海底の追憶〜日向〜
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1945年春、北郷作戦から帰ってきた私達は予備役となった。

擬装のみならず船体にもあちこちガタが来ていたのは自分でも分かっていたから、受け入れることに抵抗はなかった。

 

予備艦船の私達は呉軍港周辺にそれぞれ係留された。

その場に根を下ろし、空から来る敵機を迎撃する浮き砲台となったのだ。

超弩級戦艦、海戦の有り様を変える新時代の軍艦航空戦艦、などともてはやされたのも今は昔、私達は((艦|ふね))としての任務すら与えてもらえなかった。

それほどまでに我が国の資源は枯渇していたのだ。

島の向こうに係留された北上は「((回天|アレ))の母艦になるよりはずっと良いよ」と寂しげに笑っていたな。

回天を積載するために平らになった北上の後部甲板は対空機銃を据え付けるのにさぞかし役立ったろう、と我が身のかつて航空甲板と呼ばれた場所に目をやり、思った。

 

同年3月。

その頃にはもう我が国の重要拠点にも米軍の爆撃機が本土を蹂躙し悉く焦土へと変えていった。

ここ呉もまた例外では無かった。

3月19日、爆撃機の大軍が飛来し爆弾と焼夷弾を雨あられとばらまいては去って行く。

私と伊勢は音戸の瀬戸を挟むように配置された。私が情島側で伊勢が呉側だ。倉橋島が邪魔して伊勢の顔は見えない。あっちには青葉もいるし寂しい思いはしていないだろう。

この時の空襲で私は深手を負い、第四予備艦へ分類されることになった。

第四予備艦とは即ち「廃棄待ち」。事実上鉄くずの烙印を押されたに等しい。

それでも私は仲間達と一緒に空を睨み続けた。この船体が海の上にある限り。

 

同年7月24日。

早朝から敵軍爆撃機襲来。南東ルートから侵入してくる敵機を私は一番の矢面に立ち迎え撃った

何発もの直撃弾を受けた。身体中が燃えるように痛い。…いや、どうだろうな。もう痛いのか熱いのかすら分からなくなっていたんだと思う。

そんな中、ひんやりとする点がいくつかあるのに気づいた。どうやら浸水が始まっているらしい。

 

7月25日。

今日はやけに静かだ。嵐の前の静けさ、とはこういうのを言うのだろうか。縁起でも無いと言われそうだったので、伊勢には黙っていた。

そういえば伊勢の声を長いこと聞いていないな。青葉と仲良くやれているだろうか。

日が暮れてから意識が度々途切れるようになる。そろそろ覚悟を決めておいた方が良さそうだ。

意識のあるうちにダメコン妖精の作業を中断させた。お前達は戦う力のある((艦|ふね))を助けてやってくれ、そう言って艦載艇に乗せ岸の方へ送り出した。

実際声が届いていたかどうかは分からない。声を出せていた自信もない。

これで完全にひとりぼっちだ。

 

すごく静かだ。

 

私は純国産超弩級戦艦の決定版として期待され、この世に生を受けた。

前型の扶桑型が抱えていた問題点は結局最後まで完全解決には至らなかった。

それでも長門型、大和型という世界に誇る名戦艦を生み出す礎となったのだから悔いは無い。いや、悔いはあるか。自慢の航空甲板を物置としてしか使ってなかったしな。

これでやっと先にいった最上に会えるのか。レイテで火だるまになったまま、那智に衝突したとか。詳しく話を聞いてみよう、きっと時間ならたくさんある。

まったくあいつときたら最後の最後まで他人に迷惑をかけて…。

 

私はこの国が好きだ。この国の海と、風と、((陸|おか))には山があって川が流れて、人の営みをこうして海から眺められる、この国が好きだ。

もし、後の世に生まれ変わることが出来たならまたこの国を、この海を護りたい。

そんな日が来るとすれば…そのとき隣にお前がいてくれればこれほど嬉しいことはないが…少し贅沢な願いか。…なあ、伊勢。

 

私だけ先にいって本当にすまない。文句ならお前がこっちに来たときに聞かせてもらおう。

 

さようなら。

 

 

1945年7月26日 航空戦艦伊勢型二番艦「日向」大破着底を確認。

説明
日向のモノローグです。
1945年7月呉軍港空襲は24日と28日の二度、行われました。
殆どの艦が28日の空襲を戦い抜きましたが艦これ実装艦の中では唯一、日向だけは24日の空襲が原因で沈んでしまいます。

7月24日大破、26日着底。そんな彼女を忍んで、公開致します。
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艦隊これくしょん 日向 

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