遠望
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 出港中の艦を除いて、鎮守府内で最も勤務が深更に至るのは大淀である。

 締めの仕事の刻限が午前五時であるから、既に夜更けというにもしらじらしく、あたりも日の出を間近に控えて明るくなりつつある。

 大淀は軽巡洋艦としての籍を有する、歴とした艦娘の一員である。やや細身ではあるとはいえ、スラリと高い長身できびきびと動き回る様は、他の娘達にひけをとるわけではない。けれども、現在は艤装を外し、その職務は主に裏方に徹している。

 とはいえ、その職務が安穏としているわけでは決してない。

 現在の戦況を知らせる膨大な数字との格闘、海軍本部をはじめとして各種官庁との折衝、隊員ひとりひとりの任務のサポートに、提督秘書官の補助など、こなさなければならない仕事は多岐に渡り果てがない。

 特にそのうち最も責任重大なものは、毎日鎮守府庁舎内に張り出される官報の作成である。

 前日のうちに報告された各艦隊の任務遂行状況、鎮守府内の各施設稼働詳細、軍令部よりの通達などなど、数え切れない書面や覚書を整理して、決められた紙面にまとめて和文タイプで活字化される。新聞紙面の倍もありそうな巨大な用紙が、隅から隅まで文字で埋め尽くされている。

 この官報の掲示が午前五時で、そこには各艦隊への指示も含まれており、各自一度は庁舎にやってきて目を通す規則になっている。百人を超える戦闘要員の当面の指針がここには詰まっている。

 大淀は脚立にまたがり、年季の入った掲示板へ手ずから画鋲を押し込んでいく。

「お手伝いしましょうか?」

 申し出てくれたのは宵月だった。秋月型駆逐艦十番艦の彼女もまた、現在艤装を解いており、大淀の手伝いをしてくれている。小回りがきき、細かなこともよく気がつく少女で、大淀も信頼を寄せている。

「ありがとう。でも、大丈夫ですよ。このくらいなんでもありませんから」

 けれどもこの件に関しては一度たりとも手を借りたことはなかった。

 手足の長い大淀がやった方が効率的だというのもあったが、それ以上にこの仕事に並々ならぬ矜持を抱いていた。彼女からすれば、掲示まで含めて官報の作成であり、これを他人の手に委ねてしまっては、画竜点睛を欠いたような気になるのだった。

 

 いつも通りの手順で、いつも通りの場所に、いつも通りの時間、本日、八月六日の官報の掲示が終わった。

 いつもの通り、大淀はその日初めて官報を読みにくる人物を待ち構えた。それが彼女にとって一日の締めの仕事であり、これから新たな一日を迎える同僚へのせめてものはなむけだった。

 この待つ時間が、大淀にとって最も胸高鳴り、そして不思議と最も落ち着く時間帯だった。

 いったい今日はだれが一番はじめにやってくるだろうか、それを考えているだけでも楽しい。候補となる人物は何人かいる。それを浮かべては消しをくり返しつつ、待ち構えていた。

 やがて庁舎の廊下を曲がって現れたのは、まったく予想外の人物だった。

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「あ、大淀、おはよう」

 顔を見せたのは、伊勢型戦艦一番艦伊勢だった。

 艤装をつけない、黒い肌着の明け透けな水干に似た服をつけ、赤い鼻緒が目を引くつっかけ姿は涼やかだったが、かろうじてふくらはぎに巻かれたゲートルが厳めしさを保っている。

「おはようございます。早いですね」

 ついそんな本音がもれる。それくらい意外だった。伊勢は要領のよく立ち回るタイプで、逆にいえば、早起きをして慎重になにかに備えたりはしない。

「あら、お言葉だこと。まるで私がいつもは早くないみたいじゃない」

「実際、早くないだろう。この一カ月で、総員起こし前に目を覚ましたことが何度あった」

 伊勢の背後から、もう一人が相似た格好をした人物が顔を出した。

「おはようございます、日向さん」

「おはよう」

 伊勢型戦艦二番艦日向は親しいものだけに見せる、薄い笑みをたたえて挨拶を返してきた。もっとも、この笑みは、親しいものくらいしかわからないのだが。

 名前の由来となっている日向灘に大淀川は流れこんでいる縁から、年若い隊員からは厳格で恐れられる日向が大淀にはずいぶんと気を許しているところがあった。

「もー、二人して、だったら、どういう人だったら意外じゃないってわけ?」

 頬を膨らまして伊勢が抗議の声をあげる。

「そうですね、加賀さんでしたら、よく朝練前に立ち寄られますね」

 質実剛健を地でいく正規空母が、まず大淀の頭には浮かんだ。

「ブー。加賀は今、出撃中でーす。龍鳳が強いて実地訓練を願い出てね、北上たちといっしょに遠洋よ」

 もちろん大淀もそれは把握している。ただ、例として挙げただけだったが、伊勢はいかにもしてやったりの得意顔をしている。

「それに鳳翔さんも早めにいらっしゃることが多いですね」

 唇を突き出した伊勢の顔がなかなか小憎たらしいものだったので、大淀も敢えてその挑発に乗ることにした。

「それもダーメ。鳳翔は昨日から出雲姉さんと磐手姉さんといっしょに旅行に行ってまーす」

 出雲型装甲巡洋艦の一番艦と二番艦にあたる出雲と磐手の姉妹もまた裏方の一員で、現鎮守府で最古参の経験と知識を買われて、着任して日の浅い娘達の指導をまかされている。

「でしたら榛名さんと霧島さんが、よく相次いでいらっしゃいますね」

「榛名をお呼びですか?」

 突然、大淀達の脇から声をかけてきたのは、金剛型戦艦三番艦榛名だった。

「あ、あんた、いつからいたの」

 巫女装束を模したと思しき、朱の縫い紐を通した千早の内には白衣を着ているが、ともに鋭い切れ込みが入っており、肩や脇が露出している。おまけに下はフリルつきの緋のスカートときているから、およそ地味からはかなり遠い位置にいる。

 にもかかわらず、まったくなんの気配もたてることなく、掲示板前でしゃべっていた三人の背後に忍び寄っていた。突然の闖入にすっかり度肝を抜かれて、伊勢の言葉尻も上ずってしまっている。しかし、驚いたのは残りの二人も大同小異だ。日向は普段一重の瞼をぱっちりと見開いているし、大淀も鉄壁といわれた眼鏡が若干ずり落ちている。

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「官報を読みに参りましたら、私の名前が出ておりましたから、おうかがいしたのですが、御都合悪かったですか?」

 むしろきょとんと場の成り行きについていけていないのは榛名の方で、伊勢達三人の反応に戸惑いを隠せない。

「いえ、ただ、普段この官報を御覧になられる順番で、榛名さんがとても早くからいらっしゃるというお話をしていたのです。でも、今日は霧島さんはご一緒ではないのですね」

 こうした際に我に返る早さでは、大淀に分があった。直前の驚きなどおくびにも出さず、微笑みを浮かべてそう切り出した。

「なんだか今日は早いうちから眼が冴えてしまいまして、あの子には内緒で先に来たんですよ。先回りなんて子供みたいですね。お恥ずかしいです」

 両手を頬にあてて照れた表情を浮かべている。指の合間から見える肌はほんのり桜に染まっている。他の、特に戦艦を担当する娘が同じような所作をとれば、いかにもとってつけた観は免れないだろうが、榛名の行動だとするとあまり違和感はなかった。

「でも、結局、今日は私達の方が早かったでしょ」

 伊勢はまだ譲る気配もなく、胸を張って見せる。

「よしなさい、みっともない」

 いいかげん日向があきれ顔でいさめた。

「いくらがんばってみても、伊勢の名前が早起きで出てくることがないから」

「えー、そんなの聞いてみなくちゃわからないじゃない」

「わかる。だからこそ、大淀も驚いていたんでしょう」

 放っておけばいつまでも続きそうな二人の漫才のような会話に、そろそろ区切りをつけさせようかと大淀が考えはじめた時、突然耳をつんざく強烈なベルの音が鎮守府内に響き渡った。

 

 鎮守府に寄り添うように併設された工廠では、艦娘の使用する艤装ばかりでなく、艦載機や弾薬も含めた生産、整備、試作、実験が行われている。

 ひとくくりに工場といっても、造船部、潜水艦部、飛行機部から水雷部、製鋼部に、果ては工作機械部などまで多岐に渡り、それらが八月の炎天下に軒を揃えている。

 とはいえ、嘗てと比較すれば、その規模は遥かに小さい。

 なにしろ小型の駆逐艦や海防艦であっても全長は百メートルをくだらない軍艦と、少女の身体につける艤装の差があるのだから比べ物にならない。

 それでもガソリンや火薬など、爆発的に引火する可能性のあるものを取り扱うため、安全面を考慮して、出来上がりのサイズを思えばずっと大きな空間が割り当てられている。おまけに百人以上の艤装を扱っているのだから、結果的にはそれなりの面積を有していることにはなる。

 だから、緊急を知らせるベルの音を耳にしても、鎮守府庁舎からは距離のある工廠に大淀達が駆けつけるまでに、既に上がった火の手はかなり大きなものとなっていた。

 火事を起こしたのは造船部の一画、とはいっても、昨今の増産に合わせて近日中の稼働の目指されていた建設中の現場で、他の工場からはやや離れているのが不幸中の幸いではあった。

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 夜が明けて間もなくの火事は、炎の勢いも朝日にかげりさえして、どこか余所事の観を呈していた。

「あ、大淀さん、お早いおつきですね」

 いいながら敬礼をして見せたのは、こげ茶の髪のポニーテールが特徴的な青葉型重巡洋艦一番艦青葉だった。

「状況を教えていただけますか」

 返礼することなく、荒い息をつきながらたずねた。

 モデル体型の長い脚を懸命に前後させ、小高い山の中腹に建てられた鎮守府庁舎から目視できた煙だけを頼りに、港に隣接された工廠まで駆けてきた。がむしゃらな疾駆は、伊勢や日向を後方に置き去りにし、榛名でさえ追いすがるのが精一杯という有様だった。

「え、ええと、その、ですね……」

 熱い息を吐きながら、髪から汗が垂れるのもかまわずにたずねてくる大淀に、青葉はすっかり圧倒されていた。表情には鬼気さえ迫っている。それなりに長いつきあいになるが、このような大淀を目にするのは初めてだった。

「早く!」

 語気の鋭い催促に、ほとんど反射的に青葉はこたえていた。

「出火地点は建物内やや南東よりの地点の模様。およそ十分前にその方向の壁から薄い煙がたっていたのが確認されています。原因は現状不明ですが、避難者からは工作機械が爆発したという証言もあります」

「避難者。そう、避難状況はどうなっているの? 取り残された人はいないんですか?」

「人といっても妖精さんですが」

 彼女らがいつからいるのか、どこから来たのかだれも知らない。

 かつて人間がそれぞれの思惑で確保に躍起になっていた制海権の大きな部分を、深海棲艦と呼ばれる怪物に占拠されて久しい。以来現在まで、海洋上の戦線は贔屓目で膠着、客観的には専制を許す形が続いている。

 そうした海での人間の優位を取り戻すために各地で編成された軍隊には、いつの頃からか子供の背丈よりもまだ小柄な少女然とした妖精が駆けまわり、陰に陽に数多くの仕事を手助けするようになっていった。

 もちろん厳粛なる規範の支配する軍隊の、それも喉元ともいえる鎮守府内で、部外者の放逸が認められるわけはなかったのだが、いくら追い払い、時にそれ以上の罰を与えてみてもまるで甲斐なくすぐにまた姿を見せる。行動が撹乱を意図したものではないらしく、一応現場の責任者の命令指示には従うなどといった事実を踏まえて、最終的には上層部も黙認する形となった。別の言い方をすれば、お手上げになったのだ。

 妖精という呼び名は、横須賀のある提督がいいだしたのがはじめだともいわれているが、実際には各地で同時発生的に起こったものだった。こなれているとはいいがたい名前が選ばれたのは、頭でっかちの幼子を想像させる容姿が妖怪と呼ぶのを憚らせたからかもしれない。

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 この頃の軍は妖精の労働に負っている部分がかなり大きかった。少女の身を覆う艤装の製作点検には、従来熟練工の綿密な業が不可欠だったが、もともと体の小さな妖精ならば直接艤装内に潜り込んでの作業が可能で、大幅な工程の短縮が可能となった。

 さらにかつては無線で誘導させていた艦載機には、特に小さな妖精が実際に乗り込むことで、陣形の大規模化と複雑化を同時に達成することができた。

 そうした重宝に一役買っているのは、妖精の不死性だった。例えば艦載機が墜落したり撃破されたりしても、妖精はいつの間にか基地に戻り、怪我をさえしていないようにうかがえる。個体差があるから似た妖精というわけでもないらしい。本当に不死なのかはいまだにわかってはいないが、その特異な性質にすがって多少の強硬なスケジュールは通されている。

「って、大淀さん!」

 話の終わるのも待たず、行方不明者がいると聞くなり大淀は駆けだそうとしていた。咄嗟に青葉に手をつかまれなければ、吹きつける火炎の内に身をあずけていたかもしれない。

「ちょ、ちょっと、無茶ですよ! そんな体で!」

 鎮守府内での簡易とはいえ、艤装をつけた青葉と、丸腰の大淀の力はほとんど拮抗していた。

 じりじりと顔に熱波が迫ってくる。燃料や火薬に引火しては、と青葉は気が気ではなく、いまや黒煙を立ち上らせはじめた工場建設予定地から少しでも引き離そうと懸命に努めたが、逆に振り払おうとする大淀を制止しておくのが精一杯だった。

 大淀は分類こそ軽巡洋艦だが、排水量九九八〇トン、全長一九二メートルの船体は同艦種で最大のものであり、重巡洋艦である古鷹型や青葉型をも上回っている。それは人となった今でも身体能力の差として現れていた。

「放してください! 放して! 放さんか!」

 押し問答を続けるうちに、大淀の言葉からはどんどん取り繕ったところが薄れていき、やがて地が飛び出してきた。

 周囲の状況を確認しながらの青葉と、しゃにむに振り払おうとする大淀では、分が明らかだった。

 やがて、不意にそれまでを遥かに超える力で、大淀の腕が引き剥がされた。とうとう、文字通り火事場の馬鹿力を奮ったのだと思った。ところが、実際に起こったのは跳躍ではなく倒地であり、大淀は頬を地に押しつけられる姿勢で引き倒されていた。

「何をうろたえているんだ」

 もみ合う二人を引きはがして、地面に打ち据えたのは、遅れて到着した日向だった。

「それはうろたえます。人が傷つこうとしているんですよ!」

 押さえつけられた体勢でも、些かもひるむ様子もなく、なんとか言葉だけは元にもどったが、それでも金切り声で叫んだ。

「だからといって、お前が飛び込んでどうにかなるのか」

 対して日向の声はどこまで冷静で、感情での切り込みをまったく受け付けようとしない。

「だ、だったら、見捨てろというのですか? 妖精だから、いくらでも補充がきくから!」

 燃える工場の周りには、今や妖精達が詰めかけてきていた。どの顔も心配や不安をたたえている。大淀のかたわらには負傷したものが横たえられ、痛みと苦しみに顔をしかめさせていた。

「彼女達も生きているんです。悲しいことも辛いこともあります。傷を負えば痛みも感じますし、生きながらに身を焼かれれば熱さに悲鳴をあげるんです。そんな人を前にして、見て見ぬふりをすることはできません! 自分には手も足も出せないから見殺しにするしかないなんて、そんなことをもうまっぴらなんです! あの日のように……」

 そう途中までいいかけたところで、なにか重量のある衝撃が大淀を襲った。

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「少しは頭が冷めたか」

 見下ろす形で、日向が冷たくいい放った。

 突然の一撃に、大淀は完全に身を這いつくばらせてしまっていた。

 痛みはない。そのかわりに、頭の先から足までぐっしょりと濡れそぼってしまっている。

 なにがなんだかわからずに呆然とする大淀のつま先に、小さなプロペラ式の模型のような飛行機が一機着陸した。

 艦載機だった。けれども、見たこともないような、胴体がやけに大きく膨らんだ機体だった。

「散水を目的に作られた試作機なんだ。艦上火災なんかに使えないかって飛行機実験部で作られていたの」

「遅かったな」

「ちょ、重い目をして、妹の分まで運んできてあげたお姉様に対するねぎらいが、まずそれ?」

 伊勢だった。姿を見せなかった彼女は、回り道をして新型の艦載機を借り受けてきたのだという。

「大部分運んだのは榛名だろう」

 見れば、すぐ後ろには榛名も控えていた。

「しょうがないでしょ、私は足が遅いんだから。その上過積載になったら、間に合わなくなるじゃない。ただでさえ一刻を争うっていうのに」

「そ、それに、伊勢さんのおかげで、工廠の方と話がすぐについたんです。私だけではこうはいきませんでしたから」

 間に入って榛名もフォローにまわる。

「何をぼんやりしている」

 日向は片腕に甲板型のカタパルトをとりつけつつ、まだ尻もちをついたままの大淀に声をかけた。

「なんだったらもう一杯お見舞いしようか?」

 格納庫に水をパンパンに満たした散水用艦載機をセットして、大淀に向けてみせる。

「も、もう結構です!」

 慌てて立ち上がると、それを見越していたように、日向は続けた。

「ずいぶんと時間を食った。早速、消火活動をはじめよう。頼んだぞ、大淀」

「え?」

 瞬間的にはその言葉の意味が飲み込めない。

「なにを間の抜けた声を出しているんだ。私達は艤装を駆使して消火活動を行う。それをお前が指揮する。適材適所、人にはその実力を最も発揮する場所がある」

 大淀はもともと艦隊戦のために建造された船ではない。機動性を生かした前衛強硬偵察機母艦であり、すぐれた通信性を有する点を評価され、後に最後の連合艦隊旗艦に抜擢された支援艦だ。

 日向の言がそれを指しているのは明らかだった。

 それに思い至るや、大淀は即座に跳ね起き、濡れ髪を一度後ろに払いのけると、毅然とした態度で、

「了解いたしました。只今より、大淀は当座の指揮を担当いたします。同時に、伊勢日向榛名青葉の四艦は、私の指揮下に属することを命じます」

 そこにいるのは、周章狼狽して火に飛び込もうとする事務方の娘ではなく、堂々とした旗艦大淀だった。

「はい!」

 一糸乱れぬ号令が、居並ぶ四人の娘の口から発せられた。

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 二十機ほどの機体が空を舞い、しきりに散水をくり返す。一機の水量は決して多いものではないが、なにしろ数がある。伊勢と日向がそれぞれ半数ずつを担当し、水を撒くタイミングをずらして給水を分けることで、止まることのない連続散水が可能となった。

 なにしろすぐ脇には海があるのだから水には困らない。

 妖精もポンプとホースを持ち出して、陸上から援助の手を絶やさない。

 その上空を二機だけ、毛色の違う機体が飛び交っていた。散水機とは異なり、水を撒くわけでもなく、その代わりずっと長い期間を工場の上で旋回し続けていた。やがてそれが近くの湾内に着水すると、中から姿を現した妖精は器用に桟橋を跳び、工場脇を駆け抜けて青葉の傍らにまでたどりついた。その手には何枚もの紙の束が抱えられている。

 それを受け取った青葉は、すぐさま大淀へと報告に走る。

「工場上空の航空写真到着いたしました」

「ありがとう。上空での偵察を続けてください」

「はい」

 飛んでいたのは、青葉の操る零式水上観測機だった。必ずしも艦載機の運用が得意なわけではないが、状況把握のための観測には一日の長がある。

 大淀はその青葉から入手した、現像したての写真を一度に見比べる。敷地内の各施設の位置関係や外観、だいたいの内部構造は頭に入っている。数多くの資料を同時に眺めるのも慣れたものだ。普段の事務方の作業の賜物だ。

 するとごく自然に、いくつかの計画が頭に浮かんできた。

「妖精の放水部隊は二本を除いて東側の窓に注水を集中させてください」

 それは一際黒煙が盛んにあふれ出している採光用の窓だった。けれども、火の手はほとんど見えていなかった。それでも妖精達はいわれるままに、ホースの先を向ける。水圧で窓はガラスどころか、枠まで吹き飛ばされ、煙も水の勢いに圧倒されていく。

「榛名、建物西側、駐車区域のすぐ脇のあたりの壁は若干薄くなっているはずです。そこを破壊してください」

 さすがに火災発生直後に停車されていた作業車の数々は移動されている。停車ラインを見当に、榛名は命じられた場所にまわりこむと、袖で熱と煙から目を守りつつ、慎重に艤装の砲門を壁に押し当てた。

 もちろん鎮守府内で弾丸は装填されていない。それでも、空砲であっても火薬に点火し爆発させるのは変わらない。

「てぇっ!」

 常に似ぬ腰の入った号令のもと、腰につけられた主砲が轟音を響かせた。海面にいる時ならともかく、地上では発砲の衝撃を逃がす場所がないため、自ら身を任せて、榛名は後方に大きく跳躍した。

 陸上の幅跳びを逆再生で見るように、無理のない姿勢で着地すると、すぐに標的に目をやる。

 そこには人が通れるほどの穴がぽっかりと黒く口を開けていた。

 途端、背後の小高い丘に建てられた鎮守府庁舎から吹き下ろすように、猛烈な突風があおってきた。たまらず榛名も髪を抑えたが、風は一向にやむ気配もなく、唸りすらあげてできたばかりの開口部に吸い込まれていく。

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「放水班! 来ます! ぼやぼやしんさんな!」

 榛名の報告を受けて、大淀が鋭く注意を喚起したのと時を同じくして、それまで黒い煙をたてていただけの東側の窓から火柱が吠え立てながら首を振り上げてきた。

 空気の流入の乏しい密閉された工場内では、不完全燃焼が起こって煤を撒きあげていただけだったが、そこに風が吹き込まれたことで一気に爆発的な燃焼が起こったのだった。それでも、あらかじめ大淀より指示のあったおかげで、妖精のホースが乱れることはなかった。

「伊勢日向、榛名の空けた穴に散水機の残りを突入させてください。ただし慎重に」

 伊勢と日向は待機させていた残り半分の散水試作機を発進させる。妖精の操る小さな機体だからこそできる業であり、直接建物内部を鎮火していく。

 すると、艦載機のライトと外の明かりに導かれて、煙にまかれながらも何人かの妖精が咳き込みつつ、体をよろよろとさせながら姿を現した。

「大丈夫?」

 それを榛名が受け止めて、煤にまみれた体を自身の服で拭ってやる。

 小動物のような見た目に反して、妖精は案外タフで、しばらく苦しい息を吐いていた後は、もういつも通りの動きを取り戻して、消火活動を手伝っている。

「現場責任者はどこじゃ? おったら、早う現状報告をせえ!」

 大淀の吐き出す気炎に押されて、先頭切ってホースを手にして消火活動を行っていた妖精が、飛ぶようにしてあたりを駆け回ったうえで避難者の人数を報告した。

「そいで、逃げ遅れとうのは、後何人なんや。三人? 残り三人じゃ!」

 大淀が叫んだのと同時に、榛名の開けた穴からもう一人がほうほうの態で脱出してきた。

「一人確保いたしました」

 それから火と煙に追われて、足場をたどって屋根の上に出てきた一人を、観測機を使っていた青葉が発見し、誘導したうえで思い切って飛び降りてきた妖精を見事受け止めた。

「こちらも一人確保です」

 しかし残る最後の一人の捜索が難航した。助け出された妖精達の証言で、まだ発見されていない一人の特定はされたものの、作業中建物の最奥にいたらしいという話もあり、刻一刻と消火活動にかける時間が増えるにつれて、重苦しい雰囲気が場を覆いはじめた。

 ところが、その直後、工場内の散水を終えて給水に戻ってきた艦載機が煙の中から姿を現すと、状況が一転した。

 帰ってきたのは伊勢の発進させた艦載機だったが、その着陸用の車輪を渡すシャフト部分に、ぐったりと動かないもう一人を背負った妖精がぶら下がっているのだった。

 喜びもつかの間、あわてて日向がその進路の下に急いだ。このまま着陸はできないし、かといって自分と同じくらいの体重を二つの手だけで支えているのにも限界があるはずだった。案の定、外に出たことで緊張の糸が緩んだのか、すぐにぶら下がっていた妖精は握りきれなくなった手を放してしまった。

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 幸い胸を使って受け止めたので、妖精達はどこにもけがを負わなかった。

 動かない方の妖精は、それでも呼吸はしっかりとしており、どうやら気を失っているだけらしいと知れた。ひとまずはほっと胸を撫で下ろした。

「おや、君は……」

 そうしてよくよく観察してみると、日向の手の内におさまっている妖精は、彼女の艦載機で飛び立った一人のはずだった。その妖精は黙って親指を立てて、やり遂げた顔をさせていた。

 後になって説明を聞いたところでは、日向所属の艦載機搭乗の妖精が工場奥で散水を行っていたところ、煙の合間に倒れている妖精を発見したのだという。

 報告に戻るにしても煙が濃すぎて場所の特定が難しい。そこで彼女は思い切った行動をとった。まだ設備のあまり運び込まれていないのを頼りに、せまい工場内で強行着陸を敢行したのだった。なんとか怪我なく飛行機を停止させることはできたが、重なった瓦礫のせいで車輪が壊れてしまい、離陸は不可能という状況に陥ってしまった。

 それでも倒れて気を失っている仲間を助け起こし、肩に腕を回させて、腰から縛りつけると、背負った形をとって一路出口を目指すことにした。その一部始終を観察していたのが伊勢の艦載機に搭乗した妖精だった。彼女は残った少ない水を、仲間を背負って急ぐ妖精の周囲と本人に浴びせかけて、焼死の可能性を減らすと、軽くなった機体にしがみつくよう促したのだという。

「そんな無茶を」

 報告を受けていた日向は、表情に乏しい彼女には珍しく、驚いたり呆れたりと顔色を変化させていたが、総じて嬉しげに穏やかだった。

 被災者の救助も終わり、火の勢いも衰えを見せ、鎮火も最早時間の問題となった。

 いつまでも兵力を独占するわけにもいかず、後からやって来た本職の消火班に託して、大淀達は引き上げることになった。

「みなさん、お疲れ様でした」

 少し離れた別の工場の裏手で臨時急造の小隊の解散を告げる。形式的なものだが、それを重んじるのが軍隊でもある。

 榛名と青葉はそれぞれ演習と出撃を控えているということで足早に立ち去っていった。

 伊勢と日向はしばらく残って報告のための要件を伝えた。空砲の使用回数や艦載機ののべ出撃数に損耗など、特に散水用の試作機は実地での試用という名目で借り出してきているからかなり細かなものとなる。だが、そこは二人とも慣れたもので、手早くかいつまんで要点だけをしゃべってくれた。ものの五分も経たないうちに申し渡しは終了し、庁舎に戻る大淀と伊勢日向は分かれる形となった。その去り際、

「大淀、ありがとね」

 伊勢が感謝を述べてきた。

「お礼をいうのはこちらの方ですよ」

「いや、私達の方であっているんだ」

 日向も後押しし、大淀がそれ以上口を開く間もなく、二人とも背を向けて去っていった。

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「おお、大淀。怪我などなくて重畳であったな」

「それほど大袈裟なものではありませんよ」

 後処理を引き継ぎの雲龍型航空母艦三番艦の葛城に託したのはまだ朝といえる時間帯だった。そうして一息ついていたところに声をかけてきたのは、利根型重巡洋艦一番艦利根だった。

「聞いたぞ、なかなかの活躍だったそうではないか。吾輩も加勢に向かおうと急いだんだがの、工廠へ向かう道が避難者と野次馬でごった返しておってな、しかたないから交通整理をやっておったわ」

「それはありがとうございました。おかげで、関係ない人に煩わされずにすみました」

「あ、お主、吾輩の身長では人波に飲まれたに違いないと勘繰っておるのではないか。お生憎様だ。吾輩はちゃんと台に乗っておったのだからな」

 利根は重巡洋艦グループの内では最も背が低く、本人もそれは自覚しているから、機先を制してきたつもりらしい。やぶへびに近いものではあったが。

 大淀は笑みを浮かべていたものの、全身を覆う疲労と倦怠は隠しようもなく、建物の影にしゃがみこんだまま、腰を上げることすらできなかった。

「だ、大丈夫か? そうだ、救護班がまだ近くにおった。待っているがいいぞ、すぐに吾輩が……」

「やめて!」

 咄嗟に出た声は、大淀自身も驚くほどに大きく、利根も思わず出しかけた足を引っ込めるほどだった。

「……ごめんなさい。でも、大したことありませんから」

「とても、大したことないという顔ではないぞ」

 表をあげた大淀は顔面蒼白で、眼鏡の奥は隈でどす黒く染まっている。普段は整えられた髪も、乱れて目の前に垂れて顔を覆い、凄絶な雰囲気を助長している。

 真向かいから瞬きもせずに、大きな眼で一心に大淀の瞳をのぞき込んでくる利根のその時の表情は、平素のあどけないものからは打って変わって、冷徹ささえもたたえた凛としたものであった。

 他のだれかを欺けたとしても、彼女にだけはかなわない。そもそも隠し事をしたくないというのが、大淀の本音でもあった。前の大戦末期、江田島の湾内で転覆し、無念のまま最期の時を待つほかなかった大淀の、わずか三キロほど先で大破着底していた利根は、死に場所を共にしたかけがえのない友であり、その友をたばかるような真似をとれるはずがなかった。

 大淀は再びうつむいて目線をそらすと、かわりに自らの右腕を差し出した。

 海軍の象徴でもある白い水兵服を思わせるワイシャツよりもなお白いその腕は、一目見てそれと知れるほどに、はっきりと震えていた。

「みっともないでしょう。でも止まらないんです」

 自嘲の笑いをもらそうとするが、うまくいかず、苦しげなうめきのような荒い声が出るばかりだった。

「火を見るとこうなってしまうんです。頭の中ではわかっているんですよ。目の前の火は、あの日の、とうとう一度も見ることができなかった火じゃない。当たり前のことなのに、でも体はそれでは納得してくれないんです」

 それでも消火活動中はどうにかこらえることができた。しかし、緊張の糸が切れたと同時に、反動を含めて襲い掛かり、とうとう立ってすらいられなくなってしまった。

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「けど、それでは大変であろう。後方とはいえ、鎮守府の仕事に火はつきもの、いや、日々の暮らしこそ火とは切っても切り離せないではないか」

「いつもはここまでひどくないんです。多分、今日が、あの日ですから……」

 八月六日、今日から幾星霜を隔てた同日、呉鎮守府とは目と鼻の先の江田島湾内にて大破した船体を右に横たえ、転覆した状態で一機のB29が北西へと飛行していくのを目撃した。

 複数の護衛機を伴ってこそいるが、あまりにも悠々と我が物顔で領空を侵犯してくる巨大な戦略爆撃機を、大淀はどのように見ていたのか。あるいは切歯扼腕し、あるいは断腸の思いで、あるいは……。

 鋼鉄の塊の船体が打ち震えるほどの衝撃が伝わってきたのは、その直後のことだった。

「それは都合のいい後遺症だな」

 大淀の肩が大きく揺れたのは、消火活動の余韻ばかりではなかった。利根の言葉は、最も深く信頼を寄せた彼女のものだからこそ、辛辣な言葉の刃となって心内に突き刺さってきた。

「あ、いや、すまぬ。揶揄するつもりではなかったのだ」

 自分の発言の思わぬ影響力に利根の方が驚いたらしく、すっかり打ち沈んでしまった大淀に、あわてて重ねて声をかけた。

「えーと、うん、そうだ。大淀よ、ちょっとついてくるがよい。いいものを見せてやろう」

 取り繕おうとしても適切な言葉が見つからないらしく、とうとう痙攣の止まらない手首をつかむと、そのまま引き上げてしまった。

 この小さな体のどこにこれだけの力がと思わせるほどに、身の丈で頭一つ分は勝る大淀の腰がやすやすと持ち上がり、勢いそのまま引き連れられる形となった。

「いいか、お主が一番目なのだからな。感謝するのだぞ。筑摩には内緒だぞ。あいつはすぐにやきもちを焼きおるからな」

 歩きだした途端に利根の声音からは直前までの周章が消え、上機嫌なものにかわっていった。特に浮かれている時の利根は、その小柄な身体と相まって本当に子供に見える。

 得意げな子供が戸惑う大人を先導するという構図のまましばらく、ようやく利根の足が止まったのは鎮守府庁舎脇に設けられた花壇の前だった。

 

 非番の艦娘達によって世話をされ、赤や黄色、白、薄紅に色づくサルビア、ヒマワリ、芙蓉、ケイトウなどといった花々の傍ら、煉瓦で区切られた花壇のからはずれて、庁舎の壁際の半ば日陰になった場所に一つの鉢植えが置かれている。

「利根」と書かれた札の立てられた鉢からは、双葉の後に伸び出したつるが支柱に巻きついて這い上がり、やがていくつかの蕾をつけて、今やそれを開かせていた。

 ラッパ型の花弁は子房を奥に囲い、端にいくほどに赤紫に染めさせて柔らかく外に跳ねている。

「どうだ」

「これは、朝顔ですね」

「いかにも。見事なものであろう」

「はい。とても朝顔です」

 大淀が咄嗟の機転で紡ぎ出した返答に満足したらしく、満面の笑顔をさらにほころばせて、利根は何度も首を大きく縦に振った。

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「ここまで育てるのは、それは大変だったのだぞ。なにしろ、これまで何年も失敗しておったからな」

 いよいよもって鼻高々な利根は、しゃがみこんで愛おしそうに、一つ一つの花を触れるか触れないかの手つきで撫でてやった。

 それにならい、大淀も同じ姿勢で、利根と視線の高さを合わせた。たちまち朝顔の清涼な香りが鼻をくすぐる。

「はじめの何度かは、世話を忘れて枯らしてしまった。水をやるのを怠ったり、間引きをしなかったり、鉢植えに生えてきた他の草を放っておいたりして」

 にこにこと相好を崩しっぱなしで苦心談を語る利根。

「次の年はなんだか気力がわかなんだ。育てなければならんという使命感のようなものだけが空回りしてな、無理に体を動かそうとすると、勢い雑になって肥料はてんこ盛り、草抜きは荒っぽい、支柱は倒れたまま。まったくひどいもので、我ながら呆れた。どうしてここまで、気が乗らぬのかとな。おかしな話であろう、吾輩は手向けの花を育てているつもりだったというのに」

 はっとして大淀は振り返ったが、利根の表情に変化はなく、やはり同じような笑顔がたたえられている。

「わかったのは、ようやく去年の朝顔の季節も終わりに近づいた頃であった。とうとう開かせてやれなんだ蕾をな、今と同じようにしゃがみこんで見上げておると、吾輩は自分が鳥肌立っていることに気づいた。はじめのうちはなにがなんだかわからなんだ。しかしよくよく考えてやっと思い当った。吾輩は、こうして鉢植えに一株だけ咲く花を恐れておったのだと」

 利根の言に合わせて、見上げる形で朝顔を眺めてみる。もちろん、大淀の体に変化はない。それでも理解はできた。利根がこの支柱に支えながら湾曲しつつ宙に向かい蕾をほころばせる花に見た恐怖を。八月の深い藍色の青空を背にして浮かぶ赤い花は、あまりにも多くの事を想起させた。

「その時は鉢植えごと放り投げてしまった。けれどもな、割れた陶器片の間からこぼれ出た土や、へし折れた茎、それに土にまみれた萎んだ蕾は、余計に吾輩を責め苛んだ。欠片の一つ一つが、朝顔の気門の一つ一つが、口々につぶやいておるよであった。またか、と」

 それまで黙ったままだった蝉が、突如として滝のように鳴き声をあびせかけはじめた。

「そうよ、また、よ。また吾輩は見て見ぬ振りをして、助けるべき命を助けなかった」

 否定したかった。万全を尽くした結果だといって、利根の自嘲を少しでも軽くしてやりたかった。けれども、大淀の喉は閉ざされ、一言すら洩らせなかった。

 何故なら、利根が鉢植えの花に見たものと、大淀が火のうちに見ていたものは同じであったから。仮に利根に向かって発しようとしていた言葉が自分に投げ掛けられていたら、頑なに拒否していただろうから。

「そうした数々の失敗を経て、今年は腹を据えて全力でこの朝顔育成に取りかかったわけじゃ。その結果は見よ。このように立派に咲いて、こたえてくれたわ。な、見事な朝顔であろう?」

「はい、素敵な朝顔です」

 大淀は、もう一度、同じ答えをくり返した。

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 鉢植えを前にしても、利根の身体に動揺はない。彼女は苦手としていたものと向き合うことで、それを克服したのだ。

「つまりは、忘れろとおっしゃるのですか?」

「そうではない。忘却とは記憶の次に到来するものではないか。覚えてもおらんものを忘れることはできん。それは単に見て見ぬ振りをしているだけよ。逆じゃよ。吾輩は、これでようやく見る機会を与えられたのだ」

 それは大淀の心をえぐる一言だった。利根の意図にかかわらず、結局過去と向き合っていないと指摘されているのに等しかった。

「都合のいい後遺症といったのは、ここよ。これは原因と結果が直結しておる。つまり、克服するために、とても都合のいいものではないか」

 やっと大淀は利根が自分を引きずってでも、ここにまでやって来た理由が知れたように思えた。

「私にもできるでしょうか」

「できるとも、お主は連合艦隊の中でも名だたる幸運艦ではないか」

「……その呼び方はやめてください」

 大淀もまた幸運艦と称される艦の一つであった。トラック泊地空襲を間一髪で避けたことや、レイテ沖海戦を損傷軽微で乗り切ったこと、礼号作戦にて直撃弾を受けるも不発で轟沈を免れたことなどが所以となっているが、なにより最も大きな理由は、

「なにをいう。生まれ故郷に戻り、その海に抱かれて沈んだものなど、そうはおらぬぞ」

 利根の主張したところにあった。

 軽巡洋艦大淀は昭和十六年二月呉工廠にて起工され、昭和二十年三月十九日、七月二十四・二十八日の三度に渡って行われた呉軍港空襲により傷つき転覆横転、ついに艦としての使命を終えた。この時、利根をはじめとした大淀と最期をともにした艦の何れもが呉の出身ではない事実を踏まえれば、確かに稀有なことは間違いがない。

「だからです」

 この時、大淀の声は、ほとんど蚊の鳴くほどのものになっていた。

「故郷に戻り故郷の海で死んだ。私一人で考えれば、それは幸福であったかもしれません。けれども、その故郷を私は守ることができなかったんですよ。それどころか、私がいたために……」

 太平洋戦争末期、呉には残存する艦の多くが集められ、帝国海軍最後の威容を誇っていた。だが、その結果として、各地に設置された鎮守府のうちで、最も重点的な爆撃を受けたのは呉であり、民間人を含む死傷者の数も他地域を圧倒していた。その頃には、湾内にくくりつけられ、浮き砲台として設置されていた大淀は、空襲をあらかじめ想定し、撃破することが期待されていたといえる。

「慣れ親しんだ土地が爆弾で姿を変え、親しんだ水が湧きかえり、親しんだ空気に悲鳴がこだまする。それを見聞きしながら私は沈まなければならなかったんです。それでも幸運といえるでしょうか。おまけに、あの広島の火に対しては、抗うことも、助けに乗り出すことすらできなかった」

 呉からわずかに三十キロほど離れたに過ぎない広島市は、大淀にとっても馴染みの土地であった。

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 再び手の震えが激しくなりはじめた。肩が重く、顎を上げていることさえ非常な努力を要する。

 その大淀の肩に、そっと利根が両手を差しのべた。

「明月は帰らず、碧海に沈み。白雲、秋色、蒼梧に満つ。例えば雪風のように、戦争で沈むことなく、さりとて故郷に帰れなんだ船にも不幸はある。まして、吾輩などはどうじゃ? 故郷より遥かに遠ざかり、さらにお主のいうように、守るべきものも守れずに沈んでいってしもうた。だとすれば、よほどの不幸艦かな」

 大淀は二の句を接げなかった。呉の空襲で沈んだのは自分だけではない。利根をはじめとして多くの艦が再起不能に陥っていった。

「もちろん不幸に決まっておる。戦争であろうとなかろうと、他人に命を自由にされたものが幸福なわけはないわ」

 カラカラとかげりのない声で、利根は高らかに笑いあげた。それと同時に肩に掛けられた手にぐっと力がこめられる。

「だからな、頼む、せめて吾輩達の中でお主だけは幸運艦でおってくれ。虫のいい願いだとは百も承知しておる。それでも、吾輩はそれを小さな希望として、過去と向かい合っていけるのだから」

 利根の言葉通り、幸福は個人の裁量で左右される。どれほど他人から羨まれようが、本人にその自覚がなければ満足をすることなどできない。大淀は、これまでそうした他者からの羨望を否定することで、自身の不幸を身に染みさせてきた。それはある面では正直な感情であり、ある面では欺瞞でもあった。

 いくつもの死地をくぐり抜けた経験、生まれた地と斃れた地が同じであったこと、それらはやはり幸運であり、だからこそ否定しないわけにはいかなかったのだ。

 それを素直に受け入れるよう利根は促してくれていたのだ。

 利根の言葉は同時に、また別の幸運を自覚させてくれる。一人では抱え込みがたく、いつまでも見て見ぬ振りを続けるしかなかった事実を前にして、それを共有できる仲間のいること、花に対する恐怖をあらわにしてくれた利根をはじめとして、自覚の有無は問わず、とにかく今日という日に、いわくいいがたい何かを感じ、平素と異なる行動をとらずにはいられない人々が周囲にいてくれることの幸運を。

 苦手な朝につい目が覚めてしまった伊勢と日向。普段なら双子の妹と連れ添ってくるはずのところを一人で現れた榛名。手持無沙汰に工廠をうろついていた青葉。席を外している鳳翔もその一人だし、焦燥に駆られて出撃を早めさせた龍鳳や、それに続いた北上の気持ちも痛いほどよくわかった。

 彼女達もまた呉に散り、そしてあの光と雲を呆然と見るしかなかった人々なのだから。

「努力してみます」

 まだ戦線に復帰できていない大淀では、今はそういうだけが精一杯だった。

 しかし、大淀は利根が手を掛けてくれている肩を通して、温もりがみなぎってくるのを実感していた。

「感謝する」

 利根の言葉を受けつつ、大淀は眼前の朝顔を見つめていた。

 赤紫の彩りの向こうには青い空が待ち、その手前では巨大な入道雲が今しもその身を立ち上げようとしていた。

 

 

説明
少し遅刻しての勇み足です。文中の広島弁は、種々の本を参考にさせていただきました。
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