紅と桜〜世界は二人のためにある〜 |
紅と桜〜世界は二人のためにある〜
雨泉 洋悠
ガラスの割れる音が、聞こえるの。
割れやすくて、壊れやすくて、砕けやすい、壊れてしまった、貴女の、想いの居場所。
それなのに、壊れてしまったはずなのに、その響きを失わない、輝きを消さない。
貴女は雨に濡れながらも、再び立ち上がって、一人っきりでも、前に進む。
ある所に、月に恋した、哀れなる者が居ました。
その哀れなる者は月に言いました、貴女の輝きを、ずっと見ていたい、と。
月は言います、私は、太陽の光があれば、ずっと輝けます、ずっと見ていて下さい。
しかし、ある時、太陽は、沈んだまま、その姿を、隠してしまいました。
月は言いました、太陽の光を失ってしまった私は、もう輝けないの。
哀れなる者は、月に誓いました、私が、太陽を取り戻します、待っていて下さい。
あの日のライブから、私の世界は、少しずつ、変化を見せ始めた。
あの日のにこちゃんの姿が、心に焼き付いたまま、離れない。
あの時感じたあの感情が、何だったのか、まだ私は、上手く言葉に出来ないでいる。
にこちゃんの心が、少しずつ割れていく音が、あの日から、ずっと、今も変わらずに私には聞こえているのに、私達の前に居るにこちゃんは、何も変わらなくて、強さを、何も失ってなかった。
ことりの件があって、にこちゃんだけじゃなくて、穂乃果が今までに一度も見たことないぐらいに、沈み込んでしまって、まるで太陽が沈んでしまったみたいで、私を導いていたオレンジの色彩は、今はもう、遠い彼方。
元気づけようとして、屋上でライブの話を、皆と出してみたけれど、穂乃果の心は私が感じ取ってあげられないぐらいに、傷ついていて、それを解っていても、自分を導いた存在の、穂乃果が言った事が、耐え難かったにこちゃんが、穂乃果に想いをぶつけようとするのを、私はただ抱き留める事しか、出来なくて、あの時にこちゃんを止める事が出来なかったら、きっとにこちゃんは、絶対に望んでいない筈なのに、穂乃果を傷付けて、そして、きっと自分も傷付いていた。
やっぱり、にこちゃんに必要なのは、穂乃果で、私じゃないんだ。
穂乃果が居なければ、私はにこちゃんの支えになれなくて、力になれない。
それに、こないだママに言われた言葉が、私の胸に突き刺さる。
歌も、音楽も、穂乃果もにこちゃんも、私の前から、全部消えてしまいそう。
私にとっては、にこちゃんも穂乃果も、必要で大切で、どっちも大切だなんて、これは私のただのわがままで、もう、にこちゃんを振り回せない。
活動休止が決まって、泣きそうなにこちゃんを前にして、何も出来なかった私なんて、にこちゃんの、割れたガラスに手を触れるなんて事は、もう赦されないの。
それに触れていいのは、やっぱりきっと、希なの。
だから、私は、もう一度、世界を、殺すの。
「にこっち、真姫ちゃんの気持ちも、解ってあげてな」
屋上で活動休止を決めた後、泣きそうだった私に、部室まで着いて来て、慰めてくれるのは、やっぱり希。
「うん」
何だろう、今までにないぐらいに、私の心は今空虚で、ガランとしている。
「にこっち、真姫ちゃんはな、まだ一年生なんよ、真姫ちゃんにとっては、穂乃果ちゃんも大切なんよ」
希の言葉が、私の心に、殆ど響かない、そんな日が来るなんて、思っても見なかった。
そんなにも、降り積もったものは多くて、私の心を埋め尽くしていたなんて。
「うん、大丈夫、私は、今までと、何も変わらないから」
多分この想いが消えることなんてないし、癒えることなんてないし、今までと同じ、ずっと抱えていくだけ。
「ごめんな、にこっち。うちじゃもう……」
違うのよ希、希が力になれないんじゃなくて、私の問題なのこれは。
「気にしないでいいのよ、希。私はこれまでと変わらないから、大丈夫だから、生徒会に行きなさいな」
今の私が、ギリギリ出来る笑顔を、何とか希に向けて、促す。
今はもう、希に寄りかかる訳にはいかないから、私は一人で居た方が良い。
「……解った、これからだって、うちは見ているから、今までにこっちに言った言葉も、全部、忘れんといてな」
希の優しさが、身に沁みるけれども、今日は、ここで終わり。
「忘れないわよ、大丈夫」
哀しそうに微笑んで、希は部室を出て行った。
一人になった途端に、溢れ出す、私の心。
私は、大好きなものに対する想いが折れてしまった時の、耐え難い苦しみを、哀しみを知っている。
だから、真姫ちゃんに、強制なんて出来ない。
私には希が居てくれたけれど、あの子に必要なのは、私ではないのね、きっと。
私はもう、この想いをずっと抱えていく、忘れたくないもの、あの子がくれたもの、あの子が私の心にくれた暖かさ、どれも大切すぎて、捨てることなんて出来ないもの。
ああ、止まらないなあ、これ、もう止まらないのかな、どうしようかな。
このまま、溢れ返ってしまった想いも一緒に、全部流れ出てしまえば良いのに。
まあ、しばらくここにいれば良いかな。
もう、この場所には、きっと誰も来ない。
何となく来てしまったのは、あの日と同じ音楽室で、何か弾いてみようかと思ったけれども、あの日と違って何も思い浮かばなくて、ただ黒と白のコントラストに、視線を落としている。
私は本当に、もう一度、この音を、歌を、音楽を、捨てないといけないのかな。
このまま穂乃果が戻らなくて、にこちゃんの傍にも行けなくて、ママの言葉に従ってしまうなら、そうなってしまう。
そうしたら、もうきっと戻れない。
自然と、涙が溢れてくる。
にこちゃんは強いな、私なんか、折れかかった今の自分の心すら支えられなくて、今までにこちゃんに支えて貰っていながら、今の私は、にこちゃんの為に、何も出来ない。
今にこちゃんのところに行ったら、私は頼って、縋って、にこちゃんに寄りかかってしまう。
今のにこちゃんを、支えてあげられない。
それに、にこちゃんを支えるのは、きっと希で、にこちゃんの、のぞみの場所に、引っ張っていくのは、穂乃果。
私が入り込める隙間が、何処にもない。
「真姫ちゃん、泣いてるの?」
いつの間にか、ドアの外に、花陽の姿があって、私の方に近付いて来る。
「花陽、凛は?」
私の眼の前に立った花陽、その顔は哀しそうで、それでもまだ、私みたいに泣いてはいなかった。
花陽は、ハンカチを差し出してくれて、それを私は使わせてもらった。
いつも嗅いでいたにこちゃんの香りとは、また違って、フワフワした、甘い、優しい香りがした。
「凛ちゃんには、教室で待って貰ってるよ。どうしても、今日だけは、真姫ちゃんと二人きりで、話さないといけなかったから」
合宿の時に、花陽は言っていた、今しか話せないことは、今聞かないとダメだって。
「ハンカチありがとう、なに?話って」
花陽のお陰で、ちょっとだけ、気持ちを落ち着かせる事が出来た。
「真姫ちゃん、今、誰の事を一番に想っている?」
何時もの花陽とは少し違う、優しさの奥に決意を秘めた瞳で、私の眼を、じっと見つめる。
「誰って……」
ああ、こんな時でも、やっぱりそう言われて、一番に思い浮かぶのは、穂乃果でなくて、にこちゃんだ。
「真姫ちゃん、その人の事を思って、自然と涙が出て来ちゃう相手なんて、そんなにはいないんだよ?ちゃんと、自分の心と向き合って。穂乃果ちゃんじゃないでしょ?」
また溢れてきた涙を、花陽がハンカチで拭ってくれる。
また、花陽の優しい香りが包んでくれる。
「私なんて、ずっと前から、一にも二にも、たった一人の人の事しか考えられなくて、それでも真姫ちゃんの事も大事だから、真姫ちゃんが今、凄く辛いの解っちゃうから、その人の事を置いてでも、真姫ちゃんの所に来たよ」
花陽も流れてきた涙を、自分のハンカチを使って拭う。
私も良く知っている、花陽にとっての唯一無二の人。
「真姫ちゃん、真姫ちゃんが穂乃果ちゃんの事を凄く大事に想っている気持ち、解るよ。私が真姫ちゃんに、同じ気持を持っているから」
花陽の涙が、止まらない。
「でも、でもね、にこちゃんの事を、もっと見てあげて、真姫ちゃんにとってのにこちゃんと、にこちゃんにとっての真姫ちゃんのことを、にこちゃんにとっての、穂乃果ちゃんの事を。にこちゃんと真姫ちゃんが、過ごしてきた時間を、ちゃんと振り返って、考えてあげて」
そう言いながら、私の両手を取る。
花陽の涙が、繋がりあった、二人の両手を濡らす。
「にこちゃんにとっても、穂乃果ちゃんは特別だよ、それはもう私だって痛いほどに解って、間違いないことだって、絶対の自信があるよ」
花陽の紡ぎだす言葉は、告白のようで。
「でもね、にこちゃんにとっての真姫ちゃんは、そんなものじゃないの。真姫ちゃんほどじゃなくても、皆よりも少し近くに居られた私には、解るの。にこちゃんの気持ちが、本当に痛いぐらいに、解るの」
嗚咽と交じり合って、私の心に届く。
「真姫ちゃん、私ね、今真姫ちゃんがにこちゃんに対して想っている気持ちも解るの。怖いよね、にこちゃんは。だってにこちゃん、何があっても、立ち上がれちゃうんだもん。にこちゃんはきっと、今回の活動休止にも、きっと前を向いて、一人で立ち上がっちゃうの」
そうか、あの、水素の檻の中で、立ち上がるにこちゃんを見て、花陽と同じで私は、怖いと、思ってしまったんだ。
「でもね、間違えないで、真姫ちゃん。あの時のにこちゃんは、怖かったけど、にこちゃんは決して、ただ単純に強いんじゃないんだよ」
にこちゃんが強くない、そんな事今までちゃんと考えたことなかった。
「にこちゃんの心はね、何時だって、ちゃんと傷付いているの。今日だって、真姫ちゃんの言葉で、にこちゃん泣きそうになってた。にこちゃんが持っているのは、傷付かない強さじゃなくて、傷付いても立ち上がれる強さなの。傷つく度に、ちゃんとにこちゃんの心は削られていってるの。誰かが、そこに触れてあげないと、いけないの」
でもそれは、きっと私の役目じゃなくて。
私の心が突き刺さるように痛む、自然とまた涙が流れ出てくる。
「でも花陽、それは希じゃないのかな。私じゃ、にこちゃんの支えになんて、なってあげられないんじゃないかな。私には穂乃果みたいに、にこちゃんが行きたい場所に、連れて行ってあげることなんて出来ない」
私の両手を握る手に、更に力がこもる。
「違うよ真姫ちゃん。今真姫ちゃんが抱えている悩みとか、想いとか、そう言うのもちゃんと、言葉で伝えてあげて。真姫ちゃんが言葉にするのが苦手なの、ちゃんと解っているけれども、それをにこちゃんに対して、して良いのは、にこちゃんの心の、本当の奥底にに触れて良いのは、真姫ちゃんだけなの。あんなにも真姫ちゃんのことを、何時だって思ってくれている人なんて、他にいないよ」
花陽の涙が、熱い。
「真姫ちゃん、にこちゃんはね、真姫ちゃんに頼りたいんじゃないの、連れて行って欲しいんじゃないの。にこちゃんはね、そのままの真姫ちゃんと、何時だって一緒に居たいの、真姫ちゃんと一緒に歩きたいだけなの、傍に居たいだけなの。真姫ちゃんが頼りたい時には頼って欲しいんだよ、にこちゃんは」
顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃになった笑顔を、私に向けてくれる。
花陽は何時だって、こんなにも、私とにこちゃんの事を、考えてくれていたんだ。
私は、全力で私を押し出そうとしてくれている花陽に、ちゃんと答えないといけない。
少しずつ、不安定だった自分の心の拠り所を取り戻す。
そうだ、何を複雑に考えていたのかな。
何よりも、にこちゃんの事を自分が大切に想っていることを、忘れなければ良かっただけなのに。
花陽が、私の顔を、もう一度しっかりと拭ってくれる。
「真姫ちゃん、何時もの格好良い真姫ちゃんになってきたね。にこちゃんのところ、行ける?」
花陽がくれる、最後のひと押し。
もう、にこちゃんの事を、怖いなんて思わない、いや、怖くてももうその傍を、絶対に離れない。
「うん、花陽、ありがとう。凛と花陽みたいに、私はにこちゃんと、色んな事を一緒に乗り越えられるようになりたい」
そうだ、複雑な公式なんて必要ない、最初から、シンプルに考えれば、良かったんだ。
立ち上がる私に、花陽は微笑みかけてくれる。
「にこちゃんは部室に居るよ、行ってあげて、一緒に居てあげて」
凛と一緒にいること以上に、私に言葉をくれることを、選んでくれた花陽。
「行って来る。本当にもう、にこちゃんたら私が居ないとダメなんだから」
本当の意味で、私がちゃんと強くならないと、にこちゃんと一緒には居られないんだ。
今はまだ、言葉だけの強がりでも、いつかきっと、私がにこちゃんを支える側になってみせる。
「頑張れ、真姫ちゃん!」
花陽の笑顔と声援を背中において、私は音楽室から走りだした。
大好きな、あの人の居る場所へ。
どれだけ時間が過ぎても、流れていくものは止まらなくて、なのに心のなかに溢れ返った想いは消えるどころか、良く解らないままにどんどん増えていっていて、何よこれ、どうしようもないじゃない。
真姫ちゃんと、あの日過ごしたのも、この場所だった。
少しずつ降り積もっていった想いが嬉しくて、これからの日々に希望が溢れていた。
そのせいなのかな、今はもの凄く胸が苦しい。
こんな気持は初めてで、どうしたらいいのか全く解らない。
同じ場所なのに、どうしたって、今同じ想いには、なることが出来ない。
どうしてよ、こんなの今までにもあったじゃない、慣れている、筈じゃない。
そんなの、本当は解っている。
真姫ちゃんは、そんな軽く済ませられるような、直ぐに仕方無いって、思えるような、そんな相手じゃない。
私にとって、この世界で唯一無二だった。
もう私は、この先、生涯誰の事も、こんなにも大好きには、なれない。
真姫ちゃんへの想いは、私にとって、アイドルに生涯ただ一度だけ赦される、本気の恋だ。
ああ、そうか、私はもう、お父さんとの約束を、果たせないんだな。
そう思ったら、もっともっと溢れ出して来て、どうしようもなく、止まらなくなってしまった。
この想いは、もうどうやっても消えないんだろうなあ、消えないのに、永遠に満たされないなんて、この先私は、どうやったら、普通に生きていけるのかな、初めて、自分の生き方が、良く解らなくなっちゃった。
もう、落ちるところまで、落ちよう、上がってこれなかったら、もう、しょうがない、よね。
ゆっくりと目を閉じて、眠りに着こうと思った。
その後の暫しの時間、眼を瞑っていた私には、何が起こったのか、良く解らなかった。
部室のドアが開く気配がしたと思えば、何だか、柔らかいものに、抱き締められた。
何だと思って、眼を開けようとしたけど、見なくても次の瞬間には、解った。
真姫ちゃんの、いつもの香りがした。
「真姫ちゃん?」
何時かみたいに、夢の中なのかな、こないだの屋上の夢とか。
真姫ちゃんが、自分からこんな事してくれるなんて、あの時を除けば、かなり嘘っぽい、私の、のぞみっぽい。
「にこちゃん」
ああ、やっぱり嘘っぽい、そんな呼び方、特別な状況の時の、二回しかまだ聞いてないもの。
いいや、どうせ夢なら、抱きついちゃえ、私の方から、真姫ちゃんに抱きつけるなんて、初めてだなあ、真姫ちゃん、いい匂いするし、何か幸せ。
「真姫ちゃん、好き、だーい好き」
思わず出てくる、本心からの言葉。こんなの現実でなんて言えない、夢の中だけ。
って想っていると、何故だか、段々真姫ちゃんの温度が上がってきた。
あれ?なにこれ、リアルな夢、夢?
「にこちゃん、あの、その、今のって、本気で受け取っても、いいの?」
その言葉で、全開に目が覚めた。
「ま、真姫ちゃんっ!」
私、いま、今まで生きてきた人生の中で、一番びっくりしていると思う。
目が覚めたら覚めたで、眼の前に真姫ちゃんの何時もの赤髪の房があって、その柔らかさが、私の顔をくすぐってて、歳下の筈なのに、私よりもちょっとだけ成長した胸とか、私の胸に当たってて、何時もの椅子の上で、変な体制だから、太ももとかも引っ付いてて、とにかく真姫ちゃんの全身が、私に完全にくっついている感じで、恥ずかしいとか通り越していて、もう死にそうっていうのが正しいかも。
「にこちゃん、ちゃんと答えてくれないと、私、顔あげられないんだけど……」
よ、良かった、真姫ちゃんも恥ずかしいし、余裕ないみたい。
二歳下の後輩に、こんなことされて更に余裕のある態度なんか見せられちゃったら、私の先輩としてのプライド、欠片も残さずに消し飛んじゃうところだった。
「えっと、あの、その、も、もちろん、おふざけであんな事なんて、いくらなんでも言わないわよ。半分寝ぼけてたのは認めるけれども、それでも、ちゃんと私の本心よ。信じてくれたら、その、嬉しい」
何とか取り繕った、精一杯の平常心で、真姫ちゃんに告げる。
真姫ちゃん、何も喋らないまま、暫くして、肩を震わせ初めて、同時に私の肩の当りが、じわりと濡れてくる感触。
「に、にこちゃん、好き、だ……大好きぃ」
泣きながら、より一層両腕に力を込めて、そう言ってくれる真姫ちゃん、歳相応の幼さが、凄く愛らしくて、改めて真姫ちゃんの事、しっかりと抱きしめた。
何だろう、天国から地獄の反対、地獄から天国って、この事を言うのかな。
全くもって、経緯が良く解らなくて、疑問符だらけではあるけれど、お互いの心に、一つだけ確かなことがあれば、充分なのかもしれない。
真姫ちゃんまだ泣いてるけど、少し落ち着いてきたので、一旦離れてもらって、もう一部屋の方の長椅子に、二人で座った。
真姫ちゃん、ずっと私の手握ってて、離さなかった、何なのよもう、この異常に可愛い後輩は。
「真姫ちゃん、大丈夫?落ち着いた?」
真姫ちゃん、一生懸命頷いてる。
ああ、本当にもう、可愛いなあこの子は。
思わず真姫ちゃんの頭を、空いてる方の手で撫でてあげちゃう。
真姫ちゃん、何も言わずに撫でられてくれている。
ほんの少し前まで、こんな時間、もう永遠に手に入ることのないものだと思っていたのに、この世界は本当に、何が起こるかわからないなあと、思う。
こんなびっくりするような奇跡が、苦しかった想いの先に、待っててくれた。
「さて、私はもう何だかさっきの真姫ちゃんの言葉のお陰で、今までのことが全部良い方に吹っ飛んじゃった。だから、いま真姫ちゃんが思っていることを、全部聞くよ。こっちの準備はもう万端よ。何でも話して」
真姫ちゃんの髪の、柔らかい感触から手を話して、先輩モードに自分を戻す。
真姫ちゃんのさっきのあの言葉を、信じられるから、もう今の私は何でも、どんと来いだ。
自分のハンカチを取り出して、真姫ちゃんの涙を拭ってあげる。
やっと、話せるぐらいに、落ち着いたみたい。
「にこちゃん、私ね、こないだの事とかもあって、私ねアイドル活動の事、ミューズのこと、合宿の時とか、前から話してはいたんだけど、色々と改めて、ママに話してね、それで言われたの。お医者さんを目指すこと、アイドル活動、両方を中途半端にするのは、ダメよって。成績を落としてはいないけど、確かに勉強よりもミューズの活動の方に重点を置いちゃっていて、ママはそれを気にしているみたいなの」
ああ、そうだよね。
来るべき時が来たかなって感じ、しかもよりにもよって、皆がバラバラになりかけているこの時に。
真姫ちゃん、一人で抱えているの辛かっただろうに、気付いてあげられなかった、まだまだだなあ、私。
「ことりのこともあって、穂乃果も落ち込んでて、辞めるなんて言い出すし、活動休止なんて話も出て来て、どうしたら良いのか、良く解らなくなっちゃって」
真姫ちゃんのママさん、多分アイドル活動辞めろって意味では、言ってなさそうだけど、中途半端なことしてたら、ダメそうね。
今の私達は、とても見せられない。
真姫ちゃん、気軽に相談してくれれば良かったのに、でも希の言うとおりだ。
真姫ちゃんは、真面目で、大人びて見えても、まだ高校生になって半年ぐらい、まだまだ、将来のことを後回しにして、遊んでいても良いぐらいの子供なんだ。
ママさんの言葉に、思いつめちゃっても仕方ない。
「解った、真姫ちゃん。穂乃果は、私が絶対に連れ戻すから。今日は帰ろう、真姫ちゃんのお家に、私も連れて行って。真姫ちゃんのお母さんに、私がちゃんと話してみるから」
穂乃果を連れ戻して、ミューズを取り戻して、真姫ちゃんのお母さんに、ちゃんとした姿を、観てもらう。
その為にも、まずは真姫ちゃんの不安を、取り除いてあげないと。
真姫ちゃん、ちょっと驚いてる。
「そんな、にこちゃんにそこまでしてもらうのは……」
全く、ここで私の先輩モードを断ろうなんて、三年早いわよ、真姫ちゃん。
「そんな事気にしないの、部長だもの、部員が悩んでいるのになにもしない訳に行かないでしょ?大したことは出来ないかもしれないけど、こういう時ぐらい、真姫ちゃんだって自分以外を頼っても良いのよ?」
真姫ちゃん、頷きながら、また泣いちゃった。
私だったら、ママの言うことなんて気にせずに続けちゃうけど、真姫ちゃんは真面目な子だからなあ。
ママのこと、大好きなのね、だから本当は、ちゃんと期待に応えたいんだ、がっかりさせたくないのね。
まあ、とは言えそもそもうちのママはそういうこと絶対に言わないし、真姫ちゃんのママも、真姫ちゃんがやっていることが、いい加減なものじゃないことを、ちゃんと知りたいだけなんだと思う。
タイミング悪くて、真姫ちゃんが胸張って頑張ってるって、ちゃんとママに言えるような、状況じゃなかったってだけ。
真姫ちゃんが、泣き疲れて少しだけ寝ちゃって、私は膝を貸してあげてる。
何だかなあ、願ってたこと、今日だけで全部、叶っちゃう感じがする。
そこに、いつの間にか入り込んできて、静かに声をかけてくる、希。
相変わらず、絶妙なタイミングで来てくれるわね、貴女は。
「真姫ちゃん、寝とるんやね。ごめんなにこっちさっきは放置して、一応真姫ちゃんが絶対来るって自信があったから、お邪魔虫にならないように、置いてったんよ。決してにこっち見捨てた訳やないから」
ニヤニヤしつつも、瞳の奥の優しさは変わってなくて、さっきはろくに顔を見ないで追い出しちゃった事が、むしろ申し訳なかったな。
「希、ありがとう。希の言葉の通りだった、救ってくれたよ真姫ちゃん、私の事全力で」
希は、満足そうに笑った。
「にこっち、穂乃果ちゃんのことだけどな。あっちを救い出すのは、うちらだけじゃ、駄目かも知れない」
真剣な顔になって、私に告げる希、こう言う時の希は、ほぼ確信があって言ってるのを私は身を持って知っている。
「それなら、大丈夫でしょ。私達以外にもあの子には、あの最初のライブの時から、ずっと手助けしてくれている、頼りになる仲間達がいるじゃない」
これについては、私も確信を持って答えられる。
真姫ちゃんがいてくれるなら、私だって穂乃果が復活する手助けを、幾らでもしてあげたい。
ことりだけは、穂乃果と海未に、任せるしかないのは、ちょっと悔しいけどね。
なんたって、ファッション関係で私と一番話せるのは、実はことりだから、こう言う時に直接は何もしてあげられないのは、少し寂しい、本当は何時も、一番と言っても良いぐらい、頑張っている、ことりは。
間接的に、ことりの力にもなれるように、後はひたすら突き進むのみね。
「じゃあにこっち、うちはえりちの所に戻るな。真姫ちゃんのこととか、穂乃果ちゃんのこととか、頼むな。私にはもう、余り出来る事無いから」
私の言葉に満足したのか、希はそう言って部室から出て行った。
何言っているのよ、貴女がどれだけのことを私達にしてくれたか、私にはちゃんと解っているんだからね。
起きた真姫ちゃんの手を引いて、真姫ちゃんのお家に向かった。
真姫ちゃん、私の手を全然話してくれなくて、それが私には、凄く嬉しかった。
お家に着いた時には、空はもう、真っ暗だったけど、真姫ちゃんのお家の、とてつもない大きさは良く見えて、ただただ唖然とするしか無かった。
「真姫ちゃん、お家でか……」
そんな言葉しか、出て来なかった。
「こんな形で、にこちゃんを連れて来る日が来るなんて、思わなかった」
そう言う真姫ちゃんの手は、やっぱりちょっと不安に震えていて、それでも、もう二度と手放したくない、真姫ちゃんの暖かさを、ちゃんと私に伝えてくれていて、だから私は、そのお家の大きさに、臆することなく、お家の中に入ることが、出来たの。
玄関では、真姫ちゃんのママが迎えてくれて、真姫ちゃんに、とっても、そっくりだった。
「いらっしゃい。真姫、おかえり」
さっき真姫ちゃんが、お友達を連れて行くって電話していたから、準備万端な感じだった。
お友達って表現されるのは、何か新鮮で、何だか凄く嬉しかった。
先輩や、部長じゃなくて、お友達としての、私。
「ただいま」
真姫ちゃん、まだまだ、手を放してくれない、ママさんの前だと何か、凄く、恥ずかしいな。
でも、ここはちゃんとしないと駄目。
「アイドル研究部部長の、矢澤にこです。真姫ちゃんには、何時も頑張ってもらって、支えて貰ってます。よろしくお願いします」
真姫ちゃんの手を、少し強めに握り返して、先輩としての挨拶、ちゃんと出来たかな。
「部長の矢澤さんね、どうぞ、上がって」
真姫ちゃんも、もう少し経ったら、こんな感じの自然な色気を、私に披露してくれちゃうんだ、より一層、気を付けないと。
廊下を抜けて、広いリビングに通されると、まずテレビの大きさにびっくりさせられた。
駄目よ、ここで怯んじゃ駄目、真姫ちゃん、やっぱり本当に、完全にお嬢様なんだなあ。
おっきなソファーに、二人並んで座る。
手は、握ったまま、大丈夫真姫ちゃん、もう絶対離さないから、心配しないで。
ママさんが、どう見ても高級そうな紅茶を淹れてきてくれて、私達の正面に座った。
「それで、真姫、お話ってなあに?」
柔らかいけれども、決していい加減でない、相手の本質を見定めようとする、母親の眼を、真姫ちゃんと、そして私にも、向けている。
私は、握っている手に、また力を込める。
まずは、真姫ちゃんが、ちゃんと自分の意志を、示してくれないと駄目、頑張れ、真姫ちゃん。
意を決した真姫ちゃんが、小さくても、しっかりと言葉を紡ぎだす。
「あのね、私まだ、アイドル活動、辞めたくない」
頑張ったね、真姫ちゃん、ちゃんと言えたね。
ママさんは、驚いたりもなく、頷くように真姫ちゃんに視線を返している。
やっぱりそう、ママさんは、アイドル活動を、辞めさせたいと、思っている訳じゃ、無い。
なら、あとは、私の出番だ。
「お母さん、真姫ちゃんを、真姫を、私達に、私に、預けて下さい」
ママさんがびっくりした様子で、私と真姫ちゃんの顔を交互に見てる。
真姫ちゃんの、更に力がこもった、手からも、驚きが伝わってくる。
「私達には、私には、真姫が、必要なんです、大切なんです」
今はこれしか言えない、それでも、今私が真姫ちゃんの為に、訴えてあげないといけないのは、これなんだと思う。
ママがパパと、お電話で話している。
さっきのにこちゃんの言葉、その重み、にこちゃん自身解っているのかな、私、信じちゃうけど、良いのかな。
「真姫、今日はもう遅いから、矢澤さんに、泊まってもらいなさいな、矢澤さんご自宅にちゃんとご連絡してね。必要なら、私も出ますから」
受話器を抑えて、ママが言う。
パパは前から、真姫の好きなようにって、言ってくれてたから、何の障害にも、ならなかったみたい。
「解った、にこちゃん、私の部屋行こう」
大丈夫?って感じの顔を、向けてくるにこちゃん。
やっぱり、格好良いのに、にこちゃんは可愛いの。
この、胸が締め付けられるような気持ち、もう、止まらないかも。
「大丈夫、にこちゃんが全部、良い方に持って行ってくれちゃった」
私に照れ笑い、ちゃんと、正しくにこちゃんに伝わったかな。
二人の足音が、二階に上がっていくのを聞き届けて、パパと話を戻す。
「もうね、素敵な子なの、矢澤にこさん。真姫は、本当に、良い先輩に、仲間に会えたのね、きっと」
あら、やあねパパったら、ヤキモチ?
「そうね、真姫はもしかしたら、生涯に一人だけの、大切な人を見つけちゃったのかも、どうする私が今日されたみたいなこと、パパもされちゃったら」
私なんか、全力で二人の背中を押しちゃうわ、若いころを思い出しちゃう。
あら、やあねパパったら、厳格な父親の姿を、一度は示したいなんて、柄にも無いことを。
そんなことを言いつつ、こないだ夢の国で永遠を誓い合った、お二人のお話なんて出して。
「もう、いくらなんでも気が早いわよパパ。二人はまだ高校生よ、二人で過ごす、今の高校生活が二人にとって一番大事でしょうけれど、まだまだ二人の未来は長い長い時間があるんだから、私達も、気長に見守りましょう。私達の大事な娘が、自分で道を選んでいく姿を、見届けましょう」
真姫、パパもママも、今同じことを思っているわ。
矢澤さんに会えて、良かったわね。
「真姫ちゃん、ずっと思っていたけど、ベッドに屋根がついているとか、凄すぎる……」
最初に真姫ちゃんの部屋にお邪魔した時から、ずっと思っていた感想を今、この寝ようとするタイミングで告げる。
「そうかな、私には子供の頃からこれが普通だから」
真姫ちゃん、今日はずっと私にくっついてくれていたけど、お風呂は一緒に入ってくれなかった。
「二人っきりでお風呂とか、恥ずかしい、無理」
って言われちゃった、まあ良いか、今日の今日じゃなくても、暫くはお預けってことで。
手はずっと握り続けてくれていたくせに、まだまだ真姫ちゃんは恥ずかしがり屋だ。
さて、私は何処に寝ればいいのかな。
真姫ちゃんに借りた、真姫ちゃんのピンク色の可愛いパジャマは、ちょっとぶかぶか、やっぱり真姫ちゃんの方が、おっきい
真姫ちゃんの匂いはしないけど、真姫ちゃんがいつも着ている香りがする、何か嬉しい、幸せ。
そんな事考えつつ、キョロキョロと、辺りを見回していると、いつの間にかベッドに潜り込んでいた、真姫ちゃんが私を呼ぶ。
「何してるのにこちゃん、もう寝るわよ」
えっと、真姫ちゃん、自分の隣を示しているんだけど。
「えっと真姫ちゃん、一応聞いておくと、私は何処に寝ればいいのかな?」
真姫ちゃん、平然とした顔で言う。
「ここに決まってるでしょ、早く入って、布団開けっ放しじゃ寒いでしょ」
うええ、本当に真姫ちゃん、先に乗り越えさせると強気に出るんだから、こっちにも心の準備が。
「……それとも、一緒に寝るの、嫌だった?」
ああもう、このタイミングでそんなシュンとした顔を見せるなんて卑怯なのよ、ずるいのよ真姫ちゃんは何時も!
私は、意を決して、真姫ちゃんの隣に入り込む。
真姫ちゃんを、がっかりさせたままになんて、私が出来る訳無いじゃない。
「お邪魔します」
入り込むと、真姫ちゃんは躊躇することなく、手を握ってくる。
「もっとちっちゃな頃はね、怖かったりとかで一人で眠れない時は、このベッドでママと一緒に寝たの。ママも結構、こう言うベッドとか大好きなの」
良かった、真姫ちゃんのママさん、うちのママとおんなじだ、真姫ちゃんの事、やっぱり大好きなんだ。
「寝ようか、真姫ちゃん。今日は色んな事ありすぎて、疲れちゃった。また明日、お話しよう、色んな事、もっと今まで以上に、色々話そう、二人で」
真姫ちゃんが私の胸元に、ひっついて来てくれる。
こう言う時には、もう抵抗なく真姫ちゃん、私に触れてきてくれるんだ。
「うん、お休み、にこちゃん」
嬉しいな、本当に、こんな日が来たんだ。
ガラスの割れる音、今はもう聞こえなくて、にこちゃんの力強さを示す音と、にこちゃんの匂いが、私を包んでくれる。
またいつか、割れる音が聞こえたとしても、私はもう逃げずに、にこちゃんを、受け止めたいと思う。
次回
三人
説明 | ||
二人には、辛いことも、苦しいことも、嬉しい事も、楽しいことも、幸せなことも、 世界が内包する全てがあっていい。 全開で出しきりました。 ここがひとつの終わりで、 後の二つはエピローグ的な感じです。 |
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