祖父の日 |
毎日通過する駅の1つに、少年は降りなければならなかった。
電車の冷房で乾いたシャツは、ドアから張り込んだ湿気と熱気で再びまとわりつく。座席から立ち上がるだけで汗が滲み出るほど、今日は暑い。発車を告げるベルが響くと、少年は軽く息を吐いてホームに降りた。
改札に向かう途中、少年は何度も舌打ちをした。リュックの当たる背中が汗ばんできたことも不愉快であったが、何より夏休みの初日をままならぬ理由で潰されてしまったのだ。そのやり場のない怒りがあたりの些細なことに向いては、気持ちに火をつける。
今日はツイてない…少年はことあるごとに思った。しかしこの生意気な少年であっても、実際にその言葉を口に出すことはしなかった。
昨夜は友達との約束のせいで興奮して眠れず、今日はいつもより遅く起きた。台所のテーブルに置かれた硬いトーストを居間に運び、再放送のアニメを見ながら朝食を取っていると電話がなった。少年は気に止めもせずトーストをもう一口に運ぼうとしたが、10コールを越えたあたりで誰もいないことに気付き、面倒そうに台所に向かった。
「はい」
「あ、起きたのね」
「起きてたよ。つか、どこ行ってんだよ」
「おじいちゃんのところよ」
そう即答されると、少年は電話に出た事を後悔した。この話題になるといつも居心地が悪い。出来る限り話が広がらないように言葉を選ぶ。
「あっそう。俺、もう少ししたら…」
「ごめんね。すぐに来て欲しいの」
「ちっ」
少年は不意に舌打ちをしてしまいうろたえた。これまで覚悟はしていたが今日がその日になるとは思っていなかった。そしてその日が訪れれば最後、重大な日になることは大人同士の会話から理解していた。流石に自分の行動が不謹慎だと気付いた。しかし母親は咎めることもせずに、少年の返事を黙って待っていた。
「…何だよ、約束あんのに」
少年は小さく呟くように悪態をついた。言っても仕方がないことだと分かっている。母親は悪びれる様子もなく「ごめんね」と告げると電話が切れた。
改札を出てすぐにあるバスロータリーにはそろいの麦藁帽子の親子や、白いワイシャツをはだけさせた男子学生達が嬉しそうに声を上げている。その最後尾に少年はついた。周囲のはしゃぎ声と蝉の鳴き声が相まって、いよいよ少年は不機嫌そうな顔をした。
バスはしばらく待ってもこなかった。先に並んでいる人達は慣れている様子で、気に留めていない。屋根の下にいても汗が吹き出る暑さだが、誰もが嬉しそうに盛り上がっている。少年は手持ち無沙汰と居た堪れなさのあまり、目的もなく携帯電話を取り出した。すると一件の着信が残っていた。本来ならば一緒にいるはずの友達からだった。少年はロータリーの入り口にバスが入ってきていない事を確認すると、小さく息を吐いてから電話を掛けなおした。
「…悪い、今電話気付いた」
「そう。今、メール見た」
心なしか電話先の声は不機嫌に聞こえる。本来なら少年はこの友達と一ヶ月前から計画していた野球の交流試合を観戦するため、今頃は球場に向かう電車に乗っていたはずだった。
「ごめん…メールで送ったとおりなんだ」
誰が悪いわけではない。少年はそう思いながらも、意図的に気落ちした声を出した。
「まあ…しょうがねーよ。うん」
電話先の友達は何度も呟いていた。さらに運が悪い事に観戦チケットは少年の財布の中にあった。友達の気持ちを考えると、少年の少ない語彙から適当な言葉は出てこなかった。
「ごめん」
「…ああ」
少年はもう一度謝ると、ちょうどバスが入ってきた。友達の後の言葉はエンジンとクラクションに阻まれてしまった。少年はすぐに聞き返そうとしたが、後の言葉は無かった気がして諦めた。
「ごめん、バス来たから。またメールする」
それだけ伝えると一方的に電話を切り、前の人に続いてバスに乗り込んだ。適当な1人掛けの席に座ると自然とため息が出た。
バスに乗ると30分位で病院に着く。少年は冷房の効いた車内と、窓越しに遠のいた蝉の音に落ち着きを取り戻しながら、バスの発車と共に動く景色を見詰めていた。きっと心中にあるわだかまりや苛立ちは、これから突きつけられる現実で溶けていくはずだ。少年はそう考え始めた。
少年が祖父の存在を意識したのは最近だった。幼くして両親が別れ母親と2人で暮らす少年にとって、祖父は数少ない肉親だ。だがこれまで母とその父である祖父が会っているところを少年は見たことがない。つまり少年と祖父は一度も会ったことはなかった。
けれども今年に入って状況は変わった。自宅の電話がよく鳴るようになり、会社員である母親も土日に出かけることが多くなった。思春期の少年にとって土日に誰もいないのは嬉しい事であったが、慌しい母親の姿を気にかけない訳にはいかなかった。そしてつい先週、電話を切った母親と目が合ってしまい、その口から祖父の危篤を告げられたのだ。少年はどきりとしたものの、何を答えていいのか分からず「ふーん」と言って目を逸らした。母親はそれ以上言わなかった。
交差点の信号が変わったのか、一度切られたバスのエンジンが振動と共に唸りはじめた。病院までにはあと3つもバス停を過ぎなければいけない。ロータリーを出た頃はビルがちらほら見えていたが、平屋が点々と続くようになると、ついには田園風景ばかりとなってしまった。気がつけば賑やかな同乗者達も残っていなかった。
本当にこのバスでよかったのだろうか…。少年は不安を覚えるも、それならそれで良いと思った。このまま会ったことのない人の所へ行っても気まずいだけだ。さらに死に掛けている祖父は話せる保証もない。しかしバスの終着駅が目的地である事を思い出し、ため息をついた。
改めて少年は考えごとを始めると、妙にある単語から離れられなかった。それは「死に掛けている」という言葉だった。小骨が取れないような不快感を感じた少年は、その言葉が何を指すのか、どんな時に使ったのかを思い出そうとしていた。前の夏に虫かごに入れっぱなしになったアブラゼミに対して言った気もするし、友達の家で対戦した格闘ゲームでも使った気がする。けれど今、まるで初めて思いつき、しかし間違った言葉のような違和感を覚えている。
一体「死に掛ける」といはどういう状態なのか。これから目にするのだろうか。そもそもこんな事を考えてはいけないのではないか。そう思いつつも、少年は考えをめぐらせた。
女性のアナウンスが終点の停留所を告げる。少年の斜め前にある2人掛けに座っていた男が、足元から風呂敷に包まれた大きな荷物を重そうに隣の席に置いた。よく見ると顎に白いものが見え顔にしわが見える。腕もあまりにも細い。少年は考えを中断してこの初老の男性を眺めた。
男は荷物の結び目あたりを瞬きもせずにじっと見つめている。結び目からは白い布が見えることから、おそらく着替えか何かのようで、親族の見舞いに違いない。風呂敷の唐草模様が、彼と同じくらいの歳の人、つまり彼の妻への物ではないかと思わせた。少年はあまりにも自然な物語―歳をとり、やがて弱り、見舞い、見送る―を目の当たりにし、不思議な感覚に襲われた。教科書でも漫画でもゲームでも当たり前に描かれていても、これまで意識することはなかった。
バスはガッガッガと小刻みに揺れたのちエンジンを止めた。同時に運転手が「しゅーてん、しゅーてん」としゃがれた声で言い始めドアを開けた。ドアから入る生暖かい風と蝉の声で少しずつ温度が上がっていくようだ。
少年は男の後に降りようと席を動かなかった。しかし男も立ち上がる素振りを見せなかった。恐らく荷物のせいで時間がかかるため、少年を先に行かせようとしたのだろう。世間慣れしていない少年はそれに気付くまでいくらか時間を要した。やがて運転手が振り返り急かしたので少年は気まずそうに降車口に向かった。
病院の受付につくと、少年は来る途中に母親から貰ったメールの通りに用件を告げた。初めて口にする名前、病院から呼ばれたこと、すでに母親がいること。看護服の女性は笑顔で対応をしていたが、少年が言い終える頃にはすっかり面持ちは重くなっていた。少年の口調がずいぶん大人びていたからか、用件から深刻さに気付いたのか。ただ初めてこの場、この状況を迎えた少年に女性の対応の変化は分からなかった。女性はどこかに電話した後、丁寧な口調出指を指しながら部屋の行き方を教えた。少年は何度かうなずくと階段へ向かった。
黄ばんだ白い壁にはさまれた深緑の床、その先にある階段。ぱっと見は少年の通う学校と変わりはない。何も気にせずに二階に着くと、大きな矢印と「小児病棟」と書かれた案内看板が天井から吊ってった。少年はふと”死に掛けている”という言葉を思い出した。もちろんこの場にいる全てが死に掛けているわけではない。ただ不謹慎と分かっていても、頭に浮かぶ言葉を拭うことは出来ない。、やがてその言葉は「小児」という言葉を捕らえ、少年の思考をフロアにいるだろう同い年位の人たちを向かわせた。少年は突然、心臓を捕まれたような息苦しさを覚えた。
受付の女性の説明では次の階が内科病棟となる。つまりあと一階上がると”死に掛けている”祖父と対面する。それはまだ見たことの無い人の、見たことの無い場面。果たして少年は病室を開け、その光景を目の当たりしたとき、何を思い出せばいいのだろうか。もし少しでも会話が出来たら何を話せばいいのだろうか。知らない親戚たちが心配し、もしかしたら泣き出している中、少年は泣くことが出来るのか。もし出来なければ何か言われるだろうか。考えれば考えるほど息苦しさを覚え、身体が震え始めた。奥歯をかみ締めると視線が左右にぶれる。ただ呼ばれて来ただけ、少年はそう自分に言い聞かせて階段を上る。しかし足取りは重くなっていく。いっその事着いた頃には…少年は急に怖くなってそれ以上考えるのを止めた。
なんとか三階まで上りきると、一直線に伸びた廊下の先に母親が病室のドアの前に気付いた。少年はてっきり母親は病室にいて看病していると思い込んでいたため、何か問題が起こったのだと感じた。そして先ほどの思いを神様か何かが見つけてしまったのかと錯覚し根拠のない罪悪感が襲い掛かった。もしかするとおじいちゃんは…。そう考えると足は思うように踏み込めず、ふらつくような足取りになってしまった。それでも何とか歩くと、足音で気付いたのか母親がゆっくりと少年の方を向いた。
「悪かったね」
少し離れた所から掛かったその声は予想に反していつも通りだった。少年は先ほどの想像が勘違いだと分かり小さく安堵した。しかしだからといってこの場でどうすればいいのか分からず、目線を下げたまま母親の側にいくのがやっとだった。
「今朝ね。お医者さんからお父さん…あなたのお爺ちゃんが今日で最後かもしれないからって呼ばれたのね」
少年の足が止まると同時に母親が喋り始めた。少年はおずおずと顔を上げ母親を見た。その表情は柔らかく…でも優しそうではない、初めて見るものだった。
「慌てて病院にきたら…見て『面会謝絶』だって。分かる?」
危ない状態だから…そう返そうとしても声は出ず、少年は萎縮して首を左右に振るのが精一杯だった。
「それがね。お医者さんがお爺ちゃんに『ご家族がもうすぐ来ますよ』って言ったら、目を見開いて怒っているみたいだったんだって。お医者さんが不思議がって看護婦さんに聞いたらね、ずっと死に際は見せたくないって言ってたって言うのよ」
母親は笑いともため息とも取れるような、小さな息を吐いた。
「一応、お医者さんがね、どうしますか?って聞いてくれたんだけど、私もそれなら会わないわって言ったの。それをまたお医者さんが病室に戻ってお爺ちゃんに伝えたら、お爺ちゃん、満足そうに頷いたんだって」
母親は少年を見ずに扉に掛けられた札を見続けていた。お陰で少年は視線をずらしたり、あたりを見ることで居た堪れない気持ちを紛らわすことが出来た。まだこの親子の事情を理解するのに少年は幼すぎた。ただ静かに話を聴くことが務めだと思っていた。
「今はお爺ちゃん、お薬で寝てるの。何かあったらお医者さんが駆けつけてくるけど、その時が最後だって。ただ何時になるか分からないの。…あなたはどうする?」
すでに予定を潰された少年は、いまさら今日の予定をどうする気も無かった。そのまま母親の隣で壁にもたれかかり、母親と同じく扉に視線を向けた。
病院の廊下には何かの器具が運ばれる音と、誰かの足音が響いている。慌しく交わることも、どちらかがゆっくりと流れることもある。次第に窓から入り込む西日が床を染めはじめると、あたりから聞こえる蝉の声も違うものへと変わりはじめた。
そんな中、この親子はドアが開くことを待ち焦がれるでも、死への歩みが止まることを祈るわけでもなく、流れていく時間を眺めて続けていた。その表情は悲壮も苦痛も迷いも無い、それをするために与えられた時間であるかのように。
了
説明 | ||
少年が始めて死に触れる”揺れ”を描きました。 初めての投稿となります。不慣れな三人称視点の習作のため構成を組まずに手癖で書いたものです。稚拙で未熟な文章となりますが、これを機に習作を増やしていければと思います。ご指導、ご感想頂ければ幸いです。 2009年4月16日 推敲1回 2009年4月14日 完成 |
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