思い出マルシェ1−1 希ファントム1 |
・プロローグ
「玉手箱って有るやん」
屋上へと通じるドアの窓からは、夕暮れの陽射しが差し込んでいた。暖かそうな紅色の陽射しだったが、冬を迎えようとしているこの季節、視覚で感じるほどに暖かくは無い。
ドアに手をかけて、ノブを回そうとして…………そこで、希はふと呟いたのだった。
「…………昔話の?」
希の言葉に、絵里は眉を顰めた。意図を測りかねたのだろう。
「そう。玉手箱を空けたら、お爺さんになってから鶴に姿を変えて飛んで行くっていう話」
「鶴になって飛んで行くのは初耳だけれど…………」
「あれ、そうなん? 読んだ本が違うかったんかな。歳を取っても生きていけるように、1千年を生きる鶴に姿を変える効果が有ったっていうんやけど」
「それって、万年を生きる亀とかけてるの?」
「ああ…………どうやったっけ。でも、それっぽいね」
うろ覚えだった。絵里にしても細部を覚えている訳では無いだろうし、そもそも元の物語進行も異なりそうだった。ロシア在住経験を持つ絵里が、果たして日本の昔話に対してどれくらい明るいかと言われると、これは甚だ疑問でも有る。
希は首を傾げて、
「まあ、ええけど。どっちにしても最後は似たようなものやもんね」
「玉手箱を開けるっていう事なら、そうね」
「うん。玉手箱を持たせてくれたのは、姫の温情だったって話やね。うち、それで思ったんよ」
「何を?」
「お節介も過ぎれば人を殺すなあって」
「超常現象レベルのお節介だものね…………」
嘆息して、絵里は希の肩に手をかけてきた。
何時まで経っても屋上へ通じるドアを開けない希に焦れたり、希を押しのけてドアを開けようとした訳でも無い。肩から伝わってくる絵里の手は優しく、労る風でもあった。
「ナーバスになってる?」
絵里の言葉に、希は頭を振った。
嘘だ。
絵里は希の胸中を正しく把握したのか、嘆息して話題を変えた。
「それで、結局何が言いたかったの?」
希は…………。
〈第1章〉
家には悪魔が住んでいる。
東條家の長女、東條 希がそう悟ったのは小学生の頃だったか。
希が大切にしようと思っていたものの全てを…………これまで大切にしてきた全てを、悪魔は無かった事にしてしまう。
悪魔の名を、人は『転勤』と呼ぶ。盗り憑かれているのは父親で、彼は一人娘に申し訳なさそうな態度を取りながらも、悪魔の言いなりに成る事を止めない。そして、娘の大切なものを白紙にする契約書にサインをして、後に憚り無い。
「このままじゃ友達も出来ないよ、コレー」
希は呟いた。掌に乗るサイズのヌイグルミ。デフォルメの熊の形をしたそれは、柔らかく愛らしい。希のお気に入りで、唯一の友達…………と言えば大げさだが、自らの内観を投影して自分を慰めるくらいには、心を写していた。名前を付けるほどに、心を許していた。心を許したその相手が、心無い物言わぬ布の塊であると十分に理解はしていたが、だからこそ唯一絶対の友に成り得たのだ。
「何時か、私にも…………」
呟きは部屋の片隅へと消えていった。それ以上は言わなかった。言ってしまえば、惨めさが増す。これ以上そんな気持ちになりたくはなかった。
ただ一つ、心を許したヌイグルミが在れば、それで良い。そうやって誤魔化している間に、心には埋める事の出来ない多くの隙間が出来ていった。
コレーが居なくなったのは、初めの転校から何度目の出来事だったか。
また転校をしなければならないのだと両親から聞かされて、何時も通りに荷造りを始めた。余計な物を持たない習慣が付いてしまっていて、手順の簡素化も進み、速やかに事を終えた希は、何の感慨も無しに。住んでいた家へ別れを告げる。別れを告げる友達は居なかった。作ろうとしたのだが努力の仕方も分からず、戸惑っている間に、また転校。
友達も居なければ、思い出も無い。愛着も無ければ、記憶にも残らない。
車の中から住んでいた街を眺めて、本当に何一つ思い出らしい思い出が無い事に気が付いて…………だが、それが何だというのだ。
新しい住宅へと着いて、程無くして荷物も届いた。
そして、ダンボールに詰めた少ない荷物を解いている時に、気が付いたのだ。明らかにダンボールの数が少ないと。
両親に聞いても首を傾げるばかりで、そもそも希の勘違いではないかと窘められた。そんな筈は無い。希は珍しく両親に反抗した。必死だったのだ。
無くなったダンボールに入っていたのは、それは希にとって多数が基本的にどうでも良い物だったが、たった一つだけ見逃せない物が有ったのだ。
そのたった一つがコレーだったのだ。
梱包などするべきでは無かった。持ち運べば良かったと考えても、後の祭りだ。自らの子供の孤独を知る両親は、希がただのヌイグルミに過ぎないコレーに対して情をうつし過ぎている事に気が付いていた。…………両親にあまり心配をかけたくないために、精一杯の見得を張ってしばらくの別れを選んだのだ。
それが間違いだった。
珍しく激高する希に折れた両親が運送会社に問い合わせ結果、分かった事は一つだけ。それは、無くなったダンボールが二度と戻ってこないだろうという無情。集配段階でのミスが疑われ、しかし、最終的な原因もダンボールの居所も分からないままになってしまった。世渡りを心得ている両親は、それを仕方が無い事だと割り切っており、希にも理解を求めてきた。
希はその理解を…………受け入れていた。
ああ、またか。
そう思った。
悪魔がついに、コレーさえも連れ去ってしまったのか。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
すっかり諦めの色が濃くなってしまった希の思考は、その瞳に暗い影を映し出す。唯一の友達と言って良いヌイグルミの喪失も、悪魔の仕業にすれば少し楽になる。
それからだっただろうか。
友達を作ろうという意思が無くなってしまったのは。どうせ悪魔が何もかも無かった事にしてしまうのだ。形の有るものに拘っても無意味だと、そんな風にすら思った時期も有った。
ただ一つ願うのは、連れ去られてしまったヌイグルミの幸せ。寂しさを感じては居ないだろうか。
家には悪魔が住んでいる。
今にして思えばなんて馬鹿馬鹿しい考えなのだろう。
昔の夢を視て、予定起床時間より一時間も早く目覚めた希は、悪魔の居なくなった家で苦笑した。
一時間早く眼が覚めてしまったが、寝直す気にもなれなかったので、そのまま登校した。何時も通りに身支度を整え、食事をして、歯を磨き…………。何時も通りの時間までだらだらと家で過ごす事を、勿体無く感じたのだ。珍しく昔の夢を見て、その夢の続きを見るのも嫌だなと、そんな風にも思った。
秋の到来も束の間、今年は足早に冬が訪れた…………ように感じた。毎年そう感じていて、実は単に忘れているだけかもしれないのだが、どうしても思ってしまう。つまり、去年の今頃はこんなに寒かっただろうかと。コートを出すには早い季節、しかし今くらいの、日が昇ってあまり時間の経っていない時間帯は、肌寒いを通り越して単純に寒かった。
僅かに震える身体を抱えるように、希は学院の校門をくぐった。
国立音ノ木坂学院。閑静な住宅街に囲まれたこの学院は、長い年月をかけて、歴史と伝統を積み上げてきた。積み上げて積み上げて…………それが過ぎたのだろうか。年々入学者の減少が続き、今年度には統廃合の危機にすら陥った。現状、綱渡りのような状態で辛うじて統廃合を食い止められてはいるが、入学希望者の数が持ち直すかどうかは分からない。
もう何度、この校門をくぐっただろうか。
入学して2年と半年程が経過しているが、土日祝日、季節毎の長期休暇を含めれば、年月ほどにその回数は多くない。無論、片手で数え切れるほどでは無いので…………詰る所、それ以上になると数えるのが面倒だ…………それは年月相応の回数だったとも言えるのだが。
一直線に続く桜並木の延長線上に学院の校門が有り、春になれば、そこには満開の桜が咲き誇る。その光景は壮大で、入学式では圧倒されたものだ。香り立たないソメイヨシノと言えど、その荘厳な色彩の妙だけで香りを錯覚してしまうかのような、そんな光景なのだ。学院に通うならば、それを誇りに思わない者などそうは居ないだろう。
その壮大な光景も、廃校から逃れるためのアピールポイントにはならなかった訳だが。
(それもそうか)
桜の光景に魅力を感じるかと問われれば、大抵の人間がそうだと答えるだろうが、進路を決定するポイントには成り得ないに決まっている。大学の進路を風景で決定する人間など、考えてみれば有り得ないだろうから。
その魅力的な光景とも、今年度限りでお別れとなる。
来年の三月には否応無しに卒業が訪れる。幸いにも成績は優秀な部類で留年は有り得ない。元生徒会副会長としてのイメージも手伝って、概ね品行方正と見られているため、滅多な事では停学で単位不足には成り得ないだろうし、途中退学も有り得まい。
(まあ、退学ならどっちにしても学院を去らなくちゃいけない訳だけれど)
普通に過ごせば、遠くない未来にこの学院を去らなくてはならない。
それを考えると、胸が張り裂けそうになる。焦燥感にすら襲われて、心地が悪い。
(未練、か…………)
一時間も早く眼が覚めて、しかしそのまま登校してしまったのは、そうした感情が有った事は否定出来ない。
絵里はどう思うだろうか。親友である絢瀬 絵里。彼女抜きにして、希の高校生活は語れない。生徒会のメンバーとして、何よりも単純な親友として、高校生活では友に過ごした時間が最も長かった。それ故に、彼女の言動を想像する事はある程度容易だった。
『卒業を避ける事なんて出来ないわ。好んでそうする人が居たら、それは何よりも愚かよ。出会いが有れば別れも有るのだから、それは受け入れないとね」。嗜めるかのように、そう言うだろうか。『だから、悲しむ暇を惜しんで、今を楽しみましょう』と。
しかし、彼女はリアリストに見せかけたロマンティストだ。そんな事を言いながら、卒業式ではぼろ泣きするかもしれない。誰よりもこの学院を愛しているのだから。希にとって、彼女のそんな所はとても面倒だが、最も好いている部分でも有った。愛おしさすら覚える。卒業式で彼女が泣いたなら、それを受け止める役は誰にも譲らない。
では、にこはどうだろうか。矢澤 にことは過ごした時間こそ少なかったが、1年の頃からの顔見知りだ。その頃から友達と言える仲だと信じて居るが、本格的に距離を縮めたのはやはりμ’s結成後だろう。なので、彼女が何をどんな風に感じるか、想像は出来るが確信はあまり持てなかった。
『何よくだらない。あんたってそんな感傷的だったっけ?』
そう、感傷的で臆病なのだ。
『…………私はどうなのかって? あんた、私が卒業式で泣くんじゃないかって思ってるでしょ。馬っ鹿ねー、そんな訳無いでしょ、この私に限って』
しかし、そう強がって意地を張りながらも、彼女こそ如何にも号泣しそうだ。高校生活の殆どを逆風の中で過ごしてきた彼女は、だから現状に最も感謝しているだろうから。
(私はどうだろう。小学生の時も、中学の時も、悲しくは無かったな)
親友2人を使って色々と妄想してしまったが、結局の所、その時にならないと確かな事は何も言えない。案外、誰も泣かないかもしれない。それならそれが一番良い。晴れやかに笑いながら、この学院を去る。想像すると、だからこそ泣いてしまいそうだったが。
考え事をしていると、目的地へと辿り付いていた。目的地…………部室まで。
今日は朝練が有る訳では無い。きちんと休息を取る事も必要だというのは絵里の方針だ。その必要性は以前の失敗が証明している。メンバーの誰にも痛い思いを残した失敗と教訓だ。絵里が言わずとも、誰だってそれを理解しているだろう。
そもそも、朝練を学院のみで行っている訳でも無い。必要に応じて様々な場所が選ばれる。
朝練が有ろうが無かろうが部室に用は無いのだが、希は敢えてこの場所へ足を運んでいた。教室でのんびりしていても良いのだが、どちらかというと部室で時間を潰したかった。する事が無くても、この場所でのんびりと。
職員室から持って来た鍵を取り出して、開ける。僅かに鈍い音を立てて、部室の扉が開いた。
考えてみれば、こんな風に部室を訪れるのは初めての経験かもしれない。生徒会室ならば何度も経験した瞬間だが、部室の鍵を開けた事はこれまで無かった。誰も居ない部室へ足を運ぶ事も、また。
静まり返った部室は、普段と異なる様相を呈していた。
緊張感を煽り、居心地の悪さを瞬間、感じさせる。居心地の悪さは直ぐに消え去ったが、妙な緊張感はそのまま残り続けた。何だろうか、『本屋へ行くと、トイレに行きたくなる』ような、そんな感覚。鳥肌が立って、しかし、悪くない感覚だ。
部室の中央には、部屋を左右に分断する長机が置かれている。部員が座る人数分のパイプ椅子が置かれていて、向かって右手側にはアイドル関連のグッズやポスター(部長である矢澤 にこの私物なのかもしれないが、詳しく聞いた事は無かった。仮にこれが部費で購入されたものならば、随分と甘い予算会議を行ってしまったものだ)を陳列した大きなステンレスの棚、左手側にはもう一つ長机が置かれており、ダンボールが幾つも積まれていた。入り口の反対側には窓が有って、その手前にホワイトボードと机が2つ設置されており、片側の机にはデスクトップPCの液晶が二台置かれている。
長机の上に鞄を置いて、1つ伸びをする。希の2つに結んだ長い髪が、それに合わせて規則正しく揺れ動いた。静謐な空気を独り占め。そう考えると、どうしてか心が躍った。
普段とは異なる行動を取って、正解だったかもしれない。
(これまでにやってこなかった事を、今日から色々試してみようかな)
卒業までの時間を、そうやって思い出作りに励むことはとても良い事だと、希は考えていた。μ’sとの時間や、間も無く開催されるラブライブ予選の方が重要事項なので、空いた時間に少しずつ。そして、皆に卒業を意識させないために、密やかに。
だって、こんなにも良い気分に浸れるのだ。
希は長机の表面をそっと撫でた。そのまま掌を机の表面で滑らせながら、部室を横切って、窓ガラスの手前までゆっくりと歩いた。
そんな心地に浸っている自分に、希は軽い驚きを覚えていた。高校入学まで転校続きで友達も出来ず、1人の時間が多かった。だからだろうか。1人に慣れきっていた希は、何かしらの集団の中でこそ、より孤独を実感していた。集団の中に在って、しかし誰もが皆、希の事を良く知らない。そして集団はそんな事をお構い無しに、希に何かしらの役割を与える。差異は有るだろうが、誰であろうとそうした経験を持つに違いない。しかし、常に1人だった希に取って、それはより強い孤独を伴って腑に冷たい影を落としこむのだ。
そして、家に帰って1人になった時、それを思い返した瞬間こそ、最も暗い影が差し込む。家には悪魔が住んでいるなどと、仮にそれが本当だったとして、その正体は転勤という逃れようの無い現実などでは無く、そうした瞬間にするりと入り込んでくる薄暗い感情こそ相応しいのかもしれない。あるいは内観による虚無主義にも似た諦観か。
だから、部室で過ごしているこの1人の時間に対し、何の躊躇いも無く幸せを感じている自分は、以前とは随分変わったものだと眼を細めた。
まあ、しかし。
「何でも良いか。…………気持ちええわ」
窓ガラスに額を軽く当てて、息を吐いて一部分を曇らせる。何の意味も無い動作だったが、そうした事に意味を見出したい心地だった。少し、いやかなりテンションが上がっているのかもしれない。
窓ガラスの曇りを掌で拭き取って、身体をくるりと反転させる。
そうして眼に飛び込んで来た光景に。
幸せの時間は驚きに取って代わられた。
軽く眩暈すら覚えた。過去の暗闇が追いかけてきたかのような錯覚に襲われたのだ。
「何で…………」
まるで夢の続きのようだ。希は、自分がまだ夢の中に居るのでは無いかと、半ば本気で疑った。
「…………コレー?」
デスクトップPCの置かれた机。その上に置かれていたのはしかし、パソコンだけでは無かった。液晶の傍らにぽつりと置かれていたのは、遥か昔に悪魔によって連れ去られた筈の、熊のヌイグルミそのものだった。
まるで初めからそこに有る事が当然のように、そのヌイグルミはそこに在ったのだった。
〈第2章〉
時が停止したかのような錯覚に陥っていた。例え形而上であったとしても、時間などというものが果たして存在していただろうかとすら感じていた。頭が混乱している。理解を超えた出来事が起こった時、人間の思考には空白が生じてしまうものらしい。混乱と冷静、熱さと冷たさが同居して、結果、思考に纏まりが無くなってしまう。
(それとも、本当にまだ夢の中だったり…………)
頬に両手を当てて、ペタペタと触ってみる。感触を確かめつつ、つねってみたりもした。
痛い。確かに痛い。
痛いならば、これはきっと夢では無くて現実なのだろう。いや、痛覚など夢の中であったとしても、何とでも錯覚出来るだろうか。夢の中で頬をつねったと同時に、現実でも眠りながら頬をつねっている可能性をどうして否定できよう。この方法は確実では無い。
だがしかし、やはり夢では無さそうだ。冷静に考えれば、どうしたってそうした結論に至る。
現実の世界にあって、その夢幻を疑ったとして、しかしそれが本当に夢であるのか現実であるのかなど、直感的に理解出来るに決まっている。それ以上を疑い始めれば、人はそれを哲学と呼ぶのだ。そして仮に夢の世界でそれが夢で有るとの考えを抱いたならば、様々な世界的矛盾が夢である可能性の正当を隈なく証明してくれる。
だから、これはやはり現実なのだ。夢などでは無い。
では、眼の前に在る現実はどうやって説明出来るのだろうか。
数年も前…………10代後半の希にとって、数年前の出来事など大昔に等しい…………に失ったヌイグルミが、どうして今、ここに在るのか。その説明は、現実的にどう説明付けられるのだろうか。
部室に一瞬、冷たい空気が流れるのを希は感じていた。元々の室温が季節相当に低いのだが、それとは別種の冷たさが背筋に沿って流れ落ちていく。
…………いや。
希は首を振って、思い直した。このヌイグルミはコレーでは無い。とても良く似ているが、きっと別物だろう。同じ種類の物を、メンバーの誰かが偶然に持っていたに違いない。
希は世の中に奇跡が有る事を信じている。しかし、奇跡とは理由も無く起こるものでは無い事も、だからこそ知っている。例えば…………そう、μ'sの結成などは正しく奇跡だった。相応の想いを持った9人が揃い、それがμ'sとして形を成した事は紛れも無い奇跡だ。しかしそれは理由も無くそうなった訳では無い。想いが有り、誰もが苦しんだからこそ、希にとって奇跡的なのだ。あるいはメンバーの誰にとっても。
だから唐突に、何の理由も無くコレーと再開する事など有り得ない。然るべき過程がすっとばされていて、何かしらのズルを感じてしまう。そもそも、夢に視るまでこのヌイグルミの事などすっかり忘れていたでは無いか。ズルというのは、だから己にとって都合が良すぎるのではないかという否定の思いだった。
…………完全に忘れていたかと言えば、それもやはり違うのだが。思い出さないように、記憶に蓋をしていたのだ。
手にとってヌイグルミを良く観察してみる。
記憶の中のそれと何かしらの差異を見つける事が出来れば、それはこのヌイグルミがコレーで無い事の証明に成り得る。例えば、異次元の扉が開いて、悪魔がこっそりと帰しに来てくれたというような、そういう突拍子も無い奇跡の否定には。この場合、悪魔とは運送業者を指すので、むしろ恐ろしい想像だった。
しかし、良く観察しても、良く分からないという結論にしか至らない。それも当然の話だ。何年も前に失ったヌイグルミの仔細など覚えている筈も無いのだから。
(…………ん?)
しかし仔細を覚えていなくとも、違いを発見する事は出来た。
「補修の後…………?」
ヌイグルミの頭頂部に、僅かな補修の後が見て取れた。少なくともそんな事をした覚えは無いので、やはりこのヌイグルミはコレーでは無いのか。そして、冷静になってみると、このヌイグルミは随分と汚れが目立っているようにも感じる。希が所有していた頃よりも、ずっと汚れているように、だ。汚らしいという意味では無く、経年劣化しているという事だ。あのままヌイグルミが希の手を離れる事無く、ずっと手元に有ればきっとこのように汚れてしまっているのだろうと想像出来るような汚れ。
と。
「職員室に鍵が無いと思ったら…………アンタだったの」
声と共に、1人の少女が部室へ入ってきた。
希は一瞬、痙攣を起こしたかのように身体を震わせた。単純に驚いたのだ。心臓に悪い。
「珍しいわね」
彼女は長机に鞄を放り投げるようにして置いて、特徴的なツインテールをひらりと手で掬った。もう1つの特徴…………その小柄な身体からは想像も付かないドシドシとした強い足踏みで、こちらへ向かってくる。
名を矢澤 にこ。3年生であり、親友であり、μ’sのメンバーであり、アイドル研究部の部長…………つまり、この部室の主。メンバーの誰よりもずっと昔から、ここの主で有り続けた少女。
幼い風貌に反して、挑戦的な瞳に込められた意思は人一倍強い。その負けん気が災いして、周囲との軋轢を生んできた。しかし、最近はとても良い顔をするようになったと、希は思っている。そんな事を言えば、怒られてしまうだろうが。
「にこっち…………早いね」
「いや、それはこっちの台詞よ」
にこは呆れたように言った。
「この部室はね、私のホームグラウンドよ。朝早く来る事だって、別に珍しい事じゃ無いの」
腰に手を当てて、胸を反らして、如何にも彼女らしい仕草だ。
(無い胸を反らして…………)
「今、アンタすっごい失礼な事考えてない?」
「そんなわけ無いやん。胸の多寡で人格は決まらないよ」
「考えてるじゃないの!」
掴みかかってくるにこを適当にあしらって(慎重差が大きいため、額に手を伸ばせば簡単にその動きを止める事が出来る)、希はパイプ椅子を引いた。
座って、ヌイグルミを長机の上に置いて、腕を組む。有名な彫像のようでは無いが、考えているポーズに相違無い。
「…………何よそれ。希のヌイグルミ?」
「いや、それが良くわからないんよ」
「はぁ?」
にこは訝しげに何言ってるのと、続けた。まあ、正しいリアクションだと思う。
「そんな特徴的なヌイグルミ、そう誰も彼も持ってないでしょ。この前のハロウィンイベントの時だって、まあ皆色々持ってきてたけれど、そのヌイグルミを見た覚えは無いわよ」
そうか、ハロウィンの時の忘れ物を誰かが見つけて、部室に置いていた、という可能性も有ったか。あの時は色々と迷走していたから、自宅から色々な物を誰も彼もが持ち込んでいた覚えが有る。しかし…………まあ、それは無さそうだ。にこの言う通り、『そのヌイグルミを見た覚えは無い』のだから。見逃していただけの可能性は有るが、都合よくこのヌイグルミだけを見逃した可能性は一体どれくらいだろうか。
「うーん、まあ、話せば長くなるんやけど…………」
しかし、説明しないわけにはいかないだろう。仮にこのヌイグルミがコレーだったとして、ならば所有権は希に帰属するだろうが、こんな異世界から現出してきたかのような奇妙なヌイグルミを手元に置いて、それで知らん振りして生活するのは不可能だ。気持ちが悪い。かと言ってそのまま捨て置くのはもっと気が引けた。呪われそうだ。
希は誰かに、事情を聞いてもらいたかった。
全てを話すにはやや恥ずかしい部分も有るし、本当に長くなってしまうので、事情を掻い摘んで説明した。要は『昔、引越しの時に無くしたヌイグルミが、部室へ来たら何故か有った』という事が伝われば良いのだ。
事情を聞いたにこは、
「それは…………何、それは?」
「良く分からないやろ?」
「ほんとそうね…………ていうか、この際だから初めに言っておくけれど」
「なに?」
希の問いに、にこは少し躊躇して、
「そのヌイグルミ、昨日の放課後、私が部室に鍵をかけた時は無かった」
「……………………」
部室に鍵をかける。つまりそれは練習を終えて帰宅する時を置いて他に無い。それ以降、希が先程になって鍵を開けるまで、誰もこの部室に入っていないという事だ。
何というか、言葉は変だが、現実味を帯びて奇妙さが増してきた。異世界から現出してきた説が濃厚になって、本当に気味が悪かった。
「…………にこっち、要る?」
「い、要らないわよ、そんな不気味な物」
「きっと妹さん達、喜ぶよ。うちも2人の喜ぶ顔が見たいなあ」
「要らないって言ってるでしょ! 体よく厄介払いするために私の妹を利用しないでよ!」
そっぽを向いて拒絶の意思を表すにこの足は、少し震えていた。どうやら本当に怖いらしい。逆境には割りと強いくせに、オカルトには弱いらしい。感情の起伏が激しいために、リアクションに対しても素直なだけなのかもしれない。それでいて意地を張る所は強く張るのだから、余計に分かり安いと言って良いかもしれない。
(まあ、あんまりからかっても可哀想だし)
ヌイグルミを持ち上げて、希は嘆息した。
異世界から現出してきたとは思えないほど、普通のヌイグルミだった。実際問題、何かしらのカラクリや事実が有ると思っているので、希は異世界現出説をそこまで真剣に信じているわけでは無かったが。仮にそうだったとしたら、それはとても面白いとは思う。そして、これが他人事だったら面白がってそうした説を押していたかもしれない。だが、事が自分に降りかかっているだけに、慎重に成らざるを得ない。
その時、部室の扉がノックされた。トントントン、と不必要なまでに規則正しく、3回。
思わず、にこと眼を合わせた。希は先程のように身体が震えるほどでは無かったが、多少は驚いていた。にこの眼は『珍しい事も有るものだ』と言っている。実際、珍しいのだろう。
希は訪問者の正体について、何と無くだが検討を付けていた。
扉がゆっくりと開かれて…………。
そこに居たのは、
「エリち…………」
予想通り、親友の絢瀬 絵里だった。三年も共に行動していれば、彼女が立てるノックの調子くらい、もう覚えてしまっている。
シュシュで纏めた、ふわりとしたポニーテール。それとは正反対に、引き締まった表情が硬質な印象を周囲に与える。大抵の場合、第一印象で『近寄り難い人物』という印象を与えてしまう。彼女にそんな印象を持たせているのは彼女自身の容姿に因る所が大きい。ロシアの血が混ざったクォーターで、色素が薄く、顔立ちは整っており、何処か異質な雰囲気を纏っているのだ。それは彼女自身が周囲と溶け込むことの出来ない要素でも有る。気を許されるまでは気安い性格でも無いため、余計にそうだろう。
ともあれ、どうしてかその彼女が部室にやって来た。彼女もμ’sのメンバーであるため、部室に立ち寄って悪い筈が無い。しかし、早朝に立ち寄るとなれば、これは不思議だ。にこはともかく、希もそうだが、普段取らない行動を取るというのは、やはりそれは妙だ。
「…………おはよう、2人共。どうして此処に?」
絵里が部室を見渡して、そう言った。何かを探しているようにも感じたが、気のせいだったか。
希とにこは挨拶を返して、
「うちはちょっとね。早く眼が覚めてしまったから、何と無く…………」
言葉を濁して、希は言った。卒業を思い、早くも名残惜しくなったなどと、少し恥ずかしくてあまり言いたくは無い。
「それよりも、むしろアンタが来た事の方が驚きなんだけど」
にこが希に対して言ったのと同じような事を言う。彼女にとっては、きっと誰が来たとしても驚きの対象なのかもしれない。そして希が言うのも何だが、それは確かにそうだ。奇しくも3年生の3人が、何の打ち合わせも無く普段は立ち寄らない時間帯に部室へ辿り付いた。にこの言葉通りならば、彼女だけは普段と変わらない行動を取っている訳だが、それにしても偶然が過ぎる。
「何か用でも有ったん?」
「用って言うか…………ええ、まあ…………そう、たまたま部室の前を通ったら、人の気配がしたから。誰か居るのかなと思って」
「そうなん? でも、何時もの登校時間より、かなり早くない?」
「それは…………たまたま、早く起きたから」
偶然の連続だ。絵里にしては、珍しい事も有るものだ。
しかし、何だろうか。歯に何か詰まったような物の言い方だった。これもやはり、絵里にしては珍しい。物事をはっきりと言う彼女のそんな姿を見るのは、別に初めてでは無かったが、確かに珍しい。引っかかるのはそこだ。
「そのヌイグルミ…………」
「ああ、実はこれで悩んでたんよ」
「え?」
「エリち、これ、誰のか分からへん? ちょっと聞きたい事が有ってね」
「いや、知らない…………けれど」
なんだろうか。やはり、何だか歯切れの悪い物良いだ。
「けれど?」
「いえ、知らないわ」
その様子に首を傾げながら、嘆息する。絵里が知っているとは思わなかったが、このヌイグルミの謎を知るには、放課後を待つしかなさそうだった。休み時間を利用して下級生のクラスへ足を運ぶ程の用事でも無い。裏を返すなら、放課後まで待てば謎は解けるという事なのだから。
ヌイグルミは一先ず持っておこう。仮にこれが他の誰かの物だったとして、休み時間や昼休みを利用して部室に取りに来る可能性は十分に有ったが、だからこそ希はこのヌイグルミを持っていたかった。この件に関して最大に避けたい事、それは知らない間に解決してしまっているという事だ。それは嫌だった。まず第一に、自分からそれを問いただしたいという想いが有ったのだ。大げさだが、解決への口火は自分で切りたかった。勝手をして申し訳無い気持ちが強いかったので、罪悪感で少し胸が痛んだが。
放課後まで待って本来の所有者が判明するのならば、それはやはりこのヌイグルミはコレーでは無いという事になる。それならば敢えて何をどうのと説明を求める必要性が無くなってしまう筈なのだが、希は自分の気持ちにはっきりとした落とし所を求めていた。
「…………それ、持って行くの?」
絵里に聞かれ、
「うん。ちょっと、ね」
「希の物じゃ無いのに、良いの?」
「スピリチュアルやろ?」
「何その便利な言葉」
会話しながら、ヌイグルミを鞄の中へ丁寧にしまった。異世界現出説を払拭出来ていないだけに、少し気味が悪かったが…………それでも自分の手の中に納まると、昔の気持ちが思い出されて愛しさが湧き上がっていた。
時計を見ると、まだ始業までは時間が有った。普段の投稿時間より、まだまだかなり早い。
このまま教室へ行くよりも、ここでもう少し過ごしていた方が良いかもしれない。教室で絵里と話をしているのも良いが、折角にこが居るのだから、3人で話をした方が楽しいに決まっている。
にこを見ると、彼女はパソコンデスクの椅子に座って、窓の外を見ていた。何だか、消え入りそうなくらいに寂しげに見えたのは…………きっと気のせいでは無い。
「にこ…………?」
そんなにこの調子に、絵里も気が付いたのだろうか。訝し気に、しかし何処か心配している風でも有った。
「思いもしなかったのよ」
希と絵里の視線に気付いて、にこは苦笑しつつ言った。
「こんな風に集まってるなんて」
にこは、ゆっくりとこちらを向いた。
「どういう事?」
絵里の問い掛けに、にこは手をひらひらと振って、笑みを深めた。
「同学年だけで部室に集まってるなんて、凄い久しぶりだなって、そう思っただけよ」
「にこっち…………」
にこは2年前にアイドルユニットを結成し、結果、失敗している。その頃以来という事だろう。思い返せば、確かにこの3人だけで部室に集まった記憶は無い。
「何かしらね。それが何だか、少し嬉しいって、まあそれだけなんだけど…………ねえ、私がこんな事言うの、おかしいかしら?」
気恥ずかしいのだろうか。にこはやや俯いて、その表情を隠した。
「おかしくなんて無いわ」
こういう時、絵里の言葉はとても強く相手に響く。持って生まれた才能なのだろう。人を動かせる才能を秘めた、力強い言葉だ。
顔を上げて、にこは嬉しそうに笑った。
「そう…………。ねえ、良かったら、ここで少し話をしていかない? 3年生だけなんて、本当に珍しいじゃない」
3年生だけで話をしたいならば、何時でも出来る。何処かで集まる事もまた。改めて部室へ集う事も、当然出来る。しかし、そうでは無いのだ。
「そうね。賛成よ」
「うちも、そう思ってた所よ」
希には何と無く分かったし、絵里もそうだろう。今日、偶然に此処へ集まったから、それは価値が有るのだ。忘れる事の無い思い出として、きっとそれぞれの記憶に残るだろう。冬を迎える前の部室、空気、それぞれの呼吸、どんな顔をしてどういう風に笑って、どうやってお互いを気遣ったか。
時が経って、ふと思い出した時、そういう事も有ったと言える、価値の有る記憶。
そんな風になったら良いなと、そんな事を考えながら、3人はしばらく部室で歓談したのだった。
少し時間が経って、ふと窓の外を見やると、学校から空へ向けて虹が立ち上ったように見えたが、それは希の気のせいだっただろうか。
説明 | ||
3年生組みが大好きですわ。 | ||
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