男に……」
「そのためには、まずスペックね」
さゆちゃんはジロジロと紡くんの全身を眺め回します。
「紡は顔はまあまあだし、背は高いし、運動神経もいい。後はインテリであることが必要不可欠ね。馬鹿な男に靡く女なんていないわ」
「インテリ……」
「ちさきさんが自慢できるような都会のいい大学に行きなさい」
「分かった」
紡くんの進路が決まった瞬間でした。紡くんはその後、都会の一流大学に入り研究者になる道を歩み始めることになります。
「でもね、幾らステータスが高くても、それだけで女は靡いたりしないのよ」
「他に何が必要なんだ?」
さゆちゃんは指を1本立てて見せながらニヤッと笑ってみせます。
「ユーモアとか意外性、ね」
「ユーモア」
紡くんの顔が曇りました。真面目で口下手な紡くんにとっては最も難しい要件でした。
「アンタに口で笑いを取れなんて無茶なことはあたしも言わないわよ。気の利いた告白の仕方でちさきさんの好感度を一気に上げるの」
「気の利いた告白の仕方?」
根が真面目で、言い換えれば不器用な紡くんに気の利いた告白なんて考えられるはずがありません。そこで代わりに声を上げたのが美海ちゃんでした。
「…………ガム」
かつて自分の気持ちをガムを壁に貼り付け表現しようとした少女は拳を握り締めました。
美海ちゃんにとってガムメッセージはあまり良い思い出ではありません。今のお母さんであるあかりさんを遠ざけようとして使ったからです。
でも、インパクトが絶大であることは自分の経験からハッキリしています。紡くんに正しいアピールをして欲しいと心で訴えながら提案したのでした。
「分かった」
紡くんはさゆちゃんたちの助言を基にガムを使って告白する方針を立てたのでした。
「ただいま」
紡くんはさゆちゃんたちのアドバイスを胸に秘めて家に帰ってきました。
「お帰りなさ〜い」
ちーちゃんは台所をお掃除する手を止めずに返事しました。紡くんはそんなちーちゃんの後ろ姿を見ながらこっそり近付いていきます。
「どうしたの?」
振り返られないまま接近に気付かれていました。長い間一つ屋根の下に暮らしているので気配で動きを察知するのはお手の物になっています。
「実は……」
紡くんは一瞬躊躇しましたが、話を切り出すことにしました。
「小遣いを、前借りできないだろうか?」
ちーちゃんはようやく振り返ってジッと紡くんを見ます。現在の木原家のお財布を預かっているのはちーちゃんです。紡くんのお小遣いを握っているのもちーちゃんです。
「何に使うの?」
手を止めたちーちゃんから当然の質問がきました。
「…………秘密だ」
ガムを大人買いするためとは言えず、紡くんは答えることができませんでした。
「じゃあ駄目ね。今月苦しいから」
紡くんの要請はアッサリ却下されたのでした。
ちーちゃんは擦り切れ始めているシュシュで髪を結い直して掃除に戻りました。
「じゃあ俺、バイトする」
紡くんは違う方法でお金を得ることを考えました。
「ここら辺で求人なんて出てったけ?」
換気扇を拭きながらちーちゃんは首を傾げます。
鷲大師(おしおおし)は田舎で、しかも昨今の寒冷化のせいで不景気一直線です。アルバイト募集があるとはちーちゃんには思えませんでした。
「ちさきを団地妻扱いする狭山がこれから不慮の事故に遭って負傷するから、サヤマートは男手が不足するんだ」
「あー、うん、そう、なんだ。分かったわ。頑張ってね」
ちーちゃんは苦笑しながら疲れた表情を見せました。
翌日から紡くんのサヤマートでのアルバイトが始まりました。紡くんはちーちゃんのために一生懸命働きました。
「ねえ、紡。今日は一緒に帰りましょうよ」
「今日もバイトだから先帰っていてくれ」
「そう……紡、最近私のことちっとも構ってくれない。ぶ〜」
一生懸命過ぎてちーちゃんが仕事に焼きもち焼いてしまうぐらいでした。
そしてアルバイトを始めてから1ヶ月が過ぎ、遂にお給料日を迎えたのです。
「よし。これで後はガムを箱買いすれば」
サヤマートの商品の一角を見ます。お給料を得たのでガムの大人買いが可能です。
紡くんはガムが入った箱へと手を伸ばそうとしました。でも、箱を掴む直前に1ヶ月前のちーちゃんの掃除風景が脳裏に思い浮かびました。
「ちさきの髪留め……もう限界だよな」
紡くんの瞳が装飾品コーナーへと向けられます。
「それに、家にある掃除用品ももうボロボロになってるな」
紡くんの顔が更に清掃用品コーナーへと向けられます。お給料袋を見ました。中にはお札が入っています。
「よしっ」
紡くんは小さく頷いてみせました。
「えっ? このシュシュ、紡が私にプレゼントしてくれるの。ありがとう〜」
「後、掃除用品も色々買っておいた。2人で大掃除しよう」
結局、紡くんはガムを買いませんでした。告白もしませんでした。
でも、自分の買った髪留めを使っているちーちゃんと並んで掃除することができました。
それは紡くんにとって幸せな時間でした。
紡くんは幸せのきっかけを作ってくれた2人の小学生少女に感謝したのでした。
了
第4話 ちーちゃんとドリコンと団地妻
ちーちゃんは夕飯の買い物を終えて海沿いの道をのんびりと歩いていました。
すると、防波堤の先端部に紡くんと美海ちゃんが2人でお話している姿が見えました。
「つむ……」
声を掛けて自分の存在を知らせようとしましたが、途中で思い留まりました。
悪戯心が湧き出て2人にこっそりと近付いて声を掛け驚かせてやろうと思ったのです。
差し足忍び足で紡くんたちに近付いていきます。近付くに連れて2人の会話がハッキリと聞こえるようになりました。
「俺の想いはいつになったら受け止めてもらえるんだ」
「まだ時期尚早だよ。焦っちゃ駄目」
2人はちーちゃんが考えるよりもシリアスな雰囲気で話をしていました。しかも、ちーちゃんにとってとても気になる話題に聞こえました。
「えっ? 紡が美海ちゃんに告白して、美海ちゃんが返事を保留している場面なの?」
ちーちゃんの頭がこんがらがってしまいます。
イケメンで大人びた紡くんは学校で断トツの一番人気を誇っています。多くの女子生徒から慕われて告白もされています。けれど、未だに彼女がいません。その理由についてちーちゃんは自分なりの答え、もしくは自惚れようなものを淡く抱いています。
でも、それが本当にただの自惚れに過ぎないとしたら?
「……紡にとって私は特別な存在じゃないの? 嘘……そんなのやだよぉ」
ちーちゃんの体が震え始めました。2年前のおふねひきの後、たったひとりで地上に取り残されてしまった時の感覚を思い出してしまったのです。
孤独と絶望がちーちゃんの胸を締め付けます。2年前と今とでは状況が違います。陸にしっかりと地歩を固めています。にも関わらず、ちーちゃんは深く苦しんでいます。
彼女にとって、陸との最大の繋がりは紡くんの存在に他ならないのですから。
「俺、余裕が無いんだな。先に進みたいのに進めなくて」
「わたしも同じだよ。紡と、おんなじ」
2人は並んで空を見上げて黄昏れています。
「それって……紡は美海ちゃんのことが好きで、美海ちゃんも紡のことが好き。だけど、2人の間には障害があってまだ恋人同士にはなれてないってこと?」
ちーちゃんは一連の会話から2人の関係をそう読み取りました。それは今まで全く予想していなかった関係でした。そしてその予想外の関係は、ちーちゃんの心に失望と共にマグマを滾らせたのです。
「紡……小学生の女の子を恋人にするのはドリコンの仕業なんだよ!」
見つからないように橋脚の影に隠れながら2人の動向を更に詳しくチェックします。瞳に嫉妬の炎を激しく灯しながら。
「この話してると気分が落ち込む一方。何か、楽しいことない?」
「魚。魚を見てると心が和む」
「紡はいいよね。元気の素が2つもすぐ側にあるんだから。あ〜あ、何か不公平だ」
「いつかうろこ様に呪われて体から魚生やしたい」
「趣味悪すぎだよ、それ」
美海ちゃんは呆れ顔で紡くんを見ています。呪われたいとか理解できません。
「なによ、紡ったら。美海ちゃんとあんなに楽しそうに話しちゃってさ」
だけどちーちゃんにとっては男女の楽しげな語らいにしか聞こえません。頬がぷっくぷくに膨らんでいきます。
「美海ちゃんも美海ちゃんよ。どうして私がいない所で紡とこっそり会ってるのよ」
ちーちゃんの苛立ちは頂点に達し、橋脚にしがみついて揺らし始めました。
「地震っ!?」
「美海っ! 姿勢を低くしてできるだけ海から離れるんだ」
ちーちゃんの苛立ちは地震という形を取って具現化しました。乙女の苛立ちは地をも揺り動かしたのです。そして地震は紡くんが美海ちゃんの肩を掴みながら寄り添って移動するという更なる密着状態を生んでしまったのです。
「紡の浮気者ぉ〜〜っ! 小学生に手を出すのは犯罪なんだからぁ〜〜っ!」
地震はますます大きくなります。
「紡、美海っ! 無事かあ…………うわああああああぁっ!?」
心配して駆け寄ってきた狭山くんは地震に体勢を崩して海に落ちてしまいました。
「狭山が、潮に流されている」
「ぼうっと見てないで急いで助けないと……」
狭山くんが落ちた海を見て瞳を輝かせる紡くんと困惑する美海ちゃん。
「うん? 狭山のあの流され方。俺の知らない新しい潮流ができている?」
紡くんが海の奥深さを改めて認識した瞬間でした。それは同時に彼が大学で海洋学を専攻することを決意した瞬間でもありました。
その後狭山くんは紡くんに助けられて何とか一命を取り留めました。怪我もなしです。
「紡が美海ちゃんのことを好きだなんて。でも、小学生の女の子にしか興味ないのなら、あれだけモテるのに今まで彼女がいなかった理由も納得できるわね」
一方でちーちゃんの方は重症なままでした。完璧に勘違いしています。
「このままじゃ、紡のために良くないわっ! 紡を健全な男の子に変えなくちゃっ!」
ちーちゃんは美海ちゃんに炎が灯った瞳を向けながら紡くんの更生を決意するのでした。
その日から、ちーちゃんの紡くんドリコン矯正プロジェクトは始まりを告げたのでした。
「何故、食事中にくっついてくる? …………胸、当たってるぞ」
「お醤油取ろうと思ったら、たまたま身体が触れちゃっただけなんだからっ!」
「普段は向い合って食べているのに、何故、今日に限って隣り合っているんだ?」
疑惑の眼差しを向けてくる紡くん。でも、その頬は僅かに赤らんでいます。だってちーちゃんに密着されているのですから。紡くん、内面はドッキドキです。
「んもぉ。紡は細かいことにこだわり過ぎ。そんな細かいんじゃ女の子にモテないわよ」
紡くんに引っ付いているちーちゃんは自分の恥ずかしさを我慢しながらたしなめます。
これも紡くんのドリコンを治すためだと自分に言い聞かせながら。治療だから恋愛とは全然関係ないんだと思うと少し心が楽になります。
色々あってちーちゃんは自分の恋心と正面から向き合うことができません。自分が誰を好きなのかも考えないようにしています。
なので、大義名分を得て紡くんに密着できる今はちーちゃんにとってとても嬉しい瞬間でした。何故嬉しいのか決して自分に問い掛けようとはしませんでしたが。
「なんか今日変だぞ?」
紡くんはむっつりを抑えこみ紳士を総動員してちーちゃんから離れながら尋ねます。
「……これだけ体張って頑張ってるのに紡の反応が薄い。やっぱり、紡は美海ちゃんじゃなきゃ、小学生じゃなきゃ駄目なの? ドリコンなの?」
紡くんの必死の紳士っぷりはちーちゃんには逆効果でした。
「でも、私……負けないからっ!」
ちーちゃんの中で熱い炎が吹き上がっていきます。小学生の美海ちゃんには負けられません。そう、これは紡くんの治療、医療行為であって嫉妬ではないのです。ちーちゃんは自分に強く言い聞かせるのでした。
「紡のドリコンを治すには大人の女の魅力を理解してもらうしかないわね」
拳を握り締めながら作戦の目標を口にします。
「お風呂でバッタリ遭遇して、バスタオル1枚の姿を見られちゃってもそれは事故なの。その結果、紡のドリコンが治って私に夢中になっちゃっても成り行き上仕方ないのよ」
バスタオル1枚で浴室の扉の前に立つちーちゃんの声にはいつになく気迫が篭もります。
「全ては紡を更生させ、美海ちゃんをドリコンの魔の手から救うため。そう、全部美海ちゃんのためなんだからっ!」
理論武装を完璧に済ませ、紡くんが入っている浴槽へと繋がる扉のノブに手を掛けます。けれど、そこから体が動きません。先ほどから30分間、ここより先に進めません。
「お風呂でバッタリって今どき漫画でもどうなのよ?」
ちーちゃんの全身が赤く染まり上がっていきます。
「はっ、裸見られちゃったら……紡には男らしく責任取ってもらわないといけないわよね」
ウンウンと頷いた所でちーちゃんはふと何かに気付いて急に首を横に振ります。
「そうしたら光はどうなるのよ? 私は、私は今でも光のことが……」
俯いてしまうちーちゃん。いつもならここで負の思考スパイラルに陥ってしまう所です。でも、今日の彼女はひと味違いました。美海ちゃんへの対抗心でいっぱいでしたから。
「でも、この結婚は紡が男としての責任を取るという名目で果たされる強制的なもの。私の意志じゃない。だから私が紡の元にお嫁に行っても光を裏切ることにはならないわっ!」
ちーちゃんの体が燃え上がります。もう誰に対する言い訳なんだか分かりません。
「そうよ。私は誰も裏切らずに済むのよ! だって全ては不幸な事故なんだから」
ちーちゃんは感極まって拳を振り上げます。と、その時、浴室へと繋がる引き戸がスススと横に動いてちーちゃんの前にイケメンが現れたのです。イケメンは上半身裸、腰にタオルを巻いただけの状態でした。
「何が誰も裏切らずに済むんだ?」
紡くんは美しい裸体を晒しながら淡々と尋ねました。
「べっ、別に。最近読んだ小説の話よ……」
ちーちゃんは気まずそうにイケメンから目を逸しました。恥ずかしくて見られません。
「そうか。何にしろ、そんな所に突っ立っていると風邪を引くぞ。早く風呂入れ」
紡くんはそれだけ述べるとお風呂場からゆっくり歩いて出て行ってしまいました。
「こ、この格好でも紡の興味を惹けないっていうの……」
スタイルには自信があっただけに呆然とするちーちゃん。彼女は放心していたために気付きませんでした。紡くんが歩いた後の廊下に血痕が延々と続いていたことに。
「…………こうなったら、お色気の最上級系である団地妻の魅力を会得して紡をドキドキさせてやるんだからぁっ!」
団地妻がちーちゃんにとって特別な意味を持つ言葉になった瞬間でした。そして紡くんを美海ちゃんから取り戻すための長い長い戦いが始まった瞬間でもあったのでした。
了
第5話 紡くんとちーちゃんとクリスマス
クリスマスが近付きクラス内はその話題でいっぱいです。
「もうすぐクリスマス。ちさきを、どう誘えばいいんだ?」
イケメン紡くんもちーちゃんとどうクリスマスを過ごすかで頭がいっぱいです。
去年のクリスマスは受験生だったこともあり2人とも勉強して過ごしました。
一昨年のクリスマスは紡くんがぼぉーッとしている間にちーちゃんをクラスの女子会に先を越されてしまい、寂しく過ごしました。
だから今年こそはと紡くんは密かに燃えています。でも、その前途は多難でした。
「比良平さん、良ければ俺らのパーティーに参加しない?」
学校一の美少女と名高いちーちゃんを誘いたい男子生徒は掃いて捨てるほどいました。そんな有象無象を押しのけて彼女を誘わなければなりません。
それだけではありません。下手な誘い方をすれば断られるかもしれないし、誘えても男子生徒たちがゾロゾロ付いてきてしまう可能性もあります。
ちーちゃんと仲良く、けれど静かに過ごしたい紡くんとしては問題山積みです。けれど、問題を抱えていたのは紡くんだけではありませんでした。
「どうすれば紡を誘えるのかしら?」
ちーちゃんの目に映るのは紡くんを隙間なく包囲する女子生徒の群れ。それはちーちゃんにとっては邪魔な障壁にしか見えませんでした。
一昨年、ちーちゃんはクラスの女子主催のクリスマスパーティーに参加しました。けれど、人見知りの傾向が強い彼女は場にあまり馴染めませんでした。
その意味で、紡くんと勉強だけして静かに過ごした去年のクリスマスは彼女にとってはとてもいい日でした。今年もそう過ごしたいのですがそういうわけにはいきません。
「紡くん、私たちとクリスマスパーティーしない? 女子限定なんだけど、紡くんだけ特別に参加オーケーよ」
「ずるいっ! 木原くんはあたしとクリスマスデートするの!」
「何をずうずうしいこと言ってるのよ! 紡くんは女子みんなの共有物なんだから、みんなで遊ぶのよ」
女子生徒たちは紡くんとデートの約束を取り付けるために必死です。ギラギラです。
「どうすればいいんだ?」
紡くんは何かに思い悩んでおり、彼女たちの話に全く耳を傾けていませんが。とはいえ、何がきっかけで承諾してしまうか分かりません。ちーちゃんを餌にすると簡単に釣れてしまうことは既に周知の事実なのですから。
「それに、紡が大好きなドリコン美海ちゃんがいつアプローチを仕掛けて来ないとも限らない。最近の小学生は油断ならないんだから」
前回の一件以来、ちーちゃんの中で紡くんドリコン疑惑が深く根付いています。対抗してちーちゃんは大人の魅力を得るべく団地妻を磨いています。
そんなこんなでちーちゃんにとっての最強のライバルが動かない内にどうにかしないといけません。
「あの、ちさき。良かったらクリスマスを俺と……」
「うるさい。私は考え事をしてるのっ!」
図々しく誘ってくる狭山くんに対してつい反射的に怒鳴ってしまいました。ちーちゃんには男子生徒たちの誘いは欠片も価値がありません。
今はただ、紡くんを他の女子の毒牙から守り2人で心穏やかにクリスマスを過ごしたいと心がいっぱいです。そしてそうなるための方法を……思い付けませんでした。
「ああ〜っ! 私ってば汐鹿生(しおししお)から陸に出てもう2年以上になるっていうのに、まだ遊びの誘い一つまともにできないなんてぇ〜っ!」
嘆くちーちゃん。でも、彼女はそこで気付いたのです。自分の言葉の中に答えが含まれていたことを。
「そうよ、汐鹿生よ。なんで……こんな大切なことを忘れてたんだろう」
ちーちゃんは立ち上がりました。それからゆっくりと紡くんの元に向かって歩いていきます。
愛妻の登場に紡くんを囲んでいた女子たちの包囲が崩れます。正妻のポジションはやはり他者を圧倒するのです。
ちーちゃんは紡くんの肩に手を乗せました。そして、話を切り出したのです。
「紡……クリスマスに船を出してくれないかな?」
「「「えっ?」」」
紡くんの疑問の声とクラスメイトたちの疑問の声が揃いました。
「どうして?」
お爺さんがが漁師で自身も小型船舶免許を持っている紡くんは首を捻りました。話を聞いているみんなも同じ気持ちだと思います。
寒冷化して以降、海の表面の多くが氷で覆われ船が使われることは減りました。漁もほとんどできません。だからちーちゃんの提案はとても不思議なものでした。
「汐鹿生のみんなに私は元気でやってるよって伝えたくて。少しでもクリスマスの雰囲気を分けてあげたくて」
教室内にハッと息を呑む音が蔓延しました。ちーちゃんは汐鹿生の住民の中でたった1人地上に残された女の子でした。みんながそれを思い出したのです。
「紡くん、比良平さんをしっかりエスコートしてあげないと駄目よ」
「紡、クリスマスはちさきさんを笑顔にしてやるんだぞ」
男子、女子ともにちーちゃんと紡くんから遠ざかっていきます。優しい瞳を向けて、心に若干の痛みを抱えながら。
「分かった。船の手入れをしておく」
「ありがとう……紡」
何はともあれちーちゃんは紡くんと2人きりで静かなクリスマスを手に掴んだのでした。
ちーちゃんの胸が温かさでいっぱいに満たされていきます。
「そういうことなら美海とさゆも呼んでやらないとな」
「…………やっぱり紡はドリコンなの?」
美海ちゃんもさゆちゃんも汐鹿生と関係が深い女の子です。でも、ちーちゃんは他の意図を勘ぐってしまうのでした。
そして、2人きりでクリスマスを迎えられなくなったことを少し残念に思うのでした。
クリスマス当日。
紡くんはちーちゃんとさゆちゃんと美海ちゃんを乗せて漁船で港を出ました。寒冷化した冬の海は大半が氷で覆われています。慎重に船を進ませながら紡くんは言いました。
「汐鹿生の真上は氷で覆われているから船では行けないぞ」
「うん。分かってる。近くまで行ってくれればそれでいいよ」
ちーちゃんは小さく頷きます。2年前のあのおふねひき以降、ちーちゃんは何度も汐鹿生に入ろうとしました。でも、それは叶いませんでした。汐鹿生への接近を阻む潮流と分厚い氷が原因でした。近寄ることができません。
だからちーちゃんも紡くんも現在の汐鹿生がどんな状況なのか知りません。
船はゆっくりと弧を描きながら進んでいきます。汐鹿生は海の中の村とはいっても、陸からかなり近い所にありました。でも今はとてもとても遠い場所になってしまっています。
「…………ここが終点だ」
紡くんは船を停止させながら述べました。目の前に広がるのは一面の氷。
「本当に、汐鹿生には近寄れないんだね……氷に覆われちゃってる。光……寒くないかな」
美海ちゃんが氷を見ながら寂しそうな声を出しました。その瞼には大粒の涙が溜まっています。
「汐鹿生には近寄れない。でも、中の人は眠っているだけだ。だから大丈夫」
紡くんは美海ちゃんの頭を優しく撫でました。
「要ぇ〜〜っ」
さゆちゃんも大好きな男の子の名を呼びながら涙を溜めています。
「要も光もみんな大丈夫よ」
ちーちゃんはさゆちゃんの頭を撫でます。汐鹿生のみんなが今どんな状態なのか一番心配しているのはちーちゃんです。でも、涙ぐむさゆちゃんたちを見ると泣いてられません。
「光も要もこんな可愛い子泣かせちゃって……早く起きなさいっての」
自分の願望をお小言に忍ばせて海へと流しました。
その後、さゆちゃんと美海ちゃんが協力して作ったおにぎりを汐鹿生の人たちへの差し入れとして海に捧げました。
そしてちーちゃんから在りしの日の汐鹿生の思い出話を聞いて4人は港へと戻りました。
もう夕方になったのでさゆちゃんたちとはお別れの時間です。
「まったね〜」
「バイバイ」
要くんと光くんの幼いころの話を聞いて少し元気になった2人は駆け足で去っていきました。
夕日の中へと消えていく2人をちーちゃんは眩しそうに見ています。
「あのね、紡……」
ちーちゃんが話を切り出そうとした時でした。
「もう1度汐鹿生の近くまで行かないか?」
「えっ?」
紡くんの口から提案しようと思っていたことを喋られてしまいました。
「クリスマスケーキを光たちに見せるのを忘れていた」
紡くんは一度も開かなかった大きなクーラーボックスへと目を向けました。
「うん。そうだね」
2人は再び汐鹿生へと向けて出港しました。
再び先ほどの地点に到着する頃にはすっかり暗くなっていました。真っ暗な海に氷だけがライトに照らされて浮かび上がって見えています。
その光景を見てちーちゃんはボロボロと泣き出してしまいました。
「駄目だね。美海ちゃんたちがいた時はしっかりお姉ちゃんしなくちゃって気を引き締められたのに。紡と2人きりになると……涙が止まらないよぉ」
「俺と一緒の時は、強がる必要はない」
紡くんは後ろからちーちゃんを抱き締めました。
「まなかも、光も、要も、お父さんもお母さんも眠りに就いちゃって、残されたのは私ひとりだけで……私、ひとりぼっちになっちゃって……苦しくて、切なくて、寂しくて……」
紡くんはちーちゃんを抱き締める力を更に強めました。
「だから私は紡の優しさに甘えていて…………惹かれていて…………でも、だから私は変わっちゃいけないの。もう私しか、汐鹿生のみんなを知っている人間はいないんだからっ」
ちーちゃんは心の中に溜め込んでいるものを吐き出していきます。それを受け止めるのは紡くんと真っ暗な海です。
「もう一度会いたいよぉ…………まなかぁ、光っ、要ぇ」
ちーちゃんの悲しみが紡くんの胸を締め付けます。
「俺も、光たちに会いたい」
ちーちゃんが顔を上げて紡くんを見つめました。
「俺にとっても、アイツらは大事だから」
紡くんの瞳はまっすぐ汐鹿生のある氷へと向けられています。それでちーちゃんは思い出しました。紡くんと出会った日のことを。それからの日々を。紡くんは汐鹿生出身の子どもたちにとっては一番の理解者で、一番接することの多い男の子でした。
「そうだね」
ちーちゃんは紡くんを見ながら小さく頷きます。
「汐鹿生のことを知ってるの、私だけじゃないんだよね」
ひとりじゃない。ちーちゃんにとって何よりも心強くて嬉しいことでした。
「俺、大学に進んで海村のことを研究する」
「…………そっか。紡はもう先を見据えてるんだね。偉いなあ」
ちーちゃんには紡くんがとても眩しく見えました。そしてそんな紡くんを見ていると今度は急に体の中が熱くなっていくのを感じます。
「紡が、大学で海村のことを勉強するのって…………私のため?」
ちーちゃんを抱き締める紡くんの体が一瞬震えました。
紡くんはその問いに答えませんでした。ポーカーフェイスを貫いています。
でも、答えないということがどういうことなのか。2年以上一緒に暮らしているちーちゃんにはお見通しでした。
「光……早く目、覚ましてね。じゃないと私、変わっちゃうかも知れないんだからね」
陸に出て2年半。着実に大人へと変化を遂げているちーちゃんは俯きながら小さく呟きました。紡くんの胸に背を深く預け汐鹿生のある地点を眺めます。
紡くんも汐鹿生を見据えたまま動きません。
2人はいつまでも眠りに就いてしまった汐鹿生を眺めているのでした。
そんな2人を、女子全員に振られてクリスマスの夜をひとり寂しく海岸線を歩いていた狭山くんが優しく見守っていました。
了
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pixivで掲載していた凪あすの紡ちさき短篇集その1 | ||
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