秘封倶楽部怪談記 〜狐狗狸さん〜 |
静寂。
そして悠久の闇のみが、森に満ちている。
時刻は既に夜の最中。
日中は暖かな光を受けた木々が青々と輝き、水は澄み渡り、森で過ごす大小様々な生物は蠢き死生を繰り返す。そんな絶え間なくざわめく命の音で満ち続けている、古の緑の大地。
だが今はすでにその事実すら疑うほどの冷たい沈黙が――この深緑の地を支配していた。
毎夜毎夜、暗い暗い無音をもたらす元凶の正体は人外であり、理解の向こうに居る者――つまり幻想。
――そう、ここはそう定まっている森なのだ。
"弱肉強食と自然の循環によって創りだされる厳しくも優しい森"などという人類の為の摂理だけで完結しきる事の出来ない……本当の意味の禁足地。
既に実存していない筈の幻想の森を覆う無音は、明らかな『死』を内包していた。
「――蓮子!」
「――メリー!」
本来ならば魂を凍らせる夜間には、息を殺す物音以外は一切無い筈の森。だが、今日はあり得ないはずの生者の気配が二つ。地面を激しく蹴る賑やかさに、森の住人達は戸惑いを感じていた。
「今何時!?」
「境界は見える!?」
問いかけはほぼ同時。それぞれが黒い前方と暗い上空を見上げる。
「前方100m辺りに見えてる! ……ああもう小さくなって来てる!」
「現在の時刻は23時45秒! ……ああもう雲が邪魔ッ!」
質問の際と同じように、お互いの顔を確かめる事も無くまたもや同時の返答。
二人の少女が辿る道は、舗装なんてされる事のない獣道。その行手を照らし導くは丸い月明かりのみ。懐中電灯なんて便利道具はとっくの昔に無くしてしまっていた。
……更にその背後の闇からは――
『レヽッUょレニレヽτ』
声とも叫びとも取れぬ"何か"の発する音。この森の平穏な夜を殺している原因。
死の気配がすぐそこまで迫り来る状況であっても、二人の少女の顔に絶望は無い。
「……あっ!?」
「メリー!!」
だが、慣れない獣道の全力疾走。足腰が特別強いわけではない現代人の少女の片割れは、とうとうその場で体勢を崩してしまった。あげられた小さな悲鳴に、もう片割れの少女は状況を瞬時に理解する。と、一切迷うこと無く過ぎた道を駆け戻ると、寄り添うように……庇うように相棒と"何か"の間に体を滑り込ませた。
『ξッちレニヵゝぇらTょレヽτ〃』
耳の奥底へと直接響かせるような不快音。
化け物に心なんて上等な物があるのか知らないが、少なくとも対峙した少女は確信した。
――おそらく"コレ"は寂しいのだ、と。
だから生者を追い、そして招いている。……悲痛を通り越して怖気の走る音を鳴らしながら。そこに最早、行動の理屈や自己を律する法は存在していないのだ。
蓮子は形も良く分からない背後の闇に一瞥だけすると、やや強引にメリーの手を取って進みだした。だが、その速度は先ほどよりも遅い。
「現時刻23時55秒……間に合うか!?」
もう一度空に視線を送る。だんだんと陰りを増す夜空のように、状況はバッドエンドへと進んでいっていた。
「……蓮子。このままじゃ二人共捕まるわ! 私は良いから先に逃げて!」
「無論、却下よメリー!」
「……蓮子っ!」
悲鳴に近い、もはや懇願するような声。
手を引く側も引かれる側も、腰から下の負担は既に限界値。背後には最早触れそうな距離まで近寄っている謎の存在。常人ならば、選択肢を選ぶ余裕すら無く発狂しているだろう絶望。
「――主人公ってのは物語をハッピーエンドに出来るから主人公なのよ!」
だがその絶望への返答はどこまでも明るい笑顔だった。
目前の帰り道は来た時よりも薄く小さく既に閉じかけ。更にこの状況を打開できる有効な策も道具も無い。――それでも――
「死ぬ気で……飛び込めぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!」
「いっ……けぇー!」
二人同時に踏み切った、後先を一切考えず迷わない大きな大きな最後の一歩。
――それでも蓮子を信じて大丈夫だと。信じたいのだと。メリーは決意に似た確信を持っていた。
「乂レ)→をヵゝぇ世ゃ<м○ゅヵゝレ)――!!」
最後の力を振り絞った大ジャンプで大胆に飛び込んだ現実への帰り口。その結界の隙間が、飛び込む直前にいきなり広がった事。
背後に突然増えた懐かしい誰かの気配。
気掛かりを残しつつも、一夜の冒険はこうして幕を閉じた。
……何故こんな危険で大胆な冒険を非力な少女二人が行っているのか? それに質疑が無くなるまで応答を重ねていたら、また次の夜と冒険が始まってしまう事だろう。だから理由はたった一つにまとめておく。
――マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子は二人で一つの"秘封倶楽部"だから――
秘封倶楽部怪談記『狐狗狸さんの怪』
「――じゃあ早速! 本日の秘封倶楽部の活動内容を発表するわ!」
ハリウッド映画さながらの大冒険からそう日も立たぬある日。唐突に背後から聞こえてきた友人、宇佐見蓮子の声に、私、マエリベリー・ハーンは返事代わりの長いため息を返した。
――大学近くの自然再現地区にポツンと位置する、ゆったりとした雰囲気が密かな人気の喫茶店『プライベートスクウェア』。懐古的とも言える西洋クラシック的内装は決して若者向けとは言えないながらも、ここが作り出す空間はまるで本当に時間が止まってしまっているようだと密かな評判を呼んでいる。
だがお昼過ぎの長閑な午後付近が最も常連客で賑わうここも、夕焼けの明かりで染まりつつある時刻とあっては、既に私と店員さんの姿以外は見かけられない。私はいつもの指定席、窓辺側一番奥端のテーブル席に座ったまま、最後のお客さんが帰って行く所を見送った。
「……」
チラリと店内にさり気なく飾られた柱時計に目をやる。普段は心地良い筈の秒針と振り子の刻むリズムが、なんだかやたらと長く感じた。
気を紛らわせようと、ふと目をやったカウンター席の向こう側。店員さんが食器の手入れをしている最中だった。
要領良く仕事をこなす銀髪の女性店員さんは、こちらが人待ち中だと言う事を知って閉店を先延ばしにしてくれた上、半ば貸し切り状態にしてくれている。瀟洒とはこの人の事を言うのだ。
(折角だから店員さんの好意に甘えさせてもらおう)
私はこうして折角の時間を無駄にしない為に、日暮れ時のアンニュイな気分に浸らせてもらう事にしたのだ。窓の外は太陽の赤とオレンジ色で塗りつぶされたような自然のみが存在していて、忙しいイメージをもたらす人工物は一切見えない。非日常的でも、命を賭けずに済む非日常的光景には希少価値の高くなった安らぎを感じる事が出来ていた。
……そんな哲学と詩的な一時が打ち壊されたのは、サービスで運ばれてきたミルクティーに丁度口付けをしていた時だった。
「――10分の遅刻よ蓮子。まず私に言う事があるんじゃない?」
悪びれる様子もなく堂々と目の前の席に座る友人に対して、白磁のティーカップを口元から戻しながら非難の視線を送る。が、既に送り先である友人の視線は窓の外――その奥に広がりつつある星空へと向けられていた。
「正確には13分41秒の遅刻よメリー」
何か言い訳をするわけでも無く、こちらに向き直って笑顔で応じる被告人。どこか誇らしげにも見えるその態度に、私は二度目の軽いため息と共にこれ以上の弁明要求を諦める事にした。
世間一般的に"オカルト"が単なる御伽話――つまり幽霊、都市伝説、大げさな陰謀論や過大解釈され尽くしたSF等の延長線上にある浪漫でしか無かったのは、もう何時の時代の話だろうか。様々な事が証明され、構築された新理論や新発見による文化的・技術的向上は、皮肉にもそう言った眉唾物の話が事実である事を証明してしまった。副産物的な結果として怪しく胡散臭いだけだった霊能者(オカルト)サークルの類は、一分野の"健全な"サークルとして幅を利かせる事になる。
私マエリベリー・ハーンと、目の前で店員さんにストレートティーを注文している宇佐見蓮子も、世間一般的には所謂そのオカルトサークルの一つに所属している身だ。
……最も、これまた世間一般的に禁止事項とされている結界・境界暴きを主活動とし、その挙句、命懸けの一大活劇をしてしまうような"不健全な"オカルトサークルだけれど。
「――それで? 今日はどんな活動をするの?」
一向に始まらない活動計画にしびれを切らした私から問いかける。が、当の蓮子は、んー?と言う空返事。その視線は私にではなく、メニューに印刷された色とりどりの"季節のオススメケーキ"の項目に熱く向けられていた。
「……」
無言でメニューを取り上げられた蓮子は少し寂しそうな表情を浮かべていたが……、
「あーはいはい。分かりましたよメリーさん。……スイーツの一つくらい良いじゃない……」
やっと観念したのかポケットからテーブルの上に、1枚の薄汚れた紙を取り出してきた。
「……? 何これ。おまじないかお守りの一種?」
紙にはあいうえお順に並べられた平仮名、その下には0〜9の数字・虹の様に並べられた七色の丸、更に紙面左上と右上には"はい"と"いいえ"の文字が対になるようにして配置されていて、その間の空間には鳥居のようなマークが印象的に色濃く描かれている。
訝しげに紙を手にとって目線の高さで広げて見ていると、その紙の向こう側で蓮子がわざとらしく"呆れました"と言わんばかりに首を横に振るのが目に入ってきた。
「……ねぇメリー? 一応仮にも私達のサークルは曲がりなりにもとりあえずはまぁオカルトサークルなのよ?」
「随分と不確定すぎると思うけど……ともかく説明お願いするわ……」
少々鼻につく物言いにやや不満が湧く所だが、無知なのはこちらの責任である。これが常識レベルのオカルト関連物だと言うのならば、概要ぐらいは知っておかなければならなかったのだろう。蓮子より大人である事を自負する私は、この場は素直にご教授願うことにした。
「これはね……メリー。その昔"狐狗狸さん"と呼ばれて流行した降霊術の一種よ」
「こっくり、さん? 聞いたことが在るような無いような?」
「そう、狐狗狸さん。テーブルターニングを祖とし、エンジェルさん、ひとふでさま、キューピッドさん……それこそ無数の別名と亜種を持つ、低級霊の類を利用した簡易降霊術。ま、全体的にお遊びみたいなレベルなのだけれどもね」
現代においてはすっかり廃れたお手軽なオカルトね。と、蓮子は不意に懐からこれまた年季の入っていそうなコインを一つ取り出すと、鳥居のマークの上に重ねるように置いた。お賽銭とかが必要なんだろうか?
「こうやってコインを1枚使うのが基本形で、場所によっては紐に吊るしたり……結構道具は地方に依るみたい」
「……結構アバウトなのね」
それだけ大衆的で堅苦しくないコンビニ感覚の術、という事か。何にせよこういったお呪い地味たお遊びは、基礎だけ抑えれば気軽にやれるのが重要なのだろう。
「遊び方としては、こう……コインの上に人差し指を置いて、質問を投げかける。すると、一文字づつ文字の上を走って行って答えてくれるって感じね」
そう言って蓮子は紙の上のコインを滑らせて動かしてみせた。なるほど平仮名と数字は汎用的に、はい・いいえの二つは簡易的な答えの際に使うのだろう。確かにこれは解りやすい。手軽で明瞭ならば、それだけでとりあえずやってみようという気にもなる物だ。
……でもそんな事よりも、もっと重要で根本的に解らない事が一つだけあった。
「――ねぇ蓮子? まさかこんな時代を遡ったような真っ当なオカルトらしいオカルトの実演が今日の活動内容だって言うの?」
我ながら矛盾した事を言っているとは思う。オカルトサークルなのだからオカルト地味た実験をしたがるのは当然。――しかし、私達は只のオカルトサークルではない。"秘封倶楽部"だ。
「あー……やっぱりその質問に至るわよね」
現に、問をぶつけられた蓮子の表情はなんとも困った様子を表していた。正直こんな事で揉めたくは無いのだけれども、ハッキリして置かなくてはならない。
『我らが"秘封倶楽部"は張り巡らされた結界を暴く不良サークルである』
綺麗に声が同調した。奇しくも蓮子と発言が一文一句一致したのだ。こちらは少々驚いたのだが、等の蓮子はさも私の発言が分かっていたと言いたげだった。なんだかちょっと悔しい。
それはともかく……私は何らかの理由が欲しいのだ。
――星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる眼を持つ宇佐見蓮子。
――結界の境目が見える眼を持つ私、マエリベリー・ハーン。
それぞれの特技を用いて暴き見、体験する事が出来る"向こう側の世界"。純粋な好奇心と探究心をエネルギーにして追い求める本当のオカルト("秘められた知識")という浪漫。
それなのに今更、真面目なオカルトサークル地味た事をやろう等と言われれば、不満の一つも言いたくなるのも当然。だからこそ、今回の題目にそれなりの理由を添えて欲しいのだ。
「――ともかくちゃんとした理由を御説明頂きたいですわ。宇佐見先生?」
やや壁を作るように、問う。
「あー……ではこういう説明はどうかね。メリー君」
対する蓮子は威厳たっぷりに間を開けること数秒。キリッとした顔付きに、期待と緊張が高まる。
「……なんとなくこういう事にも取り組みたくなる年頃だから! ……とかどう?」
私は黙ってその真剣そうなハリボテの表情に手刀を食らわせた。
――ごゆっくりどうぞ。
蓮子の前にストレートティー。そのついでか、私の前には2杯めのミルクティーが店員さんから運ばれる。
定形文とも言える言葉と隙の無い優雅な接客に経緯を払うように、軽めの会釈を返す。
「……まぁいいわ。蓮子には蓮子なりの理由があるのでしょうし。奇々怪々だろうと真っ当だろうとどっちでも良いわ」
「あー、人に自分の夢の話とかを話しちゃうメリーさんがそれを申されます?」
「蓮子うるさい」
ピシッと言い放つが、蓮子は額を軽くさすりながらへらへらと楽しそうな顔を浮かべている。
だが、今はこうしてフザケてはいるが、オカルトに関して私以上の熱意を持って真剣に取り組んで居るのは、他でもない蓮子自身なのだ。
――きっと今は何か話せない理由があるのだろう。
そう頭で理解はしつつも、どこか少し寂しいとも思ってしまった。
「とりあえず今回の狐狗狸さんは、このコインを一枚使う方式で実験を――」
「ちょ、ちょっと今ここで始める気?」
「ああ、大丈夫よ。店員さんにも許可は取ってある!」
ビシッ! と指し示されたカウンター奥。銀髪の店員さんは笑顔のままにこやかに会釈をしてくれた。なんとなく会釈を返してしまったが、違うの。そういう問題じゃないの。
「いやもうちょっと降霊術が成功出来そうなそれっぽい場所とかで……というかやっぱりお店に迷惑が――」
私が説得を試みようとした時には既に、蓮子はテーブルの上の物を端に寄せ始めていた。几帳面に配置されていた小物の類が、蓮子に寄せられただけで散乱しているようにしか見えなくなったのは、ある意味魔法のようだった。
「ああもう。"喧騒をもたらす程度の能力"か、"物を散らかす程度の能力"か、次から好きな方を追加しなさいよもう!」
「それなら"世界をあまねく暴く程度の能力"にしたいわね……っとこれでよし」
いつもと変わらぬやりとりの間に、場違いな降霊実験フィールドは完成してしまった。一応の配慮なのか、紙面の向きは平等に私と蓮子とは別の方向に正面を向けている。
「はい、じゃあ始めましょう?」
無邪気なまでに好奇心と希望でいっぱいの笑顔で誘う相棒。
……ああ駄目だこの笑顔を裏切れない。裏切りたくない。
私は蓮子の指が乗せられたコインの上に、観念して自らの人差し指と今日の空き時間を預けることにした。
「……ねぇ動かないわ」
「……そうね蓮子」
「……やり方が間違っていたのかしら」
「……知らないわ蓮子」
「……質問が詰まらないからやる気が出ないのかしら」
「……やる気の問題じゃないと思うわ蓮子」
「……条件に指定は無かった気がするんだけれども勘違いしてたかなぁ?」
「……それよりもそろそろ疲れてきたのだけれど蓮子」
ざざっと説明タイムを終え、実験開始より約一時間。二本の人差し指が乗せられたコインは、スタート地点らしい鳥居の上からピクリともしていない。
意外にもこうして載せているだけでも、"自力で動かしてはならない"というルールが追加されただけで、かなりの労働になる物らしい。不意にズラしてしまわない為になるべく重さをかけないと言う私の配慮も"狐狗狸さん中は指をコインから離してはいけない"というルールによって、既にある意味拷問地味た筋トレへと変貌してしまっている。
「狐狗狸さん狐狗狸さん。貴方の好きな人は誰ですか」
「狐狗狸さん狐狗狸さん。貴方の苦手な物は何ですか」
「狐狗狸さーん。もしもーし狐狗狸さーん――」
私の脳内で笑顔のマッチョマンが筋トレを応援してくれる映像が流れている間も、蓮子は馬鹿の一つ覚えのように質問を繰り返している。狐狗狸さんの好物なんて聞いてどうするの? なんて聞く気力は最早無い。
「おっかしいなー……成功確率が高いらしい本物を用意したってのにー……」
「ねぇ、蓮子? 一旦中断して休憩――」
腕が限界に来た私が声をかけようとした――その瞬間だった。
耳に入り込む全ての音を暴力的に上書きする雷の轟音。
思わず身を竦ませそうになったのをなんとかこらえた所に、畳み掛けるように突然暗くなる店内の照明。
いつもはクールな店員さんも多少戸惑っているのか、カウンターの奥からやや慌てたようなこちらへの気遣いの言葉。
ゲリラ豪雨というやつだろうか。黒く闇色に染まっている窓辺からは、ザ、という大きな雨粒がぶつかる連続音。
突然の悪天候にくつろいでいた五感の幾つかが、刺激され初めていた。
「……ねぇメリー……これ!」
……だが、そんな自然現象よりも凄い事が目の前で起きている事を、蓮子の声色が告げていた。
「ほ、本当に動いて……る?」
蓮子が何を喋りかけようが沈黙を保っていた古びたコイン。
――だが今そのコインは、狐狗狸さんの意思が、命が宿ったかの如く紙面上を這いまわっていた。
「えっ…え!? 貴方が動かしてないよね蓮子!?」
「メリーこそ。少なくとも私の主犯では無いわ……」
意思とは反して、というより腕から先をまるごと第三者の意思によって動かされているような感覚に、探究心が刺激される。熱の篭った秘封倶楽部の視線が集中したコインは、しばらく数字の8の周りをぐるぐるとしていたが、やがてそのまま鳥居の辺りでピタリと大人しくなった。
「あれ!? あれ!? 死んじゃった!?」
「こんな時に天然ボケかまさないでよメリー! ……きっとこういう事よ」
蓮子の眼が暗がりの中、妖しく輝きを増す。
「現在質問受付中! ってね!」
その言葉に、今まであまり乗り気では無かった私の胸も、世紀の大実験を成し遂げた科学者のように高鳴り出した。
「え、えーとねっ……それじゃあ、貴方のお名前は……?」
「なにそれメリー。お見合い?」
「き、緊張してるの!」
クスクスと笑う蓮子を他所に、コインに宿ったらしい意思は少し戸惑った後、私達の指を載せたまま青色の丸の上で止まった。
「……青? 青って名前なのかしら」
「名無しなのかもしれないわ。戸惑いがあったのは名前が出て来なくて、イメージに近い物が選ばれたからなのかも」
そういう物なのか。と納得した私は、その後も差し障りの無い質問を次々と繰り出して行った。
「あまり難しい質問には答えられないわよ? 基本は動物霊らしいから……。"当たり"でも引ければ別かもしれないけれど――」
そう忠告をしてくれた蓮子を他所に、狐狗狸さんは難しい質問でも簡単な質問でもスラスラと答えを教えてくれた。
なんでも教えてくれるコインなんてまるで幻想的な魔法のアイテムみたいだ、と最初は非現実的な不可思議さをイメージしていたものだが……段々と狐狗狸さん自体の動きに慣れていく内に、まるで私の従者のようだと、感じてきていた。
あまりにもファンタジー過ぎる自分の発想に、私はこんなに少女趣味だったかな? と自虐的に笑う。
とりあえずこのまま熱中しすぎるのも悪いと思い、時折蓮子にも質問の機会を譲る事にした。が――
「んー……ごめん。もうちょい質問考えさせてもらえる?」
と、蓮子は何やら難しい顔を浮かべているばかりだ。
いつも先陣を切って色々試す蓮子にしては珍しい反応だが、きっとさっきまでの質問乱立に疲れたのだろう。休ませてあげようという気遣い半分、もっと狐狗狸さんとお話したいという好奇心半分で、私は再び紙面へと集中し直すことにした。
「ふー……結構お話したなぁ……ってあれ? 雨も随分と強くなっているわね」
夢中になっていたので気付かなかったが、最早ザ、ではなくド、と言った方が相応しい位だった。窓をビリビリと激しく震わせる雨。
現実的な問題として帰り道を案じ始めていた。
「……ちょっと狐狗狸さんに質問させてもらうわね」
「……え? ああ、狐狗狸さんに質問するのね。どうぞー」
雨音の騒音は、すぐ対面に座る筈の蓮子の声さえかき消さんばかりだった。その勢いに、帰り道の事どころか少々の恐怖心さえ覚えて来ていた。
――だがこの時、私は気がつくべきだったのだ。蓮子が今までになく思いつめた表情だった事に。
「メリーを――――――――するにはどうしたら良い?」
低く、静かに投げかけられた質問。だがやはり聞き取れ無い。
だがそれでも机上のコインは激しく反応を返している。さっきまでのゆっくりとした友好的な動き方とは明らかに違う、一種の歪みさえ纏いながら。
「ちょ、ちょっと蓮子! 一体何を質問したの!?」
無意識に荒げてしまう声。だが、周囲がうるさくて届いているのかさえ分からない。蓮子の視線もこちらに向いてはくれない。
雨音。
コインの摩擦音。
唐突な異常事態発生。
普段あまり聞き慣れない激しい音に頭痛までして来る。
「答えなさい……! どうすればメリーを――――出来るの!?」
明らかな怒りと威圧を含む蓮子の声。最早質問でなく尋問。
それに力の限り抵抗するかのように、コインは鳥居を頂点に大きな円を描き続けている。
「……れん……こ?」
まるで仇敵を前に、一緒に居る筈の私さえ認識していないようだった。理解の追いつかない迫力に声が詰まる。
ド、という雨音に、ズ、という摩擦音が交じり合う。それを蓮子の明確な怒気が押し返そうとする。
――私の味方はどっち?
視界がぼやける。
頭痛が激しさを増してきたようだ。
一体何が起きているのか。今までここで何をしようとして何に希望を抱いていたのか。
整理が付かなくなってきた。
頭の中がぐるぐるする。
物事の区別が分からなくなってきている。
頭が割れそうに痛む。
今やっていることはいつもの秘封倶楽部? それとも異質な幻想入り?
――境目は何処に――?
「答えろ! や*****!!」
「――もう止めて!!」
何に対して出た"止めて"だったのか。すがりつくように出た無意識の悲鳴。
――唐突に目の前の空間に明るさが戻った。
正確には店内の照明が戻ったらしく、先ほど聞こえなかった空調が作動する音まで聞こえてくる。闇ばかりだった時間はそう長くは無かった筈だが、再び見た店内のクラシカルな雰囲気には愛しさまでおぼえた。
……音? そういえば雨音も聞こえない。……止んでいるの?
窓に目をやるも、いきなり明るくなった店内のお陰で自分の姿が映し返されているだけだった。だがそれでも雨のぶつかる小刻みな振動は存在しない。
ウソみたいに思える程、平穏な店内に私は居た。
「大丈夫ですか?」
事態の整理が付ききらず混乱する私の耳に飛び込んできた、店員さんの声。私の息は他人に察せてしまうほど乱れていたようだ。
「……申し訳ございませんお客様。この店の電力は屋外にある発電機にて賄っているのですが、先ほど突然不調となりまして……今は何とか応急処置で稼働しております。本当にご迷惑をお掛けいたしました。お詫びと言っては何ですが、今日のお代は結構ですので……」
ゆっくりと説明をしてくれる店員さんの気遣いのお陰で、段々落ち着きを取り戻せてきた。
「い、いえ、大丈夫です。お気になさらず……それよりも大雨の中大変でしたでしょう?」
「……雨? ですか? 少なくとも屋外作業中は降っていなかったと記憶しておりますが――」
「……え? あれ、そうでした……か」
話が少々食い違って居る。
まだどこか頭が鈍くなっているらしい。幸いにも頭痛は無くなった。視界も鮮明になっていっている。
ともかく、改めてどういうことが確かめようとしたその時、そこでやっと自分が狐狗狸さんから手を離してしまっていたことに気がついた。
"狐狗狸さんをきちんと終わらせる前に指を離してはならない"
そう蓮子が注意事項として言っていたことを思い出し、慌てて紙面のコインへと眼をやる。
テーブルの上にはコインの激しい摩擦後の残るボロボロになった紙面。もうピクリとも動かなくなったコイン自体も、何らかの負担がかかった跡として大きなヒビが入ってしまっている。
「蓮子――?」
当然、蓮子の姿も目に入る。
名を呼んではみたものの、俯いたままのその表情は伺い知れない。影を落としたまま微動だにしない様子は、まるで一生分の大きな希望を逃してしまったようだった。
凄惨とも言える状況を前に、どう声をかけるべきかと悩む私だったが――、
「……ッ!!」
蓮子はそれらを忌々しげに、乱雑に両手で掴むと、グシャグシャと丸めてポケットの中へと無造作に放り込んだ。
「……れん――」
「はーっ! 疲れたぁ。……何? どうしたのメリー?」
顔を上げたのはいつもの蓮子の楽しげな表情だった。それが逆に、今は深く触れてはいけないのだと私に告げていた。
「……えっと…………帰りましょう?」
最適な言葉が見つからず、無意識に出たのはそのセリフだった。
「そうねー……帰って明日のレポート書かないとー。あー憂鬱だわー」
蓮子は何事も無かったかのように、体を解すように伸ばしながらそそくさと店の出口へと向かい始める。
店員さんに申し訳程度にお礼を言った後、私もあわててその後を追う。
「ねぇ、待ってよ蓮子っ」
先をどんどん歩む蓮子に追いつこうと、少し駆け足で進む店からの帰り道。空にはもう太陽の名残すら無く、今はもう足元までくっきりと照らすほどの大きな満月が輝いていた。
追いついた物の、なんとなく今は隣を歩いて良いものか迷わせた。近くも無く、遠くも無いよう少し後ろを付いていく。
そのまましばらく、二人の間に沈黙が訪れる。理由なんて私自身にも分からなかった。喧嘩でも無く、疲労のせいでも無い……何となくそうなったとしか言えない沈黙。
――が、それを最初に破ったのは蓮子の方だった。
「……ねぇメリー。狐狗狸さんってなんで居なくなったんだと思う?」
「――え?」
質問の意味が分からず、再び言葉を失う。蓮子はその不返答すら返答だと取るように、淡々と言葉を続けた。
「狐狗狸さんはね。確定されちゃったんだよ。人の無意識下における単なる運動現象ってね」
つまり、偶然の産物だと。幻想は幻想に過ぎないのだと証明されたも同様だと言う事。
「なんでも教えてくれる便利な"何か"と対話する為の――魔法の様で夢の様な術。……だなんてのがウソだって解りきっちゃったから、皆もう実験しない。それだけの話しよ。――種も仕掛けも解りきってしまったマジックを楽しみする客は居ないわ」
「……ならどうして蓮子は――」
その先を言ってはいけない。探ってはいけない、と思い直して途中で口を閉じる。
「――何故実験したのかって?」
だがまたしても心を読み透かされたかのように、蓮子は私の代わりに口を開いた。
「そりゃ他人からの百聞よりは一見のが良いじゃない? でもたとえ"本物"だったとしても――」
沈黙。そして静寂に変わる。
夜のやや冷たい空気の流れが、風となって体を撫でる。
ザリッと乾いた土を踏みしめる一歩一歩すら、重たい。
「……ふー……」
何かを解き放つようなため息。
蓮子のそれは今まで聞いたため息の中でも、一番深く濃い心から生み出されているように思えた。
「――私の質問を……私の願いの答えなんて物を……どんなに高位の狐狗狸だろうと理解すら及ぶ筈が無かったのよ――」
誰にぶつけるわけでもなく、星空に呟く蓮子。
今まさにその眼に映っているのだろう、蓮子に正確な位置と時間を教えてくれる筈の無数の輝き達。だが、どれだけ輝いていようと、不安に揺らぐ心を確定してはやれないのだ。……そう、きっと私の言葉ですらも。
最早声をかける言葉を持ち合わせていなかった。何を言っても、今は届かないのだと分かってしまったから。
明日にはいつもの関係に戻れるのだ、と願いつつ蓮子の背中を孤独に追う。
(……あれ?)
為す術の無くなったお陰で冷えきった私の頭脳。それは私に冷静な思考をもたらしてくれた。――やがて浮かび上がって来たのは大小様々な疑問だった。
唐突に蓮子が持ち出してきた動機不明の狐狗狸さんの実験。
私達しか認識していないらしい、痕跡すら残らない雷雨。
雷が原因では無かったらしい停電。
明かり一つ無い暗がりの中で、ハッキリ読めていた紙面の文字。
そして――
歩みを止め、先ほど出てきた喫茶店の方を振り返る。
――そして、あの喫茶店を覆う程大きな境界は、何時から現れていたのだろう――?
巨大な世界の綻び。隙間。結界の境目。境界の奥からは、闇よりももっと混沌とした昏い世界が覗いていた。
ぼぅ……っと、巨大な境界は静かに薄らぎ初めている。
普段ならば、ここまで大きな境界を目にしておいて他の事に思考を譲る事などありえ無かった。だが、そんな事すらどうでも良くなるような事が、境界の薄れと共に思い出してきていたのだ。
それは、あの時の蓮子の発言。雨音の隙間を押し広げるようにして、聞こえてしまった蓮子の願い。
『答えなさい……! どうすればメリーを―――』
ぷつん。
境界が、跡形もなく閉じた。
瞬間、私の頬を誰かが愛しそうに、撫でた。
慌てて周囲を見渡すも、相も変わらず独りで行く蓮子の歩みがあるだけだった。
……風? ……だったのだろうか。
少し考えを巡らそうとしてみる。が、色々と不毛だと判断した私は、まとめて問題を放棄する事にした。
今日は短い時間の間に、色々な事が起きたものだ。それこそ、夢の世界へと行った時の様に。
何だか疑念を先送りやお蔵入りばかりにしてきた気もするが……。それでも確定出来た事は幾つか在る。
じゃり、と音を立てながら早めの歩みで蓮子の隣へと並ぶ。
一瞬、こちらに合わせてくれた蓮子の眼には、僅かながらも何時もの光が宿っていた。
何だか嬉しくなった私は微笑み返す。
――そうだ。何があっても最後には蓮子を信じる。私はそう決めているのだ。
おそらくこのまま明日になれば、今日の事を全て確かめる機会は無くなる事だろう。だけど、そんな事はもうどうだって良い。
今感じている秘封倶楽部の温もりがどんなに儚く残酷な物なのか――
――それを壊したくないと言う気持ちは、確かにどんな高位の狐狗狸だとしても理解出来るはずがないのだから。
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秘封倶楽部のホラーテラーのようなそうでないような二次創作小説でございます どうぞよしなに |
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