思い出マルシェ1-3 「希ファントム1-3」 |
「眩しいわね」
「…………そうやね」
練習を終え、時は夕刻。茜差す、燃えるように鮮やかな世界が、鈍色の歩道橋を灼鉄のように染め上げる。もうすっかり慣れた光景だったが、飽きを感じさせない…………希はこの光景を好いていた。
「ほんとに、綺麗や」
世界の端から夜の帳が下りてきており、刻一刻と暗闇が侵食していた。暗闇の速度は日一日と増していた。
ふと、夏頃を思い返す。
μ'sが9人揃ったのは梅雨明けだったか。ほんの数ヶ月前の事なのに、随分と昔の事のように感じる。色々な事が有って、それだけ濃密な時間を過ごした証拠なのだろう。あるいはただ感傷的になっているだけか。四季の移り変わりは卒業までの残された時間を実感させる故に。何れにせよ、残された時間はきっと、希が思っているよりもずっと少ない。何が残酷かと問われれば、それが一番に違いない。人は認識のズレというものに対して無防備過ぎる。それがどんなタイプのものであれ、認識のズレという刃の対象は常に己自身であるという事を忘れている。刃が突き刺さった時、痛みと共に現実を実感するのだ。
今朝、気温の冷たさを昨年のそれと比較してどうか、と考えていた事を希は思い出した。それもまた、感傷だったか。
今、希は絵里と街を歩いていた。
帰路に付いているのではない。話をするために歩いているのだ。正確には、落ち着いて話が出来る場所へ移動しているのだ。
練習の休憩中、ことりを詰問していた希に絵里がストップをかけ、件のヌイグルミについての詳細を話す約束を交わした。
話し合いは練習後に2人で。そうした約束が交わされたのは、もちろん他のメンバーに迷惑をかけないためだ。お互いにとってメンバーへ迷惑がかかる事は本意では無かったので、これはすんなりと決まった。既にことりに迷惑がかかってしまっているが、これは2人で謝っておいた。あからさまに胸を撫で下ろしていたことりだったが、まあ、それはそうだろう。ことりにしてみれば、自分の頭越しに色々なやり取りが行われていたわけで、これは迷惑以外の何ものでも無い。
(…………あのヌイグルミの事なんて放っておけば、こんな事にはならなかったのだけど)
事をややこしくしたのは全て自分の行動に因る。そうした認識がある希にとっては、これは猛省するしか無い。だが、あの夢を視た直後の精神状態では、見てみぬ振りをする事など不可能だったに違いない。事実、こうなっている。
そのヌイグルミは今や持ち主の手に戻っている。絵里の鞄の中で、徒歩のリズムで静かに揺られているのだ。鞄の中から消失してしまうのではないかと心配する事は無い。
あのヌイグルミは異世界から現れたのでは無く、絵里が昔から持っていたものなのだから。
(本当に…………?)
それは納得し難い結論だった。あのヌイグルミは本当に自分が持っていたそれと何一つ関係が無いのだろうか。とはいえ、ではどんな結論が出ていれば納得出来ていたかと問われれば、正直良く分からないというのが希の本音だった。異世界から帰ってきたと言われても、普通に気味が悪い。
μ’sのメンバーでも良く訪れるファストフードのお店。ハンバーガーショップへ辿り付いた。
絵里の様子は何処か緊張しているように見える。それは今朝から昼休みにかけて気が抜けていた彼女とは正反対の…………出会ったばかりの頃の彼女を想起させた。その緊張感は伝染する。その容姿こそが周囲との隔絶を生んでいた最大の要因だった。緊張感や厳しさが前面に現れる雰囲気を纏えば、美麗な容姿に鉄壁の壁が構築される。輪をかけて近寄り難い当時の彼女はそうやって完成していたわけだ。
希を拒絶しているわけでは無い事だけは何と無く理解出来るが、今、絵里が何を考えているかは希にも分からなかった。
幸いな事に、店内はあまり混んで居なかった。
ドリンクの注文を適当に済ませ、2階へ上がり、なるべく隅の目立たない場所へ腰を落ち着ける。こそこそする必要など無かったが、秘密めいた話は目立たない場所で行いたい。
注文したのはホットコーヒー。特別にコーヒーが好きという訳でも無いが、どうやらお互いに落ち着きたい心地だったらしい。
一息付いて、絵里が口を開こうとした時、
「そうやエリち、これあげるわ」
希はトレーの上に、一口サイズの板チョコをバラバラと並べた。
「どうしたの、これ。…………というか、持込みって大丈夫なの?」
「そやから、こっそり食べな」
希が微笑んで言うと、絵里は苦笑して、
「全く、希ったら…………」
チョコレートは鞄に入れていた物だった。今朝入れたのだ。
朝練が有った場合、これは何かとエネルギー補給のための飲食を行うが、今日のようにそうで無い場合はなるべくそれを控えている。スクールアイドルとしての自制だ。しかし今日に限っては朝が早かった。途中でお腹が減った時のために、一応持って来た物だ。色々と有った為に忘れていたが…………こんな形で役に立って良かった。
「エリち、今日はお弁当も半分くらい残しとったし…………今もコーヒー以外頼んでへんやん。お願いやから、食べてな」
「…………全く、希ったら」
言葉は同じでも、そこに込められたニュアンスは違った。まだまだ固い所の有る彼女だが、大人しく希の言葉に従ってチョコレートを口にしていた。
綻んだ彼女の顔を見ると、希もたまらなく嬉しくなってしまう。
「希…………ごめんね」
何に対してのごめんなのか。分からないが、あるいは全てなのかもしれない。
それを確認するべきなのか。しかし、希が返答する前に、絵里が言葉を繋いだ。
「希は何時気が付いたの? このヌイグルミが私の物だって事に」
「気が付いてはないよ。何と無くそうじゃないかって思ってただけや。お昼休み、エリちはことりちゃんを見て教室を出て行ったんやろ? あの時、見えるか見えへんかの所やけど、うちもことりちゃんを見た気がしたから…………」
昼休みにことりが訪ねてきたらしい事と、ことりならばあのヌイグルミの補修も簡単に出来るだろうという事と、絵里が早朝に部室へやってきた事と、その絵里の気分の推移とが脳内で瞬間的に結びついて、あのような憶測を立てただけだ。細かい誤差はあれど、それが全て正解だったというのは驚きだったが。
(それこそ奇跡みたい)
奇跡の偶然性を改めて否定したくなる出来事だった。物事の連続性のみが奇跡を起こし得るなどと、そこまで断言はしないが。
「それは…………流石ね、希」
感心とも呆れとも取れる調子で、絵里は言った。絵里は時折、希が深謀遠慮をめぐらしているかのような事を言うが、それは過大評価であると希は思う。これは昔、転校続きで培われた疑心に端を発している、とてもネガティブな臆病さの発露だ。少なくとも、希はそう思っている。だが、絵里に流石と言われると、悪い気はしない。
「このヌイグルミね…………」
絵里はいいながら、ヌイグルミをテーブルの上に置いた。
大事そうに手で触れながら、彼女は優しげに目を細める。
「昔、祖母に貰った物なの」
「エリちのお婆ちゃんに? それは…………大切にしてたんやね」
大切にしていたのだろう。少なくとも、ことりに補修を頼むくらいには。思い入れが無ければ、そんな事はしないはずだ。
絵里から何度か聞いた事は有るが、彼女が祖母を話題に出す時、それは常に母方だ。つまりヌイグルミを絵里に与えたのは、ロシア人の祖母なのだろう。クォーターである絵里のルーツだった。
彼女が祖母を大切にしている事は、その言葉の端々から見て取れる。高校3年間で彼女の口から語られた祖母の話は、どれも愛情に溢れていた。幼い時分に他ならぬロシアの地で面倒を見てもらったらしいので、それも当然と言える。
「でもうち、全然気が付かなかったわ。エリちがそういうヌイグルミ好きやったなんて」
彼女の家へ遊びに行った時にも、それらしい趣味の片鱗すら見られなかった。ヌイグルミが趣味などと、考えてみれば如何にもにこが喜びそうな趣味だった。
「ち、違うの。この間ね、部屋を掃除をしていたら、このヌイグルミが出てきたの。解れていたから、ことりに補修を頼んだのよ。別にずっと持ってた訳じゃ無いのよ」
どうしてか焦るように言う絵里に、
「そ、そやったんや」
返しながら、希は首を傾げる。何故その部分で必死になるのだ。
それに、希が聞きたいのは、そういう事では無かった。希が不満を覚えていた事は、そんな事では無かった。
どうして希を欺くような事をしたのか。それが聞きたかったのだ。
絵里も当然気付いているのだろう。チョコレートをもう1つ口に運んで、嘆息した。
ここまで来て、中々言い出し辛いようで、口を開いて、しかし再び閉じてしまう。
仕方が無いので、こちらから切り出すことにした。
「今朝…………なんで言わんかったん? あの時に『自分の物』やって言ってくれてれば、エリちに渡してそれで終わりやったのに」
「それは…………」
それが言い出し辛い理由の1番らしい。やはり口が重く、中々答えをくれない。本当に、今日一日で普段見る事の無い彼女の表情を何度も見ている。いや、ここまで弱気な絵里を見るのは希も初めてかもしれなかった。
ともあれ、状況的に妙であったことは確かだが、結果的に見れば他人の者を勝手に持ち出したのは希だ。その辺りの事はあまり強く言えない。希が勝手に持ち出したために、絵里が言い出し辛くなった事は確かなのだから。
弱気になっている絵里をこれ以上の攻撃を加えるような真似は嫌だったので、希は別の事から片付ける事にした。全ては繋がっているだろうから、絵里を攻め続ける事には変わらないだろうが、間接的に負担を減らせるならばそれで良い。『話す』と言ったのは絵里なのだし、言い出し辛い事でも話してくれる覚悟なのだろうと理解していた。
「じゃあ…………お昼休みに言えば良かったやん。『希の持ってるヌイグルミはことりの物らしいわよ』って。なんでそうせんかったん?」
それで何処まで納得出来たかは希にも分からない。むしろ話が拗れていた可能性も有るが。
絵里は長い息を吐いて、
「知ってるでしょう? 私が…………私が、そういうの嫌いだっていう事は」
成る程、分からないでも無い。絵里は小手先の誤魔化しを嫌う傾向に有る。そんな嘘を付こうとする自分がまず許せなかったのだろう。ことりが言った『自分の言葉で伝えた方が良いと思って』というのは、そのまま絵里に当てはまるものだった。では、ことりにお願いした事は自分の中でどう折り合いを付けているのだろうか。希からヌイグルミを取り戻そうと計略を巡らす事も、罪悪感は働けど、そちらの方がまだマシだと考えたのかもしれない。
だが、それもまた絵里らしく無い。相手の顔を見なければ罪悪感が薄れるなど、それは卑怯だ。普段なら彼女はそう言ってもおかしく無いだろうに。
苦渋の決断に耐えうる何かしらの理由を持っているという事だろうか。
「じゃあ、なんでことりちゃんにお願いしてまで、自分を隠そうとしたん?」
それが分からなかった。そもそも、それが今回の件をややこしくしている最たるものだった。
これは、『今朝、どうしてヌイグルミの所有権を主張しなかったのか』という質問とほぼ同じだ。切り口を変えてみれば、あるいは話しやすくなるかもしれないと考えたのだ。
「それは…………」
だが、絵里の口は相変わらず重い。本当にらしく無い。彼女が一度決めた事を実行出来ない、それは異常だ。今日一日で見せた異常の全てを、足しても足りないくらいの『らしく無さ』だと思えた。
自分の存在を明るみにしたくない余程の事情が有るのだと、だから推察は出来た。
たかがヌイグルミにそこまでの何かが有るとは思えなかったが。
(それは同じか…………)
自分もまた、他人から見ればくだらない事で、『たかがヌイグルミ』に拘っている。
少し温くなってきたコーヒーに口を付けて、希は『もう良いかな』と思い始めてきた。
この話はこれで終わりにして、事の一切に拘らない。
ヌイグルミの持ち主は分かった。それがコレーと似ていたのは本当にたまたま、驚くくらいの確立だが、まあ偶然だったのだろう。絵里の不審な行動に付いても、希に対して何かしらの意図が有った訳では無く、彼女個人の特別な事情に因るものだとするならば、ここで素直に引いてしまおう。
(引き際って、こんな時に使うのかな)
親友である絵里が、そのパーソナリティに逆らってまで話せない事情を聞きだそうとする。これを希は正しいとは思わなかった。
希がそう考えて嘆息し、『もう良い』と言おうとした所で、しかし絵里は、
「…………ああ、私ったら本当に馬鹿よ」
言いながら、頭を抱えた。
突然の奇行に希は驚いて、一瞬変な声が出そうになった。最近になってからだが、絵里のオーバーリアクションが目立ってきたように思える。μ’sに入ってからの『良い変化』の一環だろうが、見慣れていないだけに、突然そのような事をされると本当に驚いてしまう。
「ど、どないしたんエリち」
「つまらない事で意地を張って…………今、凄く後悔してる」
絵里はテーブルに肘を付いて、前髪をずりずりとかき上げていた。
「エリち、そんなに苦しいなら、もうええよ。うちもそれで納得するよ?」
昼とは全く異なるが、見かねて希はそう言っていた。
だが絵里は首を振った。
「言うわ。本当に馬鹿馬鹿しい事なんだもの。考えてみれば、希にそんな馬鹿馬鹿しさを強制するのは間違ってる」
それを間違っていると希は思わなかったが、絵里は違うのだろう。少なくとも、希に対する裏切りであると考えているからこそ、これほど悩んでいるはずだ。
絵里は、自信の感情の何もかもを置き去りにして、無心になったかのような瞳で希を見据えた。
その瞳に、希は居住まいを正した。ちゃんと聞いて上げなければならないと、そう思った。
だが、絵里の言葉から発せられた事情というのは、
「…………恥ずかしかったの」
そんな一言で。
「え?」
と、希は自分でも間抜けだと感じてしまうような声を出していた。
「恥ずかしい?」
希は確認のために言った。まさか聞き間違いではなかろうかと。だが、絵里は顔を紅くして項垂れた。どうやら聞き間違いではなかったようだ。ついでに言うと、無心では居られなくなったようで、恥ずかしいという言葉に偽りは無いと確信できた。
「それは…………え、でもエリち、そんな…………」
そんなどうでも良い事で。
言いかけて、それは自分もまた同じで有る事に、やはり気が付く。夢に出てきたヌイグルミ…………コレーにそっくりのヌイグルミ。それが部室に有ったというだけの理由で、『何か有るのではないか』と拘った。暗示的では有ったが、到底現実的で無い事など、初めから分かっていたはずだ。
「私だって、初めからそんな事を思ってたわけじゃ無いのよ」
思い出すように、絵里は視線を斜めに向けた。
「ことりに補修を頼もうと思った時は…………少し恥ずかしいと思ったくらいだった。この歳でヌイグルミなんてって。それでも皆に知られても、それはその時かなって、そう思ったの」
成る程、絵里はこれまで硬質なイメージを形成してきており、それは自身にそうあれかしと律してきたからに違いなかった。祖母に貰った大切なヌイグルミと言えど、『ヌイグルミを大切にしている』と他人から見られる事に気恥ずかしさを覚えても不思議では無い。ともあれ、ここまではそこまで重大事に捉えてはいなかったようだ。
「ことりがヌイグルミを何処かで無くしたって電話してきた時は流石に慌てたけれど」
なんと、ことりはヌイグルミを無くしたと思っていたようだ。偶然部室に置き忘れたから良かったものの、そうで無ければもっと違う騒ぎになっていたかもしれない。
「流石に大きな騒ぎになったら恥ずかしいと思って、早朝に探しに行ったのだけれど…………」
穂乃果辺りが見つけて持ち主探しを始めたら、確かにこれは恥ずかしいかもしれない。
「当たりを付けた部室には、うちらが先に居たって事やね」
そうよ、と絵里は頷いた。そこで彼女はチョコレートを口に含み、呼吸を整えるようにコーヒーを飲んだ。
絵里が言い辛かったのはここからだ。先程、『早朝に所有権を主張したなかったのは何故か』という質問に絵里は答えなかった。
「でも…………さっきも言ったけど、うちがヌイグルミを持ってたんやから、自分のだって言えば良かったやん」
絵里が話しやすいように、希は敢えて同じ事を繰り返して言った。
「今朝…………そうね、あの場に居たのが、にこだけだったら、私は言ったわ。からかわれるかもしれないけれど、それがにこなら私だって…………恥ずかしいとは思っても、気にしなかったはずよ」
「…………どういう事?」
「あの時、希がヌイグルミを持っているのを見て…………」
そう、希は言った。『聞きたい事が有る。このヌイグルミの持ち主を知らないか』と。
「私は、思ったよりも自分が動揺している事に気が付いた」
「動揺…………してたんやね」
今朝の事を希は思い返した。歯切れの悪い物言いの絵里。確かに動揺していたのかもしれない。
部室へ入ってきた時、彼女は何かを探していたようにも見えた。口にこそ出さなかったが、探しているヌイグルミは即座に発見出来たのだろう。眼の前の親友が持っていたのだから。
「希には知られたく無いと思った」
絵里は痛みに耐えるように言った。
「希にだけは知られたくないって、そう思った」
繰り返して言った。
「? なんでうちにだけ…………」
そう言われると、正直傷つく。何でも話してくれるとまで考えて居なかったが、自分にだけ知られたく無かったと言われるのは腑に落ちない。
己の過去を思い返した時、だからこそ絢瀬 絵里という少女はあまりにも特別だ。それが自身の過剰で一方的な情から来る勘違いだったとしたら、それは考えたく無い程に恐ろしい事だ。
つまり、彼女に取って、自分はそれだけの付き合いなのだと。
身体が緊張して、硬くなって、テーブルの上で組んだ指が石膏のように硬直した。
「…………」
「エリち?」
絵里の名を呼びながら、希は自身の声の調子にこそ、激しく動揺した。それは己の声であるのに、まるで知らない感情が篭った声だった。単純な悲しみだとか苦しみだとか、そういうものでは無い。もっと暗く冷たい感情が入り混じっており、それは一言では言い表せない、魂から搾り出された懇願だ。恐ろしく浅ましい…………そしてみっともない。情けないものだった。
希の声に含まれた何かに、絵里は慌てた。
「そ、そうじゃ無いの! その、知られたく無かったっていうのは…………」
絵里は一度、視線を逸らした。しかし、ゆっくりと視線を戻して、希を見た。絵里の顔は紅潮していた。
「知られたく無かったっていうのは、恥ずかしかったからで…………」
「にこっちだけなら打ち明けたって、言うたやん」
責めるように言ってしまう。
「違うのよ。だから…………その、ダメージの違いよ」
「ダメージ」
何処かで同じような事を考えたような気がしたが、どうだったか。
その言葉を心中で咀嚼しながら、意味を消化していく。
胸の内に芽生えた不安が消えていくのを感じていた。ここまで動揺したのは何時以来だろうか。絵里の事となると、心の浮き沈みが激しくなってしまう。
硬くなった身体を少しずつ解しながら、希は息を長く吐いた。
「ヌイグルミを持ってるのがみっともないって思ってて、うちにそう思われるんが嫌やったって事?」
それはきっと、ポジティブな意味だ。
希が言うと、絵里は観念したかのように、首肯した。
「そんな…………そんなん…………」
それは殆どこう言っているに等しい。『希だけは特別だから』。そう言っているに等しい。希が絵里に対して特別な情を持っているように、絵里もまた…………。
希は顔が熱くなるのを感じていた。テーブルに肘を付いて、掌で眼を覆って身悶える。
「エリち」
その希から絞り出された声は、先程のものと似ているようでまるで異なり、激しい熱を帯びていた。複雑では無く、とても単純で、そこにはやはり魂の衝動が込められていた。同じように名前を呼んだだけなのに、込められたエネルギーの総量はまるで桁違いだった。
「その…………めっちゃ恥ずかしいやん。そういう事を言う方が、ずっと恥ずかしいよ」
「だから言ったでしょ、後悔してるって。ああもう! ほんとに、今朝言っておくんだったわ。ここまで…………言わなくちゃいけないんだったら」
ならば、適当にはぐらかしても良かったのとも思ったが、彼女自身がそれを許さなかったのだろう。結果的に話を拗らせてしまい、彼女の強い責任感から、説明せずにはいられなくなったのだろう。
力無く項垂れる絵里の顔もまた、紅く染まっていた。耳まで紅く染まっていて、色素の薄い彼女の肌に、良く映える。それがたまらなく美しい。
絵里の示した親愛の情はとても嬉しい。嬉しくてどうにかなってしまいそうだった。友達を作る事が出来なかった希にとって、大げさだが、それは何よりも求めていた絆だったのだから。
「馬鹿だと思うかもしれないし、自惚れと思うかもしれないけれど、希が好んでいる私はきっと、そういうものじゃ無いと思ったの」
生真面目で責任感が強く…………格好良く有ろうとしていたのだろう。いや、ただ格好付けたかっただけなのかもしれない。
「…………私にとって、希は特別なんだもの。少しでも変な風に感じて欲しく無いって、そう思うのはおかしいかしら」
なんだろうか。今朝も同じような事を、にこが言っていた気がする。にこと絵里に似た所など無いと思っては居たが、妙な所で意地を張り続ける事が出来る所は、とても似ているかもしれない。
…………それは自分も同じか、と希は苦笑した。結局の所、自分に似た人間を選んで気にかけていたという事なのかもしれない。
「エリち。うちの事を特別やと思ってくれてるなら…………」
希には当然、絵里の気持ちが分かる。希にとって、絵里は誰よりも特別なのだという気持ちに偽りは無い。高校に入って、希の世界を変えてくれた人間。誰よりも親しみを覚えていた。
孤独を知る人間は、より親しい人間の眼を最も恐れる。自分と絵里が必ずしも同じだとは考えていないが、絵里の言葉はそういう事なのだろう。
「そんな事でエリチに幻滅なんてせんって、これからはそう思って。むしろ、エリチの事をもっと知れて、前より好きになったわ」
希はヌイグルミを取って、絵里の手に渡した。それを包み込むように、絵里と手を重ねる。
「それに、エリちのお堅いイメージなんて、穂乃果ちゃんが吹き飛ばしてくれたやろ? 今更や。良い変化やって思てるんよ」
「希…………」
ヌイグルミの上から、絵里がしっかりと握り返してきた。
「…………変に隠し事して、ご免なさい。希は…………」
絵里は微笑んで、言う。
「希はそうやって、私がどうにも出来ないところを気遣ってくれるのね」
μ’sに入ったあの時も。
その微笑みに、希は顔が熱くなるのを感じていた。気恥ずかしさを抑えながら希は、
「客観的ってそういう事やん? エリちだってきっと…………」
「希のそういう所を気遣ってるって? 私、出来てるかしら」
出来ているに決まっている。だからこそ、先程は救われた。
希が覚えた暗い感情…………それを乗せた言葉は、言わば情の押し付けに等しい。恐るべき不安に苛まれて、無意識的にそんな声を出してしまったが、絵里はそれを見逃さなかった。
…………きっとこれからもそうやって、お互いの事を確かめていくのだろう。指先だけでお互いの身体を確かめるように、少しずつお互いの事を知っていくのだろう。
暗闇の中でお互いを確かめ合うように、少しずつ、少しずつ。
ふと、気が付いた。
店内に、音楽が流れている。最新のポップスが…………。
いや、もちろんそれは気のせいだろう。音楽が流れていなかった、という事が気のせいだ。それが流れていなかった瞬間など無かったのだろうが、気が付いたのは今だった。だが思い返せば、記憶の端々には残っている。滞在中のどの時間帯に、どんな曲が流れていたか。あやふやではあるが。
それだけ、絵里との対話に集中していたのだろう。もしくは単純な認識のせいかもしれない。ファストフード内には『当然、音楽は流れているもの』という認識。音楽をただの環境音として認識していたのだろう。それは不覚だ。スクールアイドルと言えど、一応はアイドル。アイドルたるもの、常に流行を意識しておかねばならない。アイドルは流行を作り出すが、だからこそ流行に敏感でなくてはならない。まして、スクールアイドルは己自身で全てをプロデュースしなくてはならないのだから、尚更だ。…………そんな風に、にこが言っていた気がする。
すっかり冷めてしまったコーヒーが手元で揺れている。喉に通すと、生ぬるい温度のそれが、しかし心地良かった。一息に飲み干してしまう。先ほどのやり取りですっかり身体が火照ってしまったせいかもしれない。
それは絵里も同様らしく、手元の紙コップは空になっていた。
彼女は人差し指でコップの縁を緩やかになぞっていた。伏し目がちではあったが、肩の荷が降りたような、さっぱりとした表情を浮かべていた。
それは普段の彼女のそれと相違無く、それを見て希は、
(ああ…………やっぱり、良いな)
そう思うのだった。どんな表情の絵里でも、希は好きだった。とは言え、希が喜べない表情だって、もちろん有る。悩んだり、困ったり、悲しんだりしている時の彼女。その場合は原因を取り除いて、立ち直った彼女の表情を更に好きになる。
今がそんな気分だった。
ふ、と絵里の視線がこちらに向いた。
「私にも聞かせてくれないかしら」
「? 何を?」
何か言うべき事が有っただろうか、と希は首を傾げた。言いたい事、話したい事、それはたくさん有るに。しかし、こうして本人から改まって言われるほどに伝えるべき事など、果たして有っただろうか。
何の事か分かっていない希を見て、絵里は苦笑した。そして、
「希がこのヌイグルミに拘っていた訳よ。今朝、言ってたじゃない」
言われ、思い出す。
「持ち主に聞きたい事が有るって。私がそうよ。何でも聞いてくれて構わないわ。何か…………事情が有ったんでしょう? 私と同じように」
そう。
そうだ。
だからこそ、絵里には迷惑をかけてしまった。当然、それらを話しておかねばならない。迷惑をかけた故に、それは希の義務だ。そして、絵里への誠意でも有る。
「そうやね。…………まあでも、『聞きたい事』ってニュアンスじゃ、もう無くなったかな」
「どういう事?」
「その辺りはうちも何とも…………そもそも、何を聞くつもりやったんかも…………」
事の解決に際しては、自分が主導権を握りたい。どんな現実的な理由でも、まずは自分から問いただしたい。そう考えていたが、絵里から事情を聞かされた今、感じていた馬鹿馬鹿しさに拍車がかかる。咽元過ぎればなんとやら、夢を見た直後だったために、神経質になっていたのかもしれない。
(…………問題は神経質になってた理由の方なんだけれども)
とまれ、希は話し始めた。
「まあね、うちの理由も全然大した事なんて無いんよ」
前置きをして、説明する。」
絵里程に激しくは無いが、頬をかく事で気恥ずかしさを表現しつつ…………。
絵里には過去の事をそれなりに話しているので、色々な説明はあまり必要が無かった。つまり、転校に際して希が感じていた事とか、そういうあれこれ。
コレーの喪失に関して話した事が無かったのは、これは絵里が感じていた恥ずかしさと同じで、敢えて話さなかったり…………記憶に蓋をしていた節がある。思い出さない事が、1つの理解だったのかもしれない。親から求められた世の中の理不尽に対する理解…………転校続きの人生に対する諦め。
絵里に説明しながら、希の思考が纏まっていって、1つの答えに辿り着きつつあった。コレーそっくりのヌイグルミに拘っていた理由。そのヌイグルミがコレーである可能性を殆ど信じていなかったにも関わらず、拘っていた事の理由。
…………事情を説明し終えると、絵里は得心し、頷いた。
「そんな事情が有ったのね…………」
「まあ、これはエリちがお婆ちゃんから貰ったものだから、結局うちが見た夢とは何の関係も無かったわけやけれどね」
何か関係を見い出したならば、それはただの理由付けに過ぎない。夢は夢だ。
ただ、素敵だとは思う。夢を見た翌日に、同じ形状のヌイグルミと出会ったという事は。
だが、それだけだ。それは結局の所、何処までも現実的であるという結果の再認識に他ならない。奇跡に似たそれは、だからこそ事の現実性を強く実感させる。そして、それで良いのだ。
コレーと似たヌイグルミと再び出会えた。それが絵里の持ち物だったという事。それだけで十分。十分に、希の心は満たされていた。
「でも、ほんとに驚いたわ。今朝、うちがこれを部室で見つけた時は…………」
「部室?」
絵里が首を傾げたが、
「どないしたん?」
「ううん、何でも無いわ」
更に言葉を繋げた。
「…………でも、そうかしら。本当に関係は無いのかしら」
「どういう事?」
「今の話だと、希がヌイグルミを無くしたのは十年くらい前なのよね」
「そうやね。確かそれくらいやったと思う」
今にして思えば、ヌイグルミ遊びくらい卒業していておかしくない年頃だった。
「私が祖母にヌイグルミを貰ったのもそれくらいの時期よ。そして、祖母は言っていたわ…………たまたま日本のヌイグルミが手に入った。これはリサイクル品なんだって」
「リサイクル品…………」
「ロシアで日本の物を見かけて、つい懐かしくて、嬉しくなって買ったらしいのよ。全く、亜里沙にあげれば良いのにね」
絵里は、彼女の妹を引き合いに出して言った。確かにそうかもしれないが、当時、妹の亜里沙は未だロシアに居たらしい。絵里の祖母は、近くに居る孫よりも、遠く離れた孫の事を想ってそれを買ったのかもしれない。
「じゃあエリちは、宅配業者が無くしたうちのダンボールの中身が中古業者に渡って、それが更にロシアへ運ばれたんじゃないかって言いたいの?」
「断言はしないわ。だって、現実的じゃ無いもの」
でも、と絵里は言う。その瞳は優しげで、首を傾げて微笑んだ。
「このヌイグルミが元は希の物だって考えると、わくわくしない?」
かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そうである可能性の方が遥かに低い。だが、異世界現出説に比べると、遥かに有りそうな可能性にも思えた。
そうやね、と嘆息する。
「スピリチュアルやね」
言いながら、絵里の手からヌイグルミを緩やかに引き抜いて、眼の高さまで持ってくる。
希は同一視していた。コレーの喪失と、転校による交友関係の瑕疵とを。どちらも希の意思の外側に因るものだ。それをして悪魔の仕業としたのだった。
今朝、このヌイグルミを見つけて、それに希が拘ったのは…………安らぎを得たかったからに違いない。
先ほど、ふと頭に浮かんだ事の1つはそういう事だった。
ヌイグルミが希と無関係であったとしても良い。誰かの持ち主である事を自らの眼で確認すれば、ずっと心の中が軽くなる。そのヌイグルミをコレーに重ね合わせる事で、コレーが感じているかもしれない孤独、それに対して感じている己の痛みを軽くする事が出来る。
そう思っていたからだ。
それは卑怯だろうか。希が今という現実を重要視するあまり、過去に蓋をして忘れ去ろうとする卑劣にならないだろうか。
希の言葉に、絵里はそれを否定した。強い調子で。しかし、希を労るように優しく。
「それは…………希が前へ進むために、必要な事よ。誰にそれを責められるというの」
絵里の言葉に、希は泣きそうになる。
そして、もう1つあった。先ほど思い浮かんだ、ヌイグルミに拘る理由の、本当のところ。
転校続きだった過去の希は、コレーを喪失して以来、友達を作る事を完全に諦めていた。しかし、確かな想いが1つあった。ずっとずっと、コレーに語っていた想いだ。惨めな気持ちになるから、決して言葉には出さなかったものだ。
『私にも何時か、友達が出来るかなあ』
その答え。
その想いを伝えたいために、その想いを伝える事が、今の現実を伝える事が、コレーとの別れを確かなものに出来ると考えたのだ。それは絵里が言った、前へ進むために必要な事だったに違いない。
今、このヌイグルミを、仮にコレーで有るとして…………、
「捨てられてるんじゃないかって、燃やされたんじゃないかって、そう思ってた。でも…………持ち主が居てくれたんだね。…………寂しく無かったのね。良かった」
眼を細めて、希は呟いた。
「良かった」
自分も今は寂しく無い。掛け替えの無い友達が出来たから。
額を寄せて、心で呟く。
こうしてこの言葉を言える。これは奇跡だったろうか。
分からない。しかし、そうであったとすれば、いくらなんでも曖昧過ぎる。この道程は曖昧に過ぎる。
己の味わっている孤独感を、きっとコレーも感じているに違いない。小学生時代の希はそう考えたし、今でも心の何処かで引っかかっていて、だから夢に見たのだろう。…………希は孤独を解消できてしまったから、一層引っ掛かりが強くなったのだろう。
そして、ずっと抱えていた想いが有った。それは今の希ならコレーに語れるもので、だからこそ意識の表層に浮かんできて、コレーの夢を見たのだろう。
そして、その想いを果たすために、コレーそっくりのヌイグルミが希の前へ現れた。
一見、筋が通っているようで、現実的でない曖昧の具現。奇跡かそうで無いか、希では何とも言えない領域の話。
(穂乃果ちゃんなら、奇跡だって言い張るんだろうなあ)
元気溌剌な顔を思い浮かべて、太陽のような輝きを思い浮かべて、希は笑った。
このヌイグルミはコレーであるかもしれないし、そうで無いかもしれない。だが、そうで無いと決め付けるだけの根拠も無いし、そうだと言い切る根拠も無い。
コレーとの過去を…………心の何処かで堆積していた引っかかりを全て綺麗に解消する。希が考える奇跡の定義では、これはもう不可能だ。
希は突拍子も無い奇跡を信じない。
希にとって、それは理不尽と同義だ。幼い頃、自らに際限無く降りかかった理不尽…………転校を余儀無くされ続けた悪魔の所業と何一つ変わらない。
だが、それがここまであやふやな状態で、奇跡かそうで無いか良く分からない状態なら…………希は納得したい。卑劣と言われようが構わない。希がずっと抱えていた心中の引っかかりが夢となって現れて、同じ形状のヌイグルミを親友が持っていたという偶然が発覚して。あやふやにでも過去を清算出来る機会を、あやふやな奇跡が与えてくれたのだと、そう信じたい。
それは、高校に入って…………様々な素晴らしい出会いが有ったからこそ、思えるようになった事だ。
今、希の周りには、親友が居る。あの頃、悪魔に振り回されていた愚痴を毎日のように語っていた唯一の友に語っていた想いを…………その結果を、今ここで報告する。
「大切な友達、たくさん出来たよ」
例えそれがコレーで無かったとしても、ずっと伝えたかった事をようやく伝える事が出来て、希はとても満足だった。
エピローグ
屋上の扉、その向こう側には既にメンバー全員が揃っていた。希と絵里以外のメンバー全員が。その光景を眩しく思いながら、希は後ろから抱きかかえるようにして身体を密着させている絵里の温もりを感じていた。
屋上の窓からは夕暮れの陽射しが差し込んでいたが、それに温もりを覚える事は無かった。ただ、絵里の体温に温もりを覚えていた。
「それで、結局何が言いたかったの?」
絵里の言葉を受けて、希は肩に置かれた彼女の手にそっと触れて、自分の頬にそっと寄せた。
暖かくて柔らかい。彼女の手が確かな存在感で希の心を和ませる。
「なんやろうね」
少し間を置いて、絵里の方に身体を向けた。
希は、自分の指に絵里の指を絡ませながら、扉から少し離れる。移動した拍子に、絵里の体と更に密着して、彼女の香りに全身が包まれたような感覚を覚える。壁に持たれて、希は俯いた。
「ずっと不安やったんかも」
「不安?」
「箱に関する伝説とか昔話って、それを開けたらあんまり良い事が起こらないのが相場や」
「…………」
思い当たる話が幾つか有ったのか、絵里は少し、視線を巡らせていた。
「コレーを無くした時もそうやった」
あのヌイグルミ。希に取って何よりも大切だったヌイグルミ。今もその所在が曖昧で…………しかし、もう心にわだかまりは無い。
「ダンボールを開けて、開けて、開けて…………コレーの入ってるダンボールが無いって分かるまで、うちは家中のダンボールを開けたんよ。箱を開ける毎に、不安は増して…………無いって理解した時、うちは本気で思たんよ」
「…………なんて?」
「全部のダンボールを開けなかったら、まだ希望は持てたのにって」
無い事を確認するまで、それは確定されない。全部のダンボールを開けなければ、きっと家の何処かには有るはずだ。馬鹿馬鹿しいながらも、あの時はそう思ったのだ。
「どうせ、親が全部開けちゃうんやけど。…………良く手伝ってくれるねって、褒められたわ」
苦笑しつつ、絵里の肩に顎を乗せた。
希は少しの間、顎と頚動脈から伝わってくる絵里の鼓動を感じていた。
「このメンバーで居られる事が…………ここにうちが居られる事は、もしかして何かの間違いで…………誰かが何時か箱を開けて、現実の降りかかる日が、来るんやないかって。誰も箱を開けなかったら、誰もそれに気が付かなかったのに」
扉の向こう側、屋上で自分と絵里を待つ皆を思い浮かべ、希は微笑んだ。
「その時に、うちがいない事に誰かが気付くんよ。それでも…………皆それを受け入れて、うちの事なんて、きっと忘れるんやって。もしかしたら、うちがコレーに対して思ったのと同じような事を思ってくれて…………でも、きっとそれはその程度の事なんかもしれへんって」
「…………馬鹿ね」
苦笑した絵里に、希は苦笑で返す。
そうだ。その一言に集約される。
「うん、馬鹿やった」
「私達を引き合わせたのは希なのよ」
「うん…………そうやった」
絵里の背中に回した腕に力を入れながら、その温もりを確かにする。
「ねえ、やっぱりナーバスになってるでしょう」
再びの問い掛けに、希は今度こそ首肯した。あるいは、感傷的になっている。
ヌイグルミの件だけでは無い。最近ずっと感じていた事だ。だが…………それを強く感じてしまったのは、やはりコレーの夢を見たからかもしれないが。
「昨日な、ことりちゃんを問いただす前、手洗い場で何か、凄い孤独を感じたんよ。生徒会やってた時、エリちと2人で嫌になるくらい聞いた運動部の声とか吹奏楽部の音とか、そういうの聞いたら、胸が苦しくなって…………あの頃は何とも思わなかったのに、何で今、そんな風に感じるんかって、ずっと考えてた」
「……………………」
「それはきっと、あの頃より、今の方がずっとずっと…………」
別れを惜しんでいる。
それだけの事だった。
あの頃と今で異なるのは立ち位置だけだ。だが、立ち位置というものは人のあらゆる要素に対して密接に関わりを持つ。それだけで人格すら変わってしまいかねない強制力のあるもので、ただ1つの環境音ですら感じ方を変えてしまう。音楽が流れていることに気が付かないくらいに、変えてしまう。
だからこそ明確に胸を締め付ける。
絵里から身体を離して、背を向けた。そして改めて、窓ガラスの向こう側に居る仲間達へ眼を向ける。
素晴らしい光景。ずっと望んでいた光景。
今だけの、素晴らしい一時。
「希…………? 泣いてるの?」
「まさか」
声が上擦らないように、希はトーンを抑えた。
「ハウスダストじゃないかな?」
「眼にゴミが?」
希は、絵里の腕が後ろから優しく回されるのに気が付いた。
「…………そういう事にしておいてあげる。だから、もし私がそうなったとしても、きっとゴミのせいだからね」
「うん…………」
胸を締め付けるのは、悲しいというだけの理由では無い。今、ここに出会えたという喜びが強い。だからこそ、悲しみもまた大きくなるのだが。
だが、悲しいから泣いている訳では無い。
家には悪魔が住んでいた。
もう希の傍には居ない。
例え居たとしても、問題ない。
それが希の手にした絆なのだから。
胸の苦しみが、そのまま絆の大きさなのだから。
「じゃあ、行こか」
喜びだろうが悲しみだろうが、何時までも浸っては居られない。やらなくてはならない事が…………やりたい事がそこには有る。
扉を開くと、屋上には一足早く冬が訪れていた。朝よりもずっと冷たい風が、昨日よりもずっと冷たい空気が、扉を通して流れ込んでくる。だが、陽射しは思ったよりも暖かかった。
皆が顔を上げて、絵里と希に笑いかけてきた。
希も微笑み返して…………。
ふと、宙から舞い降りる純白の羽を眼にした。
思わず手を伸ばして掴もうとしたが。
気のせいだったのか、するりと手の中へ溶け込んで、見えなくなった。
何故だろうか。
心がとても、暖かい。
※ ※
「でも、1つだけ分からない事が有るのよね」
真剣な表情の絵里が、声を潜めて呟いた。
「? どうしたん?」
「ヌイグルミは部室に有ったって、希は言ってたわよね」
何を今更と思った。
「そうやね。あの日、エリちが来る直前の事や」
「…………」
希が言うと、絵里は口を噤んだ。
「エリち?」
希が首を傾げると、絵里は
「実は…………」
と前置きして、
「その前日の事なんだけれど…………ことりは部室を出た後、鞄にヌイグルミが入っているのを確認したらしいのよ」
「え?」
そう言えば。
ハンバーガーショップで、絵里は『何処かで無くした』と言っていたのだったか。それが部室だとは限定されていなかった。部室に置き忘れたとは言っていなかった。
希が『部室で見つけた時は』と言って…………絵里は首を傾げていた。それが不思議な事であると知っていたかのように。
にこは何と言っていたか。
部室に鍵をかけた時には、そんな物は無かったと言っていた。ことりにしてもそうだ。無くすにしても、あれは無い。『秘密にしてくれ』と頼まれていたのに、部室のあんな目立つ場所に置いてしまうものだろうか。ことりは折に触れて天然さを垣間見せるが、不誠実な子ではない。だから、
「帰宅してヌイグルミを落とした事に気が付いたらしいのだけれど…………つまり、部室を出て、ヌイグルミが鞄に入っているのを確認した時に落としたのね、きっと」
そういうことりらしいミスなら理解出来るが、部室に置き忘れる事は有り得ないように思えた。
という事は、つまり、それは…………、
「誰があのヌイグルミを部室に置いたのかしら…………?」
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これで終わりです。 何だか凄く長くなってしまった。 |
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