凪あす むっつりイケメン紡くんと団地妻ちーちゃん高校生編シシャモ |
凪あす むっつりイケメン紡くんと団地妻ちーちゃん高校生編シシャモ
主な登場人物紹介
紡くん:本名は木原紡。イケメン高校生。ちーちゃんのことが好き。でも、色々あって言えない言わない言ってたまるか。さゆちゃん美海ちゃんに師事して女心を勉強中。今回さゆちゃんたちが中学生になることで大きな変化が?
ちーちゃん:本名は比良平ちさき。団地妻っぽい色気を漂わせる美少女グラマー高校生。紡くんと一つ屋根の下で暮らしている。本当は紡くんのことが好きだけど色々あって自分の気持ちを閉じ込めているつもりだが周囲にはバレバレ。高校を卒業してプロポーズをされたら受けちゃおうかなと密かに考えている。
さゆちゃん:今回遂に中学生に進級するちーちゃん的にはドリコンでなくなる少女。好きな男の子が海の中で眠ってしまったので女一人で生きていくことを決意して勉学に励む秀才。紡くんに女に関する蘊蓄を授ける師匠。略奪愛上等の心得をちーちゃんと美海ちゃんに伝授する。
美海(みうな)ちゃん:さゆちゃんの友達。ちーちゃんにとっては最も警戒すべき恋のライバル。好きな男の子が海の中で眠ってしまったけど戻ってくるのを健気に待っている。紡くんと似た立場で気が合う。第二部のメインヒロインであり、悲恋が顕著な花澤さんキャラに対しては徹底抗戦を密かに誓っている。
狭山くん:紡くんたちのクラスメート。ちーちゃんに団地妻というあだ名を付けた張本人。以来、何故か不幸な目によく遭遇するようになった。このシリーズは狭山くんの暗躍なしには物語が展開されなかったので影のMVP。
第16話 ちーちゃんとドリコンズと制服
ちーちゃんの高校2年生ももう終わりを迎えた3月中旬の日曜日。ひとりで留守番をしていたちーちゃんの元にさゆちゃんと美海ちゃんが訪ねてきました。
「やっほぉ〜〜」
「こんにちは」
「いらっしゃ〜い」
ちーちゃんは玄関を開けて2人を招き入れます。と、そこで気が付きました。2人の服装がいつもとは異なっていることに。
「あれ? それ……美濱中学の制服?」
2人が着ているお揃いのブレザーはかつてちーちゃんが中学時代に毎日見ていた制服でした。
「そっかあ。2人とも来月から中学生になるんだもんね。2人とも可愛いよ〜」
ちーちゃんは手を叩いて納得します。そして頬が緩みます。妹分の成長が嬉しいです。
「大人になったあたしたちを見せに来たってわけよ」
さゆちゃん胸を張ってドヤ顔です。
「サイズが大きい服で偉そうにするとみっともないよ」
美海ちゃんは呆れ顔で見ています。成長期まっただ中の彼女たちの制服は少し大きめに作られています。袖が長くて手が半分隠れているぐらいです。でも、そんなぶかぶかな制服を着ている2人がちーちゃんにはとても可愛らしく思えました。
「紡が見たら、きっと2人のことを可愛い可愛いって褒めると思うよ〜♪」
「当然よ。なんたって、あたしは本当に可愛いんだから。えっへん」
「またさゆは調子に乗って」
和やかな空気が広がっています。でも、ちーちゃんは自分の言葉に疑問を抱きました。
「……紡は、中学生になる美海ちゃんたちを見て本当に喜ぶのかしら?」
小さく呟いて言葉にしてみることで自分の疑問をより具体的にします。
「紡はドリコンのはず。ううん、絶対にドリコンなのよ」
ちーちゃんの中の決定事項です。ちーちゃんの頭の中以外では成り立たない図式ですが。
「ドリコンは小学生の女の子が好き。ということは、紡はさゆちゃんたちが小学生でいる方が嬉しいんじゃないのかしら?」
ちーちゃんのドリコンに関する知識はさゆちゃん経由のものです。その知識を総動員して考えていくととても嫌な結論が出てしまうのでした。
「さゆちゃんと美海ちゃんが中学生になることを紡は喜ばない?」
「「えっ?」」
ドリコンズが首を傾げました。
「ええとね。紡ってドリコンだから、さゆちゃんたちにはずっと小学生でいて欲しいんじゃないかなって思って」
「いやいやいや。紡は……団地妻属性でしょ」
「ドリコンなのは……光の方」
美海ちゃん、わずかに頬を赤くしながら光くんとの相思相愛説をアピールします。
「でも、紡の反応を見ればドリコンかどうか分かるんじゃ?」
「喜んでも喜ばなくても紡がドリコンかどうかなんて分からないと思うよ」
さゆちゃんの言葉にコクコクと頷いてみせる美海ちゃん。そんな2人の言葉がよく理解できないちーちゃん。
「どうして?」
「ドリコンって別に小学生限定じゃないから」
「えええ〜〜っ!? そ、そうなの!?」
ちーちゃん、天動説を信じていたら地動説だったことを知った級の驚きです。
「あたしたちと紡って5歳差じゃん。万が一、あたしが紡と付き合うようなことになれば、あたしが高校卒業するぐらいまでの間ずっと紡はドリコン扱いされると思うよ」
「高3と中1じゃね。大学生と中学生はもっと危険な香りがすると思う」
「そ、そうなんだ。ドリコンって小学生限定じゃないんだ」
ドリコン=小学生好きと単純に結び付けていたちーちゃんにとってはショックです。
「さゆちゃんたちが中学生になれば、紡が心惹かれる女の子は名実ともに私だけになると思ってたのにぃ……」
ちーちゃんはライバルが減る機会を失ったこともあって二重にガッカリです。
「ちさきさん。そういうことはもっと小さな声で呟いた方がいいよ」
美海ちゃんは呆れ顔です。
「5歳下はドリコン……じゃあもし、私と紡が5歳差だったら……」
ちーちゃんは美海ちゃんの呆れを無視して妄想の世界に突入します。
「だっ、駄目よっ! 駄目だったらあっ! 都会のイケメン大学生と田舎の純朴女子中学生の恋愛なんて危険過ぎる。危険な遊びで駆け落ちエンドしか思い付かないわよぉ」
イヤンイヤンと顔を両手で覆いながら身体を左右に振るちーちゃん。2人の制服少女はとても冷めた瞳でちーちゃんを見ています。
「待って! もし逆のシチュエーションだったら? 19歳団地妻な私と14歳の無口なイケメン中学生の紡が恋をしたら? 年齢的に私から紡を誘う形になるの? そ、そんな破廉恥なことができるわけがないじゃないのぉ。私は紡に引っ張って欲しいのにぃ〜♪」
ちーちゃんはまたトリップします。ちなみにちーちゃんはこの1年とちょっと後、19歳になった時点で14歳の光くんと再会します。でも、相手が紡くんではなかったのであまり興奮はしませんでした。自分の中に眠っていたショタ属性の発見に驚きはしましたが。
そうこうしている内に紡くんが帰ってきました。
「ただいま……うん?」
紡くんはさゆちゃんたちの服装がいつもと違うことに気付きました。
「美海……よく似合っているぞ」
紡くんは美海ちゃんの目を見て僅かに頬を緩めました。
「あっ、ありがとう」
美海ちゃんは赤くなりながら照れています。紡くんに素直に褒められたのが意外でとても嬉しいようです。そんな彼女を見ながらちーちゃんもまた意外だと感じていました。
「紡が女の子の服装を素直に褒めるなんてねぇ驚きだわ」
女の子の服装を褒める。家族が礼儀知らずでないことにちーちゃんはホッとします。でも、紡くんの言葉は女の子としてのちーちゃんには複雑でした。
「いいなあ、美海ちゃん。私が初めて高校の制服を見せた時には紡ってば素直に褒めてくれなかったのに」
紡くんの反応は「ああ」とか「うん」とか短い語句ばかりでした。紡くんはちーちゃんに見惚れていて言葉が出なかったのですが、ちーちゃん的にはちょっとガッカリでした。そのガッカリはその日の夕食のおかずが煮干だけという結果を招きました。
文字通り苦いその体験があって今回紡くんは素直に賛辞を口にしたのです。でも、ちーちゃんから見れば美海ちゃんの方が大事に思われているようでちょっと不満でした。
「じゃあじゃあ紡。あたしは? さゆ様の晴れ姿はどうよ?」
胸を張ってみせるさゆちゃん。
「…………馬子にも衣装」
「なんだとぉ〜〜〜〜っ!!」
面倒くさそうに述べる紡くんにムキーッとなるさゆちゃん。
「…………やっぱり紡。美海ちゃんだけ特別扱いしている」
ちーちゃんの中で紡くんドリコン説、または美海ちゃんと相思相愛説がムクムクと復活を果たします。ちなみにこの誤解、まなかちゃんが目を覚まして美海ちゃんの好きな男の子は光くんだとちーちゃんが確信するまで続きます。
「私だって、制服さえ着れば美海ちゃんに負けないんだから」
美海ちゃんに対抗心を燃やすちーちゃん。綺麗って言ってもらいたい願望臨界突破です。
「私ちょっと着替えてくるからっ!」
ちーちゃんは返事を待たずに階段を駆け上がって自分の部屋へと戻ります。
「美海ちゃんの美濱中学の制服に対抗できる服……」
自分の持ち服を見ながら考えます。
「高校の制服は紡も毎日見てるしインパクトに欠けるわよねえ」
ちーちゃんは高校の制服での対抗を諦めてクローゼットの奥を見ます。
「でも波中の制服なら……」
保有者がもうちーちゃんしかいなくなってしまった白いセーラー服。もう丸2年着て来なかった制服を微かに震える手で触ります。感慨深げにビニール越しにウェストラインを指でなぞっているとあることに気が付いてしまいました。
「この細い服が今の私に着られるわけがないじゃない。お肉の馬鹿ぁ〜〜っ!」
ちーちゃんは自分のお腹の肉を指で摘んで涙を流します。時の流れは残酷でした。
「ダイエットして、絶対にもう1度着られるようになってやるんだからぁ〜〜っ!」
固い決意を誓うちーちゃん。その熱い想いは、約1年後に団地妻波中制服コスプレ披露という形で集大成します。
「とはいえ、今この波中の制服を着ることはできない。他の服を早く選ばないと……美海ちゃんに紡を盗られちゃうわっ!」
ちーちゃんはいつもの如く脳内設定を盛んに働かせています。このまま放っておくと紡くんは美海ちゃんと駆け落ちしてしまいます。ちーちゃんは駆け落ちエンドが大好きです。
焦ったちーちゃんは必死に頭を働かせて、美海ちゃんとの差異化を図ることにしました。
「美海ちゃんみたいな若い子に対抗するためには……大人の色気、団地妻になるしかない」
クローゼットの奥に眠る、学園祭の時に着たたてセタを見つめます。
「美海ちゃんが若さで紡を誘惑するのなら、こっちは大人の魅力で勝負よっ!」
ちーちゃんはクローゼットから一発逆転の衣装を取り出しました。
「紡ぅ〜っ、美海ちゃん、さゆちゃん。お待たせ〜♪」
10分後、ちーちゃんはたてセタに青いジーンズ、更には前掛け白エプロンという最強団地妻ルックで玄関へと降りてきました。髪の毛もサイドポニーテールを解いて真っ直ぐにおろしています。
これなら紡くんもイチコロとちーちゃんはちょっとハイテンションです。ところが……。
「あれっ? 誰もいない?」
玄関前には誰もいませんでした。さゆちゃんたちは制服のお披露目という目的を達成したのでもう帰ってしまったのでした。紡くんは2人を送りに一緒に出て行ったのです。
「…………何やってんだろ、私?」
状況に気が付いてちーちゃん涙目です。
「ちぃーす。サヤマートでぇ〜す。御用聞きに参りましたぁ〜」
呆然としていると扉が開いて狭山くんが入ってきました。
「「あっ」」
固まる2人。ちーちゃんの最強装備を寄りにもよって狭山くんに見られてしまいました。
「ちさきってば、家では本当に団地妻やってんだな。団地妻ここに極まりだな」
「全部忘れてぇ〜〜〜〜っ!」
ちーちゃんは先ほどまでポニーテールに仕込んでいたスベスベマンジュウガニを狭山くんの口の中へと投げ入れました。
スベスベマンジュウガニは体長3〜5cm程度の小型のカニで色は赤褐色に黒い斑紋があり岩に偽装しているように見えます。特徴としては有毒で、河豚と同じくテトロドキシンを有しており、食すと目眩や痙攣を引き起こすと言われています。
「しっ、痺れるぅ〜〜っ!?」
狭山くんは見事に痺れてくれました。
「ただいま」
紡くんが帰ってきました。
「うん?」
紡くんは足元に狭山くんが倒れているのを発見しました。目の前には団地妻仕様のちーちゃんがいます。
「狭山をちょっと海に捨ててくる」
「うん」
紡くんは狭山くんを肩に担いで海に捨てました。そしてすぐに戻ってきました。
「ちさき……その格好……」
戻ってきた紡くんはちーちゃんの団地妻装いを凝視しています。
「気分転換に着てみたんだけど……どう?」
ストレートにおろした髪を指で弄りながらちーちゃんは尋ねます。紡くんはすぐには答えずにちーちゃんをガン見しっ放しです。
「美海ちゃんの制服姿と比べて、どう?」
ちょっと露骨な催促。紡くんはちょっと考えた末に言葉を発しました。
「ちさきはいつだって最高に綺麗だ。初めて会った日からそれは変わらない」
紡くんの精一杯の賛辞。
「そっかぁ。えへへ」
ちーちゃん思わず笑みが溢れてしまいます。
「だから美海に比べて腰回りが太くても気にすることはない」
「一言余計なのよっ!!」
「うッ!?!?」
ボディーにいいパンチをもらった紡くんはちーちゃんによって海に流されました。
「紡の馬鹿ぁ〜〜っ! 太くても気にするななんて言われたらダイエットできないわよぉ」
その日の夕飯でちーちゃんはふて腐れながらご飯を3杯おかわりしました。ちーちゃんの本当の戦いは明日からです。
「海の中から見る夜空も綺麗だ……ちょっと寒いが……狭山、黙っていると凍死するぞ」
一方で紡くんと狭山くんは海流に乗ってナイトクルージングを満喫していたのでした。
了
第17話 ちーちゃんと紡くんと春の恒例行事
4月になり新学年がスタートしました。3年生になったちーちゃんは今年もまた春の恒例行事を放課後の校庭の片隅で目撃することになりました。
「木原先輩……好きです。私と付き合ってくださいっ!」
散り始めた桜の樹の下で、紡くんに告白する新入生の女の子。
「…………ごめん」
小さく頭を下げて女の子の告白を断る紡くん。
「木原紡に告白したい女の子はこちらで整理券を配っていま〜す。告白は番号順にお願いします」
整理券を順番に配っている狭山くん。整理券をもらおうとずらっと列をなす女の子たち。
「ほんと、毎年変わらずに行われる風物詩よね」
中学3年から今年まで春になると毎年目撃している告白劇。新入生の女の子たちは紡くんの格好良さに一目惚れしてしまい、その多くが告白します。新年度に入り新しい恋に生きたいと思う上級生たちもです。その結果紡くんに告白する少女は跡を絶ちません。
そこで女の子同士で喧嘩にならないようにと、マネージャー役を買って出ている狭山くんの考案で始まった整理券制度は今日も大賑わいです。
「紡って、本当にモテるのよねぇ」
ちーちゃんは複雑な気持ちになって大きなため息が漏れ出てしまいます。そんな彼女をドキドキしながら遠巻きに見ている新入生男子は多いのですが視界には入りません。ちーちゃんの目には他の男は欠片も映っていないのです。
「あっ、そうだわ」
ちーちゃんはモヤモヤしたものを抱えながら紡くんへと近寄ります。すると告白の順番待ちをしている女の子たちから一斉に非難の声が巻き起こりました。
「誰よあの女?」
「整理券ももらってないのに紡先輩に近寄ってるんじゃないわよ」
ちーちゃんは声には注意を払わずに更に近付いていきます。ちーちゃんの代わりに説明を施したのは狭山くんでした。
「あの人は紡の正妻だからいいんです」
その説明に少女たちから更に大きなブーイングが巻き起こります。
「紡にはもう決まった子がいる。だから、紡は諦めて俺に告白したらどうかな?」
ニカッと歯を光らせた狭山くん。次の瞬間女の子たちにボコボコにされてしまいました。ちーちゃんはその隙に紡くんの元へと辿り着けました。
「私、先に帰って夕飯の支度をしているわね」
何でもないフリを心掛けながら紡くんに語ります。
「…………ああ、分かった」
紡くんはしばらく遅れてから少し低い声で返事をしました。ちーちゃんにはそれが不服を表す返事なのだと長い付き合いから分かりました。
「……紡は私と一緒にこの場から遠ざかりたいのね。でも……」
紡くんの願望は分かります。でも、ちーちゃんは敢えてその婉曲な要望を無視しました。ひとりで考えたいことがあったからです。
「じゃあ、先に行くわ」
ちーちゃんは軽く目を瞑ると紡くんから離れていったのでした。
「今日の夕飯、どうかな?」
「…………美味しい」
鍋を囲んでちーちゃんと紡くんの2人での夕食。おじいちゃんが入院していない生活もすっかり慣れました。普段から口数は少ない2人なので食事中も元々静かでした。
「あのね……」
食事もほぼ終わったタイミングでちーちゃんは放課後の光景を思い出しながら話を切り出しました。
「うん?」
「紡はさ、どうして女の子たちの告白を受けないのかなって思って。可愛い子もいっぱいいるじゃない」
紡くんの僅かに細められた瞳がちーちゃんを捉えます。
「それをお前が訊くのか?」
紡くんの声には明らかな非難の色が篭められていました。その視線にちーちゃんの身体がビクッと小さく震えます。
「ごめんなさい。今の質問はちょっとずるかったわよね」
ちーちゃんは軽く頭を下げながら素直に謝りました。
紡くんが女の子たちの告白を全て断っている理由をちーちゃんも理解しています。一緒に暮らし始めてもうしばらくで丸4年となります。固まっていないのはちーちゃんの気持ちだけです。そして、まだ気持ちを固め切れないことに心苦しさを覚えています。
「私はこんなだから。後、どれだけ紡を待たせることになるのか分からない……」
お茶碗を置いて紡くんの瞳を見つめます。心臓の鼓動が速まります。息苦しさを感じてなりません。
「だから、ね。紡もさ、いつ靡くのかも分からない優柔不断な女の子より、他の可愛い女の子と付き合ってみたら?」
「嫌だ」
紡くんは間髪入れずに答えました。
「それは本気で言っているのか?」
紡くんの言葉には更に強い非難に篭められていました。
「…………ごめんなさい」
ちーちゃんは頭を下げました。苦しさから解放されたいためとはいえ心にもないことを言ったことは自覚済みです。
「紡が女の子たちからの告白を申し訳なさそうに断っている姿を見るとね。一生懸命告白しているのに振られちゃう女の子たちを見ているとね。私、胸がどんどん苦しくなるの」
両手を心臓の前に置きます。締め付けられる想いが今も止みません。
「私がハッキリしないから、紡や女の子たちに辛い想いをさせちゃっているんだって」
前に屈み込んで紡くんに顔を近寄らせます。
「こう考えるのって、私の自信過剰かな?」
「…………間違ってない」
ちーちゃんの言葉を認める紡くん。2人のもどかしい関係はもう4年になります。ちーちゃんも紡くんも突破口を求めて息を詰まらせながら彷徨っている4年間でもあります。
「私は自分をなかなか変えられないから。できれば紡に引っ張って欲しいな」
ちーちゃんなりの懸命のサイン。
「………………っ」
黙ったまま答えない紡くん。
ちーちゃんが拘っているものは紡くんにとっても大切なもの。大学で専攻しようとしているぐらいなのでちーちゃん以上に真面目に考えているぐらいです。だからこそ、敏感な問題になっているのは紡くんにとっても同じです。なかなか踏み込めないのです。
そんな紡くんの態度をちーちゃんは一方で好ましく思い、もう一方では物足りなく思ってしまいます。
「紡は私がおばあちゃんになるまで手を引いてくれないの?」
前に抜け出せない状況から進みたい、紡くんと一緒に歩みたい想いが素直じゃない形で口から出ます。
「手なら取れる。ちさきを引っ張れる」
紡くんはちーちゃんの手を握り自分側へと引き寄せました。
「抱き寄せてくれないの?」
「抱き寄せることはできる」
紡くんは背中に手を回して抱き寄せました。互いの体温を全身で感じます。
「キ……ううん、何でもない」
ちーちゃんは『キス』と言い掛けて止めました。それは同情を惹くような形でねだるべきではないと思ったからです。
紡くんに自分からしてもらいたい。それがちーちゃんの望みでした。
「じゃあさ。代わりにちょっと練習してみようか」
ちーちゃんは抱き締められたまま上目遣いに提案します。
「何の練習だ?」
「こ・く・は・く♪」
悪戯っぽく言ってみます。
「紡ってば、女の子から告白されて断るばっかりで自分から女の子に告白したことはないじゃない」
「…………ああ」
ちょっと不満そうな紡くん。ちーちゃんには何度も告白めいたことは言っているのですが、カウントしてくれません。
「だからさ、紡が好きな女の子に告白する練習が必要だと思うのよ」
「何故?」
「普段の無口のせいで言葉足らずな告白とかされたら女の子が可哀想だから」
「…………っ」
紡くんは地味に傷付きました。
「だから、私のことを好きな女の子だと思って告白の練習をしてみて」
ちーちゃんはかなり無茶なことを言います。
「それ、練習になるのか?」
「いいから言ってみるの!」
ちーちゃんは道理を蹴っ飛ばしました。
「分かった」
ちーちゃんが頑固なことを知っている紡くんは渋々応じます。好きな女の子に対して、好きな女の子への告白の練習という課題に大きな疑問を感じながら。
「行くぞ」
紡くんはちーちゃんと正面向き合って座り合い、両手で少女の細い肩を抱きます。
「う、うん」
ちーちゃんは少し緊張しながら頷きました。そして、紡くんは小さく息を吸い込んで告白の言葉を口にしました。
「ちさき、好きだ」
告白の練習のはずなのに、相手がちーちゃんに限定されていました。
「私も紡のことが好きよ。嬉しい」
ちーちゃんは顔を真っ赤に染めながら間髪入れずに返答しました。そして返事してから気が付いたのです。
「そんな修飾語の一つもない告白じゃ相手の女の子が嬉しがるわけがないでしょ」
首を横に振ってちーちゃんの駄目だしが入りました。色々と駄目な駄目だしですが、紡くんの告白で意識が半分お空に飛んでいるちーちゃんでは仕方ありません。
「修飾語……」
紡くんが考え込みます。
「じゃあ、もう1度告白の練習よ」
「分かった」
紡くんは大きく息を吸い込み
「ちさき、大好きだ」
『大』という接頭詞の表現が加わった告白を行いました。
「私も紡のことが大好きなの。愛しているの。嬉しいよぉ」
ちーちゃんはまた間髪入れずに返答しました。体中を赤く茹で上がらせながら。そしてまた気が付いたのです。
「だ〜か〜ら〜っ! もっと気の利いた告白をしないと喜ぶ女の子なんていないっての」
ちーちゃんはまた駄目だししました。
「気の利いた告白?」
「好きとか大好きとか、一語で終わってるでしょ。複数のフレーズを組み合わせて告白しなきゃ駄目よ。三語以上で構成すること」
「分かった」
紡くんは再び大きく深呼吸して3度目の告白、の練習を行いました。
「ちさき、大好きだ。愛してる。結婚しよう」
「うん。私を世界で一番幸せなお嫁さんにしてね」
ちーちゃんは嬉し涙を流しながら紡くんに抱き着きました。
「子どもは何人欲しい? 私は男の子と女の子が1人ずつ欲しいなあ。紡が望むのなら……ラグビーチームが作れるぐらいたくさん子ども作っちゃおうっか♪」
ちなみにラグビーは1チーム15名です。紡くんの頬にスリスリしながら未来の木原家予想図に浸っているちーちゃんは3度気付いたのです。
「短文を3つ繋げるのは格好良くないからやり直しっ!」
「長い文を考えるのは苦手だ」
「そこで諦めたら私を幸せにすることなんてできないんだからね。私をお嫁さんにしたいのならしっかりして」
「分かった」
既に練習という当初の目的は半分吹き飛んでいます。
「じゃあ、Take4よ」
「ああ」
告白の練習をお題にした2人の夫婦漫才は、オチ担当の狭山くんがやって来てちーちゃんが恥ずかしさに絶叫して紡くんが彼を海に捨てるまで続くのでした。
了
第18話 ちーちゃんと紡くんと18歳の誕生日前編
「そう言えばそろそろ紡の誕生日だよねぇ」
詳細な時期はよく分かりませんが、3年生になってしばらく経ったある日。学校帰りのさゆちゃんと美海ちゃんが木原家に寄りました。
「うん。今週の金曜日が紡の誕生日だよ」
居間で2人にお茶とお団子を出しながらちーちゃんが頷きます。
「それで、どうするの?」
美海ちゃんがお団子を口に入れながら尋ねます。
「どうするって?」
「紡の誕生日をどうやって祝うかってこと」
「誕生日の祝い方、かあ」
ちーちゃんは去年の紡くんの誕生日のことを思い出します。
『誕生日おめでとう、紡』
『ありがとう』
紡くんは大げさに祝われるのが苦手です。だから、普段よりも夕飯のおかずを少し豪華にしてプレゼントを渡したぐらいで後は普通の日でした。
「今年も例年通り、かな?」
紡くんはひっそり過ごすことを望むはず。そう思ってちーちゃんは答えました。
「それって、今まで通りに2人きりでエロいことして過ごすってことだよね」
お茶をずずずっと啜りながらさゆちゃんが解説を加えました。
「何でそうなるのよぉ〜〜〜〜っ!?!?」
ちーちゃん大絶叫。とんでもない誤解をされて恥ずかしくて堪りません。
「だってちさきさんと紡って同棲中のエロエロカップルじゃん」
「小学生の女の子がそんな言葉を使っちゃ駄目ぇ〜〜〜〜っ!」
「あたしはもう中学生の大人だしぃ」
「中学生でもそんな言葉は使っちゃ駄目なのぉ〜〜っ!」
「さゆ、いい加減にしなよ」
「ごめんごめん」
美海ちゃんが止めてくれなければ恥ずかしさで心臓麻痺を起こしていたかもしれません。ちーちゃんは改めて自分たちの仲が他の人からはどう見えているのか思い知りました。
「でもまあ、わたしも今年はいつもとお祝い方を変えるのがいいと思う」
美海ちゃんは表情少なに言いました。
「どうして?」
「今年紡は高3だから」
「高3?」
ちーちゃんが意味を飲み込めないでいると、さゆちゃんが言葉が続けました。
「高3ということで紡は18歳になる。つまり結婚できる年齢になるってことよっ!」
「「えええっ?」」
美海ちゃんが呆れた瞳で見ていますがさゆちゃんは無視です。
「紡の結婚が解禁となる日。気を付けないと、紡が他の女と結婚しちゃうよぉ」
「いや、さすがにそれはないんじゃ……」
さゆちゃんの無茶苦茶な懸念にちーちゃん、渋い顔になります。
「甘いって。あたしの見立てでは、紡の誕生日プレゼントに自分の欄に記入捺印済みの婚姻届を贈る女の数は10人は下らないわね」
「そう言われると、そんな気がしてくるわね」
春に列をなして紡くんに告白していた大勢の女の子のことを思い出してちーちゃんの頬が強張ります。
「結婚はどんな劣勢も跳ね返す一発逆転の切り札だからねえ。今年の誕生日は、大勢の女たちが紡にあの手この手で結婚を迫ると考えるべきだよ」
「そんな漫画みたいな話……でも、紡の人気ぶりから考えるとあるかもしれないわね」
高校生の結婚は現実味に乏しい話です。けれど、本気にしないからこそ、その心理的な油断を突いて攻めてくる子もいることは否めません。紡くんの桁外れのモテっぷりを見ているちーちゃんにはさゆちゃんの言葉が否定できません。
「紡が罠に嵌められて、どこの馬の骨とも分かんない女と結婚なんて展開になっちゃったら。困るのはちさきさんじゃないのかな〜?」
「………………っ」
紡くんが他の女と結婚という展開を頭の中で思い浮かべたくないので目を瞑って黙秘しています。でも、続いたさゆちゃんの言葉はちーちゃんを十分に焦らせるものでした。
「紡と結婚した女がこの家で住む展開になったら、ちさきさんはこの家に居づらくなるんじゃないかなあ?」
「私の居場所が、なくなる……」
ちーちゃんの脳裏に思い浮かんだのは4年前のおふねひきの後の光景。それは汐鹿生全体が眠りについたことで家族も帰る家もなくなった時のこと。ちーちゃんは起きてしまった事件の大きさに呆然となるしかありませんでした。
勇おじいちゃんが引き取ると言ってくれなかったら、今頃ちーちゃんはどうなっていたか分かりません。孤独と失意に世を儚んで……なんて展開になっていたのかもしれません。
「そう。紡に結婚を迫る他の女はちさきさんの居場所を奪おうとする悪女なの」
「私の居場所を奪おうとする悪女……」
4年前の光景が辛すぎてさゆちゃんの言葉をそのまま受け入れてしまいます。
「ちさきさんがここで幸せに暮らすためには……戦わないと駄目なの。勝ち取らないと」
「戦う……勝ち取る……」
「そう。ちさきさんが名実共に紡の正妻になって他の女どもが割って入って来られないようにするの。そうすればちさきさんの居場所は安泰だよ♪」
「まったくさゆったら。いっつもちさきさんをからかうんだから」
呆れた口調でさゆちゃんを咎める美海ちゃん。けれど、時既に遅しでした。
「紡のお嫁さんにならないと、私の居場所がこの世界のどこにもなくなっちゃう……」
「グッジョブ!な理解だよ、ちさきさん」
「ああ、もう。ちさきさんにこれ以上おかしなことを吹き込まない内に退散するわよ」
美海ちゃんはさゆちゃんの背中を押しながら家を出ていきます。玄関の扉を開けた所で振り返ってちーちゃんに告げました。
「来年、紡が都会に行っちゃったらちさきさんは誕生日を祝えないかもしれないんだよ」
「あっ」
ちーちゃんの胸に楔が打たれ込まれます。美海ちゃんの言う通り、来年の紡くんの誕生日を2人で過ごせる保証はないのです。
「だから、後悔しないで済むように目一杯積極的にいくのがいいと思うよ」
美海ちゃんはニッコリ笑って去っていきました。
「目一杯積極的にいって紡のお嫁さん、かあ」
ちーちゃんは去っていく2人の中学生の背中を見ながら小さく呟いたのでした。
そして迎えた金曜日、紡くんの誕生日。
「へぇ〜。ここが紡が来年から通う予定の大学がある街なのね。本当に都会なのねぇ」
「どうして俺は、平日なのに学校をサボってこんな所まで足を運んでいるんだ?」
ちーちゃんと紡くんは来年紡くんが受験する大学がある都会の街に立っていました。
「早朝に半分寝たまま家を出たので過程がよく思い出せない」
頭を捻る紡くん。早朝、まだ日が昇っていない時間にちーちゃんに揺すられて無理やり起こされ、ろくな説明もないまま私服姿で家を出ました。電車に乗って居眠りと半分覚醒を繰り返している内に気付くと都会まで来ていたのです。
今日は金曜日で学校の授業もあります。なのに、始業時間をとっくに過ぎているこのタイミングで遠く離れた場所にいることに紡くんは戸惑っています。密かに皆勤賞を狙っていたのでガッカリです。
「お誕生日おめでとう」
ちーちゃんは紡くんの手を自分の両手で握りながら笑顔で誕生日をお祝いしました。
「あ、ありがとう……?」
紡くんはちーちゃんの意図が読めずまだ戸惑っています。そんな彼にちーちゃんは続けて楽しそうに朗らかな声で述べたのです。
「今日は私とデートしてくれない?」
「…………あ、ああ」
ちーちゃんからの初めてのデートのお誘い。更に戸惑いながら紡くんは小さく頷いてみせました。大好きなちーちゃんからのお誘いを断るなんて選択肢は紡くんにはありません。
「ありがとう♪」
ちーちゃんは両手で紡くんの右腕をしっかりホールドします。所謂腕を組む状態になりました。
「…………礼を言うのは、俺の方」
いつになく積極的なちーちゃんに紡くんはドキドキが止まりません。
「それじゃあ、紡の大学を案内して欲しいな」
ちーちゃんは頭を紡くんの肩に預けました。
「俺はまだ入学試験に受かってないぞ」
「紡が試験に落ちるわけないでしょ。来年の今頃には大学生としてここで暮らしているはずよ」
「…………ここで暮らす」
ちーちゃんの言葉に紡くんの身体が小さく震えました。
「分かった。キャンパス内は一般人でも中に入れるから、俺が通うことになる学科の建物を見に行こう」
「うん。エスコートをお願いね」
2人は腕を組んだまま歩き始めました。
「私、大学の中に入るのって生まれて初めて」
「俺も去年のオープンキャンパスで体験授業を受けた時が初めてだった」
2人寄り添いながらキャンパスの中を歩きます。ちーちゃんにとって初めて足を踏み入れるそこは自分たちが通う高校とは造りがまるで違っていて別世界でした。
「私たちが通う高校は校舎1つなのに、ここはたくさんの建物があるのね」
大学の中には20以上の建物が並んでいます。小さな街を連想させる光景にちーちゃんはビックリです。
「総合大学だからな。学部も専攻も多様だから建物の数も増える」
「海洋学の校舎はどれなの?」
「あれだ」
紡くんが指差す先には一際大きな10階建て以上の新しいビルがありました。
「あの建物の13、14、15階が海や水全般に関する学問を扱っているフロア。授業は大体1、2、3階にある教室で行われる」
「海洋学っていうぐらいだから、海の側に建物を構えているのかと思ったけど、そうじゃないのね」
「実地研修なんかは別の場所でやる。ここは理論学問のベース」
「本当に勉強する場所なんだね。ここに来るまで水産実習みたいなものを思い浮かべてた」
ちーちゃんの口から感嘆の息が漏れ出ます。
「この大学には海村研究の権威である三橋先生がいる。俺はその人の下で学んで汐鹿生について研究する」
紡くんの言葉には強い意志が篭められていました。ちなみに紡くんはまだ三橋先生と直接的な面識はありません。研究はできてもKYな人だということはまだ知りませんでした。
「紡は先のことまでちゃんと考えてるんだね。ほんと、偉いよ」
ちーちゃんには紡くんがいつにも増して大人びて見えました。それは胸が熱くなることでした。でも、紡くんはちょっと違う感想を抱いていました。
「俺がこの大学に通うようになったら……鷲大師の家を出てこっちに住まないといけなくなる。ちさきはそれでいいのか?」
紡くんの言葉はちーちゃんの胸に痛みを覚えさせるものでした。紡くんがここの大学生になるということは、2人での共同生活の終焉を意味しています。
「や〜ね、紡ったら。私がいないと寂しいの?」
ちーちゃんとしては冗談めかしてこの場を切り抜けるしかありませんでした。でも、それは叶いませんでした。
「俺はちさきがいないと寂しい」
紡くんはストレートに返してきたのです。ちーちゃんの全身が急激に熱くなっていきます。大学を下見に来たことでちーちゃんも紡くんも来年からの生活を強く意識したのです。
「紡には……私が必要なんだね」
ちーちゃんはドキドキしながら確認します。
「ああ。俺の人生には、ちさきが必要なんだ」
紡くんはキッパリと意思表明してみせました。ここまでハッキリ言われてしまうとちーちゃんも曖昧な言葉で逃げているわけにもいきません。
小さく深呼吸を2、3度繰り返して紡くんと正面向き合いながらちーちゃんは紡くんに語り掛けます。
「でも、紡のその質問の仕方は正しくないよ」
「どういうことだ?」
「尋ねるべきは私が寂しいかどうかじゃなくて……私に都会まで付いてきてくれるかってことじゃないのかな?」
「えっ?」
ちーちゃんは戸惑いながらも潤んだ瞳で大きな問題を投げ掛けたのでした。
つづく
第19話 ちーちゃんと紡くんと18歳の誕生日後編
「紡がさ、高校を卒業したら都会で一緒に住もうって言ってくれれば……私はその言葉に従うよ」
「…………っ!?」
ちーちゃんの言葉は様々な意味で紡くんにとって衝撃的でした。高校を卒業してからも同居の継続を、いえ、それ以上の関係になることを認めたちーちゃんの言葉が嬉しくないはずがありません。でも、それ以上に引っ掛かるものが多すぎました。
「看護学校はどうする?」
思い付いた疑問を1つずつ口に出してみます。
「看護学校なら都会の方が多いよ。こっちで一緒に住めば、お家賃や光熱費もお得になるしね」
思い留めるはずの質問はちーちゃんに笑顔で粉砕されてしまいました。
「爺さんはどうする?」
紡くんは心に疚しさを覚えながらも更に尋ねます。
勇おじいちゃんは紡くんの祖父であり、長年一緒に暮らしてきた家族です。なのでちーちゃんにそれを訊くのはお門違いであることは知っています。責任転嫁です。
けれど、ちーちゃんが勇おじいちゃんによく懐いているから。そして自分の理論武装のために意地悪な質問をしてしまったのでした。
「…………おじいちゃんに会えるのは週末だけになっちゃうかな。週末はできる限り鷲大師に帰るようにして、おじいちゃんの病院にお見舞いに行くようにするの」
ちーちゃんの顔に喋りながら僅かに影が差しました。その変化は紡くんの心を鞭打ちます。けれど、ここで質問を止めるわけにはいきませんでした。
「光は、汐鹿生はどうするんだ?」
紡くんは自分のことを最低だと思いながらも聞かずにいられませんでした。胸がバクバク鳴って気持ち悪くなるのが止まりません。自己嫌悪で吐いてしまいそうです。
「光やお母さんたちのことも…………週末、になるのかな」
ちーちゃんはとても弱弱しい笑みを浮かべました。今にも泣き出してしまいそうな哀しさに満ちた瞳。でも、決して泣かずに紡くんに微笑み掛けています。
「…………ごめん」
ちーちゃんのいじらしい態度を見て紡くんは更に深い自己嫌悪に陥ります。
高校卒業。それは、進路が別になる以上の大きな問題を2人に突き付けるものでした。
「私は、こんな感じの人間だから……後、どれだけ待っても自分から答えを出すなんてできないと思うんだ」
ちーちゃんは泣きそうになりながら、けれど一生懸命に冷静を装いながら、笑みを浮かべながら紡くんに語り掛けます。
「紡に引っ張ってもらわないと……私は、前に進めないの」
聞いていて胸を切り裂かれるようなちーちゃんの言葉。その言葉に紡くんは去年の温泉旅行でのやり取りを思い出しました。
「みんなが眠りに就いて4年。認めたくないけど、私はどんどん大人に近付いてきている。もう、光たちがいた中学生の時と同じじゃいられないの。そろそろ……前に進まなきゃいけないのよ」
ちーちゃんの苦しさが伝わる嘆き。紡くんも息が詰まって頭がおかしくなりそうです。
「でも、私は変わることに臆病だから。紡に手を引っ張ってもらわないと進めないの」
「その前へ進むっていうのは……」
紡くんは唇の端を噛み締めます。ちーちゃんの言う『前に進む』が意味している内容を考えると辛くて堪りません。
「紡に私の手、引いて欲しいの」
ちーちゃんが紡くんに向かって右手をそっと差し出します。
「ちさき……」
紡くんは固まってしまい、指1本動かすことができません。
差し出されたその手を握ることが何を意味するのか。分からない紡くんではありません。
ちーちゃんの手を握ることで得られるもの、失うもの。背負うもの、捨ててしまうもの。考えれば考えるほどにそれは恐ろしく巨大なものに思えて仕方ありません。
ちーちゃんの背負っているもの、そしてそれに関連して紡くんが背負ってきたものは途方もなく重いものでした。少なくとも根がとても真面目な2人にとっては。
高校卒業が現実のものとして見えてきた今、2人はとても大きな壁にぶつかっています。
「私はね、本気なんだよ。本気で紡に引っ張って欲しいって願ってるんだよ」
ちーちゃんが鞄から取り出したのは1通の書類でした。その書類に描かれている文字列を見て紡くんは目を大きく見開きました。
「これ、婚姻届だぞ……」
それは正真正銘本物の婚姻届でした。ちーちゃんの欄は全て記入済みです。何気なく勇おじいちゃんの署名と捺印もしてあります。後は紡くん側の欄さえ埋めてしまえば提出できてしまいます。
「さゆちゃん美海ちゃんに背中を押されたってこともあるのだけど……私の本気、紡にも分かって欲しくて」
ちーちゃんは潤んだ瞳で紡くんを見つめ上げます。
「紡が手を引いて私を前に引っ張ってくれるなら……私は一生紡に付いて行くから。海を出て都会に出るから。だから、私を、前に進ませて」
再び手を差し伸べるちーちゃんの切なる訴え。プロポーズにも等しい告白。
「………………っ」
紡くんは再び固まってしまいます。その額からは脂汗が流れています。そのまま時だけが静かに過ぎていきます。長い沈黙が2人の間を駆け抜けていきます。
紡くんは返事がしたいのにできませんでした。眉間にシワが寄ったまま口が開けません。
「やっぱり、紡は手を取ってくれないね。優しいから。私のことを想ってくれているから」
ちーちゃんは寂しそうに、けれどどこか誇らしげに瞳を細めて紡くんを評価しました。
「それに私が海村を捨てたら……紡がここで海洋学を学ぶ意味が半減しちゃうもんね」
紡くんは目線を下げました。それは婉曲にちーちゃんの指摘が正しいことを意味しています。紡くんが海洋学を本格的に学ぼうと思った根底にはちーちゃんの存在があります。ただの海好きではちーちゃんは救えません。だからプロフェッショナルになる必要がありました。
「そして海を捨てた私を受け入れたら……ご両親と同じになってしまう。紡はそう思ってるんだよね?」
ちーちゃんの鋭すぎる指摘に紡くんは白旗を上げざるを得ませんでした。
「………………ああ。ちさきは、俺のことが本当によく分かっているんだな」
俯きながら頷いてみせる紡くん。苦しさから解放されたいちーちゃんの望みを叶える。それはすなわち、紡くんにとってみれば嫌っている両親と同じ行動を取ることに他なりませんでした。今の生活を正当化するために海を捨てようと必死になっている両親と同じに。
「私ね、最近は紡のご両親の考えや行動が……よく、理解できるんだ」
ちーちゃんは婚姻届を見つめます。
「去年、温泉旅行に行って2人で話し合ってからずっと考えていたの。私の幸せって一体何だろうって」
ちーちゃんは目線を紡くんへと向け直しました。
「考えれば考えるほど……紡の存在が私の中でどんどん大きくなっていったの」
紡くんの心臓がドクンと大きな音を立てて鳴り響きました。
「紡のことで体の中をいっぱいに満たしたくて。それが私の幸せだって分かって。でもね、その幸せを掴むためには前に進まなきゃいけなくて。私を立ち止まらせているものを全部振り払いたくなる瞬間が増えているの。時々どうしようもなく……海を捨てたくなるの」
ちーちゃんは泣きそうな表情を浮かべています。
「だから私は、大切なものを1つ選ぶために、もう1つの大切なものを無理やりにでも捨てようとする紡のご両親の気持ち……何となくだけど理解できるんだよ」
「…………ちさきっ」
ちーちゃんの告白は紡くんにとっては殊更に精神的にキツいものでした。全く正反対の存在だと思っていた自分の両親とちーちゃん。その両者が同じような葛藤を抱いている。
それは両親の生き方を否定しちーちゃんの幸せを第一に考えてきた紡くんにとってアイデンティティが崩壊しかねない大きな問題でした。
「冬眠する前のうろこ様の話が正しいのなら、汐鹿生の眠りが解けるのは私たちがおばあちゃんおじいちゃんになって死んじゃってそれからずっと先の話。私が生きている間に光たちが目を覚ますことはないの」
ちーちゃんの両の瞼からポロポロと涙が溢れます。
「お父さんやお母さん、光や要やまなかたちともう会えないのなら……汐鹿生のこと、私の中からなくしちゃいたいって思うのは私のわがままかな?」
泣きながら語るちーちゃんを見て紡くんの身体が震えます。
「汐鹿生の代わりに、紡でいっぱいになりたいって願うのはわがままかな?」
「ちさき……」
目の前に泣いているちーちゃんがいる。けれど、紡くんには彼女に何と言えば良いのか分かりません。両親とちーちゃんに重なる部分ができたことで紡くん自身が大きな動揺に陥ってしまっています。
「こうやって、紡が来年から通う大学を実際に見ちゃうと……来年の春になったら本当に紡は私の前からいなくなっちゃうんだって実感が込み上げてきて……私、やっぱり、貴方に置いて行かれるのが嫌なのっ。離れたくないのっ。私を……ひとりにしないで」
ボロボロと大粒の涙を流しながら紡くんに抱き着いてくるちーちゃん。そんな彼女を見て紡くんの中で何かが熱く燃え上がりました。
「俺は、俺は……っ!」
紡くんは全身に力を篭め、歯を食いしばりながらちーちゃんの腰を抱き寄せました。
「俺は、ちさきをひとりにしない。絶対に。一生涯」
「私のこと……お嫁さんにしてくれるの? 海村のこと、忘れていいの?」
泣き顔で紡くんを見上げるちーちゃん。紡くんは意を決して告白しました。
「俺は、わがままで無力で諦めが悪くて独占欲が強いんだ」
「えっ? どういうこと?」
ちーちゃんは紡くんの言葉の意味が理解できずに当惑しています。
「俺はちさきに汐鹿生のことを捨てて欲しくない。今どんなに苦しい思いをしてもだ。だから俺はどうしようもなくわがままだ」
ちーちゃんは真剣な瞳で紡くんの顔を覗き込みます。
「俺は無力な高校生だ。どうすれば汐鹿生の人たちが眠りから覚めるのか、いや、そもそも眠りから覚ましていいのかさえも皆目見当が付かない。ちさきに確約してやれることは何もない」
ちーちゃんは黙ったまま紡くんを見ています。
「でも、俺は諦めない。大学に入って一生懸命勉強して、汐鹿生を……ちさきが海を捨てなくても幸せになれる道を必ず見つけてみせる」
ちーちゃんを抱く紡くんの腕に力が篭もります。
「だからもうしばらく俺に時間をくれ。ちさきに本当の笑顔になってもらうための時間を」
ちーちゃんは手を突いて紡くんから身体を離しました。そして背を向けました。
「紡って……本当に自分勝手で女心ってものが分かってないよね。中学の時からそう。肝心な所で私をガッカリさせる」
「うっ」
ちーちゃんにピシャっと言われてしまい落ち込む紡くん。
「勇気を振り絞った告白の返事を保留されたら、女の子にとってはとても大きなショックなんだよ。一度受け入れてくれなかったら明日も好きでいるとは限らないんだからね。明日紡にプロポーズされても私は断るかもしれないからね。分かった?」
「…………はい」
怒ったようなちーちゃんの言葉に紡くんは頭を下げるしかありません。
「それに私に大きな我慢を強いる割に紡の立てる目標は抽象的過ぎ。私の幸せとか本当の笑顔って何なのかよく分からないし」
「…………スマン」
飼い主に怒られた犬のようにしょげ返る紡くん。
「しばらく時間をくれっていうのも一方的よね。紡が待たせるつもりなら、私だって他に格好いい人見つけて結婚しちゃおうかなあ?」
「それは、困る」
紡くん当惑です。考えてみると、自分の要求はちーちゃんに一方的な負担を強いるものに他なりません。彼女が背中を向けてしまうのも無理もないと思いました。
「紡がさ、今すぐこの婚姻届に記入して役所に提出してくれるのならもうちょっと紡のことを信じられるんだけどなあ」
ちーちゃんは後ろを向いたまま婚姻届を紡くんに向かって見せます。
「俺もちさきもまだ高校生。結婚はできない」
「今日私をお嫁さんにもらっておかないと、もうチャンスは来ないかもしれないよ。格好いい男の人は紡以外にもたくさんいるんだから」
「ちさきがプロポーズを受ける男は未来永劫俺しかいない」
「なに、その自信過剰ぶり? 紡のキャラには似合わないわよ」
背中を向けたちーちゃんからクスっと笑い声が漏れました。
「あ〜あ。一世一代のプロポーズを断られて紡に振られちゃった」
「…………振ってない」
「失恋しちゃった」
「…………だから、振ってない」
「だから、紡の言うことなんかもう聞かない。もう知らない」
「…………そうか」
ちーちゃんの言葉に紡くんはしょんぼりです。
「だから、自分で判断して決めることにするね」
「えっ?」
紡くんは慌てて頭を上げました。すると、いつの間にか紡くんへと振り返っているちーちゃんの顔がすぐ間近にありました。
「私、おばあちゃんになるまで独身でいるのは嫌だからね」
ちーちゃんはそう言って、紡くんの頬に掠めるように短いキスをしました。
「ちっ、ちさき?」
ちーちゃんの突然の積極的な行動に紡くんはビックリです。
「今日は紡の誕生日だからそのプレゼント。紡のプロポーズを私がおばあちゃんになるまで待つ証だなんて誤解しちゃ駄目なんだからね!」
ツンデレして必要のないことまで口にしてしまうちーちゃん。
「ほらっ。分かったらデートの続きに戻るわよ。せっかく都会に来ているんだから、色々な所を回りましょ」
ちーちゃんは再び紡くんの腕を組む姿勢を取りました。
「あ、ああ」
ちーちゃんにペースを握られっ放しの紡くん。でも、それは悪くない気分でした。
「木原ちさきになり損ねた分、紡が頑張ってエスコートして私を喜ばせてね♪」
「俺だってこの街に来たのはこれで2回目だぞ。無茶言うな」
2人は仲良く並んで都会見物に出掛け直しました。
そんな2人を、朝たまたま駅前で見掛けて尾行した所都会まで来ちゃったけど今更声も掛けられなくてずっと後ろから見続けていた狭山くんが優しく見守っていました。
了
第20話(最終話) 紡くんとちーちゃんと卒業
「3年間、あっという間だったね」
「そうだな」
3月下旬。紡くんとちーちゃんは高校を卒業しました。2人は今、卒業証書を片手にゆっくりと帰宅の道を歩いています。
「紡は、打ち上げに参加しなくて良かったの?」
卒業生の多くは今、思い出作りのためにお店を借り切っての打ち上げの真っ最中です。飲めや歌えの大騒ぎ状態です。
「騒がしいのは好きじゃない」
紡くんはいつもと同じ不参加の理由を述べました。
ちなみにこの打ち上げは卒業記念でちーちゃんに告白してあっさり玉砕した狭山くんが音頭を取って派手に行われています。
「最後ぐらい羽目を外して楽しめばいいのに」
クスッと笑ってみせるちーちゃん。
「俺はそんな器用に振舞える人間じゃない」
紡くんがちーちゃんへと視線を向けます。
「ちさきこそ何で打ち上げに参加しなかったんだ? 俺に合わせる必要ないのに」
ちーちゃんはヤレヤレという感じで息を吐き出しました。
「みんなが気を使ってくれたの」
「気を?」
「最後ぐらいは恋人と2人きりの水入らずで過ごすのがいいでしょうってね」
ちーちゃんは1歩前に出ます。
「せっかくのご厚意だからさ、従うことにしたのよ」
ちーちゃんは大きく背伸びをしてみせました。
「そうか」
紡くんは少し戸惑いながら頷きます。『恋人』の部分を否定しなくて良いのかと思いながらも口に出せません。それは野暮だと紡くんにも分かるからです。
「せっかくだから、海に寄っていかない?」
「そうだな」
2人は海に寄ることにしました。
3月の海は寒冷化の影響もあって一面白に覆われています。
「やっぱり、氷のせいで汐鹿生が全然見えないね」
「汐鹿生は特に人の侵入を拒むように潮流だの分厚い氷が周囲を覆っている。1年間を通じて全く見えない」
岸壁から海を眺める2人。しかしその視線の先にあるはずの海村は全く見えません。
「やっぱり紡に頑張ってもらわないと、この問題は私じゃどうにもならないみたい」
ちーちゃんは小石を海に向かって投げ入れました。石は氷に当たって跳ね返り、白い海面をコロコロと転がっていきます。海の中に入ることはありませんでした。
「汐鹿生の未来は紡の研究成果に掛かってるんだからね」
ちーちゃんは楽しげに笑ってみせます。
「私の家族の双肩に海村の人たちの未来が掛かっている。うん、自慢できるよ」
ちーちゃんは再び海を見ます。
「でも、研究のために私の元を離れちゃうのは寂しいなあ。ひとりは寂しいなあ。きっと夜に寂しくて泣いちゃうんだろうなあ」
ちーちゃんはわざと語尾を伸ばして寂しいを意地悪に強調しています。
「…………頻繁にこっちに戻ってくる」
鈍い紡くんもさすがに露骨な催促には気が付きました。ですが、この回答ではまだ不充分でした。
「頻繁ってどのぐらいの間隔?」
具体的な頻度を尋ねられてしまいました。
「…………2ヶ月ぐらいに1度は必ず帰る」
「おじいちゃん、2ヶ月に1度しか紡が会いに来てくれないんだあ。寂しいだろうなあ」
勇おじいちゃんの名前を出しながらちーちゃんは不満顔全開です。
「…………毎月必ず帰る」
紡くんは条件を変えました。折れました。
「その言葉、守ってくれなかったら大変なことになるんだからね」
ちーちゃんは頻度には納得を見せたものの紡くんに釘を刺しに来ました。
「毎月帰って来なかったら、紡は私たちよりも都会の生活を選んだ。ううん、都会の女の子たちを選んだとみなすから」
「何故にそうなる?」
大きく目を見開いて驚く紡くん。でも、ちーちゃんの話にはまだ続きがありました。
「紡が都会の女の子を選ぶんだったら……私もこっちで彼氏作っちゃおうかなあ。ずっとこっちに残ってくれそうな人の中で……例えば狭山くん、とか?」
「何があっても絶対に毎月帰る。そして狭山は毎月捨てる」
「うん。よろしい」
ちーちゃんは満面の笑顔をようやく浮かべました。
この時の約束により、紡くんは指導教授である三橋先生に対してフィールドワーク先に汐鹿生を猛烈プッシュしました。そして汐鹿生を調査地にすることで頻繁に鷲大師に戻ってくるルートを確保したのです。
「ちさきもたまには都会に来てくれ」
「うん。紡の部屋に女の子が出入りしている形跡がないかチェックしに行くね♪」
「…………っ」
ちーちゃんの言い方があまりにもストレート過ぎて紡くんはゲッソリしました。
「俺は勉強しに都会に行くんだぞ」
「そう言いつつ、新天地で新しい可愛い女の子と親しくなっていっちゃうのが、少女漫画におけるイケメンのパターンなのよねぇ」
ちーちゃん疑いの眼差し。以前さゆちゃんたちにからかわれたせいで『都会の女』に対する警戒感が高まっています。
「俺を信じろ」
「紡は誕生日の際に、随分身勝手に私に待って欲しいって言ったわよねぇ。私って、紡にとって都合のいい女に過ぎないのかしら?」
「サヤマートに行って、海を見ながらコーヒーゼリーを食べよう」
紡くんは精一杯のお誘いをしてちーちゃんの疑いを逸しに掛かります。長い間一緒に住んでいるので分かります。今のちーちゃんは言葉では納得してくれないと。何かを企んでいると。
「紡の奢り?」
「ああ」
ちーちゃんの問いに小さく頷いて答えます。
「家に帰ったらデートが終わっちゃうから、もう帰宅道を少し楽しみましょう。おじいちゃんにも卒業を報告しないといけないしね」
「う、うん」
提案にちーちゃんが乗ってくれて自分がビックリしています。でも、彼女が話に乗ったことで何を考えているのか逆に分からなくなったのでした。
「さて、改めまして卒業おめでとう」
「ちさきもおめでとう」
「それじゃあ打ち上げの第二部に入ろっか」
「ああ」
紡くんの手を握るちーちゃん。ちょっとだけ赤くなる紡くん。2人はサヤマートに寄ってコーヒーゼリーを買い、それから病院にも寄ってからゆっくりと家へと帰ったのでした。
卒業から数日が過ぎた3月末日。2人にとって運命の日が遂に訪れました。
「いよいよ出発だね」
「ああ」
木原家の玄関の前に立つ2人。紡くんの脇には大きなスポーツバッグが置かれています。
今日は紡くんが都会へと出てひとり暮らしを始める記念すべき日。言い直せば、4年以上続いてきたちーちゃんと紡くんの同居生活が区切りを迎える日です。
そのせいで2人ともとてもしんみりした空気になっています。
「ひとり暮らしになると、食生活が乱れる人が大半だって言うから紡も気を付けてね」
紡くんの料理スキルはちーちゃんに劣らないレベルです。けれど、一方で紡くんは食事に執着があまりありません。自分だけの食事だとコーヒーゼリー1つとオレンジジュースで済ませてしまう場合もあります。そんな紡くんの食生活にちーちゃんは釘を差します。
「ああ。ちさきも気を付けてな」
そして、ひとりだと食生活が乱れるのはちーちゃんも同じでした。2人ともお互いのためにのみ料理の腕を発揮してきたのです。そんな自分たちがおかしくて、2人の間に小さな笑いが起きました。
「それから、ひとり暮らしになると生活リズムが乱れることが多いらしいから気を付けてね。紡、受験勉強の時も睡眠に全然気を使わなかったし」
「大学は高校よりも朝ゆっくりできるから。睡眠時間は確保できると思う」
「それって、夜更かしすることを前提にしているわよね?」
紡くんは黙ったまま顔を逸しました。
「夜寝て朝起きる生活ができるようにモーニングコールするからね」
「…………ああ」
紡くんの表情がパッと明るくなりました。
「俺は夜更かしする癖があるから……頻繁に頼む」
少し恥ずかしそうに、けれど熱心なお願い。紡くんのちょっと意外なお願いにちーちゃんはようやく自分の言葉の含意を悟ったのでした。
「紡ったら、私の声が毎日聞きたいのね♪」
「…………っ」
紡くんは否定も肯定もせずに黙っています。けれど、その頬は先ほどより赤くなっていました。図星でした。
「週末は紡から電話して欲しいなあ」
「分かった。朝早くは難しいけど、週末は俺から掛ける」
2人の頬が赤くなります。遠距離恋愛になる恋人同士のようです。事実、それと何の違いもないのですが。
「都会に可愛い子がいても浮気しちゃ嫌だからね」
「ちさきこそ、寂しいからってこっちの変な男に近寄るなよ」
2人は形式的にはまだ交際していません。
「うん。いい子にして待ってるから。紡は女の子を部屋にあげちゃ駄目だからね」
「ああ」
だから2人は形式上まだ夫婦ではありません。
そして、時間がやってきました。
「それじゃあ、バスの時間が近付いているから。そろそろ行くな」
「うんっ」
目と目を合わせて頷き合う2人。
2人が遂に別々の道を歩み始める瞬間がやってきたのです。
紡くんはスポーツバッグを担ぎました。
「…………じゃあ、行ってくる」
色々なものが喉の奥から込み上げてきた紡くんは苦しくてちーちゃんの顔を見ていられなくなりました。背中を向けながらちーちゃんに出発の挨拶を告げます。
「行ってらっしゃい」
背中から聞こえる彼女の声に紡くんは思わず泣いてしまいそうになります。
でも、泣くわけにはいきません。紡くんは男の子ですから。
紡くんは涙を堪えながらゆっくりとこの家を離れる第一歩を歩もうと決心を固めます。
そして──
「それじゃあ、出発しましょ♪」
気が付くとちーちゃんが隣に並んでいました。
「えっ?」
「紡が失礼なことを言わないように私も引越し先の大家さんにご挨拶するから♪」
ちーちゃんは都会まで見送りに付いてくる気満々でした。よくよく見れば服装も他所行き用のになっています。
「あ、ああ」
紡くんはちーちゃんが都会まで付いてくることを聞いていなかったのでちょっと驚いています。そしてちーちゃんと離れる瞬間が遅くなったことを内心で喜ぶのでした。
それから数時間後、2人は都会の紡くんの入居するアパートに到着しました。
「今日からうちの紡がお世話になります」
挨拶の主導権を握ったのはちーちゃんでした。
「木原さんは妻帯者だったのですね。単身赴任とは新婚早々に大変ですね」
甲斐甲斐しい様子を見せるちーちゃんを大家さんは一番自然な設定で脳内にインプットしました。
ちーちゃんはポッと頬を染めるだけで大家さんの言葉を否定しません。紡くんは何も口出しできません。
そしてちーちゃんは新しい部屋に付いてきた一番の目的を果たすことにしました。
玄関を出て表札を見ます。
『木原 紡』
と書いてあります。
ちーちゃんは油性マジックを取り出し
『木原 紡
ちさき』
自分の名前を付け足しました。
「これで良しっと」
ちーちゃんは額の汗を拭いながら仕事をやり遂げて大満足です。
「紡の部屋に上がって来ようとする女の子たちはこれで撃退できるわね♪」
満面の笑みを浮かべます。ちーちゃんの『都会の女』対策でした。卒業式の日からずっと考えていたことをようやくやり遂げたのです。
「………………っ」
紡くんは何と返事をすれば良いのか分かりません。でも、ちーちゃんがこの部屋でも自分との繋がりを示してくれたことがとても嬉しいのでした。
「私の看護学校は始まるまでまだしばらく時間があるから……しばらくここに泊まり込んで引っ越しのお手伝いするから♪」
ちーちゃんは楽しそうに紡くんに告げました。
「よろしく、頼む」
少し戸惑いながら頷いてみせる紡くん。
「紡にはやっぱり私がいないと、ね♪」
嬉しそうに頷いてみせるちーちゃん。
この数日間の同居により紡くんが妻帯者であるという噂がアパート内はもちろんのこと、大学内でも知られるようになりました。ちーちゃんは団地妻ならぬアパート妻の称号を手に入れたのです。
その甲斐あってちーちゃんは都会の女が紡くんに纏わり付くのを阻止することに成功したのでした。
完
*****
特別編 さゆちゃんと美海ちゃんと新たなる戦い
『だから美海、お前が、まなか、お前たちが…………俺の鱗だっ!』
『イケメン・フラッシュッ!』
『私、この人と結婚しますっ』
『メガネばり〜んッ!?!?』
海神様の悲しい別れに起因した切なくも心温まる海っ子たちとその大切な人たちのお話は終わりを告げました。
けれど、その誰もが喜ぶ陸と海の融合は新たなる戦いの序曲に過ぎなかったのです。
そしてその戦乱の主役はニュージェネレーションたちによって担われることになったのです。
「それで紡ったら、なかなか私の手を離してくなくてね♪ 車掌さんもドアを閉められなくて困っていたから私も電車に乗っちゃって、結局都会の紡のアパートまでお見送りしてきたのよ。そうしたら紡ってばあ、私をひとりで帰らせるのが心配だって今度も手を離してくれなくて。それで2日、お泊りして来ちゃった♪」
前大戦の英雄は平和を迎えた世ですっかり腑抜けになっていました。顔をデレデレにして恋人との惚気話に大忙しです。
「紡ったら、私が世界で一番綺麗だから他の男が寄って来ないか心配だって。それで、この婚約指輪を贈ってくれたの。私の全ては紡のものなのに、心配屋さんなんだから♪」
ちーちゃんは本人的には小言、第三者から見ればただの惚気を口にしながら左手を目の高さに上げます。そこには黄金に輝くリングがありました。中心には小さいですがダイヤモンドが施されています。
「うわ〜綺麗」
「ほんと、綺麗」
今日何度目になるのか分からない婚約指輪のお披露目に、さゆちゃんと美海ちゃんはとても疲れた表情を見せながらそれでも褒めます。長い間のもどかしい期間を経てようやく結ばれた年上の友人を想っての優しさです。
「もぉ〜紡ったら。本当に私のことが好き過ぎるんだから♪ もちろん、私も紡の愛に負けないぐらいに紡のことが大好きだけどね♪」
「「はあ」」
こんな感じの惚気が既に3時間ノンストップで続いています。都会から帰ってきたちーちゃんに学校からの帰宅道で会ってしまったのが運の尽きでした。
3時半でまだ明るかった空が7時近くなってもう黒に染まっています。
「あの、お話途中で悪いんですが。そろそろ夕飯の時間ですので」
さゆちゃんは逃げるための交渉に入りました。既に遅きを逸した感がありますが、このままでは夕食抜きで延々と惚気話を聞かされそうです。
「夕食……」
ちーちゃんはしばらく考え込みます。
「そう言えば、おじいちゃんに夕飯の準備するのを忘れてたわ」
ポンっと手を叩きます。
海が再活性化したことでおじいちゃんも元気になり退院しました。たまに漁師としても活動しています。
「早く帰って夕飯の準備をした方がいいんじゃ……」
「黙って都会に付いていっちゃったから、3日前から食事を準備してなかったわ」
「「えっ?」」
紡くんとの恋愛に夢中なちーちゃんにとっては、大恩人である勇おじいちゃんの存在までもが小さくなっていました。
「まあ、おじいちゃんは料理上手だし。食事に困るということはないだろうけど」
ちなみにちーちゃんの脳内では高度な計算が働いています。土日を利用して看護学校の欠席日数を最小限に減らしたり、おじいちゃんの健康状態を専門家の目から把握することで3日以上の放置はしないなどです。
変化といえば、一番優先すべき事項が紡くんで固定したことであり、看護学校やおじいちゃんはその下になったことでした。海村の問題は解決し、おじいちゃんが健康になったことで他の問題の優先度が下がったことも関連しています。
「それじゃあ私はご飯作りに帰るね♪」
「「あっ、はい」」
さゆちゃんたちはちーちゃんからの解放の時をようやく迎えてホッとしています。
「「さようなら」」
元気よく手を振ります。
「気を付けて帰ってね。ああっ、左手が幸せ重いよぉ♪」
ちーちゃんはデレデレ顔を見せて左手を右手で抑えながらさゆちゃんたちの前を去っていきます。
「さゆちゃんも美海ちゃんも幸せになってねぇ〜」
一応フォローらしき声を出しながら。
「…………幸せになって、かあ」
美海ちゃんの小さな呟き。
「それが一番難しいよねぇ」
応えたさゆちゃんの口から小さなため息が吐き出されます。
「ちさきさんと紡はこの5年間、ずっと両想いだったわけだけど……」
「あたしたちは違うからねえ……」
2人して寂しい気分になって夜空を見上げます。
「…………諦めるつもりもないけど」
「…………だよねえ」
新しい戦いの主役であるニュージェネレーションの少女2人は輝き始めた星に向かって手をそっと伸ばしたのでした。
さゆちゃんと美海ちゃんがちーちゃんの惚気話を聞かされた翌日の朝。学校間近の通学路。
「シーサイドイケメンスマイルっ♪」
「「「きゃ〜っ♪」」」
2人は最近すっかりお馴染みと化した光景をまた今日も目撃しました。
海最高のイケメンの名をほしいままにする伊佐木要くんが爽やかに微笑み、そのスマイルを見た女の子たちが黄色い悲鳴を上げながら次々に地面に倒れていきました。下は幼稚園児から上はおばあちゃんまで無制限です。
「女の子はみんな変わっていて、みんな可愛い」
「あの野郎……」
女の子たちに見境なく愛想を振りまく要くんを見てさゆちゃんはおかんむりです。
頬をぷくッと膨らませて大股に歩いて要くんに近付いていきます。ところが彼を囲む女の子たちの壁に囲まれて近寄れません。
「ちょっと通しなさいよっ!」
さゆちゃんは大声を上げますが、壁は少しも崩れません。この辺りが、中学生の頃から紡くんの正妻と看做されてきたちーちゃんとその他大勢扱いのさゆちゃんの違いです。
「伊佐木要とのデートをご希望の場合には予約制となっています。こちらで申請してください」
美海ちゃんに告白を試みたばかりに何となくマイナスのイメージが付きまとっている峰岸くんがやってきました。彼は狭山くんの後継者に当たるポジションでした。
「あたしはデートじゃなくて、要に文句を言ってやりたいだけだっての」
「伊佐木要との独占おしゃべり権ですと、258人予約済みなので約8ヶ月後にトークが可能になります」
「フザケンナってのっ!」
さゆちゃんはクラスメイトの頬にグーパンを決めました。いい音が鳴り響いて要くんの注意がさゆちゃんへと向かいます。
「やあ、さゆちゃん。今日はいい天気だね♪」
要くんはそのイケメンぶりを遺憾なく発揮しながらさゆちゃんに手を振ります。
「おっ、おはよう……」
さゆちゃんは初恋の男の子のイケメンっぷりに思わずドキッとしてしまいます。でも、すぐに我に返りました。要くんの周りが多くの女子中高生に囲まれているからです。さゆちゃんに向けられる女の子たちの視線はどう頑張っても好意的なものではありません。
「可愛い女の子にたくさん囲まれて幸せそうね」
さゆちゃんの口から出たのは嫌味でした。
「僕はさゆちゃんのおかげで独りぼっちじゃないって思えることができた。さゆちゃんは僕の大切な人だよ」
「要……」
要くんの思い掛けない言葉にさゆちゃんの乙女回路は再び高鳴ります。
「僕はこれまでずっとちさきだけを見てきた。でも、さゆちゃんを見ることで僕の大きく広がり、幸せを感じる瞬間が増えたんだ」
さゆちゃんの顔が真っ赤に染まり上がっていきます。
「そして僕は気付いたんだ。たくさんの女の子を見ていると、僕はより幸せになれるってね」
「はっ??」
さゆちゃんの顔が別の意味で真っ赤に染まりました。
「僕は女の子が大好きなんだ。さゆちゃんは僕にそれを気付かせてくれた。ありがとう」
イケメンは最高の笑顔をさゆちゃんに向けました。心の中では常に寂しい思いをしてきた海イケメンは多数の女の子たちとの触れ合いに幸福を見出したのです。
「要の野郎……最悪な方向で覚醒しやがった。イケメンを兵器にするなんてぇ」
さゆちゃんは要くんにグーパンをお見舞いしようとします。けれど、人の壁が厚くて近寄ることさえできません。
「美海っ、手伝ってっ!」
さゆちゃんは親友に助力を求めます。
「…………っ」
けれど、美海ちゃんは正門方向を向いたまま固まっています。
「何を見て…………あっ」
美海ちゃんの視線の先を辿ると1組の男女が並んで歩いているのが見えました。
美海ちゃんの想い人である光くんとその彼女に最も近い位置にいると言われているまなかちゃんでした。2人は顔を寄せ合ってとても仲良さそうに見えます。
さゆちゃんは小さくため息を吐き出しました。
「少し時間を置いてから学校に入ろっか」
さゆちゃんは言いながら学校とは反対の方向に美海ちゃんの手を引いて歩き出します。
「光のタコ助はまだまなかさんと正式に恋人同士になったわけじゃない。返事しなくてもいいなんてイケメンになったつもりで保留してる。逆転フラグは立ってる。しかも相手は逆転負けで名高い花澤さんボイスの持ち主。美海は負けてなんかないよ」
さゆちゃんは凪あす最高のヒーロー属性を活かして美海ちゃんをグイグイ引っ張っていきます。
「私たちはまだ負けてなんかない」
さゆちゃんは美海ちゃんと自分に強く言い聞かせました。すると、その時でした。暗い裏路地から男の声が聞こえてきたのです。
「お嬢さんたち、イケメンのせいで苦しんでいるのだね」
身構えるさゆちゃんたちの前に男が姿を現します。どこにでもいそうなメガネを掛けた中年男でした。でも、そのメガネ中年にさゆちゃんたちは見覚えがありました。
「「ちーパパっ!」」
男はちーちゃんのお父さん、世界を救った英雄でした。海神様と一体化し、海神様に地上に上がった娘とその婿を怨むことの虚しさを身をもって知らしめた反面教師の鑑です。
家に帰るとカップラーメンが箱で食卓に置かれており、木原家を訪れてもちーちゃんがお茶さえも出してくれませんが、全世界の寒冷化を本当の意味で食い止めた英雄です。その大英雄は少女2人に誘いを掛けました。
「私と一緒に女心を弄ぶ度し難いイケメンをノックアウトしてみないかね?」
「「えっ?」」
ちーパパの誘いは後にニュージェネレーションズの恋愛に大きな影響を及ぼすことになります。
しかしそれはまた別の物語です。
さゆちゃんと美海ちゃんの恋愛模様はまた別の機会に扱いたいと思います。
未完
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pixivで掲載していた凪あすの紡ちさき短篇集その4 16〜20話+特別編 | ||
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