連作モノ
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第一話『夢見るカレー』

 

「……カレー食べたい」

 

 鏡(きょう)が目覚めた直後、いつも通り彼の腕の中にもぐりこんでいた珠深(たまみ)がそんな言葉をつぶやいた。

 寝起き直後の、ぼんやりした、少しでも離れていれば聞き逃しそうなほど小さな声。

 空腹で目が覚めた人間のつぶやきと考えれば、特別おかしな言葉でも、意味を持つものでもないと誰もが判断するだろう。

 だが、今、同じく目覚めたばかりの鏡にとって、珠深のこのつぶやきは無視できるものではなかった。

 だから、こう返した。意識するよりも速く、言葉が口からこぼれていた。

 

「何で知ってんの?」

 

 言ってから、しまった、と声には出さずつぶやく。

 が、時すでに遅し。目の前には完全に目覚め、好奇心で瞳を輝かせた珠深の顔があった。

 

「何で知ってんの……って、どういう意味?」

 

 腕の中から、覗き込むようにして鏡の顔を見上げている。

 問いかけには答えず、鏡は身体を起こした。もういい歳なのに、起きてからも夢を引きずって戯言を口にしたのが恥ずかしかっただけなのだが、珠深は自分の問いかけが無視されたと感じたらしい。

 

「ちょっと〜!」

 

 上半身を起こした直後の鏡の胸に飛びついた。

 完全な不意打ちの形だったため、珠深の体重を受け止められず倒れる鏡。敷布団と枕のお陰で怪我は無かったが、人一人分の重みをくらって「ぐぇ」と情けない声を漏らした。

 

「ちょっとちょっと! ぐぇってどーゆー意味よ! あたしが重いってこと!?」

 

 珠深が不満気に叫んだものだから、つい鏡も声を荒げてしまう。

 

「相手が誰だろうと不意打ちで全体重かけられたら、呻き声ぐらい出るわ!」

「か弱い女の子一人ぐらいしっかり受け止めてよ!」

「か弱いなら飛びつくな!」

 

 朝から騒々しいことこの上ない。もっとも朝とはいっても、壁の時計の針は十時過ぎを示しているが。

 できれば話題を逸らしたい鏡にとって、このかけ合いの流れは悪くなかった。

 このままいけば元の話題から外れていくかも――そんな自分勝手な想像をしたが、現実はそう甘くなかった。

 

「で? どんな夢見たのよー」

 

 逃がさない、話を逸らさせないと言わんばかりに、背中に腕を回してしっかりとしがみつく珠深。

 なんとなく言いづらくて沈黙を守る鏡だが、こうなったときの珠深がどれだけ頑固かは身に染みている。もともと隠すようなことでもなく、ただ何となく言いづらい、恥ずかしいような気がする、くらいの気持ちでしかないのだから、さっさと折れることにした。

 ……幾分、癪ではあったけれど。

 

「……何ていうか……絵本の中の世界、みたいな夢だった」

「絵本の中?」

「そう。妖精がいて、化物がいて、不思議な力……魔法みたいなものがあって――」

 

 そこで言葉を切り、手を持ち上げてぼんやりと眺める。

 その手を、好奇心いっぱいの顔で見上げている珠深の頭に手を置き、後頭部の輪郭に沿って髪を撫でながら少し考え、鏡は口にを開いた。

 

「――ゲーム、ファンタジー……ああ、こう言えばわかりやすいかな。自分がRPGの主人公になってる感じの夢だった」

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第二話『ゲームを教えて?』

 

「ふ〜ん……」

 

 鏡の胸にのっかったまま、何か考え込むように口を閉じる珠深。

 一つのことに集中しだしたら他のことがまったく見えなくなる珠深の性格はよくわかっていたから、鏡は女の子らしさをコレでもかというぐらいに主張している柔らかで起伏に富んだ身体を抱きとめたまま、黙って次の言葉を待った。

 

「RPGって、ナニ?」

「…………は?」

 

 目が点になるってこういうことなんだな、と鏡の冷静な部分が頭の中でつぶやく。

 

「何って……ゲームだよ。知らないのか? SOとかVPとかGLとか……」

 

 RPG……ロールプレイングゲームのタイトルを挙げてみせる鏡だったが、珠深の反応はよろしくない。

 

「ん〜……。こういうのかな、っていうイメージは浮かぶんだけど……」

「オレがやってるの見たことあるんじゃないの?」

「たぶん見たと思うけど、興味なかったから、記憶に残ってないなー」

 

 うーんと唸りながら頭を左右に揺らす珠深。少し癖のある、緩やかに波打った髪が腕にかかってさらさらと揺れる。

 その感触がくすぐったかったのもあって、鏡は珠深を引き剥がして身体を起こした。

 

「まぁ、興味がわいたんなら、実際にやってみるか?」

 

 引き剥がされた珠深は甘えていたところを邪魔された子猫みたいに不機嫌そうな表情をしたが、やってみるか? と聞かれて嬉しそうにうなずいた。

 

「うん! やる!」

 

 

 

 鏡がPCデスクの前に移動してPCを立ち上げている間に、珠深はパジャマから普段着に着替えていた。

 Tシャツにスパッツというラフな格好に着替え終わると、椅子に座って起動を待っている鏡の首に飛びつく。

 

「まっだかなっ♪ まっだかなっ♪」

「そんな急がせるなよ。別に逃げたりはしないんだからさ」

 

 落ち着きのない珠深に苦笑をこぼしつつ、マウスとキーボードを操作してゲームを起動する鏡。

 

「だって、おもしろそうなんだもん〜。早く見たいよ〜」

「今日までまったく興味なかったクセに」

「いーじゃない別に、今日から始めたってさ」

「悪いとは言ってないだろ? ……ほら、始めるぞ」

 

 拗ねた子供のように頬を膨らませた珠深の頭をなで、言葉で画面に目を向けさせる。

 PCのディスプレイの中には、別世界が広がっていた。

 

 

 

 木と石とレンガで造られた、中世ヨーロッパを思わせる街並み。

 豊かな水をたたえた噴水を中心に広がる広場。そこかしこで品物を並べる露天商たち。

 広場から伸びている道の先には、尖塔とステンドグラスが目を引く教会や、堅牢そうな門を構えた城や、街の外へ続く跳ね橋などが見える。

 そんな景色の中を行き交うのは、尖った耳のエルフ、背は低くてもがっちりした体格のドワーフ、獅子の頭を持つ獣人、羽で空を舞う妖精など。他にも多種多様な人々――幻想世界の住人とでも言うべき人々――が、忙しそうに歩み去ったり、立ち止まって露天の品物を眺めたり、仲良く連れ立ってどこかの店に入っていったりしていた。

 

 

 

 ディスプレイの中に描かれた世界を見て、珠深が思わずといった感じで吐息をもらす。

 

「ねぇねぇ。鏡が動かしてるキャラはどこにいるの?」

「ん? 今見えるところにはいない」

「え? でもこれ、鏡のキャラが見てる景色なんだよね?」

「それは、こういうこと」

 

 鏡がキーボードを押すと、視点が動いて一人のキャラクターが画面の中に現れた。もう一度同じボタンを押すと、再びキャラクターは見えなくなる。

 

「キャラの姿が見えないのは、このキャラの視点でゲームをしてるから。まあ、ずっとそのままだとやりにくいこともあるから、こうして視点を切り替えることもできるってわけ」

 

 このゲームでは装備しているアイテムによってキャラのグラフィックが変わるから、それを見て楽しむためにも視点変更が必要だったんだろう、と付け足す。

 

「へぇぇぇぇぇ。じゃーさ、人間じゃないひとたちってなんなの?」

 

 感心したようにうなずいてから次の質問をぶつけてくる珠深。

 

「あれは亜人種」

「亜人種?」

「人間に似てはいるけど違うもの。全部じゃないけど、自分のキャラクターとして使うこともできる」

「じゃぁ、耳の長いひとでこのゲームを遊ぶこともできるの?」

「そゆこと」

 

 エルフのことかな、と苦笑をもらす鏡。

 

「ふぅん。なんだかすっごく興味がわいてきたかも」

 

 

 

 一通りの説明を受けたあと、真剣な顔つきでディスプレイとにらめっこを始めた珠深を残して、鏡はその場を離れた。

 台所へ行き壁の時計を見ると、時刻はもう昼になろうかというところ。

 

「今から仕込んでも、食えるようになるのは夜か……」

 

 そうつぶやき、顎に手を当てて考え込む。

 やがて心が決まったらしく、材料や調理器具を取り出して料理にとりかかるのだった。

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第三話『birthday card』

 

 ふと気付けば、いつの間にか珠深が傍に立っていた。

 

 ――もうゲームに飽きたか?

 

 そんな風に考えていると、珠深が不思議そうに聞いてきた。

 

「何やってるの?」

「……見てわかるだろ」

 

 返した言葉は短く、素っ気無い。けどそれは料理に意識が集中しているからで、今話しかけられると鬱陶しいとか、何も考えてなさそうな言葉にイラッときたからじゃあない。決してない。

 

「なによー。そんな冷たい言い方しなくてもいいじゃないー」

「別にそんなつもりはないけどな。ただ、いろいろやらなきゃならないから余裕がないんだ」

 

 コンロ二つともに火を点けているので、会話にまで気を遣うのはちょっとキツい。

 珠深が不機嫌になっていくのを感じる。そっちに目を向けなくても、そんな感じの空気がひしひしと流れてきている気がする。

 が、そっちへの対応は後回しにして、先に茹で上がったパスタに取り掛かった。

 パスタを湯ごとざるに流しフライパンを空にすると、キッチンペーパーで水分を拭い、再びコンロにかける。ざるをよく振ってしっかりパスタの水気を切り、温まったフライパンにオリーブオイルと輪切りにした赤唐辛子、細切れにしたベーコンを入れて軽くあぶる。ベーコンにほどよく色がついたら、パスタと薄切りにスライスした玉葱を追加。玉葱が透明になるまで火を通し、最後に塩胡椒で味を調える。

 こうしてパスタを仕上げながら、もう片方のコンロにかけている寸胴鍋の様子を確認することも忘れない。底が焦げ付かないよう、ときどき下から掬い上げるようにかき混ぜる。見る限りでは、こちらの出来も上々のようだ。あとは隠し味を落とすタイミングだけ。

 唐突に、玄関の郵便受けに何かが落ちる音がした。とはいっても郵便局員が配達物を落として行っただけだろうけど。

 それでも何が来たかは気になったので珠深に取ってきてもらおうかと思ったら、こっちから言う前に玄関へと移動した。何か手伝おうという気持ちより、ここにいてもつまらないから新しい刺激のありそうな方へ動いたんだろう。たぶんそう。

 けどまぁ郵便物なんかであの子猫様の好奇心が満たされるとは思えない。ウチに来るものなんて請求書か明細書か親からの荷物か通販の品物かくらいしかないのだから。

 普段は。

 何も特別なことのない、ただ普通の日なら。

 しかし今日だけは違っていた。郵便物に「普通じゃない何か」が入っている日だった。

 

 

 

「ねぇねぇ、これなに?」

 

 そう言いながら珠深が差し出したのは、少し厚めの手紙。

 それを見て初めて、ああ、そういや今日はそういう日だっけと思い出した。

 

「これなに? 開けてもいい?」

「……っておい、ひとの手紙勝手に開けようとするな」

「だって、めずらしいんだもん。めずらしいっていうより、初めて? あたし初めて見たかも? 鏡宛ての手紙」

「まーな」

 

 答える自分の声が、普段とはどこか違うことをはっきりと自覚していた。

 珠深もそれを聞き逃すことなく感じ取る。

 

「……どうしたの? 急に調子変わったけど」

「別に。それ、見たいなら見てもいいぞ。何が入ってるかはわかってるしな」

 

 捨て鉢にならないよう気をつけながら、言う。

 

「昔の知り合いからのバースデーカードなんだよ。それ。だから、中に何が入ってるか、何が書いてあるかもだいたい想像できる。だから、見たけりゃ見て構わない」

「……ちょっと、鏡? 今なんて言ったの?」

「見たけりゃ見て構わない」

「そのまえ」

「中身はわかる」

「もう一つまえ」

「……昔の知り合いからのバースデーカード」

 

 少し詰まりながら答えると、珠深が目を吊り上げながら詰め寄ってきた。

 

「昔の知り合いって、昔の彼女なんでしょ!」

「…………」

「そんなひとから送られたものを、簡単にひとに見せるなんて言って!」

「…………」

「くれた人に対して悪いとか、申し訳ない、とか思わないの!?」

「…………ない」

 

 とても平坦な、自分が出したものとは思えない声。

 

「もう終わった過去なんだよ。何をどうしても、あの頃の関係に戻ったりはしない。だから返事も出さない。それでも、あいつからは届く。それだけ」

「…………!」

 

 別に暗くはない。気負いもない。ただただ、事実を確認しているだけのような、棒読みな台詞。

 実際事実の確認でしかない。こんなことは。

 

「――それでも。それでも! 簡単に他人に見せていいものじゃないはずなんじゃないの!?」

「たぶんな。だからタマが怒るのもわかる」

「…………違う」

「ん?」

「ぜんぜんわかってないよバカぁ!」

 

 それまでの怒り声とは明らかに違う、珠深の声。それはひょっとしたら悲鳴だったのかもしれない。

 逃げるようにその場を去る珠深の背中に目をやりながら、どこか醒めた頭でそのことを考えていた。

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第四話『偶然でも運命でも奇跡でもなく』

 

 腹が立つ。

 どうしてこんなにムカムカするのか、はっきりした理由が自分でもわからないんだけど、「気にいらない」。

 鏡が昔の彼女からのバースデーカードをぞんざいに扱った。ただそれだけのことが、どうしてこんなにあたしの心を苛立たせるんだろう……。

 …………。

 そう。そうよ! 鏡が乙女心……女心をまるでわかってない。ってゆーかわかろうとする素振りがない。それが腹立たしいんだ!

 いくら昔のことだからって、元カノから送られてきたバースデーカードをあんな風に扱う!? しかも、見たいなら見てもいいなんて!

 ……そりゃ、たしかに、最初、見てもいい? なんて聞いたけど。

 それにしても! どこかズレてるとは思ってたけど、あそこまで無神経だとは思わなかった!

 自分の送ったものがぞんざいに扱われたわけじゃあないのに、すっごく腹立たしい。

 

 

 

 倒れこむように椅子に座り、途中でやめていたゲームをしようとコントローラーを握る。

 握ったはいいけど、また続けようという気にはなれなかった。結局、コントローラーを投げ出す。

 感情のままにわめき散らしたからかな。さっきよりは、少し気分が落ち着いてきたみたい。

 だからか、さっきは考えられなかったことに頭を使う余裕も出てきた。

 

 ――今日、送られてきた、バースデーカード。ということは。

 

「誕生日なんだ。きょう」

 

 口から言葉がこぼれた。

 一緒に暮らしてる自分は知らなくて、もう別れた彼女は知っている、覚えている、鏡の誕生日。

 ずきり。

 ……なんだろ。胸が、心が、痛む。

 一緒に暮らし始めてもうそれなりになるのに、これまで鏡の誕生日を知らなかった、知ろうともしなかったんだ。

 自分たちの関係を言葉で説明するのはむずかしい。家族じゃない、恋人じゃない、でも他人でもない、偶然と運命が奇跡みたいに重なり合って始まった生活。

 あえて近い関係をあげるなら「居候」「同居」みたいな感じ。

 

「その同居相手のことを知らなかったんだよね……」

 

 だれにも聞こえないとわかっているのに、声に出さずにはいられなかった。

 いや、自分に聞かせたかったのかも。確認したかったのかも。

 

「かもじゃないでしょ……」

 

 自分のことなんだから。

 頭に昇っていた血がさーっと降りていくのを感じる。冷静さを取り戻していく自分を自覚する。

 相手のことを知ろうとしなかったのに、そのことから目を逸らして、まるで逆ギレのようにわめき、当り散らしてしまった。

 

「逆ギレ……? ちがう、やつあたりだ……」

 

 そう、やつあたりでしかないじゃないか。

 いっしょに暮らして、鏡のことをわかったつもりでいた。自分のこともわかってもらえたつもりでいた。そんな思い込みを、あのバースデーカードが全部あばいてしまった。

 本当は、カードをおざなりに扱った鏡に怒ってたんじゃない。相手のことを知ろうとしなかった自分に気付かされたこと。そのことがストレスだったんだ。

 

「どうしよう……あわせる顔がないよぅ……」

 

 椅子の上で膝をかかえ、膝小僧に押しつけるような形で顔を伏せる。

 

(きっと怒ってる)

 

(なんでおまえにそんなコト言われなきゃなんないんだとか言うかもしれない)

 

(ここを出て行けとか言われてしまったらどうしよう)

 

(嫌われちゃったらどうしたらいいんだろう)

 

 不安だけが、どんどん胸の中に積もっていく。

 つけっぱなしのPCからは、ゲームのBGMが流れ続けている。正直うざったいと思いもしたけれど、部屋を沈黙で満たしてしまう方が怖くて切らないままにしておいた。

 さっきは……ゲームのことを教えてくれていたときは、あんなに近かったのに。

 今は、ドア一枚隔てたこの距離が、どうやっても手の届かない別世界のように感じてしまう……。

 足に回した手に、きつく力を込める。それでも、ちっとも気持ちは落ち着かない。

 心は、楽にならない。

 

 

 

 どれくらい時間が経ったのか、それすらわからなかった。どこかにあるはずの時計を見ればすぐわかるんだけど、そのために顔を上げるのすら嫌だった。

 ただ、目も、耳も、心もふさいで、椅子の上に座っていた。

 だから、気付かなかった。

 

「…………ぉぃ。…………おい! タマ!」

「ふひゃぁあいっ!?」

 

 突然耳元で名前を呼ばれ、思わず答えてしまう。実際には答えになったかどうか怪しい奇声が口から飛び出ただけだったけど。

 

「何回呼んだら気付くんだよ。寝てたのか?」

 

 そう言って呆れ顔であたしを見下ろすのは、鏡。

 そりゃそうだ。『他の誰がこの家にいるっていうんだ』と自分につっこみができるくらいには落ち着いているらしい。

 だから、鏡が手に持っていた、湯気を立てる皿にもすぐ気付くことができた。

 

「……それ、なに?」

「見てわからないか?」

 

 質問を質問で返される。まぁそれも当然かな。

 それは、誰がどう見ても『カレーライス』と呼ばれる食べ物にしか見えなかっただろうから。

 

「で、なに、それ」

「見ての通り、カレー」

「…………なんで?」

 

 この『なんで?』にはいろんな意味を込めたつもりだった。そんなあたしを見透かしたように、鏡は淡々と答える。

 

「食べたいって言ったろ?」

「……はぁ?」

「寝起きに。で、俺も食べたかったから」

 

 答えているようで、どこかずれたような鏡の言葉。

 それでも、そんな鏡の言葉と、差し出したカレーから漂う食欲をそそるいい匂いが、あたしの心を動かしたのは間違いなかった。

 

 

 

 結局、空腹と、いかにも「オレはウマいぜ!」って主張してるカレーの匂いに負けて、あたしは鏡が作ったカレーを食べた。

 食べながら鏡の顔色をうかがうと、表情は怒ってなかった。……内心どうかまではわからないけど。

 何事もなく食べ終わって、いつものように並んで洗い物をする。

 言うか言わないかだいぶ悩んだけど、やっぱり言うことにした。

 

「……あたしの」

「ん?」

「あたしの誕生日」

「ああ、言い忘れてた。おめでと」

「……は?」

 

 なにか、信じられないものを聞いたような気がして、隣に立つ鏡を見上げる。

 

「――知ってたの?」

「まぁ、知ってるぞ。何時訊いたかまでは覚えてないけどな」

「じゃ、じゃあ、カレーも……」

「オレも今日の今日まで忘れてたからな。食べたいって言ったものを食わせてやるぐらいしかできなかった」

 

 視界が、にじむ。

 涙ぐんでるのを知られたくなくて、顔を伏せた。

 

 

 

 家族じゃない、恋人じゃない。偶然と運命が奇跡みたいに重なり合って始まった生活。

 だけど、あたしのこの気持ちは、今、この瞬間、始まるように決められていたんだと思う。

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第五話『猫姫は発泡酒の夢を見るか?』

 

 テレビから、メンデルスゾーンが流れている。

 

<お二人の愛の一時のお手伝いが、私達の喜びです>

 

 純白の男女を中心に、画面いっぱいに並ぶ正装の人々。そして彼らの頭上に浮かぶ、巨大な文字。

 

<結婚式・披露宴は是非○×で……>

 

 

 

「結婚式……ウェディングドレス……いいよねぇ……」

 

 うっとりと珠深はつぶやいた。

 

「たったあれだけの長さのCMに、よくそこまでいれ込めるな、おまえ」

 

 傍で缶ビールを傾けていた鏡が、呆れたようにもらす。

 

「なによー。あたしだって恋する乙女なんだから、結婚とか花嫁とかって言葉に特別な想いがあるに決まってるじゃないー」

「……そんな綺麗なだけのものでもないけどな」

「どーゆー意味?」

「そのまんまさ」

 

 缶をテーブルに戻し、手元の本に目線を戻しながら鏡が言うと、珠深は座っていた椅子を下りて鏡の膝に飛び乗った。

 

「おいタマ! そういう真似はやめろって……!」

「ど〜〜ゆ〜〜いみ?」

 

 読書を邪魔された鏡は不機嫌な声を出すが、珠深の極重低音はそれ以上の迫力と圧力を秘めていた。

 

「――聞くのはいいけど、オレに当たったり後悔したりすんなよ?」

「それはあたしが決めるの」

 

 じっ、と互いの目を見る。探るような色の濃い鏡に対し、珠深の方は見るというよりむしろ睨んでいるといった感じだ。

 数秒の間のあと、降参したのは鏡の方だった。

 

「わかったわかった。わかったからそんなに睨むなって」

「で、どーゆー意味なの?」

「結婚ってのはな、本人同士の『結婚します』だけで済む問題じゃないんだよ。親、親戚、家、いろんなものが絡んできたり邪魔したりする。場合によっては本人たちの意思を周囲の意見が打ち消したり、書き換えたりさえする」

「なによそれー。戦国時代じゃあるまいし」

「でも事実だ。実際、今でも企業や古い家柄、皇族なんかでは血筋のための結婚、政略結婚なんかは当たり前のようにあるんだしな。そこまで話を大げさにしなくても、当人同士は結婚するつもりでいたのに、互いの両親がいがみ合ったせいで白紙になる、なんてのはそこらじゅうに転がってる」

 

 珍しく雄弁な鏡をじっと見て、珠深はぽつりともらした。

 

「妙に実感こもってるよね」

「まぁ、な。巻き込まれた……ってほどじゃないが、そういう愚痴を延々と聞かされたことがあったんだよ。結婚願望がゼロになるくらいまで」

 

 長話で渇いた喉を湿らせようと缶ビールを手に取る鏡。が、口元まで運ぶ前に珠深に奪い取られてしまう。

 飲み口を唇に合わせ、ごっきゅごっきゅという音が聞こえそうな勢いで飲む――というより流し込まれる、といった方が正しいかもしれない――ビール。

 

「おい……。まだ半分以上残ってたんだぞ。それを一気かよ」

「いーじゃないべつに。まだ冷蔵庫にあるんでしょ?」

「あるけどさ。オレが気にしてるのはビールじゃなくておまえだよ」

「ぁによー?」

「いやだっておまえ普段飲まない……つうか初めてじゃねぇ? 飲むの。オレは初めて見たような気がするんだが」

「べっつに〜? びーるぐらい、さけのうちにはいらにゃ……」

「……イヤもうしっかり酔ってらっしゃるようですが?」

 

 つい数分前まで普通だった珠深の顔色が、朱を刷いたように紅く染まっている。

 口調も怪しい。舌の回りが悪くなっているのもあって、語尾が「にゃ」「にょ」と猫チックになっている。

 

「ねぇねぇねぇ、まぁだあるんでにょ〜? のも〜よ〜」

「……おまえ酒飲むの初めてだろ、絶対」

「いーからはにゃく〜。しゅりしゅりしてあげゆかにゃ〜」

 

 言葉通り、胸に頬ずりを繰り返す珠深。その姿を見れば、誰でも甘える猫を連想するだろう。

 

「しゅりしゅり。しゅりしゅり」

「わかったわかった。取って来るから、離れろ」

 

 酔っ払いには逆らわない――自身の人生経験からそう判断した鏡は立とうとするが、膝の上に珠深が乗ったままでは動きようがない。

 

「いやにゃ」

 

 しかし、酔っ払った猫姫さまは不満気に首を振ると、背中に手を回して抱きついてしまった。

 

「あたかーい。いーきもちにゃ〜。はにゃにぇるにゃんていやにゃ」

 

 そう言いながら再び頬ずりを始める珠深。

 途方に暮れる鏡。

 

「どうしろっつうんだよ……」

 

 

 

 結局、首に抱きつかせて『お姫様だっこ』のかたちにすることで、冷蔵庫への移動を可能にした。

 ……鏡を物凄い羞恥心と疲労が襲ったのは言うまでもない。

 

 

 

「〜〜〜〜〜、〜〜〜〜〜、はぁ」

 

 小さな子供のように両手で缶を抱え、おいしそうにビールを飲み干す珠深。

 口の周りについた泡を舌で舐め取る仕草などは、もはや猫そのものといっても誰も疑わないだろう。

 が。

 赤い舌が唇の周りで蠢く様は、珠深の顔立ちもあって異様な妖艶さを見るものに感じさせた。

 

(マズいなぁこりゃ。オレも溜まってんのかな?)

 

 膝の上に猫を抱えたままつき合わされている鏡も、自分自身の酔いもあって、珠深の妖しげな空気に呑まれつつあった。

 半開きになった唇の間から覗く小さな舌。

 髪やうなじから漂う甘い匂い。

 胸に感じるふくらみの柔らかさ。

 これまでまったく感じなかった珠深の『女』を、いやというほど感じさせられていた。

 

(変なスイッチ入っちまいそうだ……どうしよ)

 

 そんな風に思考を巡らせていると。

 

「……むにゃ」

「……おい」

 

 いつの間にか、珠深は寝息を立てていた。

 

「ったく、しょうがないな」

 

 鏡は缶に残っていたビールを一息で飲み干すと、座っていた座椅子の背もたれを倒した。

 

「今の時期なら、風邪ひいたりするこたないだろ」

 

 そうつぶやいて、寝てしまった珠深を大事そうに抱き、自分も目を閉じる。

 起きたらどんなお仕置きをしてやろうかと考え、口の端をわずかに緩めながら。

説明
えっと、オリジナルです。
連作形式で作ったものを、一つにまとめて投稿させてもらいました。
それぞれあるキーワードを元に作ってあるんで、よかったら探して(考えて)みてください。

*すいません、作者の手違いで「call your name 3」と中身がごっちゃになってました。
訂正前にご覧になられた方々、本当にすいませんです……
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